1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.1x(雑文過去ログ) 出ぬ杭は打たれぬ

1.11333(2005/03/21) 菊水山から鵯越への短くて長い道程

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050321a

昨日、私は神戸電鉄菊水山駅を訪問した。神戸市内にあるにもかかわらず乗降客は一日に数人で、普通電車のほとんどが通過する秘境駅だ。前々から一度は訪れてみたいと思っていたのだが、神戸方面へ行く予定がなく、ぐずぐずしているうちに3/26のダイヤ改正で休止することが決まってしまった。そこで、菊水山訪問を決意したのであった。

午後2時過ぎの下り電車に乗って菊水山に降り立つと、特に何ということもない駅だった。次の電車まで2時間以上待たないといけないが、見るべきものは何もなく時間の無駄なので、一駅歩いて鵯越駅から電車に乗ることにした。なお「鵯越」は「ひよどりごえ」と読む。その昔、源義経が急坂を馬に乗って駆け下り、平家の陣を奇襲したことで有名だ。

神戸は坂の多い街として知られている。平野部でも自転車ではしんどそうな坂道が多いが、山間部に入るとさらに傾斜がきつくなる。菊水山駅と鵯越駅は営業キロだと1キロだが、直結している道路はなく、いったん谷に降りてから再度山に登る必要がある。途中、限りなく獣道に近い山道を歩き、隣の駅に到着したのは、およそ45分後のことだった。

ふだんの運動不足が祟って、この短い距離を歩いただけで足が棒になってしまった。前夜にカラオケボックスで過ごして睡眠不足だったこともかなり影響している。

疲労困憊して帰宅を遂げて、今日は一日ほとんど寝ていた。せっかくの休日なのにもったいないことだ。だが、菊水山のためには多少の犠牲はやむを得ない。

海燕オフのレポートは面倒なので省略。例によって例の如し。

1.11334(2005/03/22) 菊水山再び

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050322a

昨日菊水山駅と鵯越駅は営業キロだと1キロだが、直結している道路はなく、いったん谷に降りてから再度山に登る必要がある。と書いたら、菊水山駅と鵯越駅の間で再度山に登るというのはおかしい、というツッコミのメールが来た。

1.11335(2005/03/22) 12歳の蒟蒻問答

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050322b

『銀盤カレイドスコープvol.4 リトル・プログラム:Big sister but sister』(海原零/スーパーダッシュ文庫)を読んだので、少し感想を書いておく。

もともと2巻できれいにまとまっていた『銀盤カレイドスコープ』だが、終わっている話の続きを無理矢理書いたにしては3巻の出来も悪くはなかった。だが、さすがに同じ調子で引っ張るわけにはいかないだろうと思っていたら、4巻では桜野タズサの妹、桜野ヨーコが主人公になっている。それはいいのだが、ヨーコはタズサと7歳違いの12歳、まだ小学生だ。彼女の一人称で物語が記述されると、かなり違和感がある。はっきり言うと、小学生らしくない

一人称小説は当該人物の書いた手記とは違って、地の文を書いているのは本人ではない。だから、小学生の視点でありながら大人びた文章であっても構わないといえば構わない。だが、思考過程の端から端まで子供らしさが微塵も感じられないということになると、さすがにちょっといかがなものかと思う。エピローグにはそのような違和感を抱く読者への配慮という意味合いも含まれているのだろうが、これで帳消しになったとは思えない。

とはいえ、お話自体は前巻と同じくらい面白かった。よくあるテーマ、よくある展開、よくある結末で、プロットには目新しいところはないが、それでも飽きることなく楽しめた。

今回の前半部分のいちばんの見せ場は、何といっても「チェリー」を巡る騒動に違いない。蒟蒻問答はシチュエーションコメディの常套手段だが、常套手段だということは安直な手段だということを意味しない。読者は気楽に笑っていればいいが、作者の苦労は計り知れない。冷静になって考えてみれば、言葉が言葉だけに先に述べた違和感を増幅するマイナス効果も大きいのだが。

