http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050411a
妙な見出しだが気にしないように。
今日は、ようやく『絶望系 閉じられた世界』(谷川流/電撃文庫)を入手した。そしてすぐに読んだ。
面白い!
この一言で十分だ。これ以上何も言うことはない。というか言えない。
この小説の評価は必ずしも高いとはいえない。たとえば、ここでは面倒なところは陳腐なストックフレーズだのみ、という何だかWeb日記みたいな小説。
と手厳しく書かれている。また、ここでは電撃では珍しいタイプの作品に仕上がってはいるものの、普通に面白くないぞ、これ。
と身も蓋もない言い方をされてしまっている。
さらに酷いのはここだ。角川に拉致監禁されて作者がノイローゼになったとか、そういうわけではないよね?
とかてきとーにそれらしいことを書いてそれらしいものに仕上げただけのふぬけ作品でありました。
とか、もう書きたい放題だ。「監禁」だなんて……。もう少し穏やかに「軟禁」と言ってほしいものだ。
これらの感想に対して反論したいところなのだが、残念ながら私の感じた面白さは筋道立てて説明できるものではない。冷静に分析すれば、きっとリンク先のコメントと似たり寄ったりのことしか書けないだろう。ああ、もどかしい。
あっ、そうか。『推定少女』(桜庭一樹/ファミ通文庫)を絶讃していた人たちも、今の私と同じ心境だったんだ。
それにしても電撃文庫は凄い。こんな小説を平然と出してしまうのだから。角川スニーカー文庫では考えられないことです。
その電撃文庫から来月表紙に絵のない本が出る(情報もと:モノグラフ)。『僕らはどこにも開かない』というタイトルで、『絶望系 閉じられた世界』と通じるものがあるような気がする(もっとも、作者の日記を読んだ限りでは、生けるホラー谷川流ほどの毒気は感じられない)。
ともあれ、しばらく電撃文庫からは目が離せないようだ。
閑話休題。
まさか本気にする人はいないだろうが、「監禁」とか「軟禁」とかはもちろん冗談だ。先月出た『太陽の簒奪者』(野尻抱介/ハヤカワ文庫)の解説を谷川氏が書いている(この本には稲葉振一郎の解説が別にあり、谷川氏の文章は「コラム」と題されているが、オビでは両方とも解説扱いされている。また、特に稲葉氏の文章がより解説的で、谷川氏の文章がより随想調であるということはない)ことから、谷川氏が軟禁されているのでないことは明らかだ。
スニーカーの涼宮ハルヒシリーズは最新刊の『涼宮ハルヒの動揺』に至って、いよいよ行き詰まってきた感があり、商業的にはまだまだ延命を図る意義があるのだろうが、個人的にはもう読み続けるのが辛くなってきた。できればハヤカワあたりで新境地を切り開いてほしいものだと思っていたのだが、電撃文庫でも『絶望系 閉じられた世界』のような小説が発表できるのなら、それはそれで結構なことだ。
ただ、少し不安もある。実際に本を手に取るまで、私は「絶望系」が主タイトル、「閉じられた世界」が副タイトルだと思っていたのだが、表紙を見ても奥付を見ても「閉じられた世界」のほうがフォントサイズが大きく、こちらが主タイトルにみえる。もしかすると「絶望系」はシリーズ名なのではないかと危惧する。
しかし、タイトルがタイトルだけに、続篇を読んで絶望するのも一興かもしれない。先のことはともかく、今はこう言って締めくくることにしよう。
いいから、読め!
