1.0204〜1.0212 日々の憂鬱〜2002年4月第2週〜


1.10204(2002/04/08) えっと、いくらスタージョンでも「99%はクズ」とまでは言わないのではないか、と……

 今日はネタがないので、いきなり「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」から。
 今聴いているのは、「バッハ・エディション」第1巻CD6である。チェンバロ協奏曲が4曲、第1〜4番が入っている。第1番二短調(BWV1052)は特に好きな曲だ。おしまい。
 と、ここで終わってしまってはいけない。もう少し続ける。
 バッハの現存するチェンバロ協奏曲は全部で13曲ある。BWV1052〜1058の7曲が1台のチェンバロを独奏楽器とするもの、BWV1060〜1062の3曲が2台用、BWV1063,1064が3台用、そしてBWV1065が4台のチェンバロのための協奏曲である。では、BWV1059は何なのか、という疑問が起こってくるわけだが(別にそのような疑問を抱かないかもしれないが、それだと話にならないので、無理矢理にでも疑問を抱いてもらうことにする)、この曲は最初の数楽章だけが残っているチェンバロ協奏曲の断片である。ほかに「協奏曲」というタイトルのついたチェンバロ独奏曲がたくさんある(いちだん有名なものはバッハのオリジナル曲である『イタリア協奏曲』BWV971)が、とりあえず除外して考える。
 これら13曲のチェンバロ協奏曲はすべて別の協奏曲からの編曲だろうと言われている。『4台のチェンバロのための協奏曲イ短調』はヴィヴァルディの『調和の霊感』に収録されている『4つのヴァイオリンのための協奏曲ロ短調』からの編曲であるが、残りはすべてバッハ自身の協奏曲からの編曲らしい。「だろう」とか「らしい」という曖昧な言い方をしているのは、すべての曲の原曲が現存するわけではないからだ。とりあえず現存するヴァイオリン協奏曲3曲(2つのヴァイオリンのためのものを含む)と『ブランデンブルク協奏曲』第4番がチェンバロ協奏曲に編曲されているのは確かだが、残りはいわゆる「失われた協奏曲」からの編曲だと考えられている。バッハの楽譜は彼の死後かなり不運な目にあっていて、記録には残っているが現存しない曲が多い。残念なことだ。
 ところが、「失われた協奏曲」のほとんどは現在「復元」されている。この「復元」というのが曲者で、一つのチェンバロ協奏曲がヴァイオリン協奏曲に「復元」されたりヴィオラ協奏曲に復元されたりすることがある。もっともうまく「復元」された例が『ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ニ短調(ハ短調のヴァージョンもあるらしい)』で、現存する『2台のチェンバロのための協奏曲ハ短調』(BWV1060)自体よりもよく聴かれるくらいだが、この曲ですら2つのヴァイオリンのための別「復元」ヴァージョンがある(ただしこちらは全然有名ではなく、私は聴いたことがない)のだから、話がややこしい。さらに、現存しないチェンバロ協奏曲からの「復元」という試みもある。そんなことがどうして可能なのか、という説明は面倒なので省略するが、いかがわしさが漂う話ではある。
 「復元」という言葉を使うとなんとなく権威がありそうだが、実際にやっている作業は、チェンバロ協奏曲から他の独奏楽器のための協奏曲への編曲(ただし『2台のチェンバロのための協奏曲ハ長調』BWV1061は別。この曲はもともと2台のチェンバロのみのための協奏曲だったと考えられているため、「復元」も伴奏パートを削除してチェンバロパートだけ残すという方法で行っているらしい。「復元」ヴァージョンを聴いたことがないので、よくは知らないが)と変わりはない。だったら「3本のリコーダーのための協奏曲」とか「リュートとチェロのための協奏曲」というのもあってもいいのではないか……などと言うと真面目なバッハファンに怒られるかもしれない。
 ところでバッハに関する「復元」は彼の音楽だけではなく、彼の顔面にまで及んでいる。彼の頭蓋骨は近代復顔術(復顔法)の発展に一役買っているらしい。手元に資料がないのでこれ以上詳しい話はできないが、興味のある人は専門書を繙いてもらいたい。手軽に入手できる復顔術の本があるのかどうか、私は知らないけれど。