後半のクライマックスは真夜中のスケートリンクだ。特に192ページ4行目から7行目。ヨーコの視点で語られることにより、かえって『銀盤カレイドスコープ』のメインヒロインであるタズサの魅力が増す。

ヨーコの物語はうまく着地したので、5巻では再びタズサの視点に戻ることになるのだろう(また別の人物の視点で……という展開だとうんざりする)。人気シリーズだけになかなか終わらせてもらえないのかもしれないが、間延びしないうちに最終決戦に持ち込んでほしいものだと期待する。

1.11336(2005/03/23) 名古屋組御三家と新潟の×××

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050323a

BAD_TRIPに掲載されている先日の海燕オフの詳細なレポート(3/20付3/22付の記事)を読んでTKO氏の記憶力と再現力に感心した。私が書いたら内容は不正確で構成は締まりがなく読むに耐えないものになっていたことだろう。書かなくてよかった。

ただ、一からオフレポを書くのではなくて、TKO氏のレポに補足説明を加える程度なら、それほどひどくはならないような気もしてきた。もしかしたらやっぱり読むに耐えないものになるかもしれないが、それはそれで仕方ない。

以下、TKO氏の海燕オフレポートから引用しつつ、コメントを加えることにする。なお、引用文中のタグは当サイトの仕様に合わせて多少改変している。

まず、昼間のメイド喫茶(人数が多かったのでCCOちゃになるだろうと予想していたが、実際に行ったのはCafe Dollだった)での会話について。

ここでは、私はぎをらむさんからラノパの話、滅・こぉるさんから業界関係の裏話を訊かせて頂いたのですが残念ながらどちらもここでは書けないデリケートな話題ですね。ちなみに、ぎをらむさんはこの日、ラノパの「御三家」(←滅・こぉるさん命名、ぎをらむさん曰く「名古屋組」)がお休みだった為に、実質的にラノパの代表的立場に立たされていたようで。平和さんもスタッフでありながらこの日は参加されてて、両者共に締切がシビアな事を漏らしておられたのが印象的でした。でもそういう苦労が今イチ閲覧者の方に見えてきてない点は勿体ないなぁ。ラノパはこれからが本番ですしね。

ここで私が話したのは「メイド喫茶における関係性の欠落または歪み」という非常に観念的かつ高度に思弁的な話題であって、業界裏話など喋った記憶はないので、これはTKO氏の記憶違いではないかと思う。いや、もしかしたら以前草三井氏から貰ったメールの話をしたかもしれない。もしその話だとすると、確かに業界裏話だ。

ぎをらむ氏が語ったラノパの話というのは――別にデリケートな話題ではないと思うので書いてしまうが――ラノパにはスタッフがたくさんいて、主要スタッフだけで十数人、助っ人まで含めると二、三十人くらいになる、という話だった。これだけ大勢の人々が関わっている企画ともなると内輪もめとか痴話喧嘩とかセクト争いとか色ボケ欲ボケとか市原悦子が電信柱の陰から覗いてほくそ笑むような愉快なエピソードがたくさんあるのではないかと思って誘導してみたのだが、ぎをらむ氏の口は堅かった(同様に平和氏からも内輪話を聞くことはできなかった。どうやらラノパには鉄の箝口令がしかれているようだ)。

では、ラノパ絡みでデリケートな話題が全くなかったかというとそういうわけでもない。メイド喫茶で話をしている時に、誰からともなくある予想が出てきた。その予想が正しければ、来月早々に事件が勃発する可能性があるのだが……いや、さすがに今年はそれはないか。

ところで、私が「御三家」と呼び、ぎをらむ氏が「名古屋組」と呼んだのは、言うまでもなく次の人々である(本当の御三家には格付があるが、ラノパ御三家は全員尾張の人なので格付ができない。ここでは便宜上いろは順で並べておく)。

メイド喫茶より前、天王寺公園入口で自己紹介をした時に、何かの弾みで海外SF御三家(アシモフ、クラーク、ハインライン)の話になり、それがなぜか記憶に残っていたため、ここで「御三家」と言ったのだと思う。なお、国内SF御三家だと星新一、小松左京、筒井康隆の三人だが、特に話題にはならなかった。

