1.10087〜1.10093 日々の憂鬱〜2001年12月第4週〜


1.10087(2001/12/18) あるミステリの感想

 一日、間があいてしまったので、今日は気合いを入れて書こうと思ったのだが、どうも気合いが入らない。そこで、今日読んだ小説の感想でお茶を濁そうと思う。
 小説のタイトルは『今日も雛子は弱かった』。ミステリだ。作者は不明、というのは、私はこの小説をテキストデータの形で知人から送ってもらったのだが、そのテキストに作者名の表示がなかったからだ。作者は男性で、某大学のミス研に所属しているらしい、ということしか私は知らない。
 その後入手した情報によれば、作者名は羽子原四季(はしはら しき)で、現在大学一年生。つい最近一作書き上げて、とある小説のコンテストに応募したそうで、それもミステリらしい。
 で、そんなものをなぜ読んだか、という話になるが、「なんとなく」としか言いようがない。件のミス研ホームページの掲示板で以前少し話題に上っていたのを読んで、ちょっと興味を惹かれ、たまたまそのミス研に知人が所属していたので、会誌をくれるように頼んでおいたのだが、その会誌が限定30部生産とかで、もう残部がないと言われてしまい、そこで引き下がればいいものの、手に入らないとなると無性にほしくなってくるのが人の常というやつで、それならメールで送ってくれるように再度頼んだ次第。ところが件の知人は長年ワープロでしか通信を行っていなかったため、添付ファイルの送り方がわからないという状況だったらしく、この機会にパソコンでのメール送受信の方法を一から勉強してもらうことと相成った。事情によりその知人の名前を出すことは差し控える(いや、別に控える必要もないのだろうが、私は基本的に身近な人の名前はここには書かないことにしている)が、このたびのご尽力には厚く感謝します。また、データを提供して下さった名前も知らない作者の方にも同じく感謝します。
 と、謝辞を述べたところで早速内容にとりかかることにする。なお、以下の文章を読んで「あ、面白そう。ぜひ『今日も雛子は弱かった』を読んでみたいな〜」と思う人があったとしても、私はテキストの再配布を許可されたわけではないので、一切提供できないことを予めお断りしておく。

