1.10105〜1.10113 日々の憂鬱〜2002年1月第2週〜


1.10105(2002/01/07) 主義主張

 日本人は日本を祖国としてもつことを誇りに思い、日本を愛さなければならない。私利よりも国益を優先し、時には国のために命を犠牲にする勇気を持たなければならない。その勇気を持たない人間は軟弱者であり、非難されてしかるべきである。また、私利私欲のために日本の国益を無視する行動をとる者は売国奴であり、唾棄すべき存在である……と主張する人々がいる。このような人々のことを「右翼」と呼ぶことが多いのだが、ここではあえてその言葉を避けて「日本主義者」と呼ぶことにしよう。というのは、「右翼」は「左翼」の対義語だが、差し当たり今は反共イデオロギーを問題にしているのではないからである。
 さて、日本主義者は日本人に対しては愛国心を持つように強制する。これは上で述べた説明をここでの「日本主義者」の定義とみなせば自明のことである。現実には「自分は日本という国のために尽くしたいと思うが、君がどう考えるかは自由だ」と言う人もいるかもしれないが、そのような人は予め排除して考えている。
 では、日本主義者は他国人に対してはどのような態度をとるべきか? 三通りの考え方があるように思われる。
  1. 日本人に対するのと同じように、日本の国益を第一に考えるように求めるべきである。日本主義者たるもの、単に日本人だけではなく、他国の人にも日本の偉大さ、素晴らしさを知らしめ、親日的態度をとるように導くのでなければならない。
  2. 他国人に対しては親日的であることを求めてはならない。英国人に対しては「英国主義者」たることを求め、モンゴル人に対しては「モンゴル主義者」たることを求めなければならない。日本の国益に反する結果になろうとも、日本主義の首尾一貫した展開の結果であるなら、やむを得ないことだ。
  3. 日本主義は日本人固有の思想であり、他国人に対しては何ら強制力を持たない。よって、親日的であれ、とも、自国を愛せよ、とも主張することはできない。日本主義は他国人には拡張・応用不可能である。
 どの立場をとるのがもっとも整合的なのかは即座には判定できない。難しいものだ。

 今度は死刑制度についてのある意見を取り上げてみよう。曰く、「死刑は廃止すべきである。死刑は残虐な刑罰であり、憲法の精神にもとる。死刑は犯罪抑止効果を持たず、死刑によって罪が償われることもなければ犯した犯罪が帳消しになるわけでもない」
 ここまではよくある死刑廃止論だ。そこで次のように反論する。「君は被害者の遺族の感情を無視してそんな事を言っているが、仮に君の家族や恋人など大切な人の命が凶悪な殺人鬼に奪われたとしても、そんな事を言っていられるのか?」と。そこで先の論者が「もちろん自分の身に降りかかってくれば話は別だ。さっきの理屈は無視して犯人に極刑が下されるように請願することになるだろう」と答えたならば、この論者は首尾一貫していないと非難することはできるだろうか?
「なんだ? 結局君は死刑廃止論者なのか、そうでないのか? 君の言っている事は矛盾しているぞ」
「いや、矛盾してはいない。それは錯覚だ。純粋に理論的観点からいえば死刑は廃止すべきだと私は考えている。しかし自分が当事者の立場になったときには死刑を容認する側に回るだろう。ただそれだけの事だ。仮に私が今『いかなる場合でも死刑に反対する』と言っておきながら、私の家族が殺されて憎しみのあまり『犯人を死刑にしろ!』と叫んだなら、君は私の言動が首尾一貫していないと糾弾してよい。だが、私はそんな事は言っていない。『今は死刑反対だが、家族が殺された場合には死刑を容認する』と主張しているだけだ。よって、不幸にもそのような局面に私が立たされたならば、私はこの方針に従い犯人の死刑を要求するだけだ。それに対して君は『身勝手だ!』と憤るかもしれない。だが、私の考えが矛盾しているという非難は的はずれだ」

 今日はいきなり難しい話をしてしまった。最近「たそがれSpringPoint」に来て、最初の頃の文章を読んでいない人はやや戸惑ったかもしれない。要するに「首尾一貫している」とか「一定の方針に従って事を執り行う」ということが、時にはあやふやで判断に迷うこともあるというだけの話。

