日々の憂鬱〜2002年7月上旬〜


1.10298(2002/07/01) 本とそれ以外のものに関するいくつかの断片

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020701a
 今年ももう半年が過ぎた。前半は小の月が3か月(うち2月は28日まで)で、後半は小の月が2か月なので、正確にいえば一年の半分はまだ数日先だが、そんな事を言いだしたら我々が「1月1日」と呼んでいる日が一年の始まりであるという科学的根拠はどこにもない。だから、「もう半年」などと考えるのは無意味なのだ。
 と、そんな事を書きたかったのではない。「もう半年が過ぎたから、この辺りで今年の上半期を振り返ってみよう」と書くつもりだったのだ。だが、自分で自分の文章の流れにケチをつけてしまったので、何だかやる気が失せてきた。
 やる気が失せたが、とりあえず形だけ何か書いておこう。ええと、とりあえずここの表から6月末現在の購入物件の数を転記してみる。

月/種類小説新書マンガその他書籍雑誌同人誌音楽CDゲームその他ソフト
6815 9210 62 1437 11

 電卓も表計算ソフトも使わずに集計しているので、足し算のミスがあるかもしれないが、大きく違っていることはないはずだ。今年はマンガをかなりたくさん買っているような気がしたが、それでも100冊に達していないのだから、まだまだ魂のリミッターが外れていないということか。音楽CDはサイトの更新をしながらでも聴けるからつい買い込んでしまうが、小説は消化しきれないままどんどんたまっていくのが憂鬱なので買い控えている。ゲームは……ほとんど放置プレイ状態。
 「同人誌」という項目があるが……はて? 私は即売会はコミケしかいかないから、今年はまだ何も買っていないはずだが? しばらく考えてみて思い当たったのは『空の境界』(奈須きのこ/竹箒)だ。これは小説本だが、商業出版物ではないということで「小説」の項目ではなく「同人誌」のほうに入れたのだろう。我ながら変な分類だ。

 『空の境界』といえば、最近UNDERGROUND詳細な書評が掲載されていた。樋口氏曰く、
『空の境界』の詳細な書評を書いているのは、ミステリ系サイトでひとつくらい詳細な紹介をしているサイトがあるべきろう、と思ったからです。
 むむ、私も長文を書いているぞ、と思ったが、自分の書いた文章を読み返してみると、詳細な紹介をしているわけではなく、そもそもほとんどあらすじに言及していない。話のマクラと脱線がやたらと長いだけで全く核心に迫っていないので、当然「書評」と呼べるものではなく、また「『空の境界』についての感想文」であるかどうかすら疑問だ。
 本の感想文を書くときにストーリーに触れない、というのはいつものことで、昨日書いた『輪舞曲都市』の感想文これだけ読んだら『輪舞曲都市』がいったいどのような小説なのかが全くわからない文章になってしまっている。「未読の人の興を殺がないように、あえて内容には触れない」というのが私の決まり文句だが、これは半分は言い訳で、要するにあらすじ紹介をするのが面倒なのだ。誰もが読んでる話題作ならそれでもいいが、(作者に対してはちょっと失礼な言い方になるが)『輪舞曲都市』の感想文できちんとした紹介をしないのでは意味がない。ちょっと後悔している。だが、それでもやっぱり面倒なものは面倒なので、こんなときは他人に任せるに限る。ええと……話の流れからすれば、ここはやっぱり樋口氏を指名すべきだな。そうしよう。
 いや、「話の流れ」というのは冗談で(冗談を冗談と説明することほどつまらないことはないのだが、ここは仕方ない)『輪舞曲都市』は樋口氏向きの小説のような気がして、きっとよい紹介文を書いてくれるだろうと思ったからわざわざこのような話の流れをこしらえたわけで、まあ、たぶん読んで損はないと思うので、よろしく。

 この文章を書くために2月下旬から3月上旬にかけて自分が書いた文章を読み返してみた。「わっ、こんな文章書いてる」と驚くことが多い。多少恥ずかしさもあるのだが、ある程度時間が経ってしまうと、自分と同じ性格の他人が書いた文章を読んでいるのと似た気持ちになってくる。で、いろいろと思うところがあるわけだが、いちいち書いていくときりかないので、これも話の流れということで、『空の境界』関係に絞って少しだけ書いておく。
 読んでいるときに面白いと思う本は数多くあっても、読み終えた後もあとをひく本は滅多にない。で、私の場合、『空の境界』は、その「滅多にない」本だった。あまり一つの小説に拘ってはいけないと思いつつ、最初の感想文を書いたあとも何度となく言及している。たとえばこの日(の後半部分)では柄にもなく評論めいた事を書こうとして、そのくせへそ曲がりなものだから『空の境界』という作品名には触れずにわけのわからないことを書いている。さすがに、これではいくら何でも意味不明だと思ったのか、あとで註釈をつけているが。
 また、自分で感想文を書くだけでなく、他人に無理矢理読ませて感想をきいたり、感想文を書かせたりもしている。もう時効(?)だと思うので書いてしまうがここで引用した2つの感想文の筆者はこの人で、その間に挟まってる感想の主は……いや、全部ばらしてしまうと面白くないから、こちらは秘密にしておこう。ヒント(ヒントになっていないような気もするが)はここで言及した「私が書きたかったこと(しかし、ネタばらしになるのではっきりと書けなかったこと)を全部見抜いて的確なコメントをつけている人」のサイトでコメントタグの中に書き込まれた人である。あとここでも他人の感想文を紹介したが、これも筆者は秘密にしておく。

