1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10065(2001/11/26) 復帰

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111e.html#q011126

「〜系」シリーズは終わった。今日から平常通りということで、よろしく。

一昨日、三連休の中日ということで、ちょっと遠出をしてコンサートを聴きに高槻のとある教会へ行った。

コンサートはハーモニック・シンガーズという声楽アンサンブルがタリスとパーセルを取り上げて歌うもので、特に私はタリスの「エレミアの哀歌」を楽しみにしていた。教会の入り口で2500円を払って中に入ると、すでに前のほうの席にはかなりの人が座っていた。教会の座席は硬くて座り心地が悪いので嫌いなのだが、コンサートホールだとこんな値段では聴けないだろうからよしとする。前売りだったら2000円ですんだのだが、買うのを忘れていた。

演奏会は午後5時から始まった。前半は英国ルネサンス期のトマス・タリス(1505頃-1585)の宗教曲、後半はバロック期のヘンリー・パーセル(1659-1695)の世俗曲という取り合わせだ。前半はすべて無伴奏、後半はヴァイオリンと通奏低音(チェンバロ)つき、というふうに編成のうえでも対比をなしている。

タリスもパーセルもイギリス音楽を語るうえでは避けて通れない大作曲家だが、一般の人がどの程度知っているかは疑問だ。たぶん多くの人(その中にはクラシック音楽ファンも含む)にとっては、イギリス音楽について語る機会はほとんどないだろうから。パーセルのほうは、ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の別名「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」で知っている人がいるかもしれないが。ともあれ、一般人の音楽史の知識レベルに配慮していては何も書けなくなってしまうので、説明はこれくらいにしておく。

十代の頃、たまたま手に取ったECMニューシリーズのサンプラーCDにヒリヤード・アンサンブル(当時ポール・ヒリアーがリーダーだった)が演奏したタリスの「エレミアの哀歌」第一部が収録されていた。それ以前にもルネサンスの宗教音楽を聴いたことがなくはなかったが、この演奏には非常に衝撃を受けた。その後、タリス・スコラーズ(この団体名の由来はもちろんトマス・タリスだ)を始め、いくつかの団体の演奏をCDで聴いたが、これまで生では聴いたことはなかった。特に「エレミアの哀歌」を避けていたわけではない。演奏会に行く機会そのものが少なかっただけのこと。

今回、生演奏で初めて「エレミアの哀歌」を聴いて、CDとは間合いの取り方が違っていることが印象に残った。この曲は「ここに預言者エレミアの哀歌が始まる」(どうでもいいが、パンフレットでは「予言者エレミア」となっていた)という言葉がまず歌われ、ついで「アレフ」(もとオウム真理教のこと、ではなくてヘブライ語のアルファベットの最初の文字)その次に「哀歌」の本文が歌われるのだが、今までに聴いたCDではそれらの間にほとんど間をおいていなかった。だが、今回の演奏ではそれぞれの切れ目で約数秒間をおいていた。どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、たぶん生演奏と録音の違いだろう。録音の際に無音部分を切って繋ぐという乱暴なことをしているというのではない(いや、しているかもしれないが)。ただ、録音スタジオの中で何度でもやり直しができる状態で演奏するのと、事前に練習は積んでいるとはいえ人々の前で一度きりの演奏を行う場合とでは、自ずとタイミングの計り方も違ってくるだろう。いったん音が切れて続きを歌い出す前に、隣りの人とタイミングがずれないように目や軽い身振りで合図する、その一瞬がどうしても必要となるのだ。

と、思いつくまま書いてはみたが、単に解釈の違いかもしれない。

さて、後半のパーセルは劇音楽からの抜粋が中心で、わりとコミカルな歌詞のものが多かった。前半の直立不動の姿勢とは打って変わって、歌い手の人々は身振りも豊かに歌っていた。男女の二重唱では抱き合ったり離れたり位置を変えたりで、見ていても楽しかった。

演奏会は午後7時前に終わった。正味1時間半弱といったところか。教会の椅子にじっと腰掛けていられるのはこれくらいが限度なので、ちょうどいい長さだ。私は満足して教会をあとにした。

これでおしまいだとまとまっていていいのだが、もう少し書いておこう。教会から阪急高槻市へ戻る途中で、演奏会前に見つけてあった古書店に入った。特に買いたい本があるわけではなかったが、ちょっとした掘り出し物があった。『FUN,FUN,FUN』(ZERRY藤尾/富士美コミックス)だ。この人の単行本は今流通しているもののほかに絶版本が2冊あることは知っていて、うち1冊は半年ほど前に三重県の古書店で見つけて入手済みだったのだが、こちらは初見。タイトルさえ知らなかったくらいなので、本気で探していたわけではないが、値段が安かった(400円+税)のでためらわずに購入した。おお、これでZERRY藤尾の単行本は全部揃ったことになるぞ。