 新年に入って初めて新書を読み終えた。『謎とき日本合戦史』(鈴木眞哉/講談社現代新書)だ。「日本人はどう戦ってきたか」という副題がついている。いかにも教養新書らしい柔らかなタイトルに比して内容はかなりハードで、ほとんど学術書のような地味で渋い本だった。「白兵主義/火兵主義」という戦術思想の二つの系譜に焦点をあて、古代から第二次世界大戦までの戦闘の歴史を取り扱っている。私はこれまで軍事関係には全く興味がなく、この本を買ったのも何かの弾みだったのだが、なかなか楽しめた。特に、エピローグで言及されている「竹槍戦法」(筆者はこれを「白兵」のない白兵主義、と呼んでいる)についての興味深い指摘が興味深かった。ああ、何か変だ。まあ、いい。少し長いが適当に端折って引用する。原文の改行は無視している。勝手に色を変えた箇所は原文では別に強調されているわけではない。
非戦闘員に竹槍をなど持たせて戦うことが誤っていることはいうまでもない。その理由の一つは、そんなことをやっても、戦術的になんの意味もないということである。(略)戦後のわが国は、憲法の規定を受けて非武装中立が建前となっている。(略)非武装中立論を主張する場合、必ず問題になるのが、他国から侵略されたらどうするのかということである。(略)非武装中立論者の中にも、抵抗は可能だと説く人たちがいる。(略)民衆が武器をとって抵抗する「群民蜂起」の方法もあるという主張がある。(略)武器といっても、わが国の場合、民間に火器などはまずない。また、(略)戦闘訓練を受けた者もほとんどいない。要するに、これは戦時中の竹槍戦法と異なるところのない発想である。思想的にはまったく違う立場にいるはずの人たちが、究極のところでは同じような発想に陥るのは不思議といえば不思議である。
 この数行後、非常に洒落た一文で締めくくられていて、本当はそれも是非紹介したいのだが、この本全体の流れを掴んだ上で読まないとちょっとピンとこないので、断念。

 結局、今日は『月姫』をプレイせず。

1.10106(2002/01/08) 楽しかったはずのドライブが……

 「獣の数字」の1兆倍とも言われる負債を抱える国に住む皆さん「たそがれSpringPoint」(タイトル)の滅・こぉる(ハンドル)です、よろしく。
 この文章は、「ミステリ系更新されてますリンク」で、私の名前とサイト名が逆になっていることを受けて書いたもの。特に実害はないので訂正の申し出などはしていない。まあ、そのうち訂正されるとは思うが。(2002/01/14追記)

