1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.1x(雑文過去ログ) 出ぬ杭は打たれぬ

1.11345(2005/04/01) 恐ろしき四月馬鹿

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050401a

注意! この記事は4/1付ですが、実は3/31に書いています。

「もしかしたら……」と思ったのは海燕オフのときだ。

では、ラノパ絡みでデリケートな話題が全くなかったかというとそういうわけでもない。メイド喫茶で話をしている時に、誰からともなくある予想が出てきた。その予想が正しければ、来月早々に事件が勃発する可能性があるのだが……いや、さすがに今年はそれはないか。

一旦はその予想を打ち消したものの、疑惑はその後膨れあがる一方だった。連日のように気合いの抜けた簡易更新が続き、そして昨日はついに一度も更新されなかったではないか。

ああ、何と恐ろしいことだろう。あの人はまた去年と同じ事を繰り返すのだろうか。ラノパに協力も協賛もしていない全くの門外漢である私にとっても、その行為の帰結は容易に想像でき、戦慄を禁じ得なかった。

そして、とうとう運命の日、4/1が到来した。私は恐る恐るこのサイトにアクセスする。きっと予想は外れているに違いない。そう、昨日までと同じように、トップ画像の下にずらりと書影が並んでいて、その下には「〜今日の名台詞〜」があるに違いない。そんな淡い希望を抱きつつ……。

1.11346(2005/04/01) ピンポイント

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050401b

昨日MYSCONまでに読み終えることはできなくても、少しでも『最後の審判の巨匠』を読んでおきたいと書いたが、結局睡眠時間を削って最後まで読んだ。あと10分くらいで家を出ないと夜行列車に乗り遅れてしまうので詳細な感想は書けないが、巻末の「ペルッツ問答」について一言だけ書いておく。

的を絞りすぎ。

既にスズキトモユ氏が指摘している点のほか、もう一箇所思わず笑ってしまった箇所があったのだが、さすがにこれは……。

1.11347(2005/04/04) 後悔ばかりが人生だ!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050404a

疲れました。

1.11348(2005/04/05) MYSCON6レポート

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050405a

はじめに

これは去る4/2〜4/3に開催されたMYSCON6のレポートである。ただし、私の言動や見聞を逐一記述しているわけではなく、適当に端折っている。会場でお会いした方々すべてをこのレポートで取り上げることはできなかったので、もしかしたら無視されたと感じて不愉快な思いをされる方もいらっしゃるかもしれないが、このサイトでは一部の特定の人々との社交よりも不特定多数の人々への情報提供を重視することにしているので、その点をご理解のうえご寛容をお願いする。

以下の文中ではなるべく人名やサイト名に誤りがないように注意したつもりだが、認識能力に難のある私のことなので、思いも寄らない大間違いをしでかしている可能性があるので、鵜呑みにされないよう。また、サイト持ちの人に言及する場合でもリンクは省略している。興味のある方はMYSCON公式サイト参加者名簿を参照されたい。

ミステリは存在するのか?

「ミステリ」という語が存在することは疑い得ないが、その語によって指し示される対象が存在するかどうかは疑うことが可能だ。

語があるということ、または、語が有意義であるということから、その語に対応する事物が存在するということは一般には帰結しない。たとえば、「サイドブレーキ」という語には対応する事物が存在するが、「エンジンブレーキ」には対応する事物は存在しない。誤解を恐れずに平たく言えば、エンジンブレーキは存在しない。

では、「ミステリ」は「サイドブレーキ」に類する語なのか、それとも「エンジンブレーキ」の類の語なのか? 言い換えれば、ミステリは存在するのか、それともしないのか?

