【日々の憂鬱】論理と数学を混同するのはいかがなものか。【2004年1月下旬】


1.10920(2004/01/21) 乱歩の幻影――『平井骸惚此中ニ有リ』と『仮面は夜に踊る』を読む――

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040121a

第3回富士見ヤングミステリー大賞受賞作『平井骸惚此中ニ有リ』(田代裕彦)と同賞佳作受賞作(のうちの一つ)『仮面は夜に踊る』(名島ちはや)を続けて読んだ。正確に言えば、『仮面』を先に読み、続けて『平井』を読んだのだが、まあ順番はどうでもいい。

この2作はどちらも江戸川乱歩の影響を非常に強く受けている。『平井』のほうは乱歩の初期短篇を、『仮面』のほうは中期以降の少年物をモデルにしているので、同列に論じるのは乱暴かもしれないが、強引に話を進めることにする。

乱歩に憧れ、乱歩のような小説を書こうとしたとき、現代の作家には大きな壁が立ちはだかっている。それは時代である。乱歩の小説は、大正から昭和前期にかけての時代の雰囲気と切っても切れない関係にある。いくら乱歩らしさを演出しようとしても、現代の日本が舞台だとどうしても無理がある。

この壁を越えるには二つの方法がある。一つは現実世界を離れた異世界を舞台にするというもの、もう一つはそのまま乱歩の時代を舞台にするというもの。どちらも一長一短がある。前者の方法だと、現実世界のさまざまな制約に縛られずに自由に物語を展開できるという長所があるが、その反面「何でもあり」のルーズで緊張感に欠けた物語になるおそれがある。後者の方法は時代考証に厳密性が求められ、制約も大きいが、その分、世界設定の整合性や説得力に優れるものとなる(もちろん、デタラメな考証だと逆効果だが)。

『仮面』は前者の道を行き、『平井』は後者の策をとった。たまたまこの二作が同じ賞を争ったのは偶然だと思うが、結果として非常に興味深い好対照が生じたことになる。富士見ミステリー文庫にふだんほとんど着目していない私がこの二作に手を出したのは、主にこの観点に基づく。

『仮面は夜に踊る』は、怪人対少年探偵団という構図を扱っている。しかし、乱歩の少年物の単なる亜流ではない。そのことは少年探偵団が活躍する場面が回想の形で語られることからもわかる。

主要登場人物が固有名詞抜きで登場するプロローグ、そしてそれに続く回想部分をある程度読んだところで、多くの読者はこの作品のテーマに勘づくことだろう。そのテーマは乱歩の少年物には出てこないものだ。しかし、大人向けの通俗長篇にはよく用いられている。すなわち、血の宿縁である。怪人対使用年探偵団という構図とそのテーマとを軸にして、予め定められた結末に向けて物語は疾走する。

読み始めたときには世界設定に若干の不安を感じたものの、読み進めていくにつれてほとんど気にならなくなった。現実世界を舞台にすると少年探偵団が活躍する余地がないので、その点に変更を加えているだけで、野放図に超能力合戦をやったり、宇宙人や未来人を登場させているわけではない。

特に興味を惹く謎やトリックがあるわけではないが、それは乱歩の怪人ものでも同じことだ。その場その場の展開にただ身を任せて、飽きることなく楽しく読み通すことができた。

『平井骸惚此中ニ有リ』のほうは、逆に殺人事件の謎解きを中心に組み立てられたパズラー(もちろん、そう呼びたければ「本格ミステリ」と呼んでも結構だが、この小説に『GOTH』や『葉桜の季節に君を想うということ』と同じレッテルを貼っても仕方がない)だ。事件の関係者が限定されていて、犯人が登場した瞬間に推理も考察も抜きに「こいつが犯人に違いない」と思えてしまうこととか、家の中と庭の二つの密室トリックがどちらもあまり感銘を受けるようなものではないこととか、いろいろ不満も多い。だが、それはミステリの宿命だから仕方がない。

時代考証にもケチをつけようとすればつけられると思うが、私には知識がないのでさほど不自然には感じなかった。むしろ、正字正かなの使い方が効果的で、大正時代の雰囲気がよく出ていると感心したほどだ。

『仮面』を読み終えたとき、「たぶん『平井』はこれほど面白くはないだろう」と予想しつつ『平井』に取りかかったのだが、その予想は見事に外れた。さすがは大賞受賞作だ。

ところで、『平井』もまた『仮面』と同じく小説の大半が回想場面から成るが、その効果は正反対のものになっている。『仮面』のほうは「プロローグ」と「エピローグ」で物語が完全に閉じてしまっている。続篇を書こうと思えば書けないことはないだろうが、別の流れをもった小説になることだろう。他方、『平井』のほうは、「序章」の登場人物の正体が「終章」でも明かされず、次作以降に対して開かれている。平井骸惚や彼を取り巻く人々の探偵談を再び読むことができる日が来るかもしれない。

登場人物の個性についても、『平井』と『仮面』は対照的だ。『平井』のほうは、探偵役の平井骸惚の存在感が意外と乏しく、視点人物の河上太一も狂言廻しの域を出ていないが、平井涼や香月緋音、そして出番は少ないが平井溌子(「溌」は正字の「さんずい+發」)など女性キャラクターたちのほうが印象深い。対して、『仮面』の女性キャラクター(如月未来とエリシア)よりも男性キャラクター(坂口正一郎と如月忍)のほうが陰影豊かに描かれている。

このように比較してみると、まだまだいくらでも書くことがあるが、あまり続けても仕方がないのでねこれでおしまいにしておく。ともあれ、この二作は面白かった。ふだんライトノベルを読まない人にもお薦めする。

富士見ヤングミステリー大賞関係では、もう一つの佳作受賞作『黒と白のデュエット』(岡本流生)と井上雅彦賞受賞作『さよならトロイメライ』(壱乗寺かるた)も同時発売されている。できれば全部読みたいが、富士見ミステリー文庫ばかり読むわけにもいかないので思案中。他サイトの感想文を待つことにする。

1.10921(2004/01/22) 根も葉もない嘘

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040122a

山口県では、牛丼特盛のことを「こっとい」と呼ぶ。

1.10922(2004/01/23) これから読む本

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040123a

今日、本屋に行くと、『銀盤カレイドスコープvol.3 ペア・プログラム:So shy too-too princess』(海原零/集英社スーパーダッシュ文庫)が出ていた。前2冊で完結している話なので、やや不安はあるものの、見かけたからには買わねばなるまい。別に私が買わなくても売り上げに影響があるわけではないだろうが。

で、先ほどあとがきを読んだところだ。少し引用してみよう。

前作をお買い上げ下さった読者様方、はがきやメールなどで感想を寄せて下さった皆様方のお陰を持ちまして、私に次が与えられました。厚く御礼申し上げます。また、ネット上の多くのサイトでも、熱い御支持を頂きました。(特に、とある推進委員会での格別のご愛顧には、感謝の言葉もございません)

