日々の憂鬱〜2002年11月下旬〜


1.10442(2002/11/21) パラゾパラゾもスキゾうち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021121a

 非常に頭の悪そうな見出しをつけたが、本文とは全く何の関係もない。

 思い起こせば遙か昔のことのようで、それでいて実際には全然昔のことではない11/8ペインキラーRD11/7付の記事を読み、「今日からひたすら愛・蔵太さんの【本日の言葉】に取り上げてもらえそうな日記ないし雑文を意図的に書き続け、一番最初に採用された人の勝ち」という企画に参加するためRead Me!に参戦(日付が変わってから登録をしたので、参戦日は11/9)したものの、いつの間にか当初の目的を忘れて、毎日毎日更新情報の報告を続けていたのだが、今日めでたくヘイ・ブルドッグで取り上げられた(11/18の記事の、「さて、「濃い」というのはどういうことだろうか?」から「ううむ。わかったような、わからないような。」まで)。だが、またしてもらじ氏からの受け売り部分なので、果たして私は本当に勝ったのだろうかどうか大いに疑問なのだが、もともと私以外に参加者は誰もいなかった企画(だと思うが、もし他にいたらごめんなさい)なので、やっぱり勝ったのだろうそう考えよう。
 ともあれ、勝負は終わった。かくなる上はさっさとRead Me!から撤退することにする。あまり長く登録したままだと自分のペースが保てなくなりそうだから。
 ランキングを気にすると、安直なアクセス数稼ぎに走ってしまう。よい記事を書き、それが評判になって人気サイトになるのなら結構なことだが、見苦しい技を使って数字だけ増やしても後々苦しくなるだけだ。たかが個人の趣味で運営しているサイト、気楽に構えていないと息が詰まってしまう。
 とはいえ全くアクセス数を無視するというわけではない。来し方を振り返りつつ、精進して少しずつ固定読者を増やして、再びRead Me!に参戦する日に備えるつもりだ。今回の撤退は「転進」のつもりだ。I shall return.

 精進の第一歩……というわけではなく、何となくリンク2件。死に臨む人死を迎えた人。どちらも私は名前しか知らず著書を読んだことはないが、"同じWWWの一員"という幻想を通してみると他人事ではない。誰もがいずれは死ぬ、亡くなる、逝く、息絶える、みまかる、かくれる、昇天する、仏になる、ごねる。万に一つの例外もない。
 たぶん私は一生本を書くことはないだろう。ただ読むだけだ。では私はあと何冊本を読むことができるのだろうか? そんな埒もないことをふと考えてしまった。

 突然、意味もなく超短編を一つ書いておく。
   しあわせの薬
 ホシ博士が開発した薬は、服用する人すべてをしあわせにするものだった。人々はこぞってその薬を買い求めた。ホシ博士が社長を務めるホシ製薬の株価は急騰した。しあわせの薬を増産するために工場が新設された。
 数年後、地球上のすべての人々にしあわせの薬が行き渡った。みんなしあわせになった。めでたし、めでたし。

