http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050301a
本日の進捗状況:『ハイペリオン』(下)376ページ
ようやく「探偵の物語:ロング・グッバイ」を読み終えた。非常に退屈で苦痛だった。続けて「領事の物語:思い出のシリ」を読み始めた。「シリ」というのは女性の名前なのだが、かなり違和感がある。作者は日本人ではないから仕方がないのだが。
旅行前に10分で書いたどうでもいい記事をもとに白翁氏が悪戦苦闘している。まだ続くそうなので感想は差し控えておくが、一つだけ疑問を呈しておこう。明治期の牛丼って高級料理だったっけ?
関連(?)リンク:がんばりました(Spaghetti Source)
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050302a
本日の進捗状況:『ハイペリオン』(下)読了
やっと『ハイペリオン』正篇を読み終えた。だが、予想通り物語は全然終わっていない。『ハイペリオンの没落』に取りかかることにしよう。
全然関係ない話。
誰かが「現在の日本の首都は東京ではない」と大まじめに主張しているのを知ったとき、我々はどうするべきだろうか?
上の問いは次のようにも言い換えられよう。我々はとてつもない発言に対してどこまで好意的に解釈すべきなのか、と。
「唯物論」に関するメモ。
この議論の論点からは少しずれるが、一言。
「唯物論」はもともとは存在論の用語で「唯心論」と対をなす。認識論の用語としては「実在論」があり、これは「観念論」の対義語だ。ところがマルクス主義では「唯物論」と「観念論」を対置するから話がややこしくなる。
「きょうだい」について。
私の子供の頃には「父兄会」というものがあった。PTAとどこが違うのかは知らないが、年に数回、学校に親が集まって会議を開いていた。
会議の参加者の大部分は母親で、たまに父親が混じることもあるが、児童の兄が会議に出ることは全くなかった。それなのにどうして「父兄会」なのだろうかと私は子供心に不思議に思った(ちなみにそんな疑問を抱いたのは私だけだった)。きけば、昔は年の離れた兄姉が親代わりになることが多かったそうで、その時代の名残だということだった。「父兄会」はその後じきに「父母会」になり、さらに「保護者会」となった。
後になって知ったことだが、「父兄会」の名称変更の理由は単に実情に合わないということだけではなく、「父」により父母を代表し「兄」により兄姉を代表するという性的非対称が好ましくないという理由もあったらしい。
好ましいか好ましくないかという価値判断は別として、仮に男性を表す漢字にはもともと女性を代理する用法があると一般的にいえるのだとすれば、「兄弟姉妹」を省略して単に「兄弟」というのは言葉の誤用とは言えないことになる。
本来男子にしか適用できなかった漢語が日本語の親族名称の影響を受けて慣用が変わった
というのがjouno氏の考えだが、逆に漢語の男性優位の発想が日本語に影響を与えたとも考えられるのではないだろうか。もっとも私はこの思いつきを検証する知識も資料も持っていないが。
ところで「姉妹」と書いて「きょうだい」と読ませるのが許されるなら、「兄弟」と書いて「しまい」と読ませてもいいように思うのだが、誰かやっていないものか。実例を見つけた方はぜひご教示願いたい。
しまった。調子に乗って書きすぎた! 今日はもう『ハイペリオンの没落』を読む時間がない。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050303a
ひな人形に肉を――♪
『ハイペリオンの没落』を読み始めた。このシリーズは通勤途中の合間にではなく家でじっくり読もうと思っていたのだが、家に帰ると読書意欲が落ちるので、方針を転換して常に所持して少しでも時間があれば読むことにした。
というわけで、しばらくほかの本が読めない。ああ、早く『銀盤カレイドスコープ』の4巻が読みたい……。
本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(上)90ページ
おまけ。
本棚.orgというサイトがあることを知った(情報もと:ぶらくり雑記帳)ので、早速滅・こぉるの本棚を作り、とりあえず『ハイペリオン』シリーズ4部作(文庫で8冊)のISDNコードをぶち込んだ。これで「滅・こぉるの100冊」をやってみたら面白いかもしれないが、リストアップが面倒なのでこのまま放置する公算大。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050304a
