【日々の憂鬱】蕎麦屋のカレーに行列ができるのはいかがなものか。【2004年12月中旬】


1.11236(2004/12/11) 気分はダモクレス

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頭上のバナー広告が落ちてきそうで不安だ……。12/9にトップページの最上部に貼ったバナー広告のことを指している)


12月は忘年会シーズンだ。私も渡世の義理でいくつか忘年会に参加する予定になっていて、まずは一昨日一つ片づけた。苦痛だった。

もっとも、すべての忘年会が苦痛だというわけではない。自発的に参加する忘年会もいくつかある。今晩、私が参加する忘年会は、趣味のサークル活動(何の趣味なのかは秘密だ。別に秘密にする必要はないが、何もかも書いてしまってはつまらない)関係の会なので、絶望的な孤独を味わわずに過ごせる。

これが渡世の義理の忘年会だと、そうはいかない。もしかしたら関係者が読んでいるかもしれないのであまり下手なことは書けないが、控えめに言えば酒を口実に下劣な本性を丸出しにした尊大な烏合の衆に放り込まれて、めまいと頭痛に襲われるのだ。そんな時、私は周囲の雑音から自分の意識を引き離すために、全然別のことを考えることにしている。たとえば……。

「自然数の足し算しか知らない人に『-3×1.5=-4.5』という数式を理解させるにはどうしたらいいか。負の数の説明をするには『-xとは0からxを引いた数である』と言えばいいのだが、引き算を知らない人にはその説明は通用しない。もっとも、引き算は足し算の過程を逆にしたものだから、足し算を知っている人になら説明できるだろう。また、小数は分数に書き換えることができるが、分数を理解できるためには割り算を知っていなければならない。割り算は掛け算の反対だから、まずは掛け算の説明をする必要がある。件の数式自体が掛け算なのだから、いずれにせよ掛け算を理解させないと話にならない。では、足し算を使って掛け算を説明するにはどうしたらいいのか。『2×3=6』のような簡単な式なら『2+2+2=6』と同じ事だ、と説明すればいいのではないか。いや、ちょっと待てよ。『2に3を掛ける、とは、2を3つ足し合わせるということだ』と言う説明は、足し算しか知らない人に通用するだろうか? 『2+2+2=6』という数式には数3は現れていないから、この数式に含まれている『2』の個数から3を導き出すことができるのでなければ、これが『2×3=6』と同じであることはわからないだろう。仮に、無理矢理このふたつの数式が同じだと叩き込んだとしても、別の式『2×18=36』に出会ったときに、これを『2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2+2=18』に書き換えることはできない。この書き換えには、数を順番に数える能力が必要だ。では、自然数の足し算を円滑に遂行できる能力のうちに数を数える能力は含まれていると考えていいのだろうか? 実際問題としては、数を数えられないのに足し算だけできるということはまず考えられないが、原理的にもそうなのだろうか?」

まだ考察は続くのだが、たぶん当サイトの読者諸氏にとっては全く興味のない話だと思うので、この話はここでおしまいにする。忘年会の話もこれで終わり。


以下、ネット上の話題について適当に書いてみる。タイムリーな話題もそうでない話題も一緒くた、定期巡回サイトもあれば、たまたま訪れただけのサイトもある。共通点は本に関する話題ということだけで、特に話題相互の関連はない。


日刊海燕待望『12月のベロニカ』感想文が掲載された。ただし、待望していたのは石野休日氏で、私は単に生暖かい目で見守っていただけである。もちろん、脅迫した覚えなどない。

『12月のベロニカ』(貴子潤一郎/富士見ファンタジア文庫)は感想文が書きにくい作品で、特に未読の人向けの紹介はかなり難しいのだが、海燕氏は過去のファンタジア小説大賞と対比させながら、いちばん危険な粗筋紹介も難なく乗り切って、この作品の長所と短所を的確に把握してバランスのとれた文章にまとめ上げている。その分、熱意に欠けているような印象も受けるのだが、もともと石野氏の脅迫で書かされたものなので、そこまで要求するのは酷というものだろう。

