1.10073〜1.10078 日々の憂鬱〜2001年12月第2週〜


1.10073(2001/12/03) 犬儒の贈り物

 私には苦手なものが多い。贈り物もその一つだ。贈り物が嫌いだというわけではない。ただ、苦手なだけだ。
 私はほしい物を人から貰ったことがない。もともと人付き合いのいいほうではないので、贈答品のやりとりもないのだが、旅行の土産とか、ちょっとした謝礼を貰うことはある。そんな時、包み紙を開いてみると、いつもがっかりするのだ。これは考えてみれば当然のことで、私が何をほしがっているのかが他人にわかるはずもない。このページを読んでいる人なら、私がよく本やCDを買っていることを知っているだろうが、そんなものを贈ろうと思う人は少ないに違いない。本やCDを人に贈るのには勇気が必要だ。第一に、贈られる側の趣味を読み間違えたらただのゴミになりかねない。第二に、自分の趣味で選ぶと価値観の押しつけになる可能性がある。そして第三に、すでに同じ物を持っているかもしれない。サン・ジョルディの日が日本でなかなか定着しないのは、このような事情があるからだろう。
 で、私が貰う贈り物は、当たり障りのないものばかりだ。もちろん、贈り物は「何を贈ったか」ではなくて、「贈る気持ち」のほうが重要であることは言うまでもない。無論、「もちろん」と「言うまでもない」が重複しているが、気にしない。ともあれ、そのような「贈る側の好意」を無駄にしないためには、贈られた物が何であれ、嬉しいふりをしなくてはならない。「わぁ、ありがとう! これ、ずっと前からほしかったんだぁ」というアレだ。これを偽善とは言わない。ただ、事実に反する言明、すなわち端的にいえば「嘘」であるのは確かだ。他人の思いやりに応えるためにつく嘘だからといって、正当なものだといえるのか。 もし何かの事情で、私が贈り物を全然ほしがっていなかったことを送り主が知ったら、きっと心を痛めることだろう。そう思うと、むしろ、贈り物をくれた人の気持ちを裏切っているのではないかという気がしてくる。かといって「いや、これは貰っても仕方ないし……」とか言うわけにはいかない。自分の本心に反して嬉しいふりをするのも、本心をそのまま口に出すのも、どちらも後味の悪さでは似たり寄ったりだ。だから、贈り物を貰うのは気が重い
 逆の立場でも同じ事だ。私が何かを他人に贈るとき、受け取る人に余計な気を使わせてしまうのではないかと思うと、何を選んだらいいのかがわからなくなる。奮発して高価な物を贈ればいいのか? それとも安い素材を使った手作りの物を贈ればいいのか? どちらにしても、相手が受け取ったときに困惑混じりの顔で「あ、ありがとう」と言う瞬間を想像するだけで、気が滅入る。気の回しすぎかもしれないが、どうしようもない。
 たとえば、年賀状のやりとりを考えてみよう。年賀状は手書きのほうがいいのか、印刷のほうがいいのか。下手くそな手書き文字で読む人を不愉快にさせてしまうのも嫌だし、機械的な印刷では心がこもっていない。文面一つとっても「謹賀新年」とか「明けましておめでとうございます」などの定型文だけでは素っ気ないし、ほかにいろいろ付け加えたりすると馴れ馴れしい。そう考えると何も書けなくなってしまう。事実、ここ数年私は年賀状を全く書いていない。他人から年賀状が届いても返事を書かない。いや、書けない。これはもう、ほとんど病気だ。
 人と接するうえで最小限の礼儀も欠かしているようでは、社会人失格だと思う。それなら、誰にも行く先を告げずに山奥へ引きこもって生活をすべきだろう。けれども、そこまで踏み切る決断力が私にはない。こうして今日も私はずるずると人間社会で暮らしている。
 見出しはオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のもじりで、語呂が似ていれば何でもいいという軽い気持ちで「犬儒」という言葉を使った(本当にこんな言葉があるかどうかも確かめなかったくらいだ)のだが、ちょっと気になって、上の文章をアップしたあとで検索して調べてみた。
 その結果は……いやはや、無意識というのは恐ろしいものだ。
 「犬儒」とは古代ギリシアの哲学者ディオゲネスのこと。彼は樽の中に住んだ哲学者として有名らしい。いろいろな伝説があるようだが、いちいち紹介するのも面倒なので省略する。

