日々の憂鬱〜2002年9月上旬〜


1.10358(2002/09/01) 雑記

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020901a

 今日から9月である。9月1日といえば「防災の日」、言わずと知れた関東大震災記念日である。ちなみに1月17日は「防災とボランティアの日」だ。
「関東大震災と阪神大震災の両方を体験した推理作家は誰か?」という質問に答えられる人はそう多くないと思う。これをクイズとして提示し、正解者には何かプレゼントを出すことにしてもいいのだが、面倒なのでそんなことはしない。さっさと答えを書いてしまうことにしよう。正解は、「天城一」である。ちなみに天城氏は東京大空襲も経験しているそうだ。「この世の地獄」を三度も経験しながら、今なおミステリの執筆を続けている(作品リスト)というのは驚嘆に値する。今後も末永く活動していただきたいものだ。
 別に「防災の日」に合わせて出したわけではないだろうが、甲影会から『別冊シャレード第70号 天城一特集7』が出た。まだ現物を入手していないが、とりあえず宣伝しておこう。どうせ300部くらいしか刷っていないはずなので、買うなら今だ。ここで買い逃したら末代まで後悔することだろう。
 そういえば、コミケ会場で甲影会のブースの前を通りかかったときに、たまたま近くにいた見ず知らずの人に「今買っておいたら50年後にお孫さんに『お爺ちゃんは天城一の本を持ってるんだよ』と言って自慢できますよ」と言って、無理矢理『天城一特集6』を買わせたことがあった。あの人は今何をしているのだろうか……。

 昨日まで断続的に連載(?)した「『十八の夏』を読む」が終わって、ほっと一息ついた。それと同時に気合いが抜けてしまった。しばらく腑抜けた文章が続くと思うがご容赦頂きたい。
 と前置きして、他サイトへの言及でお茶を濁すことにする。
 まず、白黒学派で44444ヒット記念で行っていた「批評郵便」の結果発表から。
 参加者は私を含めて7人(全員サイト持ち)で、コメントはそれぞれ誰が書いたかわからない形でアップされている。文体や内容をもとに、どのコメントを誰が書いたのかを考えてみようと思ったのだが、よく考えてみると7つのサイトのうち私が定期巡回していないサイトが3つもある。これでは推理ができない。そこで、とりあえずリンク先を辿ってみることにした。

ブリッジ歩行はもうできない。
サイト名が秀逸。"泣きのツボ"の一つ(あとの二つはよくわからなかった)が「その日パタリロは、生まれて初めて、心の底から泣きました。」というのは同感。私はマンガで泣いて、アニメでもう一度泣いた。お役所の寵小妖精たちはまだあまり内容はないが、着想は面白いので今後に期待。余談だが、私は密かに「全国警察マスコットキャラ集成」というのを構想している。
Mystery Laboratory
サイト名のとおりミステリ関係の情報サイト。これはなかなか便利だ。ブックマークに登録しておいて後でじっくり見ることにしよう。とりあえずトップページにある『十八の夏』の感想文リンクのリンク先は全部見たが、私の感想文はとことんずれていることがわかった。と、これは「Mystery Laboratory」とは直接関係ない話なので、また後で。ところで、同じくトップの某記事で9/7ぐらいに締切の企画がどこかであるような、そんな遠い記憶が呼び覚まされようとしつつあるのを感じる。
Steptext
ごく普通の日記なのだが、濃密な毎日を過ごしているように感じられる。田舎住まいの私にと到底なし得ないわざである……と地理的条件のせいにしてしまおう。いや、もし私が東京に住んでいたとしても、休日は引きこもってしまい、美術館や展覧会に行ったりはしないだろう。う〜ん、今度東京に行ったら上野の美術館をハシゴしてみようか?
 ……というわけで、当初の目的を忘れて、リンクからリンクを辿ってあちこち見るだけに終わってしまった。まあ、いつものことだ。
 ところで、「批評郵便」のコメントで「■■■■」と伏せ字になっている部分があった。ここに入る4文字が私の想像通りだとすれば、ぜひ『オイディプス症候群』でお願いしたい。

