1.10094〜1.10098 日々の憂鬱〜2001年12月第5週〜


1.10093(2001/12/24) 水

 こんな密室トリックを思いついた。
 人里離れた山奥の渓流沿いに建てられた山小屋がある。その小屋はブロック積の壁と鉄の扉、そしてトタン屋根、という簡素なものだが、しっかりとした造りで、ドアには隙間はほとんどない。その山小屋で白骨死体が発見される。ドアは内側から上部な閂がかかっており、その閂は外から操作できるものではない。また床上3メートルほどのところ、ほぼ天井近くに明かり取りの窓があるが、部屋は死体以外に何もない状態で梯子や踏み台の類もない。つまり現場はほぼ完全な密室状態だ。
 で、トリックというのは、こうだ。犯人は犯行前に渓流に堰を作っておく。そして大雨の日に被害者を殺害し、小屋に入って内側から閂をかける。そのうち川の水かさが増して小屋に浸水する。犯人は用意しておいたゴムボートを水に浮かべ、乗り込む。さらに水かさが増して水深3メートルに達したとき、犯人は窓から外に脱出する。当然ゴムボートもこのとき回収する。その後犯人は堰を壊してから現場を去る。
 実は、これは知人に「何かバカな密室トリックはないか?」と訊かれて苦し紛れにひねり出したものだ。その知人は推理作家を目指していて、今、長編ミステリを執筆中との由。一月末までに書き上げないといけないのだそうでが、密室ものにしようと思ったのに肝心の密室トリックが思いつかず、苦心していたそうだ。なんとかメイントリックは考えついたらしいが、密室トリック一つで長編を支えるのは苦しいので、本当の解決の前に提示する偽の解決が必要となった次第。そこで、
  1. 現実には不可能なほど馬鹿馬鹿しくて大がかりであること。
  2. しかし、ミステリで解決として提示されたら、それなりに読者が納得する程度のリアリティがあること。
  3. さらに、本当のトリックとかけ離れたメカニズムをもち、読者を誤導できること。
という三つの条件に合致するトリックを求められた。
 いろいろ考えた。犯人が被害者に変装して死体のふりをするとか、ドア先から窓の錠を見ると施錠されているように見えるような仕掛けを施し、死体発見時に本当にかぎをかけるとか、犯行後家を建てるトリックと双子の家を組み合わせたものだとか、その種のものだ。そしてようやくそこそこのものを思いついたのだが、そのトリックはここには書かない。あまりにも下らないので私の人間性を疑われてしまうかもしれないというのと、もし知人がそのトリックを小説に取り入れて、しかもそれが何かの間違いで世に出ることになってしまったら、ネタばらしになってしまうからだ。
 冒頭に掲げたトリックは状況設定が特殊すぎてボツにされたもの。まあ、こんなものを考えたと思ってもらいたい。
 その後、件の知人に聞いた話では、私の考案した密室トリックは結局使わないことにしたらしい。だから、ここに書いてしまってもいいのだが、状況説明がちょっと面倒なのでやめておく。

 全く関係ない話なのだが、ついでに書いておく。一昨日『洋菓子はじめて物語』(吉田菊次郎/平凡社新書)を読んだ。別に私はお菓子に特に関心があるわけではなくて、特に期待もせずに読んだのだが、雑学本としてなかなか楽しめた。「第一話 チーズケーキ物語」から「第十三話 デザート物語」まで、各章は若い女性の会話らしき不気味な文章から始まり、それを受けて筆者がそれぞれのお菓子の由来や変遷について語る、というスタイルになっている。著者のウェブサイトを見るとほかにもいろいろな本を書いているようだが、続けて別の本を読むつもりはない。

 もう一つ別の話。昨日少し触れた『オルゴールエイジ』(渡瀬のぞみ/蒼竜社)を読んだ。直球勝負の恋愛マンガで面白かった。作者のウェブサイトやその他の情報を総合すると、このマンガは1997年にホビージャパンから出版された(「渡瀬希美」名義)ものの再刊だそうだ。