1.10074(2001/12/04) 無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ、伴唱つき

 「伴唱」という言葉があるのかどうか寡聞にして知らない。だが、その音楽を表現するのに「伴唱」以外の表現が思い浮かばなかった。
 先日、私は『モリムール』(ECM NEW SERIES)というタイトルの奇妙なCDを買った。クリストフ・ポッペン(バロック・ヴァイオリン)とヒリアード・アンサンブル(声楽アンサンブル)が共演したCDで、箱(薄べったい箱に入っていた)の説明文によれば、
有名な「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番《シャコンヌ》」がバッハの最初の妻マーリア・バーバラへの追悼曲である、との仮説のもとに、当時バッハの頭の中で鳴っていたであろうサウンドを再現するために、ヴァイオリンと声楽のための新編曲を施した革新的なバッハ作品集。(略)癒しの調べによる私服の音世界を堪能できる作品です。
とのこと。私は「癒し」とか「ヒーリング」というのが大っ嫌いなのだが、キワモノは大好きだ。バッハの失われた作品を復元したと称するCDは何枚もある(だいたいは協奏曲だが、中には『マルコ受難曲』という大曲もある)が、バッハの頭の中で鳴っていた音楽の再現というのは初めてだ。これはもう買うしかない。
 バッハの「シャコンヌ」はさまざまな人がさまざまな楽器編成のために編曲している。ブゾーニがピアノ用に編曲したもの、ストコフスキーがオーケストラに編曲したもの、セゴビアがギター用に編曲したものなど。実は声楽混じりの編曲もすでに存在している。『追憶のシャコンヌ』(GLOSSA)というCDに収録されているもので、『モリムール』と同じく、妻の追悼曲だったという仮説に基づいている。「シャコンヌ」そのものをリュートで弾き、そこにソプラノとカウンターテナーが陰々滅々たる歌をかぶせるというスタイルになっていて、これもかなりのキワモノで楽しめた。
 基本のコンセプトが同じだから同工異曲だろうと思いながらも、とりあえず『モリムール』を買って帰り、封を開けてライナーノートを読んだ。最初に礒山雅氏の文章が掲載されているのだが、驚いたことにこの文章はほとんど警告文のような内容になっている。本当は全文引用したいところくらいだが、そうもいかないのでさわりの部分だけ引用する。引用文中、ポイントと思う箇所は色を変えて強調したが、もちろん原文にはそのような強調はないことをお断りしておく。
資料によればデュッセルドルフ大学の教授とされるヘルガ・テーネ女史は、(略)<シャコンヌ>(略)が、急逝したバッハの最初の妻、マリーア・バーバラへの追悼曲であり、その音楽による「墓名碑」であるとの仮説に達した。また彼女は、(略)種々のプロテスタント・コラールが全編にわたって引用され、いわば「隠れた定旋律」になっている、と考えた。この仮説――仮説自体も、またそれに対する彼女の論証も、とうてい学問的論評には値しないものであるが――(略)。あたかも思いこみの連鎖をたどるかのような彼女の主張は翻訳をお読みいただくとして(コラールのような単純な旋律など、その気になればどんな曲からでも取り出せるのだ)、(略)歴史的発見などというレベルでなく、ひとつの空想としてお楽しみいただきたいと思う。
 よく読めばなかなか凄い文章だ。ますます期待が増そうというもの。
 と、ここまで書いたところで、時間切れ。以下、明日。

