明後日、急に出張することになった。というわけで、先日書いた熊野大花火を見に行くことは不可能となった。
さようなら、鬼ヶ城大仕掛け。
他方、9/6にロフトプラスワン「本日開店!メガネっ娘 居酒屋『委員長』」にあわせて上京するという計画は着々と実現に向けて進んでいる。あとは交通手段の確保と宿の手配だけ。
なんかどんどんダメ人間になっていくような気がする。いや、気のせいだろう。もう私はこれ以上ダメになりようがないのだから。
あのころキミは若かったを見ると当「たそがれSpringPoint」の開設日は2001/10/01ということになっているが、10月1日は知人の掲示板などで初めてサイト開設のお知らせをした日で、本当は2001/09/20が開設日である。別に「10月1日では遅すぎる」と言いたいわけではないし、訂正を求めるつもりもない。今日が8月21日でサイト開設一周年まであと一ヶ月となったので書いてみただけ。
なお、正式公開日の前日、9月30日をもって閉鎖した私の前サイト(サイト名や当時使っていたハンドルは秘密にしておく。別に隠す必要もないのだが、人間一つくらいは秘密を持っておきたいものだ)は1998年11月7日に開設した。「あのキミ」掲載サイトでいえばねころんで読書と旅歌的楽天生活の間になる。前サイトは老人が昔の思い出に浸るだけの後ろ向きなサイトだった(今の「たそがれSpringPoint」も決して前向きなサイトではないが)ので、仮に現存していても「あのキミ」リストに掲載されることはなかっただろうが、もちろん当時の私は今よりずっと若かった。あれからそろそろ4年、その間にネットバトルもしたし、2ちゃんねるでコテハンを使ったこともあった。ネット上での人間関係に悩んだこともあれば、ネットからの撤退を考えたことも何度となくあった。
ああ、昔の思い出に浸ってしまった。としはとりたくないものだ。
今日のバッハはカンタータ第137,25,119,43番の4曲。カンタータ第119番「エルサレムよ、主をほめまつれ」の冒頭合唱はフランス風序曲の形式をとっている。失われた管弦楽組曲か何かの序曲に合唱をかぶせたものなのだろうか?
今週はどうも体の調子が悪い。肩がひどく凝って一日中気分が重い。また朝から晩までずっと眠気に悩まされている。眠くても仕事を休むわけにいかないので、コーヒーをがぶ飲みしながら机にかじりつくのだが、そうすると胃腸が荒れてくる。このままだといずれ熱を出して寝込んでしまいそうだ。今ダウンするわけにはいかないので、今日は短くまとめてさっさと寝ることにする。
文章を短くまとめるなら超短編でも書いておくのがいちばんだろう、と安直なことを考えた。そんな事を言ったら真面目にやっている人に叱られそうだが、叱られたら叱られたでその時のこと、は仮定の話はやめて、早速拙作を披露することにする。
「恋愛小説」
放課後に重岡宗太郎に呼び出され、銀杏の木の下で思わぬ告白を受けた。「君のことがずっと好きだった。黙っていようと思ったけれど、今日でお別れだから思い切って最後に告白することにしたんだ」かすかに震える声で彼は言った。
その夜、わたしは夜遅くまで寝付けなかった。
翌朝、教室に入ると宗太郎が窓際の席で本を読んでいた。「嘘つき」わたしは彼を責めた。「昨日のことは冗談だったの?」
「いや、冗談じゃないよ」本から顔を上げて宗太郎は呟くように答えた。「一生に一度の勇気を振り絞って彼は告白したんだ。僕はそう思っている」
数え間違いでなければ、句読点と括弧、疑問符込みで250文字である。ちょっと長く書きすぎた。推敲すればもっと短くまとめることができるだろうが、大したネタでもないのであまり手をかける気にもならない。それに、たぶん同じネタで先例もあるだろうし。
結局、私には小説を書く才能がないということを改めて確認しただけだった。まあ、やむを得ない。生きていればそのうちいいこともあるだろう。
今日はこれでおしまい。
今日のテーマは見出しのとおり。『十八の夏』(光原百合/双葉社)について感想文を書く。本当は「精読『十八の夏』」という見出しにしたかったのだが、私の読み方は決して「精読」といえるものではなく「精々読む」という程度に過ぎない(それは、この本に限ったことではない)ので、ちょっと気が引ける。そこで、素直に「『十八の夏』を読む」にした。
「(1)があるのだから、当然、(2)以降はないのだろう」と穿った見方をされるかもしれないが、できれば(4)まで(一回につき一編ずつのつもり)書きたいと思っている。ただし、続けて書くかどうかはわからない。今日本を買ってきたばかりで、まだ冒頭の表題作を読んだだけだから、先の見通しが立たないのだ。
さて、これから感想文を書くわけだが、『十八の夏』をまだ読んでいない人をどの程度考慮に入れるのか、ということについて少し思案した。大きくわければ、
『十八の夏』(以下、しばらく単行本のタイトルではなく収録作品の一編のことを指す)の初出は「小説推理」2001年12月号である。たまたま書店で掲載誌を手に取り、簡単な感想文を書いている。余談になるが、今日、光原百合普及委員会の光原百合作品感想&書評リンクから「たそがれSpringPoint」を訪れた人がいて、アクセスログを逆に辿って、はじめて捕捉されていることを知った。まだ他の感想文へのリンクはない(まさかネット上で『十八の夏』について最初に感想を書いたのが私ということはないだろうが……)が、単行本が出たので今後は増えていくことだろう。