 まず、なんといってもタイトルに触れるべきだろう。『今日も雛子は弱かった』である。なんだか知らないが、ちょっと変わっていて面白そうだ。このトボけたタイトルに作者の絶妙なセンスが現れている……かどうかは本文を読んでみないと定かではないが、ともあれ読んでみようという気にさせられる。
 事件は町の剣術道場で発生した。二人の門下生が稽古のために道場へ入ると、二人の剣士の決闘場面に出くわした。一方はその道場の師範代だとすぐにわかるが、もう一方――まるで子供のように小柄な剣士――の正体はわからない。二人の目撃者の前で激しい応酬を繰り広げるが、やがて謎の剣士の一撃で勝負がついた。その剣士は倒れた師範代の喉元に刃物を刺して殺害し、逃走する。現場の状況から犯人は道場の関係者以外には考えられない。目撃者の証言から推定された身長に該当するのはただ一人。だが、その人物は剣道歴わずか三ヶ月の少女だった……。
 冒頭で提示される謎は見事である。ミステリで衆人環視下の殺人を扱う場合は、逃走経路が塞がれていて一種の密室状況を呈しているという設定にすることが多いが、あえて不可能状況にせずに別種の謎を提示したところを評価したい。密室や人間消失、足跡のない殺人など不可能犯罪を扱ったミステリには正直食傷気味だ。たぶん書く側からすれば、状況を述べるだけで誰にでも謎が容易に認知され、それなりに読者を惹きつける要素になること、トリックを解明すると自ずと犯人を特定できる場合が多く、面倒なロジックを組む必要がないことなど不可能犯罪は便利なパーツなのだろう。だが、読者の立場からすれば、いくら魅力ある謎でも続けて何度も読まされたら嫌になってくる。
 ちょっと脱線したので話を元に戻す。最有力容疑者の少女こそが、タイトルに名前が出てくる「雛子」である。物語はこの後、
  1. 雛子が犯人だとすれば、彼女はいったいどうやって自分よりも剣術に長けた師範代を殺すことができたのか?
  2. 別人が犯人だとすれば、誰が犯人か? そして、目撃証言との食い違いをどのように考えればいいのか?
という謎を中心に展開する。名探偵、名探偵の助手(?)、ストーカー、刑事などさまざまな登場人物が試行錯誤し、第二の事件が発生し、推理が披瀝され、覆され、真相が明かされ、エピローグへと至る。未読の読者のために詳しい説明はできないが、解決場面で示される犯行動機は相当異様なものである。探せば前例があるのだろうとは思うが、私はとっさには思い出せない。この小説の冒頭の読みどころが謎の設定にあるとすれば、結末部分のポイントは犯行動機とそれにつれて明らかとなる犯人の独特な性格というか人間性にあると言ってよいと思う。
 このような書き方をすると、なんだが純文学っぽいミステリ(余談だが、ミステリ作品を評するのに純文学を引き合いに出すのは、誉め言葉というよりは貶し言葉になるような気がする)であるかのような印象を与えかねないので大急ぎで補足しておくが、『今日も雛子は弱かった』はそのような小説ではない。トリックもあれば、ミスディレクションもある、しっかりとしたバズラー(また余談だが、私は「本格」という言葉のイデオロギー臭が嫌いなのでなるべく避けることにしている。気にならない人は「本格ミステリ」と読み替えて構わない)だ。光文社文庫の『本格推理』(とその後継アンソロジーの『新・本格推理』)に収録されている諸作と比べても遜色ない、というより凌駕しているようにも思える(もっとも枚数の違いがあるから単純に比較するのはあまりフェアではないだろう)。
 ただし、手放しで誉めるわけにはいかない。「・・・」の多用はいかにも素人っぽい(用いるとしても「……」にすべきだろう)し、「?」の後にスペースをあけずにすぐに次の文章を書いているのも、文章の一般的な書き方に反している。できれば、読点の使い方ももう少し吟味してもらいたい(この点については、あまり他人のことをとやかく言う資格はないのだが、私は単なる読者であって実作者ではないので、自分の文章を棚に上げて注文をつけることにする)。細かな文章の書き方を離れて作品の構造に目を向けると、視点の不統一が気にかかる。基本的にはワトソン役の「僕」の一人称で話が進むのだが、ところどころで別の人物の視点が混じっている。別視点の場面は、伝聞の形で述べ直すか、場合によってはばっさり切り捨ててしまい(特に刑事の視点から記述される場面は不必要だと思う)プロローグとエピローグ以外は単一視点で統一したほうがよい。あとは印象論になってしまうが、解決のための手がかりがやや少ないように感じられた。偽の犯行動機もいくつかあったほうがいい。核心となる台本のあらすじは事前に紹介しておいたほうがいい。ヒロインである雛子をより魅力ある存在として示すためのエピソードもほしい。それと、第二の事件にはかなり無理がある。
 バズラーを読むと注文が多くなってしまって、どうもいけない。もちろん、現行の形のままでも十分鑑賞に堪える作品である(もしそうでないとしたら、黙殺あるのみ、だ)ことは言うまでもない。
 さあ、読みたくなってきたでしょう? できれば私も多くの人に読ませたい。タイトルに「Re:」をつけて、添付ファイルつきのメールをばらまきたい。が、できないものは仕方がない。諦めましょう。

1.10088(2001/12/19) 象はさんざん苛めても、客寄せパンダは宝物

 先週の記事を鬱の蠅取壺に収録する際にあれこれと手を加えた。特に「すうどん」の呼称に関する箇所はかなり書き足しているので、ぜひご一読いただきたい。これだけで疲れてしまい、一日分の文章を書いたような気がするので、今日はいくつかの話題を軽くざっと流すことにする。

