1.0233〜1.0240 日々の憂鬱〜2002年5月第2週〜


1.10233(2002/05/06) ある感想文についてのメモ

 「UME研究所」の5/5付の日記に『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦/角川書店)の感想が書いてあった。それを読んで「うまいな〜」と思った。
 ネットの世界は平等だと言われる。アメリカ大統領のサイトも無名の市民のサイトでもモニターに表示されるときのサイズは同じだ、と昔NHKのアナウンサーが言っていた。そそれならテレビでも同じだ。全国放送のNHKでもローカル局でも画面の大きさは同じだ。と、そんな事はどうでもいい。
 ネットの世界の平等性はせいぜい「機会の平等」に過ぎない(本当に万人がネットにアクセスできるわけではないので、厳密にいえば正しくないが)。どのサイトも等価だということではないるそれは何もアメリカ大統領を引き合いに出すまでもなく、個人サイトを見ているだけでもわかる。同じ本の感想文を書いても、上手な人と下手な人とでは差は歴然としている。下手な感想文の一例(というか、うまく感想を書けずに逃げた例)
 もしかしてはじめてかもしれない。感想文を読んで悔しいと感じたのは。
 U村氏(以前UME研究所が「なんとなく劇場」というタイトルだったときには複数のハンドルを使い分けていて呼び名に困ったが、今は「U村」に統一しているようなので、その名前で呼ぶことにする)はたぶん「うまい感想文」を狙って書いたわけではないだろうし、「感想文の巧拙」という文脈で取り上げられるとも思っていなかっただろうが、私はいつもそんな事ばかり考えている。でも考えただけではどうにもならないこともある。
 いかんいかん、今日はこれから『水月』をインストールするつもりだったのに。
 なんとなく気がふさぐので、今日はもう寝ることにする。生きて朝を迎えることができれば、今日中にもう一度更新することにしよう。昨日書けなかった感想文を今日こそ……。

1.10234(2002/05/06) 冗長にして粗雑なれども凡庸には非ず

 一昨日の文章で、南海電鉄和歌山港線の和歌山港〜水軒間が日本でもっとも運転本数が少ない区間だと書いたところ、某氏から次のような指摘があった。
北海道石勝線の新夕張〜楓間は、現在、1日1往復のみ。
毎日運転を行っている旅客営業線ではここが「もっとも運転本数が少ない」。

もっとも、楓駅は、戸籍上では石勝線の本線上にあることになっているため、
「事実誤認」と強く断定できないのもまた事実。
 時刻表の地図を見ると、石勝線には新夕張〜楓〜占冠が一列に並んでいるように描かれている。そこで、新夕張(札幌)方面と占冠(帯広)方面を結ぶ列車はすべて楓駅を通過するかのように記載されている。だが、実際には楓駅は石勝線の本線上になく、新夕張〜楓間の列車だけが通る別線がある……のだと思うが、私はこの区間を優等列車に乗って通過したことしかないので、実態はよく知らない。ともあれ実際に使用される線路を基準に考えるなら、新夕張〜楓間のほうが和歌山港〜水軒間よりも運転本数が少ないということになる。
 大方の人にとっては、あまり興味はないだろうが、鉄道の「路線」とは何か、「区間」とはどのように個別化されるものか、という問題を考える上で一つの練習問題となる事例である。

 ついでだから、鉄道ネタの練習問題をもう一つ。「地下鉄」とは何か?
「そりゃ、地面の下を走っている鉄道のことに決まっているじゃないか」と答える人は単純すぎる。山岳トンネルや海底トンネルを通る鉄道はふつう地下鉄とは言わない。東北新幹線の東京〜上野間を地下鉄だと考える人も稀だろう。また、ふつう地下鉄と言われる鉄道でも地上を走る区間をもつものがいくらでもある。
 興味のある人はこの問題について考えてみてもらいたい。「本格」とは何か、という問題よりは簡単だと思う。ただし、唯一無二の正解があるわけではないということは予めお断りしておく。

 昨日の文章で「満州/満洲」という表記についての疑問を書いておいたところ、掲示板で「求道の果て」のらじ氏から戦前の新聞や紙幣では「満洲」を使っていたことを教えていただいた。紙幣に俗称を書く事はないはずなので「満洲」が正しいとみなしてよいだろう。「洲」はワープロで変換するのが困難な字ではないので、今後はなるべく「満洲」のほうを使うことにしようと思う。

