1.10079〜1.10086 日々の憂鬱〜2001年12月第3週〜


1.10079(2001/12/09) 流されて、ついふらふらと、なんとなく

 ああ、結局『たべごろSweetぱ〜ら〜』(寺田とものり・C-SHOW/角川書店 全3巻)全部買って読んでしまった。私はどうしてこんなに惰性ともののはずみで生きているのだろうか、と考えるとちょっと鬱になる今日この頃だ。
 と、そんなこととは関係なく、昨日コミケットカタログをゲーマーズで買ってきた。税抜き2000円だった。おまけにでじこの下敷きがついていたが、別にそんなものがほしかったわけではない。単に二階のとらのあなへ行くのが面倒だっただけだ。と、これだけの情報から、私が行ったゲーマーズがどこなのかがわかる人もいるだろう。わかった人には……何もプレゼントはない。
 年齢がわかってしまうので、あまり書きたくはないのだが、私が初めてコミケに参加したのは晴海出戻りコミケ(意味がわからない人は近くの物知りな人に聞いてみよう)だ。その後、夏と冬に特急列車の車内販売のアルバイトを始めたので、しばらく参加しなかったのだが、二年後にバイトをやめてからほぼ毎回参加している。私は同人活動はやっていないので、たまたま知り合いのサークルの売り子をしたことが何度かあるほかは、ずっと一般参加だ。たぶん今回も駐車場の行列(東京ビッグサイトには西館と東館があり、それぞれに入場待ちの行列ができるが、西館行列は午前8時過ぎくらいでいっぱいになってしまうので、その後は東館行列に並ぶことになる。その行列スペースとなるのが東館の北側にある広大な駐車場だ……というような説明は一度でもコミケットに参加したことがある人には不要だろうし、参加したことのない人にはちょっとピンとこない話だろう)に並ぶことになると思う。
 それはさておき、カタログをぱらぱらとめくってみた。昔は三日ぐらいかけてサークルカットの載っている全ページをチェックしたものだが、今はもうそんなことはしない。新しいジャンル、新しい本との出会いを求めるには私は年を取りすぎた。ここ数年は惰性だけで参加しており、ほとんど同窓会のようなものだ。自ずとカタログの見方も変わってくる。サークルカットよりも巻末の広告のほうが見ていて楽しい。今回ちょっとびっくりしたのは、あの信長書店(「書店」といっても本や雑誌よりもビデオのほうが多い、つまりはそういう店である)が広告を出していたことだ。Dカルトの隣りに信長書店が並んでいるのを見ると、ちょっと頭がくらくらする。

 カタログを持ったままレコード店に入った。11月には30枚のCDを買ったが12月に入ってからはまだ1枚も買っていないことに気づいた。時節柄クリスマス音楽のCDを買おうと思ったのだが、あまりめぼしいCDはなかった。とりあえず
  1. GABRIELI CONSORT&PLAYERS・PAUL McCREESH『A VENETIAN CHRISTMAS』(ARCHIV)
  2. Clemencic Consort・René Clemencic『WEUHNACHTS- UND HIRTENMUSIK AUS DEM ALTEN ÖSTERREICH』(ARTE NOVA)
の2枚を買った。1はジョバンニ・ガブリエリとチプリアーノ・デ・ローレの作品、2はさまざまな人の作品の寄せ集めだ。
 クリスマス音楽といえば、最近よく街のあちこちで耳にする曲がある。タイトルは忘れたが、山下達郎のかなり昔の曲で、冒頭と間奏部分にパッヘルベルのカノンを引用している曲だ。今年はクリスマス関係の新曲でヒット曲がないのだろうか?
 と、とりとめもないことを書いてしまった。どうでもいいが、虎々ちゃん(「とらのあな」のマスコットキャラクター)はもう引っ込めたほうがいいのではないか。全然萌える要素がないのだから。大きなお世話か。

1.10080(2001/12/10) 仕事の愚痴

 仕事で嫌な事があるとつい愚痴りたくなるのだが、状況説明を端折ってここに書いても意味不明になるし、かといって詳しく説明すると会社の誰かに見られたら困ることになるので、愚痴はタイトルだけにして早速いつもどおりのどうでもいい話に入る。

 「三寒四温」という言葉がある。私はこれを「三日寒い日が続いたら、次に四日暖かい日が続く」という意味だと思っていたのだが、知り合いに「三日寒い日が続いて、四日目に暖かくなる」という意味だと考えている人がいた。
 それはないだろう、と思った。それでは基数と序数がごっちゃだ。もしそう言いたいなら「一寒二寒三寒四温」と言うか、または「三寒一温」と言わなければならない。「三浅一深」という言葉もあることだし。
 しばらく言い合いをしたが決着がつかず、結局国語辞典に頼ることにした。辞書の語義説明は省略。
 ああ、どうでもいい話だ。