 と、久しぶりに挨拶から初めてしまったのは、ほかでもない、昨日「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されてから、急に来訪者が増えたためである。初めての人はこちらを読むと、このサイトのことがよくわかる……わけでもないようだ。とりあえず、最小限の説明をしておくことにしよう。
 まず、このサイトの内容について。あなたが今読んでいる「日々の憂鬱」がメインとなる。毎日一回、気が向けば二回、気が滅入れば二日に一回程度の回数で更新している。あまり時事ネタは扱わない。基本的には日記系と考えてもらっていいが、全然関係のない文章を書くこともある。本当は日々の生活と無関係な話題だけを取り上げてゆきたいのだが、ネタ切れのときにはやむなく日記を書く、という構えだ。
 「ミステリ系更新されてますリンク」からやって来た人なら、基本的にはその系統の話題に興味があると思うが、残念ながら私がミステリについて語ることは少ない。計り方に困るのだが、たぶんこれまでの文章の一割か二割程度と思う。最初の頃は「よし、ミステリ系サイトにしよう!」と思って、意識的にミステリ関係の文章を書いたこともあったが、いつまで経ってもミステリ系の来訪者が増える気配がなく(というか、アクセス数が一日10〜20で固定してしまっていた)「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されることもないので、そのうちにやる気をなくしてしまった。自己申告で登録してもらってもよかったのだが、「無断リンクOK、相互リンクお断り、リンク依頼を受け付けないかわりに、こちらから依頼もしない」という基本的姿勢をとっているので、それができなかった。ただの意地っ張りかもしれない。
 「日々の憂鬱」の過去の文章は鬱の蠅取壺(要するに過去ログ集)にまとめてあり、それをざっと通読すれば私の人となりがある程度わかることと思う。いちおう月給取りではあるが、社会通念からどこかずれた言動をとることが多い。また若干引きこもりの気があり、人付き合いが苦手だ。本や読書については自分でも説明のつかない二律背反的な感情を抱いている。とりわけミステリについては「愛憎相半ばする」という表現が当てはまるのではないかと思う。自分で言うのも変だけど。
 かつて私は推理作家になれたらいいな、と思っていた。確固たる将来像をもっていたわけではなく、なんとなく夢見ていただけだが。小説家になるために修行するわけでも努力するわけでもなく、のんきに下手くそな小説(その中に推理小説はない。複雑な仕掛けを施す技巧的な小説はついにたった一度も書けなかった)を書き散らすだけで上達するわけもなく、10年前には小説家への夢は諦めていた。
 そのかわりに、ミステリ評論家になりたいな、と思うようになった。「作家のかわり」だから、ちゃんとした意志と信念に基づいていたわけではない。別に書評・解説業でもライターでもよかった。なぜか編集者になりたいと思ったことはない。ともあえ、5年前にはこの夢も放棄していた。
 この間の5年間に、ミステリに関する読書意欲・冊数ともにどんどん減っていった。これは自身の未来との関連が薄まったということのほかに、単純に飽きてきたからだ。10年前には無邪気にミステリについて語ることができた。ミステリマニアとしての一定の自負もあった。5年前にはもう新刊を追いかけることもやめていた。もはや「ミステリマニア」と自称することもなくなった。
 1998年秋、私は今とは別のハンドルでウェブサイトを立ち上げた。そのサイトではほとんどミステリについて語ることもなく、2年半が過ぎた。そんなある日、なぜか急に「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されていることを知り、首を傾げた。管理人の高橋まき氏とは5年以上前、つまり私が人並み(?)にミステリに関心をもっていた頃からの知り合いだが、なぜあの時期に私のサイトを「ミステリ系更新されてますリンク」に登録する気になったのかは、今でもよくわからない。
 ちょうどその頃、私が契約していたプロバイダーとの契約切れが迫っていた。実は契約期限満了日は2001年12月末だったのだが、ちょっと勘違いしていて10月末だと思い込んでいた。そろそろ引っ越しを考えないといけないと思っていたこともあり、この機会にサイトそのものの構造や基本方針も見直すことにした。「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されていたページ(毎日一言だけ書いて更新するという内容のないページだった)は、サイト入口→トップ(メニュー、注意事項等)の次に位置しており、いきなりそこだけ読んでも意味がつかみ取りにくく、さらにそのページはほとんど行き止まりになっていて2年半の間にわずかながら書いてあった本やミステリに関する文章へは行くことができないという構造上の欠陥があった。
 そこで私は2001年9月30日をもって前のサイトを廃止し、翌日この「たそがれSpringPoint」を正式公開した。余計な入口や文章の分類をやめ、最新の文章をトップページのいちばん見やすい場所におく、というふうに構造を単純化した。これで「ミステリ系更新されてますリンク」対策も万全、と思ったのだが……それから2箇月の間、全く登録先の変更が行われることなく、今度は逆の意味で首を傾げた。
 年末にコミックマーケット会場で高橋氏と会って疑問が解けた。「ミステリ系更新されてますリンク」に登録した途端に私が前サイトを畳んだので、登録してはいけないのか、と思ったのだそうだ。そんな事なら移転の際にでも連絡しておけばよかった、とちょっと後悔したが、まあいい、これで「たそがれSpringPoint」もはれてミステリ系サイトの仲間入りだ。上でも書いたように、あんまりミステリの話題はないけれど。
 ちょっと余談だが、同じ場で某出版社の編集者で、かつネット上のミステリ関係ではかなり有名な人に出会った(ぎこちない表現で恐縮だが、名前とか所属とかどの程度まで書いていいのかわからないので。以下「某氏」と呼ぶことにする)。自己紹介の上「たそがれSpringPoint」(何と言っていいのかわからなかったので「いちおうミステリ系」と紹介したと思う)を運営していることを述べると、某氏から「いや、知らないですね。この私が知らないのだから、ミステリ関係では全然有名ではないでしょう」という反応が返ってきた。こうやって文章で書くと嫌味なようだが、実際には全くそんな感じではなく、素直に見解を述べているだけというふうに感じられた。ミステリ系サイトで「たそがれSpringPoint」にリンクしているところはごくわずかであり、客観的にも某氏のコメントは妥当だと思われた。そもそも一日10ヒット程度のサイトがミステリ関係であろうがなかろうが「有名」サイトであるはずもない。私は別にむっとしたわけではないし、むしろ某氏には好感がもてた。わずかな時間の会話だったが、ミステリに対する純粋な情熱と、率直な自負が表れていたからだ。が、その反面、一抹の寂しさも感じた。純粋な情熱と率直な自負。ともに10年前の私がもっていて、5年前には失っていたものだから。
 今の私はもはや、ミステリについて素直な態度をとることができない。攻撃的に、さもなければ自嘲的にしか語ることができないのだ。今、あなたが読んでいる「たそがれSpringPoint」はことミステリに関しては刺々しい文章の集積物である。Readers is warned.