文中の「とある推進委員会」がまいじゃー推進委員会!のことであるのは明らかだ。よく巡回しているサイトがこのように取り上げられているのを見ると、何となく嬉しいものだ。別に私が言及されているわけではないが。

少し前に、ネット上での口コミがライトノベルの売り上げにどれくらい影響を与えるか、という話題があちこちで語られていた。本の売り上げに関する信頼できるデータに乏しく、ネット上での紹介と読者の購買行動との因果関係がよくわからないので、この話題そのものからはあまり実りのある結論は出ていないように思う。『銀盤カレイドスコープ』の場合も、極楽トンボ氏の熱心な活動が実売数にどの程度反映されているのかは誰にもわからない。しかし、氏の熱意が作者に伝わり、いい意味で何らかの影響を与えたことは確かだ。読者冥利に尽きるというべきだろう。別に私が言うことではないが。

さて、そのまいじゃー推進委員会!の中にある銀盤カレイドスコープ感想リンク集を見ると、いちばん上に当「たそがれSpringPoint」内の文章へのリンクが張られている。決まった順番があるわけではないだろうが、その文章がいちばん上にあることに極楽トンボ氏の強い意志を感じる。実際、リンク集で捕捉されている多くの感想文の中でもっとも熱の入ったものだと私は考える。別に私が書いた文章ではないが。

その感想文を書いた某氏は、一時の勢いで書いた誤字まじりの文章を晒されたことを恥じたそうで、無断転載した私は、某氏にかなり怒られた。だが、あの感想文は転載されるべくして転載されたのだ、と私は確信している。別に私がそんな言い訳をする意味はないのだが。

実は、件の某氏は早売りで『vol.3』を入手して、既にその感想を書いている。本当は再び転載したいところだが、さすがに二度めともなると洒落にならないので控えておく。別に私が……あ、後が続かないや。

というわけで(どういうわけで?)今から『vol.3』を読むことにする。

……ところで、例のリンク集のいちばん下が私自身の感想(?)文だということに今気づいた。これにも極楽トンボ氏の強い意志が働いている……のかな?

1.10923(2004/01/24) 少しは真面目に感想文を書いてみる

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『銀盤カレイドスコープ』の前2冊を私が読んだときには、既に多くの人々が感想文を書いていて、新しい視点から何かを述べることは難しかった。自分の感想は自分の感想であり、他人の感想と似ていようが似ていまいが関係はない、と割り切って書ければよかったのだが、私はそれほど器用ではない。そこで、本篇とは全然関係のないことを書いてお茶を濁した。

だが、今回は発売直後ということもあって、まだ感想文が出そろってはいない。前回と同じ方法で逃げようとしても、石野休日氏の妄想が炸裂するのを待っていては、印象が薄れてしまう。そこで、少し真面目に感想文を書くことにする。ただし、あまりまとまってはいない。


まず、読後感を一言で表せば、「面白かった」。もう一言足せば、「楽しめた」。さらに二言付け加えるなら、「読めてよかった」。

昨日の文章を書いた後、2時間半(途中、約半時間の入浴時間を含む)かけてゆっくりと読んだ。すらすらと読める本なので、そんなに時間をかける必要はないのだが、すぐに読み終えるのはもったいない気がしたからだ。読み始めたときには不安もあったのだが、それはすぐに解消した。

昨日も書いたことだが、私の不安について説明しておこう。『銀盤カレイドスコープ』は100日間限定の幽霊ピートを軸にした物語であり、期限満了時点できれいに終わっている(細かくいえばそのあとにエピローグがあるものの、それは話を締めくくるための付け足しに過ぎない)。物語は完結しているのに、さらにその後を語るとどうなるか? その実例はマンガによくあるが、多くの場合、つまらないものになってしまう(なお、『銀盤』の感想でよく引き合いに出される『ヒカルの碁』はこの例には当てはまらないと私は考える)。その後のタズサの人生は読者の想像に任せておくべきであり、資本の要請(?)で書かれた続篇は読むに値しない愚作に堕しているのではないか。私はそう懸念したのである。

だが、上述のとおり、その不安は数ページ読んだところで霧散した。危なげのない安定した文章、読者を飽きさせない緊張感の盛り上げ方、前2冊にも増して魅力的なタズサの人物造形……。

今回のポイントは、まず19ページの最後の2行で提示される。それは、53ページの最後の3行で具体化され、タズサが直面している課題に対する壁となる。このことは、本番に弱いというタズサの以前の弱点が既に克服済みであるということと、その壁を乗り越えたプロセスが逆に新たな壁を作り出しているということを示している。この問題設定により、この巻は、前2巻の変奏または装いを変えただけの反復でもなく、登場人物や舞台が共通するだけの別の話でもない、本当の意味での続篇になっている。

タズサが抱える外的な問題に目を移すと、相変わらず攻撃的なマスコミが描かれてはいるものの、それらは彼女にとってもはや取るに足らないものとなっている。他方、ドミニクは依然としてライバルとして立ちはだかっている。このバランスもいい。

タイムリミットの設定、困難な課題、挫折、挫折の克服、そして成功。この構図は前と同じだが、挫折の克服における助力者の比重が異なっている。オスカーは(シンディとセットにしても)ピーターほどの重みを持たない。従って、タズサ自身の精神的成長が際だつことになる。

『銀盤』は、ある意味では、主人公タズサのキャラクターとしての魅力を中心にしたキャラクター小説だと言えなくもない。だが、凡庸なキャラクター小説の登場人物が類型的であるのに対して、『銀盤』のタズサはむしろ一つの典型である、と私は考える。この考えが正しいかどうかは、今後タズサ的キャラクターがライトノベルやその周辺領域で増殖することになるかどうがで明らかとなるだろう。もし類似キャラが出てこなかったら、ごめんなさい。


「あまりまとまってはいない」と書いたわりには、それなりにまとまったような気がするので、ここでやめてもいいのだが、もう少しだらだら書いておこう。

シングルからペアへ転向してすぐに世界を狙うというのは、たぶん実際にはかなり無茶なことなのだろうと思うが、この小説で「やっぱり駄目でした」という結末になるわけないのは当然だから、その点では予定調和的ともいえるのだが、もう一つの勝負(?)のほうは最後になるまでどう転ぶか予測できない人もいるのではないか。私は、途中まで読んだときに、何となくオスカーが噛ませ犬キャラのような気がしたことと、ここでくっついてしまったら、もう後がないだろうと思ったこと(後者については今のスーパーダッシュ文庫がこのシリーズを3冊で打ち止めするはずがないという外的条件に関する推測と併せて)から、きっと、タズサとオスカーの仲はうまくいかないだろうと予想した。それは当たったが、その理由は予想外だった。オスカーとシンディが既に恋人であることを知ったタズサがそっと身をひくというベタな展開しか考えていなかったのだ。