ところで、海燕氏が感想文執筆宣言した日のコメント欄にはこの人この人が『ベロニカ』関係で書き込みをしている。この事だけをとってみても、今日刊海燕がいかに注目されているサイトであるかがわかる。早く芽を摘まなければ、もとい、今後の活躍が楽しみだ。


[ライトノベル]作家生年順一覧medicinemanの日記)を見た。井上ほのかと五代ゆうと谷川流が同年生まれ(1970年)だと書かれていて、ちょっと意外だった。たぶん、作家の"世代"に関するイメージは、その作家がいつ頃デビューしたかということに左右されるのだろう。

なお、この件についてのツッコミはご遠慮いただきたい。


フランス書院連載Web小説が開始。ついでに作者のサイト一日一歩〜青橋由高の特別でない毎日〜を見ると、ジュブナイルポルノ作家わかつきひかるのホームページへのリンクがあったので、ついでのついでにそれも見た。『銀盤プリンセス』の自解が興味深かった。

ところで、私は「ジュブナイルポルノ」という言葉を今日生まれて初めて知った。何だか新鮮だ。


一部の読書人の間では有名なサイト(らしいが、私が知ったのはつい最近のことだ)一部の読書人に捧げる!「本読みHP」を拾い読みしてみた。

どのコラムも面白いのだが、パロディならドラえもん犯科帳大造じいさんとパンチラが双璧、考察系ではクラムボンの正体 〜「やまなし」読解〜がベストだと思う。こんな文章、できるものなら私も書いてみたい。書けないけど。

また、山口椿や森岡浩之、倉坂鬼一郎、茅田砂胡(正しくは「倉鬼一郎」)と微妙な作家名を列挙した長崎新幹線「かぎり」は、読書人であろうがなかろうがすべての日本人が必ず読むべきだと私はこそ主張する。かつて戦艦大和を建造し、伊勢湾干拓を為し、青函トンネルを掘り抜いた我が民族に、不可能の文字なし! 進め、一億火の車。

閑話休題。この「本読みHP」内の文章で私がもっとも気に入っている(といっても、まだ全部読んだわけではないが)のは、真実昔話 秘本・菊の花咲じいさんだ。タイトルだけなら光原百合みたいだが、光原ファンは読まないほうがいいかもしれない。

1.11237(2004/12/12) 君は知っていたか! 「青春18きっぷ」でグリーン車自由席に乗れることを

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昨日、忘年会の前に「青春18きっぷ」の常備券を買った。マルス券はみどりの窓口のある駅ならどこでも買えるのだが、常備券はどこにでもあるというわけではない。というかJR西日本以外に常備券があるのかどうかすら知らない。

で、その「青春18きっぷ」をもって忘年会に赴くと、そこで会った人に「今回からグリーン車に乗れるようになったのを知ってますか」と言われた。

知らなかった。

きっぷの裏面(マルス券だと別紙)の注意書きを見ると、確かに次のように書かれていた。

  1. 普通列車の普通車に乗車する場合で、座席指定券・乗車整理券又はライナー券の必要な場合は、別に座席指定券・乗車整理券又はライナー券をお求めください。
    グリーン車自由席にご乗車の場合は、別にグリーン券をお求めください。
    グリーン車指定席にご乗車の場合は、グリーン券のほか普通乗車券を別にお求めください。

ちょっとわかりにくい。家に帰ってから「JTB時刻表」12月号を見ると、もっとわかりやすく説明してあったので、そちらも引用してみよう。

この冬もおなじみの「青春18きっぷ」が12月1日(水)から発売されます。今回から青春18きっぷをお持ちの場合、東京付近などの普通列車のグリーン車自由席は、別に普通列車グリーン券をお求めになれば乗車できるようになります。なお普通(快速)列車であっても、グリーン車の指定席にご乗車の場合は、従来どおり指定席グリーン券のほかに普通乗車券も必要となります。(略)