 どうでもいい話。「聴破」で検索したら58件もヒットした。辞書には載っていなくても、字面を見ただけで意味が理解できるというのは漢字の利点だと感じた。

1.10205(2002/04/09) 総括

 その昔、「総括」という言葉が仲間内でのリンチを意味した時期があったらしい。その頃私は子供だっのであまりよく知らないのだが。
 そんな事とは全然関係なく、今日は一週間続けてきたアクセス数減少キャンペーンの総括を行う。
 私が「アクセス数減少キャンペーン」を実行したこの一週間で、アクセス数はどのように推移したのか。本当は表かグラフを掲載すればいいのだが、今日は疲れていて面倒な作業をする気にならない(全部手作業なので、テーブルを組むだけでもかなり大変なのだ)ので省略して、概略だけ言うと……よくわからなかった。
 理由は二つある。一つは、土曜日にアクセスカウンターが不調で、10ヒットしか記録されなかったこと。もう一つは日曜日にふだんとは全く別の層の人々がアクセスしたために、これまでの「常連さん」の動向が掴めなかったこと。この日、「たそがれSpringPoint」は過去最高の140ヒットを記録した。大した数字ではないと思う人も多いだろうが、これまでの平均アクセス数が32ヒット/日、最近でも多くて70ヒット程度のサイトだけに、ふだんの倍以上のアクセスはちょっとした驚異であり、脅威でもあり、もしかしたら胸囲かもしれず、ひょっとすると教委であったかもしれない。変な文章になってしまったが、それはともかく、「大手には下手にちょっかいを出してはいけない」というのが今回の教訓だった。
 教訓が得られたのはいいことだが、肝心の「一週間ミステリの話題を全く出さず、本について語ることもなるべく避けて、それでアクセス数がどうなっちゃうんだろうということを確かめてみるテスト」は完全に破綻した。先週の火曜〜金曜までのアクセス数をみると、ややふだんより少なめのような気もするが、誤差の範囲のようにも思える。さらにテストを続ければそのうちにはっきりとした結果が得られるのだろうが、はっきり言ってこれ以上本の話題なしで毎日更新を続けるのはしんどい。実際、この一週間だけでも相当苦し紛れの事を書いている。注意深い人なら私の文章の書き方が違っている事に気づいていることだろう。自分のスタイルに反する文章を書くことは、勉強にはなるが、あまり続けたくはない。よって、「アクセス数減少キャンペーン」は今日で終了し、明日からはこれまでの「たそがれSpringPoint」に戻る。
 明日は『悪魔のミカタ(2) ―インヴィジブルエア―』(うえお久光/電撃文庫)と『四月は霧の00密室 ―私立霧舎学園ミステリ白書―』(霧舎巧/講談社ノベルス)の感想文を一挙公開!
 ……といきたいところだが、明日は会社の歓送迎会のため帰宅が遅れるので時間がない。また、大幅に気力と体力が削がれている公算が大きいので、アリバイ的に「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」の更新だけすることになるかもしれない。

 で、今日は『チェンバロ協奏曲集』2枚目(CD7)。えらく鈍重な演奏だ、という程度の感想しかない。おしまい。

1.10206(2002/04/10) 宴会から帰って

 今日はもう何も書く気力がない。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」も一回休みにする。昨日、先週の文章を整理して別ファイルにしたので、今日はその分をアップしてさっさと寝ることにする。
 明日こそ、『悪魔のミカタ(2) ―インヴィジブルエア―』と『四月は霧の00密室 ―私立霧舎学園ミステリ白書―』の感想文を書くつもりだ。