さて、去年の感想文でも書いたのだが、光原百合という人は文章がうまい。どういうふうに文章がうまいのかを私の拙い文章で説明するのは困難だが、とりあえず冒頭の一節を引用して少し解説(?)してみよう。
たっぷり水を含ませた筆を走らせたような、淡い色の空。川面におずおずと戯れる日の光。向かい側の土手には五分咲きの桜並木。こちらの土手には、腰を下ろしてスケッチをする女性。今も目に浮かぶ。その風景そのものが、「はる」と平仮名で題を付けたくなる一枚の絵だった。最初の4つの文はみな体言止めである。第1文と第2文は対になって天地を描写し、第3、4文(これらは水平方向の対を表す)とさらに大きな対をなす。続く3つの文で二項対立の緊張感をやや和らげ、改行する。第2段落では、第1段落の最後で出てきた「絵」という語で文章の繋がりを確保したのち、冒頭の4つの文で述べられた天地彼我を、今度はひとつの長い文で一気に再描写する。描写の内容、文章の形式ともに第1段落と鋭い対照をなしている。このような文章はよほど考えに考え抜いたうえでないと書くことはできないだろう。
その絵は、もう、ない。空の色はあの頃より濃く、日ざしは傍若無人なほどに照りつけ、桜並木は緑の沈黙に身を包んでいる。そして一番大事だったピースが、そこからすっぽりと抜けていた。二度と取り返しのつかない形で。
さて、再び去年、私が書いた感想文に話を戻す。そこで私は、この小説は「私の基準ではミステリではない」と書いた。これは不用意な言い方だった。ある小説がミステリであるかどうかについて「私の基準」などというものがあるというのはおかしな事だ。単に「私は『十八の夏』はミステリではないと思う」と言っておくべきだった。
『暗黒童話』(乙一/集英社)を読んだとき、「この書き方だと伏線となっている二、三の記述を差し替えれば、別に他の人間が犯人であっても辻褄があうのではないか」と思った。『十八の夏』についても似たような印象を受けた。乙一と光原百合。あまり対比されることがない作家だと思うが、明示的な謎の魅力で読者を引っ張るのではなく、むしろ何がその小説の"焦点"であるのかをぼかしたまま物語を進め、その間に"意外な解決"のための伏線を張っておいて、最後にそれを回収することによってある種のミステリに近い読後感を与える作風であるという点が似ている。両者とも「ミステリ作家」の枠に入れてしまうにはためらいがあるが、かといってミステリと全く無関係とも言い難い。そこで、どうしても評価の視点が定まらず、ふらふらすることになる。
ここでは無理を承知で、強引に『十八の夏』をミステリとして読とどうなるか(「ミステリとして読む」という言い回しの意味が不明確で私自身あまりよくわかっていない。だが、この言い回しそのものの分析は別の機会に回すことにして、今は了解済みのものと仮にみなす。上で「無理は承知で」と書いたのには、そのような含みもある)について考えてみることにしよう。また、あまりいくつもの論点を取り上げることはできないので、この小説の"焦点"ともいえる「冒頭の場面で初めて出会ったと思われた信也と紅美子には既にそれ以前に接点があり、両者ともその事を知っていた」という事を示す手がかりを一つだけ取り上げることにする。その手がかりとは、信也が国語偏差値55で「松藾荘」というアパートの名前が読めないのに「蘇芳」という姓の読みを知っていたということだ。ふつうに注意して読んでいれば誰でも気づくように書かれているのだが、私はちょっと引っかかったもののあまり深く考えずに読み進めたため、上述の"焦点"には思い至らなかった。それで負け惜しみを言うのではないが、この手がかりから信也が紅美子の姓の読み方を予め知っていたというふうに推理するのはちょっと無理があるのではないかと思う。というのは、「松藾」と「蘇芳」はどちらも日常生活にあまり馴染みのない語だといっても、その「馴染みのなさ」の程度はかなり違っているからである(たとえばこことここを比べてみよ)。「松藾」は知らなくても、「蘇芳」を一般名詞として知っているということは十分あり得ることだ(実際、私がそうだ)。仮に信也が国語は苦手だが日本史は得意だったという説明でも不満を表明するのは筋違いであり、また最後まで読んで信也がなぜ「蘇芳」の読みを知っていたのかが説明されなかったとしても、そのことで「この小説は説明不足だ」と非難することはできないだろう。要するに、この手がかりはどうとでも解釈できるのであり、ある特定の解釈に説得力を与えるようなものではないということである。
他の手がかりも似たり寄ったりで、最後に真相が明かされたときにいちおう「ふ〜ん」と感心はするけれども、「なるほど」と膝を打ちたくなるほどのものではない。そういうわけで、「ミステリとして読む」とかなり物足りない。というか、そのような読み方は不当だろう、と思ってしまう。
よくできたミステリは再読に耐えうるが、それでも初読時ほどの感銘は受けないのがふつうだ。ところが『十八の夏』の場合には、逆に再読したときのほうが面白い。一文一文を丹念に読んでいって、さりげない描写に隠された意味を読みとり、一度目には気づかなかった作者の息づかいを感じ取るのが楽しいのだ。そういうわけで、時間をかけてじっくりと小説を味わいたい人におすすめの一編なのである。