青春18きっぷでグリーン車に乗れるようになった理由はわからないが、この前のダイヤ改正時から東北本線や高崎線の普通列車にもグリーン車を連結するようになったことと何か関係があるのかもしれない。


昨日書いた当サイトの読者諸氏にとっては全く興味のない話に興味を示した奇特な人のコメント(12/11付)。

例えば電卓は円滑この上なく足し算を遂行するけれども、数を数えることはできなさそうです。人間に置き換えても同じ気がします。パブロフの犬的に足し算を遂行できるようにすれば、足し算はできるけれど数を数えることのできない人間、というのが出来上がりそうです。もっとも、真顔で「あなたは数が数えることができるんですか? 数を数えるということは一体どういうことなんでしょうか? 私にご教授ください!」といわれたら私も不安にならざるを得ず。私は数を数えるということが一体どういうことなのか、数を数えるということ以外に説明の方法を持たず、答えに窮すると思います。

私が渡世の義理遂行中に考えていたこともだいたい似たような内容だった。ただ、「電卓計算する」のか、「電卓計算する」のかがわからなくなってしまい、「そもそも『自然数の足し算しか知らない人』というのは、どういう人なんだろう?」と疑問に思っているうちに監視の目が逸れたので、用足しに立つふりをしてこっそり上着と荷物を持って逃亡して、それっきりになっている。

今になって考え直してみて、元の条件設定そのものに難があったことに気づいた。最初考えていたのは「自然の足し算であれば、どんなに大きな数の計算でもできるが、それ以外の計算はできない人」だった。しかし、ある程度大きな数の足し算を遂行するには、掛け算を用いることになる。

たとえば「4649+4989」という計算を行うとき、次のようなプロセスを経ることになる。

  1. 4649+4989=(4×1000+6×100+4×10+9)+(4×1000+9×100+8×10+9)
  2. (4×1000+6×100+4×10+9)+(4×1000+9×100+8×10+9)=(4+4)×1000+(6+9)×100+(4+8)×10+(9+9)
  3. (4+4)×1000+(6+9)×100+(4+8)×10+(9+9)=8×1000+15×100+12×10+18
  4. 8×1000+15×100+12×10+18=8×1000+(10+5)×100+(10+2)×10+(10+8)
  5. 8×1000+(10+5)×100+(10+2)×10+18=(8×1000+1000)+(5×100+100)+(2×10+10)+8
  6. (8×1000+1000)+(5×100+100)+(2×10+10)+8=9×1000+6×100+3×10+8
  7. 9×1000+6×100+3×10+8=9638

原理的には、今述べたようなプロセスを経ることなしに計算を行うことも可能だ。4649と4989をそれぞれ「0の次の次の次の……数」と書き直して、両方あわせたものに含まれる「次の」という語句の数を数えれば9638個になるだろう。だが、我々はこんな方法で足し算を行っているわけではない。暗算でも筆算でも算盤や算木を使った計算でも、突き詰めれば上のやり方で計算しているはずだ。もっとも、私は算木を博物館で見たことしかなく、使い方は知らない。


余計なことを書いているうちに時間がなくなってきた。今日は『ROOM NO.1301 #4 お姉さまはヒステリック!』(新井輝/富士見ミステリー文庫)の感想を書く予定だったのに……。

1.11238(2004/12/14) 掘り出された歴史2004

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私の部屋には暖房設備がなく、あまりに寒くてこのままでは冬期限定サイト更新停止事件が発生しそうなので、物置からハロゲンヒーターを引っぱり出し、それを置くスペースを確保するために床の上のものを脇に寄せる作業のさなか、先日から行方不明となっていた『白のふわふわ』(山名沢湖/エンターブレイン)を発見した。

椅子からわずか70cmの距離に、それはあった。

1.11239(2004/12/14) 極月・臘月・春待月

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これから年末にかけて何かと忙しくなるので、簡易更新モードに入る。一回あたりの分量を数行程度にして、浮いた時間でコミケカタログのチェックでもしようと思っている。