 今日もだらだらとしまりのない長い文章になったなぁ。でも、あともう少し。

 アクセスログを見ているとこんな検索語でアクセスした人がいたようだ。何ということだ!
 該当するページはここなのだが、検索語のうちの一つは引用文中にあり、しかも「たそがれSpringPoint」の格調にふさわしくないと判断して伏せ字にした箇所だったのに……。

 JUNK-LAND『焼き捨てられた書類の問題』はさらに正解者が2名増えたもよう。何ということだ!
 私が苦しんでいるのは、経験不足のせい。私はその装置が作動するのをじかに見たことがないので、どのように推理に組み込んでいいのかがわからず困っている。

 『こんびに さんご軒へようこそ―なつやすみの奇跡―』(あらいりゅうじ/エニックス EXノベルズ)を読んだ。すらすらと読めた。イラストを描いている水無月すうの『私の救世主さま』はやや痛いマンガ(誤解のないように書いておくが、作者が電波系だと言いたいわけではない。作品の設定とか作中のエピソードの話)だが、こちらはほのぼの系で、楽しく読めた。
 それにしても、上田信舟が女性で水無月すうが男性って……ホント?

 明日から『マリア様がみてる』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)を読むことにする。既刊11冊というのはちょっとしんどそうだが、『指輪物語』ほどではないだろう。こうやって宣言したからには、読む。必ず読み通す。
 景気づけのためにここにリンク。ついでにここにもリンクをはっておく。

 若島正が詰将棋作家だとは知らなかった(7/1付)、反省。私が名前を即座に挙げられる詰将棋作家は、伊藤看寿と伊藤果の二人だけ。

 今日はチェンバロのためのトッカータを聴いた。明日はいよいよ『フーガの技法』だ。

1.10299(2002/07/02) 百合烏賊

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020702a
 先週からずっと悩み続けていたJUNK-LAND『焼き捨てられた書類の問題』だが、これまでずっとどうしようもない思い違いをしていたことに気づいた。その思い違いのせいで、ある出来事と別の出来事の起こった順番を逆に考えてしまい、そうすると犯人の行動が著しく不自然なものになってしまい、何がなんだかわからなくなってしまったのだ。そうすると、何かほかに手がかりがあるのではないかと探し回り、「語り手が現場へ乗り付けた「パトカー」は果たして白と黒のパトカーなのだろうか? もしかして道路パトカーではないだろうか?」などとどうでもいい疑問を抱いてしまい、どんどん思考が袋小路に入ってしまったわけである。
 だが、ひとたび"ボタンの掛け違い"に気がつくと、あとはほとんど一本道で、ロジックを積み上げていけば唯一無二の真犯人に到達できた。これで私も名探偵への仲間入りだ!
 ……と書いたものの、途方もない勘違いをしている可能性がまだないわけではない。もう一度ロジックに穴がないかどうか検討してみよう。

 コミケットトレイン実行委員会からコミケットトレイン20号の案内が届いた。去年の夏コミで往路だけ(しかも岐阜駅という中途半端なところから)乗っただけだが、車内でいろいろとイベントがあって楽しかった。ただし、深夜まで起きていたので次の日(つまりコミケ初日)はほとんどダウン状態だった。イベントは自由参加だから、別にさっさと寝てしまってもよかったのだが、久しぶりの夜行列車でちょっとハイになっていたのだろう。
 今年も申し込もうか、どうしようか。今考え中。とりあえず東京で会う予定のある人々と日程調整をしてから、かな。

 漂泊旦那氏のサイトの掲示板(というか某所でコピペされた記事)経由で「プロファイルとは」という文章を読んだ。演繹的プロファイルと帰納的プロファイルという対比があってなかなか興味深い。

 『マリア様がみてる』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)、とりあえず最初の1冊を読んだ。いろいろと思うことはあるのだが、まだ先は長い。次は『マリア様がみてる 黄薔薇革命』だ。

 『フーガの技法』のContrapunctus1〜11を聴いた。

1.10300(2002/07/03) 暑中

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020703a
 あまりに暑くてバテ気味なので、しばらく更新が停滞します。

 とりあえず、メモ。

1.10301(2002/07/04) "食物連鎖"の一例

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020704a
 数日前に『たった1行のネタだって、それを見つけてきた「功労者」がいるんデスよ。』 という文章(後述の理由により「ネタ元」は書かない)を読んだとき、自分とは無縁な世界の話だと思っていた。「たそがれSpringPoint」は情報系サイトではないからだ。
 ところが……。
 "食物連鎖"の経緯を簡単にまとめよう。
  1. 7/1 ここUNDERGROUND『空の境界』評を紹介。
  2. 7/3 まいじゃー推進委員会で、「ミステリ読みの視点から見た、「空の境界」書評(たそがれSpringPointより)」として紹介。 」
  3. 7/3 雨の日はいつもレイン で、「「ミステリ読みの視点から見た、「空の境界」書評 (たそがれSpringPointより)」  (まいじゃー推進委員会!)」として紹介。
  4. 7/4 カトゆー家断絶で「ミステリ読みの視点から見た、「空の境界」書評(雨の日はいつもレインより)」として紹介。
 で、感想だが……まあ、マザーグースの『ジャックが建てた家』みたいなことはできんわな。ネタを最初に掘り出して紹介したサイト(ちなみに樋口氏の『空の境界』評に最初に言及したのは私ではない。ひととおりまとまってからコメントしよう思っていたら、先に白黒学派で紹介されていた。ほかにも私より先に紹介した人がいるかもしれない)をどう扱うかという問題にはなかなか答えにくいが、"連鎖"中の各サイトでの取り上げられ方を知りたい人のためには、直前(つまり自分が直接参照したサイト)だけリンクしておけばいいのではないか。そこで芋蔓式に"連鎖"を辿るかどうかは閲覧者の自由であり、特に「最初の紹介サイト」を重視する必要はないと思う。
 最初にリンクした『たった1行のネタだって、それを見つけてきた「功労者」がいるんデスよ。』 の場合は、筆者自身がリンク元サイトへのリンク集を作っているので、あえて「私がどういう経路で当該文章を知ったか」ということを明示する必要もないのだから、ネタ元は書かなかった。

