今朝、毎日新聞を読んでいると<小柴昌俊さん>この世に摩擦がなければ 「白紙答案」が正解という記事があった。昨日の夕刊の記事ではないかと思うのだが、私の住む田舎では夕刊の配達がないため、今日の新聞で知ったのだ。
今年のノーベル物理学賞受賞者である小柴氏が学生時代に中学生に物理学を教えていたときのエピソードだ。詳しいことはリンク先の記事を読んでもらいたいが、いつまで記事が残っているのがわからないので、要点だけ引用しておく。
「この世に摩擦がなければどうなるか答えよ」。これが小柴さんの問題だった。摩擦がないと鉛筆の先が滑って、紙に何も書けない。だから正解は「白紙答案」。正解者は3人だったと教え子たちは記憶している。大科学者の若き日の微笑ましいエピソードであり、読み流せばいいことなのだが、へそ曲がりな私はツッコミを入れてしまいたくなる。白紙答案はこの問題に対する正解ではないだろう、と。これは「日章旗、旭日旗、朝日新聞社旗に共通して用いられる色は、白ともう一つは何か?」という問題に対して赤鉛筆で色塗りするのを正解とすることに似ている。
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というわけで、読書の話だ。今日は『紳士遊戯』(赤城毅/カッパ・ノベルス)を読んだ。昭和6年の東京を舞台にしたコンゲーム小説である。設定は興味深いし、ストーリー展開も申し分ない。ノリがよく読みやすい本だったので、あっという間に読み終えることができた。
ただ、肝心のコンゲームがかなり物足りない。あっと驚く意外な着想や思わず膝を打ちたくなるような技巧がなかったからだ。
それと、せっかく村田蓮爾を絵師に起用しているのに、挿絵が一枚もなかったのも残念だ。
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ミステリ以外の本が続いたので、この辺りでガチガチのパズラーでも読んでみようかと思っているのだが、その前に『神狩り』(山田正紀/ハヤカワ文庫)に手をつけることにした。
ずっと昔、中学生の頃にハヤカワ文庫の解説目録で知ってからずっと気になっていたのだが、なかなか巡り会う機会がなかった。数年前にハルキ文庫版が出たので、その時に買っておけばよかったのだが、当時私はどうしようもないくらい読書意欲が減退していて、つい買いそびれてしまった。今年に入って、ハヤカワ文庫のフェアで『神狩り』が復刊されたので、これがもしかしたら最後のチャンスかもしれない(もちろん、私にとって、という意味だ)と思い、買っておいたのだ。
アイルランドの海岸でラッセルからの手紙を待つウィトゲンシュタイン(作中では「ヴィトゲンシュタイン」と表記されているが、私は「ウィトゲンシュタイン」のほうが好きなので、引用文以外はこちらに統一することにしている)から物語は始まる。だが、聞くところによると、ウィトゲンシュタインはプロローグに登場するだけで、本編とはほとんど関係がないらしい。もしそれが本当だとするとハッタリ臭くて面白い。『ミステリ・オペラ』は全編これハッタリという感じの小説でやや鼻白んだが、『神狩り』はあれほど長くはないし、ミステリでもないからきっと楽しく読めるだろう、と期待している。
ところで、ウィトゲンシュタインの著作のタイトルが「考」抜きの『論理哲学論』になっているあたりに時代を感じさせられる。
最後に『論考』繋がりでメイド哲学論考(東京大学メイド研究会より)を紹介しておく。特にコメントはつけない。
みすらぼ日記の今日付の記事「ネタの流れ」を読んで、自分も似た経験があることを思い出した。そこで過去ログを辿ってみると、1.10301(2002/07/04) "食物連鎖"の一例で取り上げていた。そこで私は、
ネタを最初に掘り出して紹介したサイトをどう扱うかという問題にはなかなか答えにくいが、"連鎖"中の各サイトでの取り上げられ方を知りたい人のためには、直前(つまり自分が直接参照したサイト)だけリンクしておけばいいのではないか。そこで芋蔓式に"連鎖"を辿るかどうかは閲覧者の自由であり、特に「最初の紹介サイト」を重視する必要はないと思う。と書いている。基本的には今でも考えは変わっていないのだが、年をとるにつれて段々横着になってくるもので、今や自分が直接参照したサイトすら言及したりしなかったりするくらいだ。
昨日から『神狩り』(山田正紀/ハヤカワ文庫)を読み始めたが、まだあまり進んでいない。非常に面白いのだが、休憩中に読んだ本がまた面白くて、そちらを先に読んでしまったからだ。
『神狩り』のほうは現在「第一部 古代文字」を読み終えたところだ。当然、まだ感想を述べる段階ではないのだが、一箇所気になるところがあったので、忘れないうちに書いておこう。それは謎の《古代文字》を調べていた情報工学の研究者(この小説の主人公)が、その文字に二つしか論理記号がないことに気づき、この文字の特殊性を説明する場面だ。「世界中のあらゆる個別言語が、五つの論理記号を持っている」と述べたあと、主人公は次のように語る(56ページ)。
