【日々の憂鬱】鉄道マニアが駅員のお株を奪うのはいかがなものか。【2004年11月中旬】


1.11210(2004/11/12) 非其鬼而祭之諂也

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『電撃!! イージス5』(谷川流/電撃文庫)を買ったのは先週の土曜日だったのに、今日やっと読み終えた。うかうかしている間に好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!感想メモリンクがアップされてしまった。今から感想文を書くのはかなり苦しい。何かいい切り口はないものか……。

とっさには思いつかないので、とりあえず印象に残った箇所を紹介しておこう。「第二話・『スピード&サイレンス』」から、主人公の逆瀬川秀明と人工知能のガニメーデスの会話。

「別に見たくもないよ。他人の部屋を漁る趣味はない」

『おやおや。それはまた優等生的無芸の極みのような返答ですね。私はお嬢様がたの身体から発せられた芳香の立ちこめる部屋で転げ回りたい気分でいっぱいなのですが、この機会にぜひ私と一緒に転げ回りましょう。義を見てせざるは勇なきなり、ですよ』

「それのどこが義だ」

『義務と言ってもいいでしょうな。あなたこそ一体何をしているんですか。この数日間、風呂も覗かなければ寝込みも襲わない、暗闇に連れ出そうともしなければセクハラの一つもしないとは、こんなことで今後どうやっていくつもりで?』

誘惑、そして装われた無関心。この会話に『電撃!! イージス5』のすべてが集約されている……と言い切るのはさすがに無茶か。

それにしても、こんなところに『論語』を引っ張ってくるとは、一体この人の頭の中はどうなっているのだろうか?


今日、『侵略のテクニック』という本を買った。タイトルに惹かれて衝動買いしたのだ。

何の本か解りますか?

1.11211(2004/11/13) 昨日のこたえ

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『即効上達シリーズ1 侵略のテクニック』(日本棋院 囲碁文庫)

1.11212(2004/11/14) 暇だからライトノベル・ファンパーティー〜あなたに届け、この一冊〜の愛称を考えてみようスレのまとめ

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そんなスレッドorまとめサイトないです。


元祖「このライトノベルがすごい!」(宝島社のほうが本家なら、こっちは「元祖」だろう)の新名称が発表された。「ライトノベル・ファンパーティー 〜あなたに届け、この一冊〜」だそうだ。

以前、ネタがなくて困っていたときに「このラノ」の新名称をネタにしたことがある。そして、今日もまたネタがない。よって今日もネタにする。

前回も書いたことだが、多くの人々から愛され、親しまれるものには印象的な略称があることが多い。略称は愛称でもあり、また時には隠語めいた効果ももつ。

隠語の是非については難しい問題もあるので手放しでは推奨できないが、ともかく「ライトノベル・ファンパーティー 〜あなたに届け、この一冊〜」に略称が必要なのは確かだ。さもなければ、次のような事態が発生することになるだろう。


「あっ、忘れてた! ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 の一般投票締切は今日までじゃないか!」

「なに? ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 の締切って明日じゃなかったっけ?」

「いや、 ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 の締切は今日で間違いないよ。ほら、 ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 公式サイトの告知を見てもそうなってる。ああ、どうしよう。 ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 に投票する作品の絞り込みができてないよう」

「うむ、俺もそうだ。 ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 のためにここ一週間に50冊もライトノベルを読んだら、どれがどれかごっちゃになってしまって選べなくなってしまった」

「あの……」

「ちょっと待って、ぼくは今忙しいんだ。今日締切の ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 に投票する作品をどれにするか検討中なんだ」

「俺も同じく ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 投票作品選定中。話は後にしてくれ」

「えっと……」

「だ・か・ら! ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 の締切が迫ってるから、話はあとにして、ってば。ええと、これがいいかな。いや、それともこっち」

「むむむ。年に一度の ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 だから気合いを入れて投票しなければ、と思うと迷ってしまうでごんす」

「なんだよ、その『ごんす』ってのは。そんな事言ってる暇があったら早く ライトノベル・ファンバーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 に投票する作品を選びなよ。締切に間に合わなかったら泣いて後悔しても仕方がないんだから」

