【日々の憂鬱】ポルノのはずがスポ根になってしまうのはいかがなものか。【2004年6月下旬】


1.11104(2004/06/21) 芦ヶ原伸之、死す

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406b.html#p040621a

今日は台風のせいで散々な一日だった。特に疲れることをした覚えもないのに体がだるいのは、きっとそのせいだろう。そうに違いない。

こんな日はさっさと寝るに限る。


おまけ。炭酸カルシウムガールズから(強調は引用者)。

 夏のコミックマーケット 
 8/14(2日目)−18a 『失礼文学会』さま
 8/15(3日目)−25b 『RoseColor』さまにて委託させていただきます。

わかりにくいネタで申し訳ない。

1.11105(2004/06/22) 火のないところに煙がもくもく

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040622a

私が最も好きな言葉は「幻滅」で、次に同率二位で「絶望」と「失望」が続く。三位はなくて、四位は「挫折」だ。

「絶望」とは読んで字の如く「望みが絶える」という意味で、「失望」のほうは「望みを失う」だ。「望みが失せる」と読むべきかもしれないが、まあ、どちらでも大差あるまい。ともあれ、絶望や失望は希望の後に生じる状況ないし感情である。

以前、私は絶望や失望が希望に派生するものだと考えていた。論理的な順序として希望がまずあり、それを基盤として絶望/失望が生じるのだと。だが、この考えは時間的順序と論理的順序を混同したものだった。今や私は絶望/失望こそがであり、希望はであると主張する。換言すれば、希望とは絶望/失望という目的を実現するための単なる手段に過ぎないのである。ゲーテの言葉を捩っていえば「希望それ自体に意味はないが、意味がないからこそ絶望に値する」(

我々は絶望に至上の価値、究極の目的を見出すべきであり、それが実現したときの失望こそが幸福の名に値するのだ。希望そのものは空虚な妄想に過ぎず、運悪く希望が叶えられたならば、世を呪うがよい。

だが、上述のとおり、希望は絶望/失望の手段であり、希望なきところに絶望も失望もない。崇高な理想も真摯な欲求も唾棄すべき愚昧な観念に過ぎないが、唾棄しつつも全身全霊を賭けて希望を抱かなければならないのだ。夢は大きく期待は深く、無限の沃野のように広がってこそ、真の絶望、この上ない失望が得られるのだから、気を抜いてはならない。

何を求めるかは人それぞれだ。私にとやかく言う権利はない。だが、よりよい絶望/失望に至るために、何であれ真摯に求めるべきだ、と強く主張しておく。


558 名前:名無しのオプ 投稿日:04/06/21 23:05 ID:7fcnyO4f
もえかん予想
○楽志は、いつものように自己満足。
「雰囲気を買ってください」が売りの幻想系ぐだぐだホラーもどき。
○政宗は、いつものように空回り。
本人は渾身の推理も、実は赤ペン入りまくりのチーズチャンピオン。
○滅は、いつものように斜に構えるだろう。
煙に巻かれた気になるが、それもそのはず、滅の文章は煙そのもので本体はない。

感心した。うまいこと言うなぁ。


今日、『学校を出よう!4 Final Destination』(谷川流/電撃文庫)を読了した。3巻もそうだったが、この巻も先に1巻を読んでおかなければならないのが難点だが、ここまで高水準が続くと、続巻を楽しむために1巻を読む価値はあると言わざるを得ない。それでも抵抗がある人は、2巻→1巻→3巻→4巻の順に読むといいだろう。

前2巻と比べると、ストーリー展開がやや冗漫で1巻を彷彿させたが、部分ごとの文章がうまくて飽きずに読み通すことができた。結末で腰砕けにならなかったのも幸いだった。もっとも、339ページから342ページにかけてのある論証は誤っているように思われる。第一に可算無限と非可算無限の区別を行っていない。第二にゼノンのパラドックスと同じ問題含みの前提に拠っている。第三に……いや、たかだか一人の登場人物の主張に反論しても仕方がないからやめておこう。

人生は短く、本は数多い。「学校を出よう!」シリーズをどこまで追いかけていけるかはわからないが、少なくとも次の巻が出れば読もうとは思う。いや、その前に同じ作者の「涼宮ハルヒ」シリーズ(まだ最初の『憂鬱』しか読んでいない)を片づけるべきか。でも、このシリーズは巻数を増すごとにどんどん下り坂になっていっているという噂なので、正直いって手を出すのが怖い。


「希望それ自体に意味はないが、意味がないからこそ絶望に値する」
これは本当はカミュの言葉の捩りだが、箴言や警句の類はなんでもゲーテが言ったことにしておくほうが無難なので、ここでは特に事を荒立てずにゲーテの言葉の捩りということにした。出典は『ファウスト』の第一幕第三場だと仮に推定する。もし支障があれば、『メフィスト』に変更しても構わない。

