1.0228〜1.0232 日々の憂鬱〜2002年5月第1週〜


1.10228(2002/05/01) 「純探偵小説」とは何か?

 今日はさくっと短くまとめる……ことができればいいな。

 昨日の文章は時間切れのため中途半端な形で終わっていた。今日は少し補足しておく。
 『幻影城』の冒頭論文「探偵小説の定義と類別」ではただの一度も「本格探偵小説」という言葉は用いられていない。にもかかわらず、『新・本格推理02』(鮎川哲也・監修/二階堂黎人・編/光文社文庫)の巻末で編者の二階堂氏は
 江戸川乱歩は、随筆集『幻影城』に収録された「探偵小説の定義と類別」の中で、探偵小説(=本格推理小説)を次のように定義しました。
 探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。
 この「探偵小説の定義と類別」その他の論考は、時を経ても古くなるどころか、ますます光り輝いて重要度を増しています。本格推理作家を目指す人にとっては必読の研究ですので、ざひ本を探して熟読してください。
と書いている。実は、私はこの文章を最初に読んだときには何も疑問を感じなかった。『幻影城』を最後に読んだのはもう10年近く前のことだが、「探偵小説の定義と類別」で「本格探偵小説」にかわる言葉として「純探偵小説」というあまりなじみのない言葉が用いられていたことを覚えていたからである。
 その後、「本格」という言葉の用例を調べてみよう、ということを思いついて(思いついただけでまだ全然調べていないが)とりあえず手元にある講談社江戸川乱歩推理文庫版の『幻影城』を開いてみた。すると、「探偵小説の定義と類別」には
 推理の要素の乏しい心理スリラーや、倒叙探偵小説でない単なる犯罪小説は、探偵小説ではないのであるが、英米ではこれを「ミステリー」と総称し、広義の探偵小説として取扱っている。日本ではこのほかに空想科学小説、怪奇小説、異境探検小説など多くのものを広義の探偵小説に含めている。ここには、そういう広義のものでなく、純探偵小説内部の類別について語るわけである。
という記述があった。私の記憶力もまんざらではない。
 「探偵小説の定義と類別」に続く「二つの比較論――探偵小説の本質とその範囲」ではじめて「本格探偵小説」という言葉が現れる。
 一昔前には、英米の探偵小説は所謂本格探偵小説一本槍で、それと対照すると、日本探偵小説の多様性が、ひどく目立ったものであるが、今度の戦争の少し前頃から、英米の探偵小説界も、急激に多様性を持ちはじめた。(略)
  1. 純探偵小説(ピュアという字を使っている。こんな区別の仕方は、十数年前までは、英米には全くなかったことである。日本の本格探偵小説に当る。謎解き論理の智的遊戯に興味の中心を置く、ポー、ドイル以下クイーン、カー、新しい所ではイネス、ブレイクに至るまでの正系探偵小説である)
  2. ハードボイルド派(略)
  3. 心理サスペンス派(略)
 「探偵小説の定義と類別」で定義されている「探偵小説」が「純探偵小説」であり、かつ、「純探偵小説」が「本格探偵小説」と同じならば、結局、「探偵小説の定義と類別」では「本格探偵小説」の定義を行っているということになる。だが、この解釈には難点がある。すでに昨日述べたように、乱歩はアメリカのハードボイルドやアイルズの『殺意』をも視野にいれて探偵小説の定義を行っているからだ。これらの小説が「本格探偵小説」に含まれるとは考えにくい。いや、それどころか「二つの比較論」では「純探偵小説」と「ハードボイルド派」を並記しているではないか。
 う〜む。
 しばらく腕組みをして考えた。
 あまり自信はないのだが、次のような解釈が考えられる。「探偵小説の定義と類別」は「A 探偵小説の定義」と「B 探偵小説の類別」からなるが、「純探偵小説」という言葉はBで一度使われるだけである。よって、Aが「純探偵小説」の定義だと考える必要はない。では、何の定義か? それは「英米での広義の探偵小説」である。Bの末尾に次のような文章がある。
 以上は探偵小説の内部の類別であるが、初めにも書いた通り、このほかに広義の探偵小説、即ち探偵小説類縁の種々の小説形式がある。(略)私は改めて、最近の「改造」に、英米での広義の探偵小説と、日本のそれとを比較した小文を書いた。次に収めた「二つの比較論」の前半がそれである。
 乱歩は「探偵小説」という言葉の濫用を気にしており、探偵小説共通の特徴を抽出し、定義の形にまとめることによって、用語法の混乱を鎮めようとしたのではないか。そして、「英米での広義の探偵小説」を概ねカヴァーする定義を考案し(「探偵小説の定義と類別 A」)、その範囲におさまらない小説(空想科学小説など)については探偵小説としての本質を論じるに値しないので門前払いしたうえで、まず「純探偵小説」の類別について論述し(「探偵小説の定義と類別 B」)、続いて「英米での広義の探偵小説」の類別(「二つの比較論」)を配置した、と考えられる。
 この解釈にも若干疑問が残る。一つは「倒叙探偵小説」という項目が「探偵小説の定義と類別 B」と「二つの比較論」の両方に出てくるが、これは「純探偵小説」の細目なのか、それとも「純探偵小説」と並んで「英米での広義の探偵小説」の一環をなすものかが不明であるということ。もう一つは、結局「純探偵小説」もしくは「本格探偵小説」に明確な定義が与えられないままであるということ。
 また、上記の解釈とは別に、もう一つ不思議なことがある。それは、なぜ乱歩は「探偵小説の定義と類別」で「本格探偵小説」という言葉を全く使わず、「二つの比較論」では「所謂本格探偵小説」という書き方をしたのかということだ。または、このことと表裏一体なのだが、なぜ「純探偵小説」などという用語を用いたのか、という疑問もある。「本格探偵小説」という言葉を意図的に避けている、と考えるのは邪推だろうか?
 同じ『幻影城』の中でも各論にあたる文章、たとえば「英米探偵小説界の展望」「イギリス新本格派の諸作」「英米探偵小説評論界の現状」などでは、ごく自然に「本格探偵小説」という言葉が用いられている。今、ぱらぱらと本をめくってみただけで未確認なのだが、「純探偵小説」という言葉は見あたらなかった。(これは私の見落としだった。「純探偵小説」という言葉は『幻影城』全体を通じて結構頻繁に使われている)
 このことは一体何を示しているのだろうか? 具体的な作品に即して、その内容について語る際には、「本格探偵小説」という言葉を使うが、より原理的・抽象的な場では「本格探偵小説」では問題ありと考え、「純探偵小説」という一般にはあまり使われていない言葉で議論の厳密さを確保しようとしたのか? この想像が正しいとすれば、昭和20年代半ばにすでに「本格探偵小説」という言葉に手垢がついていて、理論的考察には不向きだったということになる。
 ちょっと結論を急ぎすぎたようだ。たかだか一冊の本のごく最初の部分をとばし読みしただけで、私の持論を大乱歩に押しつけてはいけない。このような事はもっと多くの文献を読んでから主張すべきだろう。だが、私にはそれだけの時間がなく、資料を収集する根気もない。後は任せた(誰に?)。