 今日、『サンタクロースの謎』(賀来周一/講談社+α新書)という本を読み終えた。あれ? もしかしてギリシア文字は機種依存文字なのかな? 読めない人のために補足しておくと、「講談社プラスアルファ新書」だ。このシリーズを読むのは初めてだった。新書といいながらふつうの新書サイズよりも少し幅が広く、かといって選書ほども広いわけではない。中途半端だ。それにラインアップを見ても講談社新書とどことなく違っているようで、でも十分に差別化が図れていないような感じがする。少なくとも『サンタクロースの謎』についていえば、講談社新書に入っていてもおかしくない内容だった。
 そろそろクリスマスなので、その関係の本でも読んでみようか、という軽い気持ちで買ったのが先々週のことで、すらすらと読めるかと思っていたのだが、途中から宗教臭さが鼻についてきてなかなか読み進めなくなってしまった。まあ、宗教家が書いた本だから宗教臭いのは仕方がない。だが、
 現代科学はひとつのパラダイム(「天動説」や「地動説」といった、ある時代に支配的なものの見方や考え方)をもったことで全能の座を失った。そのパラダイムとは科学の発展は普遍性、合理性、客観性という枠組みの中でのみ成立するということにほかならない。この原則にしたがって近代科学の発展は、見えるもの、見えないもののすべてを網羅して、解明不可能な領域などあり得るはずがないと人々に確信させた。
 科学の発展とその成果の享受は、この原則が誤りないドグマ(正当と認知した教義・教理)であるかのように信じることから始まった。あらゆる学問、技術の分野はこの原則の上に構築された。ほとんどこれは宗教的な信念に近い。
などという文章を読むと、なんだかムッとする。「パラダイム」という言葉の説明にはいまさらケチをつけても仕方がないので無視するが、「ひとつのパラダイムをもったことで全能の座を失った」とはどういうことか? そもそも科学が全能の座に就いたことなど一度でもあっただろうか?
 いろいろと引っかかるところが多く、あまり楽しく読むことはできなかったが、それでも何とか最後まで読んだ。そこで次の本を買いに本屋へ行った。今度は理屈抜きに楽しい本にしようと思って探していると、ふと目にとまったのが『クラシック悪魔の辞典【完全版】』(鈴木淳史/洋泉社新書y)だった。ぱらぱらとめくっていて、「音楽史」の項目を見ると、
中世、ルネサンス期の音楽を貶めた言い方。バロックより前の音楽なんて、学問的にしか意味はないから音楽にあらず歴史にすぎない、という蔑視が込められている。
と書いてあって、その鋭さに驚いた。まだ全部読んでいないので詳しい紹介はしない(全部読んでもちゃんとコメントするかどうかはわからないのは、いつもと同じ。予め断っておく)が、これは近々読み終えることができると思う。(この予想に反して、読み終えたのは一週間後だった。これは内容がつまらなかったからではなく、私が体調を崩したせいである)
 ああ、どうでもいい話だ。

 先日の確率の話に関して、昔『スラデック言語遊戯短編集』(サンリオSF文庫)で読んだ話を思い出したのだが、肝心の本がどこかへ行ってしまって見つからない。仕方がないので、うろ覚えの記憶をもとに再現しよう。
 舞台は刑務所の中、三人の囚人「トントン」「歌姫」「怪我人」がそれぞれ独房に閉じこめられている。明日、三人のうちの二人が死刑を執行されることになっているのだが、誰が刑を免れるかは知らされていない。そんな焦燥状況のなかで「トントン」はドアを叩き、看守を呼んだ。
看守「何か用か?」
トントン「明日、『歌姫』と『怪我人』のうち少なくとも一方が死刑になるわけだが、それがどちらであるかを教えてほしい」
看守「どうしてそんな事を訊く?」
トントン「今、俺たちは三人のうち二人が死刑になるとしか聞かされていない。だから死刑になる確率は2/3だ。だが、仮に『歌姫』が死刑になるということがわかれば、残る『怪我人』と俺のどちらか一方は死刑を免れるわけだから、確率が1/2になる。逆に『怪我人』が死刑になるとわかる場合でも俺が死刑になる確率は1/2に下がる」
看守「なるほど、だがその質問には答えられないね。誰が死刑の対象者かは言ってはいけないことになっているんだ」
トントン「いや、別に教えて貰わなくてもいいんだ。俺の質問に対する答えは今言った二通りしかないんだし、どちらの答えでも俺が死刑になる確率は1/2に下がるんだから」
 忠実に再現したつもりだが、もしかしたら囚人たちの名前は原典と違っているかもしれない。それはともかく、ここでの「トントン」の推論にはどこかおかしいところがある。最初に「トントン」が持っているデータでは彼が死刑になる確率は2/3で、看守は新たなデータを提供していないのだから、確率が変化するはずはない。なのに、どうして確率が1/2になってしまうのだろう?
 この問題の解答は、次にネタに詰まったとき(解答はこちら)、ということにしておこう。
 ああ、どうでもいい話だ。

