1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.1x(雑文過去ログ) 出ぬ杭は打たれぬ

1.11287(2005/02/01) ある閉ざされた雪の書店で

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050201a

ラノベコーナーの『キノの旅』の隣に『生徒会長はお嬢様』があるのを発見した。

その後、新刊・話題書コーナーに移動すると、『さよなら妖精』が平台に6面に積まれていた。

私は何も買わずにその書店を出た。ちなみに『生徒会長はお嬢様』は2週間ほど前に読んである。

今日の読了本:『憎悪の宗教 ユダヤ・キリスト・イスラム今日と「聖なる憎悪」』(定方晟/洋泉社新書y)

内容はタイトルから想像できるとおりで、多少とも聖書に触れたことのある非キリスト教徒にとってはさほど突飛な論調ではないだろう(が、キリスト教徒がこの本を読んだら怒るかもしれない)。プランティンガに言及しているのは驚いたが。

1.11288(2005/02/02) 寝取られ変格活用

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050202a

He 創世記

はじめに寝取られがあった。寝取られは仮眠とともにあった。

寝取りは寝取られの父なり。寝取られは寝取らせを生み、寝取らせは寝とらじを生み、寝とらじは寝取らんを生み、寝取らんは寝取りを生み、寝取りは寝取られを生み、寝取られは屈辱と悲哀と未練と苦痛と自虐と絶望と嫉妬を生み、それらは地に満ち溢れた。

(註)

寝取り
寝を取ること。安眠妨害。「寝盗り」とも。
寝取られ
至上の快楽にして娯楽……と言う人もいる。いえ、私のことじゃないですよ。心外だなぁ。
寝取らせ
わざと寝取られることにより倒錯した悦楽に浸る行為。またその状態。
寝取らじ
(決して)寝取るまい、という意の文語表現。
寝取らん
(さあ、これから)寝取ることにしよう、という意志表示。または勧誘。

Who 「寝取り」は倒錯でありうるか?

先日、『GOSICK』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)の感想文が書けずに呻吟しつつ、ほとんどアリバイ更新のつもりで「寝取られ」はもう古い。時代の最先端は「寝取らせ」だ!などという駄文をアップした。なぜこんな文章を書いたかというと、『GOSICK』シリーズはアブリルがヴィクトリカに一弥を寝取られる話ではないかと思ったからだ(が、これはあまりにも無茶な想定なので、結局感想文には含めなかった)。

それはさておき。このどうでもいい戯文に予想外の反応があったので驚いた。以下、掲示板からタグ改変のうえ転載する。

寝取られ、寝取らせ 投稿者:冬野  投稿日: 1月25日(火)01時36分30秒
寝取りゲームの存在をお忘れなく。
前に豪華客船を舞台にしたゲームで、主人公の鬼畜なおじさんが
ヒロインを捕らえてその恋人の前で陵辱するという、なかなかに
あれな趣向のもありました。
寝取りは倒錯していないので 投稿者:滅・こぉる  投稿日: 1月25日(火)06時42分41秒
純粋にゲームとしてみるならいいのですが、あまり深みはないかと。
究極寝取り奥義 投稿者:冬野  投稿日: 1月26日(水)01時14分28秒
ターゲットの彼に接近し、親友つーかホモだち同然となったところで
彼女を寝取り、そんな自分の背徳感と後ろめたさに酔うというシチュ
なら、深みと変態度はそれなりのものになるかと。
変態というより 投稿者:滅・こぉる  投稿日: 1月27日(木)20時46分42秒
他人のものを横取りしてでも自分のものにするのは、単なるジャイアニズムに過ぎません。
意図的にやった行為でありながら後ろめたさを感じるという心理は程度の差こそあれ万人に共通するもので、変態というよりむしろ健全な道徳心の発露ではないでしょうか?
よって、寝取りは寝取らせはもとより寝取られにも及ばないということになります。
どういう意味で「及ばない」のかは、ご想像に任せます。
白姫女子校保健室からのおしらせ 投稿者:県立白姫女子校保険室  投稿日: 1月27日(木)22時35分30秒
この前の妊娠検査について
県立白姫女子高校保健室からのお知らせです。
該当する人は
下記リンクより入ってお知らせを確認して下さい。

今から思えば、「寝取り」を単なるジャイアイズムと同一視したのはやや軽率だったかもしれない。ただ、うまくは言えないのだが、「寝取り」が生む背徳感と「寝取られ」や「寝取らせ」の倒錯とは、やはり質的な差異があるのではないだろうか。

果たして「寝取り」は倒錯であり得るや否や? 読者諸賢のご意見を伺いたいところである。

Me 「寝取られ」と所有

「寝取り」と「寝取られ」は言うまでもなく事態そのものとしては同じであり、ただ観点が異なっているだけである。一方に寝取る者がいて、他方に寝取られる者がいる。そして、「寝取り−寝取られ」の客体となる者がいる。この事態を仮に次のように定義することにしよう。

寝取り−寝取られ
ある時点t0において、ある人物Xが所有又は支配する人物Yが、誘惑的、暴力的又はその他の手段により、時点t1において人物Zの所有に帰し、又は支配下に置かれるという事態

むろん、この定義はあくまでも暫定的なものであり全く洗練されてはいないが、それでも次のことだけは確かだと思われる。「寝取り−寝取られ」が、「所有」の概念と密接に関わっているということ、しかし、人が人を所有することを単純に前提するのではなく、人対人の所有関係の虚構性をも条件にしているということ、これである。