 また長くなってしまった……。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」はパス。

1.10229(2002/05/02) 今日は何もやる気がないので

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だけ書いておく。

 さて、昨日からカンタータを聴いている。カンタータは漢字で書けば「交声曲」だそうで、ちょうど「交響曲」と対になっているのだが、あまりいい訳語ではない。独唱カンタータもあるからだ。バッハのカンタータの場合、共通の特徴は、多楽章で構成されていることと、器楽伴奏を伴うということくらいか。
 ブリリアント版バッハ・エディションは過去の録音の寄せ集めだが、教会カンタータは1999年から2000年にかけての新録音だ。教会カンタータの全曲録音など数種類しかないし、2000年のバッハ没後250周年記念に出たいくつかの全集で音源が押さえられてしまい確保できなかったのかもしれない。ともあれ、約200曲もある教会カンタータを足かけ2年で録音してしまうのは、同一団体による演奏ではないにしても、なかなか凄いことだと思う。
 昨日は第80番、第82番、第61番を聴いた。今日は第16番、第170番、第133番だ。第80番「われらの神は堅き砦」は有名だが、後はどうだろう? 私にはよくわからない。

1.10230(2002/05/03) さらにやる気が全く出ないので

 散漫な雑文でお茶を濁すことにする。

 このように書くと、普段の私の文章は散漫な雑文ではなく、博識と洞察に裏打ちされた簡潔にして要を得た内容豊かで筆者の高潔な人間性が滲み出た稀代の名文であり前代未聞空前絶後にして読者諸氏にあられてはよく未読しかつ必要に応じて朗読暗唱の方法を通じて自らの血肉と為すよう努力されたい、と言っているかのようだが、もちろんそんなことは一言も書いていない。もしそのような誤読をしているなら、この機会に考えを改めていただきたいものだ。

 「本格」を巡る話題はまだ続いているが、ネット上のあちこちに関連する文章があり、追いかけていくのが大変だ。私はいい加減飽きてきたところなので、いちいち言及するのはやめておく。あまりこの話題に深入りしすぎると、知識と教養のなさが丸出しになるので、そろそろ手を引きたいという気もしている。

 「哲学往復書簡2002」(東浩紀・笠井潔)がいろいろなところで話題になっているので、一通り読んでみた。全く話が噛み合っていないのが面白い。ところで、なぜタイトルに「哲学」の語が入っているのだろうか?(これは言うまでもなく修辞疑問文。この「往復書簡」は全然哲学的ではないと思う)