 さて、今日は『ミステリ・オペラ――宿命城殺人事件――』(山田正紀/早川書房)の感想を書く。おおざっぱな印象は見出しに掲げたとおり。この小説の一番の欠点は長すぎることだろう。この長さが必要だったのだ、と主張する人もいるだろうが、私はそうは思わない。たとえば
 萩原祐介の墜落死について問い合わせがあり、捜査本部まで出向いて事情を説明したが、だからといって捜査本部への参加を許されたわけではない。警察というピラミッド組織のヒエラルキーと縄張り意識はそんな生易しいものではない。
 捜査本部が設置されている所轄署まで出向いて、萩原祐介の墜落死について捜査経過を説明はしたが、それはそれだけのことで、あとは何の連絡もないにちがいない……そう思いこんでいただけに、直接、本庁から連絡があって、黙忌一郎に会って話をしろ、と命ぜられたのには驚かされた。
という文章(497ページ上段。一箇所人名を伏せた。別に核心に触れるということではないと思うが、未読の人にとっては予備知識がないに越したことはないだろうと思うので)のだらしなさはどうしたものか。まるで私がここで適当に書きとばしている文章のようではないか。
 これほどひどくはないにせよ、書かなくてもいいことや、もっと短くまとめられるはずのことが、だらだとしまりなく綴られている箇所は多い。直接本筋には関係のない細部を描写することにより、単なる骨組みだけではなく、厚みのある世界を現出させようとしたのだ、と好意的に解釈する気にはならない。仮にそれが的を射た意見であったとしても、文章が長すぎることの弊害のほうが大きいと思う。
 ミステリには適切な長さがある。通俗小説プラストリックの小説なら、パーツをどんどん継ぎ足すことによっていくらでも長くすることが可能だろうが、ある程度しっかりとした結構をもち、緊密に作り上げられるべき小説の場合、読者が謎の存在を忘れてしまうほど長く書いてはいけない。『ミステリ・オペラ』ではさまざまな謎(その多くは不可能状況に関わる)が提示されるが、十分な改めを行わず、なんとなく不思議なことが起こったらしいということを匂わすだけですぐに場面転換する。そして、最後になってまとめて謎解きが行われるが、その頃にはすっかり読者は忘れてしまっていて、「ああ、そういえばそんな事も最初のほうに書いてあったな」と思うだけだ。
 次に粗雑さについて。さっき書いたように、謎の改めを十分に行っていないということは謎解き小説にとっては致命的である。もっと丁寧に状況説明をし、読者が簡単に思いつくような方法では謎は解決できないということを示しておかないといけない。その手続きがないので、「こんな謎、データを補えばどうとでもなるだろう」と思ってしまう。すると、せっかくの謎が全く緊張感を欠いた散漫なものとなってしまう。
 丁寧な説明ができなかった理由を三つほど想像した。一つには、上で指摘した「冗長さ」との絡みがある。ただでさえ分厚い本なのに事件当時の詳細な状況説明を加えたら、片手で持てないくらいの重さになってしまうだろう。二つめは、この小説の叙述方法と関係がある。作中の大部分が手記の形式をとっており、かつ手記の筆者たちは警察関係者ではない。だから、検視の結果や目撃証言、現場に遺された痕跡などについて詳細を知る立場にはない。よって書けない。三つめ。詳しく説明すると、それだけでトリックがばれてしまうから
 ほとんど邪推ではないか? そうかもしれない。作者の本当の意図など知りようもないから。もしかしたら理由など全くなく、作者はただ謎の生むサスペンスの重要性を気にとめていなかっただけかもしれないのだ。
 ところで、これは作品の評価と結びつくかどうかはわからないのだが、私にはいくつか気になったことがある。一つは、『折本・善知鳥良一「手記」』と題された一連の文章が歴史的仮名遣いで書かれているのに、漢字が正字体になっていないことだ。戦前の文章の雰囲気を出すなら「正字・正かな」が基本。さらに、総ルビ。これ最強。まあ、手書きの文章で総ルビは不自然だが、歴史的仮名遣いと新字体の組み合わせはどうにもぎくしゃくしているように思われる。
 二つめは「小城魚太郎」という登場人物が『赤死病館殺人事件』という探偵小説を書いたという設定になっていること。『赤死病館殺人事件』は明らかに『黒死館殺人事件』のもじりである。なのに、
 それこそ赤死病ではないが、熱病のように猖獗をきわめた学生運動が、急速に下火になっていった七○年代前半、なにかその喪失感を埋めるように、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』があいついで出版され、あるいは久生十蘭の全集なども出て、異能作家、異色作家の再評価の機運がにわかに高まったのだったが、小城魚太郎の『赤死病館殺人事件』が復刊されたのもそうした流れの一環であったのだろう。
などと書く(36ページ下段〜37ページ上段)のはいかがなものか。たいした事ではない、別に本筋のプロットに関わることではないし、それどころか「アラ」ですらない。だが、現実の探偵小説史を作中に外挿して読もうとすると、どうしてもこの箇所はひっかかってしまう。同じ小説の中で『ローマ帽子の秘密』冒頭の「バーナビー・ロス殺人事件」にまで言及しているというのに……。
 三つめは、ほとんど混乱していると言いたくなるほどの視点の不統一が見られるということ。二人の人物が対峙し、他の人物がその場にいない状況で、互いに胸に秘めた思いを隠しつつ、相手の心中を探り、駆け引きをする。そのような心理的闘争の場面で、ときには一方、ときには他方、と適当に視点を動かし、隠したいことを隠したまま書きたいことだけを書いているように見える。このような書き方は安直ではないだろうか? 本当は「アンフェアだ」と断罪したいところだ。だが、作中の大部分を占める「手記」が読者が信頼できる「地の文」としての身分を持っておらず、後からどうにでも解釈できる"ずるい小説"だけに、フェアだのアンフェアだのと言ってみても仕方がないだろう。
 こうやって気になった事柄を書き連ねてみると、作者のスタイルについていけない、自分の好みにあわない、と言っているだけのような気もする。エバレットだの「平行世界」だのが出てくるだけで鼻白む(この上「可能世界」まで出てきたらどうしようかと思った)し、「狭軌/広軌」の間違い(昨日はまだ確信を持てなかったが、最後まで読んだ今は作者の単純な錯誤によるものだと断言できる)にはツッコミを入れたくなる。いちいち書き出すときりがないので、この辺でやめておくが、この長大な小説を読んでいる間、ずっと違和感を抱いており、作中に没入できなかったということを告白しておきたい。
 だが、つまらなかったというけではない。もしそうなら途中で投げ出していただろう。私が期待していたような面白さとは違ったが、通俗スリラーとしてはなかなか楽しめた。文章は冗長だが、晦渋な文章に比べればずっと好感が持てる。「検閲図書館」は魅力的だ(とはいえ671ページ後段はちょっと首を傾げた。村瀬がなぜ銃を撃ったのか私にはよくわからない)し、小説が現実を浸食し呑み込むようなラストシーンは見事だと思う。『ミステリ・オペラ』は凡庸な小説ではない。「ミステリとしての評価」という厄介な基準を持ち出さなければ、傑作だと言ってもよい。ただ、私ごときが今さらこの小説の美点を賞賛することもないだろう。

