1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10011(2001/10/01) 正式公開!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011001

今日から「たそがれSpringPoint」は正式公開する。今日は10月1日、法の日だ。ついでにいえば中秋の名月、十五夜だが、月は出ているのだろうか?

知り合い数人の掲示板にサイト開設の通知を書いてきた。また、これからぼちぼちメールで周知していく予定だ。このサイトにも掲示板を設置した。ここだ。ちなみに午後11辞25分現在、まだ誰も書き込んでいない。お願い、何か書いていって!

正式公開といっても、これと言ってたいしたことはないわけで、今後ものんびりと雑文を書いていくだけだ。

さて、今日は前に決めた方針に基づき、新書を一冊読み終えた。『コンクリートが危ない』(小林一輔/岩波新書)だ。タイトルから想像がつくように、これは社会問題告発系の本だ。ということは、「同一ジャンルの本を続けて読まない」というルールに抵触しているかもしれない。また、奥付を見ると1999年に初版が出ている。これもルールに反する。でも、どうせ自分が決めたルールだから、どうでもいい。

この本を読んでいて面白かったのは、次の一節だ。

成長期のマスクメロンは、外皮にくらべて果肉部分の成長速度が大きい。内部が成長してふくらもうとし、外皮がこれを拘束する状態になる。ある時点で外皮にひび割れが生じ、内部から果汁が染み出してくる。果汁は空気に触れると硬化してマスク模様ができる。一九八九年、京都で開催されたアルカリ骨材反応に関する国際学会で、このメカニズムについて発表した。

おお、そうだったのか! あの網目模様は果汁のなれの果てだったのだ。ふと、痛い想像をしてしまったりするのだが、人類の約半分を占める種族には関係ない話なので、省略。

コンクリートの本でメロンについての雑学を仕入れることができたので、今日の私はちょっぴり幸せ。

1.10012(2001/10/02) リンクについて

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011002

私は、この「たそがれSpringPoint」を始めるに当たって、自らに課した制約が一つだけある。それは、予め制約とか規準とかルールとか方針とかコンセプトとか見通しとか縛りとか目的とか意義とか報復とか制裁とか義務とか責務とか、その種のことをあまり考えないようにするということだった。どうせ、サイトを運営していくうちにがんじがらめになってしまうのだから、最初からやる事を制限する必要はない、と考えたからだ。実際、正式公開前に早くも「新書を毎週一冊ずつ読む」というルールを作ってしまった。まあ、これはサイト運営にかかるルールではないけれど、更新ペースを維持し、ネタ切れを防ぐために設定したものだから、同じことだ。

さて、昨日、正式にサイトを公開して、あちこちの掲示板で宣伝したり、直接メールを送りつけたりした結果、私の掲示板に書き込みしてくれる人もいて、早くもここにリンクを貼ってくれた人もいる。有り難いことだ。

私自身、すでに何回か他人のサイトにリンクを貼っている。これからリンク先も増えることだろうから、今のうちにリンクについての見解をまとめておいたほうがいいだろう。

そこで、以前私が書いた文章を以下に掲げる。これは、今年の春、「たそがれSpringPoint」と全く別の意図をもって構築していたウェブサイトの一部(ちなみに、そのサイトは公開前にいろいろな決め事を全部やっておこうと気負いすぎたせいで、しんどくなって頓挫した。公開もしていないのに、リンクに関する所見を文章にまとめてあるのは、そのせいだ)なので文体はかなり違っているが、書いたのは正真正銘この私だ。なお、サイト名は伏せ字にした。

ここでちょっとリンクについての私の考え方を述べておくことにします。

インターネットでホームページを公開するということは、不特定多数の人に文章を見られることを覚悟するということです。見られるのが嫌なら公開しなければいいのです。だから基本的にすべてのウェブページはリンクフリーであるべきだと考えています。しかし世の中基本だけ押さえればいいというものではありません。基本の次には応用があり、応用の次には上級編があることもあります。「例外のない規則はない」という言葉がありますが、この規則にも例外があるとするなら、どこかに例外のない規則があることになるでしょう。でも、これって規則なんでしょうか?