1.10081(2001/12/11) 有名人

 前からこのページには何か足りないものがあると思っていたが、最近やっと何が足りないのかがわかった。それは、挨拶の言葉だ。たとえば、
 預金封鎖の危機が迫り、ますますお寒くなってきた今日この頃、皆さんはどうお過ごしでしょうか。好きな言葉は「自虐史観」、嫌いな言葉は「無は無化する」という、「たそがれSpringPoint」管理人、滅・こぉるです、今晩は。
というフレンドリーかつユーモアとウィットに富んだ挨拶が必要なのだ。でも、面倒だからこんな事は毎回やっていられない。というか、「ですます調」じゃないし……。
 さて、今日は知名度の話だ。先日「共済新報」(共済組合連盟)の11月号を読んでいると、連載医療随筆『大正期の医療散歩(72)―ディレッタント正木不如丘―』(兼子昭一郎)という文章が目にとまった。
 正木不如丘!
 いや、驚いたねぇ。だが、この驚きは戦前の探偵小説にある程度通じた人でないとわからないだろう。要するに「なんで、こんなマイナーな探偵作家の名前が、こんな探偵小説と全然関係ないところに……」という驚きなのだが。
 で、ふと考えた。正木不如丘は本当に私が思っているほど知名度の低い人なのだろうか、と。たぶん小酒井不木よりは無名だろうとは思う。だが、単に私が不木の小説を読んだことがあるが不如丘の小説は読んだことはないから、そう思い込んでいるだけかもしれない。それに、もしかしたら医学界では不如丘のほうが不木よりも有名だということも考えられる。
 そこからさらに考えを進めた。そもそも知名度というのはどのようにして調べればいいのか。ここで考えている知名度というのは、ある特定の年代や地域、職業等の集団のなかでのそれではなくて、一般人も専門家もマニアもオタクも全部ひっくるめた集合のなかでのそれなのだが、どうにかして手軽に調べる方法はないものか。街頭や電話でのインタビューが確実だが、時間も金も人手もかかる。
 やはり、ネットで検索するのが一番だろう。そう思って、とりあえずgoogleで、「正木不如丘」と「小酒井不木」を検索すると、前者は143件、後者は828件だった。これくらい差があれば、小酒井不木のほうが正木不如丘よりも有名だと考えていいだろう。
 検索で知名度を調べるというのは簡単で便利な方法だが、難点もある。たとえば、「赤沼三郎」で調べると、『悪魔黙示録』の作者のほかに、某ミステリマンガの登場人物が引っかかってしまう。マンガの登場人物の名前として用いられるということ自体が知名度の指標となるとも考えられるが、ヒット件数をそのまま受け入れることができないのは確かだ。まあ、この例では60件しかないから、該当しないケースを手作業でより分けるのはそれほど難しくはないが、「ちゆ」のように11,500件もあると、面倒で仕方がない。ふるい分けしないと「伊藤博文」の10,600件よりも多いことになってしまうが、いくらネット上での知名度とはいえ、それはないだろう。というか最初の10件を見ただけで「つちゆ」とか「治癒(ちゆ)」とかが入っている。
 というふうに難点もあるのだが、この方法でさまざまな人の知名度を調べるのはなかなか楽しい。全然分野の違う人を二人選んで、どちらがより有名かを想像してみる、とか。私は「寺村周太郎vs.クリストバル・デ・モラレス」というのをやってみた。「寺村周太郎」は「一粒社ヴォーリズ建築事務所 作品リスト」などというもの(リストにある寺村周太郎邸は滋賀県なので、おそらく同名異人ではないとは思うが)を含めてもわずか7件であるのに対して、「クリストバル」「デ」「モラレス」ではなんと71件もあった。「クリストバル」「デ」「モラーレス」でも27件だ。いろいろと考えさせられる検索結果だった。たぶん大部分の人にとってはどうでもいいことだろうが。
 いちおう説明しておくと、寺村周太郎氏は日本を代表する(魔)方陣研究家で、クリストバル・デ・モラレス(モラーレス)はルネサンス期のスペインの作曲家だ。この二人に何か関係があるわけではない。なんとなくマイナーそうな名前を選んで比べてみただけのことだ。

 最近、「たそがれSpringPoint」に「ぴゅう太」というブラウザー(?)からアクセスした人がいるらしい。なんだこりゃ?

1.10082(2001/12/13) 咳をしても洗えば白くなる

 風邪をひいた。流感かもしれない。昨夜、体温を測ったら38.9度もあった。今日は会社を休んで休養をとり、ようやく平熱まで下がったが、まだ少し調子が悪い。
 体調が悪いときには無理をしてはいけない。というわけで今日はちょっと手抜きする。