今から思えば、その展開に至るにはシンディの扱いが小さいので、あの結末には納得。振られた理由から、天才の孤独というモティーフを改めて再認識させられ、もうひとりの孤独な天才との今後の交流や対決を予期させられた。もっとも、最後まで読まなくても第8章「邂逅」で既に明らかなのだが。

なんか、誉めてばっかりだと気分が悪いので、最後に少し不満点を書いておこう。欠陥というほどのことはないのだが、タズサ以外の登場人物の印象が薄いのが気になった。雑魚キャラはどうでもいいが、シンディとオスカーについてはサブエピソードがあと一つか二つあったほうがよかったと思う。もっとも、そうするとページ数が増えて1冊には収まらなくなるわけで、内容的に前後篇にするほどのものかどうかは迷うところだ。前2巻に比べるとやはり小粒な話なので、分量的には1冊でちょうどいいわけで……。ということは、新キャラが多すぎたということになるかもしれない。

作者のあとがきを読むと『vol.4』を書く意志があるようだ。次回作、銀盤の続編か新作か、まだ決まっていないのですが。というのはちょっと解せないのだが、もしかしたら絵師のスケジュールとの兼ね合いがあるのかもしれない。タズサのキャラクターに頼らず全然別の世界を舞台にした別の小説も読んでみたいとは思うのだが、今回の終わり方はやや中途半端なので、なるべく早めに続篇を出してもらいたい。


百聞は一見に如かず。趣味にあわなさそうということと、本当に趣味にあわないということとは別でしょう……と呟いてみる。

1.10924(2004/01/24) 『黒蜥蜴』の感想

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年末年始に光文社文庫版江戸川乱歩全集読破計画を一時中断していたが、旧正月も過ぎたので、そろそろ再開することにした。あまり放置しておくと、「ラノベしか読まないキモオタ」と言われそうだし。

前回(おお、2箇月以上も前だ!)は、連作『黒い虹』の第1回という、これだけ読んでも仕方がないものだったが、第9巻の表題作『黒蜥蜴』は乱歩の通俗長篇の代表作のひとつであり、感想の書き甲斐がある。だが、これを読んだのは去年のことで、もう細かなところは忘れてしまった。主人公の黒蜥蜴がボク女だったということは覚えているが……。

乱歩の通俗長篇に登場する怪人は、どこか間の抜けた側面を持っている。子供騙し、といってもいい。残虐さと間抜けさとのギャップが奇妙な面白さを醸し出しているのだが、この小説の主人公にはあまり間抜けなところはない。そのかわりに、名探偵明智小五郎のほうが令嬢の替え玉と交渉する時に老人姿に変装するという変なことをやっている。このあたりが乱歩らしいところだ。

えっと、ほかに書くことはあっただろうか?

どうも気が乗らないので、これでおしまい。

1.10925(2004/01/24) 『人間豹』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040124c

少し回復したので、引き続き乱歩の感想文を書く。

『人間豹』も怪人物だが、『黒蜥蜴』とは対照的で、粗野な残虐性が前面に出ており、物語としても破綻寸前の作品だ。『猟奇の果』ほどではないが。

常軌を逸した怪人恩田とその父親に恋人を殺された可哀想な青年神谷が前半の主人公だ。恋人を殺された主人公といえば、『孤島の鬼』の蓑浦もそうだが、神谷青年のほうは二回も同じ目にあった上、後半では主人公の座を明智小五郎にとられて最後はただの脇役になってしまうのだからたまらない。こんな事が許されていいのか!

いいのだ、乱歩なんだから。

さっき書いたように、乱歩の小説に出てくる怪人には残虐性と間抜けさがが同居している。『人間豹』のクライマックス、印度の猛虎と北海の大熊の大血闘がまさにそうだ。熊のほうには残虐性が、虎のほうには間抜けさがあらわれている。種明かしのところで「そんなバカトリック使ってないで、さっさと逃げろよ」とツッコミを入れたくなったくらいだ。

ああ、またどうでもいい感想を書いてしまった……。休筆したい……。

1.10926(2004/01/24) 論理という謎

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040124d

論理的批判の非論理的コミュニケーション性Tskkの日記)から。

「論理が通じる相手には論理的批判が有効」というのは論理の有効性についてしばしば語られるトートロジーです。これは裏返して言えば「論理が通じない相手には論理的批判が無効」となります。こちらはあまり語られないタブーです。

論理的批判は非論理的な人には通じない。それにも関わらず、論理的批判が通じる人を増やしてきた。論理性は模倣子として増殖してきた。これはパラドックスでありミステリーです。

この謎の答は「論理は、非論理的なコミュニケーションによって増殖してきた」としか考えられません。これは「論理が通じない相手には論理的批判が無効」からの論理的な帰結でしょう。

この文章を最初に読んだときから、何か釈然としないものを感じていた。それはなかなか言語化するのが難しい。というのは、ひっかかる点を列挙しても、単なる表層的な揚げ足取りにしか見えないからだ。

だが、表層がなければ深層もないのだし、そもそも私の疑問に深層などあるのかどうかさえ疑わしいくらいなので、まずはひっかかった事柄について書いていこうと思う。

一つめ。「論理が通じる相手には論理的批判が有効」というのはトートロジーなのだろうか? 私にはそうは思えない。論理が通じるかどうかということと、論理的批判が有効かどうかということは少し違った事柄のように思われるからだ。

ところで、私は「トートロジー」という言葉を命題論理の恒真式を指すのだと理解しているので、単一の命題についてトートロジーかどうかを問うことに違和感がある。どうでもいいことだけど。

二つめ。「論理が通じない相手には論理的批判が無効」というのは、果たしてタブーだろうか? 言うまでもなく自明の事だから言わないだけではないではないか。

この二つの文で言われている事柄は表裏一体ではあるが、論理的には同値ではない。そのことは、コメント欄186(一服中)氏が指摘しているとおり。

三つめ。それにも関わらず、論理的批判が通じる人を増やしてきた。という一文の意味がよくわからない。主語が欠けているが、前後の文脈から察するに「論理的批判が、論理的批判が通じる人を増やしてきた」ということを言いたいのだろうと思う。だが、どの程度の時間を背景にして「増やしてきた」と主張しているのかがわからない。ここ数年のことなのか、明治以来の西洋文明の受容後の話なのか、それとも人類誕生後の全歴史を念頭に置いているのか。次の文中に「模倣子」という語が出てくるので、なんとなくいちばん最後の解釈をとりたい気分になってくるのだが……。

四つめ。そもそも論理というのは模倣子なのだろうか? これが私にはよくわからない。

五つめ。「論理が通じない相手には論理的批判が無効」(と「論理的批判が、論理的批判が通じる人を増やしてきた」)から「論理は、非論理的なコミュニケーションによって増殖してきた」が論理的に帰結するのだろうか? ここに何か暗黙の前提が隠されてはいないだろうか?