 先ほどのMystery Laboratoryのリンク先に『十八の夏』出版記念企画パズル光原百合普及委員会内)があった。どういうパズルかというと、クロスワードの変種で空欄に入る語は指定されているがどこに入るかがわからないというもの(いわゆる「スケルトン」。正式名称は別にあったと思うが忘れた)で、「はりーぽったーとけんじゃのいし」という15文字の言葉があるから、それほど難易度は高くないだろうと思う。ぜひ挑戦していただきたい……と言いつつ、私は根気がないので参加する気はない。
 ついでなので『十八の夏』についてもう少し書いておく。今日、「小説すばる」9月号に掲載されているインタビュー記事を読んだ。光原氏は当初『イノセント・デイズ』を本の総タイトルにしようと思っていたそうだ。私はこのような片仮名タイトルはあまり好きではなく、芸のない洋画の邦題くらいにしか思っていなかったのだが、その記事を読んで「もしかして『The Innocence of Father Brown』と関係があるのではないだろうか?」と思った。といっても内容に類似点があるというのではない。
 『The Innocence of Father Brown』はチェスタトンのブラウン神父ものの第一短編集だが、タイトル中の「Innocence」がなかなか日本語に訳せないそうで、創元推理文庫では「童心」、ハヤカワポケミスでは「無知」というふうに全然別の言葉に訳しているのが実状だ。昔、本屋で(なんと新刊書店で!)新潮文庫版『ブラウン神父の純智』という本を見かけたことがあり、いったいどの本のことなのか不思議に思ったのだが『奇妙な足音』が収録されているのだから、やはり第一短編集なのだろう。
 「童心」「無知」「純智」、またブラウン神父の本の題名から離れれば「無罪」などという意味もあるこの言葉(「イノセント」だと形容詞だが、名詞形と意味が大幅に違うということもないだろう)を単純に日本語に訳して『無垢な日々』などとしなかったのは、たぶんそれなりに理由があってのことだろう、と思った次第。
 『イノセンス・デイズ』についてもう少し。最初これを読んだときに、私はなんとなく『ハイスクール・デイズ』(城平京)を連想した。タイトルで重なっているのは「デイズ」だけだが、「嫌な話」――詳しくいえば「嫌な"愛"の話」――であるという点がよく似ている。城平京と光原百合、という切り口で何か書けないものかと模索したが……かのバーチャルネットアイドルちゆをして「微妙なミステリ作家」と呼ばしめたこの作家を引き合いに出して一体何を語ったらいいのかがわからず、断念した。なおJUNK-LANDに城平氏の『鋼鉄番長の密室』評があるので興味のある人は参照されたい(細かなツッコミだが、「城平京」は「城平」が姓だと思う)。
 もう一つ、今野緒雪と光原百合、というカップリングも考えていた。当初、感想文の総タイトルを「もう一つの"百合小説"――『十八の夏』を読む――」にしようと思っていたのだが……さすがに無理があるので、やめた。強引にでも書いてしまえば、またアクセス数倍増が見込めたかもしれないのだけれど。

 今日でバッハのカンタータを全部聴き終えた。

1.10359(2002/09/02) 下手の横好き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020902a

 今日は全く何もネタがないので、超短編一つで勘弁してもらおう。

予兆
 はじめは、右手人差し指の第一関節から先に感じた、ほんのささやかな違和感だった。かすかな痺れ、とでもいったらいいだろうか。原因はわからなかったが、特に気にもしなかった。
 この微妙な指先の感覚が、史上名高い"刀伊の入寇"の前触れだということを、その時の私はまだ知る由もない――。