 まず一つ目の話題。一昨日のことだが、『クラシック悪魔の辞典【完全版】』(鈴木淳史/洋泉社新書y)を読み終えた。読んでいる最中、何度か声をあげて笑いそうになったことがあった。が、もうそんな昔のことは忘れた。有名な吉野家のコピペをやっている項目があったのが印象的だったが、まあわざわざ引用することもないだろう。面倒だし。

 二つ目の話題。引き続き、『日本の異端文学』(川村湊/集英社新書)を読み始め、今日読み終えた。最終章である第九章「ポルノとSM」は昼休みに会社で読んだ。みんな「ほんまもん」に見入っていて、ちょうどヒロインの父親が癌で死にかけている場面で思わずホロリとしている人もいたが、その隣りで私は、団鬼六とか宇能鴻一郎などに言及した文章を読んでいたわけである。
 全体的な内容については、「まあ、こんなものか」という程度の感想しかない。つまらなかったわけではないが、取り上げられている小説ほどは面白くはない。やむを得ないことだが。どうでもいいが、純文学と大衆文学の大部分を「主流文学」の側におき、それらと対置して「異端文学」を語るというスタンスでは、たとえば鮎川哲也のような作家はどこに位置することになるのか、ちょっと気になった。

 三つ目。昨日の話の続き、というわけではないのだが、『今日も雛子は弱かった』について。というか、「雛子」という名前について。というか「雛」という漢字について。この漢字は当用漢字にも常用漢字にも入っていない。人名漢字には入っているが、もとからあったわけではなく、1990年に「人名用漢字別表」に追加されたもの。つまり、戦後の漢字制限開始後、平成の世に至るまで、「雛」という漢字は人の名前には使えなかったわけだ。
 10年以上前に「法月綸太郎」の名前を巡って「法月警視が息子のことを筆名で呼ぶわけはないから本名に違いないが、そうすると人名には使えない『綸』の字が入っているのはおかしい」という指摘をした人がいたらしい。「綸」も1990年の改正で人名漢字の仲間入りをしたが、それでもそれ以前は使えなかった漢字であるという事実に違いはない。矛盾を回避するためには、名探偵「法月綸太郎」の存在する虚構世界では現実世界と国語に関する法制が異なっており1990年以前から「綸」が人名に使える漢字だった、と解釈するのが自然だが、そうすると現実世界で成立している基本的な社会制度をそのまま作中に外挿して作中で明示されたデータと同様に取り扱うことが当然にはできなくなるという問題を引き起こす。とりわけ、言語に関する手がかりを用いた作品では致命的となる。たとえば、ヘボン式ローマ字と訓令式ローマ字のつづり方の違いについて「作中世界での日本語のローマ字表記の方法は現実世界のそれと同じである」という註釈をいちいち入れないとアンフェアになるというのでは具合が悪い(もちろん、そのような註釈は実際にはない)。
 ある人物の名前に人名にには使えない漢字が含まれているということを手がかりにして、その人物の名前が本名ではないという結論を導くミステリは現に存在する。そのような特殊知識(おそらく一般読者の大部分はそのような知識を持っていないだろう)を前提としたミステリはあまり誉められたものではないが、現に成立している制度を小説の中に取り入れて手がかりとして活用することは問題がないし、その際に「作中世界での当該制度は現実世界のそれと同じである」という類の註釈はふつう必要ない。読者は物語に触れるとき、その世界は基本的に現実世界と類似したものだと推定して読まなければならないからである。
 再び『今日も雛子は弱かった』に話を戻す。この小説の世界での言語制度が現実世界のそれと違っているという解釈は上で述べた「法月綸太郎」の場合と同様に破滅的な結果をもたらしかねない。制度、規則、慣習などにはなるべく手をつけずに、個別の事象についての解釈により矛盾ほ回避するのが適当である。たとえば、実は「雛子」という名前は本名ではなく通称または芸名の類であった、実は彼女は1990年以降に改名した、実は作中の年代は近未来であり雛子は1990年以降に生まれた、等々。たぶんこのような解釈は作者の意に反するものだろうし、私自身釈然としないものを感じる。