論理というものは不思議なものだ。我々の思考と言語に密接に関係していて、非常に馴染み深いものである(「論理」という言葉に馴染みがあるかどうかは別の話)。にもかかわらず、我々は論理の出自も、その規範性の根拠も知らない。「論理はいったいどこから来たのか?」という問いは、おそらくナンセンスなものでしかなく、「なぜ論理に従わなければならないのか?」という問いは空回りする。

……難しいことを考えると眠くなってきた。これでおしまいにする。

1.10927(2004/01/25) 連想と雑談

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初めてアクセスしたときから、「美貌6って変なサイト名だなぁ」と思っていたのだが、ある日突然天啓がひらめいた。「そうか、備忘録のもじりだったかっ! ぬかったわ!」

これほどの衝撃は、原えりすんの電気オタク商品研究所を定期巡回するようになった数ヶ月後に、本屋で『世界の中心で愛を叫んだけもの』を見かけたとき以来だ。つまり、たいした衝撃ではなかったということだが。

ハーラン・エリスンの小説は読んだことはないが、もちろん名前くらいはずっと前から知っていた。それなのに、即座に結びつかなかったのは不覚としか言いようがない。

『世界の中心で愛を叫んだけもの』といえば、似たようなタイトルの小説がベストセラーになっているようだが、Googleで検索してみたところ、こんなページが目にとまった。今までこんなにインパクトのあるタイトルはなかったそうだ。

タイトル繋がりで、原作とアレンジしたものとの知名度について考えてみる。

『黒蜥蜴』は江戸川乱歩の原作と、三島由紀夫の戯曲のどちらがより有名なのだろうか? 私は演劇や映画に興味がないし、三島由紀夫ファンでもないので、小説版を先に連想するのだが。

別の例。『展覧会の絵』はどうか? 原曲はムソルグスキーのピアノ曲だが、私はまだ全曲通して聴いたことがない。ラヴェルが管弦楽に編曲した版のほうが有名だと認識しているのだが、もしかするとそれは私の思いこみに過ぎないのかも。「ウィトゲンシュタイン」という名前を見かけると、未だに隻腕のピアニストのほうを思い浮かべてしまうくらいだから。

そういえば、高木彬光の短篇集にも『展覧会の絵』というのがあったなぁ。

おまけ:『展覧会の絵』編曲リスト

1.10928(2004/01/25) 雑談と雑談

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いつもさほど気合いを入れて文章を書いているわけではないのだが、特に気を抜いた文章を書くと、後で読み返したときに気になることが多い。具体的に言えば、『世界の中心で愛を叫んだけもの』の作者がハーラン・エリスンだと明示していないこととか。よく読めば前後の文脈からわかることだと思うが、書いた側の手抜きで読者に余計な手間をかけさせることになるので、もっと丁寧に書いたほうがいいのかもしれない。

もう一つわかりにくい箇所がある。それは、「ウィトゲンシュタイン」という名前を見かけると、未だに隻腕のピアニストのほうを思い浮かべてしまうくらいだから。という一文で、その一つ前の文の説明をしているのだが、どうしてこれが説明になるのかは予備知識がないと全くわからないだろう。昔、パウル・ウィトゲンシュタインというピアニストがいて、第一次大戦で右腕を失った後ラヴェルに頼んで『左手のためのピアノ協奏曲』を作ってもらったということを前提にしているのだが、そんな事を説明なしに書いたら、ほとんどの人にわかってもらえないわけで、今から思えば非常に粗雑な書き方だ。

とはいえ、いちいち背景知識を書き込んでいくと面倒だし、知っている人は馬鹿にされたように感じるかもしれない。わかる人だけわかってよ、と気楽に構えるほうがいいのかもしれない。仮に、説明不足のせいで前回の文章を誤読されたところで、たいした害もないことだし。

こんなふうに、二通りの考え方の間を揺れ動きながらふらふらとその場その場で文章を書いている。


最近、トラックバックというものがはやっているそうだ。ご近所の人と挨拶するときにも「おやおや、お宅はまだトラックバックを導入していないんですか?」「いや、お恥ずかしい。トラックバックにはちょっと手が届かないもので……」などと話題になるくらいだ。だが、私はトラックバックというものがいったい何なのか、未だによくわかっていない。どこに行けば買えるのだろう?

3分でわかるトラックバックというページを読むと、フラッシュで説明をしてくれる。ちなみにフレッシュはコーヒーに入れる(関西人限定)。3分経って、なんとなくわかった事をまとめてみよう。

  1. 新選組局長は近藤勇である。
  2. 新選組副長は土方歳三である。
  3. 二人の顔写真は白黒である。
  4. どうやら、幕末にもインターネットがあったらしい。
  5. 3分経ってわからなければ、もう一回見ることもできる。
  6. 私にはトラックバックはよくわからない。

トラックバックにはいろいろと作法があるようだが、そんな作法をいちいち覚えるのは面倒だし、人によって意見が違うので紛糾のもとになる。人は新奇なものに惹かれやすいが、ここはぐっと我慢して無視するのが堅実というものである。ここに私は宣言する。私は送らない、私は受けない

こんなことをあえて宣言したのは、自動でトラックバックを送ったり受けたりすることを避けるためだ。仮に誰かからトラックバックが送られてきたら削除するので、もし私がついふらふらと送ってしまった場合にも同じ処理を取られるようウェブサイト管理人諸氏にお願いする。

しかし、自分の意志とは無関係に勝手にデータをやりとりするとは、恐ろしい時代になったものだ。


面白い『銀盤カレイドスコープvol.3』の感想文を見つけた。このたとえは素晴らしい。

1.10929(2004/01/26) 『石榴』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p0401

足かけ三ヶ月の長きにわたって読み続けてきた光文社文庫版江戸川乱歩全集第9巻『黒蜥蜴』も『石榴』を残すばかりとなった。

『黒蜥蜴』『人間豹』の二長篇は再読だったが、『石榴』を読むのはこれが初めてで、そのせいか、集中で最も面白く感じた。単に、私が通俗物より謎解き物のほうが好きだからかもしれないが。

顔中硫酸で焼けただれた死体を美術学生が写生するという猟奇的な発端から、探偵小説マニアの警官の推理を経て、あるトリックが明かされる。そのトリックは19世紀半ばにディケンズが仕掛けてポーが見破った例のアレで、あまり目新しさはないのだが、今でもよく使われているものなので、乱歩が使ってもおかしくはない。