 ある条件のもとで人や荷物を川渡しする方法に関する有名なパズルがある。何と呼ぶのか私は知らないが、ここでは便宜的に「川渡り問題」と呼ぶことにする。基本形は次のとおり。
 今、川のこちら側に狼と山羊とキャベツがある。一艘の舟を使って狼と山羊とキャベツを川の向こう側へ渡したいのだが、船頭のほかには一頭または一個しか舟に乗せることができない。狼は山羊を狙っていて、船頭が場を離れると襲ってしまう。山羊は腹を空かせていて、同じく船頭がいないとキャベツを食べてしまう。狼、山羊、キャベツを無事向こう側へ渡すにはどうしたらいいだろうか?
 簡単な問題なので解答を書く必要もないと思うが、字数稼ぎのために書いておく。
  1. 山羊を乗せて向こう岸に下ろし、帰ってくる。
  2. 狼を乗せて向こう岸に下ろし、山羊を乗せて帰ってくる。
  3. キャベツを乗せて向こう岸に下ろし、帰ってくる。
  4. 山羊を乗せて向こう岸へ行く。
 狼、山羊、キャベツの三者のうち、他の二者の両方と「食う/食われる」の関係にあるのは山羊だけだ。狼はキャベツを食わないのだから。そこで、山羊を常に船頭の監視下に置くか一頭だけにしておきさえすれば、狼に食われることもキャベツを食うこともない。この事さえわかっていれば、あとは手続きだけの話だ。
 さて、川渡り問題にはもう少し複雑なものもある。以下、引用する。出典は尾道短期大学・大学合同推理小説研究部(引用文の出典を示すリンクは残しておいたほうがいいと思うので、あえて外さないことにする)の4/11付の日記だ。
ある家族”父・母・娘が二人・息子が二人・召し使い・犬”がいます。
この家族が大きな川を渡ろうとしています。
船は一つしかありません。しかも乗れるのは二人だけで一人は運転手がいります。
運転出来るのは父と母と召し使いだけです。
父は母がいないと娘を殺してしまい、母は父がいないと息子を殺してしまい、犬は召し使いがいないと家族を殺してしまいます。
どういけば誰も死なずに川を渡れるでしょう。何回往復してもかまいません。(犬も一人として数えます) 
 今度はちょっとややこしい。少し整理してみよう。
 まず、この登場人物(犬を含む)の中でもっとも凶暴なのは犬だ。召し使いがいないと、あとの全員を殺してしまうのだから。犬は常に召使いの監視下におくか、または一頭だけ他の人物から離しておかなければならない。
 次に、困った父と母だが、父は息子を殺さないし、母は娘を殺さないので、基本的に同性どうしでまとめておき、移動の際には父と母をセットにして相互監視状態にすればよい。
 息子と娘は誰も殺さないので、他の者に殺されないように注意さえすればよく、召し使いは誰も殺さず、誰にも殺されないので、いちばん融通がきく。
 と、ヒントを出したところで、ぜひこの問題に取り組んでもらいたい。れっつ、とらい!

 頭を使うのは面倒だが答えだけ知りたい、という人のために、解答を掲載しておく。今日は手抜きすると宣言したので、コピペですませる。出典は同じサイトの掲示板の春都氏(ミステリ系のウェブサイトを運営している人だが、私は個人的に縁があるわけではないので、どのような人かは知らない。なお、春都氏のサイトにもこの問題について言及した記事があったように記憶しているが、探し出せなかった)の書き込み(221 悲惨家族の川渡り 2001/04/16 01:39)。文字色を反転して読むこと。
カッコ内は向こう岸。

1……召し使い・犬が渡り、召し使いもどる。(犬)
2……召し使い・息子が渡り、召し使い・犬もどる。(息子)
3……父・息子が渡り、父もどる。(息子2)
4……父・母が渡り、母もどる。(父、息子2)
5……召し使い・犬が渡り、父もどる。(息子2、召し使い、犬)
6……父・母が渡り、母もどる。(父、息子2、召し使い、犬)
7……母・娘が渡り、召し使い・犬がもどる。(父、母、息子2、娘)
8……召し使い・娘が渡り、召し使いもどる。(父、母、息子2、娘2)
9……召し使い・犬が渡る。(全員)
 これが正解で、特に補足するようなことは何もないのだが、同じ掲示板で「通りすがりのパズルファン」と称する人物が別解(?)を提示している(226 川渡り問題の別解 2001/04/16 23:28)ので、ついでに紹介しておく。こちらはあえて伏せるまでもないので、そのまま掲載する。
カッコ内は向こう岸、というのは春都さんと同じですが、独自に矢印を導入しました。

1……召し使い・犬が渡り、召し使いもどる。(犬)
2……召し使い・息子が渡り、召し使いもどる。(犬→息子)
3……召し使い・娘が渡り、召し使いもどる。(犬→娘)
4……召し使い・息子が渡り、召し使いもどる。(犬→息子)
5……召し使い・娘が渡り、召し使いもどる。(犬→娘)
6……召し使い・父が渡り、召し使いもどる。(犬→父)
7……召し使い・母が渡り、召し使いもどる。(犬→母)
8……召し使いが渡る。(犬、召し使い)

これで、「誰も死なずに川を渡れる」という条件を満たしていると思います。
矢印の意味は……説明するまでもないでしょう。ワンちゃん大満足。
 このような事を平気で書くヤツはどこか人間性に問題があるとしか思えない。こんな性格の歪んだヤツは風邪で熱を出して寝込めばいいんだ。(説明するのは野暮だと思うが、妙な勘違いをされるのも嫌なので明言しておこう。「通りすがりのパズルファン」というのは私のことだ)

 問題を自力で解いてみたいが、紙と鉛筆を用意してあれこれ考えるのは苦手だ。それに何かご褒美がないとやる気にならない。そういう人のためにお勧めのゲームソフトがある。たぶんWindows専用なので、林檎信者の方々は残念でした。また18歳未満のお子ちゃまもここでバイバ〜イ。
 というわけで、健全な理性と知性をもった大人の人だけ、ここをクリック!(トップページにおいてあったときには、リンクをはってあった、と了解されたし) 面倒な人は直接こちら(直リンク)へ(同上。方針に従いリンクを外した)。なお、このゲームでは、
  1. 召し使いのかわりにメイドさんがいる。
  2. 父親は娘を殺さないが、そのかわりに悪戯する。
  3. 母親は息子を殺さないが、そのかわりに味見する。
という相違点があるが、もちろんパズルの本質には違いはないので、上記の解答がそのまま使える……はずだがまだ試していない。(その後、実際に遊んでみたが、もちろん春都氏の解決がそのまま使えた)