宗教音楽を聴いたあとでえっちなマンガ本(かどうかはまだ確認していないが、成年コミックマークがついているから、たぶんそうなのだろう)を買うというのもなかなかいいものだ。どうせ私は切支丹じゃないし。

1.10066(2001/11/27) 寒いと億劫になる

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1.10067(2001/11/28) ブレーキ踏まずにアクセル踏んじゃった

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私は毎週一冊ずつ新書を読むことにしているが、なかなか同じペースを保つことができない。毎週読書にあてられる時間が一定ではないという理由もあるが、内容によって読書意欲が沸いたり沸かなかったりして、それが読書スピードに影響を与えるという理由のほうが大きい。幸い、先週末と今日読み終えた二冊の本はどちらも快調なペースで読むことができた。

まずは先週土曜日に読み終えた本から紹介しよう。『病としての韓国ナショナリズム』(伊東順子/洋泉社新書y)だ。これは筆者が韓国に在住していた約10年間に体験したことを中心にまとめた本である。よくある韓国叩き本かと思って読んでみたのだが、ちょっと毛色が違っていた。もちろん、

「アメリカ人がここで何をしているんだ? 出て行け!」

「私はアメリカ人じゃないです。オランダ人です」

「うるさい! オランダはアメリカの州じゃないか」

というようなエピソード(この会話だけで一目瞭然だろうと思うので、あえて状況説明はしない)も満載されているので、隣国の人々の愚かな言動をバカにして優越感に浸りたい方々にもお勧めだが、筆者の真意がそんなところにあるのでないことは明らかだ。

さて、今日読み終えた『道路公団解体プラン』(加藤秀樹と構想日本/文春新書)はやたらとデータが多くて一見すると読みにくそうな本だった。が、読んでみると、ややこしい話題をうまく整理してあり、読むのが面倒な部分はとばしても流れが掴めるように構成してあるので、意外と簡単に読めた。企業会計の専門的な知識を持たない私でもだいたいわかったのだから、日本語が読める人の大部分は苦労せずに読むことができると思う。この本の主張を簡単にまとめると「今の道路公団は第二の国鉄だから早急に改革しなければならない」という一言につきる。前半でいかに道路公団の経営が危機に瀕しているか(そして実状がどのようにして隠蔽されているか)を論述し、後半では再生プランを提示する。新規の高速道路建設の凍結と有料道路の永久化を大前提として話が進むのだが……現実の道路公団「改革」の流れがどのようなものであるのかは、ここ数日の報道のとおり。ちょっと考えさせられてしまった。

なお、高速道路を巡っては、地域経済に与える影響だとか、他の交通手段との兼ね合い、あるいは環境問題などさまざまな観点からの議論が可能だが、この本では、道路公団が抱える巨額の負債に論点を絞り込んでいる。たとえば、この本の文中には「モーダルシフト」という言葉は一度も現れない。ちょっと物足りない気もするが、総花的な記述になるよりはこのほうがいいのかもしれない。

1.10068(2001/11/29) 私は悪くない、と名もない人は言った

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1.10069(2001/11/30) 狂鼠病

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今日の話題はちょっと難しい。書きながら考えていこうと思っているが、うまくまとめられるかどうかわからない。途中で投げ出してしまうかもしれない、と予め断っておく。

「狂鼠病」という架空の病気を想定しよう。この病気は自然界には存在せず、ただ人工的に作られた狂鼠病ウィルスを人間の体内に注射することによってのみ発病する。注射してから数時間の間にウィルスは拡散し、半日後には検出不可能になる。その後約二週間は何事もなく過ぎ、その間にはどのような検査方法を用いても健常者との差異は認められない。ところが、二週間を過ぎると急激に変化が生じる。まず耳が巨大化し、真っ黒な耳たぶが頭の半分くらいの大きさにまで膨れ上がる。また目も大きくなり、鼻は黒くなる。そして臀部からは尻尾が生えてくる。さらに、本人の意思とは無関係に「アッハハー」という人を小馬鹿にしたような奇声を発するようになる。そして最後に太平洋の向こうから法律家集団がどかどかとやってきて、多額の賠償金をむしり取っていく。大変恐ろしい病気だ。

狂鼠病ウィルスを注射された人は、死なない限り必ず二週間後に発病する。老若男女の別は無関係だ。また先に述べたとおり、狂鼠病ウィルスを注射されない限り、絶対に発病することはない。