しかし、枠物語の形式をとっているのだから、そのトリックの解明だけで終わるわけはないだろう、と身構えていると、案の定、もう一度捻りがある。犯人が探偵の性格を読んでトリックを仕掛けるという趣向は後期クイーンにも通じるもので、その意味では面白かった。ただ、真相が犯人の告白で明かされるのは、あまり芸がないと思った。

この小説は発表当時かなりの悪評に見舞われたそうで、林房雄が揶揄と悪罵を放ったというのは興味深い。これは探偵小説という別箇の文学ジャンルを全く理解しない物の言い方だと乱歩は切って捨てているが、さぞ悔しかったことだろう。また、別の人の評について、

指紋を使ったから新らしくないというような考え方は、全く探偵小説素人の言葉で、この批評も急所を突かれたようには思わなかったが、しかし日頃探偵小説を読んでいない人の目に、こんな風に映るとすれば、作者としてはやはり反省しなければならないと思った。

と述べているが、「反省」云々というのは調子を整えるために書いただけで、心中では「外野は黙ってろ、バカ」と言いたいのがありありとわかる。

ここに引用したのは、『石榴』発表の四年あまり後に書かれた文章だが、過去の記憶が徐々に風化しつつあるものの、自作を完全に客観視できるほど時間が経過してはいない時期だったのだろう。戦後の全集等の「あとがき」と読み比べてみると、なかなか興味深い。


次は去年11月の第4回配本『幻影城』(第26巻)を取り上げる。いつになるかはわからないけれど。

1.10930(2004/01/26) 論理に従うとはどのようなことか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040126b

▼20040126

あなたが友人と歓談しているとき、逆立ちしたままラーメンを食べることが可能かどうかについて議論が生じたとせよ。

LEGIOんへ。

「そんな事できるもんか」とあなたは主張する。「むせ返って吐いてしまうに違いないよ」

「いや、必ずしもそうとはいえない。食物を燕下するのは重力の働きではなくて、食道の蠕動によるのだから、逆立ちしてラーメンを食べることも可能なはずだ」

あなたは友人の言葉に承服できない。「そりゃ、理屈ではそうかもしれないけれど、逆立ちして麺を箸でつまむだけでも一苦労だし、そこから口まで持って行くのだって大変だ。実際にそんなことができるとは思えないな。絶対に無理だ」

「では、論より証拠、実際にやってみようじゃないか」

「おう、やれるもんならやってみなよ」

アクセス解析も、外部へリンクをして言及することも禁じる。
Blogもはてなも、今後生まれくるであろう高機能日記サービスも使用を禁じる。
カウンタ、BBS、チャットの設置も禁じる。
別名でのサイト運営も禁じる。

「でも、すぐには無理だよ。練習が必要だ。それに、手間暇かけてラーメンを食べるんだから、何かご褒美がほしいな」

「えっ、そんなのやだよ」

「でも、君は逆立ちしてラーメンを食べるのは絶対に無理だと言ったばかりじゃないか。だったら別にご褒美の約束をしてもいいんじゃないか」

「う〜ん、わかった。じゃ、どんなご褒美ならいいの?」

「そうだなぁ」とあなたの友人はしばし考え込む。

やがて、ぽんと手を打って友人はあなたにこう言う。「こうしよう。逆立ちしてラーメンを食べるのに成功したら、君にメイドさんになってもらおう。『ご主人様を疑った私が悪うございました。どうぞ存分にお仕置きをしてください』と言うんだ」

「えーっ!」

「もひとつ追加だ。必ずネコ耳をつけること」

かくしてあなたは、友人が逆立ちしたままラーメンを食べることに成功したなら、メイド服とネコ耳を身につけてご主人様にお仕置きをおねだりすることになった。

余計なことだが、友人は選んだほうがいい。

ということで、連絡手段はメールのみとなります。
ご了承ください。
あまりにも不便だという方には、携帯の番号を教えます。(人は選びますが)

さて、あなたの友人は山に籠もって片方の眉を剃り落とし、日夜修行に励んだ。そして、逆立ちしたままラーメンを食べる秘法を導師に学んで下山し、再びあなたの前に現れた。

「ふふふ、勝負だ! 覚悟はできてるだろうな」

「う、うん」と、うつむいたままあなたは頷く。

あなたは、涙なしでは食べられないほど唐辛子を放り込んだ激辛ラーメンを作り、友人に差し出した。真っ赤なスープと刺激臭が友人の戦意を奪うと考えて。だが、友人は「ふっ、小癪な」とつぶやいただけだった。

いよいよ、逆立ちラーメンに挑戦だ。友人は"modus ponens"と書かれた鉢巻きを巻いて精神統一し、「えいやっ」とという掛け声とともに逆立ちした。

このサイトを見てくれる知人各位に、あらかじめ言っておきます。
巡回という作業をしなくなったので、
貴方のサイトを閲覧している可能性が限りなく低くなります。

見よ! 彼の右手は箸を持って空中に浮かび、ただ左腕のみによって全身を支えているにもかかわらず、足先まで微動だにしないではないかっ!

そして、箸は丼に向かい、まずはナルトをつまんで事も無げに口へと運ぶ。続いて麺をひとつかみ。ずるずるずるとラーメンをすする音。そして(中略)激辛スープの最後の一滴を飲み干して、大きなゲップ一発ののち、ようやく逆立ちをやめて正立した。

「ほら、逆立ちしたままラーメンを残さず食べたぞ。次は君の番だ」

さあ、困った。ぴんちだ。

ここで問題です。この場面であなたがどのように振る舞えば、論理に従うということになるのでしょうか?

ご用の際はメールにてお伝えください。
ご自分のサイトで言及されても、僕は気付きません。

あなたは、友人が逆立ちしたままラーメンを食べることに成功したなら、メイド服とネコ耳を身につけてご主人様にお仕置きをおねだりすることを約束した。そして、友人が逆立ちしたままラーメンを食べることに成功した。従って、あなたは、メイド服とネコ耳を身につけてご主人様にお仕置きをおねだりするのが、論理に従うということなのだろうか?

いや、それは単に約束を守るということではないのか? 約束を守ろうが破ろうが、論理に従ったかどうかとは別の問題ではないのか?

BLOGやめました。はてな退会しました。BBS閉鎖しました。Wiki消しました。

おそらく、こう言うべきなのだ。あなたがどう振る舞えば約束を守ることになり、どう振る舞えば約束を破ることになるのかを、論理が教えてくれるのだ、と。論理は既にあなたの思考に内在している。あなたはことさら論理を受け入れたり、認めたりするわけではない。ましてや、論理を退けたり、無視したりすることもない。

すると、「論理に従うとはどのようなことか?」という問いはどのような意味をもつのだろうか???