「寝取り−寝取られ」の客体が人格を有しないとすれば、これは単なる「寝取られる側の意に反した所有権移転」に過ぎない。だが、それでは「寝取られ」のもつ倒錯的な魔力は説明不可能だろう。「寝取り−寝取られ」の客体が人格を有するということ、従って、寝取られた側がどのような意識を持っていたかにかかわらず、当初から所有関係が盤石ではなかったということが、「寝取られ」によって明らかとなるのである。

やー、適当に小難しい文言を書き並べたら、それなりに何か意味ありげなことを言っているような感じがするぞ。

Your 「寝取られ」の組み合わせと可能性

わかっている人にはあえて説明するまでもないが、「寝取られ」(及びその発展形である「寝取らせ」)は性的に中立である。すなわち、「男−女−男」(または「女−男−女」)に限定されるわけではない。関係者の性別に着目して分類すれば、少なくとも8通りの組み合わせが可能である。中性とか汎性などを含めていいなら、より多くの組み合わせが考えられる。

また、この三項関係の項は、互いに独立である必要はない。寝取られる者と寝取る者が同一人物であっても構わないわけだ。そのほか2通りの一人二役の可能性がある。さらに、一人三役という離れ技も論理的には不可能ではない。ぜひお試しあれ。

Its 「寝取られ」の文法と発展性

実をいえば、私は「寝取られ」も「寝取らせ」ももう古いのではないかと危惧している。これからは「寝取らされ」の時代ではないのか、と。

自分では寝取りたいとは思っていなかったはずなのに、何らかの手段により嫌々「寝取り」に手を染めてしまい、苦悩しつつも知らず知らずのうちにその状況を楽しんでいる自分に気づいてしまう。その倒錯した心理が「寝取らされ」の醍醐味なのだ。

では、「寝取らされ」を上回る倒錯はあるのか? あるはずだ。対人関係は相互関係だから、受動も使役も複数回重ねることができる。だが、その合わせ鏡のような目も眩む世界を的確に言い表すことが私にはできない。

寝取られさせ? 寝取らせられ? 寝取らせられさせはらほれひれはれ……。

どうしようもなく混乱してしまったところで、今日の駄文はおしまいにする。お帰りはこちら

1.11289(2005/02/03) 寝る前に歯を磨かないと節分よ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050203a

昨日の私と今日の私は別人だ。そういうことにしてほしい。

他人に「空気を読め」と強制する人は幸いだ。なぜなら、いちいち空気を読みながら生活する息苦しさを感じずに生きられるのだから。

『ブルー・ハイドレード〜転移〜』(海原零/スーパーダッシュ文庫)読了。登場人物が多くて読みにくい。後半の先頭シーンは面白かった。

『ちーちゃんは悠久の向こう』(日日日/新風舎文庫)があちこちで話題になっていて、何となく読む気をそがれてしまった。既に入手してあるのだが……どうしよう?

TNM BLOG今日のコメント欄のつまり葉山響みたいな名前のひとの作品がすすめるのにいいってことでしょうかね.という一文で、不覚にも笑ってしまった。

1.11290(2005/02/03) 予断と感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050203b

つい先ほど『ちーちゃんは悠久の向こう』(日日日/新風舎文庫)があちこちで話題になっていて、何となく読む気をそがれてしまった。と書いたばかりなのに、ついつい読んでしまった。さとる氏の感想文を読んだのがきっかけとなった。なぜそれがきっかけなのかと訊かれても困るのだが、とりあえずこの小説嫌い……。という一言が印象に残ったから、と言っておこう。全然説明になっていないけれど。

「天才高校生」とか「新人賞五冠王」とか、その種の宣伝文句をさんざん見聞きしてしまうと、どうしても予断をもって小説に立ち向かうことになってしまう。修練を積んだ人なら、そのような予断の影響を最小限に抑えて、全く白紙状態で読むのと同じ読後感を得ることができるのだろうが、私にはそんな事は不可能だ。私にできることといえば、読後の印象に補正をかける程度だが、その補正にもバイアスがかかっているので、どうも感想文が書きにくい。

予断とかバイアスとか、そういったことを全く気にせずに、前評判も予備知識も感想のうちだと割り切ればいいのだが、そこまで無理して何が何でも感想文を書かないといけないという義理もしがらみもないので、今回は見送りということにしておこう。

1.11291(2005/02/04) "世界の中心で愛を叫んだけもの!"とチクタクマンはいった

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050204a

このままではラノベしか読まないキモオタになってしまう。滅・こぉるは危惧した。

それ(訳註:原文ではit。前段落の「滅・こぉる」を受けていると思われる)は焦燥感に駆られつつ、部屋の片隅に積み上げられた本の山から、一冊の文庫本を手に取った。『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハーラン・エリスン(著)/浅倉久志・伊藤典夫(訳)/ハヤカワ文庫)だ。SF的教養に乏しいことに劣等感を抱き、ルサンチマン丸出しの言動を行うそれにとって、海外SFの古典的名著を読むのは死にも勝る苦痛だった。だが、迫りくるラノベしか読まないキモオタの危機から逃れるためには、何が何でも非ライトノベルを読む必要があった。

ライトノベルとは何か? この問いには答えがない。従って、非ライトノベルとは何かという問いにも答えはない。だが、エリスンなら大丈夫に違いない。誰もラノベ扱いをしないはずだ。

滅・こぉるは決意した。今こそ、『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読む時だ。というか、なんで今まで読んでなかったの?