 初めてこのサイトに来た人へのガイダンスとしてはかなり奇妙な文章になってしまった。またミステリ関係の読者しか相手にしていないので、他の人にとってはよくわからないことだろう。ごめんなさい、と謝っておく。
 今日は、運転免許の更新手続きをした。その事を書くつもりで見出しをつけたのだが、疲れたのでやめにする。このをアップした後は『月姫』の続きでもすることにしようか。

1.10107(2002/01/09) 明るい昨日を拓くために

 横溝正史、高木彬光、山田風太郎、鮎川哲也、都筑道夫。今月の光文社文庫の新刊はまるで昭和50年代の角川文庫のようだった。だが、一つ違っているのは、今や3/5が鬼籍に入っているということだ。
 読まない本に何の意味があるのでしょう? そんな事を心の中で呟きながら、とりあえず『黒いトランク』(鮎川哲也)だけ買うことにした……つもりが、『朱漆の壁に血がしたたる』(都筑道夫)も買ってしまった。解説(新保博久)が面白そうだったから。ついでに魔が差して、近くにあった『吉野家の経済学』(安部修仁・伊藤元重/日経ビジネス人文庫)という本も買ってしまったが、これはどうでもいい(が、その「どうでもいい」本をいちばん最初に読んでしまった。鬱だ……)
 『黒いトランク』は角川文庫版を持っている。今回は初刊本を底本にしているそうだが、それほど大きな違いはないだろう。それなのに買ってしまったのは、巻末に収録されている文章のせいだ。なんだ、『朱漆の壁に血がしたたる』と同じ理由じゃないか。
 「付録」として作者自身の文章が二つ。どちらも読んだ記憶がある。「エッセイ」(原田裕)以降は書き下ろしなので当然初読だ。これと「解説」(山前譲)は好対照をなしていて面白い。だが、一番の収穫は「鑑賞」(芦辺拓)だ。この文章がなければ私はこの本を買わなかったかもしれない。いや、それでも買ったかもしれない。一体どっちなんだ? 欲を言えば、角川文庫版解説(天城一)を全文掲載してほしかったところだが、いちおうさわりの部分は引用されているので、よしとする。
 近々創元推理文庫からも別ヴァージョンの『黒いトランク』が出るそうだが、これ以上に角川文庫版に近い内容のものになるのだろう。よほどの付加価値がないと買わないつもりだが……いや、やっぱり買ってしまうのかな。

 形だけミステリの話題を出した(「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されたことを大いに意識してした書き方だ。昔の私は若かった……。2002/01/14追記)が、これ以上書くこともないので、いつもの雑文に戻る。
 昨日の文章から容易に推測できることと思うが、そろそろ私の誕生日が近い。何かプレゼントをくれ。
 いや、そんな話ではなくて、また一つ年をとってしまうのかと思うと気が重い。でも気は持ちようだ。年齢の数え方というのは人間が勝手に決めたもので、別に誕生日の前後で大きく変化があるわけではない。
 日本ではふつう年齢は年単位でしか考えない(乳幼児は例外)が、欧米では月単位まで数えることがあるという話を聞いたことがある。自己紹介の時に「私は○歳○箇月です」と言うそうだ。本当かどうかは知らないけれど。
 逆に日本ではごく当たり前の「兄/弟」「姉/妹」という区別が欧米ではやや特殊なものとなるようだ。このことは年齢の把握の仕方が日本人の場合は相対的であり、欧米人は絶対的であることを示しており、さらに「恥の文化」と「罪の文化」の対比ともパラレルである。
 心にもないことを書いてしまった。反省。
 ともあれ、人は年を一つとるごとに段階的に老いていくわけではなく、毎日じりじりと確実に死への道を歩んでいるのだ。そう考えたら誕生日を間近に控えた私の焦燥感も多少は和らいだような気がする。単に365分の1に希釈しただけかもしれないが。

