日々の憂鬱〜2002年11月中旬〜


1.10431(2002/11/11) もうね、アホかと。馬鹿かと。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021111a

 昨日私はこんなことを書いた。

 『神狩り』はいちおう完結しているといえなくもないが、「これからがいいところなのに……」という絶妙なシーンで終わっているので、未完の作品だと考えていいだろう。実際『神狩り2』の構想があるらしい、という噂をよく聞く。たぶん『神狩り2』は永久に書かれることはないだろうし、もし書かれたとしても全く別の話になってしまうのではないかと思うが。
 すると、MAQ氏からメールが届いた。
さて、11/10分の日記の記述について、ご参考までに。“承知の
上で”書いてらっしゃるような気もするのですが、とりあえずお知
らせします。

山田正紀さんの『神狩り』の続編は、今春「SF Japan Vol.4」に
『神狩り2 リッパー』のタイトルで、冒頭の一部が掲載されまし
た。
 うわっ、大チョンボだ!
 無論、私は“承知の上で”書いたわけではない。全く知らなかった。
 物事をよく調べずに生半可な知識と思いこみで文章を垂れ流す愚をこれまでにさんざんあげつらってきただけに、このダメージは大きい。
 ああ、鬱だ。

1.10432(2002/11/11) 気を取り直して

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021111b

 もしかしたらblog史に残るかもしれない妄言への自戒の念をこめて、今日から一週間トップに

ただ今、妄言(これ)反省中。
と掲示することにした。
 今後、私が偉そうなことを言ったら、耳元で「『神狩り2』」と呟いてほしい。

 気を取り直して、今日の読書状況について記しておく。
 以前から読もうと思っていた『青空の卵』(坂木司/東京創元社)を今日ようやく読み始めた。第一話『夏の終わりの三重奏』を読んで、第二話『秋の足音』にとりかかったところだ。
 この本を読もうと思ったきっかけは前に書いたとおりだが、松本楽志氏の感想にならって、とにかく全部読んでから感想を書こうと思う。もし無事読み終えることができたなら。

1.10433(2002/11/12) 心の風邪

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021112a

 鬱病のことを「心の風邪」という。では、風邪のことを「体の鬱病」と呼んでもよさそうなものだが、私はそのような用例を知らない。
 あるものを別のものにたとえることで、両者の断絶がより際だつこともある。

 今日は議論の世界を漂うに非常識なほどの長文を書き込んだ。時間と体力を大幅に消耗したので、今日は手抜きモードだ。
 柄にもなく時事ネタ。米国が12/8にイラク攻撃を始めるらしいが、その日はジョン・レノンの命日だ。いや、太平洋戦争開戦記念日だ。アメリカは真珠湾の仇を中東でとるつもりなのだろうか、と埒もないことを考えてしまった。もちろん、そんなわけはない。日本では12/8が開戦記念日だが、アメリカでは12/7なのだから。
 開戦記念日と対になるのは終戦記念日だ。韓国では光復節だ。「光復」は「降伏」にかけているのだ、という話を聞いたことがあるが、本当なのだろうか? 別に韓国が降伏したわけでもあるまいに。

 蒸しパンの味について。いや、味ともいえないあの何とも言えない感覚(ひどく不細工な言い方だ!)について。こめかみから背筋にかけて、ぞわぞわっとするようなもたっとするような不思議な感覚が走る。その感覚は「何とも言えない感覚」なので、何とも言えないのだが、だからといってそれを表現できないと料理の感想文が書けない。
 今私が直面している問題はまさにそれだ。果たして私は『青空の卵』(坂木司/東京創元社)の感想文を書くことができるだろうか? もし書けたとしても――同意は得られないにせよ――理解してもらえるだろうか? それが心配だ。
 今日第三話まで読んだ。残り二話。

 JUNK-LANDの今日付の記事(【今日の漫文:サプライズ-2】)は示唆的である。無論、MAQ氏は私のように「混乱しきった『本格ミステリ』という言葉など捨ててしまえ」と乱暴な事は言わないが、最近乱発傾向にある「本格」への疑問の投げかけ方は似ているように思う。
 もしMAQ氏のような考え方の人がミステリ界の主流を占めていれば、私も「本格ミステリ」という言葉を使うことをやめなかっただろう。
 「本格ハードボイルド」や「本格官能小説」に腹を立てていた頃が懐かしい。

 そろそろ冬コミの当落発表だ。

1.10434(2002/11/13) 読み終えて

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021113a

 今日、『青空の卵』(坂木司/東京創元社)を読み終えた。その感想を書く……つもりだったが、考えがまとまらない。一時の感情にまかせて書き散らかすのはちょっと具合が悪いので、少し時間をおくことにしたい。  思いついたことを忘れないうちにメモ。感想文で回収するかどうかは未定だ。

 「神狩り」で検索して「たそがれSpringPoint」に来た人がいる。なんだか鬱だ。
 「空の境界」と「小説」で来た人もいる。なんとなく気分がいい。ちょっと思いついて「空の境界」だけで調べてみたら約1634件中16位(ここ)と19位(トップページ)だった。