というわけで、今日私は『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んだのだ。本当は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読みたかったのだ。今朝、アンドロイドは電気羊の夢を見るか? のパロディ集(情報もと:モノグラフの自由帳)を見て、無性に読みたくなったのだ。でも、私の手許には『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』がないから仕方がなかったのだ。でもでも、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も『世界の中心で愛を叫んだけもの』もタイトルのインパクトの強さでは似たようなものなのだ。ちょうど、乙一と日日日みたいなものなのだ。

ところで、最近ラノベしか読めなくなってしまっているはずの私が一日で『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読んだということに疑問を呈する人もいるだろう。その疑問はもっともだ。この本には15篇の短篇が収録されているが、私が読んだのは巻頭の「世界の中心で愛を叫んだけもの」と巻末の「少年と犬」の2篇だけなのだから。

ひどい中抜きだ!

キセルだ!

薩摩守だ!

だが、聞くところによると『世界の中心で愛を叫んだけもの』収録作のうち面白いのは表題作と「少年の犬」の2篇だけで、後は読んでも読まなくてもいい作品ばかりだというではないか。ちょうど『あなたに似た人』収録作でぜひ読むべきなのは最初の3篇だけ(残念ながらその3篇の中には「あなたに似た人」は入っていない)だというのと同じだ。だったら、『世界の中心で愛を叫んだけもの』も最初と最後だけ読んでおけば十分ではないか。

仮に不十分だとしても、少なくとも私がまだラノベ以外の小説も読むことができる証明にはなる。

『世界の中心で愛を叫んだけもの』は、まえがきが素晴らしい。「小さな巨人エリスン」と題された巻末の解説(伊藤典夫)によれば、この短篇集の序文はエリスンとしては珍しくおとなしいそうだが、それでも次の一節はなかなか見事だ。

ご参考のため、また単刀直入にいわなければわからない人びとのために書きそえておくと、ぼくはスペキュレイティヴ・フィクションにおける「新しい波」などというものの存在を信じない(ちょうどこの世に「サイ=ファイ(sci-fi)」などという醜悪な略称で呼ばれるものが存在するはずがないように)。たしかにそれは、無能な批評家やのぞき屋趣味の局外者には都合のよいジャーナリスティックな表現だろう。この分野の肥沃さが、数多くの波――それぞれがひとりの作家から成る波――によるものであることなど、知性も洞察力も持ちあわせていない彼らに理解できるはずがないのだ。

SFファンなら思わず喝采を叫びたくなる(「喝采を送る/快哉を叫ぶ」の誤用)ではないか――だが、私はSFファンではない。ご参考のため、また単刀直入にいわなければわからない人びとのために書きそえておくと、私はのぞき屋趣味の局外者に過ぎない。幸い、私は批評家ではないから、無能な批評家ではないはずだが(「私は批評家ではない、故に、私は無能な批評家ではない」という推論の妥当性を形式的に証明するのは難しいが、直感的には理解していただけるものと思う)。

さて、表題作「世界の中心で愛を叫んだけもの」は、正直言ってあまり面白いとは思わなかった。実験作だがまえがきで作者が親切に解説してくれているので、何が書いてあるのかは何となくわからないでもないような気もしないではない。しかし、そんなあやふやな理解ではこの小説を十分に楽しむことができないのは当然だ。私は十四、五歳の少年や彼らの母親ではないが、知性と洞察力のレベルではほぼ同様だということなのだろう。

他方、「少年と犬」は非常に面白かった。これはタイトルが示すように、一人の少年とその飼い犬との種を超えた深い繋がりを描いた感動の物語だ。動物文学のファンにもぜひ読んでもらいたい傑作である。

「少年と犬」が面白かったので、他の収録作も読んでみたい気はするのだが、人生は短く、未読本は多い。『世界の中心で愛を叫んだけもの』はひとまず本の山に戻して、次は『最後の一壜』(スタンリイ・エリン(著)/仁賀克雄・他(訳)/ハヤカワ・ミステリ)を読むことにする。これも短篇集だが、どれを読めばいいのかわからないので、最初から順に読んで飽きたところでやめることにしようと思う。表題作だけ別の本で読んだことがあるが、あまり面白くなかった記憶があるので、ちょっと不安だ。

あまり書きたくはなかったけれど書いておかないと誤解を招きそうなので仕方なく書いておく補足

上の文中で「ラノベしか読まないキモオタ」と書いたのは、以前私が某掲示板でそのように呼ばれたことを受けた一種の自虐ネタであり、決してライトノベルを愛読している人々を誹謗したり侮辱したりする意図はない。

また、SF及びSFファンへのいやみに受け取られる可能性のある文章をあえて書いているが、これも攻撃的な意図によるものではない。

さらにいえば、「世界の中心で愛を叫んだけもの」はあまの面白くなかったが「少年と犬」は非常に面白かった、という上記の感想は掛け値なしに本心である。「少年と犬」についてピントのぼけたことを書いているが、これは現物を読んでいる人(またはこれから読む人)向けのくすぐりであり、オチに気づいていないわけではない。

1.11292(2005/02/05) 東海旅客鉄道株式会社相談役

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050205a

昨日読んだ『世界の中心で愛を叫んだけもの』繋がりで、次のような表を作ってみた(敬称略・順不同)。前に同じネタを扱ったことがあるので焼き直しになるが、どうせ誰も覚えていないだろうから気にしない。

内外人名対照表
外国人日本人
エドガー・アラン・ポー江戸川乱歩
カーター・ディクスン河田陸村
イーデス・ハンソン半村良
アーサー・C・クラーク浅倉久志
ハーラン・エリスン原えりすん
ラヴクラフト愛・蔵太
スタルヒン須田博

