http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040201a
「10年前の大火事」というのは空襲のメタファーであって、すなわち前世紀の大戦争への暗黙の言及を含んでいる。従って、『Fate/stay night』もまた大量死から必然的に生み出された作品なのである。
……というようなことを笠井潔の文体模写で論じてくれる人を希望。
格闘技のことは分からないが、カルテジアン・フェンシング
とか現掌学
に大笑いした。
格闘技繋がりでユニヴァーサル相撲協会にもリンクしておく。
Spaghetti Source1/31付論理的公理から引用(一部省略し、誤字を改めた)。
自然数が順序立てて並んでいることは、「直感に基づく数」の定義です。即ち歴史的には「ひとつ、ふたつ、……」といった並びのことを自然数として定義した、ということです。
しかも、この要件を満たすように構築された自然数の体系(正確にはペアノの公理系)が無矛盾であることが示されているので、論理的には真理かどうかはともかくとして間違いが無いことは確かです。後は利便性を考慮してこの体系を使うかどうかを選択するだけです。
私がここで言いたかったことは、数学的帰納法の確実性についての疑いではなく、それが論理とどのように関わっているのかが分からないということだった。
フレーゲは数学(註1)を論理学に基づいて再構成しようと試み、そして失敗した。数学は古典論理の範囲を超えている(註2)。ものの本を読めばそのように書かれている。だが、それは伝聞に基づく知識に過ぎない。数学がどこまで論理に依存していて、どこから先が数学独自の領域なのか、私は全く知らない。
数学的帰納法による証明は、無限に続く過程を「以下同様」と処理してしまう。その点が論理を超える箇所なのだろうか? それとも、有限回の過程しかない証明(ぱんつはいてない巫女さんの例では、特に明記はしていないが、巫女さんの人数は有限である)の場合でも、論理に還元できない要素を含むのだろうか? 知っている人にとっては今さら論じるまでもないことなのだろうし、その点をきちんと説明してくれている本も探せばあるのだろうが、まずは自分で考えてみようと思って、ふだん使い慣れていない頭を酷使しながら書いたのが、あの文章だった。
自分でもよく分かっていない事を手探りで書いたために、誤解を招きやすい文章になってしまった。掲示板でのkagami氏とのやりとりでその事がわかった。
自分がはっきりと分かっていることだけを書き、よく分からないことについては何も書かないのが一番なのかもしれない。だが、その一方で、自分にはよく分からないことでも、公の場で疑問を投げかけておけば、誰かがその答えを与えてくれるかもしれない、という希望もある。
上で引用した文章は、私の疑問そのものへの答えではないが、非常に参考になった。同じページ内には、ほかに「自然数論は無矛盾でない」という証明の批判があり、その補足と併せて読むと興味深い。
また、数学的帰納法の定義もあった。ただ、残念ながらウルトラ文系人間の私には、そこで用いている言葉の意味がわからない。「整列集合」という用語に対して半順序かつ最小限を持つ
と説明が付されているのだが、その中の「半順序」が分からないので、結局「整列集合」の意味も掴めない。もちろん、これは筆者の責任ではなく、私の知識が不足しているだけのことだが。
ところで、
「整列集合 X について、任意の x,y ∈ X, y < x について P(y) が真のとき P(x) が真ならば、任意の x について P(x) は真。」
を私は次のように読んだ。
整列集合 X について、次のことが成立する。すなわち「任意の x,y ∈ X, y < x について P(y) が真のとき P(x) が真ならば、任意の x について P(x) は真」
さらに鉤括弧内を次のように読んだ。
任意の x,y ∈ X, y < x について次のことが成立する。すなわち「 P(y) が真のとき P(x) が真ならば、任意の x について P(x) は真」
つまり、任意の x,y ∈ X, y < x について
が文末まで係るという読み方(註3)である。
さらにさらに鉤括弧内を次のように読んだ。
「 P(y) が真のとき P(x) が真」ならば、「任意の x について P(x) は真」
つまり、P(y) が真のとき
が P(x) が真
までしか係らないという読み方(註4)だ。
なんだか、最初の一歩が抜けているような気がするのだが……。
下手の考え休むに似たり。またしても尻切れトンボだが、時間が惜しいので、これでおしまい。再び、大量死の世界に戻る。
任意の x,y ∈ X, y < x についてが文末まで係るという読み方
P(y) が真のときが
P(x) が真までしか係らないという読み方
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040201b
うう……長い……目が痛い……肩が凝る……。
世界設定の説明とラブコメと戦闘を順繰りに延々と続けている、という感じ。
ちゃんとクリアできるかなぁ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040202a
探偵小説の理論−形式化とデータベース−(情報もと:白黒学派)の参考・引用文献から。
千街昌之編 2002『ミステリを書く!』小学館
同じ間違いを私もした事がある。
本文はこれから読むつもり。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040202b
闇黒日記2/2付から。
數の大小の比較は、推論と違ふと思ひますが。
私の挙げた例は次のとおり。
- バッハよりもヘンデルのほうが多くの音楽を作った。
- ヘンデルよりもテレマンのほうが多くの音楽を作った。
- バッハよりもテレマンのほうが多くの音楽を作った。
ここで、1と2を前提として3を結論とする推論は論理的に妥当かどうかというのが私の問題設定であり、これを推論とみなさないならば、もとより妥当性云々は問題ではなくなる。前提に含まれる数の大小を比較して結論を導くという操作は推論とみなすことができないということなら、おそらく私と野嵜氏とでは「推論」という言葉の使い方が異なるということになるだろう。
ちなみに、私は「推論」という言葉を「論証」とほぼ同じ意味に用いる。どちらかといえば「推論」のほうがより形式的で、「論証」のほうは非形式的なニュアンスをもっているが、ともに前提から結論を導くという操作のことである。
上の話題に関連して、ここからも引用。
たそがれSpringPoint 1月31日について。闇黒日記 二月二日で書かれているように、数の大小は「数学的には」推論ではありません。というか、これが定義なんです。
というわけで、数学的には妥当な推論ではなく、数学的には定義です。
(略)
というわけで、
数学的には妥当な推論ではなく、数学的には定義です。
別に私は数の大小のことを推論だと言った覚えはないのだが……。それとも、バロック音楽の大家たちの作った音楽の数も数学的に定義されるというのだろうか?