1.10207(2002/04/11) 全く屈折しない人にはものが見えない、という話

 "The Invisible Man"というタイトルの有名な小説が二つある。一つは19世紀の小説で、科学の力でinvisibleになった人間を描いている。もう一つは20世紀の小説で、社会の構造のせいでinvisibleである男の話だ。どちらも邦訳があり簡単に入手可能だが、興味深いことに訳題が違っている。前者は『透明人間』、後者は『見えない男』という訳題で知られている。
 さて、今日は予告通り『悪魔のミカタ(2) ―インヴィジブルエア―』(うえお久光/電撃文庫)の感想文を書く。前作『悪魔のミカタ ―魔法カメラ―』の感想は以前書いたとおりだが、その終わりのほうで「続編が出たら――実を言えば、読みたくもあり読みたくもなし、という心境だ」と書いておいた。またそのしばらく後で私の後輩のコメント(このコメントには私も同感である)を紹介しておいた。
 そういうわけで、今回は期待半分、怖いものみたさ半分で読んだ。で、読後感を一言で述べると――ぬるい。前作の登場人物に加えて新キャラが何人も登場して(そのうちの数人はたぶんシリーズキャラクターの仲間入りをするのだろう)賑やかにはなっているが、その分ひとりひとりの存在感が薄れてしまった感がある。また、ストーリー面でも、前作のように途中で大きな転回があるわけでもなく、謎の提示→捜査→犯人との対決→決着という展開になっていて、やや物足りない。いや、今のライトノベル界のミステリ(今回は作者自身があとがきで「この物語はミステリーです」と明言している)の水準からすれば悪くはないのだろう(と、さも事情をよく知っているかのように書いているが、これは後輩からの受け売り)。ただ、どうしても前作と比べてしまうのだ。
 前作では《ピンホールショット》という魔法のカメラ(このカメラで撮影した写真を傷つけると被写体を殺すことができるというカメラ)が小道具として使われたが、今回の魔法のアイテムは《インヴィジブルエア》である。これはスプレー缶になっていて、消したい物を念じながらガスを噴霧すると透明にすることができるという特性を持っている。これを使った事件が発生し、主人公とその仲間たちが犯人と対決する、という話になっている。全然説明になっていないが、私は粗筋を説明するのが苦手なので、この程度で勘弁していただきたい。
 さて、この《インヴィジブルエア》の効能について二つほど疑義を提示しておく。一つは、透明化する対象の指定方法に関する事柄で、もう一つは対象を透明にする原理に関する事柄である。
 まず前者から。《インヴィジブルエア》から噴出されたガスが触れた物はなんでも透明になるわけではなくて、使用者が念じることで透明化する物としない物を区別することができるというルールになっている。たとえば服を着た人間にガスを吹きかけて服だけ消すことが可能である。
 消す物体は意思の定義で決まる。例えば服を消す場合、いちいちシャツ、パンツ、靴下、下着と指定しなくても、『着ている物』と念じれば一括で消せる。また、『右腕』と決定すれば服、肉体の区別無く右腕全体を消せる。
というふうに明確に述べている(59ページ)。つまり、透明化すべき対象は言語的イメージ(この用語は作中に出てくるわけではない。便宜上、私が勝手に使っているだけである)によって指定される。服を消したいときに、服が消えて裸になった視覚的イメージを具体的に思い浮かべる必要がないので楽だが、言語化できない微妙な消し方は出来ないという欠点をもつ。私はそういうふうに《インヴィジブルエア》の利点と限界を解釈した。ところが、謎解き部分で視覚的イメージに基づいて物体を透明化したという説明が行われる場面があって、ちょっと首を傾げた。そのような消し方が不可能だと考えたのは私の勝手読みだから仕方がないともいえるが、SFミステリ(「SFミステリ」の用語法については前作の感想文を参照のこと)では通常のミステリ以上に、何が可能で何が不可能かというルールを予め明示的に提示しておかないとアンフェア感が強くなるのも事実だ。「フェア/アンフェア」という視点を持ち出すと抵抗がある人もいるだろうから、単に「伏線の張り方が甘い」と言ってもよい。あまり露骨に書いてしまうと解決がバレバレになってしまう恐れはあるが、そこをうまく工夫するのがミステリ作家の腕の見せ所(の少なくとも一つ)である。
 もう一つの疑義は、今日の文章のマクラで触れたウェルズの『透明人間』とも関係している。『透明人間』では、人体が光を全く吸収・反射・屈折しないようにする薬品により透明人間になるという話だったが、もしそのような事が可能だとすると、透明人間は全く目が見えないことになってしまうという指摘がある。なぜなら、人間の眼球がレンズとしての機能を失ってしまうからである。この問題は光学的原理によって人体を透明化する場合には避けて通れない問題である。ちょうど時間旅行テーマを扱う場合にタイムパラドックスを全く無視するわけにはいかないのと同様に。
 もちろん、透明人間テーマの小説は常に「盲目の透明人間」という壁に当たるというわけではない。「《インヴィジブルエア》は人智を超えた魔法の力で物体を透明化するのであり、人間の視力に関する光学的な原理とは全く無関係である。よって、人体を《インヴィジブルエア》で透明化しても、目が見えなくなることはない」と申し開きすることは十分に可能である――最初のルールだけで完結してるならば。
 ところが、《インヴィジブルエア》は魔法の力で端的に物体を透明化するのではなく、光の屈折や反射の仕方を変化させることによって物体を透明化する。その事が説明されるのは252ページなので、この点でもルールの後出しが気になるが、それはさておき「盲目の透明人間」に真正面からぶつかってしまっているほうが問題が大きい。
 と、ここまで書いて、反論の余地があることに気づいた。ネタに触れるので文字色を背景と同化させておく。《インヴィジブルエア》の効力が使用者によって異なるかもしれないということは既に96ページで示唆されている。「《知恵の実》は進化する」と。よって、(ルールが変化することでミステリとして弱くなるという点を別にすれば)一方で「盲目ではない透明人間」がいて、もう一方で《インヴィジブルエア》を用いて光を自由に操る人間がいることに問題はない。このように反論し、作者を擁護することは可能だろう。さらに再反論としては……いや、あまり一人で突っ走っても仕方がないのでやめておこう。ちょっと長くなりすぎた。
 今日はもう一冊『四月は霧の00密室 ―私立霧舎学園ミステリ白書―』(霧舎巧/講談社ノベルス)の感想文も書いておく。疲れたのでこちらは箇条書き。
 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は、昨日一回休んだので今日は2枚聴くことにした。2台と3台のチェンバロのための協奏曲を収録したCD8とさまざまな楽器のための(主として「復元」された)協奏曲を収録したCD9である。これで「バッハ・エディション VOL.1 管弦楽曲&協奏曲集」は終了。
 「バッハ・エディション」のこの巻は演奏団体も指揮者もばらばらで、寄せ集めの印象が強い。古楽器を用いた演奏に比べると全体的にテンポが遅く、独奏楽器の即興的な装飾音も控えめでおとなしい演奏が多く、これといって特徴があるわけではない。こうやってまとまって収録されていると「ええとBWV1055ってどんな曲だったっけ?」と知りたくなったときに便利という程度だ。
 次の「VOL.2 声楽曲集 Vol.1」では、ハリー・クリストファーズ指揮シックスティーンcho.&o.とか、マルティン・フレーミヒ指揮ドレスデン十字架cho.とかミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽アンサンブルとか、それなりに有名な指揮者や演奏団体が多いので、ちょっとは期待できそうだ。が、演奏年代が古いな。一覧表を見るとコルボのCD(CD7)の録音データが抜けているが、やはり1970年代か?