 というわけで、今日のところはこれまで。

1.10094(2001/12/24) 500円

 今日、某ゲームショップでリーフの名作『誰彼』を買った。今年2月に出たゲームだが、あまりに名作の誉れが高いので、今まで怖じ気づいて手が出せなかったものだ。発売後10ヶ月以上経ってから買った理由はただ一つ、それは見出しのとおり(要するに500円で売っていたから買ったということなのだが、わかりにくかったようなのでいちおう補足しておく)
 その後、自宅に帰ってメールチェックすると、やたらと容量の大きい添付ファイルつきのメールが届いた。「求道の果て」のらじ氏からのメールで、添付ファイルを解凍すると……リーフの下川社長(会社名は「リーフ」ではなくて「アクアプラス」だけど、誰も気にしないだろうから、そのままリーフで通す)の顔写真がでで〜んと画面に現れた。
 いや、別にいいんですけどね……。いったいこのメールを何人くらいの人に送っているのか、ちょっと気にかかる(私を含めて4人に送っていたそうだ)

 話のついでになので、リーフの思い出話など。私が初めてリーフ作品を買ったのは『雫』のWindows版が出た時(98版のデモをゲームショップで見て気にはなっていたのだが、DOS/V機だったので遊ぶことができなかった)だった。冒頭の重苦しい音楽とテキスト、そしておよそ美少女ゲームとは思えないほど癖の強い絵柄にただならぬ雰囲気を感じているうちに、あれよあれよと物語に引き込まれてしまい、クリアするまで何夜も夜更かしをした。そして『痕』。前作よりはやや癖が少なくなり、一般受けするようになった(その点が少し物足りないので、私は今でも『雫』のほうを評価する)がストーリーテリングのうまさは相変わらずで、非常に楽しめた。今思えばあの頃がいちばんゲームをやっていて楽しめた時期だと思う。
 続く『To Heart』は予約して購入したが、もはや前二作ほど楽しめなかった。期待はずれというわけではなかったけれど、どこにでもある恋愛アドヴェンチャーゲームの枠にはまってしまったように感じたのだ。が、私の感想とは逆にこの作品は大ヒットし、リーフブランドをアイデス(今のF&C)やエルフに並ぶものとした。
 その後も私はリーフの新作が出るたびに買い続けた。でも、ツールの助けなしに完全クリアしたのは『To Heart』までだった。その一方で、全く無名のブランドであるTacticsの『MOON.』のデモに惹きつけられ、発売直後に買って全クリアしているので、決してゲームへの関心が薄れたわけではなかった……と思う。
 が、さすがに去年くらいから、だんだんゲームへの興味がなくなってきた。ゲーム業界が変質したというのも一つの理由だ。しかしそれ以上に私はゲームに飽きてしまっていた。相変わらずリーフのゲームは全部買っていたけれど、とりあえずエンディングを一つ見たら(たとえそれがバッドエンドであっても)それで満足して封印するようになっていた。いや、リーフはまだいいほうで、Keyだと『Kanon』は何とかクリアしたものの、『Air』は最初の2日目までで止まってしまったままだ。
 そんなこんなで今年に入り、2ちゃんねるなどで業界の裏話を見聞きすることは続けていてもゲームそのものへの関心はすっかり失せてしまっていた。だから、『誰彼』も買おうかどうしようか迷っていた。そこに、例の「葉鍵板2・14事件」(こう言ってわからない人は近所のお兄さんに訊くこと。説明するのは面倒なので)が発生し、結局今日まで買わずじまいだった、という次第。いや、違った。「あまりに名作の誉れが高いので、今まで怖じ気づいて手が出せなかった」というのが本当の理由だ。最初に書いておいて忘れるとは何事だ。

 どうでもいい昔話をしてしまった。さて、これから『誰彼』をインストールしようか……と思ったが、明日から仕事があるので、今日はもうやめておく。そして、今週末は東京へ行き、帰ってきたらもう一年が終わる。この一年はいったい何だったのだろう?
 結局、2001年中には『誰彼』をインストールしなかった。年が明けてからゲームをする気にはなったが、年末大掃除で発見した『月姫』を先に始めたので、しばらく『誰彼』は放置プレー状態になることだろう。