1.10360(2002/09/03) 人面瘡

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020903a

 「人面瘡(じんめんそう)」または「人面疽(じんめんそ)」という名前の皮膚病がある。主に肘や膝などの関節付近にできる、かさぶたのようなものであるらしい。目鼻がついていて人間の顔のように見えることがその名前の由来だが、口はついている場合とついていない場合とがある。もちろん口がついている人面瘡のほうが深刻である。なぜなら、いつ何時喋り出すかがわからないからである。
 昔話では、人面瘡は宿主(という言い方は変だが、ほかにうまい言い方もないので仕方がない)の悪行を告発するということになっている。だが、これは嘘だ。医学が今ほど発達していなかった昔は、純粋な病理現象を「悪行の報い」とか「前世の業」などと呼んで、病人を差別したものだ(今でもある種の宗教団体では、そのような物言いが日常的に通用していると聞く)。人面瘡などという特殊な症例の場合は特に患者を色眼鏡で見る傾向があったのだろう。「この人面瘡は、これまでにこいつが重ねてきた悪さを人々に知らしめるためにお天道様が遣わしたものだ」という解釈で、得体の知れない症状を何とか了解可能なものにしようとしたのだろう。また「悪い子には痛くて醜い人面瘡ができるんだぞ」と言って子供をたしなめるという教育的効果を見込んでいたのかもしれない。ともあれ、人面瘡は宿主の隠し事を明かすという伝説は迷信に基づくものだと言わざるをえない。
 では、実際には人面瘡はいったい何を言うのか? 私は医者でもなければ生理学者でもないので、この質問にはっきりとした答えを与えることはできない。だが、人面瘡の言葉の内容を想像することくらいはできる。思うに、言葉を喋るというのは万物の霊長たる人間にのみ与えられた能力であり、たかだかかさぶたごときにまともな言葉が喋れるわけはないのだから、おそらく鸚鵡がそうするように、人の言った言葉を聞き覚えて意味もわからずに繰り返すだけではないだろうか。あるいは、多少気の利いた人面瘡なら、人工無能程度の受け答えはできるかもしれない。たとえば、
「やあ、こんにちは。人面瘡クン」
「やあやあ、こんにちはこんにちは人面瘡クン」
「人面瘡というのは君のことだよ」
「そう、人面瘡というのは君のことなんだ」
「いや、違うって。君は人面瘡だけど、ボクはそうじゃない」
「そうそう、確かに君は人面瘡だけど、ボクはそうじゃないんだ。気が合うね」
「もういい」
「もういいのかい?」
「そう、もういいんだ。ボクは人面瘡とおしゃべりするほど暇じゃないんだ」
「そう、そうなんだ。ボクは人面瘡とおしゃべりするほど暇じゃないんだ。でも、もしボクが人面瘡とおしゃべりするほど暇じゃないなら、もしボクが人面瘡とおしゃべりするほど暇だとしても、ボクは人面瘡とおしゃべりするほど暇じゃないんだね」
「何言ってるんだ、矛盾してるじゃないか!」
「いや、矛盾してないよ。Aならば、BならばA、だ」
「もういい、人面瘡ごときに論理学の説明をされるのは不愉快だ」
「ああ、まったく。人間ごときに論理学の説明をするのは不愉快だ。君とボクは気が合うなぁ」
という程度の会話を交わすことができる人面瘡があるかもしれない。もちろん、そんな人面瘡はないかもしれないが。
 さて、さらに想像を広げてみる。上でも述べたように、人面瘡は主に関節付近にできるのだが、必ずしもすべての人面瘡がそうであるとは限らない。中には背中や腹にできるものもあるだろう。そして、顔面に人面瘡ができる可能性も全くないとは言い切れない。また――通常、人面瘡は大きくて直径5cm程度だが――顔面を覆い尽くすような巨大人面瘡もあるかもしれない。本来の顔を全く隠してしまい、もとの目のあった位置に人面瘡の目が、鼻の位置に鼻が、口の位置に口がそれぞれぴったり合わさったとしよう。すると、傍目にはごくふつうの人間の顔のように見え、人面瘡とは気がつかないのではないだろうか。
 また、もっと極端なケースを考えてみる。胎児のときに人面瘡を発症し、上に書いたとおり顔を覆い尽くしてしまったとする。生まれてきたときには既に素顔は隠されてしまっており、人面瘡が本当の顔だと誰もが思っている。すると、当の宿主本人も、それが自分の顔だと信じ込んでしまうのではないか。そして、人面瘡が勝手に喋っている言葉を自分の言葉だと勘違いするのではないか。
 いや、そんなはずはない。自分が思っていることと話していることとの間にずれがあったら、誰だって変に思うはずだ。そう言いたくなる。だが、胸に手を当てて考えてみよう。我々は、心の中でまず言葉を組み立ててからそれをそのまま口に出す、という面倒な手続きをいちいちとっているだろうか? そうではないだろう。たいていの場合、特に「どういう言葉を発しようか」などと考えたりせずに、自然に言葉が口から出てくる。そして、事後的に、その言葉が自分の考えていたことだと思うのである。
 そうすると、私は自分の顔が本当の素顔であるとは断定できなくなる。人面瘡がある時には私の気持ちを代弁し、ある時には何も考えていない私の代わりに言葉を紡ぎ、またある時には私の意に反することをぺらぺらと喋っている(その場合でも、私は「ああ、心にもないことを言ってしまった」と、さも自分が喋ったかもように誤解し、後悔する)のかもしれない。私はこの考えをどうやっても払拭することができない。

 会社でこの話をしたら、周囲の人々に変な顔をされた。もしかしたら私の顔に人面瘡ができていたのかもしれない。

1.10361(2002/09/04) 下へ下へとどんどんと

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020904a

 今週の月曜から三日かけて『17歳という病――その鬱屈と精神病理』(春日武彦/文春新書)を読んだ。先月『十八の夏』(光原百合/双葉社)を読んだので一歳若返ってみようと思った、というのではない。後輩に薦められたからだ。ちょうどダウナー系の本を無性に読みたくなっていたので、行きつけの書店で見つけてすぐに買った。そして、今日ようやく読み終えたというわけである。
 とにかく呆れるほど著者の鬱屈ぶりが表れた本である。たとえば、

