「みんな読んでるから」という理由で手を出したっていいじゃないか。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050122a
今日の見出しはうたたねこやのダメ感想サイトの誓いあれこれ 続きから。引用タグの設定のせいで表示が妙になってしまったがいいじゃないか。ブロック要素とかインライン要素とか気にしない。
さて、今日私が読んだのは『夕凪の街 桜の国』(こうの史代/双葉社)だ。
SHADOW ZEROの1/18付の記事で、
ふと立ち寄った本屋で買った、こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)を読んだら、ガツンときた。
ここから何かを考えてくれ、とかはあえて言わないから、とりあえず読んで。お願い。
と書かれているのを読んで、確か去年末くらいにどこかのサイトで言及されていたような記憶があったため、ちょっと気になって調べてみると、日刊海燕の12/20付の記事で、今年(というのはもちろん2004年のことだが)の漫画ベスト10の1位として紹介されていた。コメントは1位の「夕凪の国 桜の国」を読めたことが今年最大の収穫です。素晴らしすぎる……。
という短いもので、テーマもジャンルもさっぱりわからない(少し後にもう少し詳しい感想文がアップされているのだが、そっちは読み飛ばしていた)。しかし、海燕氏とLEGIOん氏がともに内容にほとんど触れずに絶讃しているというだけで一読の価値はある。きっと、他にもほめている人はいるだろうが、せっかくだから予備知識ゼロのまま読んでみようと思った。
買った。
読んだ。
そして、今この文章を書いている。
久しぶりに高等テクニック
を発動しよう。
いいから読め
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050123a
ここを読んで思ったこと。
クレーマーや万引き犯との闘い
ってコンゲームなのか……。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050123b
先日、『GOSICK』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)の既刊4冊をまとめて買ってきて、昨日から読み始めた。1冊ずつ感想文を書くのが面倒なので、4冊読んでからまとめて書くつもりだが、その前に内容とは全然関係ないことで気づいたことを記しておく。
1巻(という表記はないが、続刊と区別するため便宜的にそう呼んでおく)第二章冒頭に次のような文章がある。
豪華客船の周りは、真っ暗だった。異国人らしい、漆黒の肌をした案内人は無言で、手にした洋燈の灯りを頼りに、一弥とヴィクトリカを誘導していた。
この文章を読んで何か気づいたことはないだろうか? わからない人はちょっと考えてみてほしい。
ここでは「燈」と「灯」が混用されている。私は前に別の小説で「假」と「仮」が混用されていることに気づいたことがあるが、その時と似たような不思議な気持ちを味わった。
ここに出てくる洋燈というのは、たぶん携帯用のランプかカンテラの類だと思うが、今では懐中電灯にとってかわられて生活の場から姿を消している。そのような昔の文物の雰囲気を示すために「燈」という字体を用い、単なるあかりには常用漢字の「灯」を用いた……ということなのだろうか?
同じ漢字が連続してあらわれるのを避けたということなのだろうか?
それとも、特に意図したわけではなく、たまたまそのように変換しただけなのだろうか?
……というような事を考えながら読むものだから、私の読書ペースは亀の歩みよりも遅い。しかも兎のように昼寝をするので、なかなか積ん読本が減らない。
『GOSICK』は次の週末をめどに読破したいものだと考えている。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050123c
ふと思い立ってgoogleでこんな検索をしてみたら、【社会】スーパーフリー東大生起訴−14人目、捜査終結というページがひっかかったので驚いた。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050124a
なんとなく、もののはずみでキャッチコピー風の見出しをつけてしまった。どうしよう。
とりあえず、googleの検索結果にリンクしておこう。
まだまだ圧倒的に寝取られのほうが優位だ。寝取らせの前途は厳しい。
今思いついたのだが、寝取られはホラーに似ているのではないだろうか。ホラーは恐怖を娯楽にしたもので、興味関心のない人間にとっては「なんでわざわざ好きこのんで怖い思いをしなけりゃならんのだ」と至極まっとうなぼやきの種にしかならないのだが、ホラーファンに言わせれば「確かにホラーは怖い。だが、それがいい」のだそうだ。寝取られの面白さもたぶんホラーと同じ構造になっているのだろう。恐怖のかわりに屈辱と悲哀と未練がそこにはある。
では、寝取らせはどうか。うわべの現象は寝取られと同じだ。だが、その裏には冷徹で奸智にたけた謀略がある。寝取る側は自由意志で行為したつもりになっているが、その意志そのものが寝取られた側の人間に操られているのだ。自らが優位に立っていると思いこんでいる愚か者を嘲笑するのは最高の快楽であり、至福でもあるのだ。
いえ、これは寝取らせファンの気持ちを代弁してみただけで、私自身がそんな事を考えているわけじゃありませんよ。いやだなぁ、私がそんな倒錯した奴に見えます?