「本格ミステリ」の場合なら簡単だ。私見では、「本格ミステリ」はいかなる対象をも指示しない。かつては「本格ミステリ」が何らかの対象を指示したかもしれないが、もはや「本格ミステリ」は指示機能を失っている。これは、対象に変化が生じたためではなく、語義が変化したためである。

「ミステリ」については、私は「本格ミステリ」の場合ほどはっきりとした立場をとることができない。私は唯名論に心惹かれるので、なるべくなら文芸上のジャンルなどという抽象的な存在者にコミットせずにすませたいという欲求がある。しかし、仮に抽象的対象の存在を容認するなら、ミステリの存在をあえて拒絶する理由はないように思われる。確かに「ミステリ」の適用範囲は曖昧で明確な線引きはできないが、「本格ミステリ」ほどの混乱があるわけでもない。

とはいえ、ミステリが存在するという立場を強固に主張する材料が乏しいことも事実である。ミステリが存在するというなら、ミステリに固有の特徴があってしかるべきだろう。他のジャンルの小説にはなく、ただミステリにのみ見られるような特徴が。そのような特徴を明確に指摘できない限り、ミステリが存在するという主張は根拠薄弱なものとならざるをえない。

ミステリにおけるフェアプレイ

もしミステリが存在するということができ、かつ、ミステリをミステリたらしめている特徴を示すことができるとすれば、そのような特徴の候補として何が挙げられるだろうか? 謎と解決、推理と探索、論理的な世界構築、様式への強い意志……などなど。その中で私がもっとも有望だと考えるのがフェアプレイの理念である。私の知る限り、フェアプレイが問題になる文芸ジャンルはミステリ以外にはない。また、極論になるが、ミステリにおいては常にフェアプレイを問題にしうる。

ミステリとはフェアであることが義務づけられた小説である。

これは現段階では仮説に過ぎない。異論や反論もあることだろう。だが、今は考えの筋道を簡単に述べるため、想定される批判から目を背けて先に進むことにしよう。

フェアであるということはミステリの面白さとどう関わっているのか?

あるミステリを俎上に上げてフェアかアンフェアかが議論の的にるとき、次のように言う人がいる。「フェアプレイなんてどうでもいいよ。要するに面白ければいいんだ」と。このように言う人はもしかすると瑣末事に拘る人々を高みから見下ろしている気分なのかもしれない。だが、議論の当事者の立場からみれば、フェアプレイを巡る議論はまさに面白さを巡る議論の系にあるのだということを理解しない愚見にすぎない。文句があるならミステリにおいてフェアプレイが面白さと無関係であることを論証してほしい。

フェアプレイとは一つの規範であり、規範は面白さとはいちおうは区別される。だが、フェアプレイという規範はそもそもミステリの面白さを担保するための要件として発生し、整備されてきたものなのであるし、具体的な作例を検討する場においても、通常は面白さと不即不離の関係にあるものとして捉えられている。むろん、フェアなら面白くてアンフェアならつまらない、というような単純な話ではないが、かといってフェアプレイと面白さが無関係だというわけでもない。

では、フェアプレイはミステリの面白さにどの程度関与しているのだろうか? これは一概にはいえない。ある種のミステリではアンフェアであることがほぼ致命的な欠陥とみなされるが、別の種類のミステリではフェアかどうかはさほど大きな意味を持たない。大雑把にいえば、フェアプレイはミステリとしての面白さと密接に関わっているが、小説全体の面白さのうちミステリとしての面白さが占める割合がまちまちであるため、フェアプレイの比重も作品によって異なるということになる。

ただし、「ミステリとしての」という表現は問題含みであることは自覚しておかなければならない。便利な言葉ではあるが、果たして小説全体からミステリ部分を切り出して、その面白さを値踏みすることは可能なのだろうか? もし可能だとしても、そんなことをしてもいいのか?

叙述トリックとゲーム型ミステリ

ミステリにとってフェアプレイが非常に重要であるということを認めたとしても、その事からフェアプレイの具体的な規定が容易に取り出せるというわけではない。何がフェアで何がアンフェアかは具体的な作例の検討、そして諸作品の検討の積み重ねを通じてしか語ることはできない。

先に述べたように、ミステリの中でもフェアプレイが特に問題にされる種類の作品と、あまり問題とならない作品がある。また、上の仮説によれば、フェアプレイが全く問題にならないならば、それはミステリではない。少し脱線すると、フェアプレイを全く問題にしない人がいれば、その人はミステリ読みではない。