幸せというものが現実や自己をたとえ瞬間的にでも全肯定することであるなら、わたしはいまだかつて幸せを味わったことなど一度もない。
という一文(48ページ)を読んだだけで、そのことがよくわかる。
 表題から推測すると、数年前の西鉄バスジャック事件の犯人のような、いわゆる「キレる17歳」をテーマにした本のように思われる。だが、実際には筆者自身の17歳の頃を中心とした思い出話が大半を占め、しかもアメーバだとか回転展望食堂(そういう施設がかつて日本中にあったらしいが、私はこの本を読むまで知らなかった。今でもあるのだろうか?)などといった、他人にとってはどうでもいい話題をほとんど嫌がらせのように延々と語り続けるのである。
 それだけでもかなり異様なのだが、後半に至って徐々に悪態とも毒舌ともつかぬ文章が増してゆき、鬼気迫る雰囲気を醸し出す。いちばん凄いところを引用してみよう。
 ついでに、わたしが今までに少女たちが使う言葉の中でもっとも汚い言い回しだと思ったのは「ケチャマン」という語である。生理中の女性生殖器は血がついているので、さながら「おまんこがケチャップまみれみたい」ということから、生理を称してケチャマンというらしい。その愚鈍で幼稚で不潔な言語感覚は限りなくわたしを苛立たせる。ケチャマンなんて言葉を口にした奴は、金属バットで力まかせに顔(つら)を殴られても当然である。ケチャヅラで死ぬのがおまえには相応しいよ。
 これ(153〜154ページ、ただし原文のルビは丸括弧内に記した)を読んでしまったせいで、しばらくオムライスが食べられそうにない。舌なめずりしてほくそえむ土屋隆夫を描いた筆致は未だに健在、いや、輪をかけて激烈なものとなっている。まるでスウィフトのようだ。

 続いて『さみしい男』(諸富祥彦/ちくま新書)を読み始めた。今度こそダウナー系だろうと思って読んでいると、確かにそれはそうなのだけれど、私が想像していたのとはちょっと視点が違っていることがわかってきた。最近の男には元気がない、さみしい男が増えている、ということをつらつらと書いているのだが、

 明確な目標を持ち急速な成長を続ける"攻め"の社会では攻撃性が存分に発揮されうるから男たちが元気になる。けれど今の日本のように、既に一定の成長を遂げ、停滞しきった"守り"の社会では、男たちは覇気を失っていく。つまり、ターゲットなき社会では、男たちは去勢されざるをえない、というのが、私の考えです。
などという文章(13ページ)は、春日武彦の毒が回った身では素直に受け入れられない。我慢して読み進めるか、ここで投げ出すか、ちょっと思案中。

1.10362(2002/09/05) アクセス数30000ヒット突破記念更新停止のおしらせ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020905a

 当「たそがれSpringPoint」は本日、30000ヒットを突破した。なお、10000ヒット達成が5/13、20000ヒットは7/17前後(この頃アクセスカウンターの調子が悪く、数字が増えたり減ったりしていた)だった。現在はユニークアクセスで一日200ヒット前後でほぼ安定しているので、このまま順調にサイト運営をしていけば10月末には40000ヒット達成することになるだろう。
 さて、この機会に何か企画を立てるといいのだが、咄嗟には思い浮かばない。今月20日と来月1日には、それぞれサイト開設及び正式公開一周年を迎えるので、その機会に何かやろうとは思っているのだが、一体何をすればいいのかわからず困っているくらいだ。
 でもって、私は一体何をすればいいのか、ということについて考えるため、明日と明後日の二日間サイトの更新を停止する。別に30000ヒット突破とは何の関係もないのだが、切りがいいので記念企画ということにしておこう。

 昨日の文章を書いたあと、回転展望食堂のことが気になり、Googleで検索してみた。どうやら韓国には今でもあるらしい。少し意外だったのが、「たそがれSpringPoint」が5件中2件目にランクインしていたことだ。いったいどういう基準でランクづけしているのか、不思議でならない。
 ちょっと嫌な予感がして、別の検索語で試してみた。約286件中トップだった。ひどいよ、Google。

1.10363(2002/09/08) 吾妻線遙かなり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020908a

