日々の憂鬱〜2002年7月中旬〜


1.10309(2002/07/11) 脱力

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020711a

 『マリア様がみてる』の既刊を読み終えて、すっかりテンションが下がってしまった。読んでいるさなかには冷静なつもりだったが、たぶんかなり熱くなっていたのだろう。このような読書体験は初めてだ。
 やや虚脱状態なので、今日はちょっと手を抜くことにしよう。とりあえず「マリみて」がらみでペインキラーRD7/10付の日記にリンク。「これはひょっとしたら読まないとマズイのではないかという漠然たる不安に駆られてきた」そうで、まことに結構なことである。

 「マリみて」の後の空白を埋めることはできないだろうと思いつつ、『悪魔のミカタ(4) パーフェクトワールド・休日編』(うえお久光/電撃文庫)を読んだ。1ヶ月の沈黙を破って(以下略)。予想していたよりは面白かった。だが、先日読んだ『輪舞曲都市』のほうが私の好みに合っている。わざわざ引き合いに出したのは、両者の設定にやや似たところがあるからだが、どこが似ているのかは秘密だ。
 私がシリーズ第一作『悪魔のミカタ−魔法カメラ−』を読んだのは2/17のことだった。その時にも書いたが、ペインキラー氏の感想文がきっかけになっている。その数日前には『空の境界』を読んで、しばらく虚脱状態に陥っていたのだが、『悪魔のミカタ』はそんな私の心のスキマを埋めてくれた。それが遙か昔のことのように思われる。
 としをとると愚痴が多くなってしまう。いけないいけない。
 先に述べたとおり、今日は手を抜くことにしているので、具体的な感想は書かないが、そのかわりに印象に残った台詞を一つ引用しておく。194ページ、名もない遊園地の係員が主人公の堂島コウに向かって叫ぶ(原文では「白鯨」に「モビーディック」とルビが振られている)。

「――さぁ、行くがいいエイハブ船長! 君の敵する白鯨に、君の銛を打ち込むがいいぃぃぃっ!」
 困ったことに、こういう台詞を目にすると次も読みたくなってしまう。

 昨日も今日もバッハのカンタータを聴いた。

 明日は会社を休んで、ちょっと遠出。帰宅するのは深夜の予定(もしかしたら泊まり込み?)なので、サイトの更新ができないかもしれない。詳細は後日アップするかもしれず、しないかもしれず……。
 何人かの人々に会う予定だが、いったい誰と会うことになるのか自分でもよくわかっていない。個人的には某ガス配管業者さんと道路舗装復旧について萌え話をしたいのだが……。

1.10310(2002/07/13) 君の考えはよくわカルナップ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020713a

 今日はまずお詫びと訂正から。
 一昨日の文章で『悪魔のミカタ(4)』のタイトルを一部間違えていた。掲示板遊美氏に指摘を受け、早速訂正。
 もう一つ、一昨日の文章で訂正しなければいけない。最後の一文で「某水道配管業者さん」と書いたが、「某ガス配管業者さん」の間違いだった。このような間違いをしでかしてしまい、某氏には非常に申し訳なく思う。

 若おやじの殿堂日記で一昨日から深川氏が夏コミに出展する同人誌『性善説1』の執筆者が公開されている。松本楽志氏がメンバーに入っているのも興味深いが、それ以上にに気になるのは『輪舞曲都市』の著者である梅村崇氏だ。これは、もう買うしかないだろう。
 しかし……気になるのは印刷部数だ。初参加サークルだし、まださほど多くのサークルがチェックしているわけではないと思うが、ネット上で情報が広がり一気に行列サークルになる可能性は否定しきれない。当日、私は東館で売り子をすることになっており、部数によっては買いそびれる危険もある。
 西館はここ数年企業ブースのせいで客が増えており、東西の移動にかかる負担はどんどん増している。特に今年はあの伝説のリーフが復活するらしいし、とらのあなの例のアレなどもあり、西館の混雑具合はちょっと予想がつかない(なお、私はどちらも並ぶつもりはないので、「よろしければ共同購入を……」という申し出は無用だ。念のため)。三日目になれば、それほど大きな影響はないと思うが、油断はできない。
 ま、攻略ルートはカタログを買ってからじっくり検討することにしよう。

 昨日の話。
 会社を休んで出かけた先は、例によって大阪日本橋である。昨日発売した『実姉妹』を買うため……じゃなくて(と言いつつ、いちおう買っておいた)、来阪した冬野佳之氏に会うのが目的。冬野氏が宿泊しているホテルに押し掛けて、「ごきげんよう」と挨拶を交わし、(中略)、今や大阪の新名所の一つとなった感のある(ただしごく一部の人の間だけだが)しいがる日本橋店へと案内した。残念ながら、昨日が発売日のめぼしいゲームはなく(『実姉妹』はある意味話題になったゲームだが、同人ゲームという体裁をとっているため、日本橋界隈で扱っているショップは数えるほどしかなかった)、しいがるの店内は閑散としていたが、それなりに満足していただけたことと思う。
 その他、いろいろあったのだが、人と会った話は書いている本人は面白くても読む人が面白いとは限らないので、省略……というのは言い訳で、要するに書くのが面倒なのだ。昨日会った人々とか話した事柄については、冬野氏が旅行から帰ったら書いてくれると思うので、楽しみにしておく。

