1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10001(2001/09/20) 死

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010920

人は誰でもいつか死ぬ。この一見すると自明な真理だと思える事柄について、多くの人はあまりまじめに考えていないように見受けられる。たとえば、「どうせいつかは死ぬのだから、生きているうちにやりたい事をやっておかないと損だ」などと言う人がいる。このような意見は私にとっては全く不可解だ。少し考えれば、死んでしまったら損も得もないだろうということはわかりそうなものなのに。また、どうして人が死ぬことと、損得の判断を「だから」で結びつけることができるのかも、よくわからない。

そういう私も死について特に深く考えているわけではない。せいぜい一日に数分から数十分程度か。続けて一時間も考えていると頭が痛くなる。いや、続けて考えていると思うのは間違いで、実は途切れ途切れにしか考えていないように思う。その証拠に、私はまだ死についてまとまった考えをもっていない。そもそも、まとまった考えをもつことができるものかどうかもわからない。

もしかすると、死以上に重要な問題はこの世にはないのかもしれない。だとすると、いちばん重要な尊柄について何の定見ももたないのは恥ずかしい。ほかの人はどうなのだろうか? 私と同じような気恥ずかしさを感じているのだろうか? それとも死はたいした問題ではない、と考えているのだろうか? あるいは、私とは違って、しっかりとした意見をもって日々思索を深めているのだろうか?

たまに誰彼なしに尋ねてみたくなることがある。けれども、死に関する話題は時と場合を選ぶ。おめでたい場でそのような質問をするのははばかられるし、日常の雑談でも出しにくい話題だ。さらに場違いなのは、他人の死に立ち会っている時。葬式でお悔やみを述べる際に「ところで、死についてあなたはどのように考えますか?」などとは口が裂けても言えまい。要するに、こんな事は他人には訊けないということだ。

というわけで、誰にも相談せずに私がひとりであれこれと考えてみたのだが、死よりも重要な問題が一つだけあるのではないか、という気がする。それは……ちょっと眠たくなったので、以下次回

1.10002(2001/09/21) 逆行

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(以下、2001年9月22日の補足)

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1.10003(2001/09/22) 買え! 読め!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010922

今日、面白いマンガを読んだ。『おさなづま』(森高夕次・作/あきやまひでき・画/双葉社Action Comics)だ。知人から貸してもらって5巻まで読んだのだが、続きが読みたくてたまらなくなり、ついでに1巻から読み直してみたかったので、既刊本(9巻まで)を全部買った。

どのようなストーリーなのか、ここでは書かない。そして、感想も省略。ただ、「買え! そして、読め!」とだけ言っておく。

雑誌連載は既に終わり、あとは第10巻が近々出て完結するらしい。早く最後の巻を読みたいという気もするが、それでおしまいかと思うと、読まないでおきたいという気もする。困ったものだ。

1.10004(2001/09/24) アクセスカウンター

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010924

このサイトの正式公開は10月1日を予定しているが、それに先だって今日からアクセスカウンターをつけることにした。

1.10005(2001/09/25) 死再論

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010925

先日書いたという文章は尻切れトンボになっていた。その文章の最後で書こうと思っていたことは、未来についての知識の問題のほうが死についての問題よりも重要ではないか、ということだった。「私はいつかは死ぬ」ということは疑い得ないことのようにも思えるが、よく考えると、これは未だ到来していない未来の出来事について語っている。では、私はどうやって未来の出来事を確定的に語ることができるのか? この問題が解決しない限り、絶対不可避の死、という考えは空虚なものになるだろう。よって、死の問題よりも未来についての知識の問題のほうが重要だ、と。