 私のサイトはそのような内容ではないのですが……。今後ここにリンクするときには勝手に改題して「ジャズ大名」にしてしまおうかと思った。

1.10443(2002/11/22) 備忘録

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021122a

 「人名」を「じんめい」と読むのと「にんみょう」と読むのでは、意味は全く違う。

 歯医者さんが歯の型取りをすることを「印象」と呼ぶ。

 思いつき:対位法とは、「あんたがたどこさ」と「ソーラン節」を同時演奏することである。

 コンゲームでトップ。最近の検索エンジンは概して新着ばかり重視しているように思う。

 税率6割。でも、外国では8割

1.10444(2002/11/22) 予想外

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021122b

 一昨日頭狂ダイヤル954私説京都SFフェスティバル2002に書かれていたエピソードを引用して、伏せ字の部分に入る人名を想像してみたのだが、その後、某所で某氏が正解を書いているのを見つけた。私の推測は半分間違いだった。
 ミステリ界における鮎川哲也の最大の業績はもちろん数多くの傑作を書いたことである。だが、昭和50年代以降に限るなら、作家活動よりもアンソロジー編集、埋もれた名作の発掘、新人作家の推薦などの活動のほうが主となっていた(実作以外のところでミステリの振興に力を注いだ作家は鮎川哲也だけではない。たとえば江戸川乱歩がそうだし、現役作家では島田荘司と笠井潔が双璧といえるだろう)。
 引用文中の人名は、鮎川哲也の二つの側面に相当する業績を残した人物の名だろう、というふうに最初考えた。実作のほうでは「小松左京」で決まりだとして、もう一つは誰の名前だろうか? 故人なら「福島正美」、存命の人なら「石川喬司」という名前が思い浮かんだのだが、どちらも四文字だ。そこで当初の推測を捨てて、「名前が三文字の人」を考えてみたところ、「星新一」となった。
 わざわざ伏せ字にしてあるといあうことは、生きている人の実名を挙げると不謹慎だという配慮からだろう。そうすると、既に鬼籍に入っている星新一は該当しないのではないかとも思ったのだが、一方だけ伏せ字にするとバランスが悪いからかもしれないと考え直したのだが……。
 正解は、ある意味では意外ではあり、別の意味では当然ともいえる人の名前だった。その人の名前は私のような門外漢でも当然知っているが、SF界での位置づけについては、鮎川哲也に喩えられたということから逆に想像してみることができる程度で、あまり実感はない。また、名前の字数は大きな盲点だった。こう書くと何のことかわからないかもしれない。勝手に想像している時なら実名を出しても構わないと思うが、既に正解を知ったあとでは伏せるほうが適切だろうから、あえてぼかしてみた。
 どうでもいいことだが、その人物の小説は鮎川哲也が編集したアンソロジーに収録されたことがある。

 ミステリ及びミステリ読者論について。
 JUNK-LANDの今日付の記事でBook & Still Lifeの「教養を必須とするミステリ」(11/20付〜)を紹介している。MAQ氏曰く「たぶんぼくとは正反対のスタンスで書かれた現代本格ミステリ論」で「スタンス/背景が違うだけで、びっくりするくらいまるッきり、ぼくとは“正反対の見え方”になってらっしゃる」そうだ。しかし私が思うに、MAQ氏とぶこう氏は「正反対のスタンス」から非常に似たもの(全く同じとは言えないが)をミステリの中に見ているのではないだろうか。「それ」はなかなかうまく表現できないのだが、乱暴にまとめてしまうと「ミステリに通じた作者と読者の間の"共犯関係"に基づく知的勝負」である。その理想を追求する作者及び作品をどう評価するか、というレベルで両氏のスタンスは正反対になるのかもしれないが。
 私はどちらかといえば教養主義的、歴史主義的なミステリの読みを好み、そのような読みを満足させてくれるミステリを評価したいと考えている。その点でMAQ氏に近いのではないかと思う。それに対して、そのような読みを推奨することは読者の切り捨てである、という批判も当然あることだろう。この対立を、さらに乱暴にまとめてしまうと「ミステリは一部好事家のためのものか? それともより大衆的な読み物であるべきか?」という論点に行き着くのではないかと思う。
 この話題には、読者の知識量や教養とは別にもう一つ重要な要素が関わってくる(先日来のJUNK-LANDの記事はむしろそちらに焦点を当てていたのではないかと思う)。それはミステリ読者の関心の持ち方、言い換えれば、どのようにミステリを楽しむのか、ということだ。漠然としていてわかりにくいかもしれない。というか、これだけではまずわからないと私は確信を持って言える。なぜなら、私自身よくわかっていないからだ。
 とりあえず最近読んで興味深かったじゃんぽけ(11/21付)にリンクしておく。そこで話題になっているのはミステリではないが、参考にはなる。
 なんだか消化不良の思いつきを並べただけで申し訳ないが、とりあえず今日のところはここまで。

1.10445(2002/11/24) バルタザルが黙殺

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021124a

 う〜ん、メルキオルカスパルもコメントしているのだから、私も何か言ったほうがいいんだろうな、ネット外交上は。でも、今はあまり熱心にネット外交をやりたい気分ではないので、やめておこう。
 「せっかくリンクを張ってくれたのだから、レスしないのは失礼だ」などと考え始めるときりがない。他サイトからのリンクは気にしないことにしなければ。いや、そんな事を言っている段階で、既に気にしているのだけれど。

 約2日かけて『これが現象学だ』(谷徹/講談社現代新書)を読んだ。現象学の入門書は何種類も出ているが、私はこれまで一冊も読んだことがない。この辺りでそろそろ現象学のことも少しは知っておきたいと思っていたところなので、ちょうどよかった。
 著者曰く(9ページ〜10ページ)、