昨日の見出しが「新『ハイペリオン』を延々と読むよ」だったので、今日は「新々『ハイペリオン』を延々と読むよ」にするのが自然なのだが、ちょっと奇をてらってみた。新岐阜と新一宮と新名古屋の駅名変更(でも新鵜沼はそのままだ)に倣ったわけだ。
本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(上)144ページ
全然進んでいない。
石野休日氏によれば『ハイペリオンの没落』は『ハイペリオン』の5万倍はおもしろい
そうで、氏と同じく中編連作としては優れているのかもしれないけど1編の長編SFとしてはイマイチとしか言いようがなかった『ハイペリオン』を楽しめなかった
私も何とか最後まで読むつもりなのだが、今日はちょっと浮気して別の本を読んでいる。
今朝方、東京猫の散歩と昼寝を読んで、『科学哲学の冒険――サイエンスの目的と方法をさぐる』(戸田山和久/NHKブックス)という本が出ていることを知った。で、早速行きつけの書店で入手した。
戸田山氏の著作は論理学から論文の書き方まで芸風が広く、どの本も読者を楽しませるために工夫が凝らされている。しばしばユーモアが空回りするのも愛嬌のうちだ。今回は対話篇のスタイルをとっていて、理学部三年生で、生物物理専攻の理系少女柳田リカさん
というキャラクターが登場する。当然、彼女は眼鏡っ娘なのだろうと思って読んでいたのだが、イラストをよく見ると眼鏡をかけていない。だが、もしかしたら柳田リカは心の眼鏡を持っているかもしれない。
まだ半分も読んでいないので感想文は書かない(全部読んでも書かないかもしれない)。ただ、tokyocat氏の書評の次の一節について、ちょっとだけコメントしておく。
ところで、この本、「科学哲学の冒険」というより「科学哲学の穏健」のほうが当っているのでは? なんてふと思った。というのは、この世界や科学の見方としては、実在論ではなく観念論や反実在論を貫いてこそ冒険であり無謀であると言えそうだからだ。でもこれは皮肉で言っているのではない。
確かにこの世界や科学の見方としては実在論のほうが常識的であり、観念論または反実在論のほうが非常識な考え方のように見えるが、非常識な立場を貫くほうが哲学的には簡単であり、たいして冒険を必要とはしない。逆に常識と折り合いをつけながら整合的な理論を構築するのは至難の業だ。
常識と非常識の転倒について『科学哲学の冒険』では次のように書かれている。
でもね、ボクの大学院時代のセンセイの名言に、「哲学の常識は世間の非常識」ってのがあってさ。科学哲学の世界では実在論的立場は必ずしも常識的な立場でもないし、強い立場でもない。かえって、この立場を擁護しようとするとけっこうたいへんなんだ。
この文脈ではむしろ「世間の常識は哲学の非常識」というほうがいいかもしれないが、ともあれ、科学的実在論はかなり大胆な立場である。さらにデカルト的二元論などとセットにすると、とことん修羅の道を歩むことになる。幸い(?)戸田山氏は自然主義の立場をとっているので多少負担は軽いはずだが。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050306a
見出しのネタに詰まってきたので、「××篇」にすることにした。間をつなぐ「☆」は『食卓にビールを』に倣ったもの。「篇」は常用漢字には含まれていないが気にしない。どうでもいいが、そろそろ「虚言症」を「嘘言症」に戻してもいい時期ではないか。
本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(上)186ページ
相変わらずペースが遅いのは、昨日買ってきた『もえるるぶ』(JTBパブリッシング)を読んでいたからだ。たぶん一生足を踏み入れることはないだろうと思われる店が多数紹介されていた(でも秋葉原から一番近い"温泉"が掲載されていなかったのは残念)。三年くらい先にもう一度読み直してみたい本だ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050307a
本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(上)251ページ
しんどい。読むのが苦痛だ。どうしてこんなに展開がのろいのだろう。
もうそろそろ投げだしたい。が、こんなことを書かれてしまうと意地でも完読しなければという気になってきた。
元VNIの中の人に読めて私に読めない筈はない!
とりあえず『ハイペリオンの没落』を読み終えるまで、当サイトの更新を停止します。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503a.html#p050310a
本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(上)読了