ふりだしにもどる。


調子に乗って書いたはいいが、どうにもだらだらとして、しまりがない。区切りのかわりにSHADOW ZEROからの引用文を適当に挟み込んでみた。間に入れる文章は別に何でもよかったのだが、何となく意味ありげに思えてくるから不思議だ。

1.10931(2004/01/27) 覚えておいたほうがいい言葉

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040127a

私は「背マクラ」という言葉を知らなかったために、今日かなりの時間を浪費した。

1.10932(2004/01/28) トレーニングでサバイバル!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040128a

先日、大阪の某書店にて、『論理トレーニング101題』(野矢茂樹/産業図書)と『論理サバイバル』(三浦俊彦/二見書房)が仲良く自己啓発コーナーに並んでいるのを見かけた。

1.10933(2004/01/28) 数学的帰納法と三段論法

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040128b

例の野嵜高橋論争が最近、論理を巡る話題を扱っていて、非常に興味深い。この分野は私も大いに関心があるので、機会があればこの論争を題材に何か書いてみたいと思っていた。すると、闇黒日記の1/25付の記事で

論理自體から人は相對的に獨立した存在である。個人個人で異る價値觀の存在する事を主張する人にも、1+1=2から出發する數學の世界に數學的歸納法と云ふ證明の方法のあるのを否定する事は出來ないし、それに基づく證明の結論を否定する事は出來ない。古典的な論理學における三段論法の妥當性も、それによる論證の結論も、同樣に否定出來ない。(三段論法については、近代的な論理學では屡々否定可能であるが、茲では深く突込んで論じない)

と書かれていた。この文脈で数学的帰納法に言及するのはあまり得策ではないだろうと思っていたら、案の定、ツッコミが入っていた

三段論法という用語を良く使うところから見て、野嵜さんの言う論理学というのはおそらく古典論理学だと思います。その立場からすると、数学は論理的必然として導かれたものではありえないので、数学的帰納法の正しさを論理的なものとして主張するのは矛盾しています。

野嵜氏は、(少なくとも上の引用文では)数学的帰納法をアナロジーとして持ち出しているだけであり、数学を論理に還元しようとしているわけではないので、野嵜氏の主張に矛盾があるという高橋氏の見解には無理があるように思う。

ところで、「『数学的帰納法』って何?」と言う読者のために、次にその例を示すことにしよう。


青森県のアラハバキ神社は、その名が示すとおり、アラハバキ神を本尊としている。「神社に本尊などあるものか」と言う人もいるだろうが、あるところにはあるのだ。深く考えてはいけない。

アラハバキ神社には大勢の巫女さんがいる。その総数は知らないが、とにかく「大勢」としか言いようがない人数である。巫女さんたちは日々水垢離や托鉢などの修行に励んでいる。

彼女たちにとって最大の年中行事は厳冬期の八甲田山縦断である。巫女だけで編成した部隊が、一列縦隊で雪の八甲田山に登るのだが、同じ雪山でも金剛山のハイキングとはわけが違う。毎年多数の死傷者が出る苛酷な儀式だ。

この儀式は昔から伝わるもので、数々のしきたりがある。そのうちの一つに「行列の直前の者よりも多くの装備を身につけてはならない」というものがある。これは単に数だけのことではなくて、装備の数が同数以下であっても、前の人が身につけていないものを装備しているといけないという厳しいルールだ。けなげな巫女さんたちはこのルールを決して破ることがない。

さて、今年も八甲田山雪中縦断が行われたのだが、その最中にちょっとしたアクシデントが発生した。猛烈な吹雪により、行列の先頭にいた巫女さんの袴がめくりあげられ、ぱんつはいてないことが判明したのだ。このアクシデントにより、全国の巫女マニアは単なる萌えから魂のステージを一つ駆け上がることになったのだが、それは別の話。

ここで重要なことは、この行軍に参加した巫女さんの全員がぱんつはいてないということである。このことは次のようにして証明できる。

  1. 先頭の巫女さんがぱんつはいてないのは上述のとおり自明である。
  2. 任意の巫女さんについて、もしその巫女さんがぱんつはいてないならば、先に述べたしきたりにより、そのすぐ後ろの巫女さんもぱんつはいてない
  3. 1と2から、数学的帰納法により、すべての巫女さんがぱんつはいてないということが示される。

数学的帰納法がいかに素晴らしいものか、おわかりいただけただろうか?


野嵜氏の数学的帰納法の例に対して、別の人もツッコミを入れている。ツッコミそのものはともかくとして、おどろくべきことに、「自然数論は無矛盾でない」ことは示せるそうだ。それが本当なら凄いことだ。

だが、肝心の「自然数論は無矛盾でない」ことを示した文章を読んでみると、残念なことにあと一歩足りない。

自然数の集合Nと、Nの各要素に1を加えたものの集合N’の、要素の個数を比較することによって、

  1. Nの要素の個数はN’の要素の個数に等しい。
  2. Nの要素の個数はN’の要素の個数に1を加えたものに等しい。

という2つの結論を導いているのだが、ここから言えることは

  1. N’の要素の個数はN’の要素の個数に1を加えたものに等しい。

ということに過ぎない。「自然数論は無矛盾でない」ことを示すためには、さらにもう一歩進んで、3が矛盾であることを示す必要があるが、その手だてについては何も説明がない。おそらく誰かが自然数論に「この橋渡るべからず」という看板を立て、矛盾への道を閉ざしてあるのだろう。


ついでに三段論法について。

1.大前提
白兵戦において日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行うのは不可能である。
2.小前提
野田少尉は白兵戦を戦った。
3.結論
野田少尉が百人斬りを行なうのは不可能である。

これは三段論法ではない。

もっとも、野嵜氏は、以下が正しい推論。と書いているだけで、この推論が三段論法であるとは一言も述べていない。http://t-t-japan.com/bbs/kyview.cgi?k=a&dir=tohoho&pg=7&id=ndaqrf&id2=expqrfの「三段論法」は、三段論法になつてゐない。というコメントのすぐ後に置かれていること、「大前提/小前提/結論」という三段論法の用語が使われていることから、ここで三段論法を例示しているものと読者が勝手に誤解するだけである。このような手法は、ミステリの叙述トリックに似ている。評価が分かれるところも叙述トリックに似ている。

では、この推論は妥当なのだろうか? 字面だけを見ると、とても妥当とは思えない。だが、文言を補ったり削ったりして妥当な推論に仕立て直すことは可能だ。

以下が正しい推論。(

1.前提
誰であれ白兵戦において日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行うのは不可能である。
2.結論
野田少尉が白兵戦において日本刀を振るっての人斬りのみで百人斬りを行うのは不可能である。