 さて、それでは、現象学とは具体的にはどんな哲学なのか。(略)初学者のためにそれを解説する本が必要になるし、じっさい、それを試みた本がこれまでに何冊も刊行されてきた。(略)しかし、筆者は不満も感じる。内容的に優れているがやや古いため今読むと重要な新資料を欠いている本、わかりやすくそれなりに面白いが(正直に言ってかなりひどい)誤解や曲解にもとづいた本、あるいは(そこまでひどくなくても)一面的な本もある。
 では、それぞれの具体例を知りたくなってくるのだが、残念ながら署名は挙げていない。たとえば竹田青嗣の『現象学入門』(NHKブックス)や『はじめての現象学』(海鳥社)はどうなのだろうか? そんな事をふと考えてしまった。
 さて、私は現象学のこととほとんど知らず、せいぜい「外界の事物の存在へのコミットメントを停止して、知覚される限りでの対象のあり方について研究する学問なのだろう」というふうに考えていた。そうすると、「現象学的探偵法」などというものは成立しうるのかどうか(探偵の推理は当然外界の事物に関わるのだから)という疑問があり、もしかしたら『これが現象学だ』を読めば、その疑問が解決するのではないか、と期待していた。しかし、最後まで読んでもよくわからなかった。その点では期待外れだったのだが、まあそんな事を期待して読むほうが間違っているので、筆者に非があるわけではない。
 ところで、現象学用語の中で特になじみ深い「本質直観」については、次のように説明されている(142ページ)。
 さて、「白い」という意味は、サイコロがサイコロであるために必要不可欠というわけではないだろう。これに対して「立方体」のほうは、サイコロに必要不可欠だろう。このような、当のものにとって必要不可欠な意味は、「本質」と呼ばれる。私たちは、ものの意味(そして本質を)直観している。フッサールはこの直観を「本質直観」などとも呼ぶ。本質直観という言葉は、なにか深遠な(ごく一部の哲学者?にしか備わっていない)能力のように思われてしまうかもしれないが、そうではない。ものの本質はごくふつうに(視覚であれば)見られている。
 今まで何となく神秘的な雰囲気をもっているかのように思っていた言葉がこのように明快に説明されるのは気持ちがいい(雰囲気を壊されて不愉快だと思う人もいるかもしれないが)。笠井潔の矢吹駆シリーズを読むときの参考になりそうだ。
 細かい事をいえば、あるサイコロが立方体であるということは、それをサイコロだとみなすときにのみ本質となるのか、それともサイコロであるのかどうかという考慮なしに、そのもの自体として立方体であることが本質なのか、ということがわからないのだが、それはもっと詳しい現象学の本を読めばわかることなのだろう。

 堅い本を読んだあとなので、次は気晴らしに『西城秀樹のおかげです』(森奈津子/イーストプレス)を読むことにする。

 今日の音楽:「Terry Riley:In C」と「黛俊郎:涅槃交響曲」

1.10446(2002/11/24) 掘り出し物

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021124b

 今日は朝から一日中部屋の片づけをしていた。わんさかと積み上げられた本とCDとゲームの山の中から買った覚えのないものが次から次へと出てきた。また同じマンガが二冊と同じ文庫本が三冊出てきたのには我ながら呆れた。さらに、山奥のそのまた奥から一年数ヶ月ぶりに『月姫PLUS DISK』(TYPE-MOON)が出てきたのは屈辱の極みだった(1/12の記事1/27の記事を参照のこと)。
 一日の作業で疲労困憊した(しかしまだ半分も片づいていない!)ので、今日は簡単にすませることにする。