 『ミステリ・オペラ』の感想文が予想以上に長くなってしまったが、もう一つ別の話題(微妙に関係がなくもない)を挙げておく。「UNDERGROUND」の5/2付の文章で『21世紀本格』(島田荘司・編/光文社カッパ・ノベルス)の感想が書かれているのだが、その中で『百匹めの猿』(柄刀一)について、
柄刀一は、ライアル・ワトスン『アース・ワークス』で紹介されているトピックをよく使うが、「科学と詩的イマジネーションの融合」であるニュー・サイエンスには美しさゆえの危険性もあるので気を付けるべきだろう。「21世紀本格」が「幽霊と科学」が共存する時代のエンターテイメントを模索するものであるとしても、科学と擬似科学の区別ははっきりさせておかなければならない。柄刀一の作風にはそうした危うさがある印象を受けるのだが・・。勿論、宗教というテーマをライフワークのひとつとする柄刀にその自覚がないはずはないが、中沢新一の影響を受けたオウム信者に見られるように読者は作者の想像以上に深く影響を受けるものでもあるし、書いておく。
というコメントがあった。まさに、我が意を得たり、という感じがした。ところで、確か私も以前『21世紀本格』の感想文を書いていたはずだが……あった。でも
『百匹めの猿』(柄刀一)はミステリとしてのどんでん返しに工夫が凝らされている。しかし「百匹めの猿」というモティーフの扱いがこなれていない。
としか書いていない。あかんやん。
 量子力学の多世界解釈を「百匹めの猿」と一緒くたにしてはエバレットに失礼だが、「夫が墜落死して未亡人となった若い女性の一人称」という体裁をとっている点で『ミステリ・オペラ』から『百匹めの猿』を連想してしまった……という、ただそれだけの話。

 ブリリアント版バッハ・エディションでは教会カンタータは5枚組で一つのボックスに入っている。昨日までで「教会カンタータ集 Vol.1」を聴き終えたが、続いて「教会カンタータ集 Vol.2」にとりかかった。今日聴いた、最初から数えると34枚めにあたるCDに収録されているのはカンタータ第92,54,44番だ。第54番はアルトの独唱カンタータでアリア2曲にレチタティーヴォ1曲が挟まっているだけのごく短い曲だ。もしかしてバッハのカンタータの中で最短か?