ああ、またやってしまった……。

最後に、自戒を込めてここから引用しておく。

横から無知を曝け出すのは止めましょう。


註 「正しい推論」
ここでは「妥当な推論」と同じ意味。よって、この推論の結論が正しいかどうかは保証の限りではない。

1.10934(2004/01/29) 倫理のことは分かりません、論理のことからこつこつと

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040129a

チェリモヤ

今日、生まれて初めてチェリモヤを食べた。こんな果物があるとは知らなかった。

非常に美味しかったので、また食べたいものだ。いつになるのかはわからないが。

参考:魅惑のくだもの チェリモヤ


書評

蔓葉信博氏の『きみとぼくの壊れた世界』(西尾維新/講談社ノベルス)評を読んだ。

今回の「もんだい編」の情報は、事件発覚日にわかっていた事実を様刻が病院坂黒猫に語ったものと考えてよい。という意見には賛成するが、重要なのは情報そのものではなく、情報の表現方法である。問題の箇所の地の文が様刻の病院坂への説明で用いられた表現と同じであると推定できる根拠はない。また、当該箇所がどの時点での様刻の認識レベルに基づく記述であるかを推測できるような手掛かりもない。

技術的にはうまく名前を書かない書き方にしたほうが、望ましかった。というのは、全く同感。


ぱんつはいてない

昨日の文章は、「三段論法と数学的帰納法」というタイトルだったのに、両者の関係についてはほとんど何も書いていない。

たとえば

  1. 行列の先頭の巫女さんがぱんつはいてないならば、行列の先頭から2番目の巫女さんもぱんつはいてない
  2. 行列の先頭の巫女さんはぱんつはいてない
  3. 行列の先頭から2番目の巫女さんはぱんつはいてない

というのは、典型的な三段論法であり、かつ、妥当な推論だ。この調子で繰り返し三段論法が用いられる。よって、数学的帰納法というのは結局のところ三段論法の連鎖に過ぎない……と言えれば話は簡単なのだが、話はそう簡単ではない。

「任意の巫女さんについて、その巫女さんがぱんつはいてないならば、そのすぐ後ろの巫女さんもぱんつはいてない」という前提から、個々の巫女さんについての条件式を導く必要があるのだが、その際に「行列の先頭の巫女さんのすぐ後ろの巫女さんは行列の先頭から2番目の巫女さんである」という条件を持ち込むことになる。

1の次の数は2であり、2の次の数は3であり、3の次の数は4であり……というふうに、自然数が順序立てて並んでいることを我々は常識として知っている。しかし、これは論理的真理なのだろうか? これが私にはよくわからない。


時間切れ

明日は休暇をとってあるので、これを見に行くつもり。買うかどうかは未定。ともあれ、早く寝ないと朝が辛い。

1.10935(2004/01/30) Fate休暇

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040130a

今日は休みをとって大阪日本橋へ行ってきたので、その一件について書く予定だったのだが、先ほど読み終えた本が面白かったので、その感想文(というか紹介文)に変更する。


今日、私が読んだ本というのは、『幽霊には微笑を、生者には花束を』(飛田甲/ファミ通文庫)だ。

これは面白かった。いいから、読め!


おお、終わってしまった。

上の文章だけでこの本を読む気になった人は、ここから先を読まないほうがいい。でも、まあ、そんな人はほとんどいないだろう。仕方がないので、続きを書くことにしよう。


最近、私はわりとライトノベルをよく読むようになった。だが、ファミ通文庫はほとんど読まないし、飛田甲という人のことは何も知らない。そんな私がこの本を買ったのは、ここを読んだからだ(強調は原文、ただしタグを変更している)。

いい意味で騙されました。だいたい幽霊が絡む話って、萌え系切なさ炸裂の話とほぼ相場が決まってます。ですからそういう先入観を持って読み始めたわけですが……これもしかして富士見ミステリー文庫の8割、いや9割がたの作品よりよほどちゃんとミステリ仕立てになってるんじゃ? 私はしょせん由緒正しきミステリ読みじゃないんで、その辺気に入ってもらえるかはわかりませんがミステリ読みの方には手を出してみてほしいかなーと思いました。

萌え成分は既存の幽霊ものに比べると少し低めですがその分ストーリー展開にやられます。密かにおすすめ。

富士見ミステリー文庫と比較しても誉めたことになるのかどうかはわからないが、極楽トンボ氏があえてミステリ的な観点からコメントしていることに興味をそそられた。

こんな動機で読むのは邪道かもしれないが、読んで面白かったのだから文句はない。「要するに、全てうまくいったってことさ」

ああ、いきなり最後の決め台詞を引用してしまった。この調子だと、どこまでネタをばらしてしまうのか、自分でも全く想像がつかない。お願いだから、この先は読まないで、予備知識なしに『幽霊』を読んで!


『幽霊』の感想文はほかにもいくつか読んだが、必ずしも手放しで誉めているわけではない。たとえばここでは、出会いのエピソードと主人公の性格づけに難があることを指摘しているし、ここでは、結末を推理することができないことを指摘している。実際に本を読んだあとでこれらの感想文を読み返すと、確かにその通りで、全く異論はない。ついでに、ヒロイン(幽霊)が地味で魅力に乏しいこと、主人公のディテクションが都合良く進みすぎること、などを難点として挙げておこう。

これで、未読の人はあまり過大な期待を持たずに素直な気分で『幽霊』を読むことができるはずだ。さあ、こんな感想文はほっといて、『幽霊』を読もうよ!


この小説がミステリかどうかといえば、まあミステリと言っても差しつかえないだろうと思う。謎があって、探索と推理があって、解決があるのだから。ただ、多くのミステリでは、決められたルールのもとでどのような事象が起こったのかということを推理するのに対し、『幽霊』では、どのようなルールが成立しているのかを推理するところから始まるので、SF色も強い。強いて「ミステリか、SFか?」という二者択一を行う必要もないので、「SFミステリ」と呼んでおけばいいのだが……。

前半部分で主人公が幽霊に関わる現象を秩序づけよう試みる場面を読んで、私自身もそのような理屈っぽさを持っている(『銀盤カレイドスコープ』の感想を参照されたい)ので、大いに共感したのだが、それとは別に、以前読んだ別の小説を思い出した。その小説もSF的な設定のボーイミーツガールもので、主人公(男のほう)は非常に理屈っぼい。本当は、その小説のタイトルを挙げて、いろいろと比較してみたいのだが、未読の人のことを考えると、ちょっと具合が悪い。というのは、その小説では前面に出ているテーマが『幽霊』の隠しテーマでもあるからだ。自分で連想するのは勝手だが、ここで不用意にタイトルを挙げて結末を匂わせるべきではない。

ああ、なんと感想文が書きにくいことか! もうこれ以上書けないから、さっさと本屋へ行ってほしい。


おまけ:石野休日氏の感想文

思わず179ページを開いてしまった。

1.10936(2004/01/31) 籠もる前に

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040131a

思いつきとかレスとかを書いておく。しばらく、ウェブ巡回がおろそかになるだろうから。


私はウッドハウスの小説をほとんど読んだことがない。雑誌だったかアンソロジーだったかに載っていた短篇を読んだことがある程度だ。有名なユーモア作家だという認識はあるが、それは乱歩の『幻影城』(ただ今再読中!)などから得た知識であり、言ってみれば「伝聞」に過ぎない。

"ミステリ読み"を自認ないし自任する人がポーやヴァン・ダインの名前を知らないなら、それはちょっと困ったことだ。「そのような人は馬鹿にされても当然だ」とまでは言わないが、少なくとも他人から指摘を受けたなら"ミステリ読み"の看板を下ろすか、あるいは"国産ミステリ読み"とか"現代ミステリ読み"などの看板に掛け替える必要がある。だが、ウッドハウスの場合はどうだろうか?