1.11106(2004/06/23) 菅原孝標女は元気か?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040623a

『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(高島俊男/文春文庫)という本がある。いいタイトルだ。この本を読んだことはないのでただの想像になってしまうが、このタイトルは反語で、本の悪口を言うのは好きだけど、悪口を言いつつもやっぱり本が好き、という意味ではないかと思う。違ってたらごめん。

本の悪口には本への愛情の裏返しとして側面がある、こともないこともない。もっとも「今私が言ってる悪口はただの暴言ではない。溢れんぱかりの愛情の裏返しなのだから、作者は有難く拝聴せよ」などと言ってしまうと話がおかしくなる。だいたい、愛だの恋だのといった言葉を平然と口にできる人の気がしれないのだが、それはまた別の話なのでさておき、悪口は悪口に過ぎないのであって、他人(その本の作者や愛読者など)に甘受するように押しつけるべきものではない。「愛の鞭」と表現したからといって体罰が正当化されるわけではないのと同じだ。

部屋の中で、ひとり本を読んで「つまんねー」と言うのは勝手だが、自分の感想や意見を他人に向かって発するなら、そこには自ずと責任が生じる。インターネットで世界に向けて発信する(註1)ならなおさらだ。匿名掲示板なら通常の場合は発言者が特定されないままのことが多いので筆禍の恐れは少ないが、それでもやはり責任が生じていることに違いはない(註2)。

私はよく本の悪口をこのサイトで書いている。ミステリの場合だと比較的はっきりとした評価基準があるので、悪口であってもある程度の客観性を持たせることができる。「あなたがこの基準に現に同意するかどうかは別として、もし仮にあなたがこの基準を採用したと仮定するならば、あなたもこの本に私が見出したのと同じ欠点を見出すはずだ」という論法が使える。だが、ほかのジャンルの場合には、この方法は使いづらい。SFやホラーにも似たような基準があるようだが、私はそれらのジャンルに通じていないので使いようがない。それ以外のジャンルには、そういった基準があるのかどうかすら定かではない。そして、ある作品がどのジャンルに属するのか(またはどのジャンルにも属さないのか)ということは自明ではなく、最近特に判断に迷う例が増えている。

近頃私はライトノベルばかり読んでいる。このままではラノベしか読まないキモオタ(註3)になってしまうのではないかと若干の不安があるのだが、暑くて読書意欲が減退している(註4)ときでも読めて、読み終えたらそれなりに充実感があるので、今しばらくはこの状態が続く見込みだ。秋が来て涼しくなるのが先か、ライトノベルに食傷するのが先かは、今のところわからない。そこで、当サイトでもライトノベルの読書感想文が増えてくることになるわけだが、そこで悪口の問題が発生する。ライトノベルという枠組みはそもそも従来の「ジャンル」とは別物であり、今のところ定義づけも満足にできていない状態だから、確立した評価基準などない。さて、どうしようか。

ネガティヴな感想を一切書かず、ただ誉めるだけにするのが最も無難で賢明だ。しかし、何度も言ってることだが、私は誉めるのが苦手だ。「面白かった」で終わってしまう。これでは物足りない。もっとも、感想文を短くまとめれば、その分時間があくから、次の本にとりかかることができる。平日の自由時間のほとんどサイト運営に充てるという生活から抜け出す、いい機会かもしれない。

そんなことを言いつつ、こうやっていつものように長文を書いているのだから、サイト運営のあり方を見直すつもりがないことは丸わかりだが、それでも感想文の書き方は見直したいと思っている。まず、今日読んだ本から始めよう。『バッカーノ! 1931 The Grand Punk Railroad』(成田良悟/電撃文庫)の2冊(「鈍行編」と「特急編」)だ。この感想を一言で言えば、「面白かった」。いかん、全然見直しになっていない。

本の面白さにもいろいろあるが、成田良悟の場合は、いったん読み始めたら止まらないという類の面白さだ。「ジェットコースターノベル」という言葉があるが、それほどのスリルやサスペンスがあるわけではない。なのに続きが読みたくてたまらなくなるのは、こまめに場面を切り替えて読者を宙ぶらりんにする技巧によるものだろう。国枝史郎や古龍を思わせるうまさだ。私は昨夜「鈍行編」を読み始め、今朝の通勤途中に読み終え、すぐに「特急編」にかかり、会社を早退して昼過ぎに全部読んでしまった。新刊で読んだ人は「鈍行編」と「特急編」の間で1箇月待たされて、さぞいらいらしたことだろう。