その論理記号は、「そして」、「ならば」、「あるいは」、「でない」、「必然である」の五つであって、それぞれの名称と記号は、連言(∧)、含音(⊃)、選言(∨)、否定(〜)、必然性(□)と表されるのだが、そのうちのどれが欠けても、人間の脳は論理を操ることができないのだ。いくらなんでも「含音」はないだろう。1974年に「SFマガジン」(「S-Fマガジン」と書くべきだろうか? ちょっと迷うところだ)に発表されて、以来ハヤカワ文庫版だけでも10刷を重ねている本なのに、どうしてこんな単純な誤植が直っていないのか。作者の書き間違いか、それとも写植段階でのミスかはわからないが、「含音」などいう言葉はない(と書いたが、調べてみるとここで「含音系」という言葉が使われていた)のだから、誰も気づかなかったはずはないと思うのだが。これはもちろん「含意」である。
☆ 部屋の中をぐちゃぐちゃに引っかき回して、ようやく見つけ出した本は『論理学をつくる』(戸田山和久/名古屋大学出版会)だ。この本を書店や図書館で見かけたことがある人は、「部屋の中をぐちゃぐちゃに引っかき回」さないと発見できなかったということに呆れたことだろう。最初の数ページを読んだだけで本の山に埋もれさせていたので、シェーファーの記号のところまで読んでいないのだが、この本なら必ず説明している(言い換えれば、「この本で説明していないということはあり得ない」)筈だと思いつつ探してみると……あった。「第I部 論理学をはじめる」の「3.9.5 シェーファーの魔法の棒」で説明している。少し引用してみよう。
(略)つまり、いかなる真理関数も、「|」を結合子とするだけで表せてしまう。この魔法の棒のことを、発見者の名にちなんでシェーファーの棒(Sheffer stroke)と言う。「すべての真理関数を表現するためには、どれだけの結合子が必要なのか」という問いに対する最終的な答えは、「シェーファーの棒1つあればよい」だったのである! お願いだから驚いて。むろん、論理学的には上の引用文の前の「(略)」の部分のほうが重要なのだが、そこを引用しても予備知識なしでは意味がわからないし、予備知識のない人にもわかってもらえるようにしようとすれば、かなり長くなってしまう。どうしても知りたい人は『論理学をつくる』の最初から79ページまでを読むこと。
ここに、五つの論理記号を持つことでどうにか論理を操ることのできる存在と、二つの論理記号で用足りる存在がいるとする。両者を橋渡しする基論理(ベースロジック)がありうるか? 答えは否(ノン)だ――論理レベルがあまりにかけ離れすぎている。さあ、どういう結論に達したのか、言ってみるがいい。
こうして、ぼくはひとつの結論に達したのだった。
それがなんであるかは想像もつかないが、《古代文字》を使用していたのは、人間ではありえないという結論に、だ――。うひゃあ。
『神狩り』のわずか数行にツッコミを入れるだけで大いに時間を費やしてしまった。この後、今日読んだ別の本(ガチガチのパズラーだった)の感想を書こうと思っていたが、今日はもうやめておく。
今日は文化の日であって全く私事ではあるけれども毎年文化の日には昔の先輩や友人たちであるところの鉄オタもとい鉄ちゃんもとい鉄道マニアもとい鉄道愛好家集団の集会に殴り込みをかけて夜遅くまで普段ほとんど縁のない濃い鉄道談義に話を咲かせることになっているので今日の更新はお休みにするつもりであったのだが昨日私が書いたところの文章を読み返してみると何ヶ所か誤字脱字重複表現の類があってそれを修正してみたのだがそうすると各種アンテナら捕捉されてしまうのでじゃあついでに何か書いておこうと思った次第なのでありこの文章自体はあまり何の意味もないアリバイ敵なものなのだがそれだけでは申し訳ないので以下普通の文章も書いておく。
一昨日紹介した<小柴昌俊さん>この世に摩擦がなければ 「白紙答案」が正解についてのエロチック街道のコメント(11/2付)を読んで「しまった!」と思った。なぜ「しまった!」と思ったかといえば、
こいつは、ヘンだよね。教え子たちがのちのちまで覚えていたのは、その理不尽さに唖然としたからだろう。だいたい、鉛筆どころか、紙を作ることができるのだろうか。あの繊維が絡み合う、えーっとファンデルワールス力、いやファンデルワールスカ、じゃなくて、それじゃロシア人っぽいじゃん、ファンデルワールス力こそが、摩擦の原因だったんじゃないのか。というツッコミをやられてしまっていたからである。ここは当然そうツッコむべきところであって、私のツッコミ不足が悔やまれてならないのだ。
P | Q | P⊃Q |
---|---|---|
真 | 真 | 真 |
真 | 偽 | 偽 |
偽 | 真 | 真 |
偽 | 偽 | 真 |
さて、いよいよ出陣の時が来た。往くぞ!