1.10235(2002/05/07) バブルの図書館

 今、図書館が出版業界を脅かしているらしい。
 昔の図書館は専門書や各種資料を揃えておく場で、新刊書店で一般の人が気軽に買うような種類の本はあまり置かないものだというイメージがあった。だが、最近はタレント本やベストセラー小説なども積極的に買い入れているという。これが出版業界を圧迫しているらしい。
 実は私はあまり図書館を利用しない。私の通勤ルートの近くには図書館は一つしかなく、その図書館は私の自宅とも勤務先とも別の行政区画にあるので、本を借りることができないからだ。たまに立ち寄ることもあるが、辞典や図鑑などの資料を調べるだけでさっさと帰るので、大衆向けの本がどのくらいあるのかはよく知らない。休日にはかなり人が入っているので、それなりに充実しているのだろう。
 ここ数年、出版物の売り上げが激減して、出版社はどこも経営難に陥っているという話は知っていたが、いわゆる新古書店とマンガ喫茶だけでなく図書館もその主要な原因の一つだとは全く思いもよらなかった。図書館には基本的にマンガ本は置いていない(「図書館にマンガを! 市民ネットワーク」の運動が成功すれば状況は変わるかもしれない)ので新古書店ほどの脅威ではないとしても、地域住民の需要に応えるために公共図書館がベストセラー本を大量に買い込んでいるという話を見聞きすると、やはり出版業界の人々にとっては悩みの種なのだろうと思う。いや、無料で利用できる図書館はある意味では新古書店やマンガ喫茶以上に出版業界の"敵"と言えるかもしれない。
 どうしてこうなったのか? 門外漢である私にはよくわからないが、図書館行政のあり方が昔とは違ってきていることが理由の一つではないか。かつて役所は「お上」だったが、今や「サービス業」だと位置づけられようとしている。国会図書館や大学図書館はいざ知らず、地方公共団体が運営する公立図書館が住民の便宜を図るのは当然だ。そして住民は本にはなるべく金を使いたくないと思っている。
 図書館法(昭和二十五年四月三十日法律第百十八号)第2条第1項に曰く、
 この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は民法 (明治二十九年法律第八十九号)第三十四条 の法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。
 学術研究のための資料調べも暇つぶしのために本を読むのも読書のうちであって、どちらが上とか下ということではない。仮に優劣があるとしても、それは図書館が判断することではない。図書館はただ利用者の希望に従い、図書館奉仕をするだけである。非常に崇高な理念である。
 余談だが、同法第3条を読んで私ははじめて「図書館奉仕」という言葉を知った。まったくサイズのあっていないだぶだぶの紺色の司書服に身を包んだかわいい司書さんが「ご主人さま〜、お探しの本が見つかりません。ぐすん。でも私ご主人様のためにがんばってご本を探します〜」と言ってくれそうなイメージがある。当然、司書さんは眼鏡をかけていなければならない。これは最低条件だ。なお「ご主人様」は「お兄ちゃん」でもよい。
 崇高な理念ではあるのだが(言うまでもなく、前段落はなかったことにして、その一つ前の段落から話が続いている)住民の希望ばかり重視して出版業界の活動を阻害し、出版文化を衰退させるような事があってはいけない。図書館法ではそのような事態が想定されていないが、今後は出版文化の受容者だけではなく、発信者のほうにも目を配る必要があるだろう。
 では、具体的にどのようにすればいいのか。娯楽本は置かずに学術書だけに限る、とか、市場で流通している本は貸し出し禁止にして品切れ・絶版本のみを貸し出し可とする、という方法もあるだろう。だが、それは図書館法の理念にもとる。文化の発信者のほうばかりに目を向けて受容者をなおざりにしてはならない。いや、おざなりにしてはならない。なおざり? おざなり? どっちだろう?
 図書館での書籍の購入基準及び貸し出し基準を現行のままとして、かつ、回し読み(という言い方は不適切かもしれないが、ほかに適当な言葉を知らない)により減少した売り上げを補うためには、図書館が市場価格より高値で本を買うのがいちばんだ。ある程度部数が見込める本なら「書店本/図書館本」と二種類の版を作ればいいし、それができない本は検印や印紙などで区別すればよい。もちろん図書館が書店本を購入したり貸し出したりするのは禁止だ。本の扉には次のように書いておくことにしよう。
レンタル厳禁!
この本はレンタル厳禁の
セル作品です。著作権者の許可なき
貸与は図書館法に反する違反行為です。
図書館にてこの本をお借りの方は
是非当社までご連絡下さい。
 書店本と図書館本の価格差をどれくらいにするのか、よく回転する本とそうでない本で上乗せ率を変えるのか、それとも一律にするのか、など細部をつめていかなければならないが、基本的にはこの案が最善だと私は信じる。
 ただ、問題は地方公共団体の図書購入費だ。図書館が購入する本の価格が上がっても、それに見合うだけ購入費を上げてくれるわけではない。どこの自治体も財政難で苦しんでいるので、図書館などという「不要不急の施設」にかける経費はよくて据え置き、悪ければ削減される一方、というのが現状だ。この上、本の価格まで上がってしまっては、図書館はほとんど新規図書を購入できないことになってしまうだろう。
 美術館や博物館では利用者から入館料を徴収するのがふつうだ。同様に図書館も入館料を設定するか、または貸出料を徴収するかして、図書購入費の助けにするのがいいのではないか。受益者負担という考え方は最近はかなり一般的だ。行政がサービス業だとしても、住民は「お客様」の立場にあぐらをかいていていいというものではない。自らが享受した利益への対価を支払うのは当然ではないか。うん、そうだそうだ。
 と勝手に自分の中で理屈をつけて納得したところで、再度図書館法を繙く。すると、
(入館料等)
第十七条  公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない。
と書いてあるではないか。あかんやん。

 今日はバッハのカンタータ第111,159,165,22番の4曲を聴いた。第159番「見よ、われらエルサレムに上り行かん」の第2曲ではゲールハウト作の有名な受難コラールが歌われる。この曲はバッハの『マタイ受難曲』に何回も登場するほか、『クリスマス・オラトリオ』にも顔を出す。バッハの宗教音楽に関心のない人に説明するのは難しいが、『水滸伝』と『金瓶梅』の両方に登場する西門慶のようなものだ。ちょっと違うかもしれないが。いや、相当違っているかもしれない。というか、全然たとえになっていないだろう、これ。なお、上でゲールハウト作と書いたが、もともとはハスラーの歌曲で恋の苦しみを歌った歌だったのが、キリストの死を悼む歌に仕立て直されたものだ。さらに『クリスマス・オラトリオ』では別の歌詞がつけられている。