 最近、妙なブラウザーが増えているらしい。たとえばPlayStation3(Secret test version)とか、貞子の網膜/19歳 (ファミコン; U; マリオ)とか。

1.10083(2001/12/14) 狼と虎と熊

 確かに非喫煙者の中にもマナーの悪い奴はいくらでもいる。でも、喫煙マナーの悪い奴は一人もいない。そう、たった一人さえも。

 挨拶のかわりに脈絡のない文章から始めたが、好評なら今後も続けることにしたい。とはいえ、たぶん誰も何も言わないと思うので、今日だけになるだろう。
 それにしても、我ながら「たそがれSpringPoint」の方向性が今ひとつわからない。最初はミステリ系にしようかと思っていたが、私は今ミステリをほとんど読まないのですぐにネタに詰まってしまった。ここしばらくはパズル関係のネタがいくつか続いているが、すぐにネタ切れになるだろう。

 「ネタバレをする」という表現は読むだけでいらいらするからやめなさい。「ネタばらしをする」でいいじゃないか。

 また、意味もなく脈絡もない文章を挟んだが、そのまま続けよう。とりあえず今日は、昨日の続きで、川渡り問題の別ヴァージョンを提示しよう。
 川のこちら側に狼と虎と熊の親子がいる。狼の親は虎の子を、虎の親は熊の子を、熊の親は狼の子をそれぞれ狙っており、狙った獲物の親が子のそばを離れると襲ってしまう。また上空には禿鷲がいて、子供たちのそばに親または人間がいなくなるとさらってしまう。今、船乗りのほかには一頭しか乗せられないボートがあり、これを使って六頭の動物をすべて川の向こう側へ移動させたい。ボートは何回往復させてもいいが、もちろん船乗り以外に操縦できる者はいない。この条件で無事全員を運ぶことはできるだろうか? できるとすれば、その方法は?
 今朝、出勤途中にバスの中でわずか3分で考えついた問題だ。あまり深く考えないように。答えは、今日の文章のいちばん最後に書いて置く。

 さて、以前、「求道の果て」に「関西人にとってお好み焼きはおかず、たこ焼きはおやつ」という内容の文章があったと記憶している。「記憶している」という曖昧な書き方になったのは、今探してみると見あたらないからだ。削除されたのか、それとも見落としているだけなのかはわからないが、とにかく話を進める。
 今日、会社の近くの食堂で、「たこ焼きセット」というものを食べた。たこ焼きとすうどんがセットになったものだ。「すうどん」と言ってわからなければ「かけうどん」と置き換えてもいい。実は「すうどん」と「かけうどん」は同じではないのだが、細かい話は抜きにする。気になる人のために、今日の文章の最後に両者の違いについて書いておく……つもりだったが、今日の最後にはさっきのパズルの答えを書くことになっていたので、どうしよう。困った。とりあえず、当面の話題を続ける。
 で、この「たこ焼きセット」を食べながら思った。たこ焼きとうどん、どちらが「ごはん(主食)」でどちらが「おかず(副食)」なのか、と。どちらも炭水化物の塊のようなものだから、主食と副食の区別をつける必要もないのだが、そんなことを言えば、米飯とお好み焼きのセットでも同じことだ。明らかに米飯が主食であり、お好み焼きは副食だ。