イーデス・ハンソンは和歌山県在住だが便宜上「外国人」の欄に入れた。また、類似例はほかにも多数ある(たとえば「ミシェル・フーコー」とか)が、この表は完全な網羅を目指したものではなく、ただ一点のツッコミを期待したものである。読者諸氏は心の中で思いっきりツッコミを入れて頂きたい。

ちょっと笑った文章:その1

Junk Landから。

#ちなみに。トーマス・マンは本格ミステリ作家ではありません。念の為。あ、ミステリ作家でもないと思います。

トーマス・マンといえば、私はなぜかヴァージニア・ウルフを連想する。なお、どちらも全く読んだことはない。

ジュブナイルポルノ作家わかつきひかるのホームページは、プロ作家の創作の実態(内幕暴露話という意味ではなく、アイディアの創出から小説に仕上げるまでの過程の話)を垣間見ることができる興味深いサイトだ。私もこれまでに何度か言及したことがあるが、小説家志望の人には必読だといえるだろう。

最近の記事では、新作の解説行きます!という記事が面白かった。担当編集者と絵師からの注文をもとに人物と舞台の設定を行い、ストーリーを構想していく過程がよくわかる。「じゃあ、同じ方法で自分も小説を書いてみよう」と思ってもうまくいくとは限らないが、少なくとも参考にはなるだろう。また、ロジカルなのに理屈っぽくない文章にも注目。

夏コミに受かったら「今すぐ使える小説テクニック」が同人誌で出るそうなので、そちらも要チェックだ。コミケには参加しないことになったそうだ。残念。

ちょっと笑った文章:その2

エロチック街道から。

さーてさて。こうくると、当然「ニート」の問題に触れずにはいられますまい。webサイト作成においてのニートとはなにか。やはり定時的に更新するような定住サイトを持たず、ウオッチするのみ…まあ、この場合サイトを持たなければならないわけでも食っていけないってわけでもないんで、ちょっと気を悪くされると困るんですが。「サイト持ったら負けだと思っている」とか。

労働を軽視して遊興に耽った古代ギリシアの都市国家はマケドニアに滅ぼされた。現在日本のweb界におけるニートの増加も同じ末路を暗示しているように思えてならない。来たれ、ヘシオドスよ!

最後に一言。

東海旅客鉄道株式会社(「鉄」のかわりに「金扁に矢」を用いるのが正しいのだが、そんな文字は表示できないので仕方がない)の相談役は、須田氏である。よく間違えるので、心当たりのある人は注意するように。

1.11293(2005/02/06) 本の増殖に関する考察

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050206a

UNCHARTED SPACE2/5の記事を読んで思いついたフィクション

第一段階
本棚を買う。所有する本を面陳しても隙間だらけ。暇だから本屋のほんねにリンクしておこう。
第二段階
本棚が埋まってくる。でもまだ隙間がある。心の隙間はなかなか埋まらない。
第三段階
本棚が普通に並べた本で埋まってしまう。なので、棚板上に二列に並べるようになる。手前の本は見えるが、奥は見えない。
第四段階
その二列置きも段々限界に近づいてくる。おかしいなぁ、一列にしか置いていなかったはずの段もなぜか手前にせり出している。
第五段階
文庫を二列置きしていた棚板にまだ5センチほど余裕があることを発見する。そんなことより>>1よ、買った覚えのない本が棚にささってるような気がするんだが、これって気のせい?
第六段階
本棚が詰まる。下手に触ると恐ろしいものを目の当たりにしてしまいそうなので遠目にみると、列の奥で何かがもぞもぞと動いているようだ。
第七段階
本棚に本は入らない。床に置く。これがほんとの床上手だ、HAHAHA!
第八段階
床に置いていた本が従妹の目に触れた。ショックだ……。
第九段階
いつの間にか従妹の目がとろんとしている。ところでお前、最近食欲増してきたね。
第十段階
持っていた筈の本が、なぜか従妹のベッドの上にある。そういや、昨夜従妹の部屋から変なうめき声が聞こえてきたような……。
最終段階
生活最低限のスペース以外が全て本で埋まる。じきに残りのスペースも本に奪われるに違いない。奴らは人間を宿主にして増殖するのだ。地震がくれば圧死する。その前になんとか妹だけでもこの部屋から脱出させたい。だが、奴らは従妹が出産するまでは決して逃がさないだろう。気づくのが遅すぎた。

1.11294(2005/02/06) ペンネームあれこれ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050206b

昨日の外国人の名前を捩った日本人名ネタにツッコミが入った。掲示板からタグ改変の上転載する。

ツッコミ 投稿者:日下三蔵  投稿日: 2月 6日(日)03時04分15秒
A 須田博はスタルヒン本人じゃねーかよ!
B 半村良の筆名はイーデス・ハンソンが由来じゃねーよ!