「あの……えっと……」

「『うるさい!』」(ユニゾン)

「あのぅ、熱心に本を選ぶのはいいんですけど……ほかのお客様のご迷惑になりますので、少し控えていただけないでしょうか。それに……このパソコンは本を検索するためのものなので……」

「あっ!」

「きゃっ、ごめんなさいごめんなさいもう小言なんか言いませんお客様は神様です三波春夫は元浪曲師ですもう何も言わないから許して〜〜」

「俺たちは大きな間違いをしていたようだ。 ライトノベル・ファンーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 じゃなくて ライトノベル・ファンーティー 〜あなたに届け、この一冊〜 」

「な、なんだってっ!」

2005年某月某日☆野書店近鉄バッセ店にて収録


というわけで、上のような事態の発生を防ぐためにも、略称=愛称が必要だ。「らのぱ」(なんとなくひらがなで書いてみたが、むろんカタカナの「ラノパ」でも問題はない)というのはどうか?

以下、補足説明。「ライトノベル」の略称は「ラノベ」でほぼ固まっているので、「ライトノベル・ファンパーティー 〜あなたに届け、この一冊〜」の略称にも「ラノ」が入ることになるだろう。あとは適当に続く言葉から選べばいいのだが「ラノファ」は少し勢いが弱いし、「ラノこの」では「このラノ」をひっくり返しただけになってしまう。よって「らのぱ」を提唱した次第。

なお、私は別に「らのぱ」に固執するわけではないので、別の略称=愛称が定着すればそちらに従う。これはただ今日一回分の駄文のネタに過ぎない。

1.11213(2004/11/16) 図書室のドラゴン

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このアンケートにはいろいろと考えさせられる事があるが、今紹介したほかにもコメントしている人は多いし、私は少し出遅れてしまったので、ちょっと的はずれなことを書いておこう。

このアンケートに関して私が疑問を抱いた点がふたつある。ひとつは、大学に入ったら読みたい本と読みたい本に違いがあるのかどうか、ということ。もう一つは、が読みたい本とあなたが読みたい本がたまたま重なったとして、「私+あなた=2人」というふうに集計することに意味があるのかどうか、ということ。

いったい私が何を訝っているのか理解できない人もいるだろうが、今のところうまく説明できる自信がない。そのうち何かの機会に論じることがあるかもしれないので、今はこれだけ。

1.11214(2004/11/16) 論語、論語、阿含

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前回の見出しを「図書室のドラゴン」にしたのは続篇を考えてのことだった。今回は「図書館の妖精」、そしてさらに「さよなら、アーカイブ」で完結する三部作を構想していた。だが、一晩経って考え直してみると、そこまで引っ張る話でもないだろうと思い、続きを書くのをやめた。

最近どうも調子が悪い。とはいえ本はそこそこ読んでいる。一昨日は『幸福論』(春日武彦/講談社現代新書)を読み、昨日は『われはロボット〔決定版〕』(アイザック・アシモフ(著)/小尾芙佐(訳)/ハヤカワ文庫)を読んだ。そして今日、『万物理論』(グレッグ・イーガン(著)/山岸真(訳)/創元SF文庫)を読み始めたが、当然のことながらまだ読みかけだ。

『われはロボット』(創元だと『わたしはロボット』)は古典中の古典で、本当なら中学生くらいで読んでおくべき本なのだが、当時の私の行動範囲にある書店には創元推理文庫(何度も言うが、その頃まだ創元SF文庫はなかった)もハヤカワ文庫もほとんどなかったため入手できなかった。その後、何度も入手する機会はあったが、何となくずるずると未読のまま過ごして今に至ったわけだ。

というわけで、今回が全くの初読だったわけだが、それにもかかわらずページを繰るごとに懐かしさがこみ上げてきた。ああ、アシモフだ。紛れもなくアシモフだ。

もちろん今読んでも十分面白いのだが、やはりこれは中学生か、遅くとも高校卒業までに読んでおくべき本だった、少なくとも私にとっては。

『万物理論』は今年翻訳が出たばかりなので私が子供の頃に読むのは不可能だったのだが、これもやはり中高生向きのような気がする。大人の鑑賞に堪えることができない、という意味ではない。若さと好奇心と体力がないとこんなに分厚い本は読めないということだ。私は途中でギブアップしそうだ。