1.10075(2001/12/05) 三つ子の魂、踊り忘れず

 昨日、時間切れで文章が途中で終わっている。よって今日はその続き……を書くべきなのかもしれないが、何となく気が乗らない。閲覧者にとってあまり面白い話題でないのは承知のうえだが、書いている私自身がつまらないと思ったら、書く意味がない。
 どうも私は飽きっぽいたちで、一つのことが長続きしない。小学生の頃、通信簿に「気分にむらがあり、行動に一貫性がない」と書かれたことを思い出した。この性格のせいで、これまでの人生でかなり損をしてきたのではないかという気がする。だが、見方を変えれば、この性格のおかげで、妙な方面に突っ走っていくこともなく、平穏無事に生活ができるのだから、それはそれでいいことなのかもしれない。
 ところで、飽きっぽいからといって私は決して熱しやすく冷めやすい性格ではない。というのは、何かに熱くなる前に興味がそれてしまうからだ。

 ああ、もう今日は更新するのも嫌になってきた。が、ここまで書いたのだから、とりあえず形だけ更新しておこう。

1.10076(2001/12/06) 学文路駅の入場券、五枚セットで「ご入学」

 タイトル(学文路駅は南海高野線にある。毎年、受験シーズンになると、学文路駅の記念入場券を南海各駅で売っている)とは関係がないが、ウェブサイトの運営とか更新頻度などについて。
 毎日、どうしようもない駄文を書いていて「私がやっていることは一体何なのか?」と思うことが多い。書きたい話題が毎日あって、十分時間をかけて文章を練り上げることができるのならともかく、日々更新のネタに苦しみながら、また限られた時間の中で毎日更新することに何の意味があるのか、と考えてしまうのだ。個人サイトで毎日更新を目標にしている人なら誰でも同じようなことを考えたことがあるだろうと思う。
 毎日サイトを更新することを私が目標にしているのは、安定したアクセス数確保のためだ。本当に書きたいテーマ、ぜひ公開したい文章は一週間に一度、いや、一箇月に一度しか書けないかもしれない。だが、一週間に一度程度の更新ペースでは、アクセスしてくれる人もほとんどいないだろう、と思う。そこで、無理矢理にでも毎日更新して閲覧者の足を引き留めたいのだ。
 もちろん、このような考え方は一面的だ。多くの人に読んでもらいたいと思う文章に触れる前に、駄文を目にして二度とアクセスしてくれなくなる人もいることだろう。それなら、無駄な更新はやめて文章全体の質をあげたほうがいいのではないか。そう思うこともたびたびある。
 だが、もしその考えを実行に移すとするなら、今私が書いているこの文章など真っ先に削除しなければならなくなるだろう。それでも構わない、何も問題はない。しかし、割り切れない。この割り切れなさをうまく分析できれば、ちょっとしたサイト論を組み上げることができるかもしれない。けれども今の私にはとても無理だ。というわけで、矛盾とジレンマを抱えて、今日も堂々巡りを続けている。