 ふと考えた。今日、日本中でどれくらいの人が「たかが空き王手で1ページの大ゴマ使われてもなぁ」と心の中でぼやいたのだろう、と。
 「週刊少年サンデー」で始まった将棋マンガを指している。作者もタイトルも覚えていないが、しばらくはチェックしようと思っている。

1.10108(2002/01/10) 訂正2件

 前置きは抜きにして早速。
 以前、『雛子は今日も弱かった』という小説の感想を書いたのだが、その作者名「羽子原 四季」の読み方を間違えていた。本当は「はしはら しき」なのに、「はこはら しき」と書いてしまっていたのだ。作者ご本人から掲示板で指摘があった。感想文そのものは既に鬱の蠅取壺の奥底に沈み込んでいるが、間違った読みのまま記憶している人がいるかもしれないので、注意を喚起しておく次第。
 もう一つ、こちらも人名の間違い。今日になったなぜか年賀状が2通届いたのだが、うち1通で朝山蜻一の名前の誤記について指摘された。「朝山"さば"一」になっているというのだ。こちらも該当する文章のほうは訂正済み。確かこの文章を書くときに確認したはずだが……と思い、「朝山鯖一」で検索してみると、同じ間違いをしている人がほかにいた。もちろん正しく「朝山蜻一」と表記しているほうが圧倒的に多いのだが、まず「"さば"一」という思い込みがあって、その上で検索して同表記のページを見つけて思い込みが強化されたようだ。

 昨夜、このページを更新したのち、『吉野家の経済学』(安部修仁・伊藤元重/日経ビジネス人文庫)を読んだ。気の迷いだ。時間の無駄とは思わないが、そんなのを読むくらいならほかにもっと優先順位の高い本があるだろう、といった意味で。
 内容は、吉野家の社長と経済学者の対談集で、数量的なデータに乏しく資料的価値はあまりない。同業他社との値下げ合戦の模様を一覧表にでもしてあれば興味深かったのだが……。例のコピペについて一言くらい触れてあればよかったのだが、そこまで求めるのは酷というものか。

1.10109(2002/01/11) 年をとった

 今日、私は一つ年をとった。
 先日はいろいろ書いたが、気が重いことに違いはない。
 気が重いのには別の理由もある。数日前から喉が痛く、えらく咳き込むので、今日は大事をとって会社を休み、医者に診てもらったのだが、「急逝急性気管支炎」と診断された。ついでに血液検査とかレントゲンとかエコーとかいろいろ検査してもらった。検査結果が出るのは週明けだが、どうやら私の体は成人病の塊らしい。いや、もはや「成人病」は死語(これまで「成人病」と呼ばれてきた病気は、生活習慣次第では子供でも発病することがあるからだろうが、医療関係者はもう「成人病」という言葉はほとんど使わないらしい。一般にはまだまだ使われている言葉なので死語というのは言い過ぎだと思う)なので「生活習慣病」と言い直すべきか。ともあれ、身体的にも私は老化が進んでいるようだ。
 思えば、本が読めなくなったのも、老化現象の一つかもしれない。今読んでいるのは『異形コレクション マスカレード』(井上雅彦・監修/光文社文庫)なのだが、なかなか読み終えることができない。全部読んだら感想文を書こうと思っているが、いつになるかわからない。「マスカレード」といえば横溝正史の『仮面舞踏会』と式貴士の『マスカレード』を私は連想する。どちらもリアル厨房中学生の頃に読んだ。前者は江戸川乱歩に捧げられた作品だということは覚えているが内容は全く記憶にない。後者は当時の私の脳天を直撃した作品で、今でもよく覚えている。今の若い世代にも十分受け入れられる作品だと思うが、今でも入手可能なのだろうか? どこかのアンソロジーに入っていそう(ネット上で調べた限りでは、アンソロジーには入っていないようだ。『連想トンネル』(CBSソニー出版→角川文庫)を古本屋か図書館で探すしかない)だけど。
 「異形コレクション」シリーズは毎回博覧強記の編者の手による序文が付されていて、それが楽しみの一つなのだが、上記二作品に関する言及はなかった。後者のタイトルになっている「マスカレード」は実は仮面舞踏会のことではないが、さまざまな筆名を使い分けて活躍した作者(間羊太郎名義で『ミステリ百科事典』(現代教養文庫)があるほか、蘭光生名義で多数の本が出ている)に免じて一言触れておいてもよかったのではないか。