まあ、私自身の嗜好はともかく、ついこの前新世紀に入ったばかりだというのに、早くも世紀末の爛れた雰囲気が漂う今日この頃のことだから、いずれ寝取らせが一大ムーヴメントになることは間違いない。今ならまだ間に合う。時流に乗り遅れるな!
寝取らせに絡めて乱歩晩年の某短篇について語ろうと思ったのだが、どうやってもネタばらしになってしまうので断念した。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050125a
こうの史代『夕凪の街 桜の国』読書ノート(ただのにっき)を読んで驚いた。
私はこのページをスカベン経由で知った。イル氏は次のようにコメントしている。
まあ、そんなこんなでリンク先のページを読んで、ひとコマひとコマに、とても多くの意味が込められているんだあと驚嘆するのと同時に、ほとんど気づけなかった自分が悔しい。俺はまだまだ甘い。
私も全く同感で、付け加えることは特にないのだが、それでは話が終わってしまうので無理矢理続けることにしよう。
私が何かについて「これは技巧的な作品だ」と感想を述べるとき、たいていは賞讃の意をこめている。しかし、人によっては同じ「技巧的」という言葉を否定的な意味合いで使うことがある。
不自然で、物事をいじくり回して本質を歪め、素材の良さを殺し、装飾過多で、素直な感動から遠く隔たっている。たぶん、そのような含みを「技巧的」という言葉に持たせているのだろう。
確かに、技巧にはそのような側面がないとはいえない。物事なんでもバランスが肝心で、技巧のための技巧に走った作品にはあまり高い評価は与えられない(と言いつつ、マニエリスムの極致のような作品にも私は心惹かれるのだが……)。
しかし、一口に「技巧」といってもさまざまな種類のものがある。一見しただけで、誰の目にも技巧がありありとわかるものもあれば、表面上はなめらかで自然に流れるような優美さがありながら、その背後にしっかりとした技巧があって、知らぬ間に鑑賞者の心に染みいっていることもあるのだ。技巧と感動は常に対立するというわけではない。いや、むしろ真に人を感動させる作品には、必ず巧みなわざが施されているはずだ。思い切って、そう言ってしまおう。
『夕凪の街 桜の国』(こうの史代/双葉社)はその実例である。私はこの作品の骨格ともいえるほど隅々にまで張り巡らされた数々の技巧をほとんど見抜くことができなかった。それが悔しくてならない。私はまだまだ甘い。
そのような悔しさを味わうとともに、改めて『夕凪の街 桜の国』の巧みさに驚嘆している。そして、その技巧をこともなげに種明かししていくこうの史代『夕凪の街 桜の国』読書ノートの凄さにも。
『夕凪の街 桜の国』には明確なテーマがあって、それを支えるために技巧がある(そうでない技巧もちらほらと見受けられるが)。技巧文学としてのミステリとは構造が違っているので、単純に比較はできない。だが、作品を鑑賞し、技巧を読み解く立場からすれば、ある程度類比的に考えることが許されるだろう。
技巧が隅々まで張り巡らされた凄いミステリを読んだとき、果たして私はそれに真っ向から立ち向かって、こうの史代『夕凪の街 桜の国』読書ノートのような感想文を書き記すことができるだろうか? 「いいから読め」で終わってしまわないだろうか?