 なんだか「軽くざっと流す」という感じではなくなってきたような気もする。でも、まあいい。どうせ次の話題で今日のところはおしまいだ。
 四つ目の話題は、『鏡の中は日曜日』(殊能将之/講談社ノベルス)について。この小説については、すでに先日簡単な感想を述べているが、その後気づいたことがある。それは犯行動機が成立しないのではないかということだ。もともと現実ばなれした動機なのであまり突き詰めても仕方がないのかもしれないが、犯人の心情からすれば野波慶人を殺し、死体の周りに一万円札をばらまくだけでは決定的に不十分ではないか。その状況は一時的なものであり、すぐに死体もお札も処分されてしまうのだから犯人の意図は実現しているとは言い難い。とはいえ、死体を石膏で固めたり、お札を接着剤で貼り付けたりするのも馬鹿げている。そのかわりに象徴的な形で犯行を固定化、永久化するほうが現実的(?)だ。具体的には事件を記録し、多くの人に読み継がれるような形で発表するという方法が考えられる。で、現に鮎井郁介が『梵貝荘事件』としてこの事件の記録を世に発表しているのだが、残念ながら彼の行為は犯人の全くあずかり知らぬ事柄である。もしこの事件以前から鮎井が名探偵水城優臣シリーズを発表していたなら、犯人は今回の事件もいずれ小説化されるという予測のもとに事件を起こすことが可能であったのだが。
 ああ、なんか変な事書いてるなぁ。