見出しは仰々しいが、今日は論理学の話はしない。一昨日と昨日続けて暴走したが、さすがに三日続けるとまずいだろうと思うので。
昨日文学フリマというイベントがあったそうだ。あちこちのサイトで紹介されていたけれど、開催場所は東京だし、私は文学に全然興味がないため、ほとんど気にしていなかった。
天使の階段(11/3付)を読んで、佐藤友哉が文学フリマに参加していたことを知った。佐藤友哉の同人誌には西尾維新も小説を書いているらしい。ちょっと読んでみたい気もする。だが、もし事前に知っていたとしてもたぶんわざわざ東京まで出かけたりはしなかったろう。その程度の関心だ。
続けて見下げた日々の企て(11/3付)を読んだ。かなり激しく批判している。いくつかの批判点は、オンリージャンル小規模同人誌即売会の初期にはありがちな不手際で、回を重ねるに従って徐々に解消されていく(即売会運営のノウハウのある人を呼び込んで指導を受けるという手もある)ものだが、そもそも二回目があるのかどうかが怪しい。
ここを見ると、同好の士の交流の場を提供することよりも、「文学」の流通の可能性を探る一種の実験としての意味合いのほうが強いようだ。してみると、さきほどの「オンリージャンル小規模同人誌即売会」というカテゴリーには該当しないような気もする。う〜ん、どうなんだろう?
オンリージャンル即売会にはコミケのような総合ジャンル即売会とは違った魅力がある、らしい。私は鉄道系のイベントに数回行ったことがあるだけなので他のところは知らないが、「ジャンルを限定した小コミケ」ならわざわざ東京で開催する必要はないのだから、たぶん何かがあるのだろう。「文学フリマ」が、その"何か"を提供できたのかどうかは、参加者のレポート(上に掲げた2つのサイトのほかに"裏"日本工業新聞!!でもレポがアップされていた。探せばほかにもあるだろう)からはわからなかった。まあ、これは実際に参加してみないとわからないよな。
だんだん「文学フリマ」のことが気になってきた。2回目があれば参加してみようか。でも、東京は遠いしなぁ。
ところで、上でちょっと触れた同人誌についても見下げた日々の企て(11/3付)で紹介されているが、「68ページで1500円のコピー誌」には驚いた。コミケの「創作文芸」ジャンルで、私はこんな本にお目にかかったことはない。いや、別にそれが悪いとか高すぎるとか言っているわけではなくて(表紙はカラーのようだから、それなりにコピー代はかかっているのだろう)、単にびっくりしただけだ。
☆
さて、前置きはこれくらいにして、昨日読んだ本の感想を書く。『神狩り』を読むのを中断して、その間に読んだ小説だ。その小説とは『ピエロめざめよめざめよピエロ』(小田牧央/新風舎)である。
このインパクトの強いタイトルをもつ小説のことは3年くらい前に知って、機会があれば読んでみたいと思っていたのだが、これまで入手できなかった。今なら百円文庫で買える(ただし300円かかる)のだが、そのためにWebMoneyとかBitCashなどという面倒な代物に手を出す気にはなれない(私の家から最寄りのコンビニまで自動車で片道約20分かかるのだ)し、サンプル(PDF)は私の表示環境では非常に読みづらい。製品版にはテキストファイルもあるのだが、いずれにせよ発光する画面で長編小説一編を読むのは目が疲れる。そういうわけで、これまで私は『ピエロめざめよめざめよピエロ』を読んでいなかった。
先日、後輩(前にも書いたことがあるが、私が「たそがれSpringPoint」で「後輩」と呼ぶのは特定の人物である。その後輩は私の数倍本を読んでいて、『病院屋台』や『退屈姫君伝』など、ふだんの私の読書傾向から外れている本をよく薦めてくれる)に『ピエロめざめよめざめよピエロ』の話をした。すると、後輩は最近入手して読んだばかりだと言った。「よく考えられた本格ミステリ」というのが後輩の評価(後輩はもちろん私とは違って「本格」という言葉を使うことに抵抗がない)だった。そこで私は後輩に頼んでこの本を借りることにした。
なかなか話が進まない。ちょっとペースを上げなければ。
この本を読んでいるときに感じたことについていちいち書き始めるときりがないので、いくつかの点に焦点を絞ることにする。
まず第一にタイトルについて。非常に印象深いタイトルで、一度見聞きするとなかなか忘れない。単体でみれば非常にいいタイトルだ。