だが、さらによく考えてみると、そもそも諸問題の重要性は、それらの問題相互の論理的依存関係だけで決まるものではないだろう、という気がしてきた。すなわち、Aという問題を取り扱うためには、必ずBという問題を引き合いに出さざるを得ず、Bが解決しているか、または少なくとも解決の見通しがたっていない限りはAについて有意義な考察を行うことができない、という事態が成立しているとしても、必ずしも問題Aより問題Bのほうが重要とは言えないのではないか、といてうことだ。問題の重要性は、その問題への我々の関心のあり方によっても違ってくるはずだ。たぶん、多くの人々にとっては、未来についての知識の問題という一般的な事柄よりも、自分の死の問題のほうが重要だろうし、死が差し迫った状況でなければ、明日の献立とか、週末の予定などのほうが、より重要ではないだろうか。

そんなこんなで、数日放ったらかしにしておいたこの問題については、このコメントをもって一時休止ということにしておく。

さて、今度はちょっと別の問題について考えてみる。それは、「死とはいったいどういうことか?」という問題だ。実のところ私にはよくわからない。私はたぶんまだ死んではいないし、これまでに死んだことは一度もないはずだから。仮に私が幾千もの死を経験しているとしても、その時の記憶は全くないので、同じことだ。

そこで、死ぬということについて一般にどのように考えられているかについて考える。私のみるところでは、死については三つの型の考え方があり、それらが混じり合って、死についての(あまり整合的とはいえない)観念を形作っている。第一に死とは消滅であり、第二に死とは変化であり、第三に死とは移動である。

今挙げたのと逆の順に説明しよう。まず「移動としての死」。これは簡単で、この世から去って、あの世とか黄泉の国とかメイド冥土とか天国とか極楽とか地獄とか煉獄とか、どこかはわからない別世界へと行ってしまう、という考えだ。「逝く」は「行く」に通じる。逝ってよし!

次に「変化としての死」。死ぬということはどこかへ行ってしまうことだ、と言ったところで、死体は別に歩いていくわけではなく、ただ徐々に腐敗して異臭を放つだけだ。もし人物を人体と同一視していいとするなら、死者とは死体のことに他ならない。死者は去らず、ただ朽ち果てるのみ。

最後に、私はこれが本命だと思っているのだが、「消滅としての死」という考え方がある。どこかに行ってしまうわけでもなく、何かに変化するわけでもなく、ただ端的に「いなくなる」、これが死ぬということだ。ある人物aがある時点t0に死ぬということは、任意の述語Pについて、Pa,tx(0≦x)は真理値を持たないということだ。いや、この分析にはいろいろと穴がありそうだ。「1905年に徳川家康は征夷大将軍だ」と言えば偽ではないのか? うむ、困った困った。

上の論理式もどきについて若干の説明をしておく。死を定義するのは難しいので「死」という言語表現しようとしたもの。それも「死」という語を単独で他の表現で置き換えるのではなくて、「……は、○年○月○日に死んだ」というような文のもつ一般的な特徴を説明することで、逐語的な定義に代えるという戦略である。

死ぬということは消滅するということであり。消滅するということはいかなる性質をも持たないことだとするならが、死者のもつ性質について語るのはナンセンスである。ちょうど「最小の素数は緑色である」という主張がそうであるのと同様に。ただし、「最小の素数は緑色である」はナンセンスではなくて、明白に偽であると考えることもできる。どちらが正しい考えなのか、私には判定できない。

1.10006(2001/09/26) 助手席

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010926

今日は、どうでもいい話。

自動車には運転席がある。そこには運転手が座って、自動車の運転を行う。そのための席だから「運転席」。ここまではいい。

では、運転席の横にある助手席に座るのは助手なのだろうか?

ふつうの乗用車は一人で運転できるので、助手は必要ない。荷物を運搬するトラックなどには助手が乗ることがあるが、その場合の「助手」とは運搬業務の手助けをする人のことであり、運転助手ではない。ということは「助手席」という言葉は、実状にあっていない不適切な言葉ということになるのだろうか?