 こぼれ話。
 某ガス配管業者氏は一昨日の文章を読んで次のように考えた由。

  1. 自分の知り合いには水道配管業者はいない。
  2. すると、滅・こぉるは別口で水道配管業者と会う予定なのだろう。
  3. わざわざ冬野氏来阪に会わせて会うのだから共通の知人だと思われる。
  4. 滅・こぉると冬野氏の共通の知人といえば、らじ氏か深川氏だ。
  5. しかし、深川氏は大阪には来ないと聞いている。
  6. ということはらじ氏だ。
  7. へぇ、らじ氏は水道配管業者だったのか。
 非常に論理的である。ただ私が提示した前提が間違っていたので結論も間違ったものになってしまった。
 なお、私はらじ氏の職業を知らないので、偶然、水道配管業者であるという可能性は否定できない。ただ、もしそうだとしても昨日らじ氏に会う予定は入れていなかったので、結論は認識論的に正当化されているわけではない。
 「認識論的正当化」というなじみのない言葉を使ってしまったのは、昨日買った『知識の哲学』(戸田山和久/産業図書)の影響だ。まだ読みかけたばかりだが、非常に面白い。

 もう一つこぼれ話。
 以前、『輪舞曲都市』について「P.K.ディックがハメットの文体でフランスミステリを書いたらこうなる、という感じ」とピントのはずれた感想を述べた後輩を連れていったら、ガス配管業者氏が「超能力者が出てきてもミステリと言えるのだろうか?」という疑義を提示した。そこから、『輪舞曲都市』をどう評価するか、という話に発展したのだが、「途中までは非常によく書けていて面白い。しかし、まとめ方にはよくわからない」という結論に落ち着いた。
 その場にいた某氏(名前を出さないことを条件に掲載許可をもらった)の意見。

 第八章まででいったん区切って『輪舞曲都市(前編)』として出版し、後編が世に出る前に作者の梅村氏が交通事故か何かに巻き込まれて逝ってしまったら、この小説は「未完の大傑作」として末永く語り継がれるものになっただろう。
 ポイントは、「書けなくなったから中絶」というのではなく「最後まで構想がまとまっていた(かのように思われる)のに外的事情により中絶」というところにある。小説を評価する際に外的な事情を考慮に入れるのは、現代の文芸理論ではたぶん邪道なのだろうが、現実には小説を世界から切り離して論じることはまず不可能であるのだから、"作者の死"(これは象徴的な意味ではなく、文字通りの意味に解されたい)が小説の読み方に影響を与えることは避けられないし、あえて避ける必要もないのではないか。某氏の"不穏当な発言"を私なりに突き詰めて考えると、こうなった。

 『現代思想の遭難者たち』(いしいひさいち/講談社)を買った。同社から刊行された『現代思想の冒険者たち』(全31巻)の月報に掲載された四コママンガをもとに増補したものだ。ただし、どうも全部が全部収録されているわけではないようだ。 私のお気に入りの一編に、カルナップに「夫婦ゲンカは犬もクワイン」という名台詞を吐かせたものがあったのだが、残念ながら収録されていない。

 今日はこれからコミケカタログを買いに大阪へ行く。片道3時間かかるし、カタログ代以上に交通費がかかるので二日連続というのはつらいのだが、これも乗りかかった船(?)だから仕方がない。それに、昨日買うのを忘れた『涅槃交響曲』のCDを探すという目的もあるし。
 そういうわけで、今晩はもうサイトを更新しない予定だ。

1.10311(2002/07/14) 猛烈に暑く辛い夜

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020714a

 今私がいる部屋にはクーラーも扇風機もない。たぶん家の中のどこかに使っていない扇風機があるはずだが、部屋が散らかっていて置く場所がない。だから非常に暑い。暑くて暑くて何もやる気にならない。
 そういうわけで今日は簡易更新モードである。

 昨日、コミケカタログと『涅槃交響曲』のCDを買いに大阪へ行って来た。コミケカタログのほうは無事入手できたが、『涅槃』のCDは見あたらなかった。いや、全然なかったわけではなく、2種類のCDを見つけたのだが、どちらも廉価盤ではなかった。ふだん私が買うCDはたいてい1枚あたり500円程度のものばかりだ。さすがに2500円もするCDにはおいそれと手が出せない。『涅槃』は何かの縁があれば買うことにしよう。
 コミケカタログは相変わらず厚い。厚くて厚くて仕方がない。それが嫌ならもう少し待ってCD-ROM版を買えばいいのだが、なんとなくずっと紙のカタログばかり買っている。
 CD-ROM版は検索するには便利だが、「読む」のには適していない。昔から私は同人誌即売会のカタログは「読む」本だと認識している。だから、買わない。いちおう理屈をつければこういうことになるのだが……。
 昔はカタログの全ページ(広告も含む)を読んでいたのだが、年々意欲が低下してゆき、今ではコミケの前日にぱらぱらとめくってみる程度だ。3種類のマーカーペンを用意して、「是非行きたいサークル」「知り合いのサークル」「なんとなく気になるサークル」と色分けしてチェックしていたのも今は昔、最近は適当に付箋を10枚程度貼っておしまい。
 これではいけない。いや、別にいけなくはないけれど、惰性で行動するのはつまらない。今年はちょっと気合いを入れてカタログチェックすることにしよう。

 昨日少しだけ触れた『知識の哲学』(戸田山和久/産業図書)を読み終えた。これはなかなか凄い本である。どこがどう凄いのかを説明するのは難しいので、とりあえず著者の意欲に満ちた言葉を引用しておく。以下に掲げるのは「はじめに」の第二段落である。第一段落で、この本が取り扱う「知識の哲学」または「認識論」の概略を説明したのち、著者は次のように言う。