1.10236(2002/05/08) 人生相談で鬱になる

 今日は全くネタがない。昨日の続きでも書こうかと思ったが「書籍の国有化、私有書籍の禁止」などというよくわからないアイディアしか浮かんでこなかった。
 さこで、久しぶりに後輩に電話して何かネタがないか尋ねたのだが、最近ますます引きこもりが激しくなっている後輩はどうやら今人生の危機に直面しているようで、ちょっとした人生相談になってしまった。で、相談にのっているこっちまで鬱になってきた。そういうわけで、今日はもう何も書く気にならない。一回休み。と言いつつこの文章をアップすれば、ミステリ系更新されてますリンクなどから人が来て、一回休みと書かれているのを見て腹を立てるのだろうなと思うとますます鬱になる。

1.10237(2002/05/09) 図書館K冊

 一昨日の文章に関して、「ただ、風のために。5」の今日付の記事で関連する話題を扱ったウェブページを紹介している。自分で探すとなるとなかなか面倒なので、こうやって簡潔にまとめてもらえるとありがたい。
 いちおう、リンク先はざっと目を通したが、そのうちのいくつかはローマ字が意味不明な並べ方をされているだけだったので解読を諦めた。高橋まき氏の説明によれば、イギリスのサイトだそうだが、どうやらイギリス人は言語を知らないようだ。毛唐に漢字かな混じりの正しい表記を求めても無駄ではあるのだが、せめてローマ字でもいいから正しい文法と意味論規則にのっとった文章を書いてもらいたいものである。
 それはともあれ、高橋氏も一部引用している図書館問題研究会の「日本ペンクラブの「著作者の権利への理解を求める声明」について(見解)」はちょっとピントがずれているような気がする。あ、高橋氏の引用の仕方がピントはずれというわけではないよ。念のため。
 さて、「著作者の権利への理解を求める声明」では、
また、公立図書館の同一作品の大量 購入は、利用者のニーズを理由としているが、実際には貸し出し回数をふやして成績を上げようとしているにすぎない。そのことによって、かぎられた予算が圧迫され、公共図書館に求められる幅広い分野の書籍の提供という目的を阻害しているわけで、出版活動や著作権に対する不見識を指摘せざるを得ない。
と書かれている。なるほど、この部分だけを見れば、図書館の購入図書が一部の本に偏っていることを批判しているように読める。だが、この声明が言わんとしているのは「本を回し読みするシステムのせいで、著者に入るお金が減って大変だ〜。なんとかしてよ〜」ということであるのは明らかだ。先に新古書店とマンガ喫茶(声明では「漫画喫茶」と書いてあるが、ここでは私のふだんの表記法を優先させた。他意はない)を取り上げているので、図書館については「以下同文」と書いておいても十分だったはずだが、それでは寂しいと思ったのか、図書館に固有の事情(幅広い分野の書籍の提供という目的)をついでに書いておいたのだろう。上記引用文中「わけで」の前後が繋がっていない、とか、別の箇所で「公立図書館の貸し出し競争」などという不用意な表現を用いている、など誤解を生む要素はあるが、中心問題は著作権者の逸失利益であり、図書館の活動に対する一般的な批判でないことは明らかである。
 だから、
貸出し競争との指摘であるが、公立図書館の意図は競争にはない。貸出しをつうじて「利用者のニーズ」に徹底的にこたえようとする公立図書館の姿勢が、競争と捉えられるなら、それは誤解である。
というのは枝葉末節だし(そう書きたくなる気持ちもわかるし、もし私自身が「図書館の立場でペンクラブの声明に応答せよ」という課題を与えられたら当然一言書いておくことではあるのだが)、
当研究会で1999年8月〜9月にかけて行われた調査サンプルによれば、1998年のベストセラー20点の購入費の資料費全体に占める比率がもっとも高い図書館でも1%程度である。(『みんなの図書館』2000年3月号)。
というデータを提示したところでペンクラブは納得しないだろう(どうでもいいが、この年のベストセラー20点のなかにマンガは何点あったのだろう?)。で、肝心の著作権絡みの話になると、
 図書館は著作権者の敵ではない。共に、豊かな出版文化を創造していくパートナーであると、われわれは認識している。今後は、著作権者の権利と図書館利用者の権利の双方を保障していくことをめざして、当研究会としても積極的に取り組んでいきたい。全自治体のおよそ半分におよぶ図書館未設置自治体の存在など、多くの問題を抱える図書館への理解を求めるとともに、共に、図書館設置促進と図書館資料費の増額に取り組みたい。
 ありゃりゃ。「パートナーだと思うのなら、金をくれ! 著作権者の権利保障を目指すなら、金をくれ! 図書館未設置自治体問題なんか関係なしに、金をくれ! 図書館飼料費を増額されたらますます状況が悪化するからやめてくれ。とにかく、逸失利益を何とかしてくれ〜」と言いたくなるような結論だ。
 と、ここまで書いて気がついたのたが、この文章が枝葉末節にとらわれてピントがずれた応答をしているという批判は正しくない。ペンクラブの声明に対して公的機関が正式な回答としてこのような事を述べたなら、論点ずらしだと非難されても仕方がないが、これはその種の文章ではない。図書館問題研究会は単なる民間団体であり、もともとペンクラブの声明に回答すべき責務があるわけではない。ただ声明の不適切な箇所にツッコミを入れただけなのだ。そう考えると、ペンクラブ声明の練り込みの甘さのほうに注目すべきだろう。新古書店批判のついでにマンガ喫茶と図書館を槍玉に挙げたはいいが、実状に沿った具体的な批判になっていなかったためにツッコミを免れなかった、ということだ。楡 周平のように定点観測して図書館の動向を大まかにでも掴んだ上で声明を起草すれば、あのような書き方にはならなかった(楡氏は刊行後間もない本の貸し出しと図書館の事業評価の方法に着目しているが、これらはペンクラブ声明に入っていてもおかしくなかった論点である)だろう。