1.10208(2002/04/12) 当方、お茶とたこ焼きと鼠園の国在住

 そんわけないやん。

 さて、今日は(「今日も」というべきか)特にたいした話題はない。昨日読書感想文を二冊分書いてしまったので、そっち方面のネタが切れてしまった。今読んでいる本はミステリではなく、小説ですらないので読み終えても感想文を書くかどうかわからないし、そもそもいつになったら読み終わるのかも定かではない。
 ところで、読書感想文と書評はいったいどこが違うのだろうか? 私は自分が本に関して書いている文章は感想文だと考えているのだが、案外これは書評ではないかという気もしてきた。というのは、「白黒学派」の
書評とは論理的に分析された思考過程の表明だと考えています。
という一文(追憶遡行 4/10付)を読んだからである。書評や文芸評論(両者の区別がどこにあるかということも一つの問題ではあるのだが、今は取り上げない)の分析対象は本とか小説とかテキスト(この文脈では"text"は「テクスト」と表記するほうが一般的だと思うが、私はどうも「テクスト」という表記を用いることに気恥ずかしさを感じるので「テキスト」と書くことにする)だという思い込みが私にはあって、自分の書く文章はあまり対象作品の分析になっていないので「書評」という言葉を避けているのだけれど、私自身の思考過程の分析を表明すれば「書評」の名に値する(もちろん、本に関する思考でなければならないのだが)のだとすれば、私の文章も書評と呼んでいいのではないかと思うようになってきたわけだ。なんかもの凄い悪文だな、これ。
 ところで、「本に関する思考過程の分析」というものが成立するためには、本が現に存在する必要があるのかどうか、という問題をふと思いついた。これは、ボルヘスやレムがやっているような「架空の本についての書評」は、「特殊な書評」であるのか、それとも「見かけ上の書評」または「書評のスタイルで書かれた(書評ではない別の種類の)文章」に過ぎないのか、という問いとも関係している。どちらにしても関心のない人にとってはどうでもいいことだけど。