 この話題については、「データベースの著作権」と絡めて、暇なときにもう少し考えてみる……かもしれない。

1.10302(2002/07/04) 停滞空間

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020704b
 昨日に続き、今日も暑い。
「どうしてこんなに暑いの?」
 それは、夏だからだ。

 暑いと頭がうまく働かなくなるので、今日も簡単にすませる。

 カエレ!〜招かざる厨房たちへ〜(今気づいたのだが、「招かざる」の「れ」が抜けている。わざとやっているのだろうか?)で紹介されている記事(「76-656 参國視姦厨」)の中に面白いフレーズがあった。
しかし、高校というのはプレリュードという名の涅槃交響曲序章にしか過ぎなかったのです(いや、聞いたことないけど)。
 いやぁ、「プレリュードという名の涅槃交響曲序章」なんてフレーズ、そう簡単にひねり出せるものじゃありませんぜ、旦那。あとのほうで「香ばしい文章」などと言われてしまっているが、この文章の筆者はかなり頭が切れる人のように思う。
 なお、「涅槃交響曲」というのは実在する(私も聴いたことはないが)。大きいレコード屋に行けば売っている……かもしれない。

 JUNK-LAND『焼き捨てられた書類の問題』についての私の推理は正解だったようで、無事殿堂入りを果たすことができた。とりあえず、めでたしめでたし。

 今朝の文章を読み返してみると、時間がなかったせいか、説明不足の感がある。だが、上述のとおり暑くて頭が働かないので、少し手入れしただけで補足はしないでおく。

 今日はチェンバロのための寄せ集め曲集を聴いた。「Sonatas,Suites,Fantasias」という標題がついているが、ソナタも組曲1曲ずつしか入っていない。
 BWV906はノリのいいジャズみたいな曲だ。実際、ジャック・ルーシェがアレンジしている。

 『マリア様がみてる いばらの森』を読んだので、次は『マリア様がみてる ロサ・カニーナ』を読む。
 このシリーズについては一通り読んでから感想を述べようと思っているのだが、今日読んだ『いばらの森』に印象深い一節(44ページ〜45ページ)があったので忘れないうちに引用しておく。
「神田あたりの、大きな書店行ってごらん。コミックスや文庫が、発売日の三日や四日前には店頭に並んでいるから」
「神田、って古本屋さんとかたくさんある、あの神田ですか?」
「そう。結構有名な話」
 それが本当なら、地方の山奥とか、小さな島なんかに住んでいる人間が地団駄踏んで悔しがりそうな話だ。
 まさに、然り。地方の山奥に住んでいる私は、しょっちゅう悔しい思いをしている。さらに悔しいのは、せっかく早売りで入手した本を読まずにどんどん積んでいく人がいることだ。

1.10303(2002/07/05) 暑さのせいで攻撃的になる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020705a
 某サイトで気になる文章を見つけたのだが、どこがどう気になるのかを説明しようとすると、非常に攻撃的な書き方になってしまうことに気づき、言及するのを断念した。あと気温が3度低ければ、少しは冷静な取り上げ方ができると思うのだが。

 歯科医師会という団体がある。確かめたわけではないが、たぶん全国47都道府県のすべてにあるだろうと思う。また市単位の歯科医師会もあるようだ。
 どうでもいいことを考えた。水面に仰向けに浮かんで本が読めることで有名な死海に歯科医師会がもしあったとするならば……そして、その歯科医師会に会誌があったなら……と。
「『死海歯科医師会誌』かい?」
 そう、それが言いたかったんだ。

 暑いとほんとにどうでもいい事を考えてしまう。

 昨日「涅槃交響曲」のことを書いたら、意外なことに反応があった。政宗九氏はCDを所持している由
 せっかくだから、黛敏郎ネタでほかに何かないかと考えてみた。だが、私は黛敏郎の音楽は全く守備範囲外なので、いくつかの曲のタイトルを知っている程度だ。妙なタイトルの曲といえば、カンタータ「憲法はなぜ改正されなければならないか」が有名(昔、とり・みきが雑誌のコラムか何かで言及しているのを読んだ覚えがある)だが、黛敏郎作品リストを見ると、ほかにもアレな題名の曲が多い。「題名のない音楽会」では普通のおっちゃんのようだったが、なかなか侮れないものだ。

 『マリア様がみてる ロサ・カニーナ』を読んだ。次は『マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物』を読む。

 今日も1枚聴いた。

1.10304(2002/07/06) 『マリア様がみてる』の感想(暫定版)

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020706a
 『マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物』を読んだ。次は『マリア様がみてる いとしき歳月』を読む。