1.10089(2001/12/20) 今日こそ手を抜く

 さすがにネタ切れになってきたので、今日は以前宿題にしておいた問題の答えを書く。といっても、私は実は正解を知らない。『スラデック言語遊戯短編集』には解答は載っていなかった。だから、これから考えて書くわけだ。これで手抜きになるのか?
 まず問題を整理しよう。三人の囚人「トントン」「歌姫」「怪我人」に与えられているデータは、明日三人のうちの二人が死刑を執行されるということだけだ。このデータから、「トントン」が死刑になる確率は2/3ということになる。
 次に、「トントン」が看守に対して行った質問について考えよう。「歌姫」と「怪我人」のうち、死刑になるほうはどちらか、という質問だ。もちろん両方とも死刑になる可能性もあるわけだが、その場合でも一方の名前だけを答えればよいとする。すると、答え方としては「『歌姫』が死刑になる」か「『怪我人』が死刑になる」のどちらか一方だ。もちろん、どちらの答えが正解なのかは「トントン」の立場ではわからない。
 仮に「『歌姫』が死刑になる」という答えが得られた場合、三人のうち「歌姫」が死刑になることが確定したのだから、残る「トントン」と「怪我人」のうち一方だけが死刑になる。つまりこの二人が死刑になる確率はそれぞれ1/2であると考えられる。
 逆に「『怪我人』が死刑になる」という答えが得られた場合には、「トントン」と「歌姫」が死刑になる確率はそれぞれ1/2ということになるだろう。
 先に述べたように、答え方としては「『歌姫』が死刑になる」と「『怪我人』が死刑になる」という二通りしかない。そして、どちらの場合でも「トントン」が死刑になる確率は1/2である。ということは、「トントン」の質問に看守が答えるまでもなく、「トントン」が死刑になる確率は1/2であるということになる。
 なお、看守は嘘をつくこともできる。この問題設定では、最初の「三人のうちの二人が死刑になる」というデータは疑い得ないが、看守がいつも絶対に本当のことしか言わない、という条件はない。しかし、看守が本当のことを言おうが嘘をつこうが、上の推論に何の影響も与えないのは明らかである。
 しかし、当然のことだが、「トントン」の推論にはおかしいところがある。単に質問するだけで死刑の確率が2/3から1/2に下がるはずはない。もしこの推論が成立するなら、「歌姫」も「『トントン』と『怪我人』のうちどちらが死刑になるのか?」と問うだけで自らが死刑になる確率を1/2に下げることができるはずだし、「怪我人」にも同じことができるはずだ。しかし、三人のうちの二人が死刑になるという大前提は動かすことはできないのだ。
 そこで、もう少し慎重に考えてみよう。まず、最初に与えられた条件から考えられる状況は次の三通りである。
  1. 「トントン」と「歌姫」が死刑の対象者で、「怪我人」が助かる。
  2. 「歌姫」と「怪我人」が死刑の対象者で、「トントン」が助かる。
  3. 「怪我人」と「トントン」が死刑の対象者で、「歌姫」が助かる。
 三つのケースのうちの一つだけが成立しているが、それがどれであるかはわからないから、それぞれ1/3の確率だと考えるしかない。「トントン」は1と3の場合に死刑になるから、彼が死刑になる確率は2/3だ。
 次に、それぞれの場合に「『歌姫』と『怪我人』のうち、死刑になるのはどちらか?」という質問に対して、一人の名前を(正しく)回答する場合、どのケースにどちらの回答が対応するかを考えよう。
  1. 「トントン」と「歌姫」が死刑の対象者で、「怪我人」が助かる。
    →「『歌姫』が死刑になる」
  2. 「歌姫」と「怪我人」が死刑の対象者で、「トントン」が助かる。
    1. →「『歌姫』が死刑になる」
    2. →「『怪我人』が死刑になる」
  3. 「怪我人」と「トントン」が死刑の対象者で、「歌姫」が助かる。
    →「『怪我人』が死刑になる」
 1と3の場合にはそれぞれ一つの回答が対応するが、2の場合には二通りの答え方がある。2aと2bの確率は計算しようがないので同確率であるとみなすと、1,2a,2b,3はそれぞれ順に1/3,1/6,1/6,1/3となる。比で表すと、1:2a:2b:3=2:1:1:2である。
 さて、今度は逆に二通りの回答のうちの一方が得られた場合に、上記の1,2a,2b,3のどれが成立しているかを考えることにしよう。まず「『歌姫』が死刑になる」という回答からは、2bと3が排除されるから、残るのは1と2aのみ。1:2a=2:1だから、1が成立している確率が2/3、2aが成立している確率が1/3となる。1の場合は「トントン」は死刑になり、2aの場合は助かるので、「トントン」が死刑になる確率は2/3である。
 くどいようだが、「『怪我人』が死刑になる」という回答が得られた場合についても見ておこう。この場合は、1と2aが排除され。2bと3が残る。2b:3=1:2で、「トントン」は2bの場合に助かり、3の場合に死刑になるので、やはり「トントン」が死刑になる確率は2/3である。
 どちらの回答が得られたとしても「トントン」が死刑になる確率は2/3である。ということは、看守が何も回答しなくても「トントン」が死刑になる確率は2/3である。これは最初の条件が与えられたときの「トントン」が死刑になる確率と同じで、全く変化はない。
 つまり、「トントン」の質問は看守がどう答えようと、自らが死刑を執行される確率に変化を与えないものだったのだ。質問の仕方が「歌姫」と「怪我人」の二人に限定したものであったために、回答次第で死刑になる確率が変わるのはこの二人だけに限られる。もし「三人のうち死刑になる者の名前を一人挙げよ」という要求をして、それに看守が応じたならば、話は違ってきただろうが。
 これにて一件落着。

 この文章、ふつうの人が読んで意味がわかるのだろうか?