ネットの感想文ごときで、そんなに気負う必要はない。
でも、せめてミステリの感想を書くときくらいは、意地を通したい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050126a
私が読書感想文を書くときの心構えについて書くことにしよう。もちろん、他の人に押し付けるつもりはないが、多少とも納得できる箇所があれば参考にしてもらいたい。
まず、何といっても大事なのは、「葉山響の法則」だ。この法則の由来についてはリンク先を参照してもらいたいが、クリックが面倒な人のために再掲しておこう。
再掲といいながら第三法則を変更しているが、もともと第三法則は葉山響氏とは全く関係なく、私がでっち上げたものなので、大した意味はない。ちなみに、削除した最初のヴァージョンでは、第三法則は「フリーライターとフリーライダーは一文字違いだ」という、まったくほんとにどうでもいい内容だった。
「葉山響の法則」自体は書評や感想文をネット上に発表する人々に注意を喚起したものだが、同人誌でも同じことが言えると思う。弱小サークルが出した少部数の本でも油断はできない。知らない間にまわりまわって作者の目に触れたいたという話はよく見聞きする。
作者が故人の場合にはさすがに「葉山響の法則」は適用除外となる。とはいえ、いつなんどき作者が生き返ったり、生まれ変わったり、ゾンビと化してネットサーフィンを始めたりするのかわからないから、注意するにこしたことはない。私はそれが恐ろしいので、J.D.カーとA.H.Z.カーの悪口は書かないことにしている。P.カーまたはP.B.カーの悪口はもしかしたら書くかもしもしれないが、今のところその機会はない。
閑話休題。
作者の目を意識しながら感想文を書くというのは、何も作者におもねるということではない。基本的には書きたいように書くのだが、作者から反論が寄せられたときに答えに窮するようなことは書かないということだ。もっとも、幸い私はまだ自分が書いた感想文のことで、作者から抗議を受けたことはない。
次に大事なのは、やる気がないときは、やる気のなさがちゃんと伝わるように書くということだ。常に気合いを入れて感想文を書くにこしたことはないが、ときどき緊張の糸が切れた状態で感想文を書くことがある。そんな時、感想文に熱が籠もっていないのは対象作品のせいではなくて、単に私にやる気がないからだということをはっきりと示しておくのが最小限のエチケットだ。「そんな状態で感想文なんか書くなよ」と非難されそうだが、そういう気合いの抜けた感想文も、本当にダメダメな作品の感想文の煙幕になるから、たまには書いておかないといけないのだ。
もう一つ大事なことがあった。それは、対象作品をまだ読んでいない人に配慮するということだ。どんなジャンルでもそうなのだが、特にミステリの場合、未読の人に余計な情報を与えることで楽しみを奪ってしまってはいけない。
「すぐれた文学作品は小手先の意外性に頼らず、何度でも読み返しができるものだ。だからネタばらしに配慮する必要はない」などと本気でいう人がいるが、私はそのような意見には与しない。
未読の人への配慮といってもなかなか難しい。私は感想文の冒頭に注意書きを置くことにしているが、其れで十分かどうかはわからない。
もう一つ、非常に大事なことでありながら、うまく言語化できないことがある。それは、主観と客観にかかわることだ。よく「主観的な感想と客観的な評価を区別せよ」などと言われることがあるのだが、私にはこのような言い回しは不用意だと思われる。
海燕氏は以前「人はどうあがいても主観から逃れることはできない」というような事(うろ覚えなので正確な引用ではない)を言っていた。なるほどその通りだ、と思った。さらに付け加えるなら「人はどうあがいても客観からも逃れることはできない」と言うこともできるだろう。正反対にみえるかもしれないが、同じことを両面から言っているだけだ。要するに、主観と客観は厳密に分けることはできないということなのだから。