 先週体調を崩して使えなかった「青春18きっぷ」の有効期限が9/10に切れる。その前に消化しておくべく、私は群馬へと旅立った。
 9/7(土)、天気は雨模様。上野駅5番ホームに立つ私の鞄の中には秋葉原の某"調子に乗って上場したのはいいが株価が下がってあら大変なショップ"で買ってきたライトノベルが4冊――『悪魔のミカタ(5) グレイテストオリオン』(うえお久光/電撃文庫)と『イリヤの空、UFOの夏』(既刊3冊)(秋山瑞人/電撃文庫)――が入っていた。旅先での暇つぶしはライトノベルに限る。マンガはすぐに読んでしまうし嵩張るし、難しい本を読むと眠くなる。ライトノベルを数冊鞄に入れておけば、文化最果ての地でも安心だ。いや、別に群馬県が文化最果ての地だというわけではないけれど。
 上野駅11時25分発高崎行き、3927M快速「アーバン」はE231系10輌編成で、基本は4扉ロングシート車だが、一部セミクロスシート車がある。背もたれが直角のボックスシートであまり座り心地がいいわけではないが、ある程度長時間座っている場合には進行方向に直角であるよりはかなり楽だ。そう考えて私は最後尾の車輌に乗り込んだ……というわけではない。実は高崎線に乗るのは久しぶりで、最後に乗った時には115系(3扉セミクロスシート車)だったので、どの車輌でもボックスシートくらいあるだろうと思っていたのだ。私の鉄道車輌に関する知識はせいぜいその程度。
 「アーバン」の車内で『悪魔のミカタ(5) グレイテストオリオン』を時間を忘れて読みふけり、気がつくと終点高崎だった。正13時着。ここで27分の待ち時間がある。夕方もう一度この駅に来る予定なので、土産物屋とそば屋の位置を確認しておいた。
 高崎13時27分発吾妻線万座・鹿沢口行き、537M普通列車は昔ながらの115系車輌を用いていた。ローカル線の風情漂う車窓風景をちらちらと横目で見やりながら、さらに読書に励む。電撃文庫にしては厚めの『悪魔のミカタ(5)』(あとがき込みで425ページ)をようやく読み終え、『イリヤの空、UFOの夏 その1』にとりかかったところで、万座・鹿沢駅着。15時13分だった。駅前に出るとひどり降りで、橋を渡って嬬恋村のメインストリートをいくらか歩いたものの、特に見るべきところもなく駅に逆戻り。待合室で再度『イリヤの空』のページを開いた。
 ここで吾妻線の紹介をしておこう。上越線渋川から分岐して終点大前までの営業キロ55.6キロ、全線単線電化の地方交通線である。途中「小野上温泉」「川原湯温泉」と二つも温泉名を冠した駅名があることでわかるように沿線には温泉が多く、上野から直通の新特急「草津」号が定期列車だけで4往復もある。だが、それは終点の一つ前の万座・鹿沢口までで、終点の大前には普通列車が一日わずか5往復乗り入れるのみ。大前にも温泉があるそうだが、定期バスが運行されているのかどうか寡聞にして知らない。
 万座・鹿沢口で私は16時33分発大前行き539M列車を待った。なぜか? そこに線路があるからだ。「線路あるうちに線路の上を進め」と先人も言っている。
 ところがところが……。次の電車を待っている間に雨足はどんどん強くなり、とうとう電車が止まってしまった。いつ運転再開するのかもわからない、と駅員は言う。今なら代行タクシーで長野原草津口まで送るがどうするか、とも。私は迷った。特に大前に用があるわけではない。ただ吾妻線が未乗線区だったから、余った「青春18きっぷ」で乗りに来ただけだ。だが、せっかく乗りつぶしをしようと思っているのに、最後の一区間を逃しては一体何をしているのかがわからない。「乗りつぶしの論理」では、この一区間は吾妻線全線と等価である。なぜなら、万座鹿沢口〜大前間を乗るためには、それ以外の区間も乗らざるを得ない。いや、バスで万座鹿沢口まで来て、未乗の一駅間のみ電車に乗るという選択肢はないことはないのだが、それは常識はずれというものだ(「乗りつぶし自体が常識から外れているのでは?」などというツッコミは却下する。ここではあくまでも「乗りつぶしの論理」をもとに検討しているのだから)。さら言えば、上野〜渋川間は既乗区間なので、ここで大前行きを諦めるということは、朝からの私の行動のすべてを否定するということになってしまう。
 そして、私は決断した。
 そう、大方の人には想像がついていることだろうが、私はこう考えたのだ。「やっぱり、私には鉄道マニアの素質がない」と。
 代行タクシーで長野原草津口まで送ってもらい、そこからさらに代行バスで中之条まで行き、そこから電車に乗って途中高崎で乗り換え、すごすごと東京へ引き返してきたのだった。
 夜行バスを待っている間に『イリヤの空』を一冊読み終えた。先に読んだ『悪魔のミカタ』と併せて二冊。これが私の昨日の行動のすべてである。

 昨日のことはまるで昨日のことのようによく思い出せるのに、一昨日の記憶はおぼろげだ。金曜日だったので、たぶん会社に行って仕事をしていたはずなのだが、ここ(9/6,7付)を見ると、奇妙な記述がある。慌てて深川氏の日記を見たら「A氏」「B氏」などと書かれているので確証は掴めなかったのだが、かすかな記憶を辿ってみると土砂降りの雨の中誰かと電話でトホホな話をしたような気もしないではない。とすると、「A氏」は私で、「B氏」が冬野氏、ということになるのだろう。ちなみに「C氏」は私もお会いしたことはないのだが、この人であるらしい。

 先日Googleの奇妙な検索結果と関係あるのかどうかはわからないが、まいじゃー推進委員会!9/7付の記事中の「googleキャッシュに異変あり」という文章を見ると、最近Googleは一部のサイトの巡回頻度をあげたらしい。これが本当に「ランクが一定以上のサイトへの巡回頻度をあげた」のなら嬉しい。だが、最近更新されたサイトに過敏反応しているのだとすれば、検索エンジンとしては失格だろう。例の検索語引っかかった文章中では、BLOCKQUOTEタグで囲まれた箇所(要するに引用文中)にしか出てこないのだから、本文中の語よりも重みが少ないと判断するのが普通だと思うのだが。

1.10364(2002/09/09) 東京で買ってきたCDの話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020909a