1.10090(2001/12/21) さらに手を抜く

 私は他人からどのような人間だと思われているのだろうか?
 たまに気になることがあるのだが、よく考えてみれば、私は他人をどのような人間だと思っているのか自分ではあまり気にしないのだから、きっと他人も私のことをなんとも思っていないのだろう。なんか論理的に変なことを書いたような気がするが、どうせマクラだからどうでもいい。
 先日、知人の某氏のサイトで『月詠』(有馬啓太郎/ワニブックス)に言及していた。4巻が出ているそうだが、私はまだ買っていない。というか見かけたことさえない。田舎暮らしは悲しい。
 それはそうと、何の気なしに某氏の掲示板で
それはそうと、『月詠』は私も好きです。
と書いた。それに対する某氏のレスは、
意外すぎて驚きました。まさか、読んでいるとは思いもしなくて。
有馬氏の同人誌も買っていたりしますか?
というものだった。
 意外?
 私は有馬啓太郎など読まない人間だと思われていたのだろうか?
 確かにこれまで直接言及したことはないが、驚くようなことだろうか?
 これまでに言及したマンガ家の名前を順に挙げてみると……あきやまひでき水野英多吾妻ひでお板場広し、吉田蛇作、大古真己、板場広志浅野りん、やまさき貴子つのだじろうえのあきら流星ひかる横山隆一ZERRY藤尾こがわみさき、湖川みさきC-SHOW……となっている。何かのついでにたまたま言及したのがほとんどなので、これでは私が好きなマンガの傾向がわからないのも無理はない。
 ついでだから、今この文章を書いている部屋に置いてある(というか散乱している)マンガ本の作者名を適当に並べておくことにしよう。面倒なのでタイトルとか巻数とか出版社名は抜きだ。杜野亜希、後藤羽矢子、由起賢二、のぞみ侑海、赤松健、西野つぐみ、麻田起奈、文月晃、楓牙、森見明日、小島あきら、加藤元浩、遠藤淑子。
 なんだかなぁ。
 今、こうやって名前を挙げてみると、非常に散漫な本の買い方をしているのがよくわかる。いや、「よくわかる」人は稀かもしれない。とりあえず、このリストに「有馬啓太郎」という名前が混じっていたとしても、さほど驚くにあたいしないということだけ理解してもらえればよい。なお、私は行列に並ぶのは嫌いだし、プレミア本を買うのはもっと嫌いだ、と言えば某氏の質問に対する答えになると思う。

1.10091(2001/12/22) もっと手を抜く

 今日はこれから教会へ行く。別にお祈りに行くわけではなくて、クリスマス・コンサートを聴きに行くのだ。無料だというのは嬉しいが、往復の交通費だけでCD数枚分かかるし、コンサートの時間よりも片道の移動時間のほうが長いはずだ。おまけに今日は朝からみぞれ混じりの雨が降っている。まだ路面は凍結していないと思うが、帰りはどうなるかわからない。と、そんな事を考えていては何も行動できない。今日は、まだ見ぬ『月詠』(有馬啓太郎/ワニブックス)4巻を買うという用事もあることだし、とにかく出かけることにしよう。