 『マリア様がみてる』シリーズはひととおり既刊本を全部読んでから感想を書こうと思っていた。かなり話題になっているシリーズなので、既に感想文はあちこちに溢れかえっている。そこにもう一つ追加するなら多少は他人と違ったことを言うのでないとつまらない。だが、他人がどんな事を語っているのかを調べようとすると、どうしても未読の巻のストーリーに触れてしまうことになる。それはもったいない。そういうわけだ。
 ところが、そうもいかなくなってきた。
 私は物忘れが激しいので長い小説を読むのが苦手だ。一気に読み通すのでなければ、すぐに登場人物の名前や設定を忘れてしまう。そこで既刊11冊をまとめて買って、一日に必ず一冊ずつ読むというノルマを自らに課して読んできた。だが、今日『ウァリンティーヌスの贈り物(前編)』を読んでいると、25ページの会話の中に出てきた「桂さん」が誰なのか全くわからなくなっていた。わからないまま読み進めていっても特に支障なく読めたのでほっとしたが、こんな調子だと最新刊を読み終える頃には最初のほうのストーリーはきれいに忘れてしまっているはずだ。そこで当初の方針を撤回し、このあたりで感想文を書いておくことにした。6冊読んで折り返し地点を過ぎたので、ちょうどいい頃合いだと思う。
 なお、『マリア様がみてた』シリーズを読むことに決めてから、ネット上で公開されている感想文や書評の類を読まないようにしているので、もしかしたらもの凄く平凡でありきたりな事しか書いていないかもしれないことを予め断っておく。

 『マリア様がみてる』は3つの性別をもつ種族の生活を描いたSFである。
 前置きが長くなったので、いきなり断言調で核心に迫ってみた。ただし、小説の核心ではなく、私の脳内妄想の核心だが。
 人類には男性と女性という2つの性別がある。男女間の恋愛は異性愛であり、男性同士、または女性同士の恋愛は同性愛である。『マリみて』の世界にも男性/女性の区別はあり、「同性愛」という言葉も出てくるので、一見したところ現実世界の人間と同じであるかのように見える。主要登場人物のほとんどが女性であり、その間でほとんど恋愛といってよい濃密な人間関係が形成されているのだから、『マリみて』は女性同士の同性愛を扱った"百合小説"である、と考えられる。
 だが、そうではない。『マリみて』では男性/女性の区別がほとんど意味を持たない世界を舞台にしている。そのかわり、別の性別が『マリみて』の世界にはある。性別は全部で3つ、一年性二年性、そして三年性である。
 ロザリオの授受という儀式は現実世界の結婚式のメタファーであり、その儀式により結ばれた"姉妹"は現実世界での夫婦に相当する。では、"姉"と"妹"のどちらが男役で、どちらが女役なのか? この問いはナンセンスだ。なぜなら、先に述べたとおり、『マリみて』の世界における性別は現実世界のそれとは違っているのだから。"姉"は三年性または二年性であり、"妹"は二年性または一年性である。"姉"が一年性で"妹"が三年性ということや、"姉妹"が同性ということは絶対にない。その事だけ確認しておこう。
(以下、「三年性」という書き方はやめて、ふつうに「三年生」と書く。また"姉"などの引用符も外すことにする)
 さて、私が読んだ6冊の中で、正真正銘の同性愛を扱ったエピソードが一つだけある。ただし相思相愛ではない。二人はともに二年生であり、おもわれびとのほうには既に妹がいる。この決して成就することのない秘められた恋をきめ細やかに語ったこの一編は『マリみて』既読分のうち最も私が感心したものだが、それ以外では同級生はいくら親密であってもただの親友に過ぎず、恋愛関係は姉妹間に限られている。
 ところで、下級生にとっては姉であっても、上級生に対しては妹、というふうに『マリみて』の登場人物たちは二重の結婚生活を送っている(もちろん中には姉か妹のどちらかしかいない者もいれば、全く姉妹がいない者もいる)。現実世界ではこれは重婚になるが、3つの性別がある『マリみて』世界では全く問題はない。とはいえ、二人の姉からロザリオを受けたら、やはり重婚だろう。『マリみて』世界の婚姻制度を現実のそれと比較してみるとなかなか興味深い。

 ここまで書いてみて、ちょっと不安になってきた。誰もがみんな了解済みのことばかり書いてしまったような気がするからだ。ちょっと仕切直ししたほうがいいかもしれない。
 とりあえず木々高太郎の「人生二回結婚説」(参考)に読者の注意を喚起しておいて、ひとまず退散。

1.10305(2002/07/07) 『マリア様がみてる』の感想(暫定版)の補足

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020707a
 なぜか「たそがれSpringPoint」のアクセス数が急増している。今日だけでもう300ヒットを超えていて、ちょっとうろたえ気味だ。「たかが300ヒット」と笑う人もいるだろうが、しばらく100〜150ヒット/日で安定していた弱小サイトの管理人にとってはこの数字はなかなか重大なわけで。
 だが、あまり気にしていても仕方がない。とりあえず、見出しの件を片づけることにしよう。

