1.0241〜1.0247 日々の憂鬱〜2002年5月第3週〜


1.10241(2002/05/13) 節目と限界

 「たそがれSpringPoint」は今日一つの節目を迎えた。どういう節目なのかは、あなたの目が節穴でなければわかることだが、後になるとわからなくなるので書いておく。アクセス数10000ヒット突破である。といっても、さっき私が見たら9999だったので、本当に10000ヒットをこえているのかどうか、まだ確認していない。もしかしたら私がアクセスしたあと誰もこのページを見ていないかもしれない。
 10000ヒットを達成したらどうなるというものでもない。特に企画を用意しているわけでもないし、キリ番ゲットした人へのプレゼントがあるわけでもない。逆にプレゼントをもらいたいくらいだ。でもプレゼントなら何でもいいというわけではないので注意されたし。あまり不用意な事を書いて押し掛け厨に襲撃されると怖いので、念のために書いておく。私は同人活動をやっていないが、何の拍子にロックオンされるかわかったものではない。
 と、いつものとおり適当にほどよく脱線したところで節目の話に戻る。10000ヒットが節目だというのは、たまたま我々が10進法を採用しているからで、7進法や18進法、42進法などを採用していたなら10000という数には特別な意味はなかっただろうと思う。計算はしていないが。なお、間違えてはいけないのだが、「10000」という数表現は7進法であっても18進法であっても42進法であってもそれなりの意味をもつだろう。10進法では「10000」は10000を指すが7進法や18進法や42進法ではそれぞれ別の数を指すというだけのことである。
 この話題を扱うといつも頭が混乱してしまう。もともと混乱しているので、それに拍車がかかってしまうと言ったほうがいいかもしれない。10進法とは何のことか? 厳密な定義は知らないが、位取り記数法を前提にしておおざっぱに述べると、0,1……と数えていって10まで来たら1桁繰り上がって「10」と表記するのが10進法だ。これが7進法だと6までは10進法と同じだが、7で繰り上がって「10」と表記する。7×7=49でさらに1桁繰り上がって「100」、7×7×7=343が「1000」、7×7×7×7=2401が「10000」となる。18進法と42進法の場合でそれぞれどの数が「10000」になるのかは各自計算すること。
 不思議なのは「10進法」という言葉だ。この言葉は10進法を前提としている。「10まで数えたときに1桁繰り上がる」、というとき、この文中の「10」は当然10進法での表記だ。この文を7進法で解釈すれば7進法の説明となり、18進法で解釈すれば18進法の説明となり、42進法で解釈すれば42進法の説明となる。一般にx進法でxは「10」と表記されるのだから、x進法を採用すれば、必ず「10進法」となる。そうすると「10進法」という言葉は何も言っていないのと同じことではないか?
 この難点を回避するには「十進法」と書けばよい。これで問題は解決だ。いや全然解決していない。単に漢数字による数表現の慣習にしがみついて問題から目を逸らせているだけだ。「七進法で漢数字により数を数えよ」という課題が与えられたら、どう答える? 一、二、三、四、五、六、七……は使えないから一足飛びに十、さらに続ける。十一、十二、十三、十四、十五、十六、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、三十、もうこのくらいでいいだろう。七進法で七は「十」と表記される。よって七進法を採用すれば、それは「十進法」と表記されることになるだろう。もちろん十八進法を採用すれば十八進法は「十進法」と表記されるだろうし、四十二進法を採用すれば我々は四十二進法のことを「十進法」と書くことになるだろう。算用数字の場合と何も違いはない。
 漢数字を使うことで問題を回避できないことが明らかになったので、別の手を考えることする。問題は数字の使い方を数字を用いて説明しようとしたことに起因るのだから、説明文から数字を抜いてしまえばいい。「10進法とは、次に掲げる☆の数まで数えたときに1桁繰り上がる記数法である。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆」これでどうだ。「1桁」というところで数字を使ってしまっているが、これは問題にはならないだろう。同様にして7進法は「に掲げるの☆の数まで数えたときに1桁繰り上がる表記法である。☆☆☆☆☆☆☆」と説明すればいいし、18進法なら「に掲げるの☆の数まで数えたときに1桁繰り上がる表記法である。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆」、42進法なら「次に掲げる☆の数まで数えたときに1桁繰り上がる表記法である。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆」でよい。それぞれの説明文は全部違っている。
 応用問題。同じ方法で1327進法を説明せよ。
 あっ、また脱線した。今日は10000ヒット突破の機会にこれまでのサイト運営を振り返って、その限界と失敗と挫折と絶望に語ってみるつもりだったのだが、なんか、もうどうでもよくなってきた。