最近、また小説を読む気が失せている。その代わりに新書ばかり読んでいる。今日読んだのは『観念論ってなに? ――オックスフォードより愛をこめて』(冨田恭彦/講談社現代新書)だ。同じ著者の『哲学の最前線』(講談社現代新書)の副題は「ハーバードより愛をこめて」だった。きっと愛をこめるのが好きな人なのだろう。

『観念論ってなに?』で主に扱っている哲学者はバークリ(「バークリー」「バークレー」とも表記するが、ここではこの本の表記に従う)で、彼がロックを批判しつつ打ち立てた観念論を逆にロックの立場から批判するという内容になっている。なかなか渋い。総花的な哲学入門書ではなく、特定の時代の特定の人物の哲学を取り上げて批判的に検討する本で、しかも扱っているのが認識論や存在論といった地味な分野だけにあまり一般受けするとも思えないのだが、いったいどれくらい刷っているのか気になるところだ。知ってどうなるというものでもないけれど。

ロックやバークリ(と、この本ではあまり言及されないが、ヒューム)といえば、多少とも哲学史をかじったことのある人ならイギリス経験論の立役者だと知っているだろう。しかし、なぜか高校の倫理社会の教科書などを見ると、イギリス経験論を代表する哲学者としてF.ベーコンの名前が挙げられている。「大陸合理論・デカルト/イギリス経験論・ベーコン/ドイツ観念論・カント」という図式で教わった人も多いだろう(カントがドイツ観念論の代表者というのもかなり違和感があるのだが……)。そういうわけで、近代西洋の大哲学者の中ではロックやバークリはやや知名度が低いかもしれない。

『観念論ってなんだろう?』は、たぶん特に哲学を勉強したことがない人でも読めることを意図して書かれているのだと思う。部分的には予備知識がないとわかりにくい箇所もある(たとえば「観念」と「概念」の違いを知らないと、第三章で展開される観念の概念的性格に関する議論は理解しづらいのではないだろうか)が、全体を通して丁寧に読んでいけば、これから哲学に親しんでいこうと思っている人でも十分読みこなせるはずだ。ただし、先にも述べたように、この本のテーマは認識論・存在論という地味で辛気くさい分野なので、「哲学の知識を身につけて人生を豊かにしよう」などと考えている人はがっかりするかもしれない。

ところで、この本の「解説 その三」(本文第三章の解説だが、あとがきも兼ねている)を読むと、著者のサイトクワインへのインタビュー記事が掲載されていると書いてあったので見に行ったのだが……英語だったので読めなかった。がっかり。


今朝、悲喜劇名詞│トラコメ遊びを見に行ったら、

来年ラノパが終わったら、北陸オフでもやってみたいなあ、とかしゃべっていたということも書こうかと思ったのだけど、これも無理か。幹事とか誰か頼まれてくれないかしら。何処かに優しい人はいないものかしら。

と書いてあった(12/14付)。

一日経って、仕事にも人生にも疲れ果てて帰宅してみると、上の文章の後半が抹消されて、その下に次のように追記されていた。

一晩経ったら冷静になりました。この話題の振り方は、調子に乗りすぎだった、と反省しています。

ネット上の"馴れ合い"を巡る微妙な問題を別にすれば、この話題の振り方そのものは別に調子に乗りすぎだとは思わない。というのは、これは海燕氏自身がオフ会をやりたいと言っているのを受けたものだからだ。

新潟県中越地震の影響で、彼の地の観光産業はかなり沈滞しているという。確かに、今、被災地付近を訪れるのは気がとがめる。とはいえ、来春には状況もかなり落ち着いているだろうし、むしろ積極的に観光して、現地で飲み食い宿泊したほうがむしろ復興の手助けになる。その意味でも、北陸オフというのはいい考えではないか……と、仕事にも人生にも疲れ果てた脳味噌で考えたのだが如何?