 昨日書いた文章を読み返してみると、全く感想文らしくない。いったい私は『マリみて』を読んで何をじ、何をったのかが全く不明だ。そこで、今日は少し補足しておくことにする。
 『マリみて』の最初の巻を開いて最初に感じたのは、郷愁にも似た懐かしさだった。といっても、私はミッションスクールの出身ではないし、女子高に通っていた経験すらない("数年前まで女子高だった高校"に通っていたことはあるが、一年でやめてしまったのであまり大した思い出はない)。私が懐かしく感じたのは「コバルト文庫から出ている女子高を舞台にした小説」に対してであり、具体的に言えば『丘の家のミッキー』シリーズ(久美沙織/全10冊)のことを思い出したからである。
 『丘の家のミッキー』を読んだのは昔々のことで、今となってはストーリーはほとんど覚えていないし、読み返そうにも本が手元にない。捨てたはずはないので、たぶん高校卒業と同時に文芸部室(高校生の頃、私は文芸部と図書部に掛け持ちで所属していた)に置いてきたのだろう。
 当時の高校生はみな貧乏で、本好きが集まってよく回し読みをしていた。実は『丘の家のミッキー』も回し読み本で、最初のうちは文芸部の先輩が買っていたが、卒業したので私が買うことになったのだと記憶している。なにぶん大昔のことなので記憶に間違いがあるかもしれないが、『丘の家のミッキー』の新刊発売を心待ちにして発売日の数日前から高校近くの本屋に何度も足を運んだことは確かだ。たぶん、二、三冊は買ったはず。そのような買い方だったため、私が卒業したときには先輩の買った分と併せて文芸部に寄贈したのだ……と想う。
 なお、言うまでもないが、私が読んだのは竹岡美穂ヴァージョンではなく、めるへんめーかーヴァージョンのほうだ。ああ、年齢がばれてしまうなぁ。
 昔話はこれくらいにしておいて『マリみて』の感想に話を戻す。上述のとおり『丘の家のミッキー』の内容をすっかり忘れているので具体的な比較はできないが、『マリみて』には「もしかしたら高校生のころに私が文芸部室のパイプ椅子に座りながら貪るように読みふけった本はこれではなかったのか?」と錯覚してしまいそうな雰囲気がある。身も蓋もない言い方をしてしまうと「古い」のだが、この「古さ」は決して悪いことではなく、むしろ心地よい。携帯電話とも茶髪とも無縁な高校生たち、「JR」を「国電」に、「平成」を「昭和」に置き換えれば、あの時代の話だと言っても通用しそうだ。私立リリアン学園には、のちに父親の夢につき合わされて泣く泣く転校することになる浅葉未来がいて、他の生徒と同じようにマリア様に朝の挨拶をしているのかもしれない。
 おっと、感想というより妄想だな。軌道修正する。
 『マリみて』を読んで感じたことをもう一つ。うまく言えないのだが「言葉に対するセンスがいい」と思う。たとえば、『いばらの森』を開くと、マリアの息子の名前を9ページでは「イエズス」と表記し、212ページでは「イエス」と表記している。ちゃんとチェックしながら読んだわけではないが、たぶん『白き花びら』では一貫して「イエス」、それ以外では「イエズス」になっているはずだ。芸が細かい。
 これはほんの一例で、ほかにもっといい例があったような気がするのだが、忘れてしまった。こんなことなら付箋を貼りながら読めばよかった。
 忘れないうちに、印象的な一節を引用しておこう。『ロサ・カニーナ』から蟹名静の台詞、聞き手は福沢祐巳だ(76ページ)。
「いっそ黒薔薇の方が格好よかったわね。だってピンクって日本語にすると『桃色』とか『桜色』とか別の植物の名前をいれないといけないでしょう? それじゃ、薔薇に失礼だもの」
「ああ、なるほど」
 紅薔薇、白薔薇、黄薔薇は収まりがいいけど、桃薔薇とか桜薔薇なんていうのは何かおかしい。かといって薄紅薔薇じゃ、ちょっと間が抜けているし。しかし、そんなことを考えてたなんて、静さまってちょっとお茶目だ。
 日本語には「薔薇色」という言葉もある。そんな事は静も祐巳も承知のはずだが、「薔薇薔薇」では「ちょっと間が抜けている」程度ではすまない。言い表そうとしている当の物に由来する言葉がありながらそれが使えないとは、何たるパラドックス!
 ちょっと大げさか?
 ええと、この種の小説の感想文だとキャラの印象を書くのがふつうなのだろうが、私はかなりズレた読者なので省略。そのうち気が向いたら書くかもしれないが。
 とりあえず、今日は『マリア様がみてる いとしき歳月』を読んだ。次は『マリア様がみてる チェリープロッサム』を読む。おお、残りはあと3冊ではないか。

1.10306(2002/07/08) 時には気が抜けたビールのように

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020708a

 時には、というより、ほぼ常に、というほうが正しいような気もするが、まあ、それはそれとして……。

 昨日のアクセス数は結局464までいった。もちろん過去最高記録だ。いったい誰がどこからアクセスしてきたのか疑問だ。たぶん一昨日の『マリア様がみてる』の感想(暫定版)をどこかのサイトで紹介したからだと思うのだが、私の定期巡回サイトのなかでは求道の果て/ヲタク放談(7/6付)しか見あたらなかった。
 アクセスログをみても「bookmark」または「bookmarks」がずらずらと並んでいるだけで、特に新規読者の呼び水になったと思われるリンクはなかった。もっとも、最新20アクセスしか保存しない仕様になっているので、たまたま私が見ているときだけそうだったのかもしれないが。
 ところで、こんなところから来た人が何人かいたようで少し不思議なのだが、「たそがれSpringPoint」に直接リンクを張って逆探知をされるのを嫌った人が、間接的にリンクを張っているのかもしれない。
 「たそがれSpringPoint」はリンクフリーであり、直リン(ディープリンク)も拒否しないので、その関係で遠慮したのなら気遣いは無用である。もしそうではないのなら……うう、あまりこの先は考えたくない。