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050412a
「四人四色学園祭(仮)」の正式タイトルをそろそろ決めなくてはなりません。
昨年から、おそらくこれになるだろうという候補は挙がっていたのですが。
多分、発売時の題名は「クドリャフカの順番」になります。
そういえば、どこかで『ぼくのクドリャフカへ』(桜庭一樹)という近刊予告が出ていたような……。双方ともこのタイトルで出れば、クドリャフカ対決ということになるのか?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050412b
どうしようもなく眠い。眠くてどうしようもない。どうしよう? どうしようもない。眠い。
眠いときには眠ればいい。そうしよう。さあ、眠るぞ。眠った。ぐー。安らかな死に顔だ。まるで眠っているかのようだ。眠りと死は兄弟だ。京大じゃないよ。
眠たいときには、ふだん意識下に抑えつけていた得体の知れないものが這い出してくる。意識下というのは意識の下だ。下というのは地球の中心の方向だ。下へ下へと降りていき、地球の中心にまで達したら、あとは上に昇るしかない。無限に上昇することは可能でも、無限に下降することは不可能だ。むろん意識においても同じ。
意識下から這い出してきた得体の知れないもの。人それを情死とよぶ。いや、呼ばないって。それは私の一部でありながら、私の意識から独立である。統帥権が干犯された。一大事だ。
人は眠ると意識を失う。失われた意識は東武野田線付近を徘徊している。しかし、東部野田線はかなり前に廃線となり、その付近には誰も住んでいないから、失われた意識を見ることはできない。
失った意識のかわりに夢を見る。夢はみな悪夢だ。さもなければ居ん無だ。「居ん無」というのは誤変換だ。
私には夢がある。ひそかに陰謀を巡らし、情報を収集し、人々を操って、みんなでジャガイモを作るのだ。壮大な夢だ。ジャガイモは根釧台地でしか栽培できないのだから。
夢とは何か。夢とは睡眠中の幻覚のことである。「夢」は被定義項で「睡眠中の幻覚」は定義項である。どちらも言葉だ。「夢とは睡眠中の幻覚のことである」と言うとき、私はあたかも「夢」という言葉で指し示される事物について語っているかのように振る舞っているが、実は言葉と言葉の間の同義性を主張しているに過ぎない。私の言葉は言葉の領域から一歩も外に出ることができない。
東武野田線には野田阪神駅はない。阪神電鉄にも野田阪神駅はない。野田阪神駅があるのは大阪市営地下鉄だ。その隣には阪神野田駅がある。環状線にも野田駅があるが、その隣にある地下鉄の駅は玉川駅だ。紛らわしい。
悪夢は悪い夢た゛。まるで悪い夢を見たかのようだ。できれば悪夢は見たくないものだ。でも、夢は私の意のままにならない。仕方のないことだ。
この世のすべては私の夢ではないか、という懐疑がある。つまらない。くだらない。やるせない。すべてが夢なら、すべてが私の意志の外だ。現実は意のままにならない、と言っているのと変わりはない。
ああ、眠たいときには頭が働かない。こんなことでは私の野望は達成できない。眠気に負けてしまう前に、なんとかジャガイモの種を植えなければ……。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050413a
交響曲の真の創始者は誰か、という難問はさしあたり無視して、「交響曲の父」と呼ばれるハイドンから話を始めよう。彼の初期交響曲の編成はほとんど弦楽アンサンブルに毛の生えた程度のものだった。管楽器は音色に彩りを与えるという補助的な役割しか持たされていなかったのである。
やがてモーツァルトが登場し、退場する。モーツァルトの後にはベートーベンが活躍する。彼の最後の交響曲は合唱を伴う大編成のものだった。
ベートーベンの後にも続々とシンフォニストが現れる。ハイドンのように100曲以上も交響曲を作るものはいないが、重厚かつ長大な交響曲を9曲書いて死ぬ作曲家が多い。この重厚長大化は後期ロマン派のマーラーとブルックナーでピークに達する。彼らの交響曲には木管楽器も金管楽器もふんだん使われており、ハイドンの初期交響曲とは全く規模が異なるものとなっている。
このような交響曲の発展の歴史を論じるにはふたつの視点がある。ひとつは内的な視点である。音楽には自律的な進化発展の原理が備わっているという考え方だ。内的な視点からは、音楽の進化の法則はいかなるものであるのかが問題となる。
もう一つの視点は外的なものである。音楽は孤立して生成するのではなく、必ずその背景に音楽を支える社会が存在する。どのような層の人々がそれぞれの時代に音楽に何を求めていたのか、その状況をつぶさに観察することで交響曲の巨大化の原因を探ろうというのである。