とはいえ、私と宇宙は同一ではない。ある作品を読んだときの感想の中には、多くの人びとに同意してもらえることもあれば、ほとんどの人に同意してもらえないこともある。自分の意見を他人に押し付けるくらいの気概がなければ、文章を他人の目に晒す意味はないが、暴力的な押し付けは見苦しい。
この辺の事情をうまく整理して簡潔に述べることができればいいのだが、私の手に余る。何となくそういうことを考えてはいるということを示すだけにとどめておく。
以上、述べたこと(直前の箇所を除く)をまとめておく。
さて、先日から集中的に読んでいた『GOSICK』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)シリーズ既刊4冊を、今日読み終えた。面白かった。
面白かったのはいいのだが、どこがどのように面白かったのかを直ちに説明できる自信がない。また、今日は疲労が激しくてやる気がないので、今から感想文を書くとぐたぐたのめためたなものになってしまうだろう。それではもったいないので、先送りにする。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050127a
確か去年の12/30のことだった、私が「OTAKU展」日本上陸を知らせるポスターを見かけたのは。
「OTAKU展」(正式名称は「おたく:人格=空間=都市」)の内容については、ここを見てもらえればわかるので詳しい説明は説明するが、要するに昨年のヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展の日本館展示のことだ。それがはるばる海を越えて日本に凱旋するとは!
ぜひ、見に行かなければ。私は決意した。
年が改まって、私はインターネットで早速情報収集に取りかかった。私が見たポスターはあの「OTAKU展」が日本上陸(ぬるヲタが斬る)という記事で紹介されていた。
ふむふむ、東京都写真美術館で、2/5〜3/13に開催か。
続いて、東京都写真美術館のサイトを見た。スケジュール表には「OTAKU展」は見あたらないが、ポスターに書かれていたのと同じ日程で「グローバルメディア展」が開催されることになっている。おそらく、この展覧会を延期または中止して、かわりに「OTAKU展」を開催するのだろう、と私は考えた(現在、「グローバルメディア展」の紹介ページを見ると、「おたく:人格=空間=都市」が紹介されているが、私が調べたときには別内容だった)。展示会タイトル、料金およびスケジュールは予告なく変更される場合がございます。
と書かれているのだし、奈良国立博物館の厳島神社国宝展(去年の台風で大きな被害を受けた厳島神社の復興資金を捻出するため、当初予定されていた「特別陳列 古密教」を押しのけて開催されている)の例もあるのだから。
私はカレンダーを確認した。都合のいいことに、今年の2/11は金曜日で、土日併せて三連休だ。よし、2/11に決行だ!
というわけで、知人何人かに声を掛け、旅行計画を練り、宿の手配もした。ついでだから、昨年末に会えなかった東京方面の知人にも連絡してみよう、と思っていた矢先のことだった。
[前期] 2月5日(土)〜2月20日(日)
「グローバルメディア2005−新しいヒトへ」
[後期] 2月22日(火)〜2005年3月13日(日)
「おたく:人格=空間=都市」
な、何だって!
私は愕然とした。「OTAKU展」は「グローバルメディア展」を完全に駆逐したわけではなかったのだ。
いちおう前期にも申し訳程度にこのほかにも、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展日本館で展示された「おたく:空間=人格=都市」の作品陳列風景が展示される。
(強調:引用者)そうだが、これってパネル写真のことではないだろうか?