 今日は『マリア様がみてる チェリーブロッサム』を読んだ。次は『マリア様がみてる レイニーブルー』を読む。
 「一日一マリみて」ということで順調に読み進めてきた(土日には2冊ずつ読んだが、前後編だったのであわせて一本のつもり)が、明日は出張でちょっと遠出するので読めるかどうかわからない。せっかく冬野氏に一歩先んじたところなのに残念だ。
 実は2月末から3月上旬にかけて冬野氏と競争するように『指輪物語』を読んでいた。別に読書はスピードを競うものではないが、ある程度長いシリーズ物などを読むときには、ほぼ同時に読んでいる人がいると支えになる。もし一人で読んでいたなら、たぶん私は挫折してしまっていただろう。
 ところで、冬野氏は『指輪物語』を全部読み通すことができたのだろうか?

 ここ何日か、暑かったり『マリみて』の感想文に時間をとられたりして、書かないままになっている話題がいくつかある。別に書こうが書くまいが構わないことなのだが、何となくすっきりしないので総ざらえしておく。
 まず一つめは、"裏"日本工業新聞!!の『輪舞曲都市』評(7/4付)について。読みどころと難点を要領よく押さえて、かつ未読の人の興を削がない紹介になっている。それを読んで少しでも気になった人は直ちに書店へ向かうべし。
 二つめは、ここで言及した「某サイト」について。ぼかして書いたら、全然別の方面の人に「自分のことだろうか?」と思われてしまった。こういう書き方はよくない、と反省。「某サイト」というのはÅ DASEINのことで、その7/4付の文章で述べられている、時間についての見解が気になったのだ。これは素直で穏当な意見であり、常識で考えれば特に異を唱えることはない。ただサイト名の由来とあまりにもそぐわないような気がしただけだ。だが、考えてみれば「たそがれSpringPoint」が別に鉄道系サイトではなく、たまに鉄道ネタを扱う程度なのだから、「Å DASEIN」に哲学系サイトであることを求めるのはおかしい。きっと私は率直に自分の意見を表明できる人に知らず知らずのうちに嫉妬しているのだろう。
 三つめは、別の某サイト(こういう書き方はよくない、とすぐ上で書いたばかりだが、勘弁してほしい)の7/3付の文章について。\  あ、特に何も書くことないや。
 四つめは、反省せよ、汝の名は積み人なりまいじゃー推進委員会 7/6付の記事より)について。いや、一度こういうバカなリンクを張ってみたかっただけで……。本当にちゃんと書こうとするとこれだけで一回分の記事になってしまうので、また後日。

 土日にすっぽかした「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、もちろん聴くだけは聴いている。土曜日には「インヴェンションとシンフォニア」を聴いた。昔、ピアノを習ったことなど一度もないのに無性にバッハが弾きたくなって、この曲集の楽譜を買ってきて練習したことを思い出す。当然のごとく全くものにならなかったが。
 昨日からはまたもや教会カンタータ集だ。まだまだたくさん残っている。ふう。

1.10307(2002/07/09a) 時間の習俗

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020709a

 『マリア様がみてる レイニーブルー』を読んだ。次は『マリア様がみてる パラソルをさして』を読む。
 「一日一マリみて」も明日で終わりだ。『レイニーブルー』のラストがちょっとアレなので、刊行時に読んだ人はさぞいらいらしたことだろう。私も今すぐ『パラソルをさして』を読みたいのだが、一晩我慢しようと思う。