さて、冒頭で言及したハイドンは、また「弦楽四重奏曲の父」とも呼ばれる。弦楽四重奏曲の創始者というわけではなくて、弦楽四重奏曲の歴史の最初期に活躍した重要人物という程度の意味合いに解するのが適当だろう。弦楽四重奏曲も交響曲と同じく発展と変容を遂げながら、その語の数世紀を生き延びている。ただ、この弦楽四重奏曲は交響曲とは違って、現代に至るまで編成が全く変わっていない。すなわち、ふたつのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成である。
弦楽四重奏曲の編成が固定されているのはなぜか? この興味深い問題に関心を抱いている音楽史家や音楽学者は、私の知る限り皆無である。それが私には残念でならない。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050414a
ここで取り上げるのは次の3冊である。
『螢』はミステリなので取り扱いに注意を要する。ネタばらしはしないが、勘のいい人なら気づいてしまう可能性があるので、この先を読まないほうが無難だ。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』がミステリかどうかという問題は取り上げない。少なくとも結末の意外性を重視した小説ではないので、ネタばらしを巡る問題は生じないと思う。
『絶望系 閉じられた世界』はミステリではない。
好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!の『絶望系 閉じられた世界』の感想文と感想メモリンクほかいくつかのサイトの感想文を読んでみると、予想通りというか案の定というか、ほとんど誉めている人がいない。私はここに書いたとおりこの作品が非常に気に入ったのだが、私の感じた面白さをうまく伝える自信がなくて、ほとんど感想らしい感想を書かずじまいになっている。残念だが、私には感性的な事柄を理屈っぽくない仕方で表現する能力がない。また、理屈をこねるとどうしてもネガティヴなことばかり書いてしまうので、二進も三進もいかないのだ。
諸氏の感想文が的はずれだったり、誇張しすぎていたりしていれば、それを批判することで間接的に小説の面白さを示すことができるのだが、これまた残念なことに、私が読んだ限りでは『絶望系 閉じられた世界』について的はずれなことを述べている人は一人もいない。納得できる意見ばかりだ。
にもかかわらず、私にとって『絶望系 閉じられた世界』は――これが谷川流の最高傑作とまでは言わないけれど――誰彼なしに薦めてみたくなるような小説である。これは考えてみれば不思議なことで、ほとんど不合理ともいえる。
どうしてこういう変なことになってしまったのかを考えてみたのだが、この作品の面白さを説明するのと同じくらいの難題であることに気づいたのでやめた。もっと突き詰めて考えれば答えが出るかもしれない。だが、その答えは私の心性に大きく寄りかかったものに違いないから、自分語りに終始することになるだろう。それよりは、内容は空疎であっても「これは面白い!」と言い続けるほうが多少はましだ。
『絶望系 閉じられた世界』といえばまいじゃー推進委員会!の4/13付の記事で取り上げられていて、そこでは『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が引き合いに出されている。私は同じ桜庭一樹の『推定少女』のほうに言及したのだが、内容の暗さからいえば確かに『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のほうが近いだろう。ただ、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』はライトノベル愛好家以外の人々にも読まれ、特にミステリ読みの間で評価が高まっているが、『絶望系 閉じられた世界』をミステリファンが大絶讃することはたぶんないだろう。
その『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』についてコンバンハチキンカレーヨ再に興味深い感想文が掲載されている。なぜ興味深いかというと、読者の欲求と不満との間の循環構造について、簡潔だが示唆的な記述があるからだ。その箇所を引用してみよう。
もっと書き足して欲しい気持ちが捨てられません。この加速度で止められるもどかしさというか、寸止め感とでもいうか。書かないからこそ引き立っているのは確かです。そこが実に上手かった。だからこそ書いて欲しいというループ状態なので、幕を閉じるしかないのかな……。
実を言えば、私は欲をいえばもっとボリュームが欲しい。
という意見には全く賛成しない。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』はあの長さだからこそ傑作となり得たのだし、多少刈り込んで短くすることはできても、エピソードを付け加えて今以上の長さにしてしまうと、冗長で情緒的な凡作になってしまったに違いない。また、私の記憶では、元氏以外にこの作品についてボリューム不足だと言った人はいない(元氏自身、極々主観的なものです
と書いている)。