1.11240(2004/12/15) 気のきいた見出しが思い浮かばないので先に本文を書いたが、書き終えてもやっぱり何も思いつかなかった

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今日も新書を読んだ。『子どもが減って何が悪いか!』(赤川学/ちくま新書)だ。投げやりなのか開き直りなのかわからないタイトルに惹かれて手に取った。

この本の前半では、男女共同参画社会の推進が少子化対策になるという主張がいかにでたらめで統計上のごまかしに満ちているかを暴露し、少子化の進行を食い止める有効な政策はないと結論づける。

(略)要するにこの調査結果からは、有効な政策介入をどうあがいても導出しえない。客観的な社会調査のデータを用いて有効な少子化対策を提案しようとする経済学者、人口学者、女性学者の人たちは、まずこの厳然たる事実の前に、立ちすくむべきではないのか。小一時間とはいわないにしても、そう問い詰めたい思いである。

今引用した箇所の最後の一文は、明らかに「吉野家のコピペ」を念頭に置いたものだ。といっても、最近の若い人は吉野家がかつて牛丼店だったことも知らないようなので、「吉野家のコピペ」などといってもピンとこないだろう。時間に余裕があれば説明するところだが、今は年末簡易更新モードなので割愛せざるをえない。ぜひ検索するなり近所の年配の人に訊くなりして自力で調べても らいたい。

さて、少子化を食い止める有効な政策はないことを述べるのが著者の本意ではなく、まだまだ話は先に進む。

もっとも本書を通して、著者がほんとうに主張したいことは、データ操作やデータ解釈の妥当性の問題だけではない。もっと重要なことである。ひとことでいえば、「子どもが減って何が悪いか!」という、機動戦士ガンダムのブライト・ノアにも似た叫びに尽きる(元ネタは、「殴って何が悪いか!」。いや、たしかに、殴るのは悪いのだが……)。

ここで、この本のタイトルの由来が明らかにされるのだが、正直いって言わずもがなのことを語っているような印象を受けた。ブライトの台詞自体があまりぱっとしない(むしろ同じ場面のアムロの台詞のほうが有名だろう)し、捩りとしても出来がいいとは思えない。しかし、価値観は人それぞれだ。この咆哮のほうがリサーチ・リテラシーを巡る問題よりも重要だと著者が考えるのなら、「ああ、そうですか」としか言いようがない。

ただ、この本の後半はイデオロギーが前面に出ているせいか、あまり楽しく読むことはできなかった。著者は「選択の自由」を非常に重視する立場から、国家が特定のライフスタイルを推奨するような政策(具体的には、結婚・出産の推奨)をとることに反対する。だが、私は「選択の自由」はいくつかの尊重すべき価値のうちの一つに過ぎないと考える。強制力をもった規制により国家が個人の人生設計に介入するのは好ましくないが、いわゆる「独身税」など経済的手法を検討する余地はあると思う。

未来の予測は難しい。このまま少子化が進めば日本は破滅的危機を迎えるだろうと予言する人もいるが、実際にどのような状況が出来するのかはその時になってみないとわからない。もしかすると、経済がほどよく沈滞して今より気楽で住みやすい社会になるかもしれない。だが、「選択の自由」は保証されても、選択肢そのものがどんどん崩れ去って身動きがとれなくなっていくのかもしれない。


今日、不覚にも笑ってしまったネタ(genesis of next12/14付から。ただし、タグは適当に変更した)。

◆前を走っているトラックの後ろに貼ってあったシール。

「ほのぼのレイプ 犯行は計画的に」

教科書に載るほどの典型的「自分で面白いと思ってるんだろうなアイタタ」ぶりであった。

トラックにどんなシールを貼ろうが自由で、法的に規制すべきものではない(ただし光り物は別)。とはいえ、こんなシールには課税してもいいのではないか。

……いや、そうすると私もかなり税金を払わなくてはならないかも。

1.11241(2004/12/16) 渡世の義理と叙述トリック

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先週に引き続き、今日も苦痛と絶望に満ちた数時間を過ごした。


今日、久しぶりにミステリを読んだ。といっても初読ではない。昔、高校生の頃に読んだ本が、少し前に創元推理文庫から改題・改稿して再刊されていたので、再読してみたのだ。