 一昨日少し書き始めた「教養主義的、歴史主義的なミステリの読み方」(「歴史主義」という言葉はあまり適切ではないと思うのだが、ほかにうまい言葉が見あたらない)の話の続きを書こうと思っているが、なかなかうまくまとまらない。まず、昔の探偵作家や評論家たちがが「探偵小説は高踏的な文学なのか、大衆娯楽小説なのか、それともどちらとも異なる第三の種類の文芸形態に属するのか」という問題設定に基づき行った議論を通覧し、次に「清張以前、清張以後」の読者層の変化について語り、さらに「草の根読者vs.地の塩読者」または「リーグの違い」について考察し、その上で「あるべきミステリ」及び「理想のミステリ読者」について意見を述べる、という段取りを考えているのだが、参照しなければならない資料が多すぎるし、私の手持ち資料は少なすぎる。いや、それ以前に今から手持ちの資料を読み返すだけでも面倒だ。誰か代わりにやってくれないものだろうか?
 そんなことを考えながらウェブ巡回をしていたところ、Takahashi's Web11/24付の日記「幻想よりも幻滅のほうが好きだ」と書かれているのを読んだ。もちろんミステリとは全然関係ない文脈の話なのだが、これを無理矢理引っ張ってきて、「ミステリの興趣は『慎重に言葉を紡いだ幻想が、安っぽい身も蓋もないリアリズムにずかずかと踏み散らかされていく様』にある。そのためには『壊すために築く』必要がある」などと主張してみたら面白いだろう、などと思いついた。

 突然だが、サイコロとは何か?
 サイコロとは乱数発生装置である。いや、「装置」というのは言い過ぎか。乱数を発生させるための道具、と言い直しておこう。
 サイコロはさまざまな用途に使われる。博打、占い、ボードゲーム等々。どの用途でも、サイコロは「1から6までの目が出る確率が均等であり、実際に振ってみるまではどの目が出るか全く予測できない」という期待をもって使われる。出目にばらつきがあったり、特定の目しか出なかったりするサイコロは欠陥品である(イカサマ用のサイコロは除く)。
 1から6までの目があるサイコロは当然6面体である。しかし、どんな6面体でもいいというわけではない。乱数を発生させる道具としてうまく機能するためには、各々の目が表示される面の状態が均一な正6面体でなければならない。正6面体であるということは立方体であるということと同じことだから(いや、本当にそうなのだろうか? ちょっと不安になってきた。だが、深入りはしないことにしよう)、サイコロは立方体でなければならない。
 ところで、ある人がホワイトチョコレートでサイコロを作ったとしよう。目の部分だけふつうのチョコレートと食紅を使って色をつけるが、地の部分は当然白だ。なんといってもホワイトチョコレートなのだから。
 ホワイトチョコで作ったサイコロも、サイコロである限りは乱数を発生させる道具として使うことができる。ただし、何度か頃がしているうちに角が欠けたり手の体温で溶けたりして使い物にならなくなる。だから、ホワイトチョコで作ったサイコロは、サイコロ本来の用途に即していえば、あまり実用的ではない。しかし、もちろん食用にはなる。私は使用後のサイコロを食べたいとは思わないが。
 さて、この「ホワイトチョコレートで作ったサイコロ」は「白い」という特徴と「立方体」という特徴を持っている。どちらも目で見てすぐにわかる特徴だ。では、どちらの特徴が、これ(=ホワイトチョコレートで作ったサイコロ)の本質なのだろうか?
 ……というような事を考えながら部屋の片づけをしていた。もう一つ思いついた例は「闘牛士がもつ布は『赤い』という特徴と『ひらひらと揺れる』という特徴をもっているが、どちらの特徴のほうが、この布の本質だろうか?」というもの。面倒なので説明は省略。

 メモ代わりにリンク:保健師・助産師・看護師・准看護師の誕生まで

 今日は本が読めなかった。

1.10447(2002/11/25) もうおなかいっぱい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021125a

 本がどんどん出版されて、買いたい本がいっぱいあるのにとても全部は買えないものだから、泣く泣く買う本を絞って、それでも読み切れないほどいっぱい本を買ってしまって、いや、「読み切れないほど」ではなく本当に一生かかっても絶対に読めない量の本を本棚に押し込んで、それでも一冊でも多く読もうと思って、読んで、読んで、読んで、読んで、でも読んだ本より新刊のほうがずっと多くて、今書店で平積みになっている本も来月の新刊が出る頃にはほとんど返品されて年度末には裁断されることがわかっているものだから、買って、買って、買って、買って、そのうちに本棚から本が溢れ、床の上に積み上げ、段ボール箱に押し込み、押入、天井裏、廊下の端、物置等々に本をぎゅうぎゅうに詰め込み、その一方で、読んで、読んで、読んで、読んで、買って、買って、買って、買って、溜まって、溜まって、溜まって、溜まって、積んで、積んで、積んで、積んで、泣く泣く売り飛ばし、無理矢理他人に押しつけ、とにかく自分の目につかないところに追いやり、本の山を見るだけで吐き気を催し、書店で本を手に取ることすら躊躇し……やがてあれほど好きだった本が、あれほど面白いと思っていた本が、輝きを失ってしまう。そんな経験はないだろうか?
 ない?
 それは結構なことだ。私はあなたをうらやましく思う。
 だが、そんな本好きなあなたの幸福な生活もいつまでも続いていくとは限らない。いつかは、あなたも叫びたくなる日がくる。「もう、うんざりだ!」と。