 年をとると話がくどくなって、いけない。このぐらいで切り上げて、中断している『月姫』の続きでもしようか。

1.10110(2002/01/11) 昔話

 小学2年生のときだったと思う。算数の時間に「=」という記号の意味を教えてもらった。この記号はその両辺にある数が互いに等しいということを表すのだ、と。
 私は驚いた。それまで私は「=」は左辺の数と記号から演算した結果が右辺の数であるということを表す記号だと思っていたからだ。たとえば
3+2=5
という数式の場合だと、まず最初に「3」と「2」という二つの数が与えられていて、それを「+」という記号で結ぶことにより、ある計算命令が下される。その命令に従った結果が「5」である。こう考えていたのだ。
 この把握の仕方だと、左辺に一つしか数がない場合は文法違反となる。なぜなら、一つの数はそれだけで完結・安定しており、そこに解答(回答)を促す動きはないからだ。では、三つ以上だとどうか。学校で習ったかどうかはよく覚えていないが、
1+3−2=2
という形の式があることは知っていたので、これは文法違反ではないと理解していたのだと思う。ともあれ、確実なのは「=」で結ばれた両辺は同じ意味合いを持つものではなく、左辺がまずあって、その結果として右辺があるということだ。左辺と右辺は置き換え不可能であり、
3+2→5
とでも表すべきものだった。私にとっては。
 先生の説明は、そのような私の考えを粉々にした。私は間違っていたのだ。左辺と右辺は置き換え可能であり、等しい価値を持っている。右辺が左辺の結果だということはないのだ。
 この事実はすぐにはピンと来なかった。が、徐々に頭に浸透していくにつれ、私は奇妙な想念に囚われるようになった。私は考えた、「=」で結ばれた両辺が等しいのだとすれば、計算問題の答えは一通りに限られないのではないか、と。たとえば、
次の式の空欄を補い、完成させなさい。
3+2=( )
という問題があったとして、括弧の中に入るのは「5」でなければならないという法はないだろう。左辺と右辺が等しければいいのだから「3+2」と記入するほうが自然だ。もっとも、小学校の算数では、計算問題に「空欄を補い……」などとは書かれておらず、単に「計算しなさい」だったはず。「計算する」とはどういうことかがわからなくなった(「=」の正しい意味を教わるまでは「計算する」の意味がわかっていると思っていた)ものの、少なくとも与えられた数に何らかの操作を施さないと「計算した」ことにはならないだろう、ということは何となくわかった。計算問題の場合の「=」はやはり右辺から左辺への動きを有するものだ。だが、その動きが一つの数に到達すべきだというルールが「計算する」という言葉の意味に書き込まれているのだろうか?
 たとえば、
3+2=(2+3)
ではいけないのか? 左辺と右辺は等しく、かつ、そのまま丸写しにするのではなく、ある操作を施されている。いや、それは見かけだけのもので、左辺の「2」と「3」がそのまま右辺に現れているから「計算した」ことにはならない、という反論があるかもしれない。では、
3+2=(1+4)
ならどうか? テストでこう回答したら×になるのだろうか?
 この疑問はしばらく私を悩ませた。しかし、本当にテストで零点をとるといやなので、実行はしなかった。そして、そのうち私はこの疑問を忘れてしまった。「計算する」という言葉の意味がわからなくても、算数のテストで満点をとることは簡単だったし、テストで満点をとったら先生も両親も褒めてくれた。そんな環境の中でいつまでも病的な疑問を考え続けることは私にはできなかった。
 たぶん私はその時、概念と世界のひび割れが見えなくなる「魔法のメガネ」をかけたのだろう。そのおかげで、私は廃人にならずに今も生きている。
 すぐ後の「そんなこんなで」で察した人もいるかもしれないが、「魔法のメガネ」云々は『月姫』を念頭に置いている。ただし、『月姫』の主人公が持っている能力は使いようによっては役に立つが、こっちは全く何の役にも立たない。その点が大きく違っている。

 そんなこんなで『月姫』アルクルート完了。トゥルーエンドとハッピーエンドの分岐となる選択肢の意味がよくわからなかった。続いて秋葉ルートへ。今度は攻略チャートを見ないことにしよう。 

1.10111(2002/01/12) お前が言うな!