しかし、そのような見解の不一致は、ここでは問題ではない。重要なのは、上で引用した箇所が、この小説を読んだときの読者の二律背反的な感情をよく表しているということだ。
読者は期待を抱いて小説を読むが、その期待に応えるのが良作であり期待に応えなければ駄作である、といった単純な話ではなくて、「欲求が充足されたので満足です」というような一本道の感想を抱くことを許さない傑作がある。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』はまさにそのような小説なのだ。
一本道の感想を許さない小説については、一本道の感想文は書けない。当たり前のことだけど。そこで、四苦八苦してなんとか他人に自分の言葉が伝わるように努力するのだが、私は最近そのような努力を放棄して書きやすいことばかり書いている。元氏の感想文を読んで、改めて自分の怠惰さに気づかされた次第。
書きやすいことばかり書くという姿勢のせいで、私がほとんど感想らしい感想を書かなかったのは『絶望系 閉じられた世界』ばかりではない。最近では『螢』もそうだ。これはミステリなので、ネタばらしを避けようとするとどうしても曖昧な書き方しかできないという事情もあり、強烈な印象を受けた小説でありながら、結局何も書かずじまいだった。
感想文を書くかわりに、MYSCONの読書会で言いたい放題喋って各方面の顰蹙を買ってしまったが、今さら後悔しても始まらない。また、今日の話題からも逸れるので、これは今後の反省材料ということにしよう。
さて、*the long fish*に蛍の旋律に我々は如何にして幻惑されたか(リンク先では『螢』の内容に触れているため、未読の人は決して読んではならない)という労作がアップされている。これを手がかりに私も感想文を……と一瞬だけ思ったのだが、例によって怠惰な心性に負けてしまった。
もうひとつ、最近アップされた『螢』の感想文を紹介しておこう。BAD_TRIPの4/12付の記事(サイトの仕様により直リンクは省略)だ。この感想文を紹介するのは、ほかでもない、ある点で「こんな読み方があるのか!」と驚いた(が、しばらく経って、むしろその読みのほうが自然で、私の読みは余計な予備知識に惑わされたもののように思えてきた)からだ。
『螢』のネタに触れるのでちょっと迷ったが、「ある点」とぼかしたのでは意味不明なので、思い切ってはっきり書いてしまおう。私が驚いたのは、のっけから展開される「大仕掛け」のみならず、ちょっとした遊び心の「中仕掛け」もあるので本格ミステリ的が苦手な人でも充分楽しめるのではないでしょうか。
(とまぁストーリーとは関係ない部分だし別に良いじゃないか。
)という箇所だ。私の勘違いでなければ、ここでTKO氏が「大仕掛け」「中仕掛け」と言っている二つの仕掛けについて、私は逆の読み方をしていた。つまり前者を「中仕掛け」、後者を「大仕掛け」とみなしていた。どちらの仕掛けを主要な仕掛けとみるかによって、この小説の評価が変わることは当然だが、それ以上にこの小説が読者にどう評価されるかについての評価もがらりと変わることになる。
以上、3冊の小説を巡る感想について感想を述べてみた。結論は次のとおり。
読書は物理的には一人で行う事柄だが、ある意味ではすぐれて社会的な共同作業の一環である。読者と作者の間には互いに相手の意図や欲求を忖度する合わせ鏡の構造があり、また読者どうしの間にも別の合わせ鏡がある。その結果、読書感想文はただ作品に向き合ってそこから受けた印象を虚心坦懐に書きつづるというものではなくて、複雑で混乱したものになり、時には全く筋が通らないものになることもある。だから、私が全く根拠を示さずに『絶望系 閉じられた世界』を絶讃してもいいのである。
あれ、そんな話だったっけ?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050414b
今日、出張で和歌山県田辺市にある西牟婁振興局へ行った。西牟婁振興局というのは和歌山県の出先機関だが、別に役所の人に用があったわけではなく、会議室に用があっただけだ。
とはいえ、せっかく一部で話題の役所に来たのだからということで、昼休みに会議室を抜け出して農林水産振興部農地課の部屋へ行ってみた。目当ての人物のことは役職と名前しか知らないし、アポをとっているわけでもないので、駄目でもともとだと思っていたのだが、幸い件の人は在室していて、初対面の私のぶしつけな質問にも快く回答してくれた。どうも有難うございました……と書いても本人がこのサイトを読んでいるとは思えないが。
既に公表されている以上の情報が得られたわけではないので細かな話は省略する。
明日はもっと遠いところに出張で大いに疲れることが予想されるので、今日はこれでおしまいにする。
参考までにいくつかリンク。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0504b.html#p050415a
いろいろ書いたが、いろいろあって削除。