 書評がらみでもう一つ。数日前から「UNDERGROUND」で連載している「精読・笠井潔『探偵小説論序説』」が興味深い。私はまだ『探偵小説論序説』の実物を見たことがないので、内容についての批判や意見は全くないが、このように評論本を一章ずつ丁寧に読んでいく試みはミステリ系では珍しいので注目している。これをきっかけにミステリ系サイトでミステリ評論に対する意識が高まり、活発に議論が展開されるようになる……ということはないだろうな。

 2つのミステリ系サイトに言及したついでに、もうひとつ。「政宗九の視点」と「若おやじの殿堂」の今日の日記をつき合わせてみると……。いや、別に「政宗九の視点」でなくてもいいのだけれど、「ミステリ系更新されてますリンク」のリンク先をDonut Pでがしがしと開いていくと、たまたま隣どうしになった(タブブラウザを使っていない人には説明が難しいが、同時に複数の窓を開いて窓どうしが隣り合っている状態に似たようなものと思っていただきたい。私の貧弱なネット環境では接続しっぱなしだと電話代がもったいないので、一気に多くのページを開いておいて接続を切断してからじっくり読むことにしている)ので並べてみた。当人がぼかして書いていることだし、私の想像が間違っているといけないので、あえて意味のわかりづらい書き方になってしまったが、察していただきたい。って、予備知識がないと無理か。

 たいした話題がないわりには、それなりの長さになった。最後に日課の「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」について。今日から声楽曲を聴き始めることにした。今日は『ミサ ロ短調』(BWV232)の第一部「キリエとグローリア」である。演奏はハリー・クリストファーズ指揮シックスティーンcho.&o.(cho.は合唱団、o.はオーケストラ)で、1994年の録音である。元盤が出たときレコード店で手にとった記憶があるが、その頃私はまだ子供だったのであまり気軽にCDが買える身ではなかった。また、どうしてもルネサンス音楽専門の団体(合唱団のほう。「シックスティーン・オーケストラ」の素性は知らない)というイメージがあって、さらに「絶叫唱法」(なんでもクリストファーズのポリシーで、楽譜に書いてある音程より何度か上げて歌わせるので、ソプラノが絶叫することになるということらしい)の悪評を知っていたので買わなかったのだが、今回聴いてみると案外自然体の演奏で悪くはない。このまま続けて第二部から第四部まで聴きたいところだが、一日に一枚のペースを保ちたいのでやめておく。

1.10209(2002/04/13) 『地獄甲子園』映画化で無党派層取り込みを ――衆院立候補予定者が公開討論会で公約――

 ふだんあまり言及しないのだが、私はわりとまめにニュース系サイトをチェックしている。といっても新聞社とか通信社のウェブサイトではなくて、それらの記事にリンクをはって一行コメントをつけたりしている個人サイトのほうだ。直接新聞社系ニュースサイトを見たほうが早く、幅広い情報が入手できるのだが、膨大な数のニュースをいちいち自分でチェックするのは大変だし、ちょっとしたツッコミが入っているほうが楽しいので個人系ニュースサイトに頼ってしまうわけである。
 で、今日「sawadaspecial.com」と「カトゆー家断絶」を見ていると、「『地獄甲子園』映画化」というニュースがあって、ちょっと興味を惹かれたのでリンク先(読売新聞和歌山版のページだった)にアクセスしてみたら、「3氏、自らの考え力説 立候補予定者が公開討論会」という見出しで、まあ普通ならこの辺りで記事が差しか和っていることに気づくのだが、「へぇ、選挙がらみで『地獄甲子園』を映画化するのか〜」などとのんきに考えていて
 十六日に告示される衆院和歌山二区補選の立候補予定者による公開討論会が十二日、橋本市東家の市民会館で行われた。出馬を表明している、いずれも新人の石田真敏(50)(自民)、奥村規子(50)(共産)、岸本健(31)(無所属)の三氏が自らの考え方を述べた。
というところまで読んでも、まだ気づかずに「共産党候補が『地獄甲子園』に関心を向けるとは思えないから、あとの二人のうちどちらかが言い出したんだろうな。さて、どんな討論だったのだろう?」とバカなことを考えた。もちろん、記事を最後まで読んでも『地獄甲子園』を匂わすような記述は一切なく、ようやく勘違いに気づいた。
 その後、「最後通牒・半分版」を見ると、ミラーへリンクしていたので、ようやく記事を読むことができたが、要するに地方自治体のフィルムコミッション事業に乗って低予算映画を作るというだけの話で、お役所と漫☆画太郎の取り合わせは面白いといえば面白いが、今日の見出しのような展開を期待していた私にとっては、ちょっと拍子抜け。