脱線してしまいました。これから「××××」を作っていくにあたって、外部のウェブページへのリンクについて私は次のような方針を建て増した。いや、立てました。

  1. 「リンクフリー」と明示してあるページには、そのサイトの管理人や運営者に特に何も断らない。
  2. 「リンクフリー」とも「無断リンク禁止」とも書いていないページについては、上記の考え方に従い、リンクフリーとみなす。
  3. 「無断リンク禁止」と書いてある場合でも、サイトの運営者はリンクを止める権限を持っているわけではないので、単なる要請とみなす。その要請に私が応じるかどうかは、その場の事情による。

要するに、どんな断りがあっても気にしないということです。ただし、これは一般論ですから、リンク先の内容や構成、また私がどのような文脈でリンクを張るかによって扱いは自ずと変わってきます。たとえば、上で「萬画宣言」へのリンクを張りましたが、これは「石ノ森章太郎の『萬画宣言』って何?」と疑問に思う人のための参考のために張ったものです。特にリンク先のサイトの内容や趣旨と関係ありませんし、同じ文章が別のサイトにあれば(たまたま私が検索した範囲では一箇所しか見つけられませんでしたが)そちらに張ってもよかったのです。従って、このリンクについて事前に許可は求めていませんし、このあと事後報告するつもりもありません。

他方、リンク先の文章について意見を述べたり、批判を行ったりする場合には、事後に相手先に通知することもあるかもしれません。でも、よほどデリケートな話題でない限り事前に許可を求めることはないでしょう。そもそも、今の私にはたかだか私のページごときで言及するだけで事前許可が必要となるケースというものが想像できません。もし何かの弾みで「××××」が>国会の質疑応答で取り上げられるとか見に来た人が影響を受けて社会的大事件が発生するとか一日数万アクセスの超人気サイトになるといった事態がおこれば、リンク先に予め承諾を得たうえでないとリンクを張れなくなってしまうでしょうが、まあそんな事はないでしょう。

ところで、サイト内の特定のページに直接リンクを張る行為、いわゆる「直リン」ですが、これにはいくつかの問題があります。重要な注意書き(たとえば「18歳未満閲読禁止」など)をトップページに書いてあっても、直リンのせいで無効になってしまうことがあります。また、サイトのファイル構造の変更やサイトそのものの移転によりデッドリンクが生じやすいというのも問題です。けれども、どんな場合でも常にトップページにリンクを張るということになれば、さしあたり関係のある項目に到達するまでに関係のないページをいくつも見ることになり、無駄が多くなります。そこでいろいろ考えた結果、次の方針をまとめました。

  1. 言及したいページの独立性が比較的高く、他のページの参照が不要だと思える場合には直リンのみ。
  2. 言及したいページのほかに読んでおいたほうがよいページがある場合、またはデッドリンク化しそうだと予想される場合には、直リンとトップページへのリンクとを併用。
  3. 直リンによってサイト運営者の意図が著しく損なわれると思われる場合、または「直リン禁止」を明言している場合には、トップへのリンクのみ。

この方針が適正なのかどうか、はっきり言って自信はありません。今のところ、アダルトコンテンツを含むサイトとアングラサイトへのリンクはしないつもりなので、大きな問題は起こらないだろうと思っているのですが……。ご意見のある方はこちらまでメールでお知らせ下さい。

久しぶりに昔(といってもまだ半年も経っていないが)の自分が書いた文章を読むと、非常に気恥ずかしい。ともあれ、今のところこの件についてはあまり深く考えていないので、しばらくこの方針で行くことにする。