 しかしこの本は、たんに歴史上のいろいろな哲学者が知識というものについてこれまでどんな説を唱えてきたかを順繰りに解説したものではない。その手の「教科書」はこれまでゲップが出るほどたくさん出版されてきたから、いまさらもう一冊付け加えることもないだろう。むしろ私が目指したのは、認識論を壊すことだ。私はかつて、『論理学をつくる』という本を書いたことがある。それになぞらえて言えば、本書は『認識論をいったんこわして、もういちどつくる』本ということになる。ところで、なぜ認識論を壊さなければならないのだろう。それは、そろそろこれまで営まれてきた伝統的認識論の賞味期限は過ぎてしまったんじゃないのかと考えているからだ。本書で明らかにするつもりだが、伝統的認識論は、ある特定の知識生産のやり方に根ざした特定の課題によって生じたという意味で、どこまでも「時代に既定された」営みにほかならない。その課題がリアルな問題に感じられた時代は確かにあったろう。しかし、科学や情報技術の高度化によって、われわれが知識を獲得・処理・利用する仕方は大きく変化してしまった。これだけ知識のあり方そのものが変化してしまったのに、認識論だけそのままというわけにはいかないだろう。伝統的認識論のどこがまずいのかを示し、それを解体したのちに、新しい知識のあり方に即した新しい知識の哲学を構築すること。それが本書の目的だ。
 この勇ましい宣言文を読んで少しでも興味を抱いた人は、ぜひ書店でじかに手にとってもらいたい。「培養槽の中の脳」とか「可能世界」とか「双子地球」とか、SFファンをわくわくさせる話題がいくつも出てくる。残念ながら私はSFファンではないが。
 この本には難解な哲学用語が説明なしに出てくることはほとんどなく、普通に日本語の文章を読解できる人なら誰でも読むことができる。だが、書き方が平易なわりにかなり複雑な議論を取り扱っているので、ちゃんと理解しようとすればところどころで立ち止まってよく考える必要がある。七面倒くさい議論はいいから結論だけ知りたい、という人は「第11章 知識はどこにあるのか? 知識の社会性」だけでも読んでみてほしい。このような読み方は邪道だろうけれど、この本の「凄さ」の一端に触れることができる……かもしれない。
 細かい事を言えば、「160ページで『世界の論理的構成』だったのに168ページになると『世界の論理的構築』になってるなぁ」(邦訳は『世界の論理的構築』)とか「今さら『五代くん』とか『響子さん』とか言われてもなあ」とか「“Meaning of“Meaning””って邦訳があるのに言及していないのは、やっぱり意図的に無視しているのかなぁ」とか「今さら『ラム』とか『しのぶ』とか(以下略)」とか、いろいろツッコミを入れたいところがあるのだが、もちろんそれらはこの本の評価とは何の関係もない。
 あと、この本で扱われている「知識」を「創作物」に置き換えればどうなるだろうか、などとも考えた。『動物化するポストモダン』(東浩紀/講談社現代新書)を引っ張ってきて、思いつきとアナロジーだけで大風呂敷を広げてみるのも楽しいかもしれない。私は面倒だからやらないけれど、誰か挑戦してみてほしいものだ。

 一昨日は一日中外出していたため「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」を一回休んだ。昨日はCD101枚目を聴いたが、そのことを書くのを忘れた。今日は102枚目を聴いた。それだけ。

1.10312(2002/07/15) 岡山には岡山の文庫がある

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020715a

ごきげんよう
ごきげんよう
 蒸し暑い夜の挨拶が、台風襲来前の曇天にこだまする。
 ミステリに魅入られた野郎どもが、今日も半病人のような虚ろな目つきで、同病者たちへのリンクを辿っていく。
 トリックを知り尽くした頭脳を癒すのは、薄い青緑の背表紙。
 本屋のレジでは取り乱さないように、ブックカバーは人前ではずさないように、平然なふりをするのがマニアのたしなみ。もちろん、「白薔薇さま萌え〜」と叫んでフォントサイズを最大にするなどといった、はしたないウェブマスターなど存在していようはずもない。
『マリア様がみてる』
 平成十年に第一巻が出たこのシリーズは、もと中高生の少女のために書かれたという、伝統ある集英社コバルト文庫の百合小説である。

 ……ここまで書いて息切れした。なかなか文章を捩るのは難しい。尻切れトンボで申し訳ない。


 さて、見出しの件について。
 日本の文化の中心地は言うまでもなく東京である。東京及びその近郊に住む人々はまるで空気のように文化を享受している。たとえば、散歩がてらに映画を見に行けば出演者やスタッフの舞台挨拶を見ることができるし、定時に仕事を終えてから新宿ロフトプラスワンのトークライブを見に行くこともできる。自転車に乗って有明埠頭へ行くことだってできるのだ。
 だが、地方だって負けてはいられない。岡山県岡山市の某喫茶店では、「横溝正史・金田一耕助シリーズ」の朗読会が企画されている{入場無料・コーヒー代金のみ}のだ。横溝正史の小説を読み上げてどうなるのかはわからないが、まあ何かの意味はあるのだろう。
 その岡山には岡山文庫というシリーズがある。一覧表を見ただけで、地方文化の底力を見せつけられたような気がする。『岡山の植物』から始まって『岡山の祭と踊り』、『岡山の焼物』、『岡山の古墳』等々。私は『岡山の交通』、『岡山の県政史』、『岡山の路面電車』の3冊しか持っていないが、『岡山の奇人変人』とか『岡山のエスペラント』なども一度読んでみたい気がする。『岡山の智頭線』とか『岡山の備前ばらずし』になると、ちょっとどうか、と思うけれど。
 ともあれ、地方文化は侮ってはいけないということだ。
 ええと……この話に特にオチはない。申し訳ない。

 今日はバッハのカンタータ第100,108,18番を聴いた。

 5月に「近日中になんとかしたい」と言ったきりほったらかしになっているリンク集「絶望的根源的断絶」のかわりに、最近流行している「はてなアンテナ」でたそがれあんてなというのを作ってみた。これが今の私の定期巡回先のほぼすべてである。サイトの作者名を記入していないので使いづらいと思うが、近日中に何とかしたいと思っている。
 なお、ロボットを拒否しているサイトが2つあったが、どちらも他のアンテナに捕捉されていて、特に問題がなさそうなのでリンクをはってある。何か具合の悪いことがあれば言ってほしい。