滅「海燕さん、極楽トンボさんに『裏切り者め』って言って下さいよ」

ここでは「裏切り者」と漢字で表記されているが、正しくは平仮名で、出典は『ROOM NO.1301 #3』(新井輝/富士見ミステリー文庫)のあとがき(353ページ)だ。深夜のことなのではっきり覚えてはいないが、最初に「あの、うらぎりものめ」と言ったのは海燕氏自身ではなかったかと思う。私はただ、海燕氏のその鬱屈した思いをまいじゃーちゃっとにぶつけてみることを勧めただけで、決して心にもない事を言うように強制したわけではない。

そしてこの後、この日来られなかった御三家に関して、滅・こぉるさんと海燕さんで更なるお話が展開していくのですが、この部分については海燕さん御本人が言及されるでしょうから、私は遠慮を。でもこの件は確か、滅・こぉるさん自身が「サイトで書く」って仰ってたのですが……残念です。

これも深夜のことで「サイトで書く」と言ったかどうか記憶が定かではない。はっきり覚えているのは、カラオケ屋の前の飲み屋でぎをらむ氏が「第1回海燕さんOFF便乗 ハルヒ舞台巡りOFF企画書」を配布していたときに、これをサイトで取り上げてもいいかどうか尋ねたことだ。この企画は残念ながらお流れになったが、企画書を見るだけでも楽しい。

それはさておき、話を海燕氏の鬱屈に戻すことにしよう。海燕氏の悩みは「まいじゃーちゃっとには大勢の人々が集まるのに、海燕チャットは人が少ない」ということで、それに対して私はいくつかの提案を行った。

  1. ブラウザを複数起動して別名でログインし、和気藹々とお喋りしているように演じてみる。
  2. フィッシング詐欺の要領で海燕チャットをまいじゃーちゃっとに偽装する。
  3. まいじゃーちゃっとに乗り込んで、泣き落としで同情を誘い、海燕チャットに来てもらう。
  4. (あまりに馬鹿馬鹿しいので自主規制)

自分で言っておいてなんだが、どれもこれもぱっとしない。何かもっとい方法はないものか。

そこで私が考案した究極の作戦が、将軍様になるというものだ。将軍は御三家の上に立つ偉い人なのだから、御三家のものは将軍様のものだ。すなわち、まいじゃーちゃっとも海燕氏のものということになる。民衆はこぞって将軍様の威光を讃え、「マンセー!」と唱和することだろう(ここで「別の国の将軍様と話が混じっているのでは?」というツッコミが入った)。

ただし、この名案にも難点がある。それは現在の日本では征夷大将軍に任官されるのは相当難しいということだ。

仕方がないので次善の策を提示しておく。海燕氏は新潟在住、新潟といえば田中角栄、田中角栄といえば闇将軍だ。征夷大将軍は無理でも頑張れば田中角栄の後を襲うことは可能かもしれない……と、見出しの伏せ字が埋まったところで今日はおしまい。

1.11337(2005/03/24) エイプリル・フールまであと一週間

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050324a

『B-SIDE AGE 獅子たちはアリスの庭で』『B-SIDE AGE 獅子たちはノアの方舟で』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)を読んだ。奥付によれば『アリス』は2002年7月、『ノア』は同年11月の発行だ。まだ3年も経っていないが、富士ミスのリニューアル前の本でもあり、今では新刊書店で入手することはかなり困難だと思われる。私は先日の海燕オフの際に石野休日氏から譲ってもらった。

オフ会で石野氏とリッパーが話しているのを聞いた限りでは、こんな話のようだった。

で、あまり期待もせずに読んでみると、全くその通りだった。

現実とは異なる歴史を歩み、1995年にようやく独立を果たした日本を舞台に、アメリカで犯罪捜査を学んだ天才高校生が活躍する法廷ミステリ……という設定だけなら面白そうなのだが、せっかく陪審制度を導入しているのに法廷でのやりとりがあまり面白くなく、むしろ法廷外の場面のほうが面白かった。