1.10077(2001/12/07) 赤と青

 いくつも名前を持っているので何と呼べばいいのかわからない某氏のウェブサイト「なんとなく劇場」の12/3の日記に興味深い記事があった。ちょっと長いので、コメントを交えながら引用する。
  箱の中に、両面が赤・片面が赤で片面が青・両面が青のカードが1枚ずつ入っている(裏表の差はない)。
 ディーラーが箱の中から一枚を取り出しテーブルに置いたところ、見えている面は赤だった。
 これを子は裏面が赤か青かを賭けるのである。
 このとき、そのカードの下になっている面が赤である確率はどれだけか。
 このパズルは昔からわりと有名で、某氏自身も「けっこう手垢ネタ」と書いている。答えは2/3なのだが、あまりよく考えないと1/2と思ってしまう、というのがミソ。
この状況を説明するのに、6面体のサイコロを用いてみる。
 そのサイコロの1・2・6の面を赤く、3・4・5の面を青く塗る。これで、赤赤・赤青・青青という三対の面ができた。カードの入った箱の状況と同じである。
 つまり、このサイコロを1回振るとのと箱の中から1枚カードを抜くのは同じことになるわけだ。
 出た目で検証すると、
1の時、表赤裏赤 2の時、表赤裏青 3の時、表青裏青 4の時、表青裏青 5の時、表青裏赤 6の時、表赤裏赤
 となる。
 つまり、 表赤裏赤:表赤裏青:表青裏赤:表青裏青=2:1:1:2 となる。
 問題の条件から表は赤と限定されるため、前二つで確率は検討されるので、 裏が赤:裏が青=2:1 となり、
 裏が赤である確率は2/3であるといえる。
 答えが2/3であることを説明するのはなかなか難しい。このサイコロの説明は、考えた人の頭のよさはわかるのだが、どれくらいの人が納得するかは疑問だ。1/2に固執する人は、おそらくカードとサイコロが本質的には同じであることを認めないだろう。
 数学的には、これで間違いがないだろうと僕も思っている。
 だけど、ふと疑問を感じる(なんとここからが本題)。
 さて、ここから某氏が本領を発揮する。
 赤赤 赤青 青青の3枚のカードをテーブルに並べる。その時、赤 青 赤 と並んでいた。
 ディーラーは、青が見えているカードを箱にしまう。そして、2枚並んだ赤のカードを示し、「裏が赤であるのは?」と問い掛ける。
 二者択一の問題である。当然、当たる確率は1/2だ。
 子は悩んだ末に一方のカードを指さした。
 ディーラーは、指されなかった方のカードを箱の中にしまった。テーブルに残っているのは、赤の面が見えているカード1枚きり。
 そこでディーラーが再度尋ねる。「このカードの裏は本当に赤だと思うか?」
 一番最初の問題と同じ状況になったわけである。
 さて、この状況で、テーブルに置かれたカードが赤である確率は1/2から2/3に跳ね上がるのだろうか?
 もちろん確率が変化するはずはない。この一連の流れにはどこかおかしいところがあるに違いない。だが、ちゃんと指摘できるだろうか?
 読者が脳混乱に陥ったのを見計らったかのように、某氏はさらに追い打ちをかける。
 それとは別の例として、箱から1枚カードを出してテーブルに置く、見えている面は赤。このとき、裏が赤である確率は2/3であるというのは前述のとおり。
 しかし、子が赤であるか青であるかを悩んでいる間に、ディーラーが、箱からカードを取り出し(裏面が何色であるかを確認し)赤の面を子に見せた。箱の中にもう1枚、最低でも片面が赤いカードが入っているのは既知の事実なので状況として何か変化が生まれたわけではない。
 さて、このときディーラーの持っているカードの裏面が赤い確率も当然2/3だということになる。ということは、赤の面が見えているカードは2枚とも、両面が赤である確率が2/3であり、裏面が青である確率が1/3であるということになる。
 おかしくはないだろうか? それぞれのカードが1枚ずつであるのは間違いない事実なのだから、それぞれ赤赤である確率と赤青である確率は半々であるはずだ。どういうことなのだろう?
 さあ、どうする? うまく回答できるだろうか?
 翌日の日記では、いちおう解答らしきものが提示されてはいるのだが……
 昨日の話。
 実は、あれは単位が変わっているのだということ。
 余計に読者を迷わせるような、意地の悪い「解答」だ。
 私はこの問題を小一時間考えたが、うまく説明できる自信はない。いちおう以下に私の回答を書いておくので、各自検討されたし。