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日は昨日に続いて『ミサ ロ短調』。ミサ通常文は「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」の5章からなるが、『ミサ ロ短調』では「キリエ」と「グローリア」を合わせて第一部、「クレド」が第二部、「サンクトゥス」の途中までで第三部、「サンクトゥス」の残りと「アニュス・デイ」を合わせて第四部という変則的な構成になっている。また第一部だけで全曲の約半分の演奏時間(全部でだいたい2時間くらい)になるため、CDでは第一部と第二〜四部というふうにわけて収録されることが多く、私が聴いている盤でもそうなっている。
 と、こんな話をしてもあまり面白くないし、読んでいるほうも退屈だろう。毎日更新のネタになるかと思って始めた「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、息切れしてきた。
 無理矢理話題を探す。
 この「ブリリアント版バッハ・エディション」を買ったのは、ワルツ堂堂島店だったのだが、そのワルツ堂が上でちょっと触れた「カトゆー家断絶」で 言及されていて、リンク先のげっちゅ屋なんば店レポートを読んでみた。店の狭さのたとえにワルツ堂を持ち出しているくらいだからワルツ堂日本橋第2店のことだと思うが、もしかしてワルツ堂なんば店のほうなのか、などとどうでもいいことを考えてみたりみなかったり……。ちなみに私がよく行く店は日本橋第1店である、というのはさらにどうでもいい話。

1.10210(2002/04/14) 深夜の更新

 たった今『私たちはなぜ狂わずにいるのか』(春日武彦/新潮OH!文庫)を読み終えた。本全体についての感想を述べるのは控えておく。うまくまとめられないから。ただ、興味を惹かれた部分があったので、紹介しておこう。そこでは、某推理作家の小説(あえて作者名も題名も伏せておくが、次の引用文を読めば誰のことだからは分かることと思う)を取り上げて、トリックをばらした上で次のようにコメントしている。
だからトリックとしては成立するだろう。しかし私はこの作品を読んで、現実の患者のニュアンスだとか状態といったものを知ることもなく(もし知っていたなら、こんな記述はしないであろうといった箇所が山ほどある)、ただ文献上でこうした珍しい症状の存在を見つけて舌なめずりをする作者に、一種の卑しさを覚えてしまうのである。
 病気の症状だけを自分勝手に拡大解釈してそれを利用し、得意気に「読者を騙してやった」とほくそえむ様子は、決して上品なものではあるまい。お涙頂戴の安ドラマに白血病を持ち出すのと同じ程度の低い志が、こうした下らぬトリックを使った作品を書かせるのである。半可通の薄っぺらな作品を製造しながら、「推理小説の大河が、蕩蕩と文学の沃野を流れていくのだ」などと『推理小説作法』なる自著に記すような神経のほうが、よほど私には謎と怪奇に映る。
 なかなか手厳しい。著者はこれに先立つ『ロマンティックな狂気は存在するか』でも綾辻行人の『人形館の殺人』を批判していた(ただし、作者・作品名は明示していなかった)。その文章を読んでしまったせいで私の『人形館の殺人』に対する評価はかなり下がってしまったことを思い出した。
 幸か不幸か今回の攻撃対象は未読だった。ネタをばらされてしまったので怒るべきかもしれないが、むしろ「こんなに感情を露わにして攻撃するからには、さぞ凄い小説なのだろう」と思い、読んでみたくなってしまった。あの作家が「舌なめずり」して「ほくそえむ様子」を想像するとちょっと気色悪いけれど。
 未読作品について意見を言っても仕方がないが、『私たちはなぜ狂わずにいるのか』でばらされているトリックだけをみれば、江戸川乱歩のある短編のヴァリエーションのように思える。その短編自体が海外のある作家の小説(これはぼかしているのではなくて、作者も作品名も忘れてしまった)の翻案で、ほかに鮎川哲也の初期短編にも似たアイディアを使ったものがある。しかし、これらはすべてミステリというより幻想小説だ。その物語世界を覆う"幻想"を精神病院という閉鎖空間に押し込めてしまうことで、ミステリのトリックとして機能させるという着想(だったかどうだかは読んでみないとわからないけれど)はなかなか面白いのではないだろうか?

