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エラリー・クイーンの短編に『Eの殺人』というのがある。一枚の紙片に書かれた文字が「E」にも「W」にも「3」にも「M」にも見えるというネタだ。優れたミステリ作家は、ごく当たり前の現象から謎と論理の物語を見事に作り上げることができる。この小品は別に見事だとは思わなかったが、着眼点は面白い。ネタばらしを避けるために作者名も作品名も伏せるが、筆記体の「h」を180度回転させると「y」になるというネタでミステリを書いた強者もいる。こちらは掛け値なしに「お見事!」と言いたい。
さて、今日はまた新書を読んだ。『Zカー』(片山豊・財部誠一/光文社新書)だ。日産自動車の栄光の時代を担ったZカーにまつわる男たちのロマンの物語だ。今、「男たちの」と書いてから気づいたのだが、もしかすると女性に言及する箇所が全くなかったかもしれない。
私は自動車オンチだ。別に車好きではないし、車種のこともよくわからない。そんな私がこの本を読んだのは、これが光文社新書の001番だったからだ。同時に刊行された本は他にもあるので、この本だけが光文社新書の最初の本であるというわけではないが、それにしても001番の意味は大きい。ローマ字(日本語のローマ字表記のことではなくて、英語やフランス語などヨーロッパ系の言語で使われるアルファベットのこと。こんな註釈は無用だと思うが、念のため)の最後の文字である「Z」をタイトルに入れた本を新創刊のシリーズの最初に持ってきたのは、背水の陣の覚悟によるものか。まあ、そんな事はないだろうな。
光文社といえば「カッパの本」というイメージがある。だが、カッパ・ブックス、カッパ・ノベルスともに最近はあまり勢いがないような気がしていた。このたびの光文社新書の創刊に続いて「光文社ノベルス」が出るのかどうかは知らないが、もしそうだとすると、ちょっと寂しい。
それはともかく、『Zカー』は自動車に興味がない私が読んでも面白く、すらすらと読めた。実は、私は一週間ほど前から『IT汚染』(吉田文和/岩波新書)を読んでいたのだが、私の好きな社会告発系なのになかなか読み進めることができず、ようやく今日の昼休みに読み終えたばかりだった。それから本屋に行って見かけたのが、この『Zカー』なので、私としては異例の速さで読み終えたことになる。これは、二人の筆者の文章(片山氏のほうは話し言葉で書かれているので、おそらく口述筆記かインタビューの再構成だと思う)が交互に配置され、当事者の視点と外部の視点のメリハリがきいていたからだ。当然、重複する説明やエピソードもあるのだが、あまり気にならなかった。
全体としての印象は、『ジャジャ』(えのあきら/小学館サンデーGXコミックス 現在第1集のみ刊行)に近い。こちらはバイクの話で女性の比重が大きいが、メカにかける情熱が伝わってくるという点で。こんな感想は私だけかもしれないが。
前ふりと本文の間に何の関係もないように思われるかもしれない。実はまったくそのとおりだ。だが、『Eの殺人』を読んだ人なら、なぜ私が『Zカー』からこれを連想したかがわかるだろう。
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秋から冬にかけて、私は無性に中華まんが食べたくなる。コンビニに入ると、何か新製品が出ていないかと、つい蒸し器に目を向けてしまう。ちょっと変わった中華まんがあれば、満腹でも無理矢理胃袋に押し込むことがあるほどだ。中華まんとの出会いは一期一会。変わり種だとすぐに製造中止になるから、後悔しないためには「とにかく、見つけたら買う」というのが原則だ。なお、すぐに製造中止になるようなものに旨いものはほとんどない。