 コミケにどうやって行こうか迷っていたのだが、今日駄目でもともとのつもりで夜行バスのきっぷを買いに行くと、運良く売り切れていなかったので、それで行くことにした。そういうわけで今回はコミケットトレインはパス。ユーロライナーはそろそろ廃車になりそうだと言われているので、どうしても乗りたい人はこの機会にどうぞ。
 これからカタログのチェックをするので、今日はこれでおしまい。

1.10313(2002/07/16) 断絶の日々

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020716a

 ここ半月ほどネットへの接続に障害が生じている。私は未だにダイヤルアップという原始的な方法でネットに繋いでいるのだが、その接続がしばしば途切れるのだ。私の使っているコンピューターが悪いのか、プロバイダー側に問題があるのかはわからないが、とにかく困ったものだ。困った困ったと言うだけで面倒だから何もしないのだけれど。
 今日は特に不具合が甚だしく、10秒から20秒程度で必ず途切れる。もうブチ切れですよ。これでは定期巡回サイトを見ることができないどころか、メールチェックすらままならない。今書いている文章をアップできるのがいつになるのかも不明だ。
 こういう状況で意欲減退が甚だしいので、今日は簡単にすませることにする。

 昨夜、「たそがれSpringPoint」は開設以来約10ヶ月で20000ヒットを突破した……はずだが、さっき見てみると19967まで減ってしまっていた。カウンターの不調のせいなのか? 不具合は重なるものなのか。
 ともあれ、「ほぼ20000ヒット」を達成したのは間違いない。10000ヒットを突破したのが5月13日だったので、その後の2ヶ月強で10000のアクセスがあったことになる。
 今はたぶん1日あたり200ヒット弱のアクセスがあると思う。ちゃんと確認していないので正確な数字はわからないが、「一日一マリみて」が終わってから漸減傾向にあるようだ。残念だが、自分でもテンションが下がっているのがわかっているので、仕方がないことだと思う。読者は正直だ。
 相変わらず夏バテ気味で読書を小休止しているので、しばらくネタに苦しむ日々が続くことになるだろう。無理矢理更新ペースを維持するために「コミケカタログチェック実況」という企画を考えたが、同人誌に興味がない人には全然面白くないネタだし、今やっている「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」と同じくらい投げやりなものになってしまうだろう。
 だから、そういうことはやらない。
 ……。
 ああ、ネタがない。

 とりあえず、今日だけコミケカタログの話でお茶を濁すことにする。
 今日は、50ページより前と1282ページから後のほぼすべてのページをチェックした。ふつう「即売会カタログをチェックする」と言う場合、サークルカットやリストのあるページをチェックすることを指すので、この言い方はおかしいかもしれないが、全部の記事や広告をきっちり読んだわけではないので「チェックした」としか言いようがない。
 冒頭の米沢代表による「ごあいさつ」は以前に比べると悲壮感が薄れたような気がする。テロ紛いのイベント妨害の危機は去ったわけではないだろうが、昨年の冬コミがそこそこ無事に終了したためかもしれない。その代わりに、とりあえず目先に迫っている問題――北駐車場への病院建設――を取り上げている。しかし{この「しかし」は逆接の接続詞ではない!}よりによって病院とはねぇ。開業したらトラブルの種になりそうだ。
 しかし(こちらは逆接の接続詞だ)世の中悪いことばかりではない。去年の年末に「コミケ狩り」をやった犯人は逮捕されたし、12月にはりんかい線が大崎まで延長開業する。希望をもって頑張れば、きっと明日も日は昇る。
 3ページから始まる諸注意は、いつもとほぼ同じ。男子更衣室が西地区4階から1階に移動になったので、コスプレイヤーには影響が大きいだろうが、私はコスプレをしないのでどうでもいい……のだが、ちょっと気になったので前回のカタログを引っぱり出してみた。
 今回、男子更衣室と救護室が配置されることになる会議棟1階に前回何があったのかはよくわからない。たぶんスタッフの控え室か何かだったのだろう。あるいは空室だったのかもしれない(コミケは毎回必要のない小部屋なども含めて全館借り上げさせられているという)。で、男子更衣室が引っ越した西3ホールにはかわりに同人誌委託コーナーが入り、同人誌委託コーナーが抜けた西4ホールは企業ブースで全スペースを占めている。
 前回カタログ816ページと今回カタログ1200ページ(ページ数が大きく違っているのは冬コミが2日しかないのに対して夏コミが3日あるためだ)を見比べてみると、今回は島が3つ増えている。その隣の島も少し広がっているし、壁際(同人ブースでは壁際は大手サークルの象徴だが、企業ブースでは「その他もろもろ」といった感じだった。東京都交通局とか「復刊ドットコム」などが壁際にある)にも「大手企業」(もちろん一般的な意味での大手企業というわけではない)が配置されている。ブースの番号で比較すると、昨年冬コミではA〜C併せて83、壁際のM(「ミニ」という意味だろうか?)が30だったのに対し、今年の夏コミはA〜D(Dは壁際大手)併せて97、M(一部の壁際が大手用スペースになったため、Cの一部をMに転用している)が38となっている。
 スペースの大きさは均一ではないので数だけ比べたのでは不正確だが、これだけでもコミケがますます企業重視になっていることがわかるだろう。企業ブースに閑古鳥が鳴いていたのは昔の話、いまや大手サークル以上の動員力を誇る企業がいくつもある。今回のカタログの17ページの「企業ブースについて」という文章(参照ページ数の表記を除けば前回カタログの20ページに掲載されている文章と完全に同文)には、