そんなものを見るために、わざわざ東京くんだりまで足をのばす気にはなれない。私は知人に連絡をとり、旅行計画を中止することにした。
全然関係のない話題。
ジュブナイルポルノ作家わかつきひかるのホームページにて、今すぐ使える小説テクニック〜視点〜というコラムが掲載されている(ちなみに、「今すぐ使える小説テクニック」はシリーズになっていて、ほかに今すぐ使える小説テクニック〜描写とキャラ立て〜がある)。
ポルノとラノベは視点移動を頻繁に行うという点で共通しているという指摘が興味深い。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050128a
昨日から『GOSICK』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)の感想文を書いているのだが、全然まとまらない。そこで今日はアリバイ更新でお茶を濁して、『GOSICK』の感想文はさらに先送りすることにする。
アリバイだから何を書いてもいいのだが、この「何を書いてもいい」というのがなかなかの曲者だ。でもアリバイ工作に時間を費やす余裕はない。
時間の余裕がないのに、一度もデートしたことない彼女についての質問です(情報もと:収容所)を読んで小一時間無駄にしてしまった。よくあるネタだと言ってしまえばそれまでなのだが、この種の話題には何かとてつもなく人を心を揺さぶる根源的な力のようなものが隠されている。
明日はここに行く予定。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050130a
平谷美樹ショートショート on Web(情報もと:モノグラフの自由帳)に
最近見かけることが少なくなったショートショートの醍醐味をご堪能ください。
という記述があった。そこで思い出したのが、『1001秒の恐怖映画』(井上雅彦/創元推理文庫)のあとがきの一節だ。
読者諸賢、紳士淑女の皆様。
「ショートショート」の意味は、おわかりですよね?
失礼を承知でそうお伺いするのは、あまりにもこの分野、現在の出版点数が少ないからである。
嗚呼、昭和は遠くなりにけり。
日本におけるショートショートとは、星新一という偉大なる一新星とともに流れ去ってしまい、いまやかすかに尾が観測されるに過ぎない。なんだか悲しいなぁ。
あー、「新星に尾なんてあるのか?」とかいうツッコミはなしよ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050130b
先送りに先送りを重ねてきた『GOSICK』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)シリーズの感想文を書くことにする。
以前、同じ著者の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想文を書いたとき、未読の人をはなから切り捨てて思う存分ネタばらしを行った。同じ手を使うのも芸がないので、今回は未読の人への紹介をかねた文章にしようと思っていたのだが、いざ書き始めてみると至難の業だとわかった。たとえば、このシリーズの探偵役であるヴィクトリカのフルネームすら書くことができないのだから。いや、今書いた「このシリーズの探偵役であるヴィクトリカ」という記述にも問題があるかもしれない。困った。
結局、感想文としては突っ込み不足で、紹介文としてもピントがずれたぐたぐたな文章になってしまった。
なお、以下の文章で取り上げるのは
以上4冊である。短篇は読んでいない。また、原著のタイトルに含まれるローマ数字を通常のローマ字で代用すると不細工になることと、長いタイトルをいちいち全部書いていると冗長になることから、巻数で表記することにする。
ヴィクトリカは、名探偵の多くがそうであるように、かなり変わった人物として描写されている。彼女の属性のうち、特に目立つものを思いつくまま列挙してみよう。
キャラクターに魅力を持たせるためにギャップやアンバランスな要素を盛り込むというのは、特段珍しいことではない。ただ、しわがれ声に萌える読者はあまりいないだろうし、未成年の喫煙に抵抗のある人もいるだろう。しかし、ある程度読み進めると、彼女の奇矯な言動の陰からときたま見え隠れする内面と相まって、上に挙げた要素にも馴染みをおぼえてくる。このキャラクター設定は結果として成功していると思う。ただし、当然のことながら、成功の背後には細かなエピソードの積み重ねがあるわけで、機械的に属性を組み合わせて魅力が生じたというわけではない。