1.10013(2001/10/03) 心に残るありがたい言葉

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011003

この世は下らないことばに満ちあふれている。毎日の生活で、どうしようもなく愚劣で凡庸で吐き気がするほどたまらない言葉の数々を浴びせられると、神経がまいってしまう。もっとも、自分が発する言葉には耐性があるので、自家中毒に陥ることなく、こうやって駄文を垂れ流すことができる。

さて、つまらない言葉に混じって、たまにはっとするほど美しい言葉、心を洗われるような名言に出会うこともある。そんな時、生きててよかったな、と思う。今日はそんな言葉を一つ紹介する。

筆者はバートランド・ラッセル、英国の大哲学者、論理学者、数学者、社会思想家、教育運動家、平和活動家である。まだほかにもあったかもしれない。彼はノーベル賞を受賞しているが、平和賞ではなく、文学賞だというのが面白い。さらに、受賞作が『結婚と性道徳』というのがますます面白い。

さて、能書きはこれくらいにして、私の心に残っているありがたい言葉を引用しよう。

ひよこの生涯中えさをやってきた男は、最後にはえさをやるかわりにひよこの首をしめます。ひよこは、自然の一様性に関してもっと洗練された考えをもてば自分のためになったことでしょう。

細かいことを言えば、いくつかツッコミどころがある。たとえば、ひよこが成鳥になる前にシメることはないだろう、とか。だが、20世紀最大の知性に対してそのような些末な批判を行うのは、失礼極まりない。ここは、何度も熟読、未読し、この言葉がもつ深い含蓄を心の隅々まで染み込ませるよう努力すべきだ。

ああ、ありがたや、ありがたや。

ところで、"自然の一様性"というのはあまり馴染みのないことばかもしれない。大ざっぱにいえば、継続反復して観測された自然現象は特殊な事情のない限り今後も同じように続いていくということ。たとえば、これまでずっと朝になると東の空に太陽が昇ることが観測されてきて、一度も例外がなかった(天候により日の出を見ることはできなかったことはあるにしても)のだから、明日も同じように朝になると太陽は昇るだろう、と我々は考える。だが、これが本当に世界を律する法則なのか、それとも我々の単なる思い込みなのかは定かではない。

1.10014(2001/10/04) たまには真面目に読書感想文でも書いてみよう

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011004

昨日の文章で引用したラッセルの言葉を読み直してみて、ふと妙な想像をした。その「ひよこ」というのが、もし人名だったらどういうことになるだろうか、と。

さて、本題に入る。今日は読書感想文を書こうと思う。これまでも何回か本の紹介をしてきたが、あまり内容に踏み込んだコメントはつけていない。タイトルを提示しただけ、ということもあった。しかし、今日はふつうの読書感想文を書いてみるつもりだ。書評といってもいいかもしれない。しかし、もし「書評」という言葉が「書物についての評論」の省略だとすれば、これから書く文章はそのようなものではない。評論の名に値するような構築性のない、ただの断片的な感想文だから。

今日取り上げる本は二冊ある。『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』(どちらも角川文庫)だ。私はこの二冊を先月上旬に買い、約一ヶ月かけてやっと今日読み終えた。読むのが速い人なら半日もあれば十分だろう。この間に新書を数冊読んでいるとはいえ、この読書ペースののろさには我ながらあきれる。

この二冊に収録されているのは主に短編ミステリで、なかにはわりと有名なものも含まれている(ただし、現在入手困難なものがほとんど)。私が既に読んだことがあるのは、『ジェミニー・クリケット事件』『埋もれた悪意』『五十一番目の密室』『アローモント監獄の謎』『見えざる手によって』の五編だが、どれも五年以上前に読んだものなので、この機会にすべて再読した。が、昔の記憶が残っているので、多少感想に影響が出ているかもしれない。

さて、以下のコメントはすべて内容に触れている。トリックや犯人をあからさまにばらしたりはしないが、ある程度の予備知識は与えることになるので、未読の方はご注意願いたい。