 テキストサイト依存度チェック九十九式/情報もと:ななめよみ。)をやってみた。結果は……

名無しさんのテキストサイト依存度は100ニッキ中で68ニッキ でした。

あなたには中程度のネット依存症の傾向が見られます。今はテキストサイトが面白くて仕方ないといった状態か、もしくは随分のめりこんだけど最近では少し飽きたのか、大分落ち着いて来たといった状態の方です。今は2〜3日ネットが無くても生きて行かれますが、外出時にサイトの事が気になるようになると、悪い兆候です。
 そういえば、先週東京へ行ったとき、会う人ごとに(といっても二人だけだが)「最近ネットで面白いネタないですか?」と訊いてしまった。反省しなければ。
 この調査は、設問・選択肢ともよく考えられているように思う。「こんな質問、関係あるの?」という設問はなかったし、「選択肢のどれにも該当しないなぁ」と思うこともなかった。項目7の8つの選択肢のうちの下2つなど、粗忽な人なら設定し忘れることもあるだろう。配点がどうなっているのかは知らないが、いい加減なことはしていないだろうと思う。

 今日も手抜きモードだった。

1.10435(2002/11/14) 『青空の卵』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021114a

 松本楽志氏にプレッシャーをかけられたので、『青空の卵』(坂木司/東京創元社)の感想を書くことにする。といっても、全然まとまっていないのだが……。
 まず、簡単な紹介をしておこう。この本には、外資系の保険会社に勤務する語り手の"僕"こと坂木司と、その友人でひきこもりの青年鳥井真一の二人を巡る連作小説が含まれている。順に『夏の終わりの三重奏』『秋の足音』『冬の贈りもの』『春の子供』『初夏のひよこ』の5編である。最後の『初夏のひよこ』はごく短く、全体の締めくくり(そして次作への"つなぎ")とみるべきだろうが、他の4編はそれぞれ単独でいちおうミステリの体裁をとっている。
 この「いちおうミステリ」というのがなかなか悩ましい。オビには「名探偵はひきこもり」と書かれているし、「創元クライム・クラブ」シリーズから出ているのだから、『青空の卵』をミステリとして読んで悪いことはないはずだが、各編とも明確なテーマやメッセージを持っていて、ミステリとしての技巧や仕掛けよりもそちらのほうが前面に出ているので、単にミステリとしての側面だけを捉えてあれこれ言うのはかなり的はずれなことのように思われるのだ。
 しかし、迷ってばかりいては話が先に進まない。ここではとりあえずテーマはあまり重視せず、ミステリとしての構成に着目してみることにする。

 第一話『夏の終わりの三重奏』は、"僕"が道を歩きながらとりとめもない雑念を抱く場面から始まる(その前に何だかよくわからない散文詩のような文章が1ページあるのだが、それは見なかったことにする)。"僕"は夜中に人気のない道を歩くことについて、次のように言う。

最近はこの近所でも女性を中心に狙う通り魔や、不特定多数の人間に殴りかかろうとする暴漢が出没しているとの噂も聞くし、なにかと用心するにこしたことはないだろう。
 さりげない一節、しかし油断はならない。この作者の本を読むのは初めてでどのような技の使い手なのか全然知らないのだから、気を引き締めて読まなければならない。ミステリでは、日常生活の点景描写のふりをして新聞記事の見出しやテレビのニュース番組、街の人々の噂話に言及するときには、本筋の謎や事件の解決のための伏線になっていることが多い。私は「女性を中心に狙う通り魔」と「不特定多数の人間に殴りかかろうとする暴漢」を脳味噌にインプットして……あれ? 不特定多数の人間に殴りかかろうとする暴漢?
 不特定多数の人々に殴りかかるためには、その場に不特定多数の人がいなくてはならない。でも、ここは「人気のない通り」ではなかったのだろうか? 何かひっかかる。ふつうなら「誰彼かまわずに」とか「無差別に」と書くところだろう。わざわざ「不特定多数の人間に」と書いていることにどんな理由があるのだろうか?
 そんな事を考えながら、先を読み進める。既にこの小説を読んでいる人なら、私のような読み方をすればどういう感想を抱くことになるか、大方想像がついているだろう。一言でいえば、「拍子抜け」である。
 冒頭でひっかかった箇所のことはさておき、この小説には読者を誤った解決へと誘う仕掛けがほとんどない。従って、「名探偵」鳥井真一が明かす真相は意外でもなんでもない。この少ない登場人物で、他の可能性を考えることはほとんど不可能だろう。いや、いちおう「滝本が実は偽警官で、彼が語る事件の情報自体に大きな虚偽が含まれている」という可能性は考えてみたけれど。
 読者にとって意外性がないのは仕方ないとして、作中の"僕"が「浮気性のストーカー」などという仮説(?)を鵜呑みにして、鳥井に指摘されるまで気がつかないというのは、ちょっとぼんやりしすぎではないか。また、そんな仮説を持ち出す警察はいったい何を考えているのだろうか? どうも謎の設定の段階で躓いているように思われる。
 ほかにも疑問点がある。一つは「俺の乏しい買い物経験からすると」云々という発言(41ページ)。鳥井の行動範囲内にデパートはあるのか? この推理を「ひきこもりの名探偵」にさせるのは少々無理があるように思う。
 もう一つの疑問点は「坂木と会ったのはアリバイ作りのためだろう」という説明(49ページ)。ここでいうアリバイは文字通りの現場不在証明というより心理的なそれのようだが、警察が犯人に容疑をかけたときに"僕"の証言で容疑が少しでも緩和されるものだろうか? そんな小細工をするより、事を終えたら他人に見られないようにさっさと現場を去るほうがずっと無難ではないだろうか。
 最後に一つ、ミステリとしての評価とはちょっと違うレベルの話。ある登場人物が「性犯罪でまだ体験していないのはレイプくらいのものかしら」と言っている(50ページ)が、レイプも体験しているということにしたほうが、この小説のテーマに合うように思う。軽々しく扱うわけにはいかないが、「体験していない」ということにして素通りしてしまったので、テーマの重みが薄れてこの人物の行動の奇矯さが目立ってしまう。デビューしたばかりの作家に『盤上の敵』を書けと要求するのは酷かもしれないけれど。