さて、フェアプレイが大いに問題になるミステリは大きくわけて二種類ある。一つは、作者が読者に対して謎解きを迫るタイプの小説である。これを「ゲーム型ミステリ」と呼ぶことにする。もう一つは、叙述トリックを核に据えた小説である。こちらは「叙述ミステリ」と呼ぶことにしたい。なお、「ゲーム型ミステリ」「叙述ミステリ」ともこの文章を簡単にするために便宜上用いるだけであり、特に推奨したり普及させようとしたりする意図は私にはない。どちらかといえば「叙述ミステリ」などという語はあまりすすんで使いたくはないくらいだ。

ともにフェアプレイが問題になるという点では共通していても、問題する仕方をみればゲーム型ミステリと叙述ミステリはかなり対照的である。前者では、地の文で嘘をつかないこと、などといったルールはほぼ自明のものとして扱われ、作中でどこまで読者に手がかりを提供すればフェアといえるのかが議論の焦点となる。後者では、読者が推理すれば真相を論理的に証明できることなど、はなから考えていないことが通例なので、個々の記述が虚偽ではないかどうかが問題となることが多い。

ゲーム型ミステリと叙述ミステリは理論上は両立不可能なものではない。また、叙述トリックを用いているのに「読者への挑戦状」を挿入した凄いミステリを見かけることもときどきある。だが、そのような小説を読むたび、叙述トリックとゲーム型ミステリの相性の悪さを実感する。

ゲーム型ミステリが読者に要求するような厳密な論証には多くのデータが必要だ。それらのうちいくつかは作中に明示的に記述されているが、大部分のデータは外挿されたものである。叙述トリックは一般に読者が誤った外挿を行うように誘導するものなので、叙述トリックに引っかからないようにしようとすれば、データの外挿が不可能になる。すると、作中に記述されたデータのみで推理を組み立てていくことになるが、それでは論理的に真相に到達することはまず無理となる。だから叙述トリックはゲーム型ミステリと相性が悪いのだ。

では、叙述トリックを用いた非ゲーム型ミステリにおけるフェアプレイとは?

本当はここからが今回の文章の本題になるのだが、時間がなくなってしまった。せっかくMYSCONの記憶が薄れる前にレポートを仕上げようと思っていたのに残念だが、この文章で多少ともMYSCONに参加されなかった方々に多少とも雰囲気が伝われば幸いである。

1.11349(2005/04/06) いちおうツッコミ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050406a

現代作家ガイド―桜庭一樹(さくらばかずき)|Excite エキサイト ブックスから。強調は引用者。

ヨーロッパにある架空の小国・ソヴィール王国を舞台に、ビスクドールのように清楚で可憐な身体をフリルふりふりなドレスに包み、パイプをくゆらしながら名探偵口調で推理する美少女ホームズ・ヴィクトリカと、ワトソン役となる気弱な留学生・一弥コンビが活躍する『GOSICK』シリーズは、古典ミステリの枠組みの中に萌え描写を大胆に導入させた作品。学園に幽閉されている美少女探偵の立ち居振る舞いが、やけにおっさん臭いあたりのミスマッチ感覚がまた萌えを増幅させる。桜庭一樹はジョン・ディクスン・カーに影響を受けているそうだが、カーの創造した名探偵ヘンリー・メルヴェール卿がゴシック美少女になったら、ヴィクトリカになる気がしないでもない。19世紀初頭のヨーロッパという舞台背景が事件の真相に結びつくあたりの壮大さもシリーズの魅力である。

19世紀初頭には、まだ日本は開国していなかった。

全然関係のないメモ:本に線をひくモノグラフの自由帳

1.11350(2005/04/06) いろいろ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050406b

マドンナメイトから『新任女教師 盗撮学園の罠』という本が出た。著者は火沼蒼司という人だ。一瞬、著者名だけで買おうかと思ったのだが、最初の数ページを読んでみると私に合わなさそうな文体だったのでやめた。

激辛チーズカレーを食べながら考えたこと。

本の面白さは第一印象で決まるものだろうか? 後から補正や改訂を行うことは論理的に不可能なのだろうか? もしそうだとすると、読書の楽しみとは何と刹那的なことなのだろう!