もっと悪口ばかりになってしまうのではないかと思ったが、最後はなんとかうまく着地することができた。
めでたしめでたし。
「毎日更新」を謳い文句にしている個人のウェブサイトで、仮に何らかの理由で予告なしに一日更新が止まった場合、その翌日には必ずといっていいほど「なぜ昨日更新しなかった(できなかった)のか」ということについて言い訳を書くことになっている。サイト管理者の心境としては、「今日も更新しているだろうと思ってアクセスしてくれた人に申し訳ないし、もしかしたら管理人の身に何かあったんじゃないかと心配してくれている人もいるだろうから、理由説明はしっかりしておかないといけない」ということなのだろう。だが、たかだかウェブサイトの一つや二つが更新されていなかったからといって、実際にがっかりしたり心配したりする人はまずいないだろう。自意識が過ぎるというものだ。
しかし、一日間をおいてしまうと、何となくペースが崩れたような気がするので、調子を取り戻すために、昨日更新しなかった理由を書いておいたほうがいいようにも思う。こう言い訳しておけば、これから私が書く言い訳を「弱小サイト管理人の癖に、気を回しすぎやがって」などと言う人はいないだろう。
というわけで、昨日更新しなかった理由なのだが、一日中「信長の野望」をやっていて時間がなくなってしまったからである。「信長の野望」といっても最新ヴァージョンではない。そんなのタイトルしか知らない。私がだらだらと時間を潰すのは「戦国群雄伝」とか「武将風雲録」とか「覇王伝」、そして「天翔記」などである。全部廉価版で買った。一枚1980円(税抜)だ。いい時代になったものだ。
廉価版のゲームといえば、ダイソーの「ザ・ゲーム」シリーズが安い。どれくらい安いかといえば、何と100円(税抜)だ。まるで百円ショップ並の安さである。昨日、近所のダイソーへ行って初めて気づいたのだが、全部で30種類くらいあるらしい。囲碁とか将棋のようなスタンダードなボードゲームから、懐かしの「平安京エイリアン」まで、いろいろなものが揃っている。囲碁ソフトを手にとると、パッケージの画面写真が9路盤のものしかなかったので、何となく嫌な予感がして買わなかったのだが、実際のところどうなのだろう? 19路盤モードはあるのだろうか?
で、その代わりに買ったのが「御社掃除(みやそうじ)むというゲームだ。神社の境内の落ち葉を巫女さんが掃除するというゲームで「なごみ系ホノボノ落ち葉厚めアクションパズル!」というコピーが気に入った。詳しいことは知らないが、1998年に出たゲームの再発売のようだ。
私は動きのあるゲームが苦手なので、最初の面で早々にゲームオーバーになってしまったのを機会に放置プレイ確定となったが、アクションパズル(というジャンル名が確立しているのかどうかさえ知らないが)の好きな人は手を出してみても損はないと思う。もし損をしても105円だ。
また、巫女属性のある人にもおすすめ。チビキャラの巫女さんが落ち葉を掃き集める姿に萌えることができるかもしれない。もっともえっちなゲームではないので、そっち方面を期待してはいけない。
ああ、思いつきで文章を書きとばすというのは何と楽なことなのだろう!
前回の流れでいけば、今日は「『十八の夏』を読む(2)」を書くことになるのだが、現在『ささやかな奇跡』を読んでいるところ。なんとか今日中に感想を書くつもりだが、切り口が難しい。
ちょっと文章の水増しをしておく。
掲示板にゴミ書き込みが2件×2回あった。全部削除してもいいのだが、話のネタになるかもしれないので重複分だけ削除した。その後求道の果ての掲示板を見たら全く同じ書き込みがあったので、たぶんあちこちに書き込んでいるのだろうと思う。どこの誰かは知らないが、ご苦労なことではある。その努力をたたえて、次にゴミ書き込みの全文を転載しよう。
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さて、読書に戻ることにしよう。
昨日も「『十八の夏』を読む(2)」を書けなかった。とりあえず『ささやかな奇跡』は読んだのだけど……。まあ、今晩こそは何とか。
「意味」という言葉はなかなか厄介な言葉である。この言葉にはいくつもの意味があって、しかも単なる同音異義語ではなくて互いに密接な関係がある。だから、意味について語るというのは、相当繁雑でややこしい作業である。
とりあえず、今は「ことばの意味」に話を限定しよう。「人生の意味」という場合のように、目的や価値に類する意味での「意味」は取り扱わないことにする。
読冊日記の8/23付の記事で、先日宇部市で起こった連続幼児傷害事件の新聞各紙での扱いから話を始め、東京新聞の記事中の「意味のよくわからないこと」という表現について異議を唱えている。確かに指摘されてみると、「殺される」「じいさんを殺そうと思ったが、子どもは抵抗しないので切りつけて殺そうと思った」という発言は「実に意味明瞭かつ論理的で疑問の余地がない」のだが、我々はしばしば、意味のよくわからないはずの「意味のよくわからない」という表現を特に疑問にも思わずに受け入れてしまっている。それはなぜなのか?