としはとりたくないものだ。

今この文章を読んでいるあなたがもし高校生で、大学に入ったら読みたい本があるとするなら、悪いことは言わないから今のうちに読むことをお薦めする。本は逃げはしないけれど、あなたの読書意欲は逃げてしまうかもしれないから。

1.11215(2004/11/17) 頭の中で『マタイ受難曲』の冒頭合唱がエンドレスで鳴り響くのはどうにかならないものだろうか

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今日、昼休みに行きつけの書店に入ると、「例の本入ってるよ」と声をかけられた。何のことかと思えば、『印象派美術館』(小学館)だった。どうやらいつの間にかこんな本を予約してあったらしい。

定価9240円(本体8800円)のところ、2005年2月28日まで発刊記念特別定価8400円(同8000円)となっている。これで「きゃっ、840円も得しちゃったわ!」などと言うのはうつけ者だ。正しくは「840円ごときの割引でまんまと買わされてしまったわっ!」と言うべきなのだ。それにしても不思議なのは、この「発刊記念特別定価」とやらが、どうやらこの本自体の発刊を記念しているらしいことだ。いや、別に不思議でもないか。なぜ私がこれを不思議に感じたのか、そっちのほうが不思議かもしれない。

ところで、『印象派美術館』はこれまでに私が買った本の中でもっとも値段が高い。世の中には1万円を超える本もざらあって、怪しげな団体が会社の重役などに売りつけて回っている本などには平気で5万円くらいの値段をつけているが、幸い私は会社の重役ではないので、被害に遭ったことはない。

これまでに買った2番目に高い本は『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(森英俊(編著)/国書刊行会)で、今はどうか知らないが、私が買ったときの定価は7000円(税別)だった。定価を基準にすれば、『デカルト哲学の大系』(小林道夫/勁草書房)が8000円(同)だったので『印象派美術館』に並ぶ(ただしこの本が出た頃、消費税はまだ3パーセントだった)が、確か15パーセント引きの値段で買った覚えがある。ほかには講談社の『類語大辞典』(税別6500円)を買ったくらいで、私が5000円以上の本を買ったのはこれで全部のはずだ。最近、記憶力が減退しているので、もしかしたら記憶から抜け落ちている本があるかもしれないけれど。

高い、高い、と書いてはみたけれど、本というのは概して安いものだ。パソコンのゲームだと定価で8800円とか9800円という値段のものが多く、まあ滅多に定価で買うことはないのだが、余計なテレカとかガイドブックとかがセットで結局定価と同じくらいの値段で買ってしまうことがよくある。いや、あった。ここ数年、私はめっきりゲームから遠ざかっているので。

本が高いか安いかは、値段と内容との兼ね合いで決まるもので、場合によってはダイソーの105円本でも高いと思うことがあるだろう。では、この『印象派美術館』はどうか。まだ全然手をつけていないので何ともいえないのだが、それはそうとして全然別の話だが、「愛・地球博」があるなら、「滅・人類博」というのもあってもいいのではないだろうかと思う今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

1.11216(2004/11/18) 男と女の間にはひらがなの「と」がある

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はてなダイアリー - 収容所経由で男と女、仲直りのルールの違いという記事(正確にいえば、この記事のタイトルは「仲直りのルール」だが、ここでは情報もとの表記に従う)を読んだ。喧嘩をした後の仲直りの仕方が男と女では違うという話なのだが……。

ずっと昔、私がまだ中学生だった頃、何かの本で「冬の夕暮れに人気のない公園で一人たたずんでいるとき、枯葉が木から落ちていくのを見て、感動して涙を流すのは男だけである。女は自分がそのような状況に置かれていることに涙するが、決して感動の涙を流すことはない」というような記述を見かけた覚えがある。今となっては本のタイトルも筆者も思い出せないが、この話だけが記憶に残っている。