その小説は叙述トリックを用いた名作で、後のいわゆる「新本格推理」とその周辺の作家・作品に大きな影響を与えている。いや、大きな影響どころか、ほとんど同じトリックを再利用した作例が複数あるくらいだ。私が初めてこの小説を読んだ頃には、まだ叙述トリックは比較的マイナーだったため新鮮に感じたものだが、今読むとややげんなりしてしまう。もちろん、この小説の作者が悪いわけではなく、その後に類似作を発表した作家たちのせいなのだが。

そういえば、今年もまた同種の叙述トリックを用いたミステリが出たようだ。「ようだ」と書いたのは、私がまだその作品を読んでいないからだが、作品紹介を読んだだけで叙述トリックが用いられていることは丸わかりだし、その小説の構成から考えて、今日読んだ小説の系譜に属するトリックだということも検討がつく。さすがに劣化コピーということはないだろうが、真っ白な状態で楽しむことはできないので、あえて手を出す気にはなれない。

さて、ここまで私は具体的な作品名を全く挙げていない。作品名を明示してしまうと、ネタばらしになってしまうからだ。これはジャンル小説としてのミステリに限ったことではないのだが、意外な展開や結末を重視する作品のネタをばらすのは、よほどの特殊事情がない限り、やってはいけない事だと私は考える(異論もあるだろうが、今はこの点について議論する気はない)。そして、ある小説で叙述トリックが使われている場合、その小説に叙述トリックが使われていると書くだけで、意外性は大きく損なわれることになる。だから、私は作品名を挙げることができないのだ。

叙述トリック以外にも、言及の際に慎重な取り扱いを必要とするトリックがないわけではない。たとえば、一人二役トリック、遠隔殺人トリックなど、原理がそのまま名称になっているトリックは要注意だ(これに対して、消失トリックや密室トリックなど、現象面の特徴に基づいて命名されたトリックは、さほど気にせずに言及することができる)。とはいえ、叙述トリックほど不意打ち効果が大きいわけではない。叙述トリックが用いられているかもしれないと予想して身構えるだけで、たとえ具体的な手法や細部の技巧を見抜くことができなくとも、意外性は大幅に減じることになる。だから、当該作品を未読の人が目にする可能性がある場では、「叙述トリック」という言葉を使ってはいけないという暗黙の了解が成立している(もちろん、そのような暗黙の了解を平然と破る人もいるが、それを非難するのがこの文章の目的ではない)。

さて、「叙述トリック」という言葉が使えないとすると、どう表現ればいのか? 伏せ字やあいまいな言い回しも好ましくない。なぜなら、ぎくしゃくとした感想文を読むだけで、「叙述トリック」という言葉が透けて見えるからだ。場合によっては「巧みな仕掛け」とか「意外な真相」と書くだけで、ばればれになってしまうこともある。結局、何も書かないのがいちばんだということになる。

面白い小説を読んだときに、他人にも薦めてみたくてたまらなくなることがある。だが、もしその小説が叙述トリックを用いているなら、ちょっとしたジレンマに陥ることになるだろう。自分が感じた面白さを伝えようとする試みが、その面白さを台無しにすることになるのだから。このジレンマにどう対処したらいいのだろうか?

どれほどの効果があるのかは疑問だが、一つ思いついたことがある。仮にそれを「木を隠すなら森の中」作戦と呼ぶことにしよう。それは、こんな方法だ。

叙述トリックを用いていようがいまいが、意外性を重視していようがいまいが、ある小説のストーリーを最初から最後まで述べてしまってはいけないのはいうまでもない。だから、どんな小説についても「これ以上内容に触れると未読の人の興味をそぐ可能性があるので、この辺でやめておく」という言い訳が使える。あるいは、もっと簡単に「内容紹介はしない。いいから読め!」と書いてもいい。このような決まり文句を予め用意しておいて、自分が気に入った小説に言及するときは、なるべく頻繁に用いるようにする。そして、ある程度定着したところで、叙述トリックを用いた小説についても同じ事を書くのだ。これなら、よほど鋭い読者でない限り、まずばれないはずだ。

「木を隠すなら森の中」作戦の難点はどんな小説の感想文も似たり寄ったりのものになってしまうということだ。書評系サイトにとっては、この難点は致命的なものかもしれない。だが、それで困るのはサイト管理人だけだ。ネタをばらされて多くの読者ががっかりすることに比べれば、ずっとましではないだろうか?