ミステリとしての仕掛けについては言わぬが花。

そろそろMYSCONが近づいてきたので、『螢』(麻耶雄嵩/幻冬舎)を読み始めることにした。なるべく予備知識は持たずに読もうと思っていたのだが、オビを見ただけで何となく胡散臭い雰囲気が伝わってくる。大胆にして繊細。驚きに驚く、あざやかなトリック!と書かれているのだが、どういう種類のトリックなのかがどこにも書かれていない。ということはアレではないか……と身構えて読み始めるとなかなかペースが上がらない。もう3時間くらい費やしたはずだが、まだ100ページくらいしか読めていない。

巻頭の登場人物表をみると、すべての人物の姓が九州か北陸の地名と同じであることがすぐにわかった。だが、もう一つの共通点に気づいたのはつい先ほどのこと。ただし、一人だけ仲間はずれの人物がいる。怪しい。奴が犯人だ。

と、まだ第一の殺人も起こっていない段階で、推理とも言えない憶測を書いてしまった。

1.11338(2005/03/25) ミステリは疲れる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050325a

最近、私はミステリを全然読まなくなっていて、昨日から読み始めた『螢』が今年初めての一般文芸(ここでは「ライトノベルのレーベルから出ているのではない小説」という程度の意味に解してほしい)のミステリだ。

久々にミステリを読むと非常に疲れる。ミステリって、こんなにしんどい読み物だったのか!

いちおう今日の進捗状況を書いておこう。昨日、約3時間かけて100ページ強読んであったので、その続きから読み始め、「4 第一の殺人」を最後まで読んでから最初に戻り、もう一度読み返し始めた。これで約半時間。それから次の章に入り、2時間ほどかかって先ほど「9 千鶴」まで読んだ。まだまだ先は長い。

こう書くと『螢』がもの凄く読みにくい小説のようだが、決してそんなことはない。私は視点がころころと切り替わる小説が苦手なのだが、『螢』はこれまでのところ一人の登場人物の視点で統一されているので、その意味では読みやすい。ただ、久しぶりのミステリだから気合いを入れて犯人を当ててやろうと思って読んでいるのでペースが落ちているだけだ。

最初読み始めたときには、何か派手なトリックが使われているものだと思っていたのだが、これまでのところそのような形跡はない。地味なトリックが仕掛けられているが、よほどぼんやりした人でない限りすぐに気づくだろうと思われる(と言っている私自身は昨日の段階ではまだ気づいていなかった)。麻耶雄嵩がこんなトリック一つで長篇を書くはずはないので、きっともっと凄い仕掛けがあるのだろうと期待しているのだが……。

読みかけの本についてあまり長々と語っても仕方がない。今のペースだと、あと4時間くらいで全部読み終えることができるだろう。時間と心に余裕があれば感想文を書くことにする。

1.11339(2005/03/26) 『蛍』のメモ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050326a

『螢』(麻耶雄嵩/幻冬舎)を読み終えた。今日はこれから出かけるので、詳細な感想文を書く時間的余裕がない。そこで、さしあたりMYSCON読書会『螢』<感想と論点>に掲げられた4つの質問への回答のみ書いておく。

1. 第一の仕掛けは見破れましたか?
見破れた。
2. 第二の仕掛けについてどのような感想を抱きましたか?
意外だった。
3. 意外な犯人が論理的に指摘されるその過程が推理小説の面白さだと思います。『螢』ではその面白さはどのように表現されていましたか。
「意外な犯人が論理的に指摘されるその過程」は『蛍』の面白さの中心ではないと思う。
4. 『螢』の魅力とはどこにあるのでしょうか。
意外な真相が論理的に示されるその過程

1.11340(2005/03/27) 明日よりワクワクしていた。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050327a

昨日、国立民族学博物館特別展「きのうよりワクワクしてきた。」 ブリコラージュ・アート・ナウ 日常の冒険者たちを見た。事前に一切予習をしていかなかったので、会場に入ったとたんにびっくり仰天した。や、なんだこれは!