古くから中華まんのスタンダードといえば、「肉まん」と「あんまん」だった。「肉まん」は「豚まん」とも言う。どちらかといえば「豚まん」のほうが旨そうな感じがする。ともあれ、この二つはたぶん千年以上前から存在する。
私は本格的な飲茶にととんと縁がないので、中華まんといえばコンビニで売っているジャンクフードとしてのそれだ。ジャンクフードの系譜に属する中華まんには、肉まんとあんまんのほかにもう一つのスタンダードが存在する。すなわち「カレーまん」だ。カレーまんがいつ頃登場したのかは知らないが、私の子供の頃に普及し始めたような記憶がある。たぶんカレーパンからヒントを得て作られたものだから、それほど昔のことではないだろう。あんパンはあんまんの影響を受けているはずだから、パンと中華まんは互いに影響関係にあるといえる。
長らく、肉まん、あんまん、カレーまんの寡占状態にあった中華まん界に「ピザまん」が登場したのはいつ頃だったろう? 1980年代半ばだと思うが、もう少し前だったかもしれない。最初はえらく奇妙な中華まんが出たものだと思ったが、次第に定着し、いまやどこのコンビニでも必ず置いてある。カレーライスは日本人の好みの料理の一つだが、ピザはそれほどでもない。また、ピザパンもあんパンやカレーパンほどポピュラーなものではない。なのにどうして中華まんの世界でピザまんが今の地位を確立したのか不思議でならない。
21世紀を迎えた今、そろそろ中華まんの新標準が現れるべきではないかと思う。出てはすぐ消える泡沫的なものではなくて、これまでの四強に張り合えるだけの大衆性をもった新しい中華まんが。では、どのような中華まんが「第5のスタンダード」となりうるのだろうか?
菓子パンからの類推では、「ジャムまん」がよさそうな気がする。だが、菓子パンと中華まんにはある大きな違いがある。それは食べるときの温度だ。菓子パンをわざわざレンジで加熱して食べることは(パンの種類によってはないこともないが)稀である。特にジャムパンをほかほかと湯気が出るほど温める、という食べ方は聞いたこともない。どうも中華まんとジャムの相性は悪そうだ。というか、甘い具の入った中華まんは概してふるわない。「チョコまん」を食べたことがある人はどれくらいいるだろうか? 私は旨いとは思わなかった。あんまんに敵うものはどうも作れそうにない。
では、辛いほうはどうか。カレーまんやピザまんのように、既成の料理を中華まんの世界に移植したものにこそ、新標準の可能性があるのではないだろうか? 今あるものでは「カルビまん」とか「エビチリまん」などが第5スタンダードの候補として挙げられる。だが、今日たまたまローソンのエビチリまんを食べたのだが、エビの食感がなくて今ひとつ、という感じだった。ジャンクフードはあまり値段を上げることができないから、どうしても制約があるのだろう(ちなみにローソンのエビチリまんは税抜き150円なので、かなり高めだ。サークルKのも食べたことがあるが似たような価格設定だったと思う)。また、カルビまんも以前食べた記憶では、あまりぱっとしなかった。
そこで私が考えたのは「麻婆まん」だ。ただし、麻婆豆腐だと歯ごたえがないので、麻婆茄子のほうがよい。茄子がビリ辛の味付けをされて饅頭の皮に包まれ、えもいわれぬ味のハーモニーを奏でるに違いない。これぞ21世紀の中華まん。新人類の希望の星だ。
ところで、中華まんの事となればにくまんじうこわいを無視して語ることはできない。というわけで久しぶりに(前に見たのは今年の3月だった。春から夏にかけては中華まんへの関心が失せるので)アクセスしてみた。すると、井村屋から「マーボーなすまん」が出ているということがわかった。……でも評価が低い。こんなものか?