1.10095(2001/12/25) Weihnachtshistorie

 今日、冬の冷たい雨の中、仕事の都合で図書館へ行った。行きは歩きだったが、帰りは荷物も重く、寒くなってきたのでバスに乗ることにした。そして、バス停に立っていたときの話である。

 まだ若いのに疲れ切ったような表情の女性が道の向かい側をぼんやりと眺めながら2年前のクリスマスの出来事について話し始めた。その日も今日と同じように雨が降っていた。彼女は数ヶ月後に結婚を控えた婚約者と買い物をするために街へ出てきた。その年の12月25日は土曜日で、商店街には人が溢れていたという。彼女は人混みの中で恋人とはぐれた。だが、携帯電話を持っていたので、すぐに連絡がついた。商店街を抜けてすぐの大通りで落ち合うことになり、彼女は人の波を掻き分けて大通りのほうへ向かった。その間ずっと携帯電話で話しながら。
 私は携帯電話が好きではない。特に大勢の人々の前で周りを省みずに会話にふけるのは見苦しいと思う。待ち合わせ場所を決めたのなら、いったん電話を切ったらいいのではないか。だが、そんなことを言っても仕方がないので、彼女の話の続きに耳を傾けることにした。
 彼女の恋人は大通りを渡って向かい側で待っていた。彼女が近づく姿に気づき、手を振った。「おおい、こっちだ」とでも言ったのだろう。大通りを挟んでいても声は電話越しに聞こえるし、彼が手を振っているのもはっきりと見える。そこで彼女は駆けだした。車の数はまばらで、彼女が車道に飛び出したときにはちょうど車の流れが途切れていた……はずだった。が、間の悪いことに横道から大通りに貨物用の軽トラックが出てきたところだった。彼女は「危ない!」という恋人の声を聞いた……とまでは詳しく語らなかったのでわからない。
 要するに、彼女の恋人は彼女を助けるために道に飛び出し、彼女のかわりにトラックにはねられた、という話だ。意識不明の重態のまま彼はそれから一年半生きて、今年の夏に息を引き取ったという。
 本人にとっては辛い経験だろうと思う。しかし、傍観者である私は何か嫉妬にも近い感情を抱いてしまった。その感情を分析すると、こうだ。彼女の体験はドラマティックである。本当にドラマ化したなら、相当陳腐なものになるだろうが。彼女は自らの体験をある時は淡々と、またある時は感情を込めて他人に語ることができる。それに比べて私はどうだろう? だらだらと無為な日々が蓄積されていくだけで、他人に語るべき経験など何もない。悲恋物語の主人公にはなれないのだ。愛する者を失った思い出を糧に生きてゆくこともできないし、逆に私の思い出を糧に生きてゆく人もいない。
 どうしようもなく寂しい気持ちがこみ上げてきた。今ここで彼女の経験を買い取ることができるのならそうしたい、と不埒なことを考えたほどだった。だが、経験は売買の対象にはならない。
 考えてみれば、バスを待つ間に見知らぬ人と雑談を交わし、このような話を聞くのも一つの経験ではないか? その「見知らぬ人」が暗い過去をもつ若くて美しい女性だとすれば、たとえ二度と会うことはないとしても、ちょっとした思い出にはなるのではないか? 経験そのものではなくて、その意味づけこそが重要なのでは?
 一瞬、そのような想念が浮かぶ。しかし、すぐに私はそれを振り捨てた。このような想像は気休めにしかならない。私はやはり砂を噛むような生活を続けるしかなく、その日常には何のドラマも起こりはしないのだ。