 さて、ちょっと前のことになるが、「なんとなく劇場」の12/17付の日記で、川渡り問題への興味深い言及があった。詳細は直接見てもらったほうが早いのだが、どうせすぐにリンクを外すことになるので、該当箇所を少し引用する。
 どう考えてもおかしな家族である。
 何で父親は娘たちを殺そうとするのか? 何で母親は息子たちを殺そうとするのか? 何で犬は召し使いにしか服従しないのか? 果たして犬をそんなふうにしつけたのは召し使いなのだろうか? だとするとその心中は? こんなすさんだ環境にあって兄弟仲はどうなのだろう。兄弟間の確執は言及されていないけれど……。 ていうか、そもそもこの家族は何を求めて川を渡るのだろう? 召し使いを雇っているような家族が小さな船を親自らが運転してまで川を渡らなくっちゃいけない理由って? そんな状況にあっても家族に敵意しか示さない犬を連れて行かなくちゃいけないって……どうして?
 とかとか考えないで、「最初に誰と誰を船に乗せたらいいのかしら?」って考えられるものなのだろうか?
 とか言ってるうちに、これが世に言う「本格推理小説は人間が描けていない」という奴かと思い至る。
 う〜ん……そういう小説は抵抗無くよめるんだけどな。程度の問題かしら?
 結局、パズルを紹介している部分以外をほとんど全部引用してしまった。
 ここで某氏(言うまでもなく昨日の某氏とは別人である。昨日は、一般にウェブサイトを公開していない人に言及したので「某氏」と名を伏せたが、今日は前と同じ理由だ。ついでに言えば先日の「知人」もまた別人で、名前を伏せたのはこの知人がハンドルを持っていないからだ)が表明している疑問は、しごく真っ当なものである。このパズルは設定にものすごく無理がある。いわゆる「本格推理小説」が抱える難点を連想するのも自然な発想だ。「推理小説とは小説の形式で提示されたパズルである」というテーゼに賛成する人は少ないかもしれないだろうが、「バズラー」とか「パズルストーリー」とかの名称からも、パズルとミステリの間の類縁性は否定しがたい。
 ただ、このパズルに話を限定すれば、設定の不自然さの理由は別のところにあるのではないかと思う。誰が考案した問題かは知らないし、作者の意図を確かめることもできないので、断言はできないのだけれども。
 この問題では、犬は召し使いがいないと家族を殺してしまうことになっている。非常に獰猛な犬だ。大人でも子供でも構わずに、かつ、最高で6人もの人間を一気に殺傷する能力を持つのだから。ドーベルマンならもしかしたらそれくらいのことはできないことはないかもしれないが、チャウチャウや柴犬には決して成し得ない業である。それなら、犬ではなくて、トラやライオンにしておいたほうが自然ではないか? もちろん、ペットとしてトラやライオンを飼うのはあまり一般的なことではないだろうが、狩猟犬を飼っている家庭もそう多くはないだろう。
 次に、家族は大きく男性グループと女性グループに分かれる。両グループの親はそれぞれ相手グループの親が不在のときに相手グループの子を殺す。それなら、別に一つの家族の話にする必要もなくて、敵対する二つの家族がたまたま同じ川を渡るようになった、という設定のほうがより自然だ。本当は人間以外の動物にしたいところだが、親はボートを操ることができないといけないので、その点では人間のほうが都合がいい。で、私が今思いついたのが、上杉家と武田家が休戦中に信濃川を渡ることになったという設定だ。上杉謙信には実の子供はいなかったのでちょっと苦しいが。犬は信濃山中に住む伝説の妖獣、召し使いは諏訪神社の神職とでもしておけばいい。歴史考証等にかなり難があるが、それなりに筋が通っているようにも思える。
 このように書くと、私はこの問題に表現上の改良を加えようとしているかのように受け止められてしまうかもしれないので大急ぎで補足しておくが、実は全く逆である。もとの設定から読みとれる意図を無視して、表面上の不自然さにのみ着目すればこういうことになるということを示しただけで、別にこれは改良でも改善でも何でもない。むしろ、「上杉・武田の信濃川渡り」は凡庸な推理作家の苦し紛れの理屈付けに類するものだと思う。
 ここまで言えば後は蛇足のようなものだが、いちおう最後まで書いておこう。要するに、件の川渡り問題は、もともとパズル(文章で示されるタイプのもの。以下同じ)が抱えている不自然さについて自覚的であり、設定に工夫を凝らすことによって不自然さを覆い隠すかわりに、ことさら無茶な設定をすることで強調しようとしているのだ。これを既成のパズルの「パロディ」と言ってしまうとやや語弊がある(パズルのパロディというのは、たとえば私が考えた問題などが該当するだろう。自分で言うのも何だが、あれは全然面白くない。反省)が、問題設定の不自然さについて読者(?)が直感的に疑問を抱くことはすでに折り込み済みなのである。
 ルーズなアナロジーで恐縮だが、件の問題は、バークリー、スラデック、麻耶雄嵩、殊能将之という一連の作家の小説に対応するもののように思われる。彼らの書くミステリは、「本格推理小説は人間が描けていない」という批判に対するある種の回答だといえる。人工的、技巧的な世界を捨てて「自然な」人間性を重視するわけではなく、露悪的なパロディに走るわけでもなく、微妙な綱渡りを演じている。時には自らの欠点に無自覚なミステリと混同され、時には単なるパロディと同一視されたりもするけれど。

 そんなことを書いているうちにかなり時間が経ってしまった。「とにかく出かけることにしよう」と書いたのは、もう一時間以上も前のことだ。だらだらと書き続けずにさっさと出かけることにしよう。じゃ。