成田良悟の小説はあと2冊未読だが、この分だと近々読破してしまいそうだ。


上の話題に関連して、本の感想ネタ二件。

まず、日刊海燕から(6/23付[雑談]

読み終えて、「金返せ!」と云いたくなる本は、たしかにあるだろう。しかし、「返してやるから二度とおれの本を読むな!」と作者が云いたくなる感想もまたあるのではないだろうか。

これは確かにあるだろう。実際に作者から抗議を受けたことはないが、私も過去に何度か「もしこの感想文を作者が読んだら怒るだろうな」と思いながら感想文を書いたことがある。もっとも、「金返せ!」とは書いたことがないはずだ……たぶん。それを書いてしまったら、作者/読者の関係を生産者/消費者の関係に還元してしまうので。

次はまいじゃー推進委員会!6/23付『ま、今更言うようなことでもないんですが』)から。

例えば中盤、あるいはもっとまえの序盤、さらにもっと前読み始めて5分でオチが読めてしまう作品があったとします。
その作品は「つまらない」のでしょうか?
他の作品と比較して粗が目立つ作品は駄目なのでしょうか?

これはたぶん何か特定の作品や感想を念頭に置いた文章(註5)だと思うのだが、どういう脈絡があるのかは私にはわからない。ピントはずれなのは承知のうえで一般論を書くと、読み始めて5分でオチが読めてしまうからつまらないというのは飛躍のある言い方だと思うし、悪口としてもつまらない。

同じ箇所の少し後で、私的には短所ばかり目につくのってつまらんよなあ……と思うのですね。と書かれていて、これはこれで一理ある。ただ私は、短所ばかり目につくつまらなさを何とか面白さに転じることができないものか、とも思う。ひどく逆説的な言い方(註6)で、私自身この言い回しに実質的な意味があるのかどうかわからないのだが。


何を書いているのか、だんだんわからなくなってきた。腰砕け状態だが、今日はこれでおしまいにしようと思う。本当は、今日の見出し(註7)に掲げた話題に繋げていきたかったのだが、やむを得ない。


1.「インターネットで世界に向けて発信する」
今の若い人は知らないかもしれないが、昔インターネットは文字通りインターナショナルなものだと考えられていた。
2.「責任」
ここでは事実レベルの尻ぬぐいの話ではなく、より抽象的なレベルの話をしている。また、個人の内面の「責任感」の話をしているわけでもない。「責任」という語を「責任をとる」という文脈でしか理解できない人にはかなり難しい話になるが、そのような人相手にうまく説明できる言葉を私は持たないので、これ以上は踏み込まない。
3.「ラノベしか読まないキモオタ」
以前、某所でそう書かれて閉口した覚えがある。「そう仰るあなたはさぞや良書をお読みなのでしょうね」と嫌みの一つも書いてみたかったが、場が荒れると困るのでその時は無視した。
4.「暑くて読書意欲が減退している」
そのせいで、光文社文庫版江戸川乱歩全集読破計画も滞っている。どんどん本が溜まっていくので、何とかしなければならないのだが……。
5.「特定の作品や感想を念頭に置いた文章」
「安あがり」な人間とかただの甘ちゃんな一読者という表現からの推測。この種の言い回しには違和感があるのだが、文脈を無視してこれだけ取り上げても仕方がないし、背後に何があるのか詮索する気もない。
6.「ひどく逆説的な言い方」
たぶん私の発想の根本には昨日の記事で書いたような価値観転換志向があるのだろうが、自分で自分の心理を分析するのはしんどい。誰かわかりやすく説明してくれないだろうか?
7.「今日の見出し」
菅原孝標女は『更級日記』の作者。少女時代の物語への憧れを綴った一節が印象に残っている。というか、私はその一節以外読んだことがない。

1.11107(2004/06/24) 魔が差した

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040624a

昨日、『バッカーノ! 1931 The Grand Punk Railroad 特急編』(しかし、えらく長いタイトルだ)を読むために会社を早退した、とは既に書いたとおりだが、帰宅途中に駅の本屋(駅長室のある建物という意味ではなく、駅の中にある書店のこと)に寄ったことは省筆していた。別に秘密にしたかったわけではなく、文章の流れにそぐわないと思ったからに過ぎない。

本屋に寄ったのは単に電車待ちのついでで、特に何が何でも買いたい本があったとか、本当は買いたくはないのだが買わざるを得ない呪いが私にかかっている本があったとか、そういう特殊事情はなかった。だが、せっかく寄ったのだから、この機会に『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流/角川スニーカー文庫)を買うことにした。

