1.10070〜1.10072 日々の憂鬱〜2001年12月第1週〜


1.10070(2001/12/01) 散漫

 昨日以上にまとまりのない文章を書く。

 今日、いろいろなことを考えた。たとえば、 などなど。
 いかに、どうでもいいことばかり考えているかがわかることだろう。いや、「考える」という言葉は、ある程度筋道立った心のはたらきに対するものだから、もしかすると私は何も考えていないのかもしれない。

(2001/12/02追記)
 この文章を書いたのは昨日の午後11時58分だった。直ちにアップしようと思ったのだが、ダイアルアップの悲しさですぐに接続できず、結局更新したのは今日の午前0時1分だった。というわけで、本来なら日付を変えるべきだが、面倒なのでそのままにしておく。と言いつつ、こんな補足文章を書いているのだから、我ながらわけがわからない。

1.10071(2001/12/02) 被害者の人権

 凶悪犯罪が発生し、被疑者が逮捕される。被疑者は推定無罪の原則により保護される。有罪が確定してからでも、ある程度の権利は認められる。すると、ある種の人々は言う。「人権、人権と言うくせに被疑者の人権のことばかり尊重して被害者の人権を無視するのはおかしい」と。
 言葉はしばしば表面上の意味とは違った含みをもつことがある。上の例では、発言者の真意は人権思想そのものへの異議申し立てであるかもしれない。だとすると、「被害者の人権」にはさほど大きな意味はない。が、ここではあえて上の言葉を額面通りに受け取ってみることにする。
 新聞の投書欄などで「被害者の人権」に言及した発言をみるとき、私はしばしば奇妙な印象を受ける。というのは、たいていの場合話題となる凶悪犯罪は殺人事件であり、その被害者というのは当然死人だからだ。これが「遺族の心情を考えてみろ」とか「生き残った者のの心の傷の深さを何だと思っている」という言い方だと、そのような違和感はない。被疑者をさらし者にすることで遺族の気が晴れたり、辛うじて生き残った被害者の心の傷が癒えたりするのかどうかという点には疑問はあるが、それは個別の事象ごとに検討すべき問題だ。だが、死人を引き合いに出すのは、どうもおかしい。死人には人権はないからだ。
 無差別テロや通り魔の犯行の場合、被害者は善良な市民であり、時には純粋無垢な子供である場合もある。いや、子供が本当に純粋無垢かどうかはわからないが、少なくとも「殺されて当然」とは思わない。そのような人々が無惨な死を遂げ、犯人がのうのうと生を謳歌していたなら、事件関係者でなくとも腹が立つ。どうしようもない不公平感、不条理感がこみ上げてくる。そこで、「被疑者の人権」と「被害者の人権」を秤にかけたくなるわけだ。人権の秤は一方にのみ大きく傾くことを許されていない。被疑者の側に傾いているならば、秤を水平に保つために何らかの処置をしなければならない。その「何らかの処置」の具体的な内容についてはいろいろな意見があるとはいえ。
 しかし、殺人事件の被害者はもはや生きてはいない。生きていないものには人権はない。債権なら継承することができるが、生存権は相続不可能だ。被害者の死とともにすべてが消滅する。犯人は生きており、さまざまな権利を保障されているというのに。秤の一方には何も乗せるべきものがないのだから、一方に傾いてしまうのはどうしようもない。
 そこで人は言う。「死刑!」と。犯人の生命を奪うことにより、釣り合いがとれるのだ、と。しかし、これは間違っている。両者の人権の釣り合いがとれるのではなく、ただ秤の上に何も乗っていない状態になるだけだ。「目には目を」や「歯には歯を」と「生命には生命を」の間には越えようのない深い溝がある。
 しばしばこの深い溝は無視される。そしてあたかも死者がまだ生きているかのように語られる。「あのように残酷に殺されて、さぞ無念なことだろう」と言うとき、死者は擬生者化される。「殺人事件の被害者は不当な暴力を受けて人権を侵害されたという事実により、侵害者を糾弾し、適切な補償を求める権利がある。ただ、彼女にはその権利を主張し、社会に訴えかける術がないだけだ。よって、声なき者の代弁者として我々は犯人を非難するのだ!」
 人が死ぬということ、その不条理な出来事をなんとか合理性の世界に引き戻し、損益のバランスという観点から評価したい。その発想はわからないでもない。だが、そのことで、人の死そのものが不条理な出来事でないかのように勘違いされてしまい、一種の思考停止状態に陥ってしまうとすれば悲しいことだ。殺人は人権侵害ではなく、人権の担い手の消滅だということがわからなくなる。死者の擬生者化は、死という不条理な事態に向き合う心構えを徹底的になまくらなものにしてしまう。これが私には不快でならない。