 今日も黙々とバッハのオルガン曲を聴いた。「前奏曲とフーガ」2曲、「協奏曲」1曲、その他いろいろ。バッハのオルガン独奏のための「協奏曲」は全6曲(全部他人の曲からの編曲だが)あるが、ブリリアント版ではばらばらにして全部別のCDに入っている。何ということだ!

1.10242(2002/05/14) 紙の表面と裏面は紙一重

 今朝掲示板で、今日は更新しない予定だと書いたのだが、気が変わったので更新する。こんなことをしていては明日までに『グラン・ギニョール城』が読み終えることができなくなってしまうのだが、今日は疲れ切っているのでどうせ読む気にならないからいいのだ。
 こんな事を書くと、『グラン・ギニョール城』というのはそんなに読みにくい小説なのか、と誤解されそうだが、別にそんな事はない。海外ミステリの翻訳という体裁の文章が挿入されているため、海外ミステリに慣れていない人は多少まごつくかもしれないが、昭和30年頃のポケミスよりは随分とこなれた日本語になっているし、誤訳で文意が掴めない箇所がないので安心して読める。ただ、多少とも推理しようと思いながら読むと、どうしても時間と労力を費やすことになる。これは『グラン・ギニョール城』に限った話ではないのだが、世の中「本格ミステリ」と銘打っていても全く先読みしようという気にならない小説もあるので油断できない。あれ、なんでここで「油断」などという言葉が出てきたのだろう? もしかしたら誤訳かもしれない。
 上でも書いたとおり、今日は疲れ切っている。なぜ疲れ切っているのか、その理由を書くと長くなるし、さらに疲れることになる。それだけならまだいいが、愚痴を羅列することになって読者を不快にさせることだろう。私は今非常に不快だが、不快感を他人と分かち合えば半分になるということはまずないし、逆に倍になるということは十分あり得る話なので、やはり何も書かないのがいちばんだろう。そう言いつつ、いろいろ書いてしまった。
 恒例の「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は、引き続きオルガン曲。疲れているときにオルガン曲を聴くと神経に障るのだが、かといって聴く順番を変えると訳が分からなくなるので仕方ない。今聴いているCDには有名な「ファンタジアとフーガ ト短調 BWV542」が収録されている。同じト短調のBWV578が「小フーガ」と呼ばれるのに対して、こちらは「大フーガ」と称される。他に「トリオ・ソナタ」が一曲入っている。バッハのオルガン独奏のための「トリオ・ソナタ」は全部で確か6曲あったと思うが、まとめてくれていないのは残念だ。

1.10243(2002/05/15) 書くだけ書いておく

 あまり凝った事を書く時間的余裕も精神的余裕もないので、メモ程度。

 その1
 『グラン・ギニョール城』(芦辺拓/原書房)読了。今日の24時が「ネットミステリ者が選ぶ『本格ミステリ大賞』」の締切(明日でも受け付けてくれるようだが)なので、あまり時間がない。よって感想文は省略。明日以降、気が向いたら書くかもしれない。
 なお、どの作品に投票するかはもう決めてある。あとは、どうやって投票理由を説明するか、だけ。これがなかなか難しい。

 その2
 JUNK-LANDの今日付の文章(ロジックとフェアプレイ-15)を読む。「謎解きロジックの方法論を分類整理する」という困難な課題に挑戦している。「帰納法/演繹法」という二大別、及び「ブラウン神父」シリーズが「帰納法推理」の代表格であるという見解には異議を申し立てたいところだが、まだ先が長いようなのでしばらく議論の展開を見守ることにする。とりあえずミステリファンなら必読と言っておく。