まずは『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』から。

酔いどれ弁護士(レナード・トンプスン)
密室もの二編が収録されている。「スクイーズ・プレイ」のトリックは非常に有名。江戸川乱歩の名と『探偵小説の謎』という書名を出されただけで、誰もがすぐにトリックに気づくはず。もちろん、この本を読んでいなければ気づかないが、ミステリ愛読者で『探偵小説の謎』を読んでいないということはまず考えられない。よって、編者のコメントはやや不適切なように思われる。だが、ほとんど埋もれていた作品だけに、ネタを明かす危険を冒してでも、広く紹介したいという編者の意欲は伝わってくる。
もう一編の「剃りかけた髭」は最後まで全くトリックがわからなかった。「スクイーズ・プレイ」と同工異曲、といってしまえばそれまでだが、弾道の向きがちょっと意表をついていて、面白い。凶器をロープにして、密室状況下での謎の絞殺事件を演出できないものか。たぶんできないだろうな。
この二編にエラリー・クイーンが付したループリックも面白かった。フェアであることが、いつも絶対に必要だと言い切る人は、世の東西を問わず今ではほとんどいないだろうが、「フェアプレイは所詮エンターテイメント性を高めるための(代替可能な)要素の一つに過ぎない」などという"物わかりのいい"見解よりも、この頑なさのほうがかえって清々しいのはなぜだろう?
ガラスの橋(ロバート・アーサー)
なんというか、まともにコメントするのがアホらしくなるような怪作である。だが、これは怪作であると同時に快作でもある。もの凄く無理のあるトリックをこれほど鮮やかに決められてしまったら、もうお手上げだ。ふと大坪砂男の『立春大吉』を連想した。
田中潤司語る――昭和30年代本格ミステリ事情
実を言えば、この本を読む前に私が最も興味を抱いていたのが、この鼎談だった。どんなに珍しい小説でも、一度活字になったものなら、何かの機会に巡り会うことはあり得る。だが、人の証言は、機会を逃してしまうと永遠に闇に消え去ってしまうのだ。昭和30年代の日本ミステリ界については意外と遺された資料が少ないので、なおさら期待も高まろうというもの。そして実際に読んでみると、全く期待を裏切られなかった(短すぎるという不満はあるが……)。乱歩、正史、そしてクイーンにカー! なんと豊かな時代だったのだろう。
ケーキ箱(深見豪)
奇妙なことだが、私はこの小説に懐かしさを感じた。今までに読んだことがあるわけではなく、それどころか作者や作品名についても何の予備知識も持っていなかったというのに。トリックはありふれたもので、誰もが一度は考えついたことがあるはず(そんな事は考えたこともない、という人はこの際無視する)。ダイイングメッセージとの組み合わせには工夫が見て取れるが、特に技巧的とも思えない。しかし、この小説にはそれだけではなく、何かがある。それを「ミステリへの純粋な愛」などと表現するのは的はずれかもしれないが、ともあれ、その「何か」が私に懐かしさの感情を引き起こしたものであることは間違いない。
ライツヴィル殺人事件(新井素子・秋山狂一郎・吾妻ひでお)