 Aの言動をBが批判する。ところがBはAと同じことをやっている。つまりAに対する批判はB自身にも妥当する。そんな場合、Aまたは傍観者は「お前が言うな!」(「2ちゃんねる」だったら、「オマエモナー」)と言う。
 Bはそのような批判をする権利を持たないのだろうか? そして、BがAに対して投げかけた批判は無効なのだろうか?
 ちょっと極端な例を考えてみよう。Aは今まさに殺人を犯そうとしている。その場にたまたま現れたBは過去に人を殺している。Bが殺人犯であることは誰もが知っており、またB自身も認めている。ついでに(ここまで仮定する必要があるかどうかはわからないが)Bは逮捕時の捜査当局の手続きミスにより無罪となっている(日本では起こりにくいが、アメリカではよくある話だという)としよう。そんなBがAに対して「人を殺してはいけない」と言って、その行動を阻止しようとする。Aは「お前が言うな!」とやり返す。
 この状況では、直観的にはBのほうが正しいと思われる。Bがいかなる人間であれ、当座の問題はAが行おうとしている犯罪行為のほうなのだから、とりあえず分けて考えるべきだ。もしBに殺人を非難する権利がなくBの言葉が無効だとすれば、BはAの行為を黙って見過ごすのが正しい選択ということになるが、それはおかしい。よって、BにはAの行為を非難する権利があり、かつ、非難の言葉は有効である、と言いたくなる。
 では、別の状況を考えよう。今度はAは既に殺人を犯したあとだ。逮捕され、警察署に連れて行かれるAを野次馬たちが口々に罵っている。その中にBも混じっていて、「お前のような奴は人間のクズだ」と言ったとしよう。そして、Aは言い返す。「お前が言うな!」と。
 先の場合と同じように当座の問題をAの犯罪に限定するとすれば、Bの批判は正当なものだ、と強弁できるかもしれない。だが、それは私たちの直観に反する。他の野次馬がどうであれ、少なくともBにはAを誹る権利はないと思われる。さて、これはどういうことだろう?
 基本的にはBはAの犯罪を非難する権利をもたない。自らの過去の行いを棚に上げて他人の行動をとやかく言うのは公平ではない。だが、これから犯罪が行われようとする緊急の場合は例外となる。Aの殺人を阻止するのが最優先だから、Bの罪はこの際棚上げにすべきだ。こう考えるのがもっとも穏当だろう。
 だが、この考え方を拡大し、犯罪や道徳的批判の対象となる事柄以外にまで応用しようとすると、どうなるか。ここで私が考えているのは、どうしようもなく詰まらない小説に対する批判とか、そういったレベルの話だ。作者と作品はいちおう切り離して考えることができるので、批判する権利と批判そのものの有効性も分けて考えるべきなのだが、実際にはなかなか簡単にはいかないだろう。
 このテーマについて、具体例を挙げて突っ込んで論じてみたい気もするが、今はちょっと準備不足なのでやめておく……って何でこんな話になったのだろう? 最初は捕鯨問題について書くつもりだったのだが。

 文章が迷走したところで、おしまい。これから部屋の整理をして、埋もれた『月姫PLUS-DISK』を探すことにする。

1.10112(2002/01/12) 見つからなかった

 ええ、部屋の中を引っかき回しても『月姫PLUS-DISK』はどこにもなかったんです。ああ、私はいったいどうすればいいんでしょう?
 買い直す、か。
 それはともかく、秋葉ルート完了。トゥルーエンドを見て昨日少し触れた式貴士の『マスカレード』をまた思い出した。いや、それほど似ているわけではないのだけれど。
 あまりネタに触れるとまずいので、最小限の補足に留める。『マスカレード』と『月姫』秋葉ルート(トゥルーエンド)は叙述方法に類似がある。すなわちラストで主人公の一人称からヒロインの一人称へと切り替わるということ。