 まず、最初の問題について。3枚のカードのうち両面が青のものは直接関係はないので除外すると、残りは「赤赤」と「赤青」の2枚だ。赤が3面あるので、順にa,b,cと記号をつけることにする。両面が赤のカードはaとb、裏面が青のカードはcだ。ディーラーが取り出したカードの見えている面は、aかbかcのどれかだ。
  1. もし、見えている面がaならば、裏面はb、すなわち色は赤
  2. もし、見えている面がbならば、裏面はa、すなわち色は赤
  3. もし、見えている面がcならば、裏面の色は青
 3つの可能なケースがあり、うち2つで裏面が赤となる。よって、ディーラーが取り出したカードの裏面が赤である確率は2/3となる。
 これは再確認。次が本当の問題だ。
 ディーラーが3枚のカードを取り出し、見えている面が青であるカードを片づけて、残りの2枚の見えている面が両方とも赤である場合、2毎のカードのうち1枚は裏面が青で、もう1枚の裏面が赤であるのは当然だ。一方が赤で一方が青、よって赤である確率は1/2というのも考えるまでもなく明白であるように思われる。が、念のために先と同じく場合分けをしてみよう。a,b,cの記号は同じだが、今度はカードが2枚あるので、仮に「右のカード」「左のカード」と呼び分けることにする。
  1. 右のカードの見えている面がaで、左のカードの見えている面がcの場合
    →右のカードの裏面はb、すなわち色は赤で、左のカードの裏面の色は青
  2. 右のカードの見えている面がbで、左のカードの見えている面がcの場合
    →右のカードの裏面はa、すなわち色は赤で、左のカードの裏面の色は青
  3. 右のカードの見えている面がcで、左のカードの見えている面がaの場合
    →右のカードの裏面の色は青で、左のカードの裏面はb、すなわち色は赤
  4. 右のカードの見えている面がcで、左のカードの見えている面がbの場合
    →右のカードの裏面の色は青で、左のカードの裏面はa、すなわち色は赤
 4つの可能なケースがあり、うち2つのケースでは右のカードの裏面が赤、左のカードの裏面が青となっており、残りの2つのケースでは右のカードの裏面が青、左のカードの裏面が赤となっている。従って、2枚のカードのうち右のカードのほうが裏面が赤である確率は1/2、同じく2枚のカードのうち左のカードのほうが裏面が青である確率は1/2となる。
 次にディーラーは2枚のうちの客が選ばなかった1枚を片づける。すると客が選んだカードについては何が言えるだろうか? もちろん確率が変わったわけではないので、次のように言える。「2枚のカードのうち客が選んだカードのほうが裏面が赤である確率は1/2である」と。これは「客が選んだカードの裏面が赤である確率は1/2である」と言うことと同じではない。前者は正しいが後者は間違っている。正しくは2/3だ。
 この説明で十分理解できただろうか? 要するに分数の分母が違っているということなのだが……。

1.10078(2001/12/08) 預言者と預金者

 「予言者」という言葉の意味は明らかだ。「予言をする者」、さらにほぐしていえば「予め言う者」だろう。未来に起こるべきことを現在予め述べるという奇跡を成し遂げる者たちのことである。彼らの「予言」は多くの場合インチキだが、そんなことはどうでもいい。
 さて、「予言者」と似た言葉に「預言者」がある。こちらは聖書などに登場する人々である。「(神からの)言葉を預かる者」という程度の意味か。しばしば予言を行うが、語る事柄が未来についてであるということにポイントがあるわけではなく、その言葉が神から託されたものだという点が重要。もちろん、誰かがしゃべった言葉が神から託されたかどうかは誰にもわからないので、彼らの「預言」はしばしば(以下略)。
 で、私がふと思ったのは、「預金者」という言葉と比べてみると、なんか変だな、ということで、どういうことかといえば「預金者」は文字通り「金を預ける者」なのだから、「預言者」も素直に読めば「言葉を預ける者」となるのではないか、とか、「預言者」の読みにあわせて「預金者」を読み替えれば、「(顧客から)金を預かる者」となって金融機関のことになってしまうのではないか、とか、いやいや「金」は名詞だが「言」は「言う」という意味にもとれるから、「予言者」が「予め言う者」であるのと同様に「預かって言う者」とは読めないか、とか、いろいろ考えたのだが、もともと私には漢文の素養がないので、特にこれ以上追求することも叶わず、今日はこれでおしまいだ。