これも怪作だろう。快作と思うかどうかは人それぞれだろうが、私はただの怪作だと思う。でも怪作が快作に劣るというわけではない。一体何が言いたいんだ、私は。最後の「作者への挑戦状」は秀逸。一生に一度でいいから、こんな事をやってみたいものだ。
作者についてはほとんど知らない。一時期、「北村薫=秋山狂一郎」説がまことしやかに語られていた、という話を誰かが言っていた。
花束の秘密(西條八十)
ミステリとしては、どうでもいい程度の出来だ。一般文学には興味がないので、特に感想もない。強いて述べるなら、せっかく歴史的仮名遣いや踊り字を再現しているのに、漢字が正字体でないのは残念。
倫敦の話(ロオド・ダンセイニ) 客(ロオド・ダンセイニ) 夢遊病者(カーリル・ギブラン)
同上。雰囲気は悪くないし、読んだときにはそれなりに楽しかったが……。
森の石松(都筑道夫)
巻末の対談でも触れられていることだが、いまや森の石松は誰もが知っている人物ではなくなっている。いや、石松だけでない。たとえば「一心太助の職業は?」と訊かれて即答できる人は今どれくらいいるだろう? 私自身、講談に親しんだ経験はなく、正直言って、この小説(随筆?)を読むのは少々しんどかった。「たぶん、ものすごく奇想天外なことをやってるんだろうなぁ」と思うと、その奇抜さに驚けないのが歯がゆくなってしまう。
わが身にほんとうに起こったこと
ただ溜息のみ。途中までは面白いが、純粋に「幻想のロジック」を楽しんでいたのではなくて、それをうち砕く「地上のロジック」を期待してのこと。『世界怪奇実話集』の類で読んだなら、印象深い佳編という評価になったかもしれないが、期待が大きかったため、その反動でかなりがっくりした。ドイルの『クルンバーの謎』やアイリッシュの『夜は千の目をもつ』を読んだときのような気分だった。
あいびき(吉行淳之介)
非常にぶっとんだ意外な小説だ。これを「本格」と呼ぶのはいかがなものか、と思わないでもないが、一般のミステリ読者の大部分がたぶん読んでいないはず(私も当然、読んでいなかった)のこの作品を無理矢理ミステリのアンソロジーに押し込んで読ませてしまおうとする編者の稚気には好感がもてる。
ジェミニー・クリケット事件(クリスチアナ・ブランド)
今さら私ごときがあれこれ言うまでもない傑作。本来なら『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫)所収のヴァージョンと読み比べてコメントすべきなのだろうが、ブランドの小説を続けて(しかもほぼ同じ内容のものを)読むのはしんどい。うろ覚えの記憶では、『ビュッフェ』に収録されたヴァージョンではこれほどねちこい話ではなかったように思う。
昔、私は『37の短編』(早川書房 世界ミステリ全集第18巻)をむさぼるように読んだが、その中でいちばん面白かったのがこれだった。『37の短編』は高校の図書館(「世界ミステリ全集」全巻のほかに「EQMM」の創刊号から「ミステリマガジン」に名前が変わるまで全冊が揃っていた)で借りて読んだきりで、その後古本屋で探しているのだが、まだ一回もお目にかかっていない。もう一度全部通して読んでみたいものだ。