今さら言うまでもないことだが、「フリーマーケット」の「フリー」は英語の"free"ではない。もとが何語で、どういう意味なのかは各自調べること。

私は煙草が嫌いだ。だが、今この瞬間に世界中から煙草が一斉に消滅することを望みはしない。なぜなら、急激な変化は概して悪であり、その影響が及ぶ範囲は予測不可能だから。

ミステリでは地の文で嘘をついてはいけないとされている。では、会話だけで成り立っているミステリなら、どんな事を書いても許されるのだろうか?

突然だが、ここで「葉山響の法則」の最新ヴァージョンを公開することにしよう。ただし、第一法則と第二法則はこれまでと同じだ。

第一法則
自分の名前や作品名で検索してネット上の感想文を読んでみようとしない作家など存在しない。
第二法則
仮に作家本人がインターネットに接続できなくても、必ず周囲の人がチェックして教えている。
第三法則
作家の心臓はガラスでできている。

本当は別の法則を考えてあったのだが、諸般の事情により公開を見送ることにした。

他国の教科書の内容に抗議するのは内政干渉だという。では、他国の切手の図柄に抗議するのは内政干渉ではないのだろうか?

進歩史観はもう古い! いま復古主義こそが新しい!

1.11351(2005/04/07) おたより紹介

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050407a

私は他人の間違いを見つけたときには容赦なく晒す。不遜で謙虚さのかけらもない人間だと思う人もいるかもしれないが、本当は非常に謙虚で慎み深い性格だ。自分のことだから間違いはない。間違いはないが、自分で自分のことを謙虚だという奴の言うことは信用しないほうがいい。

私はまた自分の間違いを見つけたときや他人から指摘されて知ったときにも、あえて晒すことがある。いつでもそうするというわけではなく、軽易な間違いや言い訳の余地がある場合に限る。致命的なエラーに直面したときにはフリーズしてしまうからだ。間違えたっていいじゃないか、人間だもの。

さて、昨日書いた文章に間違いがあり、ある人からメールで指摘を受けた。以下、そのメールを紹介する(文面の一部を改変したほか、適宜タグを補っている)。

はじめまして!小佐内と申します。えーとですね、
以前メル友募集してましたよね??その書き込みに
とても興味を持っててアドレスを控えてたんです。
小佐内、メル友に応募してもいいでしょうか?
ぜひぜひ仲良くなりたいと思ってるんです☆
最初ですので、自己紹介を致しますね☆
小佐内ゆき、16歳、書店で働いております♪
普通じゃない書店です。あ、アダルトな書店じゃないですよ♪
ミステリ専門店なのであります♪
趣味は変装と復讐で、好きな評論家は郷原宏さんです。
郷原さんのテンプレというか常套句というか
あの猿がかいたような雰囲気の解説が
とりわけ小佐内のお好みでございます☆
そんなワケでして、小佐内、お返事待っております!

あ、間違えた。本物はこっち。

フリーマーケットですが、自由主義経済における自由市場の意味で存在するようです。
アダム・スミスあたりでしょうかねぇ?
たぶん蚤の市のことが念頭にあっての文章だと私は考えていますが。

http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=free+market&stype=0&dtype=1

p.s.「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」では、担任教師の無念の涙に目頭が熱くなりましたよ。

このメールの送り主は、私が前の前の会社に勤めていたときの先輩の学生時代の友達で、2月に東京の博物館巡りをしたときに「帰りの電車で読むのに適した本はないか」と問われたので『これが私のご主人様』を推薦したところ、なぜか『GOSICK』を買って読んだそうだ。あまり共通点はないと思うのだが……。

それはさておき。

昨日の文章今さら言うま でもないことだが、「フリーマーケット」の「フリー」は英語の"free"ではない。と書いたとき、もちろん自由市場のことではなく休日に公園や公共施設でよく開催されているイベントのほうを念頭に置いていたのだが、その事を明記しなかったのは私の落ち度である。読者諸賢の注意を喚起するとともに、御寛容を願う次第である。

どうでもいいメモ:インドの女神に萌えた作家、告発される

その昔、このニュースに出てくるインドの女神をヒロインにした18禁ゲームのシリーズがあって……という話をしても、きっと最近の若い人にはわからないことだろう。20世紀は遠くなりにけり。きゃる〜ん!