これは、同じ状況で同じ振る舞いをみせたとしても、それが同じ理由や動機に基づくものとは限らないということを示している。別のレベルからみれば、あるひとつの手がかりから複数の異なる解釈を導き出すことが可能だということの例とも捉えることもできる。きっと筆者の意図からは外れるだろうが、私はこのエピソードをミステリにおけるミスディレクションの雛形のように受け止めたのだ。

今から振り返ってみると、落ち葉を見たときの男女の心理がこれほど対照的だとは信じがたいし、仮にこれが正しいのだとしても、いったいどうやって正当化(ここでは「正当化」という語を「本来は正しくないものを正しく見せかける」という含み抜きで用いる)すればいいのか、全く見当もつかない。

閑話休題。

男と女、仲直りのルールの違いでは、女性は、話し合って、お互いの気持ちを吐き出して、お互いに共感しあえればケンカは解決すると考えるのです。とか、男性はケンカのとき、まずは勝った負けたの世界から抜け出そうと、お互いに距離をとろうとします。などと断定しているが、私にはなぜそう言えるのかがわからない。このような行動パターンの違いについて、統計調査データでもあるのだろうか? あるとすれば、それはどのような手法で集められたデータなのだろうか? 件の文章では主張の根拠については何も触れられてはいない。

喧嘩がが長引くと収拾がつかなくなってしまうから冷静になろうと考える人なら、喧嘩の直後にはしばらく相手と距離を置こうとするだろう。これはよく理解できる考え方だ。逆に、喧嘩のもとになった意見の食い違いをなくすために、より一層話し合うべきだと考える人もいておかしくはない。私の考え方はどちらかといえば後者のほうに近い。

問題は、前者の考え方を男性に、後者の考え方を女性に割り振る手続きが全く不明だということだ。


ここで行き詰まった。経験則の妥当性とか統計の信頼性とか、そういった話を書くつもりだったのだが、うまく整理ができない。気分転換のために風呂に入ってあたたまることにしよう。


さて、私が風呂に入っている間にこっそり書いておくが、私は別に件の文章(言い忘れたが、これは男心と女心 -異性の心理マーケティングというサイト内のページで、同サイトにはほかにも同じ切り口の文章がたくさん掲載されている)の筆者を非難しようとしているわけではない。また、当然のことながら情報もとのフウコ氏(あれ? 以前は「三猿フウコ」という名前だったはずなのに、いつの間にか「三猿」が消えている)がすげー納得した。ことにケチをつけるつもりもない。

私がことさらこの話題を取り上げたのは、今イーガンの『万物理論』を読んでいるからだ。今、ようやく第一部を読んだところで、まだまだ先は長い。この本のせいでほかの本が読めず、本が読めないということは本の感想も書けないということで、仕方がないからネットで見かけた文章へのコメントでお茶を濁そうと思ったのだ。もしかしたら、『万物理論』の内容にも多少の影響を受けているかもしれないが。


風呂から出てきた。あたたまると疲れが出て眠くなってきたので、続きを書く気が失せた。それはそうとして全然別の話だが、テレビのニュースで国道に言及するとき「国道262号」というふうに「線」をつけることが多いのはなぜだろうか?

1.11217(2004/11/20) ダメ人間の屈折と憂鬱、または私はなぜ京フェスに参加できないのかについて

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今日の話題は深く考えるとブレーキがかかって書けなくなるおそれがあるので、勢いにまかせて一気に書いてしまうことにする。文中、もしかするといくつかのウェブサイトに言及するかもしれないが、リンクを張っている間に続きを書く意欲が失せるかもしれないので、一切リンクしない。また、てにをはレベルで文章がおかしくなったり、段落と段落のつながりがおかしくなったりする箇所があるかもしれないが、とにかくそのまま書ききってしまうつもりだ。

さて、今日は京都で京フェスが開催される。「京フェス」というのは略称で、正式名称は別にあったはずだが、今はすぐに思い出せない。「京都SFフェスティバル」だったかもしれないが、違ったかもしれない。気になる人は公式サイトで確かめてほしい。