それだけでやめておけばよかったのだが、さらについでのついでにもう一冊本を買ってしまった。同じライトノベルコーナーの平台に置かれていた新刊だ。作者も絵師も全然知らない人で、どうしてそんな本を買ってしまったかといえば、ただタイトルに惹かれたからとしかいいようがない。今から思えば、その本の口絵と『涼宮ハルヒの溜息』の表紙絵に多少似たところがあって、それが共通点と言えなくもないのだけれど、たぶんそれは購入のきっかけではないはずだ。

日々ラノベは大量に生産されて消えていく。中には面白い本もたくさんあるとはわかっていても、どれが面白い本なのかは私には見当もつかない。だから、基本的に私は新刊には手を出さないことにしている。本当に面白い本ならどこかで誰かが誉めるだろうから、それを待ってからでも遅くはない。時には、新刊本の激流に呑まれてあっという間に店頭から姿を消すこともあり、「そういえば、あの本、一旦手にとったことあったなぁ」と遠い目で過ぎ去りし日々を思い起こすこともあるが、それはそれで仕方がない。本との出会いは一期一会、運悪く入手できなかった本とは縁がなかったと思って諦めるのがいちばんだ。

にもかかわらず、私は誰の感想文も書評も参考にせず、新刊を買ってしまった。さっきは「タイトルに惹かれた」と書いたが、よく考えてみると別にそう目立つタイトルでもない。いったいこれはどういうことなのか小一時間問いつめてみたい気もするが、誰を問いつめたらいいのかすらわからない。責任者出てこい!

ともあれ、買ってしまったものは仕方がないので、読むことにした。読み始めた。読み続けた。読み終えた。で、感想だが……激しく面白いというわけではなく、でも退屈せずに読めたのだからそれなりに面白かったはずで、でもラノベの年間ベストを選んでもたぶん選外だろうと思われるタイプの軽い小説で、ある意味では本当にラノベらしいラノベといえなくもないのだが、あまりラノベに詳しくない私ごときがそんなことを言ってしまっていいのだろうかという疑問も少しはあるのだが、言ってしまったのだから仕方がないのでもう少し続けると、本来ラノベというのは肩の凝らない娯楽であって、読み終えた後で反省熟慮の上批評したり採点したりするのはむしろ邪道であり、それを読むことによって一時の暇つぶしができたならそれでよしとすべきなのであるから、読み終えたラノベは古本屋に売るなり火にくべて芋を焼くなり適宜処分すればよいのである、などとちょっと物議を醸しそうな極論を書いてみたわけだが、少なくとも私はラノベを燃やしたことは一度もなく、また古本屋に売り飛ばしたこともたぶんなかったはずで、どうして売らないかといえば出版業界の現状を憂いているからではなく、単に買い取り価格が安くて損をした気になるからなのだが、ともあれ私はこれまでに自分で買って読んだラノベのほとんどを部屋の中に積み上げてあって、知らず知らずのうちにそれが巨大な山になり、さらに集積された本が回路の役割を果たして演算可能になり、知性が生まれ、文明のあけぼのを迎え、科学が発達し、宇宙に飛び出すまでに至っているのだが、いくら何でもそれは嘘だと思う人もいるだろうが、今日はエイプリルフール、嘘をついてもいい日なのだ、とさらに嘘で塗り固めたところで、昨日買った本に話を戻すが、ここまで書いてしまったらもうまともな感想など書けるわけもなく、ただ「ベタだけど面白かった」とだけ書いておくことにしよう。

なお、参考のため、その本のタイトルもいちおう書いておくことにしよう。『南青山少女ブックセンター(1)』(桑島由一/MF文庫)だ。

1.11108(2004/06/25) 寡黙な奴ほどよく喋る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040625a

ご近所の皆様、ご通勤中の皆様、おはようございます。こちらは日本静かな生活党、日本静かな生活党でございます。朝早くからお騒がせしています。

日本静かな生活党は、皆様の静かな暮らしを応援します。音の公害に悩まされずに静かに生きる権利、静謐権を声を大にして訴えてまいります。今度の惨戯淫選挙では、ぜひ日本静かな生活党、日本静かな生活党に、皆様の清き一票をよろしくお願いいたします。

有難うございます、有難うございます。皆様の熱い声援を糧にして、私たち日本静かな生活党は、静謐権の確立に向けて、力強く大きな声で訴えていきます。日本静かな生活党、日本静かな生活党をどうかどうかよろしくお願いいたします。

1.11109(2004/06/26) ただいま読書中

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040626a

いま私が読んでいる本を次に掲げる。順番には特に意味はない。

  1. 『剣客商売六 新妻』(池波正太郎/新潮文庫)
  2. 『哲学・航海日誌』(野矢茂樹/春秋社)
  3. 『あなたの人生の物語』(テッド・チャン/浅倉久志・他訳/ハヤカワ文庫SF)
  4. 『お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い』(高島俊男/文春文庫)
  5. 『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流/角川スニーカー文庫)