1.11242(2004/12/17) 限定版いちごタイトル事件(仮)

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工事中

1.11243(2004/12/18) 田舎の朝の出来事

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今朝、寝室の前を鶏が歩いているのを見かけた。隣の家で飼っている鶏か遊びに来たようだ。

1.11244(2004/12/19) すべての読書系&書評系サイトに捧げる「葉山響の法則」

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今日の見出しには「&」が含まれているので、引用の際はご注意いただきたい。面倒な方は、次の段落をそのままコピペして下さい。

すべての読書系&書評系サイトに捧げる「葉山響の法則」


本題。「葉山響の法則」について。

第一法則
自分の名前や作品名で検索してネット上の感想文を読んでみようとしない作家など存在しない。
第二法則
仮に作家本人がインターネットに接続できなくても、必ず周囲の人がチェックして教えている。
第三法則
高度に発展した罵倒は讃辞と区別がつかない。

これが有名な「葉山響の法則」である。しかし、この法則を知らなかった人も多いだろう。なぜなら、ネット上で「葉山響の法則」という言葉を用いたのはこれが初めてだから(厳密にいえばここに書いたのが初めてだが、一旦アップした後、改稿のため削除したので現存しない。で、あなたが今読んでいる文章が、その一部の改稿版である)。

「葉山響の法則」は、主にミステリ系で活躍している書評家の葉山響氏が何年か前に政宗九氏に語った言葉がもとになっている。ただし、これから「葉山響の法則」について研究を行う諸氏は、以下の三点に留意されたい。

  1. 葉山氏自身は「法則」という言葉を用いていない。従って、この「法則」が反証された場合でも、葉山氏に疑似法則提示の咎を課すのは筋違いである。
  2. 第一法則と第二法則を葉山氏が政宗氏に語った現場に私は居合わせておらず、後で聞いた内容をうろ覚えの記憶を頼りにまとめたものである。従って、葉山氏の意図から若干外れた理解に基づく定式化を行っている可能性がある。
  3. 第三法則は葉山氏とは全く無関係である。第一法則と第二法則を嵐山薫氏に聞かせたところ、「じゃあ、第三法則は?」と問い返されたので、適当にでっち上げたものである。従って、読者諸氏の興味と関心に応じて自由に改変し、「葉山響の第三法則」と呼んでも私はいっこうに差し支えない。

以前、私はあるミステリの感想文を書いて、このサイトにアップした。私が読んだときにはかなり評判になっていた小説なので、ネット上にも感想文や書評が溢れかえっていた。しかし、なぜか私がいちばん感心した点について言及しているサイトは見あたらなかった。そこで私はやや詳しく感想を書いた。

その後、私はすっかりその感想文のことを忘れていたのだが、つい先日ある人から「作者がネットで検索して自作の感想を読んでいたところ、自分がいちばん書きたかったことを指摘しているサイトを見つけた。それが『たそがれSpringPoint』だった」という話を聞いた。

さて、そろそろ今日のテーマがわかってきたことと思う。そう、自慢話だ。

伝聞なので、事の真偽はよくわからない。私に話をしてくれた人も作者本人からその話を聞いたのではなくて、作者の配偶者(ぎこちない言い回しだが、作者の性別をぼかすための方便だと理解していただきたい。叙述トリックを仕掛ける意図があるわけではない)から聞いたのだという。とすると伝聞の伝聞だ。しかし、それでも嬉しいものは嬉しいのだ。