 その3
 Weird Worldの[読書メモ]に
「哲学はホラーでオカルトはファンタジー」というネタを振りかけてやめたことがあったので、序説めいたものを書いてみます(たいしたことは言ってませんが)。「向こう側」の構築性という点で硬派のオカルトとファンタジー(ことに異世界ファンタジー)は通底しています。
という文章があり、興味をそそられた。私はホラーもファンタジーも似たようなものだと乱暴に考えていた(子供の頃に読んだ『不思議の国のアリス』の人体変形(?)シーンは怖かった……)が、『指輪物語』を念頭に置いて読むと納得できる。そこで考えを進める。「では、ミステリはどちら寄りなのだろうか? 哲学? オカルト?」と。「哲学だ」と断言したくなる。だが、例外はあまりにも多く、むしろ例外でない作品のほうが少数派だ。このような言い方は転倒しているが。
 なお、哲学とオカルトが対照をなすのは、オカルトが「思想」ファミリーの一員(鬼っ子かもしれないが)だからだと思う。

 メモのわりにいろいろ語ってしまった。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は一回休み。

1.10244(2002/05/16) この世でいちばん怖いもの

 私は死ぬのが怖い。死ぬということは何もかもが終わってしまうということだから。だが、死より怖いものがある。
 何もかもが終わってしまい絶対に続きがないという恐怖。その恐怖に勝るものとは、数である。数をいくら数えていっても終わりがない。これでおしまい、という終点はどこにもない。ただひたすら1つずつ増えてゆく数、それは死よりも恐ろしい。この世でもっとも怖いもの、それが数だ。
 いつまでもいつまでも数を数えていくことができる。どこまでもどこまでも辿っていくことができる。しかし、その「できる」は人間の寿命を無視した場合の話だ。どんなに長命な人でも、いずれ命が尽きる。そして、数を数える作業はそこで途切れる。だが、その先にもまだ数はいくらでもあるのだ。
 上で、数はこの世でいちばん怖いものだと書いた。だが、そもそも数はこの世のものなのだろうか? もしかしたらそうではないかもしれない。たとえば、3はこの世にあるのだろうか?
 私が通勤に使う駅の売店で3匹の猫を飼っている。名前は知らないが仮に「ブー」「フー」「ウー」としておこう。「駅の売店には3匹の猫がいる」と言うとき、私は当然この世に存在する駅の話をしている。当然、駅の売店もこの世にあり、売店の猫たちもこの世にある。では、3匹はこの世にあるのだろうか? こう問うのはナンセンスだろう。
 私が言っていることは次の事柄であるに過ぎない。  これらの文をまとめて凝縮すると、得体の知れない3匹がどこからともなく現れる。
 数は恐ろしい。それはこの世のものではないかもしれないのに、知らず知らずのうちにこの世に忍び込み、ごく当然のような顔をして我々の思考を支配する。

 昨日、「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」を一回休みにしておいたが、聴くのを休んでいたわけではない。昨日と今日の二日間で「オルガン小曲集(オルゲルビュヒライン)」を聴いた。バッハの音楽の中でももっとも渋い部類に入る。オルガン曲のファンにとってはお馴染みの曲集だと思うが、一般の音楽愛好家にはあまり縁がないだろう。井上ほのかの小説(『スコットランド古城殺人事件』だったと思うが、違ったかもしれない(次項参照のこと))で「人はみな死すべき定め BWV643」が流れる場面があった。なんでこんな曲が、と思ったことだけ覚えている。