 第一話の感想だけで予定以上に書いてしまい、しかもあら探しに終始してしまった。今日はこれでおしまいにする。残りの各編については、今日と違った視点から感想を書ける見込みがあれば扱ってみたい。さもなければ――同じ論調の文章を繰り返しても退屈なだけなので――もうこれ以上は書かないことにする。

1.10436(2002/11/15) 蒸しパンの味

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021115a

 蒸しパンを食べるたときに感じるあの感覚は説明するのが難しい。ほかには栗や薩摩芋、南瓜などでも感じるのだが、全然感じない人もいるらしい。舌で感じる味ではなく、こめかみを中心に頭部から背筋にかけて感じる皮膚感覚なのだが。私は蒸しパンの味は嫌いではないのだが、"その感覚"(註1)が苦手なため、あまり食べない。
 ある種の小説を読んだときに、この感覚に近いものを感じる。ただし感じる場所はこめかみではなく、もっぱら背筋だ。もぞもぞとむず痒いような、たまらなくて逃げ出してしまいたくなるような、そんな感じだ。これも全然感じない人には全く話が通じない。
 具体的に言えば、北村薫、加納朋子(初期)、光原百合の各氏の小説に、私は"その感覚"を感じる。そして『青空の卵』(坂木司/東京創元社)でも同じ感覚にとらわれた。事前に読んでいたいくつかの書評や感想文から薄々想像はついていたのだが、"その感覚"は予想以上に強く感じられた
 "その感覚"などというのではなくて、何か適切な言葉はないだろうか? 「鳥肌が立つ」? 「粟立つ」? いや、どちらも違うな。いっそ一言で「恐怖」と言ってしまうか? いやいや、恐怖は感覚であはなく感情だ。確かに"その感覚"が強まれば、その結果として恐怖が生じることはあるのだが、いちおう分けておいたほうがいい。
 そうすると――言葉がない。
 昨日、私はあえてミステリとしての側面に焦点を当てた感想文を書いた。今読み返してみると、あまり満足のいくものではない。そこで書いたことは間違ってはいないとは思うが、枝葉末節に拘っている気がしてならない。もっと別の、重要なことがあるのだ。しかし、それについて語るには"その感覚"を持ち出すしかなく、"その感覚"を示す言葉がない以上、同定も意志疎通も不可能で、全く話にならない。
 だが、語ることができなくても、示すという方法がある。たとえば、昨日「見なかったこと」にした箇所を引用してみよう。

馬鹿みたいな憧れ。
夢よりも手に入れにくい何か。

ごく平凡な育ち方をした、ごく普通の僕の前に舞い降りた、ただ一つの物語。
今はまだ序章に過ぎないけど、
この物語の登場人物になれたことを僕は心から誇りに思っている。
これから見る景色はきっと、どんどん変わってゆくだろう。
僕はそんな未来を信じている。やみくもに信じている。

彼が紡ぎ出す、これからの物語を。
 これを読んで、"その感覚"を味わった人には、もはや説明の必要はあるまい。この連作小説集では各編の前にこのような感じの文章が置かれていて、本文も(これほど極端ではないが)同じ風味(?)に満ちている、と言っておけば十分だ。問題は、上の引用文で私が示そうと思ったことが全然伝わらない人に、どう説明すればいいのかということだ。
 個別の語句や表現を取り上げれば、ある程度の説明は可能だ。たとえば「夢よりも手に入れにくい」という言い回しは、「夢は手に入れにくいが、さらにそれよりも手に入れにくい」という含みがあるが、そもそも「夢を手に入れる」というのはおかしな言い回しである、などというふうに。また、「嬉しく思っている」とか「喜びを感じている」ではなく「誇りに思っている」という表現を用いることへの違和感、一人称・現在形・直説法で「やみくもに信じている」と書く奇妙さ、倒置法の文を分断する「一行空け」の仰々しさなどについて言葉を尽くして説明すれば、私とは違った感性を持った人にも理解してもらえるかもしれない。だが、それは単に言葉遣いの不自然さを指摘しただけのことで、今私が味わっている"その感覚"の説明とは次元が異なるし、"その感覚"が単に文章表現のみに由来しているかのような誤解を招きかねない。昨日のミステリとしての欠点の指摘も同様。
 本当は、次の事柄について語らなければならない。鳥井と"僕"の異様な共生関係、彼らを取り巻く生暖かい集団、そして何とも言いようがない"事件"の数々。ああ、文字通り「何とも言いようがない」! どうしよう?
 仕方がない、重箱の隅をほじくっていると思われるのを覚悟のうえで、先日のメモをもとに感想を述べることにしよう。