言葉には歴史がある。バスや電車にある吊革はもともと文字通り皮革製品だったが、今では革で作られた吊革はほとんどない。同様に、昔は自動車には運転手のほかに助手が乗ることが一般的だったのかもしれない。もしかすると、クラッチの操作を手伝ったのかもしれないし、悪路走行中にタイヤがぬかるみに填ったときに押し上げる役を受け持ったのかもしれない。いや、もしかすると「助手席」の歴史は自動車よりも古く、馬車や牛車に由来するのかもしれない。

いろいろと想像はできるが、どれも「かもしれない」に過ぎない。案外、助手席は運転助手とは関係なくて、なんとなく何かの手助けをする人がよく座る席だったのかもしれないのだ。

というわけで、特に結論らしい結論はない。本当にどうでもいい話だった。

1.10007(2001/09/27) 毎週一冊

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010927

私は毎週一冊ずつ必ず新書を読むことにしている。このルールを自らに課してから、まだ一度も破ったことがないのが自慢だ。ちなみに、これを決めたのは今から約2時間ほど前のことだ。我ながら、意志の強さに驚くばかりだ。

私は本が好きだが、あまり読むのが早いほうではない。おまけに一日の読書時間は半時間からせいぜい2時間の間なので、なかなか読書ははかどらない。そこで、何か"縛り"を設けることで、読書ペースを上げようと思ったのが、このルールを決めた理由だ。で、どうして新書かといえば、

  1. ハードカヴァーより安価で、金銭的な負担が少ない。
  2. 持ち運びに便利で場所をとらない。
  3. 電車の中でも人目をはばからずに読むことができる。
  4. 小説より読みやすく、肩が凝らない(異論もあるだろうが、私個人のローカルな事情だということをご理解頂きたい)。
  5. 読むと少しは賢くなったかのような錯覚に浸ることができ、優越感を味わえる。ひいては、精神衛生の向上に寄与する。
  6. たいていの場合は実生活に役に立たないので、気軽に読み捨てることができる。

と、これだけの理由がある。これだけの理由なら別に新書ではなくて文庫本でも構わないのだが、どうも文庫サイズで新書的な内容をもった本にあまり面白いものがないような気がする。最近読んで面白かったのは、『秘境駅へ行こう』(牛山隆信/小学館文庫)くらいだ。経験則なので、あまり確かな根拠があるわけではないが。

さて、私が決めたルールにはいくつか細目がある。

  1. 毎週一冊というペースは最低条件であり、週に二冊読むことを妨げない。
  2. ジャンルに幅を持たせるために、同じジャンルの本を続けて読まない。
  3. なるべく新しい本を選ぶ。できれば新刊に限りたいところだが、毎月私の好みの本が出るとは限らないので、数ヶ月前の本でも可とする。
  4. 一度、本を開いたなら、極力最後まで読み終えるように努力し、読みかけのまま別の本に手を出さない。もし、どうしても読み続けられない本があれば、見切りをつけてしまう。
  5. 一冊読んでいる間に、次に読む本のことをあれこれ考えない。読書計画の類は排除し、書店の本棚の前に立ったときの直感を重視する。
  6. (事情により欠番)
  7. 本は必ず新刊書店で買う。古書店(ブックオフ等の新古書店を含む)では買わない。
  8. 読んだら、なるべく早めに内容を忘れる。

上記の各々について説明をするときりがないので、最後の二点のみについて。

まず古書店で買わない理由だが、別に近年出版業界を揺るがしている新古書店問題への配慮ということは全然なくて(実際、私は小説やマンガはよく新古書店で買っている)、どうしても置いてある本に偏りがあるからだ。「どうしてもこの一冊が読みたい!」という強い動機づけがあるわけではないので、漫然と古書店の棚から本を選ぶと、偏りをそのまま受け入れることになってしまう。