 若干の補足。この文章は人権思想の擁護を目指したものではない。また、死刑問題について特定の考えを示唆したものでもない。さらに、現実に多発している凶悪犯罪の犯人の処遇について何らかの意見を述べようと思って書いたものでもない。これらはより精密で洗練された論証をもって語られるべきことだろう。この文章は「被疑者」と「犯人」をほぼイコールで結んでいるような粗雑なものであることに留意されたし。

1.10072(2001/12/02) いなか の ほんや

 田舎の本屋には読みたい本がない。それはもう悲しくなるくらい何もない。床面積や棚の数では都会の本屋に負けていないはずなのに、なぜか本がない。ざっとあたりを見回すと本棚は全部埋まっているから、本がないということはないはずなのだが、それでも探している本に限って、ない。どうしてこのような現象が起こるのか、全くわからない。
 先月出た『しあわせインベーダー』(こがわみさき/エニックス)をずっと探していた。会社の近くの本屋にもなく、駅ビルの本屋にもなく、デパートの中の本屋にもなく、郊外の本屋にもなかった。何軒の本屋を回ったか、もう覚えていない。そして今日、ようやく見つけた。
 こがわみさきの本はたぶん全部持っているはずだ。最初に買ったのは『でんせつの乙女』(光文社)で、部分的には面白い着想もあるものの、まだまだ荒削りで完成度が低いと感じた。でも何となく気にかかっていたのだろう。『魅惑のビーム』(エニックス)を本屋で見つけると、ふらふらと買ってしまった。『魅惑のビーム』は『でんせつの乙女』よりもこなれていて、読みやすかった。そこで一挙にこがわみさきは私の要チェックマンガ家リストに入った。いや、本当にそんなリストを作っているわけではないのだが。
 いろいろと調べてみると、こがわみさきは以前「湖川みさき」名義で二冊本を出していることがわかった。『翡翠 -HISUI-』『SANGO』(どちらもラポート)で、もしかしたらまだ生きているのかもしれないが、新刊書店では見かけたことがない。私は古本屋で入手したが、あまり面白くなかった。いかにもラポート的な内容で、私の好みではなかったのだ。
 それはともかく、新刊の『しあわせインベーダー』はかなり期待していた。表題作だけ雑誌で読んでいたが、あとは未読だ。ネット上での評価もいい。だが、肝心の本が見つからず、今日まで鬱々とした日々を過ごしていたわけである。ちょっと大げさか。
 で、先ほど読み終えたのだが、いい。実にいい。感動の大傑作ではないし、ストーリーの起伏もそれほどない。だが、何ともいえない味わいがある。感覚の襞をうまく捉えて、そこにそっと技巧を忍ばせている、という感じ。いや、そうじゃないな。う〜ん、表現しにくい。
 収録されている4編はどれも甲乙つけがたいが、強いていえば『ふたりなみだ』がいちばん面白かった。別の意味で面白かったのは『サムシン ライク ハレーション』で、双子でもないのに同じ顔の男女、という設定なのに、全然顔が違っているのが愉快だった。さらに愉快なのは、巻末のあとがきで
ところで男女の場合
二卵性なので
「双子のようにうりふたつ」
というのは
あてはまらないですよネ。
と書かれていたこと。
 ふと、この人がミステリマンガを描いたら凄いものができるのではないか、と思った。たぶん描くことはないだろうけど。