後でわからなくなるといけないので少しだけ補足。上の偽メールは有名なスパムメール「どうも!神田です!」のもじり。原文はこのあたりを参照のこと。

1.11352(2005/04/08) ミステリの面白さについて

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050408a

先日のMYSCONレポの続きを書こうと思っていたのだが、では、叙述トリックを用いた非ゲーム型ミステリにおけるフェアプレイとは?という問題設定のまま続けるのがしんどそうなので、方向転換することにした。綱渡りのアナロジーを用いて、ミステリの面白さについて考えてみることにしよう。

綱渡りが面白いのは、そこにスリルがあるからだ。なぜスリルがあるかというと、もし軽業師が綱から足を踏み外したら大怪我をするだろう、下手すれば死んでしまうかもしれない、という予想ないし期待があるからだ。身体的動作としては同じでも、もし綱が地上50センチの高さに張られていたならスリルは生じない。それでは綱渡りは娯楽にはならない。地上50センチの綱渡りは修行中の軽業師にとっては重要だが、観客に見せるものではない。

さて、観客が軽業師の墜落を期待している時に、その期待にこたえて(?)本当に足を滑らせて下に落ちたとしよう。それは果たして面白いことなのだろうか? 幸か不幸か私はまだそのような場に立ち会ったことはないが、きっと全然面白くないだろうと思う。もしかすると、ある意味で面白いかもしれないが、首尾よく成功した綱渡りを見たときのスリルとは異質なものである。

綱渡りの面白さとは反事実的条件法により表現されるべきものであり、直説法により表現されるものではない。事実ではない何かが観客を喜ばせるのだ。観客の期待は裏切られなければならない。

ある種のミステリのある種の面白さは、綱渡りの面白さに類似している。「ある種の」が「ミステリ」と「面白さ」の両方にかかることに注意されたい。すべてのミステリが綱渡りに類似したスリルを読者に与えるものだというのは言い過ぎだし、綱渡りに似たミステリであっても、その面白さがすべてスリルに由来するわけではないだろう。とはいえ、ここで取り扱うのは、主にその種のミステリのその種の面白さなので、多重量化が理解できない人も心配することはない。

綱渡りに似たミステリの典型例は叙述トリックを中心にした作品だ。軽業師の一歩一歩の歩みに対応するのは、当該作品を構成する一文一文だ。そして、足を踏み外すことに対応するのはアンフェアな記述、平たく言えばだ。

作中のたった一箇所、ごく些細な語句の選択を誤っただけでも、高い天から地上に向かって真っ逆さま、という共通了解が作者と読者の間で共有されていないと、この種の面白さを満喫することはできない。これはミステリのみの面白さであり、それを享受できるのはミステリ読みだけだ。もっとも、この面白さがわからない人を軽蔑したり、ことさら自慢したりするのは見苦しいだけなので控えたほうがいい。ただ、ひそかにミステリ読みのみに与えられた幸福を味わうべきなのだ。

綱は高く張られていなければならない。何をどう書いても嘘をついたことにならないような構成では、十分にスリルを味わうことができない。作中の大部分が伝聞であったり、語り手の認識能力に問題があったりすれば、ちょっとくらい足を踏み外してもアンフェアの誹りを受けずにすむが、それでは地上50センチの綱と違いがない。幽霊や超能力者を安易に出すのも困りものだ。

あらゆるアナロジーには限界がある。綱渡りのアナロジーもまた同じ。ここで述べたある種のミステリのある種の面白さは、綱渡りの面白さと一点で大きく異なる。綱渡りの場合は演技の最中にスリルを味わうが、ミステリの場合には基本的に一読した後のことになる。なぜなら、真相が明かされるまで、作者がどれほど高い綱を渡っていたのかが読者にはわからないのだから。