 空想はバスの到着によって破られた。しとしとと雨の降る中たった一人でバスを待ち続けて体の芯まで冷え切ってしまっていた私は、暖房のきいたバスの中でようやく一息ついた。
 なんだかカーター・ディクスンの『殺人者と恐喝者』みたいな話で恐縮だが、いちおう嘘は書いていないつもりだ。見出しはハインリヒ・シュッツの『クリスマスオラトリオ』の原題。楽曲の形式としてはオラトリオなのだが、原題を生かして『クリスマス物語』と訳すことも多い。上の文章と何の関係もないことは言うまでもない。

1.10096(2001/12/26) 最後から二番目の(  )

 この見出しの空欄に「真実」を入れるか「思想」を入れるかによって、あなたの関心の傾向がわかる。もちろん、どちらも思いつかない人が大部分だろうし、それはそれで結構なことだ。

 さて、今日は『21世紀本格』(島田荘司・編/カッパ・ノベルス)を読み終えた。あ、違った、「島田荘司責任編集」だった。でも単なる編者と何か違いがあるのだろうか? 「責任」の二文字を冠しておいたところで、最終的に作品の内容についてそれぞれの作者だと思うのだが。
 ここで各作品について感想を述べたいところだが、残念ながら今日の私にはあまり時間がない。週末の旅行の準備をしなければならないのだ。そこで全体についてのおおざっぱな印象を簡単に書いておくだけにする。
 目次を見て作品の配列の仕方にちょっとした疑問を感じた。編者である島田荘司の『ヘルター・スケルター』が最初から二番目に配置されていたからだ。これは「21世紀本格」の見本として他の執筆者に送付されたものだというから、ふつうに考えれば一番最初か一番最後に置かれるべきものだろう。が、この疑問は最初の『神の手』(響堂新)を読んで、続いて『ヘルター・スケルター』に取りかかり、その終結部まで読み進めたときに氷解した(と思った。以下、私の想像を述べるが、それが間違っていることはこの本を最後まで読んだ人にとっては言うまでもないだろう)。『ヘルター・スケルター』を『神の手』の次に読ませることでミステリとしての効果がより増すのである。アンソロジー全体のタイトル『21世紀本格』、「二十一世紀の本格ミステリーのありようについて」語る執筆依頼状、そして『神の手』をはじめとする他人の手による諸作が皆『ヘルター・スケルター』のために奉仕しているのだ。執筆依頼が3月で当初の締切が7月ということから考えると、8月に送られた『ヘルター・スケルター』がどの程度各執筆者に影響を与えたかは定かではないが、読み比べた限りでは一編を除くすべてが『ヘルター・スケルター』に引きずられ、そして最後までかじり付けずに脱落したかのような印象を受ける。
 いわば他の作者たちは島田荘司の偉大さを誇示するための踏み台にされたともいえる。が、それが悪いというわけではない。本のタイトルや構成を考えるのは編者の特権だとしても、他の執筆者は単なる引き立て役にならない作品を書く権利を有していたはずだから。
 唯一、踏み台にも引き立て役にもならずに独自の世界を作り上げているのが『交換殺人』(麻耶雄嵩)だ。「二十一世紀の本格ミステリー」なる理念にあえて反抗しているのか、それとも虚心坦懐にいつもの麻耶節を披露しただけなのかは判然としないが。この作品が最後から二番目に配置されていることも示唆的だ。いちばん最後だと目立ちすぎる。かといって『ヘルター・スケルター』からは遠ざけておきたい。そのような思惑があったのではないか。
 繰り返すが、これは私の邪推であって、作品の配列を決める際に編者がこのような事を考えていたのではないことは明らかである。私は素直にこの本を最初のページから順番に読んでいった(途中、何度か『交換殺人』を先に読もうとする誘惑に駆られたが)ので、妙な妄想がどんどん膨らんでいっただけのことだ。
 さて、『ヘルター・スケルター』と『交換殺人』以外の諸作についてはどうだったか。正直言って評価しづらい。『神の手』も『メンツェルのチェスプレイヤー』(瀬名秀明)も面白かった。しかしミステリ固有の面白さを味わわせてくれたわけではない。『トロイの木馬』(森博嗣)はよくできたサスペンス小説だ。しかし『交換殺人』の後で読むとかすんでしまう。『百匹めの猿』(柄刀一)はミステリとしてのどんでん返しに工夫が凝らされている。しかし「百匹めの猿」というモティーフの扱いがこなれていない。そして、残りの二作は……何も言うまい。今の私にはあまり時間がないのだから。
 ところで、作者名のローマ字表記は、森氏が「MORI Hiroshi」になっているほかは、個人名+姓の順になっていた。森氏だけ表記法が違うのはたぶん本人の意向によるものだと思うが、この際すべて姓+個人名の順に統一してもよかったのではないか。