期待していたツッコミはどっち?
Bです 投稿者:滅・こぉる  投稿日: 2月 6日(日)12時50分23秒
☆日下三蔵さん☆
ツッコミありがとうございます。
実は最初スタルヒンのネタで書いていたのですが、書き上げたあとになって半村良のほうを調べてみたら、全然関係ないことがわかりました。
で、こっちのほうがツッコミどころとして面白いのですが、見出しから何からスタルヒンを前提として書いてしまったので、そのまま放置してあります。

全然関係ないのですが、どこかから式貴士全集は出ないものでしょうか?
出たら絶対に買うのですが。

半村良の名前の由来については、ペンネームの嘘続・半村良のお客になる会)という記事でイーデス・ハンソン由来説が明確に否定されている。私が確認したのは日下氏の書き込みを見た後だが、日下氏の書き込みを見たのは昨日の記事を書き上げた後なので、「書き上げたあとになって半村良のほうを調べてみた」というのは嘘ではない。

ところで、あちこち調べているとこんなページげんれい工房)が見つかった。その中で「信頼されない日本人」という記事があり、「新井 照」(あらい てる)という名前の人について書かれていた。そういえば、漢字は違うけれど、同じ読みの「新井 輝」という作家がいたなぁ、と思って調べてみたら、ここで、ペンネームは「うそをつく【tell a lie】」に由来する。と書かれていた。本当かどうかは知らない。実は「あら、イッてる!」だった、と言われても信用してしまいそうだ。

面白いペンネームといえば小説家よりもマンガ家に多い。「新田真子」とか「氏賀Y太」とか。たぶんどこかにまとめサイトもあると思うので、興味のある人は調べてみてほしい。

1.11295(2005/02/06) あるウェブ小説の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050206c

新青春チャンネル≒782/1付の記事から。

アクセス解析をみると思ったよりも多くの人が『左ききの真実』を読んでくれたようだが、その数字の大きさのわりには感想をくれる人は少ない。

書くのが面倒だ、書いてやる義理はない、そもそも感想を書くほどの代物じゃない、というみなさんの言い分は至極もっともだが、「おもしろかった」とか「つまんなかった」とか「毒にも薬にもならん」だとかのひと言だけの感想でもいいので、気が向いた方は是非是非ページ下の感想フォームを利用していただきたい。

自分が書いたものを「つまんない」と言われて怒り出すアマチュアなんて絶対にいない、存在するわけがないので、どうか遠慮のない率直なご意見をお願いする。

実は私自身「左ききの真実」を読んでいながら感想を述べなかった人々のうちの一人なのだが、どうして感想を書かなかったのかをつらつらと考えてみるに、ウェブ小説は感想が書きにくいという結論に達した。

私のパソコンはプリンターに接続されていないので、ウェブ小説はパソコンの画面で直に読むことになる。印刷環境が整っている人でも、PDFならともかくHTMLならそのまま読むほうが普通だろう(この認識が誤っていたなら以下の文章は全く無意味になってしまうので具合が悪いのだが、その場合は一般論ではなく私にとってウェブ小説の感想文が書きにくい理由を述べたものと受け止めてほしい)。

ブラウン管にせよ液晶にせよ、光る画面に表示された文字は目を疲れさせるので、あまり長文を読むのはしんどい。その段階でウェブ小説は紙媒体の小説に比べて不利になるのだが、さらに都合の悪いことがある。それは、感想文を書くにもパソコンを使うということだ。

ある程度まとまった分量の感想文を書こうとするなら、部分的にせよ小説を読み返す必要がある。一読した印象をただ書き連ねるだけでは読み飛ばしや読み違いのせいでとんちんかんなことを書いてしまうおそれがある。酷いときには小説のタイトルや登場人物の名前を間違えたまま文章を書き上げてしまうことすらある。だから、感想文を書いている間にも手許に小説をおいて始終確認することになるのだが、ウェブ小説の場合、そうするには頻繁にタスクの切り替えを行う必要がある。これが結構面倒だ。

そういうわけで、自ずとウェブ小説の感想は書かずじまいになりがちだ。また、書いたとしてもごく素っ気ないものになってしまう。

ウェブ小説の感想が書きにくい理由はほかにもあるのだが、省略する。

前置きはこれくらいにして。

今日は一念発起してウェブ小説の感想を書くことにしよう。取り上げるのは、、杉本@むにゅ10号(小田牧央)氏の「パリティが破れてるだろ」である。

著者自身の紹介文によれば、この小説は『新・本格推理05』(二階堂黎人(編)/光文社文庫)落選作だそうだ。落選した理由はいろいろ考えられるが、本篇を読まずとも明らかなことが一つある。短すぎるのだ。『新・本格推理』では400字詰原稿用紙換算で100枚が上限となっている。下限はないので規定違反には当たらないが、上限枚数の半分以下の枚数で入選するのはかなり難しいに違いない。書き込み不足が少しでもあれば致命的なのだから。

その観点で「パリティが破れてるだろ」を読んでみよう。登場人物は5人だが、実質的には語り手の天路と夜水の2人の会話で進められる。で、この2人はいったい何者なのか? 夜水は招かざる客なので素性がわからなくても仕方ないかもしれない(が多少の外見描写は必要だろう)。しかし、天路のほうはどのくらいの年配でどういう職業に就いていてどういう事情で秋茜家の人々と親交があるのか、説明しておかなければならないのではないだろうか。

『新・本格推理』の制限枚数を忘れて、より作者に好意的な読み方をすることにしよう。純粋なパズルのために不要なデータは極力排し人物を駒として扱うという美意識のもとで書かれた小説なのだと。だとすると、私には不可解なことがある。それは、最初の節最後の節パズルに全く何の寄与も果たしていないということだ。

再び、この小説が『新・本格推理』応募作であったことに注意を向けることにしよう。制限枚数を十分に生かしていないことのほかに落選の理由がもう一つ考えられる。それは、『新・本格推理04』に入選した「カントールの楽園で」とあまりにも印象が酷似しているということだ。洪水により生じた閉鎖空間という舞台設定、容疑者の人数、推理する人物が自らも容疑者に数え入れる語り口、犯行動機を捨象したパズル、そして作中のルールの露骨な明示、などなど。