 第一話『夏の終わりの三重奏』については昨日いろいろと指摘したので、第二話『秋の足音』から始める。この話は"僕"が盲目の青年塚田基に会うところから始まる。"僕"は二度目に塚田の姿を見かけたとき、なぜか後をつけて(!)、そのさなかに自分以外にもう一人尾行者がいることに気づく。"僕"とその尾行者は塚田が駅から自宅に帰るまでずっとついてゆく。

僕が思うに、あの人はきっと僕のような善意の第三者だ。けれど声をかける勇気もないから、(略)ここまで来てしまったのだろう。その気持ちはわかる。僕にはよくわかる。
 見ず知らずの他人の行動の理由を勝手に決めつけて納得し、共感したつもりになる"僕"は、ある意味で非常に傲慢な人間のように思われる。しかも自分を「善意の第三者」(註2)と位置づけるなんて「いい加減にしろ!」と言いたくなる。
 小説の登場人物を怒鳴りつけても仕方がないから先を読み進めると、この尾行者に関して謎が提示される。塚田をつけているのは双子だというのだ。だが、塚田がそう考える理由は非常に薄弱で、毎日同じ足音なのに日によって靴が違う(一方は男物の革靴で、もう一方は女性用のサンダル)ということだけだ。これでは"改め"にも何にもなっていない。

 ここまで書いてみて、昨日の文章と似た論調になっていることに気づいた。やはり、どうしてもミステリとしての不自然さや欠点のほうに目が向いてしまう。もう一度仕切直しすることにしたい。

註1 その感覚
この文章を書いているときに「ルサンチマン」という言葉がふと頭に浮かんだ。原語はフランス語で"le sentiment"だ、とずっと思いこんでいたのだが、調べてみたら"ressentiment"だった。もうちょっとで先日の『神狩り2』と同じくらい恥ずかしい間違いをしでかすところだった。危なかった。
註2 善意の第三者
「善意の第三者」とは善い意志をもった人のことではなくて、事情を知らない人ということ。上の引用文や『秋の足音』の他の箇所での用法を見ると、明らかに"僕"はこの言葉の意味を誤解している。保険会社に勤務している人が「善意の第三者」の意味を知らないというのはどうかと思うのだが……。

1.10437(2002/11/16) 外出間際

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021116a

 今日はこれから人と会う予定がある。帰ってくるのは深夜になるので、先にアリバイ更新を済ませておく。あまり時間がないので昨日の続きは先送り。もしかしたらもう書かないかもしれないが。

 今日、11月16日はみつみ美里とひろゆき(ともに公人だと思うので敬称略)の誕生日で、ネット上のあちこちで言及されている。みつみ美里は30歳、ひろゆきは26歳だそうだ。
 ひろゆきは2ちゃんねるの管理人だから、名前くらいならたいていの人が知っているはずだ。本名は西村博之で、「私立霧舎学園ミステリ白書」シリーズ(霧舎巧/講談社ノベルス)の絵師と同姓同名だ。他方、みつみ美里のほうは、ある特定分野に興味のある人々の間では非常に有名なのだが、ミステリ系ではみつみ美里より日下三蔵の方が知名度高いので、もしかしたら「たそがれSpringPoint」を見ている人の中でも知らない人もいるかもしれない。とりあえず本人のサイトにリンク。

 ある事柄について調べているときにキャンディと紅茶というページを見つけた。私の守備範囲外だけど、なんとなく面白そうだったのでリンクしておく。

1.10438(2002/11/17) 締めくくり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021117a