「いま私が読んでいる」と書いたが、もちろん、この文章を書いているいまこの瞬間に読んでいるというわけではない。ここでいう「いま」には幅がある。だいたい過去三日くらいだ。もっと幅を広げればほかにも「読んでいる」本は多いのだが、それらの本についてはむしろ「読むのを中断している」とか「読むのをやめた」と表現するのが適切だろう。

こうやって書き上げてみると、ジャンルはばらばらで私の関心の散漫さがよくあらわれている。だが、乱読というほどではなく、自慢にもならない。まあ、読んだ本のことで自慢するのは往々にして醜いものなので、自慢にならないのはいいことかもしれない。でも、読んだ本のことくらいしか自慢の種がない人間にとってはちょっと悲しい。

上のリストを見て気づいたのだが、この中にはミステリが一冊も入っていない。考えてみれば、私が最後に読んだミステリは『紅楼夢の殺人』(芦辺拓/文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ)で、読み終えたのは6/7のことだった。今から19日前のことだ。19日といえばおよそ20日、20日といえば二十日鼠や二十日大根が生育するのに十分な期間だ。鼠や大根はミステリを読まないから引き合いに出してもあまり意味がないのだが、もしかすると浦安に巣喰う薄汚い米帝の鼠はミステリを読むかもしれない。齧歯類の癖に犬を飼っている奴だから油断ならない。あのような鼠は早く駆逐するほうが世のため人のためだと思うのだが、ライバルの大阪工場跡地の施設に比べると二倍以上の集客力を誇っており、しばらくその優位は揺らぎそうもない。というか、大阪の例のアレは今年のゴールデンウィークの来客数では和歌山の名もなく貧しく美しい(?)娯楽施設に負けて、業界第三位に転落してしまった。ああ、何と哀れなことであることか。地下の六価クロムも泣いてるぞ。

……遊園地やテーマパークの経営に興味がない人にとっては全く意味不明のどうでもいい話はこれくらいにしておこう。

『紅楼夢の殺人』は確かに傑作で、あれを読んでしまったらしばらく他のミステリは読まなくてもいいと思えるほどなのだが、このまま全然ミステリを読まずに一生を終えたら、『紅楼夢の殺人』が私が読んだ最後のミステリとして墓銘碑に刻まれることになる。それはちょっと待ってほしい。だが、遺された日々を費やすに足りるミステリを私は未だに発見できていない。もう少し平たく言えば、次に何を読むかまだ決めていない。

手許には『スペース』(加納朋子/東京創元社)があって、今すぐにでも読み始めることができるのだが、あちこちのサイトの感想文を読んだ限りでは、『ななつのこ』や『魔法飛行』と関連している箇所がかなりあるようだ。どちらも初刊時に読んではいるのだが、それは遙か大昔、まだポパーやクワインやハーバーマスが生きていた頃のことだ。ハーバーマスは今でも生きているはずだが、彼の生存と私の記憶保持には因果関係もなければ相関関係もない。確かなのは、私は既に『ななつのこ』と『魔法飛行』の内容をほとんど忘れてしまっているということだ。

今、部屋の本の山を引っかき回したら、運良く『ななつのこ』と『魔法飛行』が、おそらく20世紀末に形成されたとみられる地層から出土した。おお、『ななつのこ』の装画は渡辺啓助ではないか。

これで、創元推理文庫版で買い直すという最悪の事態は回避できたのだが、もう一つ大きな問題が残っている。それは、発掘作業中の不慮の事故によって、『スペース』が崩土に埋もれて行方不明になってしまったということだ。さよなら、私の『スペース』、本屋の袋を開いてさえいなかったけれど、君の思いでは一生忘れないよ。

この問題に比べると対したことではないのだが、『スペース』を読むために過去の二冊を読み返すのにはためらいがある。いや『魔法飛行』はいいのだが、『ななつのこ』が……。

他の人はどうだか知らないが、私の場合、何を読むかは往々にして弾みと勢いで決まる。読みたい本とか読んでおくべきだろうと思う本があっても何となくずるずると積んでしまうこともあれば、別に読む気はなかったのに、他人のサイトのコメントや感想を読んで弾みがついて、ついふらふらと読んでしまうこともある。たとえば、一年前に投げ出した『学校を出よう!』(谷川流/電撃文庫)に再度挑戦する気になったのは、ここにも書いたとおり、まいじゃー推進委員会!学校を出よう!2巻感想リンク集が目に止まったからだ。ほかには、うたたねこや狙い撃ちで『太陽の塔』(森見登美彦/新潮社)を読んだという例もある。