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昨夜、私は『とむらい機関車』(大阪圭吉/創元推理文庫)の表題作を読んだ。一篇を読んだだけで本を閉じてしまった。決して面白くなかったのではない。その逆だ。この一篇を読んだだけで胸がいっぱいになり、続けて次の作品に取りかかることができなかったのだ。
もちろん「とむらい機関車」を読むのはこれが初めてではない。今までアンソロジーでも何度か読んだことがあるし、国書刊行会から出た同題の作品集でも読んだ。一度読んだ小説は飛ばしても構わないのだが、「とむらい機関車」はつい再読、再々読してしまう。そして今回も同様。数ある大阪圭吉の名作・傑作のうちでも、「とむらい機関車」は別格だ。
「とむらい機関車」の内容について今さら私ごときがあれこれ語ることもないだろう。多くの作家が「とむらい機関車」の影響を受けた作品を物している。とにかく読んでほしい。買うだけ買って積ん読状態という人も、この一編だけでいいから読んでもらいたい。もし他の作品も読んでみようという気にならないとしたら残念だが、人の好みはそれぞれなのでやむを得ない。
今日は『ジュリエットの悲鳴』(有栖川有栖/角川文庫)を読み終えた。確か一ヶ月くらい前に買ってあったのだが、昨日読み始めたばかり。「夜汽車は走る」という印象的な作品が収録されている。舞台が列車の中なので、「とむらい機関車」と絡めて感想を書こうと思っていたのだが……何につけ予定どおりに文章を書くのは難しいものだ。いずれ仕切直しして、この本の感想を書くことにしようと思う。
本関係でもう一件、今日は『死の殻』(ニコラス・ブレイク/創元推理文庫)を買った。大阪圭吉の2冊と同時発売で、昨日すでに本屋の棚に並んでいたはずだが、気が付かなかった。家に帰って挟み込みの新刊案内を見て初めて気付いた次第。どうも私は新本格派(もちろんここでの「新本格派」は英国新本格派のこと。代表的な作家としては、ブレイク、クリスピンのほかには、イネス、マーシュ、アリンガムなど。ブランドも新本格派に含める向きがあるが、少し傾向が違う)が苦手で、あまり面白いと思った記憶がない。いや、それ以前に誰の何という小説を読んだのかもよく覚えていないくらいだ。確かクリスピンの『お楽しみの埋葬』と『消えた玩具屋』は読んでいたはず。『ヴァルカン劇場の夜』というのも読んだが、作者が誰だったか忘れた。ブレイクは『野獣死すべし』は読んではいるものの、ほかに読んだ記憶がない。あれ、『章の終り』もブレイクだったか?
年を取ると読書力が落ち、海外ものが読みづらくなる。しかも新本格派ともなれば読み進めるのに相当の苦痛が予想される。別に強制されているわけではないので、いやいや読む必要もないのだが、たまには苦行に挑むのもいいかもしれない。
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というわけで、今日は『ジュリエットの悲鳴』(有栖川有栖/角川文庫)の感想を書く。
この本はシリーズ外の短編とショート・ショートを収録した作品集である。有栖川有栖といえば火村英生&有栖川有栖コンビのシリーズ(「社会人アリスシリーズ」などと呼ばれることもあるが、探偵役の顔を立てて「火村シリーズ」と呼ぶ)が有名で作品数も多いが、当然のことながらこの本には登場しない。
私は火村シリーズを読まない。最初の頃は新刊が出るたびに読んでいたのだが、新刊がハードカヴァーで出るようになると手を出しづらくなった。それに、どうもこのシリーズには好感が持てない。火村とアリスがいちゃいちゃするのも不快だが、それ以上にミステリとしての詰めの甘さが気になる。といっても、私が読んだのは『海のある奈良に死す』までだから、その後は復調しているかもしれない。
さて、『ジュリエットの悲鳴』も最初はハードカヴァーで世に出た。目次を見ると、大傑作(と今でも思っている)「登竜門が多すぎる」が収録されている。買おうかどうしようかと迷ったが、当時私は四畳半に住んでいたので本の置き場所に困ると思い買い控えた。その後、ノベルスから再刊されたようだが、本屋で見かけなかった。そして、文庫になって初めて手を出した。
この本には初刊時の「あとがき」、「文庫版あとがき」そして「解説」(福井健太)が収録されている。本編の感想を述べる前に、ちょっと気付いたことを書いておく。