私がよく巡回しているサイトで、最近よく話題になったイベントがふたつある。ひとは先週開催された文学フリマで、もうひとつがこの京フェスだ。文学フリマの開催地は東京なので、関西在住の私にはちょっと行きにくい。無理をすれば不可能ではないが、時間的、予算的な事情を勘案すると、行く価値はないと判断した。誰からも訊かれたことはないが、もし「なぜ文学フリマに行かなかったの?」と訊かれたなら、「行けなかった」と答えたことだろう。

それに対して京フェスのほうは、行こうとすれば行けない距離ではない。今日も明日も私の仕事は休みだし、交通費もさほどかかるわけでもない。でも、私は京フェスには行けない。客観的にみれば行けないのではなく行かないだけなのだが、それでも私には行けないのだ。

その理由は私の主観にかかわることなので、なかなか他人には説明しにくい。先週、海燕氏のサイトのチャットに参加したときに、京フェスの話題が出た。その時には、「私はあまりSFを読んでいないから」というふうに言った気がする。過去ログが保存されているので、それを見れば私が本当は何と言ったのかがわかるのだが、アクセスするとそれだけでブレーキがかかってしまうかもしれないので、このまま突っ走ることにする。

昔から私にはSFファンに対する畏怖と羨望の混じった複雑な感情がある。これも私の主観によるものなのでうまくは説明できないのだが、SFファンの前に出るときには襟を正さなければならないような気がするのだ。精神科医や臨床心理士のカウンセリングを受けると心の奥底まで見透かされてしまいそうだと感じる気持ちに似ているかもしれない。なお、私はまだ精神科医のカウンセリングを受けたことがないので、実際に心を読まれるかどうかは知らない。前の前に勤めていた会社で新入社員全員が臨床心理士のカウンセリングを受けることになっていて、そっちのほうのカウンセリングは受けたが、あまりたいしたことはなかった。

で、話をもとに戻すが、そのチャットで私がSFを読んでいないといったら、誰かが「だったらこれからSFが読めるということだからうらやましい」というようなことを言った。これも正確な引用ではないので、厳密さを求める人は直に過去ログにあたってほしい。私はその発言に「ああ、うまいことを言うなぁ」と思った。けれど、それで私が京フェスに行けるようになったかというと、それはまた別で、むしろ、これまでにSFをあまり読んでこなかったということがこれから読めるSFがたくさんあるということだというふうな発想ができない私にとって、京フェスはますます縁遠いものだというふうに思えてきた。

文学フリマのあと、各サイトでレポートが掲載された。文学フリマに行ってきました。○○さんに会って××の話をしました。△△さんには残念ながら会えませんでした。□□さんも来ていたとはびっくり。もし知っていたら挨拶したかったのに。云々。それらを読んで私は非常に不快になった。別に文学フリマレポに他人を不快にさせる暴言や無神経な記述があったというわけではない。単にそれらの記事によって構成されたネットワークの中に私の占める場所がどこにもないという理由によるものだ。明日になれば、京フェスレポが多数アップされることだろう。たぶん京フェスレポを読んでも私は同様に不快感を味わうことになるだろう。いや、私は文学には思い入れもひけめもないが、SFには文学に対するよりずっと複雑な思いがあるので、ただ不快になるのではなく、自分のダメさ加減を思い知らされて落ち込んでしまうことになるかもしれない。そう、私は京フェスに参加できないダメ人間なのだ!

こんな自虐的な書き方はこれくらいにしておいて、次に『万物理論』について書こう。これはSFだ。それも旬のSFだ。京フェスにも確かイーガンのコーナーみたいのものがあって、みんな『万物理論』について語り合うことになっていたはずだ。これもうろ覚えだけど。私はこの本をたまたまチャットの翌日に近所の書店で見つけて買った。それ以前にも何度か手に取ったことはあったのだが買わずにいたのをチャット後に買ったというのは、もしかしたら何か関係があったのかもしれない。これまでSFを読んでこなかった、私は取り返しのつかない読書人生を歩んできた、もう私はとしをとり今さらSFなんか読めない。そんな後ろ向きでひがみに満ちたことばかり言っていても他人にとっては嫌らしいだけで、私にとっても何の益もない。だったら、うだうだ言っている間に少しでもSFを読んでみればいいのではないか。と、そういうふうに筋道立てて考えたわけではないが、もしかしたらそんな気持ちが心の奥底にあったのではないかという気がするのだ。いや、心に表層も深層もない。ただ明確な思いと漠然とした思いがあるだけだ。でも、「心の奥底」というのは便利な言い回しだから、あまり気にせずに使うことにしよう。