続いて『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』について……と言いたいところだか、予想外に長くなってしまい疲れたので、今日のところはこれでひとまずおしまい。続きは明日、の予定だが、まとまった時間がとれなければ延期するかもしれない。

1.10014(2001/10/05) 徒労

全文削除。

1.10015(2001/10/06) 散財日記

全文削除。

1.10016(2001/10/07) 日本列島とグリーンランド

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q011007a

昨日の毎日新聞(大阪本社発行)の一面コラム「余録」では、旧石器時代の遺跡に関する捏造事件に関して、次のように書いている(後の文章の都合により、数字付きの箇条書きに加工した)。

  1. 歴史家の網野善彦さんによると、「日本の旧石器時代」とか「日本の縄文時代」とか言うのは正確ではなく、いけないのだそうだ。
  2. 旧石器時代や縄文時代に、日本という国はなかった。
  3. 倭から日本に国号を変えたのが702年。
  4. それまで日本という国の名前は地球上に存在しなかった。
  5. 歴史家や考古学者が「日本の石器時代」と言うと、戦前と同じように、日本は何万年も前から存在していたと人々に思わせかねない。
  6. だから日本列島の……と言うようにしていると網野さんが述べている。
  7. こんな学者の潔癖さがあればねつ造はなかったろう。

この文章はちょっとあいまいで、どこまでが網野氏の言葉なのかがよくわからない。

また、よく読むと1〜6と7とがあまり関係ないことがわかる。言葉遣いに関する潔癖さと、倫理に関する潔癖さは直結しない。もしかすると、この文章の筆者は捏造事件を引き合いに出して、網野氏を紹介し、その学問的誠実さを称えたかったのかもしれない。

それは、まあいい。

だが、ちょっと具合の悪いこともある。論理的な筋道が立っていないのだ。矛盾しているというと言い過ぎだが、少なくともこの文章のある読みによれば、網野氏が間の抜けたことを主張しているかのように受け止められかねない。

網野氏が「日本の旧石器時代」という表現を避け、「日本列島の旧石器時代」という表現を採用する直接の理由はおそらく2と5だろう。3と4が1に対して直接理由を提示している、すなわち「旧石器時代や縄文時代には『日本』という国の名前は地球上に存在しなかったのだから、『日本の旧石器時代』とか『日本の縄文時代』と言うのは不正確だ」と読むと、おかしくなってしまう(実は私は最初そう読んでしまったのだが)。なぜなら「じゃあ、旧石器時代や縄文時代には、『日本列島』という列島名はあったのか?」とツッコミを入れられた時に受け答えできなくなるからだ。

私たちの先祖がいつの頃から自分たちの住んでいる土地のことを「日本列島」と呼ぶようになったのかは知らないが、「日本」という言葉がない時代にはもちろん「日本列島」という言葉もなかったはずだ。従って、旧石器時代や縄文時代の人々が「日本列島」という言葉を知っていたはずがない。だからと言って「旧石器時代の日本列島」という言い方が不正確だとか、そのような言い方をしてはいけないとかいうことはない。そんな事を言ってしまっては、その当時の歴史について何も語れなくなってしまう。そもそも「旧石器時代」という言葉自体、旧石器時代にはなかったのだし、「縄文時代」という言葉も縄文時代にはなかった。

問題は、ある時代にある言葉が使われていたかどうかではなくて、その言葉が指す事柄がその時代に本当にあったかどうかだろう。もちろん日本列島は「日本列島」という言葉が使われだす前からあった。同様に、702年以前にも日本という国はあった。従って3,4から2は出てこないし、当然1の根拠にもならない。2,5をもとに1を主張するのは結構なことだが、3,4は混乱を招く余計な説明だと思われる。

なお、「日本の旧石器時代」という表現が果たして「日本(という国)の旧石器時代」と誤解されるものかどうか、という論点もあるだろうが、その点については問題にしないことにする。

さて、今度は『試験に出るパズル』(高田崇史/講談社ノベルス)からの引用。

問題。グリーンランドは世界一大きな島です。さて、それではグリーンランドが発見される以前に、世界一大きな島だったのは?

答え。グリーンランド。

(正確には――やがてグリーンランドと呼ばれるようになる島)

ここで提起したい問題は、「グリーンランド」と答えるかわりに「やがてグリーンランドと呼ばれるようになる島」と答えるほうが、より正確と言えるかどうかである。上の文章を理解している人なら(この文章を読んでいる人全員が理解してくれていることを願う。だが、まだちゃんと飲み込めていないという人がいるとするなら、それは私の説明の仕方が悪いせいなので、予め謝っておく)大方想像がつくだろう。私の回答は「否!」である。「グリーンランド」という答えは十分正確であり、「やがてグリーンランドと呼ばれるようになる島」という言い回しにかえることで、正確さの度合いが増すわけではない。もっとも、ただ「グリーンランド」と答えるだけではピンとこない人のために、あえて回りくどい言い回しをすることは無意味ではない。だが、それはコミュニケーションの円滑さのレベルの話であり、言葉と対象の指示関係についての正確さのレベルの話ではない。