 結論その1。他者を批判する時には、下調べをきちんとしておこう。
 結論その2。余計な論点はなるべく避けて、本末転倒になることを防ごう。
 えっ、「図書館問題について書いていたはずなのに、論点がずれてる」って? そういえば、いつの間にか文章の書き方の話になってしまっているな。反省。また、よくよく考えてみると、結論その1とその2の両方とも、私自身の文章への批判となっている。さらに反省。精進せねば。

 昨日さぼった「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、聴くだけは聴いている。昨日はカンタータ第114,57,155番、今日は第98,188,23番、あわせて6曲。特筆事項なし。

 先日、U村氏が日記(5/5付)で書いた『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』評について「悔しい」とコメントしたが、続いて『NHKにようこそ!』評もアップ(5/9付)された。ただ、今回は悔しくなかった。というか、「それはないだろう!」とツッコミを入れたくなった。なぜそう思ったのか、理由を書いたらサイトを閉鎖されてしまいそうな気がするので書かないが。

 なんとなく月末が楽しみだ。

 『水月』進まず。やっぱりサイト更新に3時間もかけてたら駄目だよなぁ。毎日、必ず起動して数分プレイすることにはしているのだが……。

 今日のお買い物。
  1. 『異形コレクション 恐怖症』(井上雅彦・編/光文社文庫)
  2. 『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』(西尾維新/講談社ノベルス)
 1は、なんとなく。今回は特に感想文は書かない予定。でも予定は未定。
 2は、早くも読み終えた知人が「一作目より面白い」と言っていたので買った。だが、読むのは早くて来週以降。同時発売の『マレー鉄道の謎』(有栖川有栖)は買おうかどうしようか迷ったが、どうせすぐには読めないのでパス。熱烈な有栖川ファンの某氏の感想待ち。

1.10238(2002/05/11) ダイイング・メッセージ

 胸を一突き。致命傷だ。間もなく出血多量で死んでしまう。だが、息絶える前に、体から流れ出る血を使って床に犯人の名前を書き残しておくぐらいのことはできる。人殺しには正当な裁きを!
 いや、ちょっと待て。あいつは用心深い奴だ。俺が死んだかどうか確認するために、もう一度ここにやってくるかもしれない。そのときに俺のメッセージに気づいたら絶対に消そうとするだろう。文字を消すのは簡単だ。血で血の上塗りをすればいい。
 じゃあ、どうする? 奴に一矢報いることもなく、このまま死んでしまうのか……。いや、諦めるのはまだ早い。何か手があるはずだ。
 そうだ! ちょうど都合のいいことに、隣の部屋には名探偵がいるじゃないか。あの名探偵にだけ通じるようなメッセージをのこせばいいんだ。あいつが見ても意味不明の記号にしか見えないようなメッセージを。そうすれば、あいつは見逃すだろう。そう、それしかない。
 かくして哀れな被害者は人生最後の瞬間にとことん難解なパズルを考案することになる。これがミステリにおけるダイイング・メッセージものの基本形だ。もっとも、この基本形をそのまま使う作家は今ではほとんどいないだろう。意識が朦朧としているはずの半死人が気の利いたメッセージを考えつくというのは不自然だ。小説は現実をそのまま模倣する必要はないので、ある程度の"現実離れ"は容認すべきだろうが、小説の中の出来事としても説得力を欠くようでは具合が悪い。
 被害者が意図的に謎のメッセージをのこすのが不自然なら、意図せざる謎ということにすればいい。途中で力尽き、最後まで書くことができなかった。自然現象でメッセージの一部が消えた。犯人がメッセージを発見し消去したが、その痕跡だけが残った。被害者は犯人の名前を誤認していた。いろいろと方法はある。だが、どれも同工異曲ではないか? 不可解なメッセージに適切な解釈を与えれば、自ずと犯人の正体が明らかになる。この基本パターンをひねることはできないか?
 偽造メッセージというのはどうだろう。犯人は別人に罪を着せるために、ダイイング・メッセージを偽造する。その偽装工作に綻びがあって、名探偵の推理により真犯人が明らかになる。
 悪くない。けれど、もう一ひねり、プラスアルファがほしい。手がかりの偽造はありふれた手法なのだから。
 こういう状況設定はどうだろう。密室状況で他殺死体が発見される。だが被害者は即死ではない。部屋の前の廊下には血痕が残っているので、そこが犯行現場だと考えられる。すると被害者は戸口で犯人の襲撃を受け、とっさにドアを閉めて施錠したものの、そのまま死んでしまったと考えられる。部屋の中で被害者は犯人の名前を書き記している。現場は密室だからダイイング・メッセージがあることは犯人にはわからなかった。だから、死体発見時までそのままの形で残っていたのだ。そう推測できる。
 しかし、事実は違う。密室状況は偶然成立したものではなく、犯人の計画のうちだった。犯人は偽のダイイング・メッセージを記したのち部屋を出て、何らかの方法で外から施錠する。使い古された「針と糸」のトリックでかまわない。ただし、被害者の血液を採取しておき、廊下に血痕をのこしておく必要がある。これで準備は整った。ダイイング・メッセージと密室が互いに補強しあって、捜査を攪乱してくれる。
 だが、偽のダイイング・メッセージは他人に濡れ衣を着せることができるほど強力なものだろうか? たぶんそこまでの証拠能力はないはずだ。犯人に擬せられた人物にアリバイがあれば無意味だし、犯人ではあり得ない人物を指し示すメッセージへの疑念は、密室状況が成立したいきさつへの疑念に発展し、ついには偽装工作のすべてが明るみに出るだろう。これではいけない。
 さらに考えを進める。この偽装工作が明らかになることによって、捜査陣を思考の盲点へと追い込む方法はないものか。この工作のためには犯人は必ず室内に入る必要がある。よって死亡推定時刻前後に現場付近にいなかった人物は容疑者から除外されることになる。これは使える。実際の犯行は現場から遠く離れたところで行い、死体を移動することによって偽アリバイを作るのだ。密室+ダイイング・メッセージの合わせ技でアリバイを作る。これは、たぶん前例がないはずだ。
 うん、これでいい。あとは登場人物の名前と最低限の属性、人間関係を設定し、ダイイング・メッセージの内容を考えるだけだ。