さあ、勇者よ出でよ! 私を『スペース』をより楽しむために『ななつのこ』と『魔法飛行』を再読してみようという気にさせてくれたまえ。さすれば、崩落現場を再発掘して『スペース』を読むことにしよう。発掘できなければ、もう一冊買ってもいい。

なお、煽りには相応の危険が伴うので、注意されたい。面白くなかったら窓から投げ捨てます。地上の歩行者めがけて力強く。それと、作者の関係者(例:上京した際に家に泊めてもらったことがある人)の言葉はいくら本心から出たものであっても多少割り引くことにする。

……思いつきで文章を書いていると、どんどん変な方向へ進んでしまう。本当は『スペース』のことに言及するつもりはなく(従って、『ななつのこ』と『魔法飛行』を発掘する気もなく)、いま読んでいる本についていい加減な感想を書いて適当に締めくくろうと思っていたのだが、話の流れというものは恐ろしいもので、しばしば筆者の意図をも超越する。

だが、さすがにそろそろまとめにかかったほうがいいようだ。

今日、スカベンで『CLANNAD』に言及(6/26付「『CLANNAD』に手を出してみた」)しているのを見かけて焦りを感じた。別に煽りではないのだけど、やはり積みゲーで済ますのはもったいないです。という言葉が、まるで『CLANNAD』の冒頭で投げ出した私に向けた叱咤であるかのような気がしたのだ。本とゲームでは少し事情が違うかもしれないが、積みっぱなしではいけないのは同じこと。崩すペース以上に、積み上がってく本が増える現状はなんとかせんとなあ。という悩みは万人が抱えている(必ずしもすべての人が共有する問題ではないだろう。しかし、この問題に悩まされている人は少なくとも一万人はいるに違いない)ものだが、その中でも少しずつ着実に片づけていこうと努力している人もいるのだ。私も精進しなければ。でも、私は夏コミまでにクリアできるかなぁ。

とりあえず、冒頭に掲げた5冊のうちで最も文章の硬い『涼宮ハルヒの溜息』を読んでしまうことにしよう。できれば今日中に。

1.11110(2004/06/26) 続・ただいま読書中

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040626b

前回の文章をアップした後、『涼宮ハルヒの溜息』(谷川流/角川スニーカー文庫)を黙々と読み進め、つい先ほど全篇を読み終えた。快挙だ。以下、少し感想を書いておく。

シリーズ第一作の『涼宮ハルヒの憂鬱』は鳴り物入りで世に出た。例外もあったが、概してネットでの評判は高く、私も誉めている。投げやりな書き方だが、私が『憂鬱』を読み終えたときには、既にネット上に多くの『憂鬱』評や感想文が出回っていたからだ。「他人と同じことを書いても仕方がないから何か違ったことを書こう」と身構えたら、あんな変な感想文になってしまった。

一作目が面白かったので、順当にいけば二作目の『溜息』が出たときにすぐに買って読んでもおかしくなかったのだが、何の因果か私はスルーして、そうこうするうちにあちこちで『溜息』に関するあまり芳しくない感想文がちらほら出てきて、結局読まずじまいになっていた。

今日、ようやく『溜息』を読み終えて「確かに『憂鬱』を読んで絶讃した人々が期待して読んだらがっかりしても仕方がない内容だ」と思った。『憂鬱』の長所だった卑近な日常と壮大な世界観との対比による驚きが『溜息』には既になく(そりゃ、続篇なんだから当たり前だが)、前作で示された設定の全体が日常の中に取り込まれてしまっている。ところどころに奇想が見られるものの、前作に匹敵するほどではない。そのかわりにキャラクター小説の要素が目立つ。もちろん、ライトノベルとしてキャラクターや萌えを重視するのは当然のことで、戦略的には正しいのだが、『憂鬱』をライトノベルの枠組みを超えた傑作として評価した人には、この路線は苦々しい感じられたことだろう。

私は、『溜息』が出版された直後に読まなくてよかったと思う。もしその頃に読んでいたなら『憂鬱』との落差ばかりに着目して、きっと楽しめなかっただろうから。

『学校を出よう!』シリーズを1巻から4巻まで続けて読んで、この作者の作風や文体にある程度馴染んでから『溜息』を読むと、細かなネタや筋回しが面白くて、事前に思っていたよりもずっと楽しめた。『憂鬱』で初めて谷川流という作家に出会った時のような衝撃はないけれど、馴染みの定食屋の日替わり定食のような安心感があって、これはこれでいいものだ。