なんだか、ものすごく話がずれている気がする。
さらに、もう一つ。ここから。
数の大小の比較も、論理学の及ぶ範囲ですよ。とりあえず、何か実数論の本を読んでみるといいかも。
(略)
数の大小は重要なので、実数論では「順序集合」という概念で論じています。順序関係の性質は、論理学の扱う範疇です。数としての大小の自然的理解とはまた別に、論理学的に分析される問題です。
数の大小が順序関係であることを完全に論理学で基礎付けようとすると、やっぱり自然数の定義まで行かなければなりませんが、そこまで行かずとも、大小を論ずるのに順序集合・順序関係・(この話なら)推移律という単語が出てこないのは、論理学的分析として浅いです(もっとも、滅・こぉるさんは言葉にしないだけで推移律の議論は念頭においてるように見えますが)
ちなみに、<とか≦とかは順序関係をあらわす記号として、論理学でも使われます。
バロック音楽の大家たちの例で私が行った論理分析は、「……よりも……のほうが多くの音楽を作った」という表現の意味にまで踏み込まず、この表現が2項関係を表しているという形式的側面のみに着目している。もし、「∀x∀y∀z(Rxy&Ryz→Rxz)」(任意のx,y,zについて、xよりもyのほうが多くの音楽を作り、yよりもzのほうが多くの音楽を作ったならば、xよりもzのほうが多くの音楽を作った)という前提を追加していいなら、もちろん論理的に妥当な推論となる。しかし、そうするためには表現の意味分析を行わなければならない。
上記の条件を前提としてではなく、推論規則として取り扱うには、古典論理では道具立てが不足しているのではないか。高橋氏が念頭に置いている論理学は、関係の性質を取り扱うことができる道具立てを備えたものなので、二階の論理学だと思うのだが……。
どうも、このあたりになると話があやふやになってくる。論理学に詳しい人の意見を求めたい。
次は別件。数学的帰納法に関して、再度Diary -Spaghetti Source-から。
整列集合 X について、任意の x ∈ X について P(x-1) が真のとき P(x) が真ならば、任意の x について P(x) は真。
これに対して、
「xが初項のときにP(x) が真」という条件は不要でしょうか? 「P(x-1) が真のとき P(x) が真」だと「P(x-1) が真」が前提されていないと思ったのですが。
と質問したところ、
その条件は含まれています。
整列集合は最小元(初項)を持ちます。その最小元をx0としたとき、xは任意なのでx=x0の場合も条件は成立しなければなりません。
しかしこのときP(x-1)は定義できない(x-1がXの元でない)ので、P(x-1)が真という条件は無いものとして扱います。よってこの命題はx=x0の場合の特化:「P(x0)が真」を含みます。
ただ、実際に超限帰納法を用いて証明を行うときは、「P(x0)が真」と「x∈X,x≠x0 について P(x)が真ならば……」の2つに分かち書きすることが多いですね。
という回答だった。
直観的には理解しづらい話なので、例によってぱんつはいてない巫女さんの例で考えてみる。
「八甲田山雪中行列内の任意の巫女さんについて、その巫女さんのすぐ前の巫女さんがぱんつはいてないならば、その巫女さんもぱんつはいてない」という条件が与えられたときに、その条件だけから「行列の先頭の巫女さんはぱんつはいてない」と言えるのかどうか。
上の条件は任意の巫女さんについて成り立つのだから、行列の先頭の巫女さんについても成り立つはずだ。すると、「行列の先頭巫女さんのすぐ前の巫女さんがぱんつはいてないならば、行列の先頭の巫女さんもぱんつはいてない」ということになる。しかし、行列の先頭の巫女さんの前には誰もいない。さて、どう考えればいいのだろうか?
条件文の前件が成立しないのだから、それはないものと考えて、後件が無条件で成立すると考えるべきなのだろうか? 実務上はそのような取り扱いになるのだろう(上の引用文を私が読み違えていない限り)が、なぜそう考えてよいのかがわからない。それは数学の世界での取り決めなのだろうか?
一つ説明を思いついた。排中律を認める二値論理では、すべての命題に真か偽かどちらかの真理値が割り当てられなければならない。ということは一見したところ成立しないように思われる「行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんはぱんつはいてない」という命題も、真か偽かどちらかであるはずだ。で、これを「あるものは行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女であり、かつ、ぱんつはいてない」と読むと、存在しないものが存在していると主張していることになり、この文は偽である。
先の条件文に戻る。前件が偽の条件文は後件の真偽にかかわらず、全体としては真となる。よって、「行列の先頭の巫女さんはぱんつはいてない」の真偽は定まらない。
あれ?