現代美術の世界にはいろいろと変な作品があるが、この展覧会に展示されているものの"変"さはちょっと桁違いだった。『ドグラ・マグラ』と『MOON.』を足して2を掛けたような感じだ。残飯アート空き缶ハウスなど、何とも言いようのない品々がぎっしりと詰まっている。きっとこんな展覧会は二度とないだろうから、変なものに関心のある人は万難を排して見に行ってほしい。

みんぱくのあと、梅田の旭屋書店で『最後の審判の巨匠』(レオ・ペルッツ(著)/垂野創一郎(訳)/晶文社)を買った。なるべく早く読みたいとは思っているのだが、私の読書ペースではMYSCONまでに読むのは無理だ。とりあえず『最後の審判の巨匠』サイトにリンクしておく。

『最後の審判の巨匠』繋がりで(別に繋がっていないけど)日刊海燕3/23付コメント欄に書かれた海燕氏の文章を引用してみる(タグは改変した)。

最近のこの手の萌え虐待もの(なんだそれ)では、やっぱり桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の出来が頭ひとつ飛びぬけているかな、と思います。

でも僕の好みとしてはまだちょっと甘い。予定調和がきつすぎると思う。いや、予定調和はかまわないんだけれど、どうせなら最初から最後まで絶望的なのより、最後の読者に希望をあたえて、それを裏切る形にしたほうがショックはでかくなったはず。

これについては詳細な注釈を書いて「ライトノベル・ファンパーティー」に送ってみようかなあ、とも思うのですが、予定は未定、未定は未定、ということで未来のことはだれにもわからないのでした。

このコメントには少しケチをつけておきたい。

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、その構成上結末を先取りしている。そこで、読者にとっては結末は意外性をもたず、その点ではショックは少ない(ただし、読者が小説から受けるショックは意外性によるものだけではないことは言うまでもない)。だが、結末が読者の予想を裏切るものでないという点では同じであっても、ご都合主義や陳腐な筋立てのせいで結末が透けてみえるような凡作と『砂糖菓子』を同列に扱ってはいけない。別に海燕氏がそのような愚を犯していると言う気はないが、「予定調和」という言葉を用いているのはやや安直で誤解を招くものではないかと思う。

ショックが大きい小説、読者を裏切る小説のほうが好みだという人は多いだろうし、そのような人にとっては『砂糖菓子』のように結末を先取りする小説は甘く感じられるだろう。それは個人の好みの問題なので私がとやかく言うことではない。ただ、そもそも読者に希望的観測をもたせることができない構造の小説に対して、どうせなら最初から最後まで絶望的なのより、最後の読者に希望をあたえて、それを裏切る形にしたほうがショックはでかくなったはず。と、さも改良が可能であるかのように語るのは、決して好みの問題ではない。

まあ、これは日刊海燕の本文ではないし、ライトノベル・ファンパーティーに投稿するコラムのためのメモのようだから、あまりケチをつけるほどのこともないだろう。もうケチをつけてしまったけれど。

1.11341(2005/03/28) 追い込み

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050328a

MYSCON前に『月読』(太田忠司/文藝春秋)を読んでしまいたいので、今日は簡易更新。明日は所用により更新しない予定だ。

面白い感想文2件。

まず、不壊の槍は折られましたが、何か?『神狩り』の感想文山田正紀は基本的に、《凄い》ことを表現する能力がなく、《凄いと思った》としか書けない作家である。ああ、なるほど。山田正紀の小説を読んだときに私が常に感じる釈然としない感じがこの一文で的確に表現されている。

もう一つは、平穏無事な日々を漂う〜漂泊旦那の日記〜『葦と百合』の感想文。ただし、私は『葦と百合』を読んだことがない(それどころか奥泉光の小説は一冊も読んでいない)。面白いと思ったのは最後の段落だ。この小説の面白さがわからないのは読む力が足りないからだ、という類の批判の空虚さを衝いている。もちろん読者の力不足で面白さを読み取れないということはいくらでもある話だが、それを批判するならまずは十分に面白さを汲み取った読みを提示すべきであり、それをせずに読者の能力を貶しても仕方がない。

1.11342(2005/03/29) 朴はここにいる。黄身は白身じゃない。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050329a