 だらだらと続けた『青空の卵』(坂木司/東京創元社)の感想文もそろそろおしまいにすることにしたい。駆け足で、言いたいことを全部言ってしまおう。
 前回は第二話『秋の足音』で終わっていた。残る二話(エピローグ的な第五話『初夏のひよこ』は覗く)のミステリとしての弱点を一つずつ挙げておく。
 第三話『冬の贈り物』はかつてエラリー・クイーンが何度か扱った「奇妙な贈り物」テーマである。正体不明の人物から送られる、一見したところ何の脈絡もなさそうな贈り物の間の共通点を見出し、送り主の意図を推理するというタイプの作品だ。『冬の贈り物』の場合、送り主はなぜこのような謎めいたことをしなければならなかったのかという説明が不十分なのが問題だ。昔から小包に送り状を入れることは許されていたはずだし、それが駄目でも別便で手紙を送ればいい。贈った品物の数々も相当非常識だが、意図を説明しない送り主の真意は理解しがたい。
 第四話『春の子供』はタイトルどおり、子供を巡る謎を扱っている。その謎を解くためには、特殊な分野の知識が必要なのだが、私はそんな知識は持っていないので、名探偵鳥井真一の解説をただ拝聴するしかなかった。それはまあいい。問題は、「いったい鳥井はそんな知識をなんで持っていたのか?」ということだ。彼の父親がその知識を持っていることは説明されているが、父子の交流がなかったということになっているので、鳥井自身の知識の源泉は不明確である。鳥井が"ひきこもり"でなかったら、「読者の知らないところで、どうにかして修得した知識なのだろう」というだけで済んでしまうかもしれないが。
 上述の知識(といっても何のことかわからないかもしれないので、はっきりと書いてしまうとスペイン語のこと)のほかに、格闘技に関する知識も必要なのだが、これも"ひきこもり"が通じていなさそうな分野なのに、鳥井がなぜ知っているのかという説明は一切ない。また、個別のデータを収集するために鳥井はインターネットを用いているのだか、これは安直すぎる。読者は作中世界のインターネットで検索することができないのだから、何とでも好きなように書けるわけで。
 "ひきこもり"に話を戻そう。
 "ひきこもり"を探偵役に据えると、当座の事件に関する情報収集の手段に限定が加わるということだけではなく(それだけなら一般の安楽椅子探偵と同じだ)、経験の積み重ねから生まれる背景知識が他の人々に比べて非常に乏しいため、推理の方法に工夫が必要だ。盲人探偵が、視力以外の鋭敏な感覚をもとに常人が気づかない事柄を察知するように、"ひきこもり"特有の感受性によって初めて明らかとなる事実というものがあれば、"ひきこもり"探偵の面目躍如ということになるだろうが、なかなかそううまく話を作ることはできない。それならせめて"ひきこもり"であるということがハードルにならない程度の謎を設定すればいいのだが、『青空の卵』では第一話と第四話で(第三話も若干その傾向がある)"ひきこもり"の限界をこえた推理を鳥井にさせてしまっている。これでは物語として破綻してしまっているとしか言いようがない。
 もっとも、鳥井が本当に"ひきこもり"であるかどうかについては、大いに疑問がある。第一話で

ひきこもりとは言っても最低限の外出はできるので、厳密な意味では違うのかもしれない。ひきこもり気味の人間嫌いというのが正しいところか。
と言い訳めいたことを書いている(8ページ)が、ふつうの"ひきこもり"でも一人暮らしをしているなら、最低限の外出くらいはできるだろう。私が疑問に思うのは、赤の他人が自分の部屋に上がり込むことについて鳥井は特に拒否反応を示さず、むしろ積極的に誘うことすらあるという点だ。これでは「ひきこもり気味の人間嫌い」とも言えない。感情にむらがある出不精、という程度だろう。
 "ひきこもり"を扱った小説として私が真っ先に思い浮かべるのは『NHKにようこそ!』(滝本竜彦/角川書店)だが(というか、これしか知らない)、『NHK』にあって『青空の卵』にないものがある。それは息が詰まるような閉塞感である。『NHK』の主人公が典型的な"ひきこもり"か、と問われても私には何ともいえないが、少なくとも世間一般の"ひきこもり"に対するイメージには近い。
 『青空の卵』では、語り手の"僕"が勝手に鳥井を"ひきこもり"だと決めつけ、その思いこみに基づいて全編が書かれている。不愉快なことこの上ない。もし作者の意図が、「他人の行動や気持ちをすべて自分の枠組みでしか判断できない人間が、人々の言動を自分にとって都合のいいように脳内変換するさまを描く」ということにあったのだとすれば、それは大成功である。いわゆる「厨房」にきわめて近い心性をもった"僕"の行状をその内面から見事に描き出している。その点は評価したい。
 "僕"の名前は坂木司、作者の筆名と同じだ。だからといって、作者が"僕"と同じような人物だとは限らない。そもそも作者が男性であるかどうかすらわからない(344ページの最後の2行を素直に読めば男性だと思われるが、この発言自体がトリックかもしれない)。"僕"と鳥井の関係は腐女子の感性に訴えるようなところがあって(巻末の鼎談でもそれに近いことを指摘している人がいる)、作者は女性ではないか、という想像も成り立つ。
 私は『青空の卵』が壮大なギミックの試みではないか、という疑いを捨て去ることができない。いや、そうであってほしいとすら思う。次作では"僕"ではない誰かが語り手になり、"僕"と鳥井とのグロテスクな共生関係を冷徹で容赦ない筆致で暴き立てるのではないか、と。もしそうだとすれば、『青空の卵』所収の各編に見られるミステリとしての粗雑さ、杜撰さなどは取るに足りない瑕瑾ということになるだろうから。