一つの考え方はこうだ。風野氏が言っているように、「意味のよくわからない」という表現は「精神疾患を暗示する新聞的な符牒」であり、我々はその符牒をよく理解しているのだとしよう。そこで「意味のよくわからない」という表現を目にしたとき、それを文字通りの意味で捉えるかわりに、現在の新聞ではまず使われることのない「気違いじみた」やこれに類する表現に自動的に脳内変換して読むため、意味明瞭な発言に対して「意味のよくわからない」と述べる意味のよくわからない文章を不思議に思わないのだ、と。これは筋の通った考え方(なお、風野氏は新聞を読む側の理解について特に言及していないので、この考え方を氏に帰することができるかどうかはわからない)であり、特に反対する理由は何もない。
だが、このエピソードから私が考えたのは別のことだ。新聞記事中の「意味のよくわからない」という表現は「実に意味明瞭かつ論理的で疑問の余地がない」発言の意味がよくわからないということを本当に主張しており、我々は特にあれこれ吟味しなくてもその主張を了解可能なものと受け止めているのではないか、と思ったのである。「意味明瞭な発言の意味がわからない」というのは矛盾しているではないか、と言われそうだが、先に述べたとおり「意味」には複数の意味がある。「ことばの意味」に話を限定しても、そこにいくつかの相ないし層を見出すことは不可能ではあるまい。
記事中の発言が「意味明瞭かつ論理的」だといえるのは、「文字通りの意味」という意味での「意味」においてである。すなわち、それぞれの語の意味が文法規則によって適正に組み合わされ、発言全体が有意味なものになっているということだ。この意味での「意味のよくわからない」発言とは、たとえば風野氏の挙げている「モケレキマキライナキミマツナキハマイミキラニ」であり、それとはややレベルが違うが「走ったの突然上が机を猫」とか「彼はずっと独身だけど結婚はしているらしい」などという場合(この二つの例は今私が読んでいる本からとった。いずれ感想文を書く予定なので詳細は省略する)である。
他方、「ことばの意味」には別の局面があるように思われる。「君は一体どういう意味でそんなことを言ったのかね?」とか「私の言っていることの意味がわかっていますか?」という場合の「意味」がそれである。要するに話し手(または書き手)の意図のことだ。たとえば――何度も出したことのある例で恐縮だが――蒸し暑く空気の淀んだ部屋の中で、窓際にいる人に向かって「今日は暑いね」と言う場合、その発言は文字通りの意味では気温についての言明に過ぎないが、「窓を開けてほしい」という意味がそのことばに込められているのだと考えることは自然だろう。
ここで、
滅・こぉるさんの読んでいた『方法序説』は新訳でした。これを読んだとき、私は「意味がよくわからない」と感じた。もちろん「文字通りの意味」がわからないわけではない。先日私が読んだデカルトの『方法序説』(谷川多佳子(訳)/岩波文庫)は1997年に初版が出たものだが、岩波文庫でその前にも訳本が出ていたのだろう。だが、それがどうしたというのだろう? 私には蔓葉氏の意図が掴めなかった。
滅・こぉるさんがデカルト『方法序説』を読んでいて、自分もこの間読み終えたばかりなのでちょっと驚く。岩波文庫だとこの間新訳のものが出版されているのです。新訳か旧訳か家に帰って確認するつもり。深い意図はありません。と書かれていて、その続きだったのだ。毎日チェックしているはずなのに、なぜかこのくだりは読み忘れていたせいで意味がよくわからなかったのだ。
今朝「今晩こそは何とか」と書いておきながら「『十八の夏』を読む(2)」を書かずに、あまり多くの読者の興味を惹かなさそうな文章(逆に『十八の夏』の感想文だったなら読者の興味を惹いたのかどうかは何とも言えないが、今書いた文章に比べれば多少はマシだったろう)を書いてしまったことについて少し言い訳をしておく。
以前から私は、「どうにも感想文が書きにくい小説群」というものに悩まされていた。たとえば西尾維新の諸作がそうだ。第一作の『クビキリサイクル』については、ミステリの尺度で強引に押し切ってそれなりに感想文を書いたが、その後の二作(『クビシメロマンチスト』と『クビツリハイスクール』)になってくるとミステリ色が弱まっているせいもあって、そのような観点からの感想文は書きにくい。で、結局逃げてしまった。今朝、見下げた日々の企ての『クビシメ』『クビツリ』評を読んで、かなり悔しい思いをした。私もこんな文章が書きたかった。
西尾維新と光原百合。あまり対比されることがない作家だと思うが、「ミステリとして読む」(前にもちょっと書いたようにこの言い回しには意味のよくわからないところがある)のでは、誉めるにせよ貶すにせよ、どこか大きな穴がぽっかりとあいてしまうように感じられる点が似ている。