もう一度考え直そう。
後件の真偽により、条件文全体の真偽が定まるためには、前件が真でなければならない。すなわち「行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんはぱんつはいてない」を真で解釈するのでなければ、条件文全体が真であることから「行列の先頭の巫女さんはぱんつはいてない」が真であることを導くことはできない。
では、こう考えよう。「行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんはぱんつはいてない」は、行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんがぱんつをはいているときに、そして、そのときに限り偽になるのだ、と。実際には、行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんなどというものは存在しないので、この命題が偽となる条件は満たしていない。ということは、二値原理に基づき、「行列の先頭の巫女さんのすぐ前の巫女さんはぱんつはいてない」は真となる。
いや、本当にこんな解釈でいいのかなぁ。
掲示板で、186(一服中)氏とTskk氏からコメントを頂いているが、本当に頭が痛くなってきたので、読解できなかった。
集合論は勉強したことがないので、専門的な記号法は把握しづらい。かといって、自然言語だとごちゃごちゃしている上に一意でないことが多いので、さらに理解が難しい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040203a
「巫女さん ぱんつはいてない」でトップ。
狙ったわけじゃないよ。予想以上にあの話題が長引いただけだ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040203b
先日、『Fate/stay night』を買いに日本橋へ行ったときのこと。朝早くだったのでとらのあな以外はまだ開店していなくて、でもとらのあなでは買いたくなかったので、暇つぶしでその辺りをぶらぶらしていると、吉野屋の看板が目に止まった。ちょうど空腹を感じていたので、ちょっと腹ごしらえをしようかと思ったのだが、その店は24時間営業をやめていて、開店前だった。なんだか無性に悔しくなって、さらに遠くまで足を伸ばして、朝でも空いている店に入った。
既に新メニューのうちカレー丼とマーボー丼、いくら鮭丼は食べてあったので、次は豚キムチ丼にしようと思っていたのだが、店員に「新メニューはいかがですか」と言われてちょっとむっとしたので、牛丼大盛りと牛皿大盛りを併せて注文した。
私はそれまで牛皿を注文したことなど一度もない。なぜなら、値頃感がないからだ。牛丼の具だけ皿に盛ったものなのだから、もっと安くてもいいと思うのだが。
しかし、今や非常時である。自衛隊がイラクへ行くご時世だ。もしかしたらこれが最後になるかもしれないのだから、ちょっと贅沢してもバチは当たるまい、と考えた私を誰が責めることができよう。いや、できまい。
で、注文通り私の前に牛丼(大)と牛皿(大)が置かれた。まずどちらから手をつけるか。考えるまでもない。牛丼からだ。
牛丼の上にたっぷりと紅生姜を載せ、丼を手に持って口の中にかき入れる。ふだんなら、具と飯の配分に細心の注意を払うところだが、今回は無造作に上から食べている。牛丼の具は単に飯の上に盛られただけであり、かき混ぜてあるわけではないので、自ずと具が先に口に入り、後にはつゆがかかって茶色になった飯が残る。
ここからが勝負だ。丼を一旦置き、傍らの牛皿をおもむろに取り上げて静かに傾け、具を丼の中にぶちまけるのだ。そして、再度紅生姜を摘んで上に載せる。さあ、第二ラウンドだ。
かくして私は生まれて初めての偉業を達成した。反省点は数多い。たとえば、牛皿は並で十分だったとか、脂っこさを緩和するためとはいえ紅生姜を入れすぎたとか。だが、この経験はきっと血となり肉となることだろう。
私は胸焼けを我慢しつつ、吉野屋を出た。まだ朝は早い。とらのあなの隣りのゲームショップが開くまで、あと1時間余りだ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040204a
ソーカルみたいな人にミステリ評論を書いてもらいたい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040204b
- (無題) 投稿者:186 投稿日: 2月 2日(月)00時05分15秒
- 半順序 集合X上の二項関係Rについて、 反射律 ∀x∈Xに対してxRx 推移律 xRyかつyRz⇒xRz 反対象律 xRyかつyRx⇒x=y を同時に満たす関係を順序関係といいます。 で、対(X,R)を半順序集合と呼びます。
これが全然わからなくて、頭を抱えていた。
二項関係を表す記号法は私の馴染んでいるものとは違っている。私なら「Rxy」と書くところで「xRy」と書く。だが、そのせいで意味がわからないなることはない。三項関係はどう書き表すのか、ちょっと気になるが。
反射律や推移律は知っている。「反対象律」というのは「反対称律」の書き間違いだろう。
問題は、対(X,R)を半順序集合と呼びます。
という箇所だ。私には「(X,R)」という表記がどのような事柄を表しているのかがわからなかった。
集合Xがどのようなものかはわからないが、集合というからには何かを集めたものだろう。メンバーが一つしかない集合とか、一つもない集合というものもあるので、「何かを集めた」という自然言語の表現がそのまま当てはまるわけではないが、その辺りには目をつぶることにしよう。
で、その集合Xと順序関係Rを対にしたものが(X,R)で半順序関係だというのだが、これがよくわからない。半順序関係というのも集合なのだったら、何かを集めたものなのだろう。では、何を集めたものなのか。集合Xと関係Rをメンバーとする集合なのだろうか? だが、もしそうなら、{X,R}と書くのではないだろうか? (X,R)では、単に対にしただけで、新たに集合を構成しているような感じがしない。
で、ここを見ると、
要は、集合とその上の関係をセットにして、半順序集合だとか全順序集合だとか呼ぶってことです。関係を明示しないと、順序とか意味無いし。