 今日は見出しそのままである。
 まずは『洋楽事始』というCD。日本における「洋楽事始」といえばお雇い外国人とか音楽取調掛などを連想する人もいるだろう(何も連想しない人のほうが多いと思うが、それでは話が進まないので、最低明治期の音楽受容過程についての知識はあるものと仮定して話を進める)が、実はそれより300年くらい前にヨーロッパの音楽は日本に入ってきていた。日本に西洋音楽を伝えたのは宣教師たちであり、従ってキリスト教音楽が中心であったため、江戸時代にキリスト教禁教政策により徹底的に弾圧され、当時の音楽状況を知る手がかりはほとんどない。
 それでも時代を超えて現代にまで伝えられているものが二つある。一つは1605年に長崎で印刷された「サカラメンタ提要」の楽譜であり、もう一つは生月島の隠れキリシタンが代々伝えてきた「オラショ」(ラテン語、ポルトガル語の「oratio」が訛った言葉で、「祈り」という意味)である。なお、「オラショ」は以前紹介した柴田南雄の『宇宙について』でも素材として用いられている(『宇宙について』では「おらっしゃ」だが、同じものである。)。『洋楽事始』は2枚組で、1枚目には「サカラメンタ提要」が、2枚目には「オラショ」がそれぞれ収録されている。「オラショ」については、『洋楽事始』の企画者である立教大学名誉教授皆川達夫氏のオラショとグレゴリオ聖歌とわたくしを参照されたい。ついでに生月町のウェブサイトにもリンクしておこう。
 さて、この『洋楽事始』はもとは1976年にLPで発売されたが、長らく入手困難であった。皆川氏の著作ではよく言及されているものの現物が手に入らず、子供の頃の私(たぶん最初にこのレコードのことを知ったのは中学生の頃だったと思う)は、いつか『洋楽事始』を聴ける日が来ることを夢見ていたものだった。我が青春はすでに過ぎ去り、いつの間にかそんな事は忘れてしまっていたけれど。1998年にCDで再発売された時には、レコード店で見かけたら買おうとは思っていたが、予約注文するほどの思い入れはなかった。そして、案の定、どこのレコード店でもこのCDを見かけることは全くなかった。
 その『洋楽事始』に出会ったのは、銀座の山野楽器である。このCD自体が山野楽器の企画・販売によるものなので置いていても不思議はないのだが、ここを見ると既に廃盤になっているそうだから、私はかなり運がよかったのだろう。
 実際に聴いてみると、「サカラメンタ提要」はただのグレゴリオ聖歌集で、とりたてて言うことは何もない。「オラショ」のほうは60過ぎた老人がぼそぼそと呟いているだけという感じで、予備知識なしに音だけ聞いても退屈なだけだろう。だが、音楽とは、耳で聴くものではなく頭で聴くものだ。呟きの中に隠れキリシタン400年の歴史を聴き込んでみれば、これほど興味深い音楽もない。当初の目的が全く達成できなかった今回の旅行も無駄ではなかった。
 さて、山野楽器の同じ棚には『諧謔音楽 江戸時代『出島』で奏でられたオランダ音楽』というCDもあった。曲目を見るといろいろと首を傾げる点があり(本当に出島でダウランドやカッチーニが演奏されていたのか?)少々胡散臭い感じはしたのだが、もしかしたら当時の演奏会の資料か何かが残っているのかもしれないと思い、とりあえず買ってみた。が、演奏者の一人である佐藤豊彦氏(この人は皆川達夫氏の弟子だ。どうでもいいが、『頭の体操』で有名な多湖輝氏が皆川氏の同級生だというのには驚いた。いや、本当にどうでもいい話なのだけど)の解説に

その江戸時代に長崎の「出島」を通して日本へリュート、リコーダー、ガンバ、ヴァージナルなどの楽器を持ち込んで演奏しています。しかし、それらの楽器でどのような音楽が演奏されたか具体的には知られていません。
と書かれていて、一気に脱力した。なんじゃそりゃ。だが、音楽とは頭で聴くものではなく耳で聴くものだ。リュートまたはテオルボ、ソプラノ、リコーダーの三人だけで演奏される雅やかな音楽は私の好みだったので、よしとしよう。

 東京で買ったCDはほかにもあるのだが、まだ聴いていない。そのうち気が向いたら紹介するかもしれないし、しないかもしれない。

 ただ、風のために。5おまえら美しい日本語をお使いですか?を読んでふと疑問を感じた。高橋氏は言葉に美醜がないと思っているのだろうか? それとも文藝春秋臨時増刊『美しい日本語』にみられるイデオロギー(というのが具体的にどんなものなのか私はよく知らないのだが、たぶん「新しい国語教科書を作る」という感じのものなのだろう)に反発しているだけなのだろうか? どちらにもとれるのだが。
 なお、私は言葉には美醜はあると思っているが、それよりも言葉の貧富のほうに関心がある。「言葉の美醜」と「言葉の貧富」と並べて書いてしまったが、これらは別の話だ。「美しい」「貧しい」は言葉そのものの持つ属性を表す語だが「豊かだ」「貧しい」は言葉を運用する人間の能力を形容する語だ。たとえば「むかつく」の場合は……と書いたところで時間切れ。