(略)アマチュアの為の表現の場であるはずのコミケットに企業が参加する事を疑問に思う人も多いかも知れません。
 しかし、コミケットではプロとかアマチュアといった立場の差を超えて、表現という多様な可能性をもう一度見直そうと考えています。(略)
 (略)最終日以外は17:00(最終日は16:00)までやっていますので、帰る前に立ち寄ってみてください。
と書いてあるのだが、いろいろな意味で首を傾げざるを得ない。
 もっとも私は企業のコミケへの参加に異議があるわけではない。むしろ、賑やかにになるならもっと盛大に企業の参加を募ってもいいのではないかと思っている。ただ、理念と現実とのずれを隠蔽して苦しい言い訳をするのはどうか、と思うだけだ。今のコミケが企業ブースなしではやっていけないほど追いつめられているという現実をカタログ上で大々的にアピールしてもいいのではないか。
 と、そんな事を考えているうちにそれなりの長さになったので、今日はここまで。次回は「コミケット63の3日間開催について考える」というテーマでお送りする……かどうかは未定。

 いつものバッハを今日も聴いた。

1.10314(2002/07/17) オフ会への勧誘

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p0207

 というわけでオフ会である。トップページのいちばん上に募集要項を掲載しておいたが、もしかしたら見落とした人もいるかもしれないので、再掲しておく。

ペインキラーRD10万ヒット記念
たそがれSpringPoint、求道の果て合同オフ会

日時:7/27(土)夕方
場所:大阪・梅田周辺
参加資格:
1.3サイトの読者(必須、今からでも遅くない)
2.一応、読書系サイトを持っている(厳しいけど)
3.マリみて読者ならベター(流石に非必須)
募集人員:5名程度(先着順、こぢんまりやりたいので)
募集期間:7/17(水)〜7/21(日)

応募は以下の情報を記入の上、
らじ(jmukai@mbox.kyoto-inet.or.jp)まで
 名前:
 Mail:
 URL:
 何かあれば:
 この要項はらじ氏が作成したものだが、以下、勝手に逐行解説を加えることにする。
ペインキラーRD10万ヒット記念
 ペインキラーRDはペインキラー氏が運営するウェブサイトであり、「ミステリ」「SF」「朝松健」の三本柱からなる。なんとなくカテゴリーミステイクっぽい気もするが、気にしてはいけない。なお、10万というのは1万の10倍である。「たそがれSpringPoint」は現在2万ヒットを上回ったり、時には下回ったりしているが、別にそれを記念しているわけではないので、どうだっていいことなのである。
たそがれSpringPoint、求道の果て合同オフ会
 「たそがれSpringPoint」は今あなたが見ているこのサイトのことだ。「いや、今私は『たそがれSpringPoint』を見ていない」と言う人もいるかもしれない。言うのは勝手だが、それは嘘だ。嘘に決まっている。求道の果てはらじ氏のサイト。「ヲタク放談」というのがサイト名だと思っている人も多いと思うが、それはサイト内のコーナーの一つに過ぎない。ちなみに、「たそがれSpringPoint」で「ヲタク放談」に相当するのは「日々の憂鬱」というコーナーだが、未だに私はそれをサイト名と勘違いしている人に出会ったことがない。これも人徳のなせる業である。
 ところで「合同オフ会」というのは、合同で開催するオフ会という意味である。これは、通常オフ会というのは単独のウェブサイトを中心に開催されるものだという含みをもっている。「合同結婚式」も同様。
日時:7/27(土)夕方
 この日時は三者協議により決定された。具体的な決定手続きは非公開となっている(今そう決めた)ので不明である。一説によれば、当初8/10(土)開催案もあったようだが、夏コミと重なるので却下されたらしい。
場所:大阪・梅田周辺
 この辺りは昔、田圃を埋め立てた場所で、「埋田」が転じて「梅田」となったと言われている。「井の頭」が「猪の頭」だったというのとおなじくらい胡散臭い説である。最寄り駅は阪神、阪急、地下鉄の梅田駅である。なお、阪急梅田駅で発行するきっぷでは「梅田」の「田」の字が「□」の中に「×」が入る独特な字体になっている。ところで、初めて大阪へ行った人がJR大阪駅前のタクシー乗り場で「阪急梅田駅まで」と行き先を告げたら難波まで大回りされたという話を聞いたことがあるが、さすがにこれは都市伝説の類だと思われる。
 会場はたぶん飲み屋だと思うが、別に酒が飲める必要はない。いちおう主催者側の一員である私自身、ほとんど飲めないからだ。酒が好きな人も苦手な人も遠慮なく申し込んでほしい。
参加資格:
 ……と書いたら、なかなか厳しい参加資格があるようだ。
1.3サイトの読者(必須、今からでも遅くない)
 まあ、これは当然だろう。オフ会ではサイト関連の話題が中心になるので、全く当該サイトを見たことがないという人は話題についていけないから。「今からでも遅くない」とはいうものの、次々項のからみもあるので各サイトの「マリみて」関係の過去ログを一通り読んでおいてもらったほうがいいと思う。
2.一応、読書系サイトを持っている(厳しいけど)
 あっ、こりゃ厳しいや。さすがにこっちは「今からでも遅くない」とは言えないし。読書系サイトは日々の読書の積み重ねから成るものだから。そもそも「たそがれSpringPoint」は読書系サイトなのだろうか?
 この条件について私なりに解釈してみた。オフ会を開催するという告知がウェブサイトに載ると、なぜだか知らないが厨を引きつけることがあるらしい。掲示板に書き込むどころかサイト管理人にメールを出したこともないのに、突如オフ会に現れて香ばしい話をまくし立てることもあると聞く。それはそれで傍観者の立場では愉快なのだが、自分が当事者ともなると、そうも言ってはいられない。そこで、サイト持ちに限定したのだろうと思う。「読書系」というのは、あまり深く考える必要はないと思われる。なんとなく本について語ることもある、という程度で十分ではないか。
3.マリみて読者ならベター(流石に非必須)
 まあ、これを必須にしてしまうと一般参加者ゼロということになりかねないから、当然だろう。ただ、気になる人は一冊でもいいからオフ会までに読んでおくことが望ましいだろう。
募集人員:5名程度(先着順、こぢんまりやりたいので)
 これは書くまでもないような……。定員オーバーということはまずないだろうから。
募集期間:7/17(水)〜7/21(日)
 会場を予約する都合があるから、募集期間はこれくらいが妥当なところだろう。
応募は以下の情報を記入の上、
で、この行にどのような解説をつけろ、と?
らじ(jmukai@mbox.kyoto-inet.or.jp)まで
 勝手に他人のメールアドレスをさらしていいものだろうか、とちょっと気にかかるのだが、どうせ求道の果てを見たら書いてあることなので遠慮しないことにする。なお、私のメールアドレス(noname@imac.to)あてに申し込まれても受け付けられないので注意していただきたい。
名前:
 別に本名である必要はないと思う。ハンドルで結構。「タクシーの運転手はいつも180円持っています。なぜでしょう?」というなぞなぞにも出てくる。意味がわからない人はパパかママにきいてみよう。ニクソンショックは遠くなりにけり。
URL:
 私は「URI」という表記を好んで使うが、全然普及しないなぁ。
何かあれば:
 必須項目ではないと思うが、何か小咄の一つでも書いておくと場の雰囲気が和やかになるかもしれない。
「ふとんがふっとんだ」
「そんなバナナ!」
 ぷ、ぷふふっ。
 これで要項の解説は終わりだが、果たして参加希望者がいるのかどうか心配だ。「3サイト全部見ているサイト持ち」という条件よりも、会場が大阪というほうがネックになりそうな気がする。できれば、この機会に今まで私が知らなかったサイトの人とも交流したい(もちろん参加申し込みがあれば、当該サイトを見に行くつもりだ)と思っているのだが……。まあ、仮に一般参加者がいなくてもペインキラー氏とじかに話ができるというのは嬉しいから、別に構わないといえば構わないのだが。
 そういえば、オフ会なんて4ヶ月ぶりだ。前回一般人無双(現「バーチャルネット一般人無双」)10万ヒット記念オフ会だった。ああ、あそこにはご無沙汰しているなぁ。
 その前は去年末にLIVIN' IN A PARADISEの月島もんじゃ焼きオフに参加したが、こっちもここ数ヶ月縁遠くなっている。どうも私はオフ会のあと当該サイトから遠ざかっていく傾向があるようだ。この伝でいけば、今度のオフ会のあとは「たそがれSpringPoint」にもあまり足を向けなくなるかもしれない。まあ、これも縁、さよならだけが人生だ。