距離空間を集合と距離関数をセットにして(X,d)と書いたり、位相空間を集合と位相をセットにして(X,O)って書いたりするようなもんです。はい。
と書いてある。どうも半順序集合というのは集合そのものではないらしい。
なるほど。だが、早合点だといけないので、確認のためコメント欄で訊いてみたのだが……。
# 滅・こぉる 『素朴な質問。「半順序集合」って集合ですか?』 (2004/02/03 23:23)
# smoking186 『集合ですね。関係を明示して書くと(X,R)という表記になりますが。』 (2004/02/03 23:59)
あれ? やっぱり半順序集合は集合なのか……。
頭が混乱してわけがわからなくなったところでこんなページを見つけた。以下、ポイントと思われる箇所を引用する(記号は186(一服中)氏のものに置き換えた)
半順序が定義された集合を半順序集合(partially ordered set)と呼ぶ。集合と順序関係を組にして、(X,R)が半順序集合であるという言いかたもする。
ようやく解決の糸口が見えてきた。「半順序集合」という用語には二通りの用法があったのだ。第一義では、半順序が定義された集合そのものを指す。第二義では、第一義での半順序集合と、それを半順序集合たらしめている関係との組を指す。そういうことなのだろう。
と、ここまで考えたところでふと疑問が沸いてきた。ある集合が半順序集合であるということは、常に半順序関係と相対的にのみ言われることなのか、それともその集合上で成り立つ順序関係が一つ以上あるときに、その集合が半順序関係であると、単に言われることもあるのか。
母は子あっての母であり、ある人が母であるならば、必ずその人の子である人が存在する。母であるとは誰かの母であるということだ。しかし、述語「母である」は常に「……は……の母である」という形式で用いられるというわけではない。少なくとも一人の子があるという前提のもとで、単に「……は母である」と言われることもある。日常言語は話者の関心や話題に応じていくらでも省略可能だ。同じような省略が数学における「半順序集合」という語にも可能なのかどうか、というのが私の疑問である。
集合論を勉強している人にとっては、私の疑問は奇異に思われることだろう。ただ言葉の使い方についてあれこれこねくり回しているだけで、集合論そのものの問題とは何の関係もないのだから。だが、たとえて言うなら、私にとって数学の言葉は馴染みのない外国語のようなものだ。日本語の話者はふつう「は」と「が」の使い分けに頭を悩ませることはなく、意識せずに使い分けを行っているが、日本語の初学者はどういう場合に「は」を用い、どういう場合に「が」を用いるかを考えながら言葉を紡ぎ出すしかない。
引き続き、青森県庁について考えるつもりだったが、予想以上に時間を食ってしまった。とりあえずリンクだけ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040205a
「不確定性」と「定理」が別々に出ているページも引っかかるのが難点。
おお、「指示の不確定性」を解説した文章もあるではないか! あとでゆっくり読んでみよう。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040205b
独立行政法人国立博物館は東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館の三館を運営している団体なのだが、そんな立派な団体のサイトにしてはなんだか素人っぽい作りだ。たとえば、
本来ならば、絵画・彫刻・書跡・工芸・考古すべての分野を紹介しなければならないわけですが、手はじめとして、まず彫刻について1月末から3月頃までの間展示作品を出品されている寺社名を五十音順で列挙させていただきます。なぜ彫刻だけかと問われると答えに窮するのでありますが、3館に共通して寄託の割合が高いこと、展示期間が比較的長いこと、社寺の参拝の参考になるのではと勝手に考えた次第ですので、ご寛容ください。
という文章(強調は引用者)を読むと、個人のウェブサイトのような気がしてくる。だが、電子政府の総合窓口>各府省・独立行政法人等のホームページからリンクされているのだから、公式サイトであるのは間違いない。
なお、私は別にこのサイトにケチをつけようというつもりがあるわけではない。では、どうしてわざわざ取り上げたのかと問われると答えに窮するのでありますが、文部事務次官を務めたこともある理事長の文章が醸し出している牧歌的な味わいをぜひ紹介してみたい、と勝手に考えた次第ですので、ご寛容ください。
今朝の文章について、こんなツッコミが入った。
- 286 :名無しのオプ :04/02/05 10:43
- 滅たんはフレーズ検索を知らんのか?
知らなかった……。
掲示板でjouno氏に教えてもらったので、早速"不確定性定理"で再検索した。
白黒学派(2/4付)から。
どこかに書いてあったかと思うのですが、綾辻行人『十角館の殺人』を僕はあまり初心者にはおすすめしません。あの仕掛けは初心者を脱するあたりのころあいで読んでこそ、その効果をいかんなく発揮すると思いました。海外の古典について読んでいなくてもいいので、ある程度知ったなあというころあいに読んでほしいです。
どこか
というのはミステリなんて怖くない!(国内作品編)(週刊海燕)のことだと思う。もしかしたら違うかもしれないが、そこで初心者が読んでも楽しめると思われる、いやむしろ初心者のうちにこそ読んでおくべき作品10作
の一つとして『十角館の殺人』を挙げているのは事実だ。
『十角館の殺人』には、海外ミステリに関するある知識を読者が持っているということを前提とした仕掛けがある。その知識がなくても『十角館の殺人』が楽しめないわけではないが、事前に知っているほうがより楽しめるのは間違いない。その点で、私は蔓葉氏の意見に同意する。
だが、その知識は非常に初歩的なものなので、ミステリ初心者でも知っているのではないか。小中学生の頃に学校の図書館や図書室に入り浸ったことのある人なら、その頃にミステリに特別な関心がなかったとしても、知っていて不思議はない。そう考えると、『十角館の殺人』を初心者に薦めてもあながち乱暴とも言い切れない。
それよりも私が気になるのは、『孤島パズル』や『魍魎の匣』を選んでいることだ。単純に出来の良し悪しを比較するなら、この二篇はどちらもシリーズ前作よりも優れていると思うが、初心者に薦めるならまずはシリーズ第一作からのほうがいいのではないだろうか。