とはいえ、手放しで誉めるというほどではない。中盤までは朝比奈みくるを弄り回す描写ばかりが目立ってストーリーが平板だし、終盤(具体的には238ページ付近)で面白そうな趣向が暗示されるものの、ほとんど展開することなく締めくくってしまう。これは惜しい。もし、この趣向を中心に物語を組み立てていたら、谷川流版『愚者のエンドロール』とでも言うべき傑作になっていたかもしれないのに。

いろいろ書いたが、これも乗りかかった船、しばらく谷川の流れに身を任せてみるのもいいかもしれない。これからどんどん川を下ることになろうとも、水準以下ということにはならないだろうし。

1.11111(2004/06/27) 燃えかす

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040627a

今日も朝から読書に励み、昨日の読書中リストのうち『哲学・航海日誌』以外の本を昼過ぎまでに全部読んだ。その中で、特に面白かったのは『あなたの人生の物語』だが、これは去年かなり話題になって、ふだんSFをあまり読まない人も手を出したくらいだから、遅れてきた私が今さら感想を述べても仕方がない。非常に良質な中短篇集だった、と言うだけに留めておこう。

ところで、『あなたの人生の物語』については、その内容を別にしてもちょっとした感慨がある。というのは、これは私が久々に読んだ海外翻訳小説だからだ。私の記憶違いでなければ、アルテの『第四の扉』以来だと思う。たぶん一年ぶりだ。その間にも『髑髏島の惨劇』に挑戦して挫折したりはしているのだが、一冊読み切った本はない。

読書意欲が減退すると、まず海外物の小説が読めなくなる。次に国内物も読めなくなるのだが、その中でも順番があって、ミステリが読めなくてもライトノベルなら読める時期もある。さらに衰退すると小説が全然駄目になり、実用書や教養書の類しか受け付けなくなる。調子のいいときにはあまり気にならないのだが、フィクションの世界に入り込むには、それなりの負荷がかかっているのだろう。

一時期、まったく本が読めなくなったことがあり、その間はゲームばかりしていたのだが、今は逆にゲームをする気がおこらないかわりに、本にはあまり抵抗がない。とはいえ、私はすっかりとしをとってしまい、若い頃のような読書意欲はもう戻らない。海外物の、しかもSFなど到底読み通すことは能わないだろう、と半分諦めていた。それだけに『あなたの人生の物語』が読めたということは、私にとって大きな意味を持っている。まだ生きている、死んだわけではない。

この勢いにのって、『フェッセンデンの宇宙』に取りかかってはどうか。そんな考えが一瞬脳裏をかすめた。しかし、もしこれで挫折してしまったなら、私の自信は脆く崩れ去ることだろう。あまり調子に乗らないほうがよさそうだ。

私は自分の読書能力についての迷いを胸に抱いたまま、あてもない旅に出た。

三時過ぎに帰ってきた。

旅の途中で入手した『ブルー・ハイドレード〜融合〜』(海原零/集英社スーパーダッシュ文庫)を読み始めた。日本人のような作者名だが、カバーの「主要登場人物」欄にはカタカナ名前が羅列されているので、もしかしたら翻訳小説かもしれない。だが、詳細は不明だ。「著者紹介」欄を見ても、作者の目覚まし時計の電池が切れていたらしいということがわかるだけで、代表作もわからない。オビにはあの海原零の新シリーズ!と書かれているので、おそらくこれがデビュー作だということはないはずだが……。そこで、奥付の後ろの広告ページ(ページ数を8の倍数だか16の倍数だかに合わせるためのおまけページ)を見たのだが、いちばん最後のページに小さく名前が出てくる程度で、結局この作家の既刊一覧はどこにもなかった。どうしてスーパーダッシュ文庫には著者既刊リストがないの…? 1巻か2巻かさえわからない、シリーズものかどうかも分からないなんて願い下げなのです☆ 私はスーパーダッシュ文庫とは縁遠い生活を送っていたので、これまであまり気にしてはいなかったのだけど、確かにごもっとも。あとでこれに一票投じておくことにしよう。

で、先ほど読み終えたのだが、燃えつきてしまったので、今日はもう感想文を書く体力も気力もない。明日以降にしよう。

1.11112(2004/06/28) 『ブルー・ハイドレード』の短い感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040628a

まず昨日の補足から。『ブルー・ハイドレード〜融合〜』(海原零/集英社スーパーダッシュ文庫)について、日本人のような作者名だが、カバーの「主要登場人物」欄にはカタカナ名前が羅列されているので、もしかしたら翻訳小説かもしれない。と書いたが、よく考えると翻訳者名の表示がないので、翻訳小説ではないと考えるのが順当だろう。