 子供に希望をもつことの大切さを教えるのはいいことだ。けれど、失望の苦い味わいを教える必要もあるのではないか? 失望なしの希望には何か大きな穴があいている。

 さて、主食は比較的味が薄く、副食はどちらかといえば味が濃い。たこ焼きとうどんのどちらが味が濃いかといえば、もちろんたこ焼きのほうだ。べったりとソースがかかっていて、さらにマヨネーズまでついているのだから。いや、マヨネーズはオプションなのでふだんは特につけないのだが、今日は店員が「マヨネーズはどうですか?」と訊いてきて、断る理由もなかったので、ほんの形だけつけることにしたのだ。それはともかく、ソース&マヨネーズで濃厚な味になり、しかも青海苔の風味まで漂うたこ焼きが「ごはん」とはちょっと考えにくい。やはり、具がまったくなく、ただ天かすのみ浮かんでいるすうどん(しかも関西風の薄い色のだし)のほうが「ごはん」だろう。
 この「天かす入りのすうどん」について、掲示板で疑問を表明した人がいた。天かすが入っているなら、それは「たぬきうどん」ではないか、というわけだ。この疑問については掲示板で回答したが、ログが流れてしまうと読めなくなるので、ここで回答の要旨を再度整理して述べておく。
 まず、「たぬきうどん」という言い方は東京(掲示板で指摘のあったように、天かす入りうどんのこと)または京都(刻み揚げ入りあんかけうどんのことか? 私は実物を見たことがないので不正確で申し訳ない)などのもので、大阪文化圏には「たぬきうどん」と称する食べ物は原則としては存在しない。あるのは単なる「たぬき」であり、これは油揚げが載ったそばのこと。同じ具でもうどんなら「きつね」、そばなら「たぬき」となる(従って「きつねうどん」「たぬきそば」という言い方は「馬から落馬する」「頭痛が痛い」の類の表現とみなされる)。
 大阪文化圏では、天かす入りのうどんを指す表現として「ハイカラうどん」という呼称があるが、それほど一般的ではない。なぜなら、天かすはあえて呼称に反映させるべき具材とは捉えられていないからである。「天かすうどん」というストレートな言い方もあるが、この言い方はなんとなく「天かすが山盛りになったうどん」という奇妙なイメージを喚起する。うどんに七味を振りかけた状態のことを「七味うどん」と呼ぶ状況を想定すれば、「天かすうどん」という言い方にまつわる奇妙さがある程度理解できるかもしれない。実際、関西のうどん屋では、客が自分の好みに応じて天かすを入れられるように用意しているところが少なくない。
 私が食べた「たこ焼きセット」についていたうどんには最初から天かすが入っていたが、私は天かすを認知しながらもそれを具とは見ずに「すうどん」と表現した。後から考えてみれば、チェスタトンが『見えない男』で指摘したメカニズムに似たものが働いていたわけで、掲示板での指摘には目から鱗が落ちる思いがした。
 しかし、その一方でたこ焼きを「おかず」とみなす見地には抵抗もある。これは、わからない人にはいくら言ってもわからないのだが、たこ焼きはお好み焼きとは違って、ちゃんとした食事の「おかず」の地位を占めることを拒絶された不運の料理、いや「料理」という呼称そのものが不適切だと思えるほどに虐げられ、差別された食べ物だからである。たこ焼きは決しておかずにはならない。この命題を公理とみなすならば、いったいそこからどのような地平がひらけてくるだろうか? やはり、「おやつ」か?

 電車がもし後ろ向きに走ることができないのだとすれば、その不可能性は電車の工学的メカニズムによるものではなくて、「電車」「前後」等の言葉を巡る意味論的メカニズムに起因するものであるに違いない。

 まあ、「おやつ」ということはないだろう、という気がする。曲がりなりにも昼食メニューとして提供されているものだし、実際私はそれを昼に食べたのだから。しかし、「ごはん」でも「おかず」でも「おやつ」でもないとすれば、このセットにおけるたこ焼きの地位はいったい何なのか? この謎はなかなか解くことはできない。というか、そもそも謎などあるのか?

 最後に上のパズルの答えを書いておこう。「すうどん」と「かけうどん」の違いはまた別の機会に。
 条件をすべて満たして全員の川渡りを実現することは(何らかの叙述トリックを使わない限り)不可能である。最初のステップで親をボートに乗せると、その瞬間に岸に残された子は襲われてしまう。かといって、子を乗せて川を渡っても、禿鷲が狙っているので子を向こう岸に置いて帰ることができない。よって一歩も先に進むことができない。Q.E.D.
 「また別の機会」がいつになるかがわからないので、補足ついでに書いておく。「すうどん」というのは、基本的に具が入っていないうどんのこと。ただし、上記のように天かすが入っていることはあるし、ふつうはネギも入っている。また薄い板焼き一枚が載っている程度なら、やはり「すうどん」と呼ぶようだ。「かけうどん」のほうも、うどん屋のメニューとしては「すうどん」と同じことだが、言葉の意味は全く違う。これは、上から汁をかけたうどんという意味である。だから「きつねうどん」(関東風または京都風の言い方であり、大阪文化圏では同じものを単に「きつね」と呼ぶことは先に述べたとおり)や「月見うどん」「木の葉うどん」などはすべて「かけうどん」である。「月見かけうどん」と呼ぶのは(対比されるべき「月見もりうどん」が存在しない以上)冗長なので、ふつうはそんな言い方はしないが。

1.10084(2001/12/15) 今日の私はちょっと社会派

 この「たそがれSpringPoint」では、時事ネタはあまり扱わないことにしている。なぜなら、悠久の我らが民族の歴史と偉大なる領導者様の威光に比べれば、昨日今日の出来事など塵芥に等しいからである。
 でも、たまには塵芥に光を当ててみるのもいいのではないかと思うこともある。今日がその、たまたまそう思った日、だ。だから、今日は時事ネタを扱う。おお、何と理路整然とした文章の運び!
 さて、一つ目の話題は、オサマ(ウサマ)・ビンラディンの極秘流出無修正ビデオである。9月の同時多発テロに対して、自らの関与を疑いなく認めるような発言をしていて、ブッシュ政権はかなり息巻いているらしいが、案の定「CIAのでっち上げ」説も囁かれている。この映像について、某新聞の一面コラムで、映像が家庭用ビデオで撮影したかのような汚いものであることを指摘し、「プロが偽造したのなら、同じ汚さでも、もう少しうまく汚さを表現できただろう」と述べ、「つまり素人に徹したビデオ。とてもにせものとは思えない」と結論づけている。
 もうね。アホかと。馬鹿かと。
 小一時間問いつめたいのを我慢して、別のことを書いておく。かつて、ユリ・ゲラーという芸人がいて(亡くなったという話は聞かないので、まだ生きているのだろう)「超能力者」という触れ込みで全世界巡業をやっていたのだが、時々失敗して肝心の「超能力」が不発に終わることがあった。当然、彼の「超能力」はインチキだ、と言う人も多かったが、擁護する側のなかには「もしユリの超能力がトリックだとするなら、もっと手際よくやれたはずだ。失敗するのは、彼の超能力が本物であることの証拠だ」と言う人がいたらしい。その頃私はまだ子供だったので、リアルタイムで知っているわけではないのだが。
 なお、無論もちろん言うまでもなく、私は件のビデオに映っているビンラディンが偽者だと言いたいわけではない。