ミステリの面白さの一つとしてよく挙げられるのが、結末の意外性である。叙述トリックは意外な結末を演出するための仕掛けとして捉えられることが多い。それは確かにそうなのだが、叙述トリックの面白さがそれに尽きるのだとすれば、なぜ叙述トリックを用いた作品で特にフェアプレイが問題にされるのかが説明できないことになるだろう。読者が想像もつかない意外な結末のためなら、ちょっとくらい嘘をついたっていいじゃないか。

逆に、フェアプレイを重視し綱渡りのスリルを追求するなら、場合によっては結末の意外性を捨ててしまってもいいかもしれない。予め作品の冒頭で叙述トリックを使用することを宣言し、そのトリックの概要を説明した上で、一字一句に心をこめた叙述を行うのだ。残念ながら実作でそんなことをやった例は思い浮かばないが。

意外性を捨てて初めて生きる面白さ、といえば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を連想する。別に叙述トリックを用いているわけでもないし、綱渡りに似たスリルがあるわけではなく、今回の話題とは直接関係はないのだが、何か共通の要素がありそうな気もする。だが、私はそれをうまく言語化できない。もしかすると気のせいかもしれない。

1.11353(2005/04/09) 絶望的なまでに閉じられた世界

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050409a

昨日あたりから各所で『絶望系 閉じられた世界』(谷川流/電撃文庫)の感想文や書評がアップされている。まだ致命的なネタばらしには遭遇していないが、なるべく予備知識なしに読むべきだろうと思い、今日は近所の書店からあまり近所ではない書店まであちこち巡回してみたのだが、どこにも置いていなかった。一店だけ新刊の棚に電撃文庫の今月刊行作品が並んでいたが、わずか4冊で、その中に『絶望系 閉じられた世界』はなかった。売れてしまったのか最初から入荷していなかったのかはわからない。他の書店では電撃の今月の新刊が全く入荷されていないようだった。どの書店でも読者に向かってアッカンベーをする不届きな涼宮ハルヒがやたらと目立っていた。

私の住む世界はどこかで閉じられているのではないか。そう思った。

今日はこの本の感想文を書く予定だったのだが、本が入手できず読んでいないので感想文を書くことができない。仕方がないので、この本のタイトルの感想を書いておくことにしよう。

私は「絶望」という言葉が好きだ。以前私が最も好きな言葉は「幻滅」で、次に同率二位で「絶望」と「失望」が続く。三位はなくて、四位は「挫折」だ。と書いたことがある。今では多少順位が変わっており、「失望」が単独の二位で「絶望」は三位に落ちている。「絶望」という言葉の激しさよりも、疲れ切って激しく嘆く気力もなくなった「失望」のほうが少し上ではないかと思うようになったからだ。でも「絶望」が好きな言葉であることに変わりはない。

「絶望」の後についた「系」の意味がよくわからない。数学だったか物理学だったかにそんな言葉があったかもしれない。もしかしたら「セカイ系」とかの「系」かもしれないが。

副題(?)の「閉じられた世界」も何となく理系っぽい。本のタイトルなら普通は「閉ざされた世界」とでもなるところだが、やや古めかしい「閉ざす」のかわりに「閉じる」という全く気取りのない語を用いたあたりに理系らしさを感じるのだ。

なお、私は文系/理系という区分を全く信用していない。

長い間、ぼちぼちと細切れに読んでいた『科学哲学の冒険――サイエンスの目的と方法をさぐる』(戸田山和久/NHKブックス)を本日ようやく読み終えた。過去ログをみると、読み始めたのは3/4だった。わ、一箇月以上かかってる!