今日は更新しないつもりだったが、予定していた用事が流れたので、昨晩読み終えた『月読』(太田忠司/文藝春秋)の感想文を書くことにする。

『月読』は「本格ミステリ・マスターズ」から出ている。このシリーズはみな分厚い本ばかりで、『月読』も例外ではない。読み始めたときには一週間くらいかかるかと思っていた。だが、予想以上のペースで読み進めることができて、2日で読み終えた。読みやすい文体だったことと、ダレ場がなかったことが、その主な理由だ(あと、紙質のせいで実際のページ数以上の大長篇に感じていたという事情もある)。

読んでいる最中は非常に楽しかった。死人の近くに現れる超自然のしるし、月導(つきしるべ、と読む)と、そこに秘められた死者の最期のメッセージを読み解く異能者、月読という着想が面白く、さらに殺人事件の謎を巡る捜査や推理、高校生の淡い恋愛含みの青春の情景などが絶妙のバランスで配置されていて、飽きることがなかった。

ただ、わくわくする気持ちは終盤に至って急速に萎んでしまい、後にはほとんど余韻が残らなかった。月導、月読といったアイディアから幻想豊かな物語を紡ぐこともできたはずなのに、ミステリの小道具という程度の扱いにしかなっていないこと、その一方でガチガチの論理を展開するわけでもなく、最後に明かされる真相がやや腰砕けなこと、さらに青春小説としても締めが甘いことなどが惜しまれる。

後から振り返ってみると、この小説の世界設定にも疑問がある。月読が月導から読み取った事柄には証拠能力がないということになっているのだが、この世界では月導は超常現象ではなく、月読の能力も社会的に認められているのだから、単に原理が科学的に解明されていないという理由だけで法廷で証拠として採用されないというのは腑に落ちない(我々が住んでいるこの世界では、文字や音声がいかにして意味を担いうるかということが科学的に解明されているわけではないが、にもかかわらず目撃者の証言や容疑者の供述調書は法廷で証拠として採用されている)。一歩譲って、月読の証言に証拠能力がないことを認めるとしても、こんな便利な力があるならもっと捜査に活用されているのではないか。

世界設定に関する疑問はもう一つある。この世界は月導という現象のせいで現実とは異なる歴史を辿っている。具体的にいえば、米ソ冷戦期に両大国が宇宙研究をそっちのけで月導研究を行った結果、科学技術の進歩が停滞してしまい、21世紀に入ってもコンピュータが普及していない。明示されてはいないが、たぶん携帯電話もないのだろう。新幹線は開通しているから、現実の日本の1970年代くらいの社会状況なのだろう。逆にいえば、1960年代くらいまでの歴史はおおよそ現実のそれと類似しているということになるのだが、これはかなり不自然であるように思われる。人類の発祥以来ずっと月導があったならば、死生観から始まって宗教、習慣、社会構造に到るまで、我々には想像もできないほど異なった歴史が築かれていたことだろう。

もちろん、想像もできないことは書くことができないし、仮に書くことができたとしても誰にも理解不可能だから、何らかのごまかしが必要となる。SF作家なら苦心惨憺して策を練るところだが、『月読』にはそのような苦渋のあとはない。よく言えば屈託がなく、悪く言えば御都合主義的だ。

今述べたような疑問は、もし『月読』が作者と読者が智力を競い合うゲーム型小説であったなら取るに足らないものだったろう。どんなに御都合主義の設定であっても、作者が「この作品ではこのルールを採用する」と宣言したならば、読者にはそのことに異議を挟む権限はないのだから(もちろん、当該ルールがゲームの遂行に対して十分明晰でなければ異議申し立ては可能だ)。だが、『月読』はそのような趣向の小説ではない。

最初は「面白かった」と書くだけのつもりだったが、あれこれと言葉を継ぎ足していくうちに不満のほうが多く出てしまった。とはいえ、決して『月読』が駄作だということではない。本当にがっかりした時には不満の言葉すら出てこないものだ。

今日は『ROOM NO.1301 #5 妹さんはヒロイック?』(新井輝/富士見ミステリー文庫)を読んだ。面白かった。

次はいよいよ『最後の審判の巨匠』(レオ・ペルッツ(著)/垂野創一郎(訳)/晶文社)だ!