 「求道の果て」の12/25付の記事を読んでこのページに辿り着いた人のために。
 「ヒカルの碁 碁盤」(日本棋院が『ヒカルの碁』のキャラクターの絵を書いた初心者向けの碁盤を発売した、という話。表が9路盤で裏が6路盤になっているのが特徴)について。6は9より小さいということ、そして6は偶数であるということ(ふつうの碁盤は19路盤だが、初学者向けに9路盤や13路盤を使うことはある。しかし9路盤より小さい碁盤ではほとんど勝負にならないし、天元のない偶数路盤では後手がマネ手作戦に出たときに困るの。よって「6路盤」は多少とも囲碁を知っている人なら首を傾げる代物である)、このようなごく当たり前の事柄が時には人を大いに驚かせるということもある。

1.10098(2001/12/27) 時間がないときほどどうでもいいことをしたくなる

 まず、お知らせ。明日、私は旅行に出る。帰ってくるのは30日の深夜予定だ。その間、「たそがれSpringPoint」は更新を停止する。また大晦日はいろいろと忙しいので、これが年内最後の更新になるかもしれない。
 もう一つ、某同人誌を見てここにアクセスした人へ。こちらに、その文章がある。(コミケ初売りの同人誌に原稿を書き、「たそがれSpringPoint」のURIも書いておいたので、それを見てアクセスした人のための注意書き。その作戦が功を奏したのかどうかは不明だが、12月30日から31日にかけてはふだんよりアクセス数が少し多かった)ついでに他の文章も読んでくれると嬉しい。掲示板に一言感想でも書いてもらえると、さらにうれしい。

 昨日『21世紀本格』の感想を書いたが、その際『AUジョー』(氷川透)と『原子を裁く核酸』(松尾詩朗)の二編については何も述べなかった。何も言うべきことがなかったのではなくて、あまりにもツッコミどころが多かったので、あえて控えたのだ。そうやって一旦は抑えたものの、やっぱり我慢できなくなってきた。そこで、一つだけ引っかかった点を書いておく。そう、一つだけだ。全部挙げている時間は私にはない。
 『原子を裁く核酸』に登場する刑事の台詞に
それでその男(死体を検視解剖した人物のこと――滅・こぉる註)、死因が明白だから行政解剖だというのに、気まぐれを起こして、わざわざ三人の血液を調べたのだそうだ
という箇所があった。私は「えっ?」と思った。三人の死者のうち二人は明らかに殺されていて、しかも上半身と下半身を分断された状態で発見されている。殺人事件の捜査に関する解剖なのだから当然司法解剖ではないのか、と思ったのだ。そこで調べてみたところ、司法解剖にするか行政解剖にするかという処理方法は県によって異なるということ(司法解剖は国費、行政解剖は都道府県費、と費用負担に違いがあるので、行政解剖が適当な場合でも変死体として無理矢理司法解剖する地方があるらしい)がわかった。意外だった。ともあれ、『原子を裁く核酸』の事例ではどうやら司法解剖で間違いないようだ。