もう一点は、新書の性格による。新書は学術的な内容のものが多いが、大部分は大衆向けの啓蒙書であり、それによって専門的な知識が身につくわけではない。中途半端は知識はあまり役に立たないし、場合によっては危険ですらある。だから、新書を読んで教養を身につけようとか、幅広い視野を身につけよう、などといった色気を出さないほうが身のためだと思うのだ。もちろん、これは私が読んでも役に立たないというだけのことなので、一般に新書は役立たずの駄本だと言いたいわけではない。

さて、最後に今日読んだ本を紹介しておこう。『呆然! これはびっくり地方自治ニュース――改革をはばむ「7つの大罪」』(チホウ政治じゃーなる・編/角川oneテーマ21)だ。

少しだけ感想を書いておく。冒頭の「議長ポストを押しつけ合う派閥拮抗議会の奇妙な風景」がなかなか意表をついていて面白かった。原理的にはあり得る話なのだが、一般的な通念から考えて、実際にはまず起こらないだろうと思われる現象が現実に起こってしまったという希有な例。ふとチェスタトンの『木曜の男』を連想した。もし、書店でこの本を手にとったなら、この項目だけでもざっと一読することをお勧めしよう。そして、少しでも興味を惹かれたなら、この本を買っても損はないと思う。

1.10008(2001/09/28) 那智黒は試金石である

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010928

一つの言葉に複数の意味があるということは、それほど珍しいことではない。たとえば「国体」という言葉には「国民体育大会」と「国家体制」という二つの意味がある。両者は全く別の事柄なので、前者しか知らない人は「国体護持」という四字熟語を見ても何のことか理解できないだろう。

さて、タイトルにも掲げた「那智黒は試金石である」という文は、わかっている人にとっては当たり前のことを述べている何の変哲もない文に思えるが、そうでない人には全く意味不明だろう。ここでは「那智黒」「試金石」ともに原義で用いているのだが、「試金石」は今では比喩的な用法のほうが一般的であり、「那智黒」も囲碁ファンを除けば黒あめの商品名として知られている(とはいえ、老婆と黒人が踊る奇妙なコマーシャルはどうやら関西ローカルだったらしく、最近は放映されていないようなので、「那智黒」という言葉そのものを知らない人も多いだろう)。

それはともかく、なんでこんな事を書いたかといえば、最近那智黒が試金石だと知って大いに驚いたからであり、特に他意はない。まあ、いつもどおりのどうでもいい雑文だ。

補足

那智黒は碁石(黒石)に使われる石材で、昔、熊野地方の那智海岸でよく採取された。原石は熊野川の支流である北山川にあり、それが川の流れに揉まれつつ、海まで辿り着いたもの。しかし、北山川にダムが建設されてから那智黒石の流出は止まり、今では海岸の石はほとんど採り尽くされてしまった。なお、試金石というのは、本来は文字通り鉱物が金を含むかどうかを確かめるために用いる石のこと。那智黒石は金を含む鉱物と擦り合わせると、金の粒子が付着しやすいので、試金石として用いられた。

1.10009(2001/09/29) 今日のお買い物

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1.10010(2001/09/30) 住所と名前

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0109.html#q010930

このサイトは、明日10月1日に正式公開する。これまで誰にもURIを伝えていなかったが、明日には知り合いの掲示板に書き込んだり、通知メールを送ったりするので、たぶんある程度のアクセスはあるだろう。

ところが、私にはまだハンドルがない。ここでは「たそがれSpringPoint管理人」と名乗っておけばいいが、他のサイトの掲示板に書き込むときには、どうしてもハンドルが必要だ。まさか「名無しさん」と名乗るわけにもいくまい。これまでに私が使ってきたハンドルは、すべてこの機会に捨てて、一本化しようと思っているのに、肝心の名前が決まらないのでは具合が悪い。

今、私の目の前にはメッコ○ルの空き缶がある。よし、これにしよう。メッ○ールにちなんで、「滅・こぉる」にしよう。そうしよう。

本当にそれでいいのか?