科学哲学の入門書はこれまでにも何冊か読んだことがあるので、半分くらいは既に知っている話題だったが、その取り上げ方や説明の仕方には感心した。また、「第8章 そもそも、科学理論って何なのさ」で対比されている「文パラダイム/意味論的捉え方」はこれまで知らなかった話題だったので、非常に興味深かった。個人的には、意味論的捉え方には何となく釈然としないものを感じる(抽象的なモデルと具体的な自然界との間に類似関係が成立するとはどういうことかがよくわからなかった)が、従来の科学哲学の弱点の一つが言語偏重に起因するという指摘は納得できた。

ところで、私がこの本でもっとも共感したのは次の箇所である。本論から外れた楽屋話の部分なので恐縮だが……。

科学がすべてのことを明らかにしてくれる保証はない。そのことは科学者自身が骨身にしみて分かっていることだと思うよ。問題はむしろ、「科学ですべてが分かるわけじゃない」ということから、「科学以外の分かる仕方がある」に飛躍してしまうことなんだよね。

ややイデオロギーがかった話になってしまうが、真理探究の手段としての科学と、社会的合意形成の手段としての民主主義とは類比的な関係にあるのではないかと私は考えている。民主主義がすべての社会的問題を解決してくれる保証はないが、民主主義以外の方法で問題が解決すると考えるのは飛躍だ。……と、これは余談。

ともあれ、『科学哲学の冒険』は多少とも科学哲学に興味がある人にとってはお薦めの一冊である。興味がない人も読めば何らかの知見を得ることができるだろう。

1.11354(2005/04/10) パンツの4つのはき方

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050410a

パンツをはくには大きく次の4つの方法がある。

  1. 前後、表裏とも正しくはく。
  2. 前後はそのままで、裏返してはく。
  3. 表裏はそのままで、前後を逆にしてはく。
  4. 裏返したうえ、前後を逆にしてはく。

1と4、2と3はそれぞれ対偶の関係にあり、論理的には等値である。

1.11355(2005/04/10) そば通とミステリマニア

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050410b

そば通が偏狭だということはよく知られているが、確認のため彼らの主張を追ってみることにしよう。

そば通によれば、そばは"もり"に限る。なぜ"かけ"が駄目なのかといえば、熱いだし汁に浸されて麺がのびてしまい、食感が損なわれるからだという。また、冷たいそばのほうが、より深い味わいが感じられるとも主張する。そんな事を言っても冬には熱々のそばをふうふう言いながら食べたいではないか。もりそばは真夏の暑気払いに食べるもので、季節料理の一種だ。そんな反論はそば通には通用しない。そもそも真夏のそばは風味が落ちているから食べる意味がない、とまで言い切る。

次にそば通は言う。そばつゆにわさびを入れてはいけない。なぜなら、わさびは水分に触れると刺戟成分が溶け出してしまうからだ。じゃあ、わさびをどうやって使うのかといえば、少しずつ摘んで麺の上に載せるのだそうだ。た、食べにくそう……。

さらに、そばつゆには麺の先端がほんの少し触れる程度にしなければならない、とそば通は強固に主張する。つゆにこめられた職人の技と苦労を味わってはいけないのだ。そもそもそばとはそれ自体に豊かな味と香りがあるのであって、つゆなどでごまかしてはいけないのである。

だったら、さっきの話はどうなんだ? そう詰め寄ると、そば通は平然と答える。わさびを麺の上に載せるというのは一種の方便であり、本当のことを言えば薬味など一切不要だ、と。つゆなし、薬味なし、ただ黙々とせいろからそばを摘んで口に運ぶ。ああ、何だか喉が詰まりそうだ。よく噛んでから飲み込まないと。

しかし、そこでそば通が一喝する。そばは噛んではならない。そばは舌先で味わうものではない。喉で味わうものなのだ。唾液にまみれたそばなど、もはやそばではない。

幸い、私はこれまでの人生において、そば通と自称する人に出会ったことがない。今後も出会わないことを祈るばかりだ。そば屋でこんな説教をされながら食すそばはきっとまずいものになるだろう。

さて、ミステリマニアが偏狭だということもよく知られているが、やはり確認の意味をこめて彼らの主張を見ておこう。

ミステリマニアは言う。ミステリは一文一文をよく吟味しながら読まなければならない。作者がどこに何を仕掛けているのかを見抜くために、常に注意深く気を配って読まなければならないのだ。それも、ただ順番に書かれたことを辿るだけではなく、必要に応じてページを遡って既に読んだ文章を再確認しなければならない。三歩進んで二歩下がる。それがミステリの正しい読み方なのだ。