最後に、「パリティが破れてるだろ」のパズルとしての問題点に触れておこう。この小説では2人の人物が殺されるが、それぞれ別人の手による殺人だという可能性を明確に排除するルールもロジックもない。偶然、同じ日に同じ手段で2人の人物が別人によって殺されるというのは蓋然性の原則に反しているからそのような可能性は排除されている、と作者は主張するかもしれない。だが、便乗殺人ということもあるではないか。その可能性は単純性の原則により排除されるのだろうか。だとすれば、そのような原則はミステリを律するには強力すぎて使い物にならない。

もう一つ、人体を切断したときの返り血の問題もあるが、くどくどと説明するまでもないだろうから省略する。

1.11296(2005/02/07) さるウェブ小説の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050207a

今日こそ「左ききの真実」の感想を書く。だが、その前に……。

昨日、書いた「パリティが破れてるだろ」の感想文に対する、作者のコメントのうち、

二人が別々の人物に殺害された可能性は確かにあります。もしそう仮定しない限り解けないのなら、それが解答だったでしょう。

という箇所について。

被害者は2人、容疑者は3人、共犯の可能性は予め排除されているので、単独犯のみを考慮すると、次の9パターンがとりあえず想定可能である。

想定犯人パターン表
パターン佳澄殺し花蓮殺し
パターン1夜水夜水
パターン2夜水天路
パターン3夜水
パターン4天路夜水
パターン5天路天路
パターン6天路
パターン7夜水
パターン8天路
パターン9

この9パターンのうち、1,5,9は他の6パターンに比べて単純である。従って、まずはこの3つのパターンのうちで論理的に説明がつけられるかどうかを試してみて、それで解けなければ残り6パターンを検討する、という順序になる。そして、実際には1,5,9のうちに真相があるのだから、残りのパターンを検討しないで締めくくっていることに大きな瑕疵はない――これがおそらく杉本@むにゅ10号氏のコメントの意図だろうと思われる。

しかし、このような順序づけには大きな落とし穴がある。2,3,4,6,7,8のうちに作中で示された解答よりも、総体としてより単純で蓋然性の高いパターンがあるかもしれないではないか。

杉本@むにゅ10号氏はこう言うべきだった。「もしそう仮定したほうがより単純な答えが得られるのなら、それが解答だったでしょう」と。

ミステリ、特に厳格なパズラーの場合には、比較的はっきりとしたルールがあるため、そのルールの下でその小説がどの程度の完成度に達しているのかを見積もることはわりと簡単だ。だから、単に「面白い」とか「つまらない」と言うだけではなく、いろいろと理屈をこねることができる。

もちろんミステリ以外の小説も全く縛りも約束事もないわけではないので、理論上は同じ仕方で感想文が書けるはずだ。だが、実際にはなかなか難しい。というのは、その小説がどのような趣旨のもので、何を目指しているのかを読み取るところから始めないといけないからだ(これは必ずしも作者の意図を読み取るということではない。作者の意図とは別に、または作者の意図を超えた意義を小説がもつということは十分にあり得る)。

批評家でも評論家でもない私のような一介の読者には、せいぜい「その小説から自分はどのような事柄を読み取ったか」とか「その小説について事前に、または読んでいる最中に考えたことと、最後まで読んで知ったことの間にどのようなギャップがあったか」とか、その程度しか書けないのだが、それだけ書くのでさえも結構しんどい作業になる。で、結局「面白かった」「つまらなかった」というありきたりな言葉だけを書くことになる。

それじゃあ、つまらない。書かないほうがましだ。

いや、「面白かった」と書くのが面白い人もいるのだろうし、そのような人がそのように書くのがいけないといっているわけではない。ただ、私は「面白かった」と書いても全然面白くないし、「つまらなかった」と書くのもつまらないのだ。

閑話休題。あまり引っ張りすぎても仕方がないので、そろそろ「左ききの真実」の感想を書く。

まずは作者の言葉を見よう。

ぼくも密度の濃い35枚程度の短編が書きたい! 書いてみたい! と、貴子潤一郎『眠り姫』にインスパイアされて書きはじめた青春小説です。ボーイミーツガールです。当初考えていたものとはぜんぜん違う話になってしまったこともあり、倍の70枚でも収まりきりませんでしたけどね。

先ほど書いたとおり、小説は作者の意図どおりの意義をもつわけではない。しかし、参考にはなる。というか驚いた。「眠り姫」とは全然似ても似つかないではないか!

短い枚数にエピソードを凝縮するなら、第1節第2節の前半はもっと端折れるのではないかと思った。「小説は状況を描写するものであって、説明してはいけない」と言われことがあるが、あまり重要ではない場面は説明調でもかまわないと思う。

逆に描写が不足していて物足りないと思ったところもある。日野と柚木の絡みが一箇所くらいあってもよかったのではないか。もちろん「絡み」というのは比喩だが。

小説全体の構造に目を向けると、プロローグがあってエピローグがないのが気になった(このような短篇に「プロローグ」と題する節があること自体、気になるのだが、それは別レベルの話)。プロローグの文章を最後に回して、そのかわりに同じ場面を日野の視点から記述した文章を冒頭に置いてみてはどうだろうか? 第2節で日野が雨宮に語る思い出話を先取りしておくわけだ。そうすると仕掛けがひとつとんでしまうことになるが、あまり目新しい着想でもないので惜しくはないだろう。