だが、タイトルが良すぎると名前負けしてしまうおそれがある。この小説では、作中でピエロが活躍するわけではないので、タイトルからイメージを膨らませてしまうと、やや拍子抜けするかもしれない。実際、ミステリとしてのプロットや仕掛けに鑑みれば、別にタイトルは『ピエロめざめよめざめよピエロ』である必要はない。『伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ』だと少し具合が悪いかもしれないが、『金魚の寝言寝言の金魚』なら全く問題ない。せっかく魅力的なタイトルを付けたのだから、ピエロに見せ場を作ってもよかったのではないか。「あとがき」によれば、当初「最初から最後までピエロが登場するホラー長編小説」のつもりだったそうだし。
次に、その「あとがき」について。作者は自作について次のように語っている。
一口に本格ミステリといっても様々ですが、魅力的な謎、論理的推理、意外な結末のどれかひとつを最低含んでいるのが基本のようです。『ピエロめざめよめざめよピエロ』はそういった意味では確かに本格ミステリでしょう。慎重な書き方である。この引用箇所全体の論理構造が条件法であるとするなら、前件(前の文)が偽である場合には後件(後の文)の真偽に関わりなく、全体は真となる(昨日の文章の真理値表を参照のこと。なんとか伏線が回収できてよかった)。作者は無条件で「『ピエロめざめよめざめよピエロ』は本格ミステリである」と断言しているわけではない。
しかし推理小説というものが何らかの真実を登場人物の活躍で探りあてる話というのならば……この小説は推理小説ではありません。読者の皆様、もしあなたが小説の部分を未読の方でしたら、どうか犯人は誰なのかは考えないで下さい。この小説で推理すべきは、第三部で果たして何が起こるのか? ということです。と述べている。「本格ミステリ」と「推理小説」の関係を小田氏がどのように捉えているのかはわからないが、少なくともこの小説に関して読者の推理が及びうる限界を明らかにしようとしていることは確かだ。非常にフェアな態度である。
「論理的なやり方だって間違いじゃないと思う」彼女は言う。語り残したことは多い。だが、全部を語ろうとすると時間がかかりすぎる。ひとまず、これでおしまいにする。
「でも、それだと選択肢が多すぎて時間がかかりすぎるのよ……どこかで『常識』を考慮にいれとかないと空論になっちゃう」
まるで憑き物が落ちたかのような気分だ。全然本を読む気がしない。『神狩り』(山田正紀/ハヤカワ文庫)は昨日読み終えたが、感想文を書く気にもならない。次の更新のとき(予定では11/9)に気が向いたら書くことにしよう。
瑞澤私設図書館ver3.5で鮎川哲也に捧げる8つの公開回答が公開されている。『絵のない絵本』は大傑作だと思うのだが、私以外に言及している人がいないのが残念だ。
同じ「瑞澤私設図書館ver3.5」の連作・見えない人の最終話「高き天より、みている」は「マリみて」ネタ。某有名短編ミステリ(というものの、この作品は今読めるのだろうか?)のトリックをうまくアレンジしている。
幸福きゃんきゃんと戯れていると時間が流れるように過ぎていくなぁ。
仕事の都合で東京へ行って来た。今日の深夜に帰宅する予定で、明日から「たそがれSpringPoint」の更新を再開するつもりだったのだが、予定より早く帰り着いたので何か書いておこうと思う。特に話題を考えておかなかったので、いつも以上に雑然とした内容になるが、ご容赦願いたい。
縁がなかったと思い諦めたつもりの『青空の卵』(坂木司/東京創元社)だが、どうしても諦めきれず、東京の大手書店で探してみた。日本最大の書店であるジュンク堂池袋店で見つからなかったので、私は一生『青空の卵』に巡り会えない星の下に生まれてきたのかもしれない、と一瞬くじけそうになったが、何か得体の知れない力に突き動かされるようにあちこちの書店を巡り、6店目の紀伊國屋新宿本店でようやく入手した。
まだ一行も読んでいないが、読み終えた暁には感想文をアップしたいと思う。この辺の文章から引用し、適当に語順を入れ替えて、さも自分で書いたかのように偽装する予定だが、気が向いたら本当に自分で感想文を書くかもしれない。
東京で会った知人から聞いた話。「創元筋からの情報によれば」笠井潔が『空の境界』(奈須きのこ/竹箒)を読んでいるそうだ。笠井潔と奈須きのこという取り合わせは、まるでキース・ジャレットとミカラ・ペトリのようだ、と訳の分からない比喩を思いついたが、それはともかく、かの『ヴァンパイヤ−戦争』の作者が『空の境界』をどう評価するのか、興味がそそられる。
でも、本当にこの情報は確かなのだろうか? 詳細をご存じの方はぜひご一報を!