私とは逆に、「やがてグリーンランドと呼ばれるようになる島」と言うことでより正確になる――言い換えれば、「グリーンランド」という答えは不正確である――と考える人もいるだろう。すなわち「その島は発見後に『グリーンランド』と名付けられたのだから、発見される前はただの無名の島に過ぎない。それなのに、現在の呼称をそのまま発見前のその島に当てはめるのは、一種のアナクロニズムである」というような考え方である。では、私は問いたい。私たちがパンゲアやゴンドワナについて語るとき、「パンゲア」「ゴンドワナ」という言葉をそのまま使うと不正確で、「後に『パンゲア』と呼ばれる大陸」とか「やがて『ゴンドワナ』という名前がつけられることになる大陸」などという言い方をするほうが正確なのか、と。そうではあるまい。もしそうだとすると(先ほどの「旧石器時代」という言葉と同様に)「大陸」という言葉自体が私たちが語ろうとしている"それ"の時代には存在しなかった(人類誕生以前なのだから、当たり前だ)ので、「後に『パンゲア』と呼ばれる、後に大陸とよばれる特徴をもったもの」というような言い方をする必要があるのではないか? さらに、「パンゲア」「ゴンドワナ」という言葉をそのまま使うのが不正確なら、「やがて『ゴンドワナ』という不正確な名前で呼ばれるようになる、後に『大陸』という特徴をもったもの」と言わねばならない。いや、「特徴をもった」という表現もアウトだ。現在の日本語にはそのような言い回しがあるが、日本語成立以前の過去について、「何ものかが何らかの特徴をもった」と語るのはアナクロニズムだ!

これだけしつこく言えば、さすがに私の考えは理解できたものと思う。蛇足だが、私は別に高田崇史氏を批判しているわけではない(上の引用文は作中の語り手のことばである)し、パンゲアとゴンドワナを例に出しておきながら、ローラシアに触れていないのも特に意味がない。当然、やまさき貴子、浅野りんの両氏とも何の関係もない。

昔、アメリカにはノートン一世(1819-1880 在位1845-1880)がいた。古き良き時代の話だ。今のアメリカにはノートン一世のような人材が必要ではないか。ノートン一世はアメリカ合衆国初代皇帝であると同時にメキシコ護国卿だったが、来るべき"ノートン二世"にはぜひアフガニスタン護国卿を兼任してもらいたいものだ。

蛇足の補足

「パンゲア」「ゴンドワナ」「ローラシア」はすべて大昔の大陸の名前だそうだ。パンゲアが二つに割れてゴンドワナとローラシアになり、その後紆余曲折があって現在の五大陸になったらしい。本文では知ったかぶりをしているが、私は歴史学や考古学に通じているわけではないので、これらの大陸がいつごろ存在したのかは知らない。なお、『パンゲア』(浅野りん/エニックス)と『GONDWANA』(やまさき貴子/白泉社)はどちらもマンガのタイトル。『ローラシア』というタイトルのマンガがあったらすみません。

1.10017(2001/10/07) 遅れに遅れて……

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/

いよいよ『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』の感想文を書くことにした。先日からいろいろと検索して他のサイトでのレビュー状況を見ていたのだが、この本(と同時発売の『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』)については、たいてい8月下旬から9月上旬くらいに感想を書いている。そうすると私は既に世の中の流れから一ヶ月以上も遅れてしまっていることになる。だから、今さら二、三日遅れても大した問題ではない(それ以前に、私が文章を書こうが書くまいが大した問題ではない)のだが。