たかが読書感想文、評論ではないのだから穴があいていようが的はずれだろうが別に構わないと割り切ってしまえば気が楽なのだが、他人の文章を読んで「悔しい」と思うようではとうてい割り切ることなど不可能だ。そこで、多少は気合いを入れることにして『ささやかな奇跡』について考えてみると、「作者はこの小説で一体何をやりたかったのか?」「この小説にはどのような意味があるのか?」という疑問が浮かんできた。その疑問を軸にして感想文をまとめようとしたのだが、そこでふと自分の疑問についての疑問が生じてきた。すなわち「『作者は何をやりたかったのか?』と問うとき、私は本当に作者がこの小説を執筆したときの意図を解明したいと考えているのか?」「『小説の意味』という場合の『意味』とは『文字通りの意味』ではないはずだが、そうだとすると、私は『意味』ということばを用いて一体何を問うているのか?」という疑問である。
その疑問についてあれこれ考えているうちに思いついたのが、上で挙げた「文脈的意味」(この言い方はどうも不適切な感じがする。「文脈」という言葉は普通の意味で使うためにとっておくほうがいいからだ。だが、たぶん専門的な術語はあるのだろうが私は知らないし、とっさに思いついたのかせこれしかなかった)である。小説を読んで「文脈的意味」を見出し、それをもとにしてその小説の面白さを語れば、単に「面白かった/つまらなかった」と書くよりは読む人を納得させるものになるだろう。「たかが読書感想文」であっても、多くの人に納得してもらえる(そして「私もこんな文章が書きたかった」と言ってもらえる)文章を書くほうがいい。そう思った……のだが、よくよく考えると「文脈的意味」の探求というのは、評論家がすることであって、読書感想文のマクラのために評論を一つ書いてしまうなどといったことは私には到底不可能だ。結局、主観的な印象を中心に適当にそれらしく繕っていくしかない。
そういうわけで、私の考えたことは『十八の夏』の感想文には全く生かせないことが判明した。だが、私はケチなので、これ自体を一つのネタとして発表することにした。それが今日の文章である。
明日は、明日こそは「『十八の夏』を読む(2)」を書こう。そう堅く決心する私であった。この決心が明日まで持続するという保証はないけれど。
最後に政宗九氏の『十八の夏』評にリンク。ぼやぼやしている間に先を越されてしまった。
意外かもしれないが、今回は『十八の夏』(光原百合/双葉社)の感想文第二回である。第一回はこちら。
今日は『ささやかな奇跡』について感想を述べる。この作品は単行本では表題作の次に配置されているが、雑誌で発表されたのは四編のうち最も早い。いわば、「新生・光原百合」の第一作だと言える。
『ささやかな奇跡』以前の光原氏の小説は牧歌的な雰囲気のものが多かった。いや、『時計を忘れて森へ行こう』(東京創元社)を「牧歌的」の一言で片づけてしまうのは多少問題があるかもしれない。だが、その作中で語られるいくつかの悲惨な出来事はどこか現実場慣れしていて、ルネサンス時代の田園劇の一部のような、そんな印象を受けるものだった(などと書いているが、私はルネサンス時代の田園劇など見たことがないので、かなりいい加減な比喩であることを断っておく)。
ところが、『ささやかな奇跡』では一転する。舞台は所帯じみた住宅街、主人公は一人息子を抱えたやもめ男で、物語のはじめに出てくるエピソードが「トイレの芳香剤」なのだから、それまでの光原氏の作品とは大きく異なっている。掲載誌(「小説推理」2000年8月号)を手に取ったとき、私は非常に驚いた。
ところで、私はあまりよい光原読者ではない。作品リストを見ると未読の本のほうが多い。だから、『ささやかな奇跡』をもって「新生・光原百合」第一作だとみなすのは単に私がそれ以前の同種の作品を知らないからかもしれない。だが、読んでいない本のことをあれこれ想像しても仕方がないので、とりあえず先に進もう。
さて、それまでに読んだ光原氏の小説とは大いに趣の異なる『ささやかな奇跡』を初めて読んだときの私の読後感を一言で述べると「意味がよくわからない」だった。もう2年も前のことなので、詳しいことは覚えていないのだが、この小説の狙いというか"ミソ"が全くわからなかったのだ。
しばらく経って知人と話をしていて、私がおそらく作者が想定していたはずの読みから逸脱していたことがわかった。それとともに、この小説の「意味」がある程度わかった。それでもまだ釈然としないものが残ったのだが……。こう書くと何のことかわからないだろうと思うので、以下ネタをばらして説明する。