1.10365(2002/09/10) ペンギンは赤道直下にもいる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0209a.html#p020910a

 今日は昨日の文章の最後で尻切れトンボになっていた「言葉の美醜」の話の続きを書く……つもりでいたのだが、なんだかやる気が起きない。
 そもそも「この言葉は美しい/醜い」という判断は慣習に大きく依存するところがあって、その慣習に親しんでいない人に対して何らかの論拠をもって説得することは非常に困難である。ある言葉の美醜について意見が分かれたときに自説を論証しようと思っても水掛け論になってしまうのがオチだ。個別の語について自分の意見を説得的に述べることができないとすれば、「言葉には美醜がある」という主張自体が空虚なものになるだろう(もちろん、同じことは「言葉には美醜はない」という逆の立場の主張についても成り立つ)。
 「美醜」ではなく「貧富」のほうに目を向ければ、上記のような問題は生じないのではないか。そんなふうに考えて、昨日は「むかつく」を例に挙げて検討する寸前までいって、そこで時間切れになった。その時の予定では、『不幸になりたがる人たち』(春日武彦/文春新書)から若者言葉の貧しさについて論じた箇所を引用し、それをもとにいろいろと考えてみるつもりだった。ところが肝心の本が埋もれてしまってみつからない。同じ著者の『17歳という病』(文春新書)に前著の引用がある(156ページ〜157ページ)ので、それを孫引きしてもいいのだが、当てにしていた本が見つからないというだけで意欲が大幅に削がれてしまい、どうせ誰も関心をもっている人などいないのだし、ここで「むかつく」についてあれこれ書いても納得する人は少なくて、むしろ反感を覚える人のほうが多いだろうし、それでも理路整然と反論してくる人があればそれはそれなりに意味があることなのかもしれないだろうが、たぶん鼻先でふんと笑って黙殺されるのが関の山で、結局私の自己満足の駄文として過去ログ行きになってしまうわけで、それはともかく今日の昼に食べたねぎとろ丼定食は880円でざるそばとプリンがついていて試しに食べてみるにはいいかと思ってついふらふらと注文してしまったのだが、ねぎとろがご飯の上にちょっと乗っているだけで、ざるそばはなぜか寿司の容器に入っていたし、プリンを砕いて丼の上に載せて食べたら甘ったるくてまずそうだからたぶんデザートとして食えというつもりなのだろうが、デザートにはもう少しあっさりしたものがほしいと思ってしまい、この880円は何だったのか、これだけあればマクドナルドで170円のハンバーガーと210円のチーズバーガー(いずれも関西空港での価格。9/6調べ)をそれぞれ2個ずつ食べてもまだお釣りが出るではないかと考えてしまうとますます意気消沈してしまった。
 それでも、いちおう文藝春秋臨時増刊『美しい日本語』を買って読むつもりで本屋に行ったのだが、いざ手に取ってみると、大勢の執筆者が好き放題に自分の意見を述べているだけのような気がして、全体的にある種の雰囲気がもやもやと漂っているような気はするのだが、その雰囲気をうまく掴み取って言語化し、いくつかのテーゼの形にまとめた上で反論ないし擁護するということは私には到底できそうにないし、それができないのならもともとさして興味がある話題ではないので買っても仕方がないと思い直した。
 そういうわけで昨日何となく考えていた計画は崩壊してしまったのだが、それでは私が費やした880円は何だったのかがわからなくなってしまうので、多少八つ当たり気味なのは承知の上で言葉についての悪口を書いておく。取り上げるのは、上でもタイトルを挙げた『17歳という病』(この本についてはここで特に印象に残った文章を引用して感想を述べたのだが、そのせいでひどい目にあった)のあとがきの最後の部分である。