 かつて私はこんな事を考えた。ちょうど光文社文庫で『本格推理』シリーズが始まった頃だったので、応募しようと思ったのだ。だが、しばらく考えて、私の構想には大きな欠陥があることに気づいた。それは、あまりにもひねり過ぎたために、50枚という制限では到底まともな小説が書けるわけがないということだ。だったら、もっと膨らませて長編にして鮎川哲也賞に応募するという方法もあるのだが、そこまでの気力と時間が私にはなく、結局一行も書かないまま忘れてしまった。
 今になって、こんなどうでもいいネタを思い出したのには訳があるのだが、全く個人的な事柄なので、ここには書かない。とりあえず、教訓としては、既成のパターンをひねって新しいものを生み出そうとしても、たいしたものにはならないということ。老人のつまらない失敗談が、これから推理作家になろうと思っている若い人の参考になれば幸いである。

 どうでもいい文章を書いている間に日付が変わってしまったので昨日の話になるが、バッハのカンタータ第135,86,167番を聴いた。135番の冒頭合唱にも「受難コラール」が登場する。

1.10239(2002/05/11) 猪名川町には日生中央駅がある

 昨夜(といっても日付が変わってからアップしたので、今日付だが)の文章の終わりのほうで書いた「教訓」を一夜明けてから振り返ってみると、論理の飛躍があることに気づいた。既成のパターンをひねって失敗した例が一つあるからといって、それを一般化してすべての場合に適用することはできない。この例から言えることは、私にはミステリを書く能力がない、という程度のことでしかない。いろいろ考えているつもりでも、あとになってみると案外基本的なところで抜けているものだ。

 さて、今日は『たったひとつの −浦川氏の事件簿−』(斎藤肇/原書房)を読み終えた。『ミステリ・オペラ』の後すぐに取りかかったのだが、今から思うと読む順番を逆にすべきだった。その理由は――以下、ネタをばらすので、未読の人は下の☆印まで読み飛ばしてほしい
『たったひとつの』の冒頭には「口上」と題した文章が置かれている。これを読むと、この本がただの短編集ではなく、全体に仕掛けが施されていることが推測できる。その仕掛けというのは、
  1. 各話で直接あるいは間接的に語られる殺人事件はすべて同一の事件である
  2. 各話に登場する「浦川」という名前の人物はすべて別人である
という2点なのだが、実は私は第二話を読み終えた段階で1に気づいていた。にもかかわらず、第八話を読むまで全然2に気づかなかったのだ。あれこれ考えたわりにはどうしようもなく抜けている。
 第一話はつまらなかった。浦川氏の推理は不自然かつ都合がよすぎるし、示された「事実」自体がどうでもいいことだったので。しかし、最後に明かされる仕掛けのための仕込みなのだろうと思い、続きを読むことにした。ここでのポイントは殺人事件が発生した事実だけが書かれていて、その詳細には触れていないということ。特に被害者の氏名が明示されていないことに引っかかった。
 第二話では被害者は登場するものの、本名は語られないままである。そこで、私は第一話の殺人事件と第二話のそれとが同一の事件であるという仮説を立てた。第三話以降は、その仮説に反するデータが提示されるかどうかに焦点を絞って読み進めた。
 この仮説には一見したところ難点がある。それは各話に登場する浦川氏の年齢がばらばらだということだ。第六話に至っては性別まで違っている。常識で考えれば、答えは一つなのだが、私はなぜかその答えに思い至らなかった。浦川氏の年齢が違っているのは、タイムスリップして同じ時代に浦川氏が何度も現れたからだと考えたのだ。こう考えるとなぜ浦川氏が乏しいデータから謎を解くことができるのかがわかる。そう、浦川氏は各話の語り手が述べている以上のデータを過去の経験により知っているのだ。第六話については何らかの事情で浦川氏の生涯のある期間だけ性転換をしていたからと考えられる。
 すっかり『ミステリ・オペラ』に属していたのだろう。そうとしか考えられない。うん、そうに決まっている。
 そういうわけで、私は第八話で非常に驚いた。たぶんこんな驚き方をした読者はほかにはいないと思う。