 Book & Still Lifeの11/23付の日記から。

 一昔前に本格を好んで読んでいた人達は、何ゆえ古典の教養が身に付いたかといったら、好みの本が圧倒的に少なかったからだと思うのです。そして、新刊と古典に挟まれた本格作品の数も、現在よりは断然少なかった。でも今は状況が違うわけです。過去に出版された作品を追いかけていたら、新刊がどんどん遠ざかってしまう。私もね、昭和期の作品までは遡って読んでいますよ。面白い作品もいっぱいあります。でも、黄金期の作品は遠すぎるのですよ。はるか彼方なのです。
 本音をいえば、「新刊と古典に挟まれた本格作品の数も、現在よりは断然少なかった」という箇所には異論があるのだが、ここでいつもの「本格」論議を蒸し返すつもりはない。それに私的「本格ミステリとは」では「本格」の濫用についてのコメントがあるので、ぶこう氏がこの語を無批判に受け入れているのではないことがわかる。ここでは、「『本格』というキャッチフレーズとともに世間に流通しているミステリ」というくらいの意味合いだと解釈しておく。
 さて、ミステリは本歌取りの文芸であり、過去のミステリの模倣、展開、応用、裏返し、上乗せ、はみ出し、そして明示的な言及も頻繁に行われる。他の文芸ジャンルでは成立から展開を経て現在に至る流れは一部の研究者だけが把握すればいいのだが、ミステリの場合、ふつうに新作を読む読者にもその種の知識が要求される場合がある。特に「黄金期」と呼ばれた1920年代から30年代にかけての英米ミステリは単なる歴史的背景というだけでなく、ミステリをミステリとして成立せしめ、把握せしめるための条件でもある。そこで、いやしくも「ミステリマニア」とか「ミステリ愛好家」と自称する者ならば、少なくとも黄金期の名作くらいは一通り読んでおく必要がある、ということになるだろう。
 では、その「一通り」とはどれくらいか? ヴァン・ダインの長編12作は当然全部読んでおかなければ話にならない。クイーンの国名シリーズとレーン四部作も同様。クリスティもカーもクロフツも名作がいっぱいある(昨今の状況からすれば、クロフツよりもバークリーの名を挙げるべきかもしれないが)。一時期は入手が困難だったセイヤーズも今ではほとんどの作品が簡単に入手できるのだから、手をつけないでいるのは怠慢というものだ。もちろんいわゆる「英国新本格派」も読むべきだ。ほかにも『完全殺人事件』とか『赤い館の秘密』とか『矢の家』とか『赤毛のレドメイン家』とか『陸橋殺人事件』とか一般に名作と呼ばれる作品は数多く、それらを読み逃しているようではミステリマニア失格だ、恥だと思え、ミステリについて語るな。教養のない奴はミステリ読むな。
 ……もう、うんざりだ! なんで、たかがミステリごときでそこまでしんどい思いをしなければならないのか。
 上の引用文の続き。
 昔の作品を読めと言っている作家は、新刊と黄金期とを交互に読むなんていう芸当を、皆が出来ると本気で思っているんですかね。たとえ出来たとして、昭和期の作品はどうするの? 新本格絶頂期ですら10年「も」前のことですよ? 鮎哲とか天藤真とか飛ばしちゃって良いの?
 そこで槍玉に挙がっている作家が誰なのかはわからないので勝手な想像になってしまうが、何となく「鮎哲も天藤真も読め」と平然と言いそうな気がする。ついでに「ああ、そうそう『スミルノ博士の日記』と『博士邸の怪事件』も読んでおくように」などと付け加えたりして。
 ともあれ、まともな生活を送っている人が今から古今東西の名作と新刊「本格」ミステリの両方を「一通り」読むというのはほぼ不可能ではないかと思う。私の知人の中には、ふつうの小説本なら一日に5冊は軽く読み、かつ、それを毎日続けることができるという化け物のような人がいる(ただしミステリばかり読んでいるわけではない)が、そんな人はとりあえず無視するとして、凡人である我々に可能な選択肢は次の二つに限られる。
  1. ミステリマニアである(ミステリマニアになる)ために、自分の能力の限界までとにかくひたすら読み続ける。
  2. ミステリマニアである/になるという目標を捨てる。
 私が選んだのは2のほうである。
 私はかつてミステリマニアである/になるつもりでいた。ぶこう氏の「昔の作品を読めと言っている作家」が私の中に住んでいて、毎日延々とミステリを読み続けた。およそ今から10年ほど前、前世紀のことである。だが、徐々に私は自分がそうであろうとする/そうなろうとする存在から遠く隔たっていることに気づいた。私の周囲のミステリマニアたち――自称「マニア」ではなく、正真正銘のマニア――に比べると私はまりにも「ヌルい」。どう足掻いても彼らの域に到達することはできない。そう考えると、内なる声に耳を傾ける気も失せた。そして現在に至る(その間の経過については「たそがれSpringPoint」がミステリ系更新されてますリンクに登録されたときに自己紹介のかわりに書いた文章を参照してほしい)。
 今でも、書店で本を見かけたときに「ああ、この本は読んでおかないといけないなぁ」と思ってしまうことがある。この世に必読書など何もないというのに。マニア後遺症だから仕方がない、と諦めてはいるのだが、それでもあの独特の焦燥感はたまらなく不快だ。
 世のマニアの人々は義務感に基づいて本を読むことを苦痛に感じないのだろうか? そうだとしたら、うらやましいことだ。この文章のはじめのほうで架空の「あなた」に向かって言ったのと同じ理由で。もしそうではないのだとしても、やはりうらやましい。私はその苦痛に耐えられずマニアである/になることを諦めたので。
 Book & Still Lifeを読み始めてまだ一週間くらいしか経っていないし、過去ログはまだほとんど手つかずなのだが、たぶんぶこう氏も私と同じように「ふつうにミステリが好きな読者」と「修羅の道を突き進むミステリマニア」のはざまにいる人なのだろう。ここ数日の文章がどういう方向へと進んでいくのか、しばらく注目してみたい。