 もう一つの話題は、来年度の税制に関するもの。どうやら発泡酒と煙草の増税は見送りになったらしい。賛否両論はあるだろうが、これで来年度の財政運営はますます厳しくなったことは確かだ。そこで私はここに新税を提案したい。たった今思いついたのだが、その名も「受動喫煙税」である。
 そもそも煙草税の問題は、喫煙者のみに多大なる負担を強いていることにある。非喫煙者は一円も煙草税を払うことなく、のうのうと健康的で文化的な生活を謳歌しているのに対し、喫煙者は常に肺癌の恐怖と戦いながら、煙草本来の価格以上の税を納入しているのである。これは考えてみれば理不尽であり、この上さらに増税しようなどというのは、実現しなかったからよかったものの、全くもって盗人猛々しいとしか言いようがない。
 課税は「広く薄く」が原則であるからして、ここはやはり非喫煙者にも応分の負担を求めるべきであろう。しかし、全く煙草と無縁な人に煙草に関する税を課すのも難しい。そこで、妥協案として考案したのが、受動喫煙税である。これは、喫煙者が高い煙草税にもめげすに買って一服しているときに、たまたま近くにいるというだけの理由で金も払わずにその煙を吸う非喫煙者にも課税しようというものだ。
 具体的には下記のとおり。
  1. 日本国内に居住するすべての住民に、年一回の肺検診を義務づける。
  2. その検診の際には、肺内のタール等の量を調査、分析し、受診者が一年間に吸った煙草の煙の量を算出する。
  3. そのデータに基づき、すべての住民は一定の税を納税しなければならない。この税は国税とする(どこで喫煙したかまでは特定できないので)。
  4. ただし、当該年度内で海外渡航期間が一定日数を超える場合は減税される。該当者は申請により還付金を受けることができる。
  5. また喫煙者については、支払った煙草税に応じて一定枠内での控除がある。
  6. 当然のことながら、人の煙草を寸借ばすりして自分で煙草を買わない者は受動喫煙税を全額納入しなければならない。
  7. 「未成年者喫煙禁止法」(明治33年法律第33号)は廃止し、未成年者も課税対象とする。
  8. 「この社会、あなたの受動喫煙税が生きている。」
 喫煙者の過度な税負担を軽減し、かつ財政再建の早期実現を期する為、国民の皆様の御理解と御支持をよろしくお願いいたします……と「ニセ首相官邸」の真似をついやってしまった。

1.10085(2001/12/15) ローシュタインの回廊

 「エンゲル係数」という言葉がある。家計の支出に占める食糧費の割合……だったと思う。この係数が高ければ高いほど生活が苦しいということになる。この言葉はドイツの有名な経済学者のエンゲルスに由来している……わけではなくて、統計学者のエンゲルに由来しているようだ。よく考えれば、エンゲルスが考えたのなら「エンゲルス係数」になるはずだが、意外と勘違いしている人が多い。私も昔は間違えていた。
 他方、「エンジェル係数」という言葉もある。こちらは食糧費ではなくて養育費だ。子供は天使だ、と言いたいのかもしれないが、ちょっと苦しいネーミングだ。いったい誰が考えたのだろう?
 で、ある日私はふと気づいたのだが、ドイツ語の普通名詞としての「Engel」は英語の「angel」と同じで、天使という意味だ。ということは「エンゲル係数」と「エンジェル係数」も同じということになり、ますます困ったネーミングだ。いや、誰も困らないか。
 なお、天使はフランス語では「ange」(アクサン記号はついていたっけ? まあ、私の語学の知識はそんなものだ)となる。これを漢字で書くと「庵主」だ。それがどうした。

 この「たそがれSpringPoint」では見出しと内容が全く関係ないことが多く、今回も例外ではない。「何のことか知りたければ検索してみれば?」というのが基本スタンスなのだが、それでは閲読者に対して親切ではないかもしれないと最近反省するようになった。そこで今日は特に説明ページへのリンクをはっておく(が、下にも書いてあるとおり、リンクは外した)ことにする。
 一つはこちら(50温順の配列なので、かなり下のほうだ)で、もう一つはこちら(2/10付に解答が載っているが、2/6の問題よりも上に置いてあるので注意)だ。内容はほぼ同じ(要するに、一方が他方の記事を盗用したということだ。というか、ほぼ丸写しといってよい)なので、どちらを読んでも構わない。
 なお、リンクは例によって鬱の蠅取壺収録時に外すので、その後は自力で調べていただきたい。