例によって各作品への寸評という形にする。

埋もれた悪意(巽昌章)
よく出来た犯人当て小説だ。私は10年くらい前に一度雑誌で読んでいて、主要なアイディアは覚えていたが、それでも退屈せずに読めた。伏線の張り方が見事。ただ、ところどころに言い訳のような記述がある。これは、単なるツッコミ封じのようにも思えるが、どんなに厳密に、かつ精緻に組み立てても完全に隙のない犯人当て小説は書けないという洞察と諦念によるものかもしれない。
逃げる車(白峰良介)
ホックの『長方形の部屋』を連想した(それ以外にも連想した小説はあるが、そのタイトルを書くとネタばらしになるので書かない)。洗練されたパズラーだ。ただ、犯人当て向きのアイディアではないように思う。
金色犬(つのだじろう)
いろいろな意味で歳月を感じさせるマンガ。同時期の小説を今読んでも、これほどの違和感はないだろう。30年後に『名探偵コナン』を読んだら、どんな印象を受けるだろうか?
内容はどうでもいいが、主人公のおじさんの推理になっていない推理が楽しかった。それと、最後のページで主人公がかばんを襷掛けにしているのも、いい味わいを出している。
五十一番目の密室(ロバート・アーサー)
初めて読んだときには感心したのだが、読み返してみるとあまり面白いとは思わなかった。プロットには工夫を凝らしているが、トリックは単純だ。エラリー・クイーンのループリックのほうがひねりが利いている。
<引き立て役倶楽部>の不快な事件(W.ハイデンフェルト)
正直言って、『五十一番目の密室』と続けて読むのはしんどかった。ミステリ愛好家なら稚気あふれる設定に拍手すべき……なのかもしれないが、ここ10年ほどの間にこの種の小説をさんざん読んできたので、私の感性はぼろ切れのようになってしまった。もっと早く出会えていればよかったのだが。
アローモント監獄の謎(ビル・プロンジーニ)
これは密室もののアンソロジーで読んだ記憶がある。当時の私は今ほどすれていなかったので、純粋に楽しんだ。年は取りたくないものだ。
生死線上(余心樂)
何がどうなっているのか、よくわからなかった。何とも評価しがたい。まあ、稀少価値は認めるが。
水の柱(上田廣)
なかなか技巧的な小説だと思う。私は読んでいる最中には作者の仕掛けに全く気づかなかった。読み終わってもまだ気づいていない人もいると思う。その仕掛けとは(以下、核心に触れるため文字色を背景色に同化させる)探偵役の車掌が最初から最後まで一度も姿を現さないということだ。この趣向を推し進めれば、存在するかどうかが不明な探偵とか実在しない架空の探偵が事件を解決するという小説を書くこともできるだろうが、この作者はそこまであざとい事はしていない。
手元に本がある人は342ページを読み直してほしい。地の文と手紙文とが自然な形で繋がっていることがわかるだろう。
「わたくし」は犯人……(海渡英祐)
編者が意識したわけではないだろうが、『水の柱』と少し構成が似ているような気がする(が、その狙いが全然別のところにあるのは言うまでもない)。ミスディレクションがよく利いていて、ごく当たり前のことが当たり前でないかのように錯覚してしまう。よく出来たミステリだ。
見えざる手によって(ジョン・スラデック)
スラデックには思い入れがあるので、あまり客観的な評価ができない。一時期、私は「現代最高のミステリ作家は西のスラデックと東の井上ほのかだ」と主張していた。そういえば、井上ほのか氏は最近何をしているのだろう?
この『見えざる手によって』は、出典一覧を見ると文庫のアンソロジーに収録されていたようだが、私は知らなかった。「ミステリマガジン」に訳載されているという情報がどこかに書いてあったので、古書店でバックナンバーを探し求めた記憶がある。読んでみると、『スラデック言語遊戯短編集』に収録されている諸作のようなぶっ飛んだ小説ではなくて古典的なミステリなのだが、ミステリ界のウォルター・ミティ、名探偵サッカレイ・フィンのデビュー作ということで、なかなか楽しめた。
どうでもいいが、巻末対談で『見えないグリーン』が『見えないクリーム』と誤植されている。

これで感想文は終わり。続けてハイデンフェルトの別の小説と、それを思いっきりパクった目も当てられない小説について何か書こうと思ったが、話題としては全く別だし、かなり攻撃的な文章になりそうなのでやめた。