 ただ、風のために。5経由で「時を駆けるおじさんが時間旅行の可能性を主張 するためのたったひとつの冴えたやり方」を読む。レジュメだけで詳しい内容はわからないが、「過去を変えることはできないが過去に影響することは出来る」という言い回しはなかなか興味深い。「影響を与える」ということは「影響を与える前」と「影響を与えた後」というのがあるはずだが、その辺りをどのように矛盾なしに説明したのだろうか、とか。
 それにしても、よくこんなページを見つけてきたものだと感心した。

 今日は内容がないわりに分量だけは多いのでこの辺でおしまいにする。いちおう今日もバッハを聴いた。

1.10315(2002/07/18) ヘンペルのカラスはたそがれにカァと鳴く

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020718a

 白いカラスのニュースにちなんで見出しをつけたが、特に何も書くことはない。

 最近、読書ペースが落ちているが、「読書系サイト」としてのアリバイづくりのために今日読み終えた本(何日かかったのだろう? いつ買った本なのか、もう覚えていない)の感想文を書いておく。『お話・数学基礎論 数学では必ず正しい結論に到達できるか?』(八杉満利子・林晋/講談社ブルーバックス)である。
 がちがちの文系人間である私も、高校生の頃には人並みに科学に関心があった。学校の図書館に置いてあるブルーバックスをよく読んだものだ。SFファンの誰もが通る道だ。だが、私はSFファンにはならなかった。どこでどう道を間違えたのだろうか?
 さて、『お話・数学基礎論』はタイトルどおり数学基礎論のお話を扱った本だが、この本のテーマはもう一つある。それは京都の観光名所案内である。数学基礎論と京都の観光名所の間にどのような関係があるのか、と訝る人も多いだろうが、実は……何の関係もない。たぶん書きたかったから書いた、ということなのだろう。
 数学基礎論という難しそうな話題(というか本当に難しいのだが)を予備知識のない読者にもわかりやすく親しめるように扱おうとした著者たちの努力は高く評価すべきだろうが、残念ながら親しみやすさよりも痛々しさのほうが目につく本となってしまった感がある。また、内容のレベルを思いっきり下げている(対角線論法すら紹介していない!)ので、数学基礎論の入門書としては物足りない。これが現代新書ならさほど違和感はないのだが……。
 だが、まったく新しい発見がなかったわけではない。たとえば144ページに数学的帰納法を用いて「人はみな同じ顔をしている」ということを「証明」しているのだが、これはなかなか面白かった。

 求道の果てを見ると、早くもオフ会参加希望者が現れたそうだ。ちょっと意外だ。

 今日からバッハ・エディション VOL.16 室内楽曲集に取りかかる。全14枚。『音楽の捧げもの』は室内楽のうちに入るのだろうか、と疑問に感じたりするわけだが、それはそれとして今日は『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ』の1枚目を聴いた。名曲なのだが、ヴァイオリンの高音が耳に障るので、70分近く続けて聴くとちょっとしんどい。