1.10092(2001/12/23) 果てしなく手を抜く

 というわけで、昨日はクリスマス・コンサートを聴きに行った。演奏団体はラルテ・フィオレンテというアマチュア合唱団で、ルネサンスのア・カペラ曲を専門にしているらしい。最初、演奏スペース(教会なのでステージなどない)を見た瞬間、違和感をおぼえた。が、それが何に対する違和感なのか考えているうちに合唱団の面々が入場し、席についた。その瞬間、違和感の正体がわかった。純声楽のコンサートなのに、椅子を並べて置いてあったことに対する違和感だったのだ。
 合唱団の人々は年齢もばらばら、着ている服もばらばらで、どう見ても教会のミサに集まった近所の人々という感じにしか見えなかった。というか、客席(というのは本当は間違いなのだが、便宜上そう表現しておく)に座っている人々(こちらも、どう見てもネルサンス音楽が好きで集まったようには見えなかった)と入れ替えても同じではないか、と失礼なことを思ったくらいだ。
 が、予想以上に澄んだ歌声を聴くと、演奏前の不安はすっこんでしまった。もちろんプロの声楽アンサンブルとは比較にならない素朴な声だが、大学の混声合唱団などよりもずっと上手だと感じた。というのは、私の好みのせいもあるのかもしれない。ルネサンス曲を30人も50人も寄ってかかって厚塗りのはれぼったい声で歌われるとげんなりするのだ。今回の演奏では総勢14名、1パート1人のストイックな演奏が至上形態だと考える人にとってはこれでも多すぎると思われるかもしれないが、私はちょうどいい人数だと思う。
 曲目はモラレスを中心にゲレーロとビクトリアを数曲、そして関連するグレゴリオ聖歌などで、すべてキリストの生誕に関係のある歌詞をもつものでまとめてあった。私が聴いたことがあるのはビクトリアの「アヴェ・マリア」だけで、それ以外の曲は初めて(ただし、「アヴェ・マリス・ステラ」の旋律には聞き覚えがあった)なので、他の演奏と比べてどうこう言うことはできないが、全般的にみてモラレスやゲレーロよりもビクトリアのほうが面白いと思った。パンフレットでは「この芸術(ビクトリアの音楽のこと)は、もはやルネサンスに属していない。(略)ビクトリアの音楽は、われわれをバロックの情念の世界に導く」と書かれていたのには若干抵抗があったけれど。

 さて、昨日は予告(?)どおり、『月詠』(有馬啓太郎/ワニブックス)の4巻を買った。私の住む田舎ではどこを探しても置いていないのに、大阪まで出ると小さな本屋でも目につく位置に並べてある。なぜだ?
 一冊だけでは寂しいと思い、新刊の棚を見回してみて、何となくついふらふらと買ったのが『オルゴールエイジ』(渡瀬のぞみ/蒼竜社)だ。作者にも作品にも全く予備知識はない。どうでもいいが、今この文章を書いていて、「プラザCOMIX」が「プラザCOMICS」でないことを初めて知った。
 さらに別の本屋で、『探偵小説の世紀』上・下(チェスタトン・編/創元推理文庫)を買った。どうせ読まないだろうと思って買い控えていたのだが、もしかしたら年末年始に読めるかもしれないと思い直したのだ。が、よく考えれば年末は東京湾へ行くからほとんど暇はないし、年始は親戚の子供が遊びに来て騒ぎ回るはずなので、とてもじっくり本を読む暇などあるはずがない。ある人が「読書の時間は『作る』ものだ」という名言を吐いているが、私にはとても読書のために生活の他の時間を犠牲にすることはできない。
 最後になったが、昨日CDを10枚ほど買ったということを付記しておく。
 昨日からカウンターの調子がおかしい。何か悪いことをして登録を抹消されてしまったのだろうか? 昨日の昼で9月末からの累計1394ヒットという貧しい数字なので別に痛くも痒くもないのだが……。
 この翌日には復調したが、ほぼ2日分のデータが全く記録されていない。たぶんこの間に20人くらいはアクセスしていることと思う。というような事を書いてしまうのは、「痛くも痒くもない」わけではないことを示している。