 JUNK-LANDでは、昨日に引き続きブラウン神父の推理法を取り上げている。簡潔にして要を得た分析になっていると思う。ただ、「異常な現象/事件の謎を、どこからか引っ張り出した原理に当てはめて“解釈”」するブラウン神父の推理は、帰納法というよりむしろ演繹法に近いのではないか。いや、帰納法か演繹法かの二者択一ではなく、両者の間を行きつ戻りつ推理を進めているのではないか。いやいや、そもそもブラウン神父の推理は帰納法と演繹法のブレンドですらないのではないか。いやいやいや……と思考はふらつき、先に進まない。
 ブラウン神父を例に挙げるまでもなく、我々の思考は解釈の連続である。蒸し暑い部屋の窓際に私がいるとき、別の誰かが窓の外に目を向けながら「今日は暑いね」と漏らす。私はその言葉を聞いて、窓を開ける。その時私は無意識のうちに「今日は暑いね」と言った人の意図を解釈している。その発言は「窓を開けてほしい」という要求を伝えるためのものだ、と。これは「推理」と呼ぶのも憚られるような、ごく単純な例だ。だが、この例を帰納法と演繹法という道具立てで説明しようとすると、かなり煩雑なものになるだろう。ミステリに登場する名探偵のアクロバティックな推理を説明する作業など、想像するだけで気が遠くなる。そして私は、二分割を無限に続けることができる走路を前にした走者のように、出発点に立ちつくすことになる。だが、アキレスは必ず亀を追い越し、止まっているはずの矢はゼノンの胸を射抜く。運がよければそのような奇蹟の瞬間を目撃することができるかもしれない。もうしばらく成り行きを見守ることにしたい。

1.10245(2002/05/17) 大間違い

 昨日の文章で、バッハのオルガン曲が出てくる井上ほのかの小説のタイトルを間違えた。自称「井上ほのかファン」の私としたことが、何たる失態! 今朝、掲示板のほうで訂正したが、見ていない人も多いと思うので、こちらでも書いておく。『スコットランド古城殺人事件』ではなく、『ロンドン園遊会殺人事件』である。その下巻で、テロリストが要人の暗殺を予告したため厳重警戒中の空港でバッハが鳴り響く。
 ――きっと来る。
 そう思った瞬間、頭上で搭乗案内を流していたスピーカーが不似合いなノイズを出した。
 いままでの放送がプツッと切れて、代わりに陰鬱なパイプオルガンのメロディーが響き渡る。J・S・バッハの葬送曲である。コラール第45番、すなわち『人みな死すべきもの』。一瞬、警備陣にもどよめきが起こった。
 ――生意気なッ、派手なことをやりやがるぜ!
 非常に印象的なシーンである。小説では実際に音楽を聴くことができないのが残念といえば残念だが、曲自体はそれほど印象的ではないので、脳内で勝手に補完したほうがいいかもしれない。
 『ロンドン園遊会殺人事件』が出版されたのは今から7年前の1996年。今のところ、これが「少年探偵セディ」シリーズの(そして、井上氏のミステリ作品の)最後の作品だ。もう続きを読むことはできないのだろうか?

 今日もバッハのオルガン曲を聴く。「バッハ・エディション VOL.6 オルガン曲集 Vol.1」CD7(通巻ではCD45)だ。いろいろ入っているが、いちばん有名なのは「パストレッラ ヘ長調 BWV590」(「パストラーレ」と呼ぶほうが普通だが)だと思う。この曲は4楽章から成るが、その第3楽章は『ルパン三世 カリオストロの城』の結婚式の場面で用いられた。

1.10246(2002/05/18) 謎のトイレ

 いつものように定期巡回サイトを見ていると、一般公開していない某氏のサイトに興味深い文章が掲載されていた。リンクできないので、該当箇所を引用する。
帰りに、突然腹の調子が悪くなり、「池袋メトロポリタンプラザ」の2Fのトイレに慌てて駆け込んだところ、大用トイレの個室から若い女性が出てきてお互いにビックリ!
一瞬、女子トイレに入ってしまったかと動揺しまくるが、その女性と同時に右を向くとそこには紛れも無く男性専用小用便器があり、私はよっしゃーー!、女性は一瞬のうちに顔が真っ赤かになり、慌てて手も洗わずに立ち去っていきました…