『ささやかな奇跡』の"ミソ"(と断定するにはややためらいがあるのだが、あえて言い切ってしまう)は126ページ5行目の太郎の台詞の意外な「意味」にある。「便所みたいなにおいがしとった」ということばの意味(「話し手の意図」と置き換えてもいいだろう)がよくわからないため主人公は悩み、邪推するが、実は文字通りの意味で言っていたに過ぎなかった(この説明がよくわからない人は、ちょっとしんどいかもしれないが「意味がわからない」ということについてを参照されたい。ますます訳が分からなくかもしれないが、そこはあなた自身の言語的センスで乗り切っていただきたい)、というのが"ミソ"である。主人公に感情移入しながらこの小説を読む人は、このことばの「意味」が明らかとなったとき、知的カタルシスと心理的カタルシス(「カタルシス」はもともとは別の意味なのだが、ここでは「緊張状態から解放される快感」という程度の意味だと思ってほしい)を同時に味わうことになる。
ところが、残念ながら私はこの二重のカタルシスを味わうことができなかった。なぜなら、「便所みたいなにおいがしとった」という台詞を読んだ瞬間に、私は私を驚かせた冒頭のエピソードを思い出し、特にこの台詞を解釈しようとか推理してみようとか思うことなしに、これが文字通りの意味であることに気づいたのである。
いや、違う。私は「気づいた」のではなく、「そのまま受け入れた」のだ。この違いは大きい。しつこいようだが、ことばを変えて繰り返す。私は作者の仕掛けを見破ったのではなく、それが仕掛けであるということすら気づかないまま素通りしてしまったのである。当然、主人公との一体感はなくなり、真相が明かされても知的カタルシスはもとより心理的カタルシスさえも得ることができなかった。この点については、私の読者としての技量の乏しさを反省しなければならない。というのは、主人公がこの台詞を誤解していることは明らかであるのだから、その心理をちゃんと追跡すれば、彼が自分の勘違いに気づいたときの緊張緩和をある程度追体験できたはずだからである。だが、私は迂闊にも主人公が誤解しているということに気づかず、「便所みたいなにおいがしとった」という台詞の「文字通りの意味」を把握したうえで、そのことばを発する意図がわからずにあれこれ気を回しているものだと思った。もちろん、それは全くの誤読である。
このたび単行本に収録されたのを機会に改めて読み直すと、自分がいかに粗雑な読者であったのかがよくわかる。読んでいる最中はともかく、最後まで読めば、「意味がよくわからない」とまでは思わなかったはずなのだが。知人に指摘されるまで気がつかなかったとは、どうかしている。
さて――この辺りから話がややこしくなってきて、自分でもうまく説明できる自信がないのだが――ある意味では今でも私はこの小説の「意味」があまりよくわかっていない。すぐ上で書いたのは、そこでばらしたネタがこの小説の"ミソ"であるという前提に立った場合のことだが、その少し前で言ったように、それを"ミソ"だと断定してしまうのにはためらいがあるのだ。もし、そのような読み方を徹底させると、"ミソ"が出てくるのがまりにも遅すぎ、また、あまりにも小ネタ過ぎる、と言わなければならないだろう。だが、そのような批判は果たして『ささやかな奇跡』に対して的を射たものであるのか? ミステリではないものを勝手にミステリ寄りの読み方をしておいて、「ミステリとしては構成に難があり、また、仕掛けが貧弱だ」などと言うのは、相当トンチキな言いぐさではないか?
私は『十八の夏』収録作はミステリではない(ただし『イノセント・デイズ』だけは判断を保留したい)と考えている。それなのに、どうしても「ミステリとして読む」(何度も書くが、この表現の「意味」については今は深く追究しない)傾向がある。『ささやかな奇跡』では、上で挙げた"ミソ"のほかに、「日常の謎」派ならそれだけで短編一つ書いてしまいそうな「書店員が別の書店で定価で買った雑誌を自分の店で売る」というエピソードや、71ページ10行目の記述と86ページ14行目の記述、そして111ページ17〜18行目の記述の3つを結び合わせれば、ある「隠された事実」が見えてくるという趣向などがあるので、「ミステリとして読む」という態度は必ずしも的はずれではないのかもしれない。だが、的を射ているわけでもない。じゃあ、いったいどうなんだ? どうにも感想が書きにくい。
(なお、誤解を避けるために書いておくが、私は『十八の夏』の諸作がミステリというジャンルに含まれるかどうか、という問題に悩んでいるのではない。ジャンル論は不毛だとは思わないが、私の当座の関心事ではない。ここで問題にしているのは、あくまでも小説を読む私自身が用いるべき枠組みの話であり、ジャンルの話ではない。素朴な発想でいえば、文芸上のジャンルとは個々の読者が当該小説から受ける印象から独立なものである。この主張には異論もあるだろうし、説得力のある論証をしてもらえれば反論を受け入れても構わないのだが、今はとりあえず「素朴な発想」レベルの話にとどめておく。)
訳の分からない話になってきた。このままうじうじと考えても結論が出そうにないので、ちょっと気分をかえて、『ささやかな奇跡』を読んで感じたことを列挙しておく。
余談。