ミステリに情熱をもって接していられた頃は過ぎ去り、私は年老いて偏屈になった。今では、『「人間嫌い」の言い分』(長山靖生/光文社新書)を読んで、しみじみと共感するようになってしまっている。けれども、作者が私の感想文を読んでくれたという話を聞いて、これほど舞い上がって、閲覧者そっちのけで自慢したくなるのだから、私もまだ枯れきったわけではない。


調子に乗って、もう一つ似たような話を書いておく。今度は伝聞ではないので、実名で。

昨日、中町信氏が来阪し、縁あってお話しする機会を得た。

中町氏は近年、創作の第一線からは遠ざかっているものの、先般創元推理文庫から『模倣の殺意』が復刊され順調に版を重ねている。今、五刷まで出ているそうだ。

私はあまりよい中町読者とはいえないが、それでも初期の傑作群は一通り読んでいる。中でも特に印象に残っているのは『散歩する死者』だ。冒頭付近のごくさりげない描写が結末に至って非常に大きな意味をもって立ち現れてくるという伏線の妙に感心した。読んだのはもう10年以上も前なのに、今でもその部分ははっきりと覚えている。……というような事を話したところ、中町氏は「『散歩する死者』のその伏線に気づいたのは君が初めてだよ。これまで誰にも指摘されたことがないんだ」と熱の籠もった声で返答された。

さすがに、誰も気づいた人がいないはずはないと思うのだが、それでも作者本人にそう言われると嬉しくて舞い上がってしまった。

なお、この会話の時点で中町氏はかなり聞こし召されていたことを付け加えておく。

ところで、中町信といえば叙述トリックの大家(ここで書いた理由により、本当はこんな紹介は好ましくはないのだが、中町氏は別格だ)として知られている。しかし、山沢晴雄氏によれば「中町さんはダイイングメッセージの使い方が非常にうまい人で、一作一作に工夫が凝らされている。『中町作品のダイイングメッセージ』というテーマで論文が一つ書けるくらいだ」そうだ(括弧内は要約であり、山沢氏の言葉そのままではない)。


全然別の話。

昨日私は『魔方陣にみる数のしくみ 汎魔方陣への誘い』(内田伏一/日本評論社)という本を買った。タイトルからわかるとおり魔方陣の本だ。

魔方陣はよく知られたパズルだと思うのだが、なぜか魔方陣に的を絞った本は少ない。私の知っている範囲では1992年に『新編 魔方陣』(大森清美/冨山房)が出たのが最後だ。もしかすると『魔方陣にみる数のしくみ』は日本語で書かれた魔方陣の本としては21世紀に入って初めてのものかもしれない。

まだ最初のほうを読みかけたところだが、一般読者にも取っつきやすいのではないかと思う。もっとも、魔方陣は入門は楽だが、一歩奥へと足を踏み出すと目もくらむような難解かつ荘厳な世界が広がっているので油断ならない。

奥付をみると、発行日は2004年12月15日で、まだ出てすぐの本だから、大きな書店なら入手しやすいのではないかと思う。魔方陣に興味のある人はこの機会を逃さずに是非購入されたい。

1.11245(2004/12/20) 時事三題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412b.html#p041220a

新旧千円札を見比べて、ふと思いついた。もしかすると、夏目漱石と野口英世は同一人物ではないか、と。


北陸新幹線はいずれ京都付近で東海道新幹線と合流するからいいが、九州新幹線長崎ルート(長崎新幹線)と北海道新幹線はこの先いくら延伸しても他の新幹線と接続しない。この先倶知安に新幹線が通っても経済効果は大きくないだろう。

そこで私は提案したい。日本列島を折り曲げて長崎と函館をくっつけてしまえばいいのではないか。そうすれば、新幹線ネットワークはより使い勝手のいいものになるだろう。


少子化というのは読んで字の如く、子供が少なくなるということだ。しかし、なぜかこれまで少子化は出生率の低下と同一視されていた。これはあまりにも一面的な見方だ。

私見では昨今の少子化の最大の原因は、子供が子供でなくなるということだ。この原因さえ取り除けば、少子化問題は自ずと解決することだろう。