ともあれ、これまでウッドハウスの名前を知らなかった人々が、これをきっかけにウッドハウスを読んでみようという気になるのなら、それは大いに結構なことだと思う。私自身はとうの昔に"ミステリ読み"の看板を下ろしているし、古典的名作に読み残しがまだまだ多い(註1)ので、物の弾みか何かの行き違いがない限り、すぐにウッドハウスに手を出すつもりはないけれど。


  1. バッハよりもヘンデルのほうが多くの音楽を作った。
  2. ヘンデルよりもテレマンのほうが多くの音楽を作った。
  3. バッハよりもテレマンのほうが多くの音楽を作った。

上の3つの命題(註2)に同意するかどうかは別として、少なくとも1と2が正しければ3も正しいということは誰の目にも明らかだと思う。従って、1と2を前提として3を導出する推論は正しい、と言いたくなる。

だが、論理的には上の推論は妥当ではない。そのことは、上の推論と同じ論理形式をもつ次の推論をみることでわかる。

  1. 滅・こぉるはクワインに会ったことがある。
  2. クワインはラッセルに会ったことがある。
  3. 滅・こぉるはラッセルに会ったことがある。

4と5は真だが、6は偽である。

1〜3と4〜5が論理形式を共有することは、どちらも同じ論理式で表せることから明らかだ。

  1. Rab
  2. Rbc
  3. Rac

ここで、「R」は二項関係を表す述語であり、1〜3では「……よりも……のほうが多くの音楽を作った」、4〜6では「……は……に会ったことがある」に対応する。また「a」は「バッハ」と「滅・こぉる」、「b」は「ヘンデル」と「クワイン」、「c」は「テレマン」と「ラッセル」にそれぞれ対応する。

このような記号化に異議を唱える人もいるかもしれない。これは過度の単純化であり、全く別の構造をもつ推論を同一視してしまっている、と。全くそのとおり。どちらも二項関係であることに違いはないが、それだけで一緒くたにして同じ記号で表してしまうと、何が推論の正しさにとって重要なのかが見えなくなってしまう。

1〜3は、それぞれ二人の作曲家について、彼らが作った音楽の数を比較しているのだから、次のように書き直すことができる。

  1. バッハが作曲した音楽の数よりもヘンデルが作曲した音楽の数のほうが大きい。
  2. ヘンデルが作曲した音楽の数よりもテレマンが作曲した音楽の数のほうが大きい。
  3. バッハが作曲した音楽の数よりもテレマンが作曲した音楽の数のほうが大きい。

さらに、これを次のように記号化しよう。

  1. a<b
  2. b<c
  3. a<c

念のために言っておくが、「<」は論理記号ではない。従って、13〜16は論理学に基づく記号化ではない。(註3

かなりルーズな言い方になるのを許してもらって単純に言うなら、1〜3は論理的には妥当ではないが、数学的には妥当な推論である。他方、4〜6は、論理的に妥当ではなく、また数学に関係のない推論である。

論理の話をするときに、つい、数学の例をたとえに出したくなることがある。それが常に悪いことだとは言わない。だが、自分がどちらのレベルの「推論の正しさ」について話をしているのかを自覚しておかなければ、議論は果てしなく混乱していくことになる。


今さら言うことでもないのかもしれないが、私には他人が何を言っているのか全くわからなくなることがある。日常的なレベルの話の場合は、個人的な経験や生活環境の枠組みによって物事の理解や表現の仕方が左右されるので、私の理解が及ばない文章があるのはわかる。また、専門分野についての私の知識が乏しいせいで意味が掴めないのは当然のことだ。だが、そのどちらでもない場合でも、私には全く了解不可能な文章がいくつもある。たとえば、これとかこれとか。

私にわからないのは、要するに相手が意味のないことを書いているからだ。そう割り切って考えるほうが精神衛生上よいのは確かなのだが、なかなかそのように割り切ることはできない。たまたま用語の使い方が私と異なっているせいで、理解しづらいだけかもしれない。前提となる条件を私が把握していないので、ピントのずれた解釈しかできないのかもしれない。もしかしたら、一本の補助線を引くだけで、すべての謎が霧散するかもしれない。そういう希望を捨て去ることができない。

物事には何でも時間の制約がある。ウッドハウスを読みたいと思ってもなかなか読めないのと同じで、他人の文章の読解に充てられる時間にも限界がある。自分の書いた文章への誤解を解消するために説明を加えることすら満足にできないのだから、どこかで断念しなければならない。さもなければプレイ時間が60時間と言われるゲームに取りかかることができない。


尻切れトンボになった。


註1 古典的名作に読み残しがまだまだ多い
一昨年、一念発起して『完全殺人事件』を読み始めたが、冒頭30ページほどで挫折した。『伯母殺人事件』とか『学校の殺人』とかも読みたいのだが……。
註2 命題
「命題」という語を用いるのには抵抗がある。私が書いたのはであり、文を書くことによって言明を行ったのだが、それら(文と言明)とは別の「命題」というカテゴリーに属する事柄があるのかどうか、もしあるとすればそれはいかなる事柄なのか、そういった問題がわんさかと噴出してくるからだ。とはいえ、論理学では「命題」はごくふつうに使われている言葉であり、今は文や言明との区別や対比が必要な文脈ではないので、強いて忌避するまでもない。この用語法に限らず、ルーズな言葉遣いが多いが、ご寛容願いたい。
註3 論理記号・論理学
数の大小関係を表す記号を取り入れて論理学を拡張することは可能だと思うが、少なくとも古典的な標準論理ではこの記号は用いられない。論理に対する私の理解は相当ナイーブなので、専門的な人にとっては噴飯ものだろう。もっと背伸びしたほうがいいのかしもしれないが、私の土台は貧弱なので、ふらついて倒れる危険を考えるとなかなかそういうことはできない。より高度で精密な議論は他の人に委ねたい。

1.10937(2004/01/31) つぶやき

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401c.html#p040131b