と、ここまでだったら、よくある女性の失敗談です。しかし、実はこの後もさらに別の女性が入ろうとしたり、もしくは入りかけて慌てて気づき逃げたりするのが数人。

・問題−>なぜこの女性たちは、間違って男子トイレに入ってきたでしょう。


とくに答えは書きません。
ミステリ系の人は池袋に行ったときにでも池袋メトロポリタンプラザの2Fとかを確認しておけば、ちょっとした小ネタくらいには使えるかもしれませんよ。

理由と思われるものに気がついた瞬間、思わず手を叩いちゃいましたよ。あまりにバカバカしくて(;´∀`)
ちなみに、男子トイレと女子トイレのプレートが入れ替わっているというネタではありません。
 さて……。池袋メトロポリタンプラザまで行けば答えがわかるのだろうが、地理的、時間的に今の私には難しい。そこで、いろいろ考えてみた。いつもなら、その試行錯誤の経過を書くのだが、今日はあまり体調がよくないので結論だけ書く。私の答えは、
プレートはそのままで、男子トイレと女子トイレの位置が入れ替わっていた。
というものである。なんだ、そりゃ。

(追記)
 その後、某氏のサイトを見に行くと、解答が載っていた。別にもったいぶるわけではないが、自力で解きたい人のために一部分文字色を背景と同化させたうえで引用する。
昨日のクイズもどきは、滅・こぉるさんので大体正解…でいいのかな。2Fのトイレは、他のフロアと男子と女子の配置が逆みたいなんです。プレートもきちんと貼ってあるんですが、あそこの他の階に慣れているとつい男は女子トイレに、女は男子トイレに足が向いてしまうと(´ー`)y-~~
 いや、私の回答は正解からほど遠いと思う……。

 今日は他人の褌だけの文章という気がするが、話題がトイレだけに褌も多少は関係あるから、まあいいか。
 今日の出来事とか「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」とかは明日に回す。何せ天王寺から梅田まで歩いた(しかも難波〜梅田間は御堂筋ではなく四つ橋筋だ)ので、疲れてしまった。

1.10247(2002/05/19) ゼレンカを「ボヘミアのバッハ」というのは納得できるが、クープランを「フランスのバッハ」というのはピントがずれている思う今日このごろ