 このようなツッコミをすると、自分が小説の作者よりも偉大な存在になったかのような錯覚に囚われることがある。これは恐ろしいことだ。指摘した内容が正しくてもそれは小説のごく一部分に過ぎないわけだし、同程度の小説を書いてみろと言われても書けるわけがない。また、いい気になって指摘したことが間違っていた場合、恥をかくのは自分のほうだ。いや、指摘した者が恥をかくだけですめばいいが、間違いに気づかないまま世間に広まっていったなら作者を不当に貶めることになる。
 でも、やっぱりミステリを読むとアラ探しをしたくなるんだなぁ。
 アラ探しをしたくなる理由を考えてみた。これは一種のSMプレイではないか、というのが今の私の考えだ。ミステリはメタレベルのSM小説だという説を聞いたことがある。ふつうのSM小説では、作中にサディストとマゾヒストが登場するのだが、ミステリの場合は作者がSの立場でMである読者を苛めるのだ。「ほら、解けるものならこの謎を解いてみろ」と作者は言葉で読者を嬲り(「読者への挑戦状」など)、読者は「ああ、騙された〜。いいーっ、もっと騙して〜」と歓喜の声をあげる。作者のいたぶりのテクニックが未熟だと読者は欲求不満に陥る。これもSM的な現象だ。
 で、ミステリのアラ探しというのは、SとMの立場が逆転した状態なのである。読者は小説のごく些細なミスをあげつらって作者を罵倒し、作者はそれを甘受しなければならない。その時、作者が悦楽の境地にあるかどうか小説書きでない私にはわからないのだが、いくら欠点を指摘されても一向に改めようとしない作家は、たぶんそのような状況を心の奥底で望んでいるのだろう。
 ……などという与太話はさておき、昨日「ミステリーの憂鬱」(以下、批判的内容の文章なので、「たそがれSpringPoint」の基本方針には反するがリンクはそのままにしておく。リンク先URIの変更に対応できずデッドリンクになるかもしけないがご容赦願いたい)というサイトを見つけた。なかなか面白い。だが、ちょっと勇み足をしている箇所も見受けられる。たとえば『十角館の殺人』(綾辻行人)についてコメントした文章で、
犯行動機と犯罪とのあいだの不均衡といった問題(現在の新本格派の多くに見られる)を除けば、また、「ヴァン・ダイン」を「ヴァン」と呼ぶ奇妙さ(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを「ヴァン」と、エーリヒ・フォン・シュトロハイムを「フォン」と呼ぶようなものです)を除けば、ストーリーにはっきりとした破綻はありません。
と書いているが、いかがなものか。『十角館の殺人』で「ヴァン」と呼ばれているのはヴァン・ダインではなくて、日本人の学生だ。ベートーヴェンのことを「ヴァン」と呼ぶのは確かに奇妙だろうが、ベートーヴェンの大ファンの日本人に「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」というあだ名が付けられ、この長い名前が省略されてたまたま「ヴァン」と呼ばれるようになったとしても別に奇妙なことはないだろう。次に、もし「ヴァン」が駄目ならほかにどう呼べばいいのか、という問題もある。まさか「S」と呼ぶわけにもいくまい。最後に――これがいちばん重要だと思うのだが――ヴァン・ダインの小説に登場する作者と同名の語り手は、名探偵ファイロ・ヴァンスに「ヴァン」と呼ばれている。
 後から読み直すと、上の段落は論旨が不明確で、ちょっとおかしなところもある。たとえば「ヴァン」が駄目なら「ダイン」と呼べばいいだけで、この点は引用文の筆者に対する有効な指摘とはならない。最後の部分――ヴァン・ダイン自身が作中で「ヴァン」という略称を使っているということ――だけ残して書き直そうかとも思ったが、最初にこの文章をアップしてから日が経ってしまったので、書き直しではなく註釈という形で訂正する。
 この最後の点を確認するために、本棚の奥底から『僧正殺人事件』を引っぱり出してきた。確か、この本を読んだのは小学生の頃だった。懐かしい。しばし追憶に耽ってしまった。今の私にはこんな小説は読めるだろうか?

 こんな事を書いている間に、旅行前の最後の夜も更けてきた。結局カタログチェックはほとんどしていない。なんだか惰性だけで動いているような気がする今日この頃だ……と締めくくって今日はおしまい。