1.10086(2001/12/16) どうしようもなく久しぶりに小説本を読んだ

 最後に小説を読んだのかはいつかと考えてみても、もう思い出せないくらい昔のことなのだが、確かどこかに書いてあったはずだと思い、探してみると、なんと11/14のことだった。その日、『とむらい機関車』(大阪圭吉/創元推理文庫)を読んだのだった。おいおい、もう一ヶ月以上前の話だぞ。
 で、今日読んだ本は二冊ある。まず一冊目は『顔をなくした女―妖怪探偵犬姫2―』(前田朋子/ぶんりき文庫)だ。念のために書いておくと、サブタイトルの「2」は本当はローマ数字だ。
 オビには「本格ミステリー」と書いてあるが、たぶん相当のミステリファンでも前田朋子というミステリ作家のことは知らないだろうと思う。実際、ミステリ系サイトで言及されているのを私は見たことがない。これまでに、ぶんりき文庫から『美しき隣人』『妖怪探偵犬姫』という二冊が出ているのだが、そもそも「ぶんりき文庫」というシリーズ自体がいったいどのような流通形態をとっているのかすら定かではない。大手書店でも扱っていないところのほうが多いのではないか。有名な(?)「山梨ふるさと文庫」はノベルスサイズだったが、「ぶんりき文庫」は正真正銘の文庫サイズで、彩図社という出版社から刊行されている。
 で、調べてみると、彩図社も前田氏ウェブページをもっていることがわかった。詳細はそれぞれのページで確認されたい。どうでもいいが、作者のウェブページのトップ画像はちょっと怖いぞ。(トップ画像についての感想は、もちろん2001年12月16日現在のもの)
 さて、感想だが、あまりミステリとしての妙味は感じなかった。「本格ミステリー」と銘打っているだけあって、いちおう謎解き小説の体裁は整えてあるのだが、どうしても「通俗小説プラストリック」という印象が拭えないのだ。さらにトリックが貧相で、犯人を指摘するロジックも薄弱、いや、それ以前に犯行動機や手段に無理がありすぎる。
 こう書くと悪いところだらけのようだが、決してそんな事はない。この小説には非常に大きな長所が一つある。それは、読みやすいということ。小説を読むのが億劫でなかなか弾みがつかない私でも、全編を一気に読み通すことができた。文章に妙な癖がなく、多すぎる登場人物に惑わされることもなく、簡明で何が書いてあるのかがよくわかる。こんなことは商業出版物なら当たり前だと思われるかもしれないが、案外独りよがりで読者のことを考えていない小説は多いものだ。
 というわけで、読んで損をしたという気はしない。が、この人の資質はバズラーよりも捻りのきいたサスペンス小説向きではないか(『美しい隣人』に収録されていた諸作は、なかなか面白かった)と思った次第。
 続いて読んだのは、『鏡の中は日曜日』(殊能将之/講談社ノベルス)だ。ごくありふれた本だし、すでに多くの人がレビューを発表しているので、今さら私ごときが感想を述べるまでもないと思うが、ちょっとひっかかったところが三点ほどあった。一つは名探偵の名前の変更が恣意的に思えるということ、二点目は第一章に登場する人物の正体を誤認させるテクニックがやや安直ではないかということ。三点目は犯行動機の不自然さについて結局何の補強的説明もなされないままであること。冒頭の登場人物表(表中の「K**大学」という表現により、これが作中作『梵貝荘事件』の人物表であることが明示されているので、名探偵の名前が「水城優臣」であってもアンフェアではない)などいくつかの箇所の工夫には感心した。
 実は、私はこれまで殊能氏の作品はデビュー作の『ハサミ男』しか読んだことがない。これには感心した(ネタは途中で気がついたけれど)が、二作目の『美濃牛』で頓挫した。半分も読まないうちに本を投げ出してしまったのだ。三作目の『黒い仏』は気にはなったものの読まずじまい。もしかしたら『鏡の中は日曜日』にはこれまでの作品を順に読んできた読者のための仕掛けがあったのかもしれないが、もちろんそんなものはわからない。
 と、ここまで書いたところで、某氏に電話をかけて上記の疑問点について尋ねたところ、驚くべき事実が明らかとなった。なんと、主人公の石動戯作はシリーズ探偵で『美濃牛』『黒い仏』にも登場しているというのだ! これは意外だった。裏表紙やオビの宣伝文句を見て、てっきり水城のほうがシリーズキャラだと思っていたのだ。
 それはともかくとして、上記疑問点の第一は『迷路館の殺人』(綾辻行人/講談社ノベルス、講談社文庫)に対するイヤミ、第二は『人形館の殺人』(同)に対するイヤミではないか、というのが某氏の意見だった。そう言われればそういうふうにも思える。殊能将之、恐るべし!
 結局、第三の疑問についてはよくわからないままだった。なお犯行動機についてはもう一度感想を書いているので、興味のある人は参照されたい。

 「スラデック言語遊戯短編集」「値段」で検索してここにたどり着いた人がいるようだ。そういえばこの本、今どれくらいの値がついているのだろう? 私は某ミステリ系イベントのオークションで100円で落札したのだが。