 今日も本が読めなかった。

1.10448(2002/11/26) 本屋の本屋に本屋はいるか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021126a

 映画業界やテレビ業界では、台本のことを単に「本」と呼ぶそうだ。そこで台本を書く人(シナリオライター)のことは「本屋」と呼ぶことになる。
 他方、「本屋」には、主な建物という意味もある。駅でいえば、駅長室のある建物が本屋だ。大きな駅ビルにはデパートや専門店街があり、その中には書店がある。書店も本屋だから、駅ビル内の書店は「本屋の本屋」ということになる。さらに、そこに仕事帰りのシナリオライターが立ち寄ったりすると、もう大変。「本屋の本屋に本屋が寄った」ということになってしまうのだから。
 そんなどうでもいいことを考えて今日の見出しをつけたのだが、例によって本題とは全く関係がない。というか、今日は本題というものが全くない。というか、ネタがない。というか、やる気がない。
 やる気がないのにだらだらと駄文を連ねるのは失礼だ。そう考えるのがふつうなのだが、私は別の考えをもっている。だが、自説を展開するには、あまりにもやる気がなさ過ぎる。
 こんな日は、適当にリンクを並べてお茶を濁すことにしよう。えいやっ、と。

 情報もと(キャプションも)はすべてせかいのまんなかだ。このサイトはニュースを「そのニュースにリンクしたサイトの数」の順に並べていて、どのようなニュースがネット上で広く流通しているのかがわかるようになっている。それは便利なのだけど、ニュースの間にカトゆー家断絶とかsawadaspecialが混じっているのが変だ。自動巡回して拾ってきただけなのだろうが。
 こうやって私がべたべたとリンクを張っておいたら、もしかするとせかいのまんなかの次の更新の際に「Linked from」の項にたそがれSpringPointが入っているかもしれない。そう考えると合わせ鏡を見ているような妙な気分になってくる。
(「たそがれSpringPoint」はニュースサイトではないので、本来リスト入りするはずがないのだが、以前まいじゃー推進委員会!ライトノベルファン度調査に言及したところ、せかいのまんなかに捕捉されていて驚いたことがある。いったいどういう仕掛けになっているのだろうか?)
 ついでだからもう一つリンク。荒廃の歌・廃墟〜目覚めてそしてまた眠る〜(情報もと:あちこち)。またしてもらじ氏からの受け売りにリンクが張られている。こうやって私の実力と関係なくアクセス数が増えていく……。