「あとがき」で「世紀のアリバイ」について、
それにしても、この作品のアリバイ・トリックは、すごーく有名な日本のある社会派推理小説に似ていますねぇ。
と書かれている。「すごーく」「ねぇ」という表現から筆者が独特のニュアンスをこの文に込めているのがわかる。ここで言及されているのは松本清張の『点と線』である。この小説は国内ミステリのベスト級の名作として知られ、かつてはある程度ミステリに親しんだ人なら誰もが読んでいたが、昨今の若い人はあまり読んでいないのではないだろうか。有栖川氏は学生時代に所属していた同志社大学推理小説研究会の機関誌「カメレオン」で、この小説を学生らしい激しさで批判していた。たまたま私は知人が持っていた「カメレオン」のその号を読んで、「へぇ、有栖川有栖って若い頃はこんな文章を書いていたのか」と感心したのだが、上に引用した文章を読むと有栖川氏が今でもミステリファン魂を持ち続けているのがわかって微笑ましい。
ついでだから書いておくが、なぜ『点と線』が批判されるのかといえば、そこで用いられているアリバイトリックが全然トリックになっていないからだ。意外な交通手段を用いて偽アリバイを作る話なのだが、『点と線』の時代にはもはやそれは意外でもなんでもない(なお、類似したトリックは戦前の長編ですでに使われているが、こちらはたとえ文字色に背景色を同化させてでもタイトルを挙げるのが憚られる)。明らかに『世紀のアリバイ』は『点と線』へのおちょくりとなっている。
さらに脱線するが、『点と線』を誰もが読んでいたという状況を背景にして、『人それを情死とよぶ』(鮎川哲也)が書かれたというのは興味深い。ちょうど『貴婦人として死す』(カーター・ディクスン)が『アクロイド殺し』(アガサ・クリスティー)の読者を驚かせることを意図していたのと同じように。ミステリの世界には、このような事例はいくらでもある。ある時には、先行作品へのオマージュとして、またある時には批判として小説が書かれてゆく。前例のあるアイディアやトリック、モティーフの再使用を正しく受け止め。芸のない盗作や盗用と発展的な改良とを区別するためにも読者はもっと古典を読まなければならない、というのが私の持論なのだが、たぶんこのような考えは古くさくて大方の同意を得られないのだろうと思う。
ちょっと脱線しすぎた。もう一つ気付いたことを書いておく。「文庫版あとがき」で、「名探偵がいた方が楽しいから」これからもシリーズものを書き続けると言ったあと、
そういう姿勢は作家として怠慢だ、という見解にもある程度は同意するが、シリーズものを面白く書き続けるにはそれなりの技術が必要だし、その話をそうやってシリーズに落とし込むか、と読者が感心する作品もありうる。いいキャラクターとは、物語を引きつける力の強いキャラクターである、という見方も成立するのではないか。
と、シリーズものについての見解を述べている。この段落は佐野洋vs.都筑道夫の「名探偵論争」を踏まえているのは確かだが、シリーズ外の作品集のあとがきにわざわざ書くことでもない(実際、この段落を抜きにして前後を繋げて読んでも十分意味が通る)。
他方、解説を読むと、
初めから枠が用意されているぶん、シリーズ物には<書き手が話を作りやすい><読者が作品世界に入りやすい>などのメリットがあるが、内容の密度に拘わらず作品が成立してしまう危険性があるのもまた事実。極端な話、シリーズキャラクターが出てくるだけでも作品にはなり得るし、そのほうがノンシリーズの力作よりも<商品>としては有力だったりする。
という一節が目にとまった。有栖川氏の本当の意図はわからないが、無責任な読者としては、解説で述べられた福井氏の意見に対する実作者としての回答だと考えたい。まことに楽しい言葉のキャッチボールである。
本題に入る前に予想以上に道草を食ってしまった。昼下がりの暇つぶしどころか、そろそろ夕方だ。ひとまずここで休憩する。
休憩終了、以下、各作品ごとに感想を書く。ただし、ショートショートはまとめて寸評ということにする。
これでやっと終わった。本を肴に思いつきを書き並べるのは好きだが、本の内容そのものについて語るのは苦手だ。最近、ミステリ系の書評サイトをよく覗いてみるのだが、要領よくあらすじを紹介してうまく感想をまとめてあり、感心する。私はあらすじを要約して紹介するのが面倒なので書かないことにしているが、そうすると未読の人へのガイドとしてはほとんど機能しない。困ったものだ。