ほかにもいくつか思いついたことがあるのだが、ここまでの文章を読み返してみると、「ここをああすればよかったのではないか」のオンパレードで嫌になった。これでおしまいにする。

1.11297(2005/02/08) 恐るべき検索

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050208a

全文削除。

1.11298(2005/02/08) 全能の神は四角い円を創造することができるか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050208b

今日は仕事で嫌なことがあって、こんな時には楽しく愉快な本でも読んで忘れようと思ったのだけど、あいにく鞄の中に入っていたのは『ねじまき鳥クロニクル』の第2部と『最後の一壜』の2冊だけで、どちらも気分がささくれ立っているときに読んで心の安らぎを得るにはふさわしくない本なので、帰りにいきつけの書店で軽いラノベでも買おうと思っていたところ、目にとまったのが『神様家族』(桑島由一/MF文庫J)で、既刊全部買い込んで電車に乗り込んだのはいいが、なんとなくそれだけでは気分がおさまらなくて、電車を降りてからいきつけでない書店に駆け込んだところ『よくわかる現代魔法』(桜坂洋/スーパーダッシュ文庫)の既刊が揃っているのを見つけ、そういえば最近極楽トンボ氏がかなりプッシュしていたことを思い出して、これも既刊全部買ってしまった。

で、早速『神様家族』の1巻を読んで気分がかなり回復したところで、今『よくわかる現代魔法』の1巻を読んでいるところだが、よくわかる現代魔法を判断するには2巻までは必ず読むこと!ということなので、今は感想文のことなど考えずにぼちぼち読むことにする。

感想文といえば、昨日一昨日の感想文を読み返してみると、どちらも全然褒め言葉がないので、我ながらちょっといかがなものかと思ってしまった。ふつう、一言くらいは「面白かった」とか「次作も楽しみだ」とか書くものだろう。では、私はなぜそのような事を書かなかったのか。その理由を自分なりに想像してみると、次のようになる。

少し話は変わるが、ジュヴナイルステークスというサイトがあり、投稿小説(小説以外の作品もあるが)が多数掲載されている。そのトップページには、次のように書かれている。

私どもは、必ずしも批評や酷評などによりたたき上げられることが上手になる秘訣だとは考えておりません。

よって、他サイトと違ってフレンドリーな雰囲気で自己のレベルアップがはかれるはずです。

「よって」の前後が繋がっていないようにみえるし、(酷評はともかく)批評なしの無風状態でレベルアップができるのかどうか疑問を感じないでもないのだが、それはともかくこのサイトの管理人がフレンドリーな雰囲気を重視しているのはよくわかる。もちろん、そんなところに土足で上がり込むような真似をする気はない。

ただ、困ったことに、ウェブ小説が掲載される場のすべてが「ジュヴナイルステークス」のように明確なスタンスを打ち出しているわけではない。求めているのは歯に衣着せぬ感想なのか、それとも和気藹々としたコミュニケーションなのか、それがわからないことが多く、感想を書いていいものかどうか迷ってしまうのだ。一昨日は書き漏らしたが、これもウェブ小説の感想が書きにくい一因だと思う。

今日は見出しに掲げた話題について、久しぶりに思いっきり理屈っぽい文章を書いてみようと思っていたのだが、いざ書き始めると読書感想文の話になってしまった(理屈っぽいところだけは当初の予定どおりだが)。

ついでなので、感想文の話をもう少し。いちせ氏の『ちーちゃんは悠久の向こう 』感想メモリンクから私の投げやりな文章を読み直してみて、我ながらちょっといかがなものかと思ってしまった。他の人はもっとまじめにしっかり書いているのになぁ。

いや、今からでも遅くはない。少し感想を書いておこう。

あちこち見てみたところ、日日日はよく乙一と比較されていた。確かに似ていなくはない。私はまだ『ちーちゃんは悠久の向こう』しか読んでいないので、この日日日の作風の幅については何ともいえないが、これを読んだ限りでは乙一のある系統の諸作に近い。また、十代でデビューしたということも共通しているし、何より筆名のネーミングセンスがそっくりだ。

ただ、乙一はデビュー当初から技巧派だったが、少なくとも『ちーちゃんは悠久の向こう』には『夏と花火と私の死体』のようなギミックはない。また、乙一には韜晦癖があり、あとがきも捻っているが、日日日のほうはもっとストレートだ。どちらかといえば西尾維新や上遠野浩平に近いような気がした。

ラストシーンについては賛否両論があるが、私は面白いと思った。やや尻切れトンボのようだが、その分さまざまな憶測が可能となる。たとえば、政宗九氏の感想文のコメント欄に書いたような解釈も不可能ではない……と書いてみたが、これだけではどういう解釈なのかわからない人もいると思うので補足しておこう。以下ネタに触れるので文字色を背景色と同化させる。

主人公やちーちゃん、林田など何から何までエキセントリックな人々のせいで多少霞んでしまってはいるが、武藤先輩も相当奇妙な人間であり、その事は248ページの唐突な台詞からもわかる。そこから一歩進んで考えると、102ページ以下の出来事も憑依ではなく武藤先輩の演技だと考えることができる(だいたい、あの場に武藤先輩がのこのこと現れること自体が不自然だ)。そうすると、例のラストシーンも同じように武藤先輩がちーちゃんのふりをしているだけとみなすことができるのではないか。

誤解のないように強調しておくが、ここに書いたのはあくまでもそういうふうにも解釈できるということであって、その解釈を私が積極的に支持するということではない。私が面白いと思ったのは、その解釈そのものではなく、この小説が(作者の意図はどうであれ)その解釈に対して開かれているということである。