『ささやかな奇跡』を読んで、私は遠藤淑子のマンガを連想した。具体的にいえば、『ハネムーンは西海岸へ』(白泉社 花とゆめコミックス)に収録された『パラダイス』という短編で、たぶん偶然だろうとは思うが、上述の"ミソ"に似たエピソードがある。残念ながら『ハネムーンは西海岸へ』は現在入手が困難だが、最近のマンガなら新刊書店で買えるはずだ(著作リストはこちら)。「血の繋がりのない家族」を扱った作品がいくつもあり、『ささやかな奇跡』を読んで感銘を受けた人にお薦めしたい。
一昨日の文章を書くのに、馬鹿げたことだが四時間もかかった。これは帰宅してから寝るまでの間の自由時間のほぼすべてだ。昨日の文章は、前日にある程度考えをまとめてあったおかげで三時間でかけた。そして私は残る一時間を読書にあてた。
今日はまだ「『十八の夏』を読む(3)」を書けるほどテンションが高まっていないので、昨日の一時間と今日の通勤途中に読んだ本の感想を軽く書いておくことにしようと思う。
しばしばタイトルが変わるのでリンクをはるときに紹介に困るのだが、とりあえず今のタイトルは「印西牧の原行きの急行 俺はいつでも趣味で乗っている日記」となっているページで『愚者のエンドロール』(米澤穂信/角川スニーカー文庫)の感想(8/26付)を読んで、何となく気になった。いや、それ以前から書店でカバー絵を見て気にはなっていたのだが、それだけで本を買おうとまでは思ってはいなかった。もし、「印西牧の原行きの急行 俺はいつでも趣味で乗っている日記」の当該文章を読まなかったら、ずっと「ちょっと気になるけれど手を出すまでには至らない本」のままだったかもしれない。危ないところだった。
『読入りチョコレート事件』云々というのは作者があとがきで勝手に言っていることだから話半分に受け止めるとして、
いやあ、読んだ後クスリ飲まずにはいられなくなるぐらい落ちつかなくなった小説なんて滝本竜彦さんの2作とコレぐらいですよ…。と書かれてしまっては、もう読むしかないではないか。早速、昨日の帰りに行きつけの書店で入手した。
ここ数日放ったらかしにしていた「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、着実に消化が進み、今日からバッハ・エディション VOL.21 教会カンタータ集 Vol.12に入った。膨大なバッハの教会カンタータもこの巻でおしまい。バッハ・エディション全体でも後10数枚を残すだけとなった。
今日聴いたのはカンタータ第147,181,66番の三曲。カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」は二部構成になっており、各部とも「主よ、人の望みの喜びよ」というタイトルで知られるコラールで締めくくられる。他の二曲は特に有名な曲ではない。
今日は『兄貴の純情』の感想。あまり長く書くと焦点がぼやけるので、さくっと短くまとめる。なお、第一回はこちらで、第二回はこちらだ。
『兄貴の純情』は初読時にはあまり面白いとは思わなかった。美枝子が典介の後妻であるという事実を読者の目から隠すことに全力を使っているようだが最初の数ページでバレバレだろう、と思ったからだ。それでも何かもう一ひねりあるのかもしれないと多少は期待して読んだが、最後まで読んでも特に何も驚きはなかった。
もっとも、私は論理的に考えてこの小説のネタを見破ったというわけではない。144ページで金木犀に言及しているのを読んで『ささやかな奇跡』を連想し、一瞬その続編かと思ったのだ。人物の名前が違っているので、すぐにその考えを否定したが、それでも『ささやかな奇跡』で何度も出てきた「血の繋がりのない家族」というモティーフは頭の片隅に残ったままだった。それで147ページ6行目まで読んだところで、この小説の基本構造がすっかりわかってしまったのである。その後はほとんど"答え合わせ"に終始してしまった。
今回、『兄貴の純情』を読み返してみると、シチュエーションコメディとしてなかなか楽しめた。兄は勘違いをしていて、弟は兄の勘違いに気づいていない。そんな二人がとんちんかんな会話を交わしているが、表面上は話が繋がっているという面白さがある。作者の狙いはその会話の妙にあるのであって、実は読者の目から真相を隠そうなどとは意図していなかったのではないか、とも考えた。だが、最後の最後まで明示的な記述を避けているのだから、作者は読者を驚かそうとしていると考えるほうがやはり自然だろう。そして、私が残念に思うのは、その中途半端なミステリ的趣向なのである。最初から読者にはすべてを開示して、ボケ続ける兄弟のやりとりを見せたほうがよかったのではないかと思うのだ。
今日は短くまとめることにしたので、前回予告した「キンモクセイ」の話は省略する。その代わり、というわけではないが、ちょっと気にかかった点を例によっていくつか箇条書きしておく。