このリストを見ていてほかにもいろいろと思ったことはあるのだが、あまり長くなるとゲームをやる時間がなくなるので、ひとまずこれで打ち切る。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040206a
『幻影城』いよいよ終盤。探偵小説雑誌目録は楽しい。
これが終わったら次はなにか海外ミステリを……読めるかなぁ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040206b
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040207a
『Fate/stay night』一周目終了。17時間30分。途中、選択肢ごとにセーブして、最後の決戦の前でいったん最初に戻って、まだ見ていない選択肢の埋め立てに励んだため、時間がかかった。
エンディングの余韻があるので、すぐに別ルートを見る気が起こらない。その間にこの文章を書いている。
面白いが、長い。一日一日に区切りがある作りになっているので、途中の経過をあまり端折ることができない、という事情もあるのだろうが、小説のつもりで読むと無駄な場面が多すぎる。この先、あとどれくらいのテキストがあるのだろうか、と想像してみると、ややうんざりしないでもない。
それにしても、やたらと「デタラメ」と「反則」が多いテキストだと思った。
画面エフェクトは最初は驚いたが慣れてくるとさほどでもない。オフにもできるのは有難い。グラフィックは塗りがうまいので安定しているが、原画レベルでは『月姫』とどっこいどっこいではないだろうか? 音楽は地味だが、テキスト主体のゲームで音楽ばかり目立っても仕方がないので、これくらいが適切だろう。個人的な好みを言えば、教会の場面の音楽は、『鬼畜王ランス』のフーガのような感じのポリフォニックなものにしてほしかったが。
さて、ゲームに戻るか。疲れた目を休めるか。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040207b
NaokiTakahashiの日記(2/7)付のコメント欄から。
# R 『野嵜×高橋はラブコメの文脈で読める。「高橋:おまえの言ってることは目茶苦茶だよ、わけがわかんねえ」「野嵜:どうして高橋君はわかってくれないのよ。高橋君の馬鹿っ! もうあんたなんか『高橋』よっ!! 呼び捨てにしてやるっ!!!」…みたいな。ラブコメ耐性低い周囲の人間は脇役的に「もっと相手のコトちゃんと見て理解してあげなきゃ」「いいから、とっととお前等別れたらどうだよ」とかになってるしね。』
なるほど。この読み方は素晴らしい。
私は野嵜氏とも高橋氏とも面識がないので、両氏の本当の性別は知らないが、じかに会ったことがある人から聞いた話だと、野嵜氏も高橋氏も男性だそうだ。だったらラブコメではなくやおいではないか、というツッコミも考えられるところだが、私は別の考えをもっている。それは、ラブコメにとってキャラクターの性別は本質的な意味を持たず、ただ当事者の二人が異性であるということのみが重要なのだ、という考え方である。従って、野嵜氏と高橋氏の両方が男性であっても、二人が異性であるならば、全く問題はない。この考えには異論もあるだろうが、今はラブコメ論を展開する余裕がないので、これ以上の補足説明はしない。
ところで、野嵜・高橋論争ラブコメ説とは比べるべくもないが、この論争の面白さについての私の意見をいくつか書いておく。
ピッピキピッピッピー in V林田日記経由で電流切り替え区間で列車が停止という記事を読んだ。トワエク(「トワイライトエクスプレス」のことを鉄道愛好家はこのように略す)が死電区間で立ち往生したというニュースだ。
客車列車の場合、電気機関車が死電区間で止まったら自力では脱出できないのは当然のことだが、電車でも編成輌数が少なければ同じことが起こってもおかしくない。通常、JRの電車の車長は約20メートルだから、3輌以下だと約60メートルの死電区間にすっぽり入ってしまうし、4輌以上でも編成中の電動車の位置によっては立ち往生の危険がある。北陸本線のこの区間の電車が何輌編成で走っているのかは知らないが、何らかの対策は必要ではないだろうか?
一瞬、「ターボトレイン」という言葉が脳裏をかすめたが、これは忘れることにしよう。
昨日の1.10949(2004/02/06) ミステリ初心者のためにはただの思いつきを書きとばしたもので、そのまま何事もなかったのかのように過去ログに埋没させてしまおうと思っていたのだが、なぜかカトゆー家断絶で紹介されてしまったので、少し真面目に解説しておく。
まず、最初に言っておきたいのは、例のリストは海外ミステリ初心者のためのものでもなければ、古典ミステリ初心者のためのものでもない、ということだ。私のサイトをよく読んでいる人には説明の必要はないと思うが、「本格ミステリ」初心者のためのものでもない。そのような限定句なしの「ミステリ」をこれから読もうと思っている人のためのリストである。
ただし、ミステリ初心者すべてにあの作品群を読むことを勧めているわけではない。あくまでも教養としてミステリを読む人
を対象にしている。より具体的にいえば、ミステリについて公の場で論評したり、オールタイムベストを選んだり、何か偉そうなことを語ってみたいと思っているような人である。そのような人は、個人の好みや見地にかかわらず、必ずあのリストに載せた作品は読んでおかなければならない。
「ねばならない」という言い方は意見の押しつけであり不愉快だと感じる人もいるだろう。だが、他人から押しつけられたと思わずに、自分から引き受けたと考えれば不快感は和らぐのではないか。それでも嫌なら、それで結構。私の言葉に強制力はない。ただ、偉そうなことを語って恥を晒すことになるだけだ。むろん、無恥な人なら、恥ずかしい思いをすることもないだろう。
耽美派の日常(2/7付)(FAIRY TALE)を読んで、「『さよなら妖精』ってそんな小説なのか?」と思ってしまった。本が出るまでは断言できないが、耽美の道を突き進
んだ先にある小説とは考えにくい。いや、もしかしたら『さよなら妖精』で米澤穂信は従来の作風から大きな転換を遂げているのかもしれない。
2/24を刮目して待て!