1.11299(2005/02/09) アーサー・マツケンサンバ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050209a

何となく思いつきだけの見出しを書いてしまったが、私はアーサー・マッケンにも松平健にも関心はない。朝松健には関心があるが、まだ一冊も読んだことがない。赤松健はかなり読んでいる。

今日、講談社ノベルスの今月の新刊を2冊買った。『ネコソギラジカル(上)十三階段』(西尾維新)と『『ギロチン城』殺人事件』(北山猛邦)だ。『ネコソギラジカル』は三巻本なので全部揃ってから読もうと思う。北山猛邦は前作『『アリス・ミラー城』殺人事件』が途中で頓挫したままなのでそっちを先に読むべきだが、本が山に埋もれて行方不明だ。床が抜けるまで待つことにしよう。というわけで、今日買った二冊はどちらも当分手をつけないことになるだろう。

未読本を少しでも減らすため、少し気合いを入れて本を読むことにしたい。周期的にそんなことを言っては、すぐに読書意欲が失せて元の木阿弥になってしまうのだが、今回は違う。ほら、私の目を見て下さい。瞳の奥でメラメラと燃え上がる炎が見えるでしょう?

最後に豆知識。統計法(昭和22年法律第18号)に基づく指定統計第26号(農林業センサス)ではすいかは野菜に含まれるが、同じく指定統計第35号(小売物価統計)ではすいかは果物に含まれる。知っていても全然特にはならないし、リサーチ・リテラシーの観点からみても全く無意味な知識だ。

1.11300(2005/02/10) にーとにーとにー

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0502a.html#p050210a

岡山弁で「でーとでーとでー」と言うと、「誰とデートするのですか?」という意味になるそうだ。又聞きなので真偽のほどは確かではない。もしかしたら広島弁だったかもしれない。ところで、広島風お好み焼きとモダン焼きはどう違うのだろうか。

さて、今日2月10日は「ニートの日」だそうだ。去年の今日、「ニート」という言葉を知っていた人は日本中探してもごくわずかだったはずで、月日の流れのはやさを実感してしまう。ちなみに私がこの言葉を知ったのは去年の9月か10月頃だった。

今日の見出しは、この記念すべき「ニートの日」にちなんだものだ。もちろん岡山弁でもなければ広島弁でもない。強いて言うなら名古屋弁だろうか? 意味はこれから考えることにしよう。

さて、明日はいよいよ吉野家の牛丼が1年ぶりに1日だけ復活する日だ。吉野家の店頭から牛丼が消えた日を現在の太陽暦に換算すると2/11ということになるらしい。ぜひこの日を「牛丼記念日」として国民の祝日にすべきだ。特定企業の記念日を法律で定めるのは具合が悪いなら、政令に委ねても構わない。

私が最後に吉野家の牛丼を食べたのは、去年の1/30のことだった。その時のことはここに書いてあるので繰り返さない。あれから1年、まだ飛田甲の新刊は出ていない(私が知らないだけだったらごめんなさい)。

休息室における四方山話2/10付の記事から。

「間髪を入れずに〜する」という言葉がありますが、この「間髪」って読みとしては「かんはつ」だと思うんです。国語辞典にもそう載ってるので、間違いないでしょう。

でもね、「かんはつ」だと変換してくれないんですよ。で、「かんぱつ」で一発変換するわけ。

なんでやねんと。IMEは莫迦な上に、誤った日本語を広める気かと憤慨したしだい。

「散髪」「断髪」のように、「ん」で終わる漢字の後に「髪」を続けて一語にした場合、連濁により「髪」を「ぱつ」と読む。しかし「間髪を入れず」は「間髪 を入れず」ではなく「間 髪を入れず」なので連濁は生じない……という話を何かの本で読んだ覚えがある。

「間」も「髪」も一字なら訓読みするほうが自然なのに、「かん」とか「はつ」とか読ませる理由は知らない。この表現の出典が漢籍なのかもしれない。

「人間到る處に青山あり」という言葉がある。ここでいう「人間」はヒューマンということではなくて世の中という意味だから、「にんげん」ではなく「じんかん」と読むべきだと思いこんでいた。ところが、ここを読むと、意味によって「人間」の読みを変えるべきだという考え方が明確に否定されている。

もっとも、文芸作品の漢字の読み方は作者の意図や受容の歴史と伝統を抜きにして決めてはいけない、と主張する人もいるかもしれない。難しいものだ。

ところで、このページによると、毛沢東はこの詩の作者を西郷隆盛だと思いこんでいたらしい。漢詩の世界は奥が深い。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同一の神を信仰しているそうだ。なぜそう言えるのかというと、旧約聖書が三宗教共通の聖典だかららしい。

では、旧約聖書を聖典とみなさず、それどころかユダヤ教、キリスト教、イスラム教などから直接的にも間接的にも全く影響を受けていない唯一神を信仰する宗教の神は、これら三宗教の神と同一であるのか?

「神の存在を信じ、かつ、神は唯一・単独であることも信じるならば、それ以外の点でいかに信仰の内容が異なっていたとしても、信仰の対象は論理的に同一である」と言ってしまっていいものかどうか。そもそも神のアイデンティティを信仰から切り離して確定することができるのだろうか?

こんなことはパタリロと同じ宗派の私がまじめに考えることではないのかもしれない。上記三宗教(またはそれらから影響を受けた一神教)の信者に任せておくほうが賢明か。