 今日はやや分量控えめにした。これからコミケカタログのチェック。

1.10316(2002/07/19) 金曜の夜に雨が降ると

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020719a

 金曜の夜に雨が降ると、私はある殺人犯に出会った夜のことを思い出す。その夜も今日と同じようにしとしとと雨が降っていた。
 もう何年も前のことだ。私が当時通っていた高校から家に帰ると、父が珍しく一人で酒を飲んでいた。父は小学校の校長で、つき合いで酒を飲むことは多かったが、自宅ではほとんど酒を飲まなかった。
 午後8時過ぎ、父の勤務校を所管する教育委員会から電話で通報が入った。一年生の女の子が夜になっても家に戻らず、親が警察に捜索願を出した、という話だった。警察が動いているのに学校の最高責任者が家でのんびりと酒を飲んでいていいはずがない。だが、飲酒運転をするわけにはいかない。そこで私が車を運転することになった。
 学校のほうには既に近くに住む教頭が詰めており、教師たちにも召集をかけているということだったので、まず行方不明となった少女が住んでいた公営アパートに向かった。しとしとと降り続ける雨の中、私は助手席の父の指示に従って車を走らせた。もう一度同じアパートに行ってみろと言われても、たぶん自力ではたどり着けないだろう。それほど昔の話だ。
 昔のことなのだが、それでもアパートの佇まいは今でもよく覚えている。未舗装の駐車場に車を乗り入れると、いくつもの懐中電灯がせわしなく動いているのが見えた。見知った人影を認めた父が助手席の窓を開けると、雨粒が車内に侵入した。
 少女と同じアパートに住む町内会の役員が車窓から中を覗き込んだ。眼鏡をかけた中年男性だった。簡単な挨拶を交わしてから、状況の説明を始めた。アパートの中や周囲は一通り探したこと。本人の姿はもとより、所持品も見あたらなかったこと。町内会で動員をかけて班体制を組み、町並みの外れや川向こうなど手分けして捜索する予定だということ。父は町内会役員の話を一通り聞いてから、私に学校へ向かうように指示した。そろそろ教師たちが参集してる頃なので、これから臨時職員会議を開催するという。
 小学校に到着したのは午後9時半頃だったと思う。私は学校とは何の関係もない人間なので、父を玄関先で降ろしてから駐車場の片隅に車をとめて、そのまま待機した。夜は更けていったが、駐車場には頻繁に車が出入りしていた。なかにはパトカーもあったと思う。職員室から漏れるあかりだけでははっきりと確認できなかったけれど。
 窓をずっと閉め切った車内でじっと時が過ぎるのを待っていた。何も起こらない。退屈だ。今頃山狩りをやっているのだろうか、などと想像してみるが、この辺りのことはほとんど知らないので具体的なイメージは沸いてこなかった。
 午前2時、ようやく父が校舎から出てきた。職員会議はずっと前に終わっていて、警察や関係機関との連絡のために数人の教職員だけが校内に残っていたが、さすがに今晩も事態に進展はないだろうということになり、ひとまず撤収することになったらしい。私はすっかり眠くなっていた。本当なら今頃自分の部屋で暖かい布団にくるまれて、すやすやと眠っていたはずなのに。だが、父に文句を言っても始まらない。私も父も無言のまま帰宅した。
 翌朝、私は寝坊した。
 父が、行方不明になった少女の顔写真を印刷したビラを持って帰ってきた。人海戦術の捜索活動でもまったく手がかりが掴めず、明日はそのビラを配って目撃証言を求めることになったのだ、という。もっとも、どうやら警察はすでに何か有力情報を入手しているらしい、と父は言った。私は少女の写真を見た。粗悪な紙に拡大して印刷されたため、かなり輪郭がぼやけていた。一目で「ああ、もうこの子は生きてはいまい」と思った。ぼやけた白黒の顔写真からでも、その少女がある種の嗜好をもった大人の関心を大いにそそる顔立ちであることが容易に見てとれたからだ。むろん、こんなのは推理でもなんでもない、ただの当てずっぽうだ。だが、この当てずっぽうは当たっていた。
 ここまでの記述から、少女を殺した犯人が彼女と同じアパートに住む町内会役員だということはわかるだろう。彼は近所に住む美少女に以前から目をつけていて、その日衝動を抑えきれなくなり「キスしようとしたら暴れられたので」殺したのだと供述した。犯行の翌々日、日曜日に逮捕され、少女の遺体は犯人の部屋の冷蔵庫から発見された。
 月曜日、父は全校集会で「命の尊さについて」というテーマで生徒に向かって語りかけた。その光景はNHKの7時のニュースで全国放映されたそうだが、私は見ていない。
 数日後、母が近所の老婦人に道で出会うと、「お祝いもせずに申し訳ない」といきなり謝られて戸惑ったという。どういうことかと問い返すと、老婦人曰く「……さんのご主人がこの前テレビに出たでしょ? そのお祝いをしようと思っていたのに、ついのばしのばしにして本当に申し訳ない……。どうもおめでとう」

 『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ』の2枚目を聴いた。

1.10317(2002/07/20) 東海南中学校

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207b.html#p020720a

 原子力発電所で有名な茨城県東海村には村立東海南中学校がある。「東海中学校」というからには東海中学校よりも南にあるのだろうと思うが、地図で確認したわけではないので何とも言えない。品川駅より南に位置する「品川駅」があるくらいだから、油断してはいけないのだ。
 ところで、日本にはもう一つ「東海南中学校」がある。それは和歌山県海南市立東海南中学校である。両校は漢字で書けば全く同じだが、読み方はたぶん違っているはずだ。・みなみ」で、後者は「ひがし・かいなん」と読むのだと思う。これも未確認だが。
 私が両校の存在を知ったのは昨日のことだった。それまでも私はもちろん茨城県に東海村という村があることは知っていたし、和歌山県に海南市という市があることも知っていた。海南市は一般には東海村ほど有名ではないが、鉄道に関心のある人なら「昔、野上電鉄が走っていたところ」という程度の知識はあるだろう。
 さて、昨日東海南中学校関連で知ったことは、主に次の三つである。