笠井潔つながりで(あまりつながっていないような気もするが……)『バイバイ、メモリー』(新青春チャンネル78〜から)にリンク。二次創作小説なのだが、「あとがき」を読むまで元ネタがわからない人も多いだろう(私は「北川」という名前でわかったが)。これ単独で結構を備えた小説というわけでなく、一場面のスケッチという感じの文章なので、内容について特に感想はないが、「あとがき」で挙がっている次回作のタイトルはちょっと気になる。
"裏"日本工業新聞!!(11/5,11/7付)VS.裏モノ日記(11/6,11/7付)を読んで、
読書のしすぎで頭がおかしくなった 人間は、歴史を見てもドン・キホーテ以降枚挙にイトマがない。という一文(「裏モノ日記」11/6付)で思わず笑ってしまった。そういえば、確かにそんな話だった。
ペインキラーRD(11/7付)で「今日からひたすら愛・蔵太さんの【本日の言葉】に取り上げてもらえそうな日記ないし雑文を意図的に書き続け、一番最初に採用された人の勝ち」という遊びに参加してみたいと思ったが、私のサイトはRead Me!に参戦していないので参加できないということに気づいた。
一日あたりのアクセス数が100を突破したら参戦しようと思っていたのだが、目標に達した頃には面倒になってしまい、未だに登録していない。この機会に登録してみようかな。
議論の世界を漂うで死刑の是非についての議論が展開されている。漂泊旦那氏の
私の死刑賛成論における最大の理由は、遺族感情に尽きます。はっきり言ってしまえば、自分の愛するものを奪った相手が生きているのが許せない。そういうことです。ですから、被害者遺族が望むのなら、被告を死刑にしなくてもいい、という選択肢は有りにしてもいいと思います。という意見(投稿日:11月 6日(水)19時08分42秒)について、いろいろ考えたのだが、ここで書いても仕方がないので、私の意見がまとまったら直に掲示板に書き込むことにする……と宣言してみたが、他人の掲示板に書き込むのは苦手だし、自分の掲示板に書き込むことすら億劫で、要するに他人と意見のやりとりをする能力に欠けた"精神的ひきこもり"だから、結局何も書かずじまいになるかもしれない。ああ、早く『青空の卵』が読みたい。
頭の調子が悪い。非常に具合が悪い。何を書いても面白くない。無理矢理文章をひねり出してさっきアップしたが、読み返してみるとあまりにもつまらなかったので全文削除してしまったくらいだ。
そのかわりに書いているこの文章も決して面白いとはいえない。というか、さっきの文章に輪をかけてつまらない。つまらないつまらないつまらないつまらないつまらない。もうサイトを閉鎖してしまいたい。
だが、昨日ReadMe!に参戦したばかりなのに、今サイトを閉鎖するのはいかがなものか。それでは負け犬だ、ワン。
ちなみにReadMe!の日刊ランキング(集計期間: 11/8 9:55:00pm〜 11/9 9:55:00pm)では795位だった(196ヒット)。200ヒットを切っているのに700番台だというのは意外だった。てっきり1000番以下だと思っていたのだが。
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気を取り直して、『神狩り』(山田正紀/ハヤカワ文庫)の感想を書いておく。素朴な印象をまず述べておくが、、これは非常に面白い小説だった。SFとしてどう評価すればいいのかはわからないが、私は通俗活劇小説として楽しく読んだ。「通俗活劇小説」というのは別に見下した言い方ではない。『多情剣客無情剣』も『空の境界』も通俗活劇小説だ。
活劇小説の面白さは、その場凌ぎのハッタリにある。これも悪口ではない。小説全体の秩序と均整美を重んじるミステリなどとは違って、活劇小説ではその場その場で読者を楽しませなければならない。ダレ場を作ってはならないのだ。ページを繰る手が震えるくらいの興奮を読者に与えるためにはハッタリは有効な手段である。大風呂敷を広げすぎて物語の収拾がつかなくなっても、それは欠点ではない。国枝史郎や半村良には未完成の傑作がいくらでもある。