日刊海燕(2/6付)のコメント欄から。
僕は夢想します。いまから20年くらいあと、いまやあたらしい文芸分野の大御所に成り上がった「脱本格」作家たちが、その時代の挑発的な作風の新人に対して「こんなものはダメだ」と言っている姿を。歴史は繰り返すんですよね。ほんとに。
私は夢想する。いまから20年くらいあとに、海燕氏がいま私がこうやっているように他人のサイトを引用してコメントしている姿を。
というのは、海燕氏のものの見方やミステリ観が昔の私(さすがに20年も前の話ではない。「新本格バッシング」が吹き荒れたといわれる15年くらい前のこと)に似ているからだ。歴史は繰り返す。作家だけではなく、読者にとっても。いまはただ海燕氏の威勢のよさが羨ましい。
なお、例の件についての私の意見はここに書いたとおり。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040208a
読んでいる最中には「あ、これは是非感想文に書いておこう」と思った点がいくつもあるのだが、今となっては思い出せない。本当は付箋を貼りながら読むべきなのだが、主に通勤途中に読んだので、そこまでできなかった。よって、雑感のみ。
私が『幻影城』を初めて読んだのは講談社から江戸川乱歩推理文庫が出たときだ。今、手許にある江戸川乱歩推理文庫版の奥付を見ると、昭和62年11月6日が発行日となっている。さほど間をおかずに読んだ覚えがあるので、たぶん昭和62年度中には読んでいたはずだ。
昭和62年といっても若い人にはピンと来ないかもしれない。平成に換算すれば前2年となる。今年は平成16年だから18年前のことだ……と考えてはいけない。なぜなら平成0年は存在しないからだ。この理屈がわからない人は西暦で計算するといい。
さて、当時の私は一人でミステリを読んでいた。周囲にはミステリに通じた人はいなかったし、ミステリサークルにも入っていなかった。当然、ウェブで情報を仕入れることもできなかった。そんな私にとって、ミステリを読む上での指南役は、ただ本しかなかったのである。
私は既に石川喬司の『夢探偵』、渡辺剣次の『ミステリィ・カクテル』、間羊太郎の『ミステリ百科事典』、九鬼紫郎の『推理小説入門』などを読んでおり、『幻影城』もその延長線上の本として、すなわちガイドブックとして読んだ。その頃の私はミステリ評論にあまり関心がなかったのだ。今でもそうだが。
『幻影城』の巻末には附録として「ポーより現代までの路標的名作90冊」や「欧米短篇探偵小説ベスト表」などがある。ガイド本として『幻影城』を読んだ私には、それらのリストを文字通り「読んだ」。昭和の末期には海外古典ミステリがほとんど出版されなくなっており、それまでに出た本も絶版が多く、リストに記載された本も当時の私にはとうてい入手できないものばかりだった。今は読めなくても、いつかは古本屋を探し回って本を見つけ、未訳のものは原書を取り寄せてでも読んでみよう、と私は固く心に誓ったものだ。
それからはや15年余。神保町の最寄り駅は神田駅だと勘違いしていた田舎の子供は、神田駅から神保町まで歩いていくとかなり時間がかかることを知った田舎の子供に成長した。早川も創元も復刊フェアをやっているし、国書からは続々と新刊が出ている。英語読解能力はかえって衰えてしまっているので原書を読むことはできないが、邦訳のある本なら比較的簡単に読める。だが、私は誓いを果たすどころか、ほとんどミステリを読まなくなってしまっている。内心忸怩たる思いだ。
『幻影城』には個人的な思いが強くて、客観視できない。それをいいことに極論を述べておく。ミステリについて語ろうとする者、「本格」原理主義者あるいはアンチ「本格」原理主義者は、すべからく『幻影城』(正・続)を読むべし。ミステリ論の歴史と伝統を無視して、自分勝手に「本格」を定義するな。
むろん、私は「乱歩は無謬」だとか、「乱歩に還れ」とか言いたいわけではない。単に「乱歩を無視するな」と言いたいだけだ。
十数年の間、『幻影城』は書店では流通していない本だった。いくら必読の名著でも、手に入らないものを読めとは言えない。だが、今は違う。今なら手に入る。
乱歩の小説はいつでも手に入る。だが『幻影城』はそうではない。この機会を逃したら、次に出るのは20年後か30年後かわからない。買うなら今だ。
上の文章の最後の二段落について、掲示板でらじ氏からツッコミが入った。
『幻影城』を読めという意見にはミステリ読みとして 乱歩ファンの一人として大いに賛同するところですが、 『幻影城』は9年前から双葉文庫で普通に読むことが 出来たというツッコミは不可なんでしょうか……。 乱歩の小説も乱歩生誕100年で春陽堂文庫の再刊があるまで 新潮文庫の短編集と創元推理文庫で少ししか 読めなかったのは異常だったと今でも思います。
これは全くうっかりしていた。『幻影城』は第5回日本探偵作家クラブ賞(のちの日本推理作家協会賞)を受賞しており、双葉文庫の日本推理作家協会賞全集に収録されている。また、乱歩の小説がいつでも読めたというのも私の勘違いだった。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040208b
先日から気になっていた『探偵小説の理論ー形式化とデータベースー』をようやく読み終えたので、ちょっと感想を書いておく。
一読して最初に気になったのが、筆者独自の見解と他人の説の紹介とが混在していて読みづらいということだった。前半は主に笠井潔、後半では東浩紀の論を基調としているのはわかるのだが、私は両氏の著作をきちんと読んでいるわけではないので、明示的に引用されている箇所以外で、どの程度先行する論考に負っているのかが掴めなかった。逆にいうと、筆者独自の論点や議論がどこにあるのかがわからなかったということだ。
これと関連して言えるのは、新味のなさである。完全にオリジナルな思想というのはあり得ないので、誰でも多かれ少なかれ先人に影響を受けるのは当然だが、基本的な議論の枠組みを継承する場合でも単なる敷衍では寂しい。この論文ではターニに対して異論をぶつけているだけで、大量死論にもいわゆる「ゲーデル問題」にも批判のまなざしは向けられていない。