1.10439(2002/11/18) 濃いってどんなことかしら

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021118a

 以前、らじ氏と話していたときのこと。個人ウェブサイトの話題になったとき、らじ氏は「濃い/薄い」という言葉をよく使っているのが印象に残った。「某ニュースサイトは一見すると濃そうだが、実はあちこちで拾ってきた情報をそのまま掲載しているだけでかなり薄い。それに比べると別の某ニュースサイトのほうは、ニュース相互の関連にまで配慮して取捨選択しているので、見かけ以上に濃い」というふうに。もちろん「濃い」のほうが誉め言葉だ。また、テキスト系で「濃い」サイトの代表としてらじ氏が挙げたのがマリみて-GREAT.comで、私も同席していた冬野佳之氏も同意した。
 そのマリみて-GREAT.comでちょうど探偵小説の話題が取り上げられている(【11/16@えっせい――探偵小説や星、そして狐、と。】の中の《推理小説を読んだ事が無い人間、しかし探偵小説は愛する者》)ので、それを適当にサカナにして一回分の更新のネタにしようかとも思ったのだが、そう思った次の瞬間に気が変わったので紹介するだけにとどめる。
 さて、「濃い」というのはどういうことだろうか? 話を簡単にするために、ミステリ系読書サイトに話を限定する。らじ氏によれば、ミステリをたくさん読んでいる人が運営しているサイトが必ずしも「濃い」というわけではないそうだ。たとえば――ここで実例を出すべきなのだが、いろいろと具合が悪そうなのでやめておく――読み方に一貫したポリシーがなく、ただ何となく読んでいるというだけでは「濃い」サイトを運営できない。逆に、ツボを押さえた読書(ミステリだけでなく周辺分野も含む)をもとに自分の立場をしっかりと築いている人なら、読冊数は少なくても「濃い」サイトを作ることができる、という。
 すると、らじ氏の言う「濃い/薄い」の違いは「深い/浅い」とはちょっとニュアンスが違うことになる。「深い」ミステリファンであっても「濃い」サイト管理者であるとは限らないだろうから。ちなみに、らじ氏がミステリ系で「濃い」サイトだと認定するのはペインキラーRDである。
 ううむ。わかったような、わからないような。
 ところで、ウェブサイトを評価するためのキーワードには、上に挙げた「濃い/薄い」や「深い/浅い」のほかに次のようなものがある。

 掲示板で冬野氏から「エロい、エロくないも世間一般の人には重要ではないかと。エロいページは迂闊にアクセスできません。」 という提案があった。さて、どちらが誉め言葉になるのだろうか?  また、V林田日記(現在は「無能の人の日記」である。私は少し前の「生きなさい日記」が好きだった。中年男がブランコ漕ぎながら歌っているような感じがして……)では「偏執/分裂」というキーワードが提示されている。「パラノ/スキノ」などと言っていた人が昔いたことを思い出したが、誰だったろうか?
 それぞれのキーワードに即して「たそがれSpringPoint」の特徴を語ってみようと思ったのだが、時間切れ。以下、次回。そんなことはしない。

 今日のリファ漏れ:アニソン漢字クイズを出しあおうぜ!アニソン@2ch掲示板
 この板は今日はじめて見た。

1.10440(2002/11/19) 脳内算盤

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021119a

 引用されて(11/19付)はじめて誤字に気づき、ちょっと鬱になった。

 もう10日くらい前からぼちぼちと『サイコロジカル』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んでいるのだが、全然進まない。上巻を半分読んだ程度だ。今回はどうもノリについていけない。
 そうこうするうちに、あちこちで書評とか感想文とかがアップされて、何だか取り残されてしまったような気がする。他人と読書のスピードを競ってみても仕方がないのだが、同じ本を読んで同じような感想を抱くなら、早く読んでさっさと書き逃げするに越したことはない。後からだと新味がないし、下手するとパクリだと思われてしまう恐れもある。困ったものだ。
 ところで、『サイコロジカル』の下巻で西尾維新は「デビュー初年度にいきなり講談社ノベルスから5冊刊行、ただし全部デビュー前のストック」という偉業を達成したことになる。デビューから一年以内に講談社ノベルスから5冊本を出した作家はこれまでいなかったと思う(とはいえ、調べたわけではないので、大きな見落としをしているかもしれない)。これほど続けて本が出るということは、出版社が「売れる作家」だと認定したということだろう。もっとも『サイコロジカル』は上下巻同時発売で、二冊合わせても約550ページだから「なんで分冊にしたのか」という疑問(不満?)の声もあがっている。
 550ページのノベルス本は確かに厚い。だが非常識な厚さというほどではない。たとえば『21世紀本格』(島田荘司(編)/カッパ・ノベルス)は624ページある(この本を例に挙げたのはたまたま手元にあったからであり、特に深い意味はない)。では、なぜ『サイコロジカル』はに分冊なのか? いろいろな想像が可能だが、私は素直に一冊あたりの単価を下げるためだと解釈している。高校生、いや中学生をもターゲットに据えて、一冊1000円以内におさえようとしたのではないだろうか?
 しかし、この解釈はあまり面白いものではないので、もっと奇想天外な説明はないものか、と考えてみたのだが、「実は上巻と下巻は別人が書いていて、印税のトラブルを避けるために分冊にした」とか「『アトガキ』と題する文章を二つ書いてしまい、一つだけに絞るのが忍びなかった」とか「上下巻になっているというのは錯覚である」とか、どうでもいいことしか思いつかなかった。
 どうでもいいことしか思いつかないときには、どうでもいいことしか書けない。