『神狩り』はいちおう完結しているといえなくもないが、「これからがいいところなのに……」という絶妙なシーンで終わっているので、未完の作品だと考えていいだろう。実際『神狩り2』の構想があるらしい、という噂をよく聞く。たぶん『神狩り2』は永久に書かれることはないだろうし、もし書かれたとしても全く別の話になってしまうのではないかと思うが。(翌日の記事を参照のこと)
私がいちばん面白いと思ったのは、CIAが暗躍する国際謀略小説がいきなりNASAが絡む宇宙ロマンへと変貌するところで、ちょっと大げさかもしれないが「十二使徒だと思ったら十二神将だった」という驚き(ネタをばらすことになるので作者名も作品名も伏せておく)を味わった。
ミステリ以外の小説にミステリ的な要素が含まれていると必要以上に高く持ち上げてしまうという癖が私にはある。逆にジャンル小説としてのミステリには辛い点数をつけることが多い。同じ作者の『ミステリ・オペラ』(早川書房)では実のないハッタリと細部のミスが気になってあまり高く評価できないのだが、『神狩り』のほうはそのような屈託なしに読めた(と言いながらツッコミを入れているくらいで、実はあまり違った読み方をしているわけではない)。SFファンならどう評価するのだろうか?
削除した文章で『ランス5D』(アリスソフト)の感想を書いてあったのだが、書き忘れていたことがあるので追加(?)しておく。それは、今年になってから私がプレイしたゲームの中で、ちゃんとクリアしたのがこれと『月姫』(TYPE-MOON)だけだということだ。
日々、仕事と読書とサイトの更新(必ずしもこの順番ではないが)に追われ、放置プレイ状態のゲームは増えるばかり。そろそろ『Air』(Key)をやりたいのだが、時間がないし、テンションも上がらない。としはとりたくないものだ。
頭の調子が悪いと、活字ばかりの本は読むのが辛い。いや、活版印刷の本なんか今はほとんどないはずだが、そんな事を言ったら『活字倶楽部』はどうなってしまうのか。
と、そんな事を書きたかったわけでは全然ない。今日マンガを二冊読んだという話だ。読んだのは『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』(華倫変/太田出版)と『魔法遣いに大切なこと』(1)(山田典枝(原作)/よしづきくみち(作画)/角川書店)だ。なんだか非常にちぐはぐな取り合わせだ。どちらも面白かった。ただ、面白さの質はもちろん全然違う。『高速回線』は激しく脳髄を酷使するような面白さで、『魔法遣い』は逆に脳味噌の凝りをほぐすような面白さだった。意味不明だ。どうしよう?
『高速回線』は短編集で、どれもこれも「切ない話」である。華倫変はわりと好きなマンガ家で、特に『カリクラ』(最初、講談社から二冊本で出て、その後未収録作品を追加して太田出版から再刊された。私は講談社版は持っているが、太田出版版で買い直してはいない)に収録されている『張り込み』という短編(検索して調べると、これは映画化されているようだ。ここを参照)が好みなのだが、『高速回線』にはミステリっぽい作品は収録されていない。『高速回線』で特に面白かったのは『あぜ道/下校中/木々』の三部作。
続いて読んだ『魔法遣い』のほうは、来年1月から始まるテレビアニメのマンガ版である。原作者もマンガ家も知らない人だが、知人に薦められて買った。魔法遣いの見習いを主人公にしたハートウォーミング系のお話で、突っ込んで読むといろいろと疑問が出てくるのだが、浅くストーリーをなぞる分には楽しめる。
対照的なマンガ二冊を取り上げたのは、「"読み"のレベル」ということについて考えてみたかったからだ。でも、今日はしんどいからやめておく。