 本書を完成させるまでには、様々な方たちのお世話になった。代表として、文春新書編集部の東眞史氏の名を記して感謝させていただく。そして最後までわたしの寝言に付き合って下さった読者の皆さんにも深く感謝をさせていただきます。ありがとう。
 この文章を読んでむかつく人はいるだろうか? 私は別にむかつかない。なぜなら、先に述べたように昼に食べたのがねぎとろ丼とざるそばで、また夜に食べたものも油っこいものではなかったからだ。私は今体調はあまりよくはないが、胃腸の働きは特に悪くはない。生理的にむかつく要素は全くない。そして、私はたかだか不愉快な文章の一つや二つを読んだくらいでむかつくほど繊細な人間ではない。
 私が悪口を言いたいのは、上の引用文中に「感謝させていただく(感謝をさせていただきます)」という言い回しが二回も用いられていることだ。誤記や誤植ではなく、筆者の言語感覚の鈍さを示しているものと思われる。
 では、なぜ「感謝させていただく」は駄目なのか? その説明をするということは、今この文章を読んでいるあなたの言語感覚を見くびって馬鹿にしていることになるのではないか、と少々不安を覚える。だが、いかに言葉に対するセンスが鋭敏な人でも時には他人の言っていることを誤解することはあるだろう。ややくどくて野暮な話になるが、少しだけ説明しておく。
 「……させていただく」という言い回しは私はあまり好きではない。謙譲の意を示す表現なのだが、妙に回りくどく(婉曲表現なのだから回りくどくて当然といえば当然なのだが)、また聞き手(読み手)に責任を押しつけるようなところがある。「ええ、私は勝手にしたのではありませんよ。あなたが私にさせてくれたんじゃないですか?」と言われているような気がする。「私はあんたにさせてやった覚えはない。私の意図とは無関係にあんたが勝手にしたことだ」と言いたくなるのだ。そのくせ、会社で目上の人と話をしている時とか、電話で顧客と話をする時などに、つい「……させていただきます」と言ってしまう。そんな時私は自己嫌悪に陥る。さすがに文章では不用意に「……させていただく」を使わないように注意をしているけれど。
 ところで、私が「感謝させていただく」に反発するのは、「……させていただく」という言い回しへの嫌悪だけが理由ではない。ちょっと考えてみればわかることだが、「感謝させていただく」には「乗車券を拝見させていただく」や「明日、会社訪問させていただく」にはないおかしさがあるのだ。後二者の場合、乗車券を見る、会社を訪れる、という行為は、その行為の相手方の許可、認容、同意などを得ることが望ましいという前提があるが「感謝する」はそうではない。感謝するというのは行為ではないのだから。
 では、感謝とは何なのか? 「信じる」「望む」「疑う」などの動詞で表されるのと同様の志向的態度だと思う。志向的態度にも相手方はあるが、それは行為の対象とは別物だ。「相手方の同意の上、会社訪問をする」というのは有意味な言い方だが、「相手方の同意の上、感謝する」というのが奇妙な言い回しであるのは、行為と志向的態度との違いを示している。
 上の引用文を好意的に解釈すれば「感謝させていただく」というのは「感謝の意を表明させていただく」またはそれに類する表現の省略であると考えることができる。すなわち、「感謝する」という語に、感謝に付随する言語的または身体的なさまざまなふるまいを含めているとみなすわけだ。だが、単に「……させていただく」の「……」の部分に入れられる言葉には一定の制約があるという事情などろくに考えもせずに、何でもかんでも「……させていただく」と言えば単に「……する」と言うよりも丁寧でへりくだった言い方になると安直に考えて手拍子で書いてしまったと考えるほうが自然だろう。

 ごくたま昨日日記作家vs図書館を読んで、そのリンク先を辿ってみた。図書館問題についてはずっと前にちょっと考えてみたことがあるのだが、その後すっかり忘れてしまっていた。そのうち、この問題についてもう一度考えてみたい。

 最近さぼっていた「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」の近況報告。現在152枚目。残り8枚だ。

 瑞澤私設図書館ver3.370000ヒット突破&本開館2周年記念企画「瑞澤私設図書館平均的読者像」の結果発表があった。私の回答が「多数派」だったのは全15問中11問なのに、結果予想は全15問中6問しか当たっていなかった。ということは、私はそこそこ平均的な読者なのに自分ではやや特殊な読者だと思っていたということになる。

 先週の更新停止宣言のあと、アクセス数が落ち込んでしまい、なかなか回復しない。鉄道ネタとか古楽ネタでは客の入りが悪いのは当然といえば当然なのだが。やはりこつこつと読書感想文を書いていくのがいちばんなのだろうが、先日読んだ『悪魔のミカタ(5) グレイテストオリオン』(うえお久光/電撃文庫)も『イリヤの空、UFOの夏 その3』(秋山瑞人/電撃文庫)もウェブ上にわんさかと感想文が溢れかえっているので、ちょっと気がひける。今読んでいるのは『猫丸先輩の推測』(倉知淳/講談社ノベルス)なのだが、これもそろそろ感想文がアップされる頃だろうし。
 UNCHARTED SPACE(9/9付)を読んで、まるで私のことを書いているかのような感じがした。やや特殊なサイト運営者のつもりでいても、結局私もそこそこ平均的なサイト運営者に過ぎないということか。
 どこかで、「ミステリ系読書サイト平均的運営者像」調査(「ライトノベル系読書サイト平均的運営者像」調査でも可)をやってくれないだろうか? ルールは簡単だ。ある一定期間内に各サイトで取り上げた本をすべて拾い上げて順位付けし、上位に位置する本をより多く取り上げているサイトがより平均的サイトということになる。例によって、面倒なので私はやらない、と予め宣言しておく。