で、この小説を読んだ感想だが、『銀河英雄伝説』と『沈黙の艦隊』を足して二で割ったような感じがする。とはいえ、私はどちらも断片的にしか読んでいないので、きちんと比較検討することはできない。

設定について解せないのは、いったん人口は2万人を割り込んだのに、400年以上の時を経て、130万人を越えるまでに回復したということ。この人口増加は不可能ではないにしても、かなり不自然だろう。これが続巻への伏線になっていることを期待したい。

ストーリーの展開にも不自然なところがある。特に第6章と第7章はかなり御都合主義的だ。ブラッカステイツに反逆者がいて何らかの理由で主人公たちの行動を手助けする、ということなら納得できたのだが。だが、そんなエピソードを入れようとすると、そこだけでページ数が膨らんでしまい、この巻全体の構成を破壊することになったかもしれない。なかなか難しいものだ。

では、キャラクターはどうか。主要登場人物は十代の少年少女だが、それぞれに背景を抱えていて一癖も二癖もある。これはなかなか面白そうだ。もっとも、まだ物語が動き出したばかりで、十分にキャラが立っているとは言い難い。

今のところ私が積極的に評価できるのは、戦闘シーンでサスペンスを盛り上げる筆致のうまさ、確かさだけである。「だけ」と書いたが、これはなかなか凄いことだ。読んで悔いはなかった。

今回はほんの序盤で、今後は戦術の面白さより戦略の面白さに重点を移していくことになるのだろう。波瀾万丈で痛快無比な展開になることを祈っておく。できれば、登場人物の名前や属性を忘れる前に2巻を読みたいものだ。

1.11113(2004/06/29) 法の献血

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406c.html#p040629a

今日の見出しは全く無意味だが、無意味だからこそ見出しに値するのだ。そういうことにしておく。

今日、久しぶりに献血した。血をたっぷり抜かれた。成分献血だったので、かなり時間がかかり、その間、『涼宮ハルヒの退屈』(谷川流/角川スニーカー文庫)を読んでいた。その成果あって(?)全話読み終えることができた。

表題作のほか三篇収録されているが、献血して疲れたので、いちいち各話について感想を書くのはやめておき、巻末の『孤島症候群』についてのみ多少コメントしておく。なぜ、これを選んだかというと、ほぼ純粋なミステリ仕立てになっているからだ。「クローズドサークル」と「密室殺人」という古典的なミステリの道具立てだ。

「ハルヒ」シリーズなのだから、一見したところ密室殺人のような状況でも、実は犯人は透明人間だった、とか、死体が壁抜けをして室内に転がり込んだ、とか、その手のネタを使っていてもおかしくはない。だが、仮に超自然現象を全く用いないとすれば……と考えながら読むと、序盤でオチが読めてしまった。

読み始めて5分でオチが読める小説はつまらない。そう考える人もいるだろうし、それはそれで個人の自由だから私がとやかく言うことでもない。ただ、予想されたオチに向かってどのように物語が展開し、まとめられているのかを楽しむという読み方もあることを理解してほしいとは思う。数学には計算問題ばかりではなく証明問題もあるのだ。

ミステリのルールに無頓着な作家が書いた小説だとひとつひとつの文を吟味しながら読んでも仕方がないのだが、この作者はその点非常に生真面目で(それがオチが読める一因でもあるのだが)、予想しているオチと小説内の文章を照らし合わせながら、微妙な言い回しの工夫を味わうことが可能となる。その結果はあえて書く必要はないだろう。各々の読者が自分で判定すればいいことだから。

で、事件の核心に関わる箇所はかなり気合いを入れて読んだつもりだったのだが、さりげなく張られた伏線のいくつかは読み飛ばしてしまっていた。たとえば、263ページ2行目で示されるデータは298ページ11行目で偽の解決を反駁するデータとして回収されるのだが、いま読み返してみるまで全然気づかなかった。

『学校を出よう!3』や『涼宮ハルヒの溜息』などでミステリに言及しつつも、どちらかといえば装飾的な扱いだったため、「この人は読書家としてはミステリの教養をある程度身につけているようだが、作家としては完全にSF系の人なのだろう」と考えていた。だが、『孤島症候群』を読んで考えがかわった。この作品そのものを優れたミステリとして持ち上げるのにはためらいがあるが、そこに見られるミステリ作家独特の手筋を十分に発展させれば、きっと傑作ミステリが書ける人に違いない、と。

もっとも、谷川流が真正面からミステリに取り組んだとして、かけた労力に見合うだけの支持を集められるかどうかは定かではないけれど。

ところで――大方の読者にとってはどうでもいいことだろうが――献血のあと、私は粗品として洗剤をもらった。これで血のついた服を洗ったら、血で血を洗うことになるのではないだろうか?