 さて、昨日少し触れたÅ DASEIN7/4付の文章について私が気になった点が何だったのかを書くことにする。
 この文章の最初のほうを読むと、人は境遇や才能などについては不平等に生まれついているが「与えられた時間」はほぼ同じである、というような事が書かれている。
 私は首を傾げた。「与えられた時間」というのは一体何のことを指すのだろうか、と。その後の文章との関連で考えれば、余暇とか自由時間のことを言っているように思える。だが、そうだとすると、「ほぼ同じ」とはいえないだろう。
 たとえば二年前の私と今の私を比べてみると、仕事で拘束される時間はほぼ同じだが、通勤時間が大幅に違う。前の会社には歩いて15分のところに寮があったので、朝8時に起きてゆっくりと支度をしても十分間に合ったが、今は片道1時間半近くかるので遅くとも6時半に起きないと間に合わない。起床時刻が早くなると当然就寝時刻にも響いてくるわけで、以前は午前1時半くらいに寝ていたのに、今では日付がかわる前に寝床に入らないと翌日の仕事がつらい。かつては平日の自由時間は約7時間あったのに、今では5時間もない。
 学生か社会人か、社会人だとすれば勤め人か自由業か、またはどのような職種についているのかに応じて自由時間が違ってくるのは明らかだ。ということは、私の解釈が間違っていたということだろう。
 そこで考え直した。「与えられた時間」をどう使うか、という問題設定を行っているのだから、そこで言われる「与えられた時間」というのは使い道をある程度自由に選択できる時間、すなわち生活の中で仕事や勉強、食事、睡眠などに費やす時間を除いた残りだろうと思ったのだが、よくよく考えてみると、いわゆる「自由時間」以外の時間も完全に束縛されていてどうしようもないわけではない。睡眠時間は削ることもできるし、逆に惰眠を貪ることもできる。仕事中に睡眠をとれば一石二鳥だ。そもそも職業の選択自体が(ある程度は成り行きにまかせる要素もあるが)自由な意志決定の結果なのだから、これも「与えられた時間」の使い方の一例であるともいえる。そうすると、「与えられた時間」というのは、たとえば1日なら24時間、週単位で考えるなら168時間、月単位なら672時間(閏年以外の2月の場合)または696時間(閏年の2月の場合)あるいは720時間(2月を除く小の月の場合)もしくは744時間(大の月の場合)のすべての時間ということになる。
 なるほど、それなら万人に対して「与えられた時間」は平等だ。人によって1日が25時間あったり、23時間しかなかったりすることはない。「ほぼ」などという修飾語句をつけるまでもない。しかし、これはあまりにも瑣末な真理であり、ここから何かが帰結するとは考えにくい。
 ここで私は行き詰まってしまった。一方の解釈では、明らかに誤ったことを主張しており、もう一方の解釈では瑣末な真理を述べているに過ぎないことになる。ほかに解釈の方法はあるだろうか? 客観的時間(「客観的時間」という表現に抵抗を感じる人は、「客観的時間として了解された限りにおいてのそれ」とでも読み替えてほしい。テツガク的な雰囲気が漂う"香ばしい"言い回しだが)ではなく主観的な時間感覚のことだろうか? だが、どうにもしっくりこない。
 まあ、それはそれとして。
 同じ文章の続きを読んでみると、「刹那的快楽」と「ロングスパン的思慮」が対照されている。刹那vs.ロングスパン。「刹那」のほうは、そのときどきの欲求や意図に基づいて費やす時間のことだろうと想像できるが、「ロングスパン」のほうはどうか? 既に「一生」のレベルを切り捨てて「生活」のレベルのみに話題を限定しているのだから、そのレベル内での「ロングスパン」ということになるだろう。
 ここで再び私は行き詰まる。
 私の行動は私の意図に基づく。私の意図は私の欲求、志向、嗜好などと「もしAを行えばBとなるだろう」という推測により決定される。ときには計算に失敗することもあるし、ほとんど何も考えずに行動することもある。だが、多くの行動は目的を達成するための手段であり、その目的自体が別の目的のための手段であることもあり、諸目的をあわせるとぼんやりとしたネットワークを形成している。「刹那的快楽」を求める行動は、目的の連鎖から成るネットワークの直近しか見ない行動であり、「ロングスパン的思慮」に基づく行動は、目的連鎖のネットワークの遠方まで見通し決定された行動である、と考えられる。だが、このネットワークの遠くに目を向けようとすると、私はそこにすべての意味の限界を見てしまう。目的も価値も何もかもが潰えてしまう限界、それは私の人生の終わり、すなわち死である。
 日々の生活に没頭して夥しい反復と多少の逸脱の混じり合ったぬるま湯のような時間を過ごしているとき、私は心の平静を保つことができる。だが、ひとたび「ロングスパン」で物事を考えようとすると、いつか必ず訪れる死、絶対に避けることのできない終末のことをいやでも思い浮かべてしまう。
 死ぬのは怖い。死ぬのは嫌だ。そういった感情が沸き上がってくる。その種の感情は抑えることができる。だが、死によって私の行動の支えとなっているネットワークが全く無意味なものになってしまう、という考えはどうやっても頭から追い出すことができない。
 そこで――私は「ロングスパン的思慮」を貫徹することはおろか、始めることさえできない。思慮が無効になる一歩手前で足を止めて、そこから現時点を振り返って行動の利得計算を行う技能を持っていないのだ。
 しばらく「刹那的快楽」に埋没して忘れてしまっていたこと(「たそがれSpringPoint」を始めたときには一日に数分程度は考えていたらしい。サイト開設初日に書いた文章を参照されたし)をÅ DASEIN7/4付の文章は私に思い出させた。そこで私は非常に不愉快になった。――「与えられた時間」はほぼ「同じ」だという引っかかる事を書いてるのがいけない。そのせいであれこれと考えてしまい、せっかく忘れていたことを思い出してしまったではないか――。暑さのせいでいらいらが募っていたこともあり、文句がどんどん沸いてきた。その一方で私の文句が言いがかり以外の何ものでもないこともわかっていたので、結局言及するのを断念した次第。
 今日は多少は冷静になったつもりなので改めて取り上げたが、やはりうまく説明できなかった。申し訳ない。

 今日もバッハのカンタータを聴いた。第9,94,47番の3曲。

 JUNK-LANDの今日付の文章(「本格“で”書くということ-4」)で『オイディプス症候群』をけちょんけちょんにやっつけていて、非常に爽快だ。なんだか無性に『オイディプス症候群』が読みたくなってきた。しかし、『オイディプス症候群』より先に『哲学者の密室』を読むべきだろうな。う〜ん。
 ところで、

しかも本格としての中核をなす“孤島”や“見立て”の解釈/謎解きについても、“哲学風に味付けされたとてつもなく回りくどい・解りづらい説明”を“本格ミステリの論法に解りやすく還元”すれば、これまた本格ミステリ的にはどこといって特色の無い、モノスゴく当たり前の平々凡々たる解釈に過ぎず。
という一文から大きなお茶屋さん笠井潔『バイバイ、エンジェル』をめぐる断想を思い出した。視点も対象作品も異なっているが、どことなく似ているような気がする。