もう一つ言っておくと、前半と後半がうまく結びついていないような気がする。もともと笠井潔と東浩紀は別のところから出発して独自に立論しているので、結びつきが弱いのも当然といえば当然だが、せっかく一本の論文で両方の論を取り上げたからには、折衷するなり合成するなり、なんらかの工夫が欲しい。
これは単なる想像だが、筆者が本当に書きたかったのは第三章ではないだろうか? それなら大戦間探偵小説に関する話題は簡単に触れる程度にしておいて、清涼院流水論に徹したほうがよかったと思う。探偵小説論の一環として一人の作家を取り上げるのと、作家論の背景として探偵小説史に言及するのとでは議論のスケールが違ってくるので、壮大なスケールを望む人には物足りないかもしれないが、修士論文程度の分量で探偵小説の全歴史を踏まえた論を展開するのは少し無理がある。考慮すべき事柄を尽くしていない粗雑な論になってしまっているという印象がある。
以上、全体を概観した感想である。個別の議論や文章についてコメントするとかなり長くなってしまうので、とりあえず今はやらない。気が向いたら書くかもしれないが、たぶん批判的な事しか書けないだろうし、今はあまり他人の書いた文章の批判をしたい気分ではないので、このまま書かずじまいになる公算大だが、気が変わったときのために少しメモ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040209a
遠坂ルート9日目。この分では今週末までには終わらなさそう。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040209b
『探偵小説の理論ー形式化とデータベースー』を読んでいる最中に、ふと、まだ『ゲーデル・不完全性定理 "理性の限界の発見"』(吉永良正/講談社ブルーバックス)を読んでいないことに気づいた。一般向けの入門書としてよく言及される本で、特に入手が困難なわけでもないのだから、一度は目を通しておくべきだろう。そう思って、早速買い求めたのが先週末のこと。
で、それを一所懸命に読んでいる最中なのだが、途中で論理学の約束の一つに、前提が「偽」であれば、そこから導き出せる帰結はすべて「真」であるという取り決めがあります。
という驚くべき記述を見かけた。
これは何かの間違いだろう、と思って読み進めていくと、少し後で同じ話題が出てきた。
論理学的にいえば、前提が「偽」であれば、結論はどんなものでも「真」です。たとえば、「ウマはカバである」ならば、「アリはゾウより大きい」も「一九九九年に世界が破滅する」も、どんな命題でも論理的には正しい帰結として得られます。もちろん、「アリはゾウより小さい」も真です。さらに、「アリはゾウより大きい」かつ「アリはゾウより小さい」ならば、「アリはゾウと同じ大きさである」も真。こうして、『不思議の国のアリス』の世界が再現するという寸法でした。
間違いではなかった。この本の筆者は明らかに、論理学の約束の一つに、前提が「偽」であれば、そこから導き出せる帰結はすべて「真」であるという取り決めがあ
る、と主張している。
何ということだ!
私は頭がくらくらする気分を味わった。「そんな馬鹿な話があるかっ」と叫びたいほどだった。まるで、不思議の国に迷い込んだかのようだ。ここには大きな錯誤があるに違いない。だが、それは一体どのような錯誤なのだろうか?
こんな事に頭を悩ませていたせいで、『Fate/stay night』攻略にあてるべき貴重な時間を無駄に費やしてしまった。だが、その時間は無駄ではなかった(矛盾したことを言ってるが気にしないように)。
数時間の苦闘、脳髄の地獄を経て、ようやく私は『ゲーデル・不完全性定理』の誤りを説明できる自信がついた。もっとも自分一人で考えついたわけではなくて、ちょっとカンニングしている。それは今日の見出しからも明らかだろう。私はラテン語など知らない。
で、今日はその話をしようと思ったのだが、段取りを考えているうちに、かなり長くなりそうな予感がしてきた。特に予備知識の必要なしに読者が理解できるように説明するには、いくつかの道具立てが必要となる。そして、そんな事をやっていては、『Fate/stay night』攻略にあてるべき貴重な時間がさらに減ってしまう。
というわけで、私は説明を断念することにした。だが、これだけは言っておこう。上で引用した文章は(言葉の綾ではなく、端的に)誤っている。
ああ、私はいったい何を信じて集合論を勉強すればいいのだろうか。
おまけ。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の第30変奏や『農民カンタータ』の序曲では"quodlibet"の手法が用いられている。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040210a
睡眠時間を1日1時間ずつ削るかわりに、サイトの更新を止めても時間の捻出が可能だと気づいた。
でも、集中力が足りず一日二時間以上連続プレイができないので、いくら時間があっても同じだが。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402a.html#p040210b
- 401 :名無しのオプ :04/02/10 12:59
- Ex falso quodlibetの続きを書いて欲しい。 おまいらも読みたいはずだ。ほら、滅を焚き付けろ。
- 402 :名無しのオプ :04/02/10 13:01
- シェアがくる!
- 403 :名無しのオプ :04/02/10 13:44
- >>401 あれはもう滅掲示板で解決しとるんとちゃうか?
- 404 :名無しのオプ :04/02/10 13:50
- 掲示板なんて飾りです。
- 405 :名無しのオプ :04/02/10 13:55
- 滅・こぉるってHNはバルスってことですかい?