すると、私たちはこう考えたくなる。注射から二週間のあいだは狂鼠病の潜伏期間であり、見かけは健康でも、体の内面は徐々にウィルスに蝕まれているいるのだ、と。そして、潜伏期間中に狂鼠病の兆候が発見できないのは、単に私たちの検査方法に限界があるだけだ、とも。

ここで私は、このような考え方は合理的なのか、と問いかけたい。

もう少し条件を付け加えよう。私たちの科学技術に限界があることは誰でも知っている。では、全く限界を持たない、全知全能の神的な知性と認識能力を持った存在者を想定し、かつ、そのような存在者でも狂鼠病ウィルスの注射から二週間のあいだには決して健常者と感染者の区別がつかない(もちろん、神は過去と未来を見通すことができるので、過去に注射を受けたという事実と未来に発病するという事実から現在の感染者を健常者と区別することができるが、そのような他時点の参照は考えに入れないことにする)と仮定しよう。つまり、発病前の狂鼠病感染者は端的に健常者と同じだと仮定するわけだ。

この仮定は不合理だろうか? 少なくとも論理的な矛盾は全く含んでいない。にもかかわらず、私たちはこの仮定は不合理で受け入れられないものだと考えたくなる。言い換えれば、狂鼠病の感染者は潜伏期間中であっても、必ず健常者とどこか違う点があるはずだ、という私たちの信念と対をなす。隠された差異があるという考え方が合理的ならば、そのような差異はないという考え方は不合理となる。逆に差異はないという考え方に不合理な要素がないとすれば、隠された差異があるという考え方には合理的根拠がないとになる。

ややこしくなってきた。

私たちは、ふつう出来事を原因と結果の連鎖の中に関係づけて理解している。原因不明の出来事があった場合にも、原因はないとは考えず、隠された原因があると考える傾向がある。だが、同種の結果には必ず同種の原因が対応するという強固な信念を持っている人は稀だろう。建物が火事で焼け落ちるという結果にはさまざまな原因が対応しうる。それは放火かもしれないし、たばこの火の不始末かもしれない。金魚鉢が太陽光線を一点に集中させたのが原因で火事が発生することもあるのだ。火事で焼けた家のすべてが共有し、かつ、焼けていない家のいずれもが共有していない特別な過去の出来事というものがあるわけではない。そして、このことは必ずしも私たちの認識能力限界というわけではなく、事象そのものがもともとそういうふうにはなっていない、と考える。

逆に別の種類の原因からは必ず別の種類の結果が生じるとも考えないだろう。再び火事の例をとると、放火と失火は焼け跡の調査で判別できることもあるが、全く痕跡が失せてしまっていることもある。放火が原因で家が焼けた場合に必ず共通の特徴があり、失火の場合には決してその特徴がない、とは考えない。たまたま私たちが発見できないだけで、隠された痕跡が必ずあるはずだ、と考える人はかなり不合理な信念の持ち主だろう。

もう一度、狂鼠病の例に戻ろう。この例は二つの要素からなる。

  1. 狂鼠病ウィルスを注射された人も、注射されなかった人も、半日も経てば同じ状態になる。
  2. 全く差異が認められない人々のうちのある者は狂鼠病を発病し、別の者は発病しない。

1だけなら特におかしなことはない。狂鼠病ウィルスのかわりに生理的食塩水を注射する場合を考えてみればよい。注射の直後には注射針の跡があるし、体内の一部だけ塩分濃度が高くなっているが、いくらか時間が経てば注射を受けた人とそうでない人との差異はなくなってしまうだろう。では2はどうか。これもありそうな事だと思う。ガン細胞は誰もが持っているという話を聞いたことがあるが、それが増殖してガンを発病する人もいれば、一生ガンと無縁で過ごす人もいる。もちろん発病するかどうかは完全に偶然だというわけではなく、ガンを誘発する生活習慣や食品などさまざまな要素が知られている。だが、これだけの条件が揃えば必ずガンを発病する、というような条件はまだ知られていないし、そもそもそのような条件はないかもしれないと考えることはそれほど不合理ではないように思われる。

1と2をそれぞれ単独で捉えれば、さほど不思議なことでもないのに、両者をあわせると急に不合理な印象を受ける。この不合理感は何に由来するのか?

難しい。これは非常に難しい問題だ。もしかしたら2はさほど不合理ではないという私の診断が間違っていたのかもしれない。もし2が不合理だとすれば、1と2を合わせた狂鼠病のたとえ全体が不合理であることに何の不思議もない。だが、2を不合理だとみなすほど私たちの因果関係への信奉は強固なものではないと思うのだが……。

最初の予想どおり、行き詰まってしまった。本当は「運が悪かった」「たまたまそうなっただけ」などという言い回しについて考えを展開していくつもりだったのだが、そこまで辿り着けなかった。