1.10308(2002/07/10) Ave Maria,gratia plena

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207a.html#p020710a

 『マリア様がみてる パラソルをさして』を読んだ。これで「マリア様がみてる」シリーズの既刊をすべて読み終えた。
 一冊目の『マリア様がみてる』を読んだときには、「そこそこ面白いが、みんなが大騒ぎするほどでもないだろう」と思った。二冊目の『黄薔薇革命』もほぼ同印象だった。いや、一冊目では強く感じた郷愁と懐かしさ(7/6の感想文参照)が薄れた分、印象は少し弱くなった。とはいえ、続きを読むのをやめてしまうほど興味を失ったわけではない(これは言わずもがなだろう。もしそうなら、私が今このような感想文を書いているわけがないのだから)。ただ、私の興味は主に「続刊もこのまま同じ調子で続いていくのかどうか」という点にあった。
 三冊目の『いばらの森』で私の評価は大きく変わることになった。前半の表題作が「少女小説についての少女小説」という趣向になっている(ただし、あざといメタフィクションに陥ることなく、ほのかに自己言及的構造を示唆する程度にとどまっている)ことに興味を惹かれた。ついで後半の『白き花びら』を読み、一冊目から続いてきた微温的なくらいにのどかな雰囲気とは全く違う物語が展開されていることに驚いた。
 "キャラクターの魅力で読ませる物語"というものが私は苦手だ。キャラクターの言動から脳内でストーリーを展開するほどの想像力を持ち合わせておらず、そもそも特定の人物に感情移入して読むことができない。そこで、どうしても設定やプロットの面白さを重視してしまう。だが、『いばらの森』に収録された二編を読んで、「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)」こと佐藤聖という人物が非常に強く印象に残った。これはもう負けを認めるしかない、という感じだ。
 よくよく考えてみれば、それまで三人称で記述していたシリーズものに突然一人称の作品を入れたり、基本的に時系列に沿って進められた物語(雑誌に掲載された雑誌を除く)の中に回想という形で過去の話を持ち込んだりするだけでもインパクトが強い。そのうえ雰囲気をがらりと変えて重いテーマを扱い、さらに人物に合わせて細部の表現まで配慮している(7/7の感想文参照)のだから、印象深くなるのも当然だ。ここに作者の巧みなわざをみることができる。
 と、評論めいたことを書いたが、読んでいるときにはそんな事は全然考えずに、ただ物語に引き込まれて読んでいただけだ。とにかく佐藤聖という人物のその後が気がかりで。ここに至って私は、素直に「続きが読みたい」という心境になっていた。
 続く『ロサ・カニーナ』では、表題作では聖は脇に退いているものの、併録されている『長き夜の』ではヒロイン(?)の祐巳を食わんばかりに活躍していて楽しかった。さらに『ウァレンティーヌスの贈り物』の二冊でも要所要所でいい役所を演じている。他の登場人物に魅力がないわけではないが、聖がひときわ目立っているように思えた。
 しかし――初登場のときに既に三年生になっていた聖は『いとしき歳月』で卒業してしまう。卒業とともに舞台から姿を消し、その後は会話の中で軽く触れられるだけ、というのが自然なのだろうが、ちょっと惜しい。そんな事を思いながら『いとしき歳月』を読むと、まさに私のその気持ちにこたえるかのように聖(と残り二人の「薔薇」)の過去のエピソードが繰り出されてきた。
 実を言えば、『いとしき歳月』を読んでちょっと「おなかいっぱい」という気持ちになってしまった。胃もたれするほどしつこい料理ではなく、一品一品は美味なのだが、腹八分目のほうが健康によいのではないか。
 年度が改まって『チェリープロッサム』では新キャラも登場してにぎやかになってきた。前半の『銀杏の中の桜』はもともと単発ものとして書かれた作品だからか、お話としていちばんよくまとまっているように思った。それまでの八冊で積み上げてきた祥子や令のイメージとは少し違っているような感じもしたが、立場が違っているのだから当然ともいえる。私はあまり気にならなかった。後半の『BGN(バックグラウンドノイズ)』は「同じ出来事を別の視点から描く」という点で『紅いカード』(『ウァレンティーヌスの贈り物(後編)』に収録)と同工異曲で、しかも『紅いカード』ほどの深みがないので、不要ではないかと思った。もっとも、つまらないわけではなく、十分楽しめたのだが。
 事実上の前後編である『レイニーブルー』と『パラソルをさして』も面白かった。ただ、『レイニーブルー』に収録されている『ロザリオの滴』と『黄薔薇注意報』も、全体の構成からすれば別に要らないのではないか。表題作の『レイニーブルー』から次巻の『パラソルをさして』にかけてのストーリーの中でそれとなくほのめかしておく程度で十分だと思う(先に述べたように、私はどうしてもストーリーを重視してしまうので、一人一人の登場人物に見せ場を作るための話だとわかっていても、このようなことを考えてしまうのだ)。ともあれ『パラソルをさして』は聖が絶妙な登場の仕方をするのがよかった(ついさっき言ったことと矛盾しているような気もするが……まあ、いいだろう)。
 だらだらと思いつくままに書き連ねた。「マリみて」を読んでいない人にとっては全く何の意味もない文章で申し訳ない。また、7/6の感想文の続きを期待していた人にも謝っておく。
 本当はいろいろ考えていたのだ。「ごきげんよう」のかわりに「ごっつぁんです」と挨拶したらどうか、とか、タイトルが『ノストラダムスがみてる』だったら嫌だな(「Nostradamus」はラテン語で「我らが貴婦人」、すなわち聖母マリアのこと)、とか。でも時間と能力の限界には逆らえなかった。無念。

 最後にどうでもいい補足。「『ノストラダムス』の綴りは『Nostradamvs』だ」などと余計なツッコミを入れないように。