 『サイコロジカル』を読みかけなのに、今日また本を買った。『動機』(横山秀夫/文春文庫)だ。数日前にどこかのサイトで紹介していて、非常に面白そうだったので、つい買ってしまったのだ。ちなみに、そのサイトがどこだったのかは思い出せない。心当たりのあるサイトの過去ログを探ってみたのだが見あたらなかった。
 表題作は2000年の第53回日本推理作家協会賞受賞作でそれなりに話題になっていたはずだが、同年10月に単行本(文藝春秋)が出たときには本を手に取った記憶さえない。今年9月には初の長編『半落ち』(講談社)が出版されて、これも話題作なのだが、見事にスルーしてしまっている。つまり私の関心のあるジャンルから微妙にずれているわけで、『動機』も期待半分だった……のだが、いや、これは面白い。
 とりあえず今日は表題作を読んだだけで本を閉じた。あと3編収録されているが、続けて読むのがもったいない気がしたからだ。これから『サイコロジカル』の合間に読んでいくことにしたいと思う。感想はそれから。

 今日の見出しについて。
 算盤の達人が暗算するときには、心の中に架空の算盤を思い浮かべ、その珠を操作することによって計算を行う。他方、算盤を全く扱ったこともない暗算名人もいる。そんな人は当然心に算盤を思い浮かべるわけではない。
 今、算盤を習った暗算名人(A)とそうでない暗算名人(B)に同じ計算問題を出題し、両者とも目を閉じて数秒考え、正解を出したとする。さらに、二人の脳波を測定した結果、特に目立った違いはなかったものとしよう。
 すると、Aの「脳内算盤」についてどのように考えればいいのか?

  1. AとBは同じ暗算ではあっても具体的なプロセスが異なる仕方で計算をしているのだから、Aの「脳内算盤」のイメージに相当する要素がAの脳波にはあって、Bには欠けている筈だ。それが見あたらないのは、単に脳波測定技術の問題に過ぎない。
  2. 「脳内算盤」というのは誤解を招く表現であり、実際にそのような算盤が脳の組織や機能のうちにあるわけではない。それは純粋に心理的な事柄であり、脳波に対応する要素がなかったとしても全く不思議はない。
  3. Aの「脳内算盤」は、Aが算盤を修得しているという事実及び「あなたは心の中で算盤を操って計算しますか?」という質問に対する肯定の回答などから構成されたものであり、それらの文脈から独立に「脳内算盤」が脳の機能として、或いは心理的な事柄として存在するわけではない。
 と、大まじめなふりをしてもっともらしそうな事を書いてはみたが、実は私は「脳内算盤」という造語の語呂が気に入っただけで、この問題に深く立ち入るつもりは全くない。
 なお、言うまでもないが「算盤」は「そろばん」と読む。

 全然関係ない話だが、私は「プログラマー」という人種に畏怖まじりの尊敬の念を抱いている。何といっても「プロ」の「グラマー」なんだから、ビキニを身につけるとはち切れそうなナイスバディを連想してしまうのである。もちろんプログラマーの中には男性もいるし、女性プログラマーであっても貧乳の人もいるに違いないのだが、「クロフツ」という名前から「黒仏」を連想するのがほぼ必然であるのと同様に「プログラマー」は上記のイメージを否応なしにかき立てるのである。
 しかし、よくよく考えてみれば「プロ」を「プロフェッショナル」の略語と捉えるのは一種の固定観念であり、発想が貧困だと誹られても反論できない。「プロ」は「プロレタリアート」の略語でもあって、アマチュアが書いても「プロ文学」が「アマ文学」になることはないのだ。じゃあ、「プロレス」はどうよ?

 時間が来たので、今日はおしまい。オチはないし、続きもない。

1.10441(2002/11/20) 算盤が濃いを語る話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0211b.html#p021120a

 別に予定していたわけではないが、一昨日昨日の流れで、今日の見出しは自然と決まった。
 こうなったら乱歩ネタを何か書かないわけにはいかないだろう。そこであちこちのサイトを探していると【産業】バンダイ、江戸川乱歩外骨格を発売Dの嘘)というニュースが目にとまった。なぜ乱歩? なぜ外骨格? 疑問符が頭の中を駆けめぐる。詳細はリンク先を直接参照していただきたい(といっても速報なので、具体的な発売時期や価格の情報はない)が、なかなか愉快なニュースだった。個人的には、「経営難に陥ったミステリー雑誌の編集長」というあたりがポイントだと思う。「江戸川乱歩についてどのようなイメージをもっていますか?」と街角インタビューしても、こんな事を答える人はまずいないだろう。

 乱歩の次は鮎哲だ。私説京都SFフェスティバル2002頭狂ダイヤル954)に次のように書かれていた。

「ミステリ界での鮎川哲也逝去の衝撃は、SF界で言えば○○○○と○○○が一緒に死んだようなもの」、という東京創元社の小浜さんの話がすごかった。
 伏せ字になっている箇所に入る名前は何だろうか? 私はSF界のことはあまり知らないけれど、きっと私でも知っている有名人だろうと思う。○の数が4つと3つで元の名前の字数をそのまま反映しているとすれば「小松左京」と「星新一」か。