1.11343(2005/03/30) 標語と改札

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050330a

今日、会社で「標語を作れ」と言われた。実は先月くらいに言われていたのだが、本来の仕事ではないので先送りにしているうちに締切日になったのだ。一人5つがノルマだというので、仕方なしに適当にでっち上げた。

5つのうち4つまではテーマをそのままキーワードとして織り込んだが、最後の1つだけはわざとその言葉を外した。

小さな数字をこつこつと、大きく積み上げ明日を拓く

これだけではいったい何の標語がわからないだろうが、知ったところで別に面白くもないので説明しない。

さて、上の標語の「拓く」は「ひらく」のつもりで書いた。調べてはいないがこの訓みはたぶん表外訓だ。ついでにいえば「訓み」も表外訓だ。表外訓は学校では習わないから人によっては読めないこともある。私はなるべく簡単な言葉遣いを心がけているが、「ひらく」と仮名書きするとなんとなく意味がぼやけるような気がしたので、あえて漢字を用いた。「開く」という表記もあるが、これでは意味が違ってしまう。日本語というのは難しいものだ。

これに関連して思い出したことがある。

鉄道用語に「改札」という言葉がある。鉄道用語といっても専門的な言葉ではないので、たいていの人は知っているだろう。駅や車内で乗客がきっぷを持っているかどうかを確かめる行為だ。駅で改札を行う場所は「改札口」、改札用の機械は「自動改札機」、車内で行う改札は「車内改札」だ。

車内で行う改札のことを「車内検札」ともいう。「改札」と「検札」では後者のほうが実情にあっているように思われる。きっぷを査するということなのだから。でも「検札口」という言葉はあまり見聞きしないし、「自動検札機」とも言わない。「検札」より「改札」のほうが優勢だ。

では、なぜ「改札」というのだろう? 何かを改変したり改革したり更改したりするのだろうか? 古くてぼろぼろになったきっぷを新しいものと交換するなら「改札」といっていいだろうが、改札口でそんなことをすることはまずない。

実は「改札」という言葉は、漢字の誤用が定着したものらしい。「改」には「あらためる」という訓みがあるので、「改札」に「ふだをあらためる」という意味をもたせたのだろう。本当は「改める」ではなくて「検める」だったのだが、今さらもう変えようがない。

さて、奇術用語に「あらため」という言葉がある。種も仕掛けもないということを観客に示すための手続きのことだ。この言葉はミステリ用語にも流用されてい。私もたまに「この小説ではあらためが十分ではないため、せっかくのトリックが生かされていない」などと書くことがある。ひらがなが連続すると語の切れ目がわかりにくいのでできれば漢字を使いたいのだが、「検め」では表外訓だし、「改め」では意味が違ってしまうので困ってしまう。仕方がないから括弧でくくってみたりすることもあるのだが、しっくりこない。何かいい書き方はないものだろうか。

1.11344(2005/03/31) 雑記

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503c.html#p050331a

一昨日次はいよいよ『最後の審判の巨匠』(レオ・ペルッツ(著)/垂野創一郎(訳)/晶文社)だ!と書いたのに、まだ全然読めていない。その代わりに『デュラララ!!×2』(成田良悟/電撃文庫)と『キリサキ』(田代裕彦/富士見ミステリー文庫)を読んだ。よし、これで積んであったラノベはほぼ読み終えた……と思ったら、『涼宮ハルヒの動揺』(谷川流/角川スニーカー文庫)が出ているではないかっ!

明晩、夜行列車で東京に向かうので、たぶんサイトを更新している余裕はないはずだ。年度末でもあることだし、何かこの辺でぴしっと締まった文章を書いておこうと思ったのだが、そもそも締まりのない私にそのようなことはできないのだった。無理して背伸びしたら筋を違えるだけなので、やめておいたほうが無難だ。

MYSCONまでに読み終えることはできなくても、少しでも『最後の審判の巨匠』を読んでおきたいので、今日はここまで。

メモ:今すぐ使える小説テクニック〜推敲〜ジュブナイルポルノ作家わかつきひかるのホームページ