- 406 :名無しのオプ :04/02/10 14:23
- >>404 あそこに書く人はみんな偉いからそれが分かってないのなり
というわけで、昨日の続き。
まず、見出しの説明。私がカンニングした『論理学をつくる』(戸田山和久/名古屋大学出版会)から引用する。
このように、前提が矛盾している論証は結論に何が来ようが妥当である。言いかえれば、矛盾している前提からはいかなる結論も論理的に出てくるというわけだ。これは昔から論理学者の注目の的になってきたようで、この原則にはEx falso quodlibetという名前がついている。しかし、このラテン語は直訳すると「偽からは何でもかんでも(出てくる)」となるので、この名前は誤解を招きやすい。我々の論証の妥当性の定義から言えるのは「矛盾した前提からはなんでも出てくる」ということなのであって「偽の前提からは何でも出てくる」ということなのではない。
この引用文だけで、『ゲーデル・不完全性定理』の昨日取り上げた文章がどのように間違っているのかをほとんど言い尽くしているのだが、この引用文自体がとっさに呑みこめない人もいるだろう。そんな人に対しては「『論理学をつくる』の冒頭から65ページまでを順番に読んでください」と勧めるのがいちばんなのだが、この本を買うと4000円近くかかるし、小さな書店では売っていないので、すぐに参照することはできないだろう。そこで、私なりに物凄くいい加減な説明を行っておく。なお、以下の文章は必ずしも『論理学をつくる』に即したものではないので、誤りがあれば、その責はすべて私に帰する。
論理学で扱う命題は正しいか間違っているかどちらかである。「正しい/間違い」という言葉はさまざまな含みを持っているので「真/偽」と言い換える。また、真と偽の両方をひっくるめて、「真理値」と呼ぶ。個人的には「真偽値」のほうがわかりやすいと思うのだが、「真理値」のほうが一般的な用語だ。
命題と命題を繋いで新しい命題を作るとき、もとの命題の真理値と新しい命題の真理値の間には一定の対応関係がある。きちんと対応しない繋ぎ方もあるが、かなり高度な話になるので省略。命題と命題を繋ぐには接続語を使う。代表的な接続語は「そして」「または」「ならば」の3つである。たとえば「山形市と仙台市は隣接している」という命題と「インスタントラーメンの発明者は安藤百福である」という命題を考えよう。
今、機械的に2つの命題を繋いでみた。動詞の活用語尾を変えておくほうがこなれた日本語になるのだが、繋がり具合の見通しをつけやくするため、わざとそのままにしている。
2つの命題を繋いで新しく作った命題は、みな奇妙な命題になっている。東北地方の地理と食べ物との間に関係などないからだ。そもそも安藤百福は関西人だ。だが、論理学では命題の意味内容の繋がりを気にしない。大事なのは、命題が真か偽かということだけだ。その観点から新しく作った3つの命題を見てみよう。
まず1は真か偽か? 「そして」で繋いだ前後の命題の両方が真なのだから、1全体も真とみていいだろう。では2はどうか? これも同じく真だ。「または」で繋いだ場合には、前後のどちらか片方が真であれば全体として真になるので、両方が真の場合は文句なしに2全体も真となる。
問題は3だ。「ならば」で繋ぐということは、前後の命題に何らかの関係があるということではないか? 3のような奇妙な繋ぎ方をしてしまっては、全体の真偽など問いようがないのではないか? この疑問は正しい。一般に、日本語の「ならば」で命題を繋ぐ場合には、前後の命題の真理値のみから新しくできた命題の真理値は定まらない。
というわけで、論理学が要請する「命題と命題を繋いで新しい命題を作るとき、もとの命題の真理値と新しい命題の真理値の間には一定の対応関係がある」という条件を「ならば」は満たしていない。ではどうするか? 無理矢理「ならば」の意味を固定してしまうわけだ。日本語の自然な用法とは別に、「ならば」で繋いだ命題の真理値を次のように決めてしまう。
「山形市と仙台市は隣接している、ならば、インスタントラーメンの発明者は安藤百福である」の場合は、「ならば」の前後とも真なので、1に該当する。よってこの命題全体は真となる。
なんだか話がややこしくなってきた。「ならば」という言葉を使うと、どうしても日本語の自然な意味に引き寄せられてしまう。そこで、混乱を避けるために、ここから先は論理学で用いる「ならば」を記号で表すことにしよう。用いる記号は「→」だ。先の例だと「山形市と仙台市は隣接している→インスタントラーメンの発明者は安藤百福である」となる。
さて、次に「山形市と川内市は隣接している」という命題を例に挙げることにしよう。言うまでもなく、この命題は偽である。でもって、これを「インスタントラーメンの発明者は安藤百福である」と「→」で繋いでしまう。すなわち「山形市と川内市は隣接している→インスタントラーメンの発明者は安藤百福である」となる。こうやって作った命題全体は真か偽か?
命題の意味内容など考えずに、ドライに真理値のみに着目する。「→」の前の命題は偽で、「→」の後の命題は真なのだから、先の取り決めの3番目のケースに該当する。よって、この命題全体の真理値は真となる。
次に「インスタントラーメンの発明者は松下幸之助である」という命題を持ち出す。これも偽だ。さっきの「山形市と川内市は隣接している」とこれを「→」で繋ぐと「山形市と川内市は隣接している→インスタントラーメンの発明者は松下幸之助である」となるわけだが、これは真か偽か?
同じく、命題の意味内容など考えずに、ドライに真理値のみに着目すると、先の取り決めの4番目のケースに該当するので、この命題全体の真理値は真となる。
このあたりで気がついた人もいるだろう。先ほどの取り決めの3番目と4番目をもう一度掲げよう(ただし、既に述べた方針により、「ならば」は「→」に置き換える)。
これはまとめると次のようになる。
ここで注意してほしいのは、「→」の前の命題が偽のときに真となるのは、新しく作った命題全体であるということだ。別に「→」の後の命題が真になる、とは言っていない。「→」の後の命題が真かどうかは、その命題自体の特徴であり、「→」の前の命題が偽であることから出てくることではない。
おそらく、『ゲーデル・不完全性定理』の間違いの根源の一つは、この点の混同にあったのだろうと私は推測する。
あー、無茶苦茶長くなったではないか。これでもまだ半分にも達していない。このあと、推論の妥当性条件と条件文の真理条件との対応について説明して、論理的矛盾について説明して、ようやく、いちばん最初に引用した文章の説明に移ることができるのだが、そこまでの道のりは遠い。
……よく考えると「ならば」の説明は不用だったか。最初から推論の妥当性と論理的帰結の概念を使って説明したほうがよかったかも。ううう。
『Fate/stay night』攻略にあてるべき貴重な時間をこれ以上割くわけにはいかないので、今日はここまで。
おまけ。Spaghetti Source(1/18付)から。
矛盾した命題からは任意の結論を得ることができることが示されています。即ち、矛盾した主張からは任意の結言が得られることになります。つまり矛盾があっても構わないというのは、どんなでたらめなことを言っても構わないと主張していることと大差無いわけですが、私はそれを認めません。また、少なくともそのような主張をする人の意見がまともであるわけが無いことは明らかだと思うのですが。
ここで非常に興味深い論点が提示されているのだが、『Fate/stay night』攻略にあてるべき貴重な時間を(以下略)。