 一昨日の文章にあちこちから反応があってアクセス数が伸びている。私は別にアクセス数至上主義者ではないが、多くの人々に自分の書いた文章を見てもらえるのは嬉しいことだ。ただ、人々が反応している箇所はらじ氏からの受け売りなので、めでたさも中くらい。一人だけ全然別のところに反応した人がいるけれど……。
 ちょっと意外だったのは猟奇の鉄人で言及されていた(あなたは古本がやめられる11/18,11/19付)ことだ。いや、まさかここを見ているとは思わなかったもので……。
 隠しても仕方がない(たそがれアンテナを見ればわかることだから)ので白状してしまうと、そこで言及されているサイトは一つも定期巡回していない(と思ったがみすべすは定期巡回サイトだった。「Mystery Best=みすべす」だということをうっかり忘れていた)小林文庫奈落の井戸も、そしてもちろん猟奇の鉄人もブラウザの「お気に入り」には登録しているのだが、更新のたびに見に行っているわけではない。
 これまで深く考えていなかったのだが、私はどうも知らず知らずのうちに「サイト内に一定の時間の流れがあって、随時読むのが適当なサイト」と「サイト内に構造的な秩序があって、ある程度まとめて読むのが適当なサイト」の区別をしていたような気がする。どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、もちろん「濃い/薄い」の区別とも全く別物なのだけれど。いや、それどころか「時事ネタが多い/普遍的なネタが多い」というのとも違う。基本的に時事ネタを扱うニュースサイトのなかにも上記の区別があって、たとえばせかいのまんなかなどは後者になる。従ってアンテナには入れていない。
 しかし、両者の区別はさほどはっきりしているわけではなくて、定期巡回していながらアンテナに登録していなかったり、全然見ていないのに登録しているサイトがあったりする。つまり、私は行き当たりばったりだということだ。その性格は当然サイト運営にも表れるわけで、「たそがれSpringPoint」は非常にムラの多いサイトになっている。そこで「ムラが多い/均整がとれている」という尺度を思いついたのだが、これもどちらがいいということではない(いや、本当は均整がとれているほうがいいに決まっているのだが、それを認めてしまうと自己否定につながるので頬被りする)。
 せっかくだから、kashiba氏が提唱された「熱い/クール」についてちょっと考えてみる。「たそがれSpringPoint」は「熱い」サイトではない。どんなにテンションを高めようとしてもすぐに息切れする。では、「クール」なのかといえばそうでもなくて、時には感情がむき出しになってしまう。最近の記事だとこのあたりでやや平静さを欠いている。「熱い」わけでもなく「クール」なわけでもなくて……うーん、やっぱり「ムラがある」ということになる。もちろん「ムラがある」というのは「熱い/クール」と並ぶ第3項ではなくて、単に「熱さ(クールさ)を保てない」ということなのだが。
 では、逆に「熱く」かつ「クール」なサイトというのはないものだろうか、と考えてみた。迸るような熱情がサイト全体を支配しているが、個々の文章は理路整然としていて一点の隙もない、そんなサイトだ。理屈の上では可能だと思うが、私はまだ見たことがない。できれば私自身がそのようなサイトを運営してみたいものだが、まず無理だろうな。
 もう一つ考えてみたのは、ウェブサイトを評価するための基準を小説の評価に転用できないか、ということ。これまでの話は基本的に広義のテキストサイトを対象にしているので、小説についても類比的に論じることができそうな気がする。ただ、「濃い/薄い」にせよ「熱い/クール」にせよ、もともとあまり厳密な尺度ではないし、小説とウェブサイトのアナロジーはどこまで成り立つものかもわからない。今のところは思いつきレベルだ。

 昨日『動機』(横山秀夫/文春文庫)について少し触れた。この本を買うきっかけになったレビューはごくたま昨日日記にあった。昨日探したときには、ちょうど手違いで消えていたようだ。
 改めてshaka氏のレビューを読んでみる。

膨らまそうと思えば膨らませることは可能で、中心となるべきストーリーがしっかりしているだけに横道に逸れたい誘惑もあると思うんですが、それを一切断り余計な贅肉を全て削ぎ落とした肉体(作品)は見事としか言いようがありません。
 昨今、「ただ長いだけ」の物語がチラホラ目立つ中で、この求道的ともいえる精神に感服してしまいます。
という箇所に思わず頷く。昨今の長大かつ冗漫な小説には辟易しているところだからだ。
 全体的にベタ誉め調の文章なので、実は半信半疑で『動機』を読み始めたのだが、少なくとも表題作に関してはshaka氏のコメントは的確だと思う。まだ残りの3編は読んでいないので、感想はそれから……というような事を昨日も書いたが、では今日私は何を読んでいたのか?
 もちろん『サイコロジカル』(西尾維新/講談社ノベルス)だ!
 もうめげそう。

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