また、ミステリマニアは次のようにも言う。ミステリは再読しないと真価がわからない。いくら注意しながら読んだとしても、最後まで読まないとその小説の全体像は見えてこないし、全体がわからなければ部分の位置づけもわからないのは理の当然。一度最後まで読んだら、もう一度最初に戻って読み返すべきなのだ。再読の際には、よく出来たミステリなら技巧の冴えに着目し、できが悪いミステリならどこにどのような欠陥があるのかを指摘するのが望ましい。

ここまでは個別のミステリ作品の読み方だが、ミステリマニアの主張はこれだけには留まらない。ミステリは古典から順に系統立てて読まなければならないとも主張するのだ。今さらカビのはえたような古くさい小説なんか読みたくないよ、などという言い訳は通らない。ミステリとは個々の作品が単独で存在するのだはなく、優れて歴史的な産物なのである。過去の名作への明示的言及やあからさまな本歌取りを見逃してしまっては面白さが半減してしまうので、現代作品が好みであっても古典作品に親しんでおかなければならないのだ。

そして、仕上げは古今東西のミステリを分類整理したり、トリックやロジックの特徴を分析したりする作業が必要不可欠であるという法外な主張である。そんなの評論家に任せておけばいいじゃないか、という抗議は却下される。なぜなら、ミステリの分類や分析は評論以前のレベル――すなわち、ミステリを読み、楽しむということ――のうちに既に含まれている、というのがミステリマニアの主張なのである。これを行わずして「ミステリを読んだ」などと言うのは、月面着陸をしただけで「宇宙を征服した」と言うのに等しい戯れ言なのだ。

こうやって並べてみると、そば通とミステリマニアは非常によく似通っていることがわかる。わざとそういうふうに書いたのだから当然といえば当然なのだが。

ただ、違っている部分もないわけではない。そば通の主張は極論であり、万人に受け入れられるものではないが、ミステリマニアの主張は正論であり、受け入れない者は蛮人だ。さあ、今からポーを読め。ポーの次には『月長石』を読め。苦しかろうが辛かろうが読んで読んで読みまくれ。血反吐にまみれても読み続けろ。ヴァン・ダインも小栗虫太郎も全部読め。国名シリーズを読む時はメモを忘れるな。カーを読む時は密室講義のどの項に該当するのか検討しろ。クリスティの叙述はフェアかどうか判定しろ。その判定基準でバークリーを読み解けるか試してみろ。乱歩は通俗長篇ばかりでなく『幻影城』もきちんと読め。佐野洋と都筑道夫を読み比べろ。寝転がって読むな。姿勢を正せ。愚作は罵倒しろ。傑作は絶讃しろ。ミステリ愛好家を増やそうなどと色気を出すな。日和った先には浸透と拡散が待っているだけだ。SFマニアを見習え。ミステリマニアの平均年齢が一年に一歳ずつ上がっていってもいいじゃないか。

やー、心にもない事を書いてしまった。ミステリマニアって嫌な人種だねー(台詞棒読み)

1.11356(2005/04/10c) 『エンディミオン』を読む前に

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504a.html#p050410c

今、『臨場』(横山秀夫/光文社)を読んでいる。これは今年の本格ミステリ大賞候補作で、インターネットで選ぶ本格ミステリ大賞2005の候補作でもある。私は前者の賞には何の関係もないが、後者は特に資格不要なので投票しようと思っている。投票受付期間は5/10までなので急ぐことはないのだが、油断して投票できなかったことが何度かあるので、今年はちょっと余裕を見て早めに読んでしまおうと思ったのだ。なお、他の候補作4冊は既読。

『ハイペリオン』と『ハイペリオンの没落』の記憶が薄れる前に『エンディミオン』に取りかかりたいとは思っているのだが、同時に並行して読むのもきつそうなので先に『臨場』を片づけることにした。こうやってどんどん先送りにしていくうちに、いつの間にか予定はなかったことになるのだ。そういえば、昔、光文社文庫版江戸川乱歩全集を全部読む、とか宣言したこともあったなぁ。