では、ヴィクトリカの属性にはどのような意味があるのだろうか? パイプで煙草をふかすのはシャーロック・ホームズに倣ったのだとも考えることができるが、他の属性とあわせてみるとフロイト的な解釈も可能だ。
そういえば、ヴィクトリカのホームグラウンドは迷路状の階段をのぼったところにある秘密部屋だし、彼女の住居も迷路花壇の奥にある。そこに性的な象徴を読み取ることもできなくはない。ただ、フロイトを引き合いに出せばたいていの事は説明できるのでつまらないから、これ以上踏み込むのはやめておこう。
『GOSICK』は各巻とも似た構成になっている。すべての巻に「プロローグ」と「エピローグ」があり、その間に二つのパートが交互に配置されている。仮に「第○章」と題されたパートを主パート、その間に挿入された「モノローグ」等を副パートと呼ぶことにしよう。
副パートはそれぞれの巻が扱う事件の背景を知る人物の語りになっていて(3巻は除く)、概ね視点は統一されているが、主パートの視点は一定していない。いちおう大まかな構図としては、主人公の九条一弥が名探偵のヴィクトリカに謎を持ち込んで、ヴィクトリカがそれを解決するという古典的なスタイルになっているのだが、一弥以外の人物の視点が(ときにはヴィクトリカの視点さえも!)随時挿入される。また、視点の転換に伴い節が分けられることもあれば、同じ場面内で視点が変わることもある。
視点がころころ変わると台詞や心理描写が誰のものなのかがわかりづらくなることがあるので、一般にはあまり好ましくないとされている(『GOSICK』では人物の描き分けがしっかりとできているので、読みにくいということはないが)。ライトノベルは伝統的に視点の統一を重視しないので、ことさら目くじら立てることではないのかもしれない。
ただ、読みやすさとは別に、ミステリには固有の問題がある。詳しく説明する余裕はないが、視点の転換が即アンフェアになることすらあるのだ。『GOSICK』は厳格なパズラーではないので問題にならないと言ってしまえばそれまでだが、このスタイルでは叙述トリックを用いるのは難しいだろう。
視点の問題に関連して、描写と説明のバランスも気になった。たとえば、微妙な外見描写で登場人物の心理をほのめかした直後に視点をその人物に移して説明を施している箇所がいくつかあり、興ざめとまでは言わないが、何となく違和感があった。行間からあれこれ想像するのも小説を読む楽しみの一つだと思うのだが……。もっとも、これは年少の読者への配慮の結果だから、欠点とか難点とかいうようなものではない。
『GOSICK』はミステリとしてはあまり出来がよくない、という評をよく見かける。また、このシリーズはミステリの体裁をとってはいるが、作者はあまりミステリ的な要素を重視していないのではないか、とも言われている。確かにトリックはさほど独創的ではないし、最後に明かされる真相も意外性に欠ける。また、推理の過程をねちねちと書き込んでいるわけでもない。
しかし、別の観点からみれば、『GOSICK』は非常によくできたミステリである。何といっても小道具の使い方がうまい(ここでいう「小道具」とは文字通りのそれ以外にトリックやモティーフ、その他の概念的な事物を含む)。たとえば、2巻の密室や3巻の光る鼠など。
また、小道具を活用するために細やかな伏線が張られていて、感心することも多い。1巻は冒頭でヴィクトリカが密室殺人を瞬時に解決したのちサスペンス調の展開に突入するが、そのさなかにも密かに伏線が張られている。私はガチガチのパズラーも好きだが、緻密な技巧が施されたミステリも大好きなので、『GOSICK』シリーズはどれも十分に楽しめた。
全般的な雰囲気は必ずしも似ているわけではないのだが、ミステリ的な要素を取り出してみれば往年の井上ほのかの作品群、特に「セディ・エロル」シリーズに通じるものがある。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想文が煽り調だったので、今回は逆に淡々と地味にまとめてみた。
書きたかったけれど書けなかったことがふたつある。ひとつはヨーロッパ近現代史との関連で、これは私の知識が圧倒的に不足しているため。
もうひとつはヴィクトリカの探偵としての立場で、これはミステリにおける名探偵論につながっていく話になるので手が出せず、見出しで示唆するにとどめた。