「青春18きっぷ」一回分を使って日帰り旅行に出ることにした。中京方面に行くことにして、名古屋在住の友人に連絡をとったところ、「名鉄の芋虫に乗ろう」と言われた。明日はその「芋虫」の営業運転最終日だという。「芋虫」というのは初耳だが、たぶんそういう愛称の車輌があるのだろう。「陰獣」とか「鏡地獄」というのだったら嫌だが、「芋虫」ならまあいいか、とも思う。
時刻表を繰ってみると、東海道本線から高山本線、そして太多線へとうまく乗り継ぎをしようと思うと、家を5時前に出て始発電車に乗らないといけないことが判明した。いつもより2時間以上早い。寝坊してはいけないので、今日はもう早めに寝ることにする。
そういうわけで、「『十八の夏』を読む(4)」を書いている余裕がない。また、明日は帰りが遅くなるので、更新を休むかもしれないし、何とか更新できたとしても、本の感想文など書いている余裕はないと思う。
(追記)
この文章を書いたあと体調が悪くなってきたので、大事をとって予定を取り消した。体調が回復すれば、明日には「『十八の夏』を読む(4)」を書くことができると思う。
今日の出勤時に鞄の中に入っていた本。
いよいよ最終回である。今回は『イノセント・デイズ』を取り上げる。
なお、第一回はこちらで、第二回はこちら、そして第三回はこちらである。
『イノセント・デイズ』は「嫌な話」である。どれくらい「嫌な話」かといえば、『レディに捧げる殺人物語』(フランシス・アイルズ)や『善人たちの夜』(天藤真)に迫るほどだ。だが、もし「それほど『嫌な話』じゃないぞ」という反論する人がいたら、私は逆らわないことにしよう。なぜなら、両作とも十年以上前に一度読んだきりで、「嫌な話」だった、という印象ばかりが強く、内容はほとんど覚えていないからだ。再反論のためこの二作をもう一度読み返そうという気にはならない。
本当は『イノセント・デイズ』もあまり読み返したくはなかった。だが、これを初めて読んだのは先月(『イノセント・デイズ』の初出は「小説推理」8月号)だったので、そろそろ記憶があやふやになっている。うろ覚えのままで感想文を書くのは失礼だろう。そこで、やむを得ず再読した。
ページを繰るたびに、記憶の底に沈んでいた「嫌な感じ」が続々と蘇ってきた。これでもかこれでもか、とばかりに読者にダメージを与える「嫌なエピソード」の数々。いつもの諧謔まじりの独特の文体は抑え気味で、淡々と「嫌なエピソード」を綴っていく筆致。そして、「嫌なラストシーン」へと至る。
「嫌なラストシーン」という表現に首を傾げる人もいるかもしれない。あれは、ハッピーエンドとは言わないまでも未来に希望を残すような締めくくりなのではないか? 確かにそうだ。だが、「嫌なエピソード」をさんざん積み重ねてきた後だと、未来への希望さえもが忌まわしいものに思われるのだ。これが、たとえば史香に誘惑された浩介が関係をもってしまい、それが志穂に知られて家庭内不和に陥り、さらに史香に引っかき回されて、半狂乱になった志穂が包丁を振り回し、もみ合いになったはずみで包丁が息子の顔に刺さって失明し、志穂は衝動的に自殺し、史香はさっさと逃げてしまい、浩介はひとり途方に暮れるというような終わり方だったら「あはは」と笑って読んで本を閉じれば済むのだが、もちろん『イノセント・デイズ』はそのような安直な「嫌な話」ではなく、怠惰な読者を許してはくれない。
光原百合は「嫌な話」が書けない作家だ。多くの人はこれまでそう思ってきたことだろう。私もそうだった。だが、『イノセンス・デイズ』を読んだ後ではもはやそのように考えることはできない。光原百合は「とことん嫌な小説」を書く作家である。「愛」とか「心のふれあい」といった一見するとあたたかく好ましいものだと思われることばの背後にはどろどろとした情念が渦巻いている。そのことを、ややもすれば忘れてしまい安穏とした生活をしている我々に、「ふふふ、何か忘れてしませんかね」とほくそ笑みながら「嫌な話」を差し出す。それが光原百合という作家の本性なのである。
『十八の夏』のオビには「本年度最高の感動を呼ぶ癒しの物語」という惹句が書かれている。だが、騙されてはいけない。「感動」や「癒し」を求めてこの本を読む人は(前三編ではもしかしたら「癒された」と感じるかもしれないが)『イノセント・デイズ』では後悔以上の"何か"を感じることになるだろう。「あんた、しっかり肚をくくらなあかんで」と忠告しておく。
最後に、収録作を私の好みで順位づけしておこう。数ヶ月おきにとびとびに読んだときと今回まとめて読んだのとでは読後感はかなり違っているのだが、不思議と順位だけは同じだ。『ささやかな奇跡』<『兄貴の純情』<『十八の夏』<『イノセント・デイズ』の順である。
不遜な物言いだが、光原氏は現在成長中の作家なのだと思う。『時計を忘れて森へ行こう』(東京創元社)や『遠い約束』(創元推理文庫)が悪いわけではないが、『十八の夏』(本全体ではなく、表題作のこと)や『イノセント・デイズ』、そして今「ジャーロ」で連載中の連作(シリーズ名は忘れてしまった)のほうが、ずっとよく書けている。この調子でどこまで成長するのか、楽しみな作家である。