 クープラン一族は音楽家を多く輩出した(というが、私はフランソワ以外にはルイくらいしか知らない)ので、ドイツのバッハ一族にたとえられる、ということなのだが、そのことからF.クープラン個人をJ.S.バッハにたとえるというのがちょっと納得できないのだ。
 という、一体何を言っているのかわからない前振りから、いきなり昨日の買い物の話。
  1. 『ロケットマン』(2)(加藤元浩/講談社コミックス)
  2. 『琉伽といた夏』(2)(外薗昌也/集英社ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)
  3. 『LET IT BE!!』(2)(こいずみまり/小学館サンデーGXコミックス)
  4. 『MとNの肖像』(5)(樋口橘/白泉社花とゆめCOMICS)
  5. 『こどもの時間2』(後藤晶/ コアマガジン ホットミルクコミックスシリーズ)
  6. 『第四の扉』(ポール・アルテ(著)/平岡敦(訳)/ハヤカワ・ミステリ)
  7. 『ほしのこえ The voices of a distant star』(新海誠ほか/コミックス・ウェーヴ)
 こうやって並べてみると、マンガ5冊はみな続き物の2巻目以降(『こどもの時間2』はタイトルに「2」が入っているが、『こどもの時間』の第2巻と考えていいだろう。まだ続巻がありそうだし)ばかりだ。「前に買ったマンガの続きだから、とりあえず買う」という怠惰な思考中断はよくないのだけど、いちおう全部全巻を読んだうえで買っているので、まだましだ。『ふたつのスピカ』(柳沼行//メディアファクトリーMFコミックス)なんか、1巻が出てすぐに買ったのに、読まないうちに2巻が出てしまった。あのときはさすがに迷ったが、結局買ってしまったもんなぁ。無秩序に未読本がどんどん増えていくのは、やっぱり私の人間性に問題があるせいだろうな。ちょっと鬱。
 さて1は『Q.E.D』の作者の新シリーズ。1巻が先月『Q.E.D』の12巻と同時発売したばかりだ。2ヶ月連続発売というのは営業戦略なのだろう。サブタイトルが「何かが道をやってくる/結晶世界/たった一つの冴えたやり方/神々自身」となっている。2のサブタイトルと比較せよ。これって最近のマンガのはやりなのか?
 3もサブタイトルに凝っているようで、わざわざ巻末に解説がついている。私の守備範囲外なので解説がないとまずわからない(こう書くと「2や3の出典は守備範囲内か?」と問い返されそうだが、いくつか読んだことがあるという程度だ)から、説明してくれるのはうれしい。
 4は特に説明の必要はないだろう。いまやマンガ読みのスタンダード。
 5もある意味でスタンダードだと思うが、知らない人のために説明すると、傷つきやすい繊細な少年と母親のような包容力をもった高校生との心の交流を描いた感動のヒューマンドラマである。発表媒体や対象読者は全然違っているが、案外4と5は似ているのかもしれない。
 ところで、後藤晶に『EROTOMANIA〜恋愛妄想〜』という作品集がある。『こどもの時間』の最初の2話も収録されていて、今から思えば中途半端な感じがする(が、当時はまだ『こどもの時間』がこれほど人気が出て長期シリーズ化するとは思っていなかったのだろうからやむを得ない)が、それはそれとして私はこの本ではじめて「エロトマニア」という言葉を知った(ただし、この本にエロトマニアを扱ったマンガが収録されているわけではなく、巻末に本のタイトルの説明があっただけ)。字面に似合わず(?)色情狂の正反対で純愛系の狂気だそうで、ちょっと面白いと思った。
 6は「怪奇趣味+密室殺人="フランスのディクスン・カー"」という惹句が笑える。「スウォーデンのカー」の例もあることなので、「フランスのカー」にそそられる人がどれくらいるのかは疑問だが、「殊能将之が好きな人は必読」という意見(福井健太氏)もあることなので、とりあえず買っておく。買ったあと「とりわけ殊能将之が好きな人は必読」というのは大嘘なので、信用しないようにというコメント(殊能将之氏)を見かけて、ますます気になった。
 私自身の読書歴を振り返ってみると、昔はカーが大好きだったが有名作を一通り読んだところで熱が冷めてしまっている。また、ロースンやバウチャー(H.H.ホームズ)はあまり面白いと思ったことがない。『美濃牛』を途中で投げ出したくらいだから「殊能将之が好きな人」のうちには入らないだろうし……。う〜ん。
 私は「たそがれSpringPoint」を始めてから海外ミステリをまだ一冊も読んでいない。国内物の新刊も積読状態になっていて、たとえば『双月城の惨劇』(加賀美雅之/カッパノベルス)も手つかずだが、この辺りでちょっと国内物を読むのを中断して海外に目を向けることにするのもいいかもしれない。でも、とりあえずはホック(『サム・ホーソーンの事件簿II』のこと)からだな。
 どうでもいいが、『第四の扉』の訳者あとがきを読んで思いついたキャッチフレーズ。「ミステリ界のジャック・ブーヴレス」(ブーヴレスはフランスの哲学者、かの国には珍しい分析系)。うん、これは売れないや。
 7は今年始めくらいから話題になり、発売が決定すると予約が殺到し、いざ発売すると売り切れ店続出、さらに回収騒ぎもあって入手困難な状態が続いていて、やきもきしているファンもいたようだが、昨日日本橋へ行くと多くのショップで積んであったから、一段落したのだろう。上ではスタッフの名前をいちいち挙げるのが面倒だったので「新海誠ほか」と書いておいたが、誰も文句を言う人はいまい。

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は昨日で「バッハ・エディション VOL.6 オルガン曲集 Vol.1」を聴き終え、今日から「VOL.7 世俗カンタータ集」に入る。いちばん最初に『カンタータ「喜びて舞い上がれ」 BWV36c』という景気のいいタイトルの曲が入っている。同題のBWV36が教会カンタータの原曲か関連曲だと思うが、面倒なので聴き比べはしない。ああ、投げやりだ。