もし私が心の奥底でそう考えたのだとすれば、やはりチャットの影響が大きいことになる。さっき不正確な引用をした発言の主は、それまで私が全然知らない人で、今でも名前が出てこない。のど元まできているのだが、そこから上にあがってこないのだ。カタカナの名前だった。でも考えていても仕方がないので、先を続ける。

私はあまりネットでのコミュニケーションが得意ではない。ネット外でのコミュニケーションも得意ではないが、これは今の話題には関係ないので無視する。あとで関係が出てくるかもしれないけれど。で、メールのやりとりも苦手だし、掲示板に書き込んだり、レスをつけたりするのも得意ではない。だからチャットも決して達人とはいえないのだが、たまに孤独に堪えかねて、ふらりとチャットルームに立ち寄ることがある。最近だとたいてい日刊海燕のチャットルームだ。15人も20人も参加する大人数のチャットだと疲れるが、海燕氏のところのチャットルームにはせいぜい10人程度しか人が来ないので安心できる。とはいえ、顔の見えない世界なので、知らない人がいると緊張する。この前、14歳の現役中学生がチャットに参加していて、びっくりした。私が14歳の頃にはまだチャットなどやったことがなかったのに……。

それはともかく、チャット参加者に知らない人がいると、いちおうグーグルで調べてみることにしている。もしかしたらサイト持ちが自サイトで使っているのと同じハンドルで参加しているかもしれないからだ。そうでなくても、掲示板やチャットの過去ログが引っかかることがあって、それを見て相手の興味関心や話題の傾向などをある程度把握することができる。で、先週のチャットで会った例の名前を忘れた人の名前で検索してみたら、京フェス絡みの記事が出てきたのだ。

ここまで書いてみたが、次の話に繋がらないので、もう一度話を『万物理論』に戻す。私は最近分厚い本が読めなくなっている。分厚くなくても長篇小説は読みにくい。ライトノベルでも読みにくい。SFならなおさらだ。文庫本で600ページを超える小説など読めるわけがない。最初からそんなことはわかっていたのだが、今この小説を読まないと私は本当にどうしようもないダメ人間としてこのままおめおめと無様な人生を送ることになってしまうのではないかというわけのわからない妄想にとりつかれて、『万物理論』を読み始めたのだが、そうこうするうちにネット上で『万物理論』絡みのコメントを多数見かけるようになってきた。先月出た本だから今感想が出てくるのは当然のことだし、京フェス絡みで言及した人もいる。だが、そけらのコメントがすべて私に対する圧迫のように感じられた。中には私を名指しで感想文を求めるコメントもあって、さらに一層気が重くなった。そして、ある時突然こう思った。「時流に乗って本を読むというのは、よく自称『読書家』たちがバカにするベストセラー読者の消費行動と同じではないか」と。こういうふうに思ってしまったのは、きっとサワーグレープ的な心理によるものだろうが、そんな背景を自覚しつつも、『万物理論』がずんと重くなってしまったような印象はぬぐい去れない。やっぱり私はダメ人間だったのだ。『万物理論』はダメ人間である私が自己欺瞞によりその事実を隠蔽しようとしたのをとがめるために、全国の知的エリートたるSFファンたちが送り込んだ刺客だったのだ。確かにこれは面白い小説だ。だが、刺客を手許に置いて悠々と読書を楽しめるほどの大人物では、私はない。

というわけで、私はここに『万物理論』を読むことを断念することを宣言する。204ページ13行目。これが私の到達地点だ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

そろそろ京フェスが始まる。私は京都に背を向けて万博記念公園に向かう。今日と明日は「関西文化の日」でみんぱくの入場料が無料なのだ。特別展にもただで入ることができる。きっと人出は多いだろう。でも私は人混みそのものは苦手ではない。それがただの群衆である限りは。