 今日は4曲ある『ミサ・ブレヴィス』のうちヘ長調(BWV233)とイ長調(BWV234)を聴いた。『ミサ ロ短調』(BWV232)に比べると全然有名ではない曲で、私はほかに1種類しかCDを持っていない(『ミサ ロ短調』はほかに4種類くらい持っているはず)。ミサ通常文のうち「キリエ」と「グローリア」だけに曲をつけたもので、1曲あたり約30分程度。

1.10211(2002/04/14) タイムリミットまであと4週間!

 今日、『黒祠の島』(小野不由美/祥伝社ノン・ノベル)を買ってきた。これから読むつもりだ。私は小野不由美の小説は二、三冊しか読んだことがなく、『十二国記』シリーズは一作も読んでいない。どうも文体が肌に合わず読みにくいのが理由だ。余談だが、同時期にデビューした井上ほのかの小説は全部読んでいる。早く新刊出ないかな〜。
 さて、刊行後一年以上経った本を今頃読む気になったのは、ほかでもない、「ネットミステリ者が選ぶ『本格ミステリ大賞』」に応募してみようか、などという柄にもないことを考えたせいだ。どうして「柄にもない」ことなのかは、日頃このページを読んでいる人には説明の必要はないと思うが、説明の必要はないと思うので説明しない、と言って本当に説明抜きだと説明の必要が生じるかもしれないので説明しておく。要するに、私は引きこもり体質で、あまりこの種の企画には参加しないからだ。そんなわけで、まだ本当に投票すると決めたわけではなくて、まあこの機会に小野不由美を読むのも悪くないか、という軽い気持ちだ。
 ところで、今回の「本格ミステリ大賞」候補作のうち既に私が読んでいるのは『鏡の中は日曜日』だけで、あとの四作は全く手つかずである、というか一冊も買っていない。その中で手始めに『黒祠の島』を買ったのは、これだけがノベルスだったからだ。途中で頓挫したとしても金銭的なダメージは少なくてすむだろうというせせこましいことを考えている。
 他の候補作のうち『グラン・ギニョール城』は読めそうだが、『たったひとつの』は読めるかどうかわからない。そして一番の難関は『ミステリ・オペラ』で、これは本に押しつぶされてギブアップしそうなので一番後回しにする。
 本当は『指輪物語』を読んだときのように全部まとめて買ってきて自分を追い込むのがいいのだが、かなりの苦痛を伴うことが予想される。そこまでして投票したいほど、私は現代日本ミステリに思い入れがあるわけではない。「なんとなく気が向かなくなった」という理由でやめるかもしれず、ずるずるとタイムアップする可能性もある。そんな投げやりな態度で臨んでいるということだ。