  1. 東海村には東海南中学校がある。
  2. 海南市には東海南中学校がある。
  3. 日本には「東海南中学校」という名前の学校が(少なくとも)二つある。
 私は1と2をインターネットで知った。3は1と2からの論理的帰結(厳密にいえば、「東海村と海南市はどちらも日本にある」という別の前提が必要だが)なので、特に情報源はない。
 たまたま私は1と2をほぼ同時に知ったので、自然に3へと思い至ったのだが、もしそうでなかったとしたら、3を導き出すのに十分な知識を持ち合わせていながら、3そのものには気づいていない、という事態があり得ただろう。では、その場合、私は3を知っているのか、それとも知らないのか?
 仮定の話を持ち出すと、ちょっとわかりにくいかもしれないので、別の例を出そう。
  1. 法水麟太郎は弁護士である。
  2. ヘンリー・メリヴェル卿は弁護士である。
  3. 法水麟太郎とヘンリー・メリヴェル卿は同業者である。
 私は1も2も中学生の頃には既に知っていた。だが、3に気づいたのはそれから10年近く経ってからのことだった。ミステリ関係のイベントでミステリにちなんだクイズを作成している最中に"発見"したのだ。では、この"発見"以前には、私は3を知らなかったのか?
 ある事に気づくということは、その事について知るということである。そう考えれば、「私は3に気づく前にはその事を知らなかった」と言ってよいだろう。では、「気づく」の反対は何か? 「忘れる」か? すると「私は3を忘れたあとはその事を知らなくなる」と言うこともできそうだ。しかし、このような考えはどこかおかしくないだろうか?
 1及び2のような知識は、自分で気づくことによって得られるものではない(気づくことが可能な状況は想定できるかもしれないが、かなり不自然な状況設定が必要となるだろう。ここでは、そのような架空の状況は無視する)。誰かに教えてもらうなり、資料や文献に当たって調べるなり、何らかの方法で入手する知識だ。それらの知識は、覚えている間は知っていると言ってよいが、二度と思い出せないような仕方で忘れてしまったら、もはや知識は失われてしまったものと考えるしかない。
 だが、3はどうだろう。これも忘れてしまえば「知らなくなる」のだろうか? だが、1と2さえあれば、もう一度3へと至ることは可能ではないか。そして、それは「思い出す」というのとは別のことだろう。
 もし、3を忘れてしまったあとでも3を知っているということができるのなら、3に気づく前にも3を知っていたのだといえないだろうか。もちろん1と2の両方を知るよりも前までは遡ることはできないのだが。
 どうも考えがうまくまとまらない。
 私の考えには何かおかしなところがある。そもそも「二度と思い出せないような仕方で忘れる」とはどういうことか? これがはっきりしないと、話が前に進まない。
 ある事柄を忘れているのと、単に意識していない事との違いは何か。たとえば、私はほんの30秒前まで「日本の首都は東京である」ということを意識していなかったが、別に忘れていたわけではない。両者の違いは「日本の首都はどこ?」と訊かれたときに正しく返事ができるかどうかだろうか? いや、日本の首都が東京であることを忘れていたが、質問をきっかけにして思い出した、という場合もあるだろう。
 忘却と無意識には明確な差はなく、意識にのぼらせることがどの程度容易かによってのみ区別される、というのはどうか? これが正しいなら、忘れているのと覚えているのとに大差はなく、どちらも知っているといって差し支えない。そう、だから私は「二度と思い出せないような仕方で忘れる」という奇妙な言い回しを使ったのだ。ごくふつうに「忘れている」という事態は、知っていた事柄を「知らなくなる」という事態ではないのだから。
 ここで「気づく」に話を戻す。「それ以前には決して気づくことがあり得なかったような仕方で気づく」という奇妙な言い回しが成立する場合。それは、たとえば冒頭で紹介した「東海南中学校」の事例が該当する。私は1と2を知った瞬間に3に気づいたのだが、実際に私が3に気づいたよりも前に私は3を知ることはできなかった(もちろん1と2の知識を実際よりも前に入手していれば、話は別だが)。よって、この場合、私は実際に気づいたときより前には3を知らなかったといえる。
 それに対して、「弁護士」の事例では、私は1と2の知識の両方が揃った瞬間に、もし自分の知識を適切につなぎ合わせていたならば、3にも気づいていただろう。実際にはそうではなかったが。だから、実際に3を知ったよりも前に私は3を知っていたのだ。
 ところどころ論理が飛躍しているが、ここまでに考えたことの暫定的な結論はこうだ。人はまだ気づいていないことでも「知っている」と言える場合がある。
 上の二つの例では、ともに3は1と2から論理的に出てくるが、1と2は自分で気づくのとは別の仕方で知識を得る必要があった。では、1や2に該当する知識が3と同様なものであったならどうか。「気づいてはいないが、知ってはいた」と言える時がさかに遡ることになるだろう。うまく工夫すれば、「生まれる前から知っていた」と言える場合を考え出すことができるかもしれない。
 「あなたは、Aという事柄を知っている。まだ自分では気づいていないけれども、その知識はずっと前からあなたの内にあった。幼い頃、生まれた時……いいえ、さらにその前から!」
 かくして、東海南中学校の話がいつの間にか前世の話になってしまった。思いつきだけで、構成をちゃんと考えずに書きとばすと変な文章になるという見本だ。
 今日はそろそろ時間切れなので、これでおしまい。