後者に関連して、『天城一の密室犯罪学教程』(天城一/日本評論社)から引用して、賢明な読者諸氏の注意を喚起しておく。
もしも探偵小説が、作者が読者を操って自己の頭脳の鋭敏さを誇示するだけのものならば、社会ダーウィニズムのイデオロギーを信じるものです。探偵小説はそういうものだったでしょうか。…(略)…コンピューターの予言者のアラン・テューリングが示したように、性能の悪い機械でも時間をかけさえすれば追って行くことは可能なのです。探偵小説の構造は、本質的に、平凡人の勝利を、平林が予感したように、大衆の時代の到来を告知するものです。すべての人々に、探求の門は誰にでも開かれている、誰にでも参加の資格があると、告げ知らせるものではないでしょうか。
これが『GOSICK』と何の関係があるのか訝る向きもあるだろうが、いま引用した箇所の次の段落を読めば一目瞭然だ。でも、そこは引用しない。
最後にちょっと予想。
4巻でシリーズの流れが何となく見えてきた。おそらく5巻以降はボンクラと愚者の対決という構図になるのではないかと思うが、結末は全く予想もできない。今後が楽しみだ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501c.html#p050131a
先日、大阪で書店巡りをした。目当ては桜庭一樹の本だったのだが全然見つからなかった。最後の店でようやく『竹田くんの恋人』(角川スニーカー文庫)を入手しただけだった。『赤×ピンク』とかふつうに流通しているものだと思っていたので意外だった……と思ったら、公式サイトの日記でファミ通文庫の既刊3冊の重版が告知されている。ちょっとタイミングが悪かったようだ。
先ほど「全然見つからなかった」と書いたが、これはあまり正確ではない。『GOSICK』シリーズは訪れた店すべてで全部揃っていたし、ファミ通文庫のノベライズも何冊かあった。ただ、私はそこまで手を出すつもりはないので見送ったのだ。桜庭一樹の著作が全部で何冊あるのかは知らないが、下手にコンプリートを目指したりすると七転八倒することになりそうだ。かつて、天藤真の作品を全部読破しようと志していた頃、一作だけタイトル不明の長篇があって大弱りしたのを思い出す。もちろん創元推理文庫で全集が出る前の話だ。
それはさておき。
入手に成功した『竹田くんの恋人』を読んだので今日はその感想文を書こうと思っていたのだが、昨日『GOSICK』の感想文を書いたばかりなので、やめにした。で、そのかわりに『ガルガンチュア ガルガンチュアとパンタグリュエルI』(ラブレー/宮下志朗(訳)/ちくま文庫)の感想文を書くことにしよう。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は非常に有名な物語だと思う。しかし、この物語のことをどういうきっかけで知ったのか、私はよく覚えていない。確か、奇想小説の源流の一つとか、『ガリバー旅行記』の先駆的な作品とか、そういった紹介をどこかで見かけたような気がするのだが定かではない。また、『トリストラム・シャンディ』と関連づけて言及した文章も読んだこがあるような……???
書店でこの本を見かけたとき、「ああ、こんな本、買っても絶対に読まないだろうなぁ」と思った。最近、私はラノベしか読めない身体になっていて、海外ものなど到底読み通せないと思っていたのだ。でも、ちょっとした気の迷いで本を買って読み始めてみると、意外とすらすらと読めるので少し驚いたくらいだ。これは訳文がこなれているせいでもあるのだろう。なお、この物語は岩波文庫版の渡辺一夫訳でよく知られているが、こちらはかなり格調高く、その分読みにくいらしい。
ストーリーはあってないようなもので、やたらと脱線するし、意味もなく下品なスカトロ話が出てくる能天気で陽気な物語だ。もっとも註釈や解説を読むと、中世以来の伝統的な宗教勢力とルネサンスの人文主義者の対立が背景にあるようだ。戯作を発表するのも命がけという時代だったらしい。
なにぶん近代小説成立以前の物語なので、今の常識では推し量れないところが多いが、概ね楽しんで読めた。かなり癖が強く万人向けではないが、変な本を読んでみたい人は一度手にとってみてもいいのではないかと思う。
ちくま文庫版『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は全4巻だが、訳者解説を読むとまだ次の『パンタグリュエル』の訳ができていないようだ。てっきり全部訳が揃っていて毎月刊行されるものだと思っていたのに。次巻はいつ出るのだろうか?