1.10113(2002/01/13) 『月姫』の感想

 今日はただ『月姫』のために一日を費やした。ようやく翡翠ルートと琥珀ルートを終え、コンプリートした。CGモードが埋まっていないので、もう少し「作業」をする必要があるが、とりあえず感想を書いておくことにする。といっても、発売から一年以上経ったゲームだから既に感想文など山のようにあるだろう。そこで二つの点に絞って簡単に述べるだけにしておく。
 第一に、複雑な設定の背後にある「死の多義性」について。私は「死」という概念には一つの意味しかないと考えている。ある時点tまで生きていた者が、その時点を境に居なくなるということ、それが死である。では、「生」とは何か、という問いが発生するわけだが、そんなもの答えようがない。「生/死」という概念対は、「存在/無」の概念対を生命に当てはめたものだから、要するに「存在とは何か?」というのと同程度に難しい問題だ。ともあれ、私は存在概念に多義性を認めない。「存在しないが、有る」というのは言葉の乱用に過ぎないと思う。従って、「生」も一義であり、「死」もまた同様。「心臓死か、脳死か」などというのは、死の判定基準に関わる問題であり、「死」が多義的であるということにはならない(この概念が曖昧である、とはいえるだろうが)。
 ところが、『月姫』にはやたらと異質な「死」が登場する。それは身体の死であったり、魂の死であったり、意味の死であったりする。特にアルクェイド&シエルルートはこの「死の多義性」によって支えられているといっても過言ではない。そして、非常に複雑な形而上学が姿を現す。ただし、それは決して単なる能書きではなく、純粋に物語に奉仕している。私には「死の多義性」は受け入れられないが、この物語は受け入れられる。いや、それどころか、かなりどっぷりと浸かり込んでしまったことは、ここ数日の記事を読んだ人には言わずもがなのことだろう。一つの物語のためにこれだけの世界を構築してしまうというのは凄いことだと思う。そして、構築した世界に振り回されずに、物語を流れるように語るということも。
 もう一つは、人物配置と叙述面でミステリ的な要素が強く出ているということについて。アルク&シエルルートで死の形而上学が物語を牽引してゆくのと同じ位置を、遠野家ルートでのミステリ的要素が占めている、というのは図式的に過ぎるかもしれないが、翡翠ルートでの叙述技巧の冴えはお見事としか言いようがない。こういうふうに書くと、叙述トリックを使っているのかと誤解されそうだが、そういうわけではなくて、ちょっとした言葉の端々に見られるダブルミーニングの数々が物語の屋台骨となっているのだ。私は、ふとディクスン・カーの『三つの棺』を連想した。もっとほかに言及すべき作品があるだう、という声も聞こえてきそうだが、連想したものはしょうがない。同じ吸血鬼ネタ、ということで……。
 ミステリ的、と言ってはみたが、こと叙述上のダブルミーニングについては、読者(あえてここでは「プレイヤー」と言わず「読者」と言うことにする)を誤導するためのものではない……のだと思う。『月姫読本』の攻略フローチャートを見る限りでは、遠野家ルートへ行くためには最低エンディングを一つ見ておかなければならない。ということは、読者は既に人間関係の構図の大きなポイントを知った上で、技巧に満ちたテキストを読むことになる。一旦最後までストーリーを追ったあとで、細部の描写の技巧を味わうためにミステリを再読する、そんな読み方だ。いや、それよりもネタばらしをされたミステリを読む場合のほうが近いかもしれない。そんな読みを前提として物語を語っていくことなど、なかなかできることではない。
 感想というか、単に思いついたことを書き並べただけだが、別に評論を書くつもりはないので、これでよしとする。あとは……そうそう、これを言い忘れていた。非常に長い物語を数日に渡って断続的に追い続け、日常と非日常の間を行ったり来たりするという経験、そして物語に没入して我を忘れて先を追い求めるという経験は、ながらく私が忘れていたものだった。いや、これほどの規模の物語となると、過去に二回しか経験していない。一つはディケンズの『荒涼館』、もう一つは隆慶一郎の『影武者徳川家康』だ。この二作が私のベストというわけではない(どちらかといえば私は短いほうが好きなので)し、そもそも『月姫』と比べてみても始まらないのだが、何となく言及してみたくなった。
 本当は『痕』あたりを引き合いに出すのが適切なんだろうな。でも、もう語られ尽くしているだろうから、もういいや。乱暴な文章だけど、半時間で書いたんだから、こんなものだ。これ以上時間をかけたら、印象がぼやけてしまうし。