 今日も本が読めなかった……と何日も続けて書くのもどうかと思ったので、半月以上前から途切れ途切れに読んでいた『サイコロジスト』(西尾維新/講談社ノベルス)の上巻をようやく読み終えた。続いて下巻に取りかかる。
 だが、その前に『ひみつの階段』(1)(2)(紺野キタ/ポプラ社)を読んでおこうと思う。「マリア様がみてるにはまった方も買いです」と言われてしまったら読むしかない。

 今日の文章は、読み返してみると微妙に不快なのだが、本が読みたいので書き直している時間がない。

1.10449(2002/11/27) ムーンライトであるにもかかわらず

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021127a

 "ムーンライトながら"に乗って冬コミへ行こうと思って旅行会社に頼んでおいたのに、座席指定券を押さえることができなかった。「かわりに『銀河』の寝台券を仮押さえしておきました」と言われたので、やむを得ず予定変更。流されるままに生きているのが嫌になってきたので、今日も簡易更新。

 昨日ためしにせかいのまんなかから拾ってきたニュースにリンクを張っておいたら、全部捕捉されていた。おまけに「カトゆー家断絶」と「sawadaspecial」へのリンクも。しばらくニュースサイトが取り上げそうなページへのリンクは控えることにしようと思う。

 突然停電になり、上の二段落以降に書いていた文章がすべて消えてしまった。今日は運が悪い。

1.10450(2002/11/28) 神の子羊

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021128a

 ぼちぼちと『ひみつの階段』(紺野キタ/ポプラ社)を読んでいて、今日ようやく1巻を読み終えた。不思議な雰囲気のマンガだ。絵柄や構図は少し古めかしい感じがするのだが、それは欠点ではなく、時代背景がよくわからない舞台設定にぴったりだと思った。『マリア様がみてる』に似ているようでもあり、全然違っているようでもある。どうにも感想が書きにくい。書きにくいものを無理に書く必要もないのでやめておく。そのかわりに、ちょっと気がついたことを書いておく。107ページに合唱の練習をする場面がある。歌詞から察するにミサ曲の「アニュス・デイ」のようだ。いちばん下のコマの楽譜の表紙(?)にはパレストリーナの名前が書かれている。「それがどうした?」と訊かれたら、別にそれ以上何も言うことはないのだけれど。

 下条アトム、妹尾河童、柳田理科雄の共通点は何か? ――こんなクイズを思いついた。
 もちろん「日本人」とか「男性」でも正解なのだが、私の意図した解答は「三人とも本名」というものである。調べてみると妹尾河童はもともと「肇(はじめ)」という名前だったが後に改名したらしいので、本名といえるかどうかは微妙だが、戸籍名であることは確かだ。
 では、ネット上で活動している人で「一見ハンドルのようだけど、実は本名」という人はいるだろうか? ちょっと思いつかない。本名のようなハンドルで活動している人はわりといるけれど。
 ちょっと気になったのだが、自分で調べるのは面倒だ。誰か調べてくれる人はいないだろうか。

 サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」その7『お前がゲストだ!』を読んだ。まるでポーの『お前が犯人だ!』のようだ。
 さて、ここでクイズ。「矢立肇」は本名か否か?

 今日50000ヒット達成。例によって何も企画はないが、メモ代わりに書いておく。

1.10451(2002/11/29) ネット外交

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021129a

 「今川氏真の名前は『今川氏真』である」というのはトートロジーか?

 全日本交通安全協会と毎日新聞社が共催する「平成15年度交通安全スローガン」が決定した。最優秀作は「パパやめて 脇見、携帯、飛ばし過ぎ」他だそうだ。それを新聞で知って、私もスローガンを考えてみた。
 「パパやめて 私はパパの娘なの」
 このスローガンで人々の自制心を喚起できるなら幸いである。

 見出しにも掲げた「ネット外交」について、数日前に私が書いた「バルタザルが黙殺」を中心にしてあれこれと書いてみた。だが、どうにもうまくまとまらない。おまけに非常に不細工で見苦しい。仕方がないので、この話題を扱うのは諦めた。またの機会にすることにしようと思う。