☆ここまで☆

 『たったひとつの』はあまりミステリとしての出来がよいとは言えない。各話を単体で読むと拍子抜けしてしまうだろう。一冊の本としてはそこそこ楽しめたが、欲張りな読者の立場から言えば、もっと密度の濃い、切れ味のいい短編ミステリ集を読みたかった。
 なかでは第六話がいちばん面白かった。大仕掛けに繋がる技巧を施しながら、ほとんど何の意味も持たせていないところが気に入った。これだけ独立させて長編にしてもよかったのではないかと思うくらいだ。残りの短編については……何も言うまい。

 一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日からはオルガン曲だ。いちばん最初にいきなり「18のコラール」などという渋い曲を聴く。私はハーフォード盤でバッハのオルガン曲をいちおう全曲聴いているが、コラール(本当は「コラール」というのは声楽曲であり、「オルガン・コラール」はコラールの旋律をもとにした前奏曲、変奏曲、フーガなどの総称である)だけで170曲以上もあるので、全部覚えているわけではないし、曲を聴いただけでタイトルがわかるのはごく少数だ。

1.10240(2002/05/12) 何もないのに憂鬱な日曜の夜

 今日は頭の調子がよくない。昨日『たったひとつの』を読み終えたので、続いて 『グラン・ギニョール城』(芦辺拓/原書房)を読むつもりでいたのだが、何となく読書をする気になれず、ぼんやりと過ごしているうちに夜になった『「ネットミステリ者が選ぶ「本格ミステリ大賞」』の締切は15日なので早く読まないと間に合わないのだが……。
 ところでMISCELLANEOUS WRITINGSの昨日付の記事で「本格ミステリ大賞として選ばれる「優れた」本格作品というのはどういうことを指すのだろう?」という話題を扱っている。よく整理されているので、できれば全文引用したいところだが、そうもいかないので太字部分だけ抜き書きする。
  1. トリック
  2. どんでん返し
  3. 緻密な論理
  4. バランス
  5. 小説として面白い
 この5つの基準をもとに、これまでに私が読んだ4作品について考えてみる。
 まず『鏡の中は日曜日』のミソは何と言ってもどんでん返しだろう。トリックは目新しいものではないし、論理にも飛躍が多い。ある意味では様式美の極致とも言えるが、ここでいう「バランス」を実現しているかどうかは疑問だ。そして、この小説からミステリ的な趣向を取り除いてしまえば、小説としての面白さなどほとんど残らないに違いない。
 次に『黒祠の島』。作者は緻密な論理を売りにしたいのかもしれないが、残念ながら私には犯人特定の論理が納得いくものとは思えない。この小説は序盤のサスペンス小説ふうの展開や、民族学的な彩りなどいろいろ小説として面白い要素が盛り込まれているので、評価するならこの点ということになる。
 では『ミステリ・オペラ』はどうか。トリックはいっぱい詰め込まれているが、「これは凄い!」と思うようなものはなかった。盛りだくさん過ぎてバランスを崩していることも気になる。『黒祠の島』とは別の意味で小説として面白いことは確かだが……。あとは、どんでん返しも多少は評価できる。
 そして、『たったひとつの』だが、たぶんこれまで誰もやったことがない趣向を盛り込んでいる。それが「トリック」のうちに入るかどうかはわからないが、ミステリ的な着想という部分で新手を打ち出していることは確かだ。ただ、ほかにはどんでん返しの効果が見られるものの、それ以外はかなり弱い。
 というわけで、今のところどれとも決めかねている。最後の『グラン・ギニョール城』が文句なしに面白ければいいのだが……。

 今日は「18のコラール」の続きと「6つのコラール」を聴いた。「18のコラール」の第18曲「汝の御座の前に今やわれは進み出て BWV668」はバッハが死の直前に作った曲(「われら苦しみの極みにあるとき BWV641」からの編曲だが)だと伝えられている。「フーガの技法」の印刷楽譜の初版に併せて収録されているため、「フーガの技法」のCDにも入っていることがある。

1.0233〜1.0240 日々の憂鬱〜2002年5月第2週〜