1.10212(2002/04/14) 八宝菜のない憂鬱な日曜の夜

 今日は久しぶりに家族揃って外食することになった。暖かくなってきたので寿司でも、という話になり家から山一つ隔てた町の回転寿司屋に行ったのだが、着いたのが午後6時半で座席はいっぱい、入り口付近には行列まで出来ていた。たかが回転寿司で待たされるのも嫌だから、と方針を変えて別の店に行くことにした。しかし、たぶんこの時間帯はどこも満席だろう。そんな事を言いながら古い中華料理屋の前まで来た。
 その店はたぶん20年以上前からあった筈で、当初は国道バイパス沿いでは唯一の飲食店(当時、国道の周囲は田圃ばかりだった)で家族連れや宴会客なども多く大いにはやっていたらしい。一階フロアにはシャンデリアがあり、その真下の噴水から流れた水が客席のすぐそばを通って店の外の池へと続いていた。ほかに畳の座敷もあって、昔私の家族が大人数だった頃には座敷に陣取ることも多かった。二階には上がったことはないが、そこにも宴会用の広い座敷があったらしい。
 その後、バイパス沿いが徐々に開けてくるに従ってファミリーレストランやら各種の食堂、料理屋が建ち並ぶようになり、その中華料理屋は黄昏時を迎えることになった。アルバイトの女子学生の姿はとうになく、70歳を過ぎた老婆がよたよたと給仕をする姿が目立つようになった。二階はカラオケフロアに改装したようだが、灯りがついているのを見たことがない。一階の椅子席も半分はロープで立ち入りできなくされていた。もちろん、噴水は何年も止まったままだ。
 それでも我が家族は数ヶ月に一回くらいの割でその中華料理屋を利用していた。小エビの天ぷらがおいしくて気に入っていたからだ。だが、最近近くにバーミヤンが出来、数年前に出来た餃子の王将と挟み撃ちされるようになってから、ますます落日の感が強くなり、次第に足を運ばなくなった。照明も心なしか以前より暗くなった感じで、寒々とした雰囲気がだだっ広いフロアに漂っていた。
 いつ潰れてもおかしくない様子だったが、今日のところはまだ看板に灯りがついていた。ここなら満席で待たされることもない。久しぶりに店内に足を踏み入れた。すると、まだ7時前だというのに、店内は静まり返っていて、数名の客が黙々と料理を口に運んでいる姿が見えるだけだった。はしゃぎ回る子供のかん高い声はなく、がちゃがちゃという皿の音、厨房の威勢の良いかけ声も全く聞こえない。おまけに座席に着いてみると、メニューが以前とは違っていた。前はカラー写真つきで四つ折りのメニューがあったところに、一枚もののモノクロコピーのメニューがそっと置かれている。見ると、店の前のウインドウに並んでいる見本の半分も料理がない。エビチリも麻婆豆腐もない。幸い小エビの天ぷらはあったので、まずはそれを頼んだ。
 昔は、あれも食べたい、これも食べたいと、ついつい注文しすぎて、家族全員が腹を抱えて唸るほどだったが……と回想しながら、小エビ天をつついた。すぐになくなったので追加注文。今度は八宝菜を頼んだ。よたよたと歩く老婆が伝票の半券を持って厨房へと向かい、すぐに引き返してきた。
「すいません。今日は八宝菜の材料切らしていまして……何かほかのものを……」
 ちょっとショックを受けながら、数少ないメニューから野菜炒めを頼んだ。不幸中の幸いで、野菜炒めの材料は切らしていなかったようだ。
 だが、このエピソードで家族全員が重苦しい雰囲気にとらわれてしまい、その後の会話は「昔はこの店も……」という話題に終始した。そして最後に「ここの小エビ天も今日が食い納めか……」と呟いた。
 こうして日曜の夜は過ぎていく。

 この中華料理屋はたまたま時流から外れただけかもしれない。そう考えることは可能だ。だが、今は多くの客で賑わっている店もいずれは同じ道を歩むと考えるほうが理にかなっているような気がする。かつてバブルに浮かれていた日本は今やすっかり活力をなくしてしまった。これは一過性の不況などではなく、この国全体が老い、衰えているせいだ。今後出生率はますます下がり、街から若者が姿を消し、老人ばかりが目立つようになるだろう。そしてその老人の中には私も混じっている。そんな近い将来の情景を思い浮かべた。たかが八宝菜、されどそれは確実に迫りつつある未来の象徴でもある。「長い目で見れば私たちはすでに死んでいる」と言ったのは誰だったっけ?

(追記)
 上の「長い目で見れば〜」はケインズの言葉だった。正確にいえば「長い目で見れば我々は全て死んでいる(In the long run we are all dead.)」である。ちょっと前に「ニセ首相官邸」の「経済諸制度の抜本的改革について」という項で読んだのを不正確な形で記憶していた。その含みについては同項を参照していただきたい(などと言いつつ、例によってリンクは外した)
 それにしてもこれはいい言葉だ。これから私の座右の銘にしよう。もちろんケインズの意図に反して、文字通りに解するわけだが。