 ここ数日低調だ。きっと寒さのせいに違いない。

1.10452(2002/11/30) 西方の三賢者

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211c.html#p021130a

 昨日書きかけてやめた話の続きというか補足というか言い訳というか蛇足を書いておこうと思うのだが、一晩経った程度では状況に変化があるわけでもなく、なかなか書きにくい。
 ネット外交についてネット上で議論するということは、否応なしにネット外交の中に取り込まれるということで、中立的な立場で話がしにくい。私とは無関係な他人事として取り扱っても、リンクを張ってしまえば相手方から言及されることもあるし、リンクを張らずに言及すると閲覧者に意図を伝えにくい。さらに「リンクを張らずに言及する」という行為自体が、ネット外交の一つの形でもある(「バルタザルが黙殺」を書いた時には、そこまでの考えがなかった)。
 ちょっと話がそれるが、議論についての私の考えを簡単に述べておく。議論とは、話題そのものが内在的にもっている論理構造を解きほぐし、論点を明確にしたうえで整合的に展開していくことだと私は考える。一般には、異なる立場の人々が自説をぶつけ合い意見調整をしていくことだ、というふうに理解されていると思うが、そういう「人対人」という枠組みは議論にとって本質的なことではない(実際問題としては、一人で議論するというのは難しいことではあるが)し、最初から「自分の立場」を決めてかかると、しばしば思考停止に陥り、当然検討すべき課題が見えなくなってしまうことが多い。そこで、ひとまず「自分の立場」は括弧に入れておいて、話題そのものに向き合うのが議論の正しいあり方だと私は考える(もちろん、「為にする議論」「他人をねじ伏せる議論」の場合は別だ)。
 「ネット外交」という話題を扱う際には、ネット外交にまつわるさまざまな事象を収集し、それらを整理して問題点を取り出し、できるだけ多くの視点から(すなわち最初から「自分の立場」を決めてかかるのではなくて)検討を加え、整合的で説得力のある結論へと話を導くべきである。そうやって得られた結論が自分のもともとの立場と一致すればよし、一致しなければ仕方がないのでもとの立場を捨てることになるだろう。だが、それをネット上でやろうとすると、「ネット上で発言する自分の立場」というものが自ずと示されてしまうため、話が非常にややこしくなる。議論は概してややこしいものだが、「ネット上でネット外交について議論すること」は「ネット上で死刑存廃問題について議論すること」や「ネット上でたばこ税増税の可否について議論すること」とは別のややこしさが生じる。下手をすると「貼り紙禁止の貼り紙」のような羽目に陥ってしまうかもしれないのだ。
 とりあえず、「西方の三賢者」に関する事実関係(中にはあまり関係ない事柄も混じっている)をまとめておこう。

 上の話題とちょっとは関係があるのではないかと思うので去年書いた文章にリンクしておく。そこでは「他人から年賀状が届いても返事を書かない」と書いているが、今年は数年ぶりに返信した。つまり明確な主義主張があるわけではなく、気分次第である。
 私は「空気が読めない」人間である。「空気が読めない」というのは嫌な表現だが、言い得て妙だ。人はふつう意識して呼吸することはない。それと同様に対人関係においても、ふつうの人は特に意識しなくても適切な行動がとれる。だが私にはそれができない。だったら他人と接するのをやめてひきこもっていればいいのだろうが、そこまで私は達観していない。「ヤマアラシのジレンマ」だ。
 目に見えない、重く漂う「空気」を追い払い、明確なテーゼと厳密な論証により話を進める議論の場にいるときだけ、私は安心できる。議論が要求する思考レベルはしばしば私の能力を超えるが、そんな場合でも、訳もわからず私を圧迫する「空気」に包まれているよりはずっと心地よい。だが、ネット上の議論は(ネット上でなくてもそうだが)「人と人」のぶつかり合いになってしまうことが多い。そうなると、私は非常に苦手な分野に引き戻されてしまう。
 誰かが間違ったことを言ったときに、それを指摘するのは苦痛が伴う。それは単に「偽である命題の訂正」ではなくて、発言者の人格への攻撃と受け止められかねないからだ。人格とか立場の話ではなくて、純粋に言葉と論理のレベルの話なのだ、と弁明しても、その弁明の言葉自体が私の人格と分かちがたく結びついている。これもまたジレンマだ。

 この話題についてはもう少し考えてみたいが、これから外出する予定があるので、今日はここまで。
 運がよければ、今晩らじ氏に会えるかもしれない。