 根拠がないということを「無根拠性」という。では、根拠があるということは「根拠性」または「有根拠性」か。だが、どちらも見たことがない。

 一般には非公開なのでリンクをはれない某氏のサイトで最近『水月』について熱く語っている。『水月』といっても連珠の基本珠型24種のうちの間接4号のことではない。この一文を書くために本棚の奥を引っかき回した。知ったかぶりをするのも大変だ。
 で、某氏の『水月』評の一部を引用してみる。基本的には原文通りだが、一部文字色を背景色と同化させた(原文では太字)。
ネットの他所の評判を読んでいて気になったんですが、彼らは本当にあのゲームで一番に萌えを感じるんですか?
私とは、まるで違う形で良作判定をしている方が多いみたいで、とても気になります。私は一番に、世界観をかなり広く取ったノベル型のシナリオがラストに向かっていくうちに、どんどん束ね合わされラストに向かって収束していくのとにかくが面白くて良作だと判定しましたけど…。

なんというか、「彼らはまた、条件反射で萌えてませんか?」と思うんですが、どうなんでしょう。
ええ、彼らの言い分を読んでいるとさ、はじるす萌えと同列で萌えていると思うんですよ。「美少女の放尿に萌え」というキーワードとかで。
どこのサイトだったか、ご丁寧に上記の「美少女の放尿に萌え」を伏字(透明色)にしていたりするから、まずかなりの確率で間違いが無いのではないかと。
なんというかさ、「美少女の放尿」は、あの展開から行くとちょっとした「冗談・ユーモア・サービス」でしかないと思うんですけど、そこを伏字にして良作判定!とか書かれると、お前らなーと、正直かなり嫌なんですよね。
これは、幼馴染の巫女さんが犬耳っぽいのに萌えている人にたいしても同じです。メイドの雪さん萌えも同じ。雪さんは萌えるけど、それ以上にさまざまなことを語る知性的なメイドさんぶりが萌えるのであって、ときどき寝ぼけたりするところに萌えているのは変ではないかと(;´д`)
どうも、ネットの評判を読んでいると何箇所かについては、『二重影』の面白さを語るのに「イルとスイのラストが泣けた」というのと同じくらいに、感性のベクトルが違うものを感じてます。つーか、違いすぎる。『Canvas』で萌えを感じるのは正しいと思うが、『水月』は絶対に違うと思うのよ。
ちょっと飛躍しすぎた例えかもしれないけど、『SenseOff』をやって「ヒロインが可愛くて、激しく萌え萌え〜で面白かった♪」と言われるのと同じくらいの違和感ですよ、私には。
まあ、『Sense Off』も珠季なんかは萌え萌えキャラだったけど、それでも基本的にはシナリオのほうに目がいったと思うんですが。

…まあ、作品が売れるのが一番正しいことだから、それはそれで口を挟むものではないとも思うんですけどね、ちょっとだけ書きたくなりましたんで。
 これ以外にも某氏はいろいろ書いていて、それを読むと私も買おうかなという気になってくる。それにしても"萌え"は奥が深い。私のような素人が気軽に発言していい話題ではない。

 じゃあ、ミステリについては私のような素人が気軽に発言していい話題なのか? 本当はそうではないはずだが……私が馬鹿な事を書いても糺す人がいないから、つい増長してしまうのだ。甘えてしまってはいかんよな、と思う今日このごろ。

 とか言いながらミステリの話。「MISCELLANEOUS WRITINGS」5/1付の文章から第3パラグラフについて(第1パラグラフについては、上記の理由により特にコメントをつけない)。「Xは5月1日正午に大阪にいた」という記述からXが同日同刻の東京での殺人事件の犯人ではないことを導くのが「ミステリの約束事」であり、一種の論理の飛躍であるというのがフク氏の主張である。このあと論理の飛躍をどこまで認めるか、という話になっていくので、そのきっかけとなる部分だけを取り出してあれこれ言っても仕方ないのだが、私の考えではフク氏が「ミステリの約束事」と表現している事柄はむしろ小説一般に妥当することであり、さらに大風呂敷を広げれば、人間が与えられた情報を解釈し推論するための基本的な原則ではないかと思う。
 推論の材料はその場その場で与えられるデータだけではなく、推論する者が予め持っている知識も推論の材料となる。ただし、その場で与えられるデータが予め持っている知識と食い違う場合には、どちらを選択すべきか検討してみる必要があり、単純に事前の情報を適用するわけにはいかない。だからといって事前の情報のすべてを吟味する必要がある、とか、その場で与えられたデータ以外には何も推論に用いてはならないということではない。
 「予め持っている知識」や「事前の情報」と表現した箇所は「先入観」に置き換えてもよい。我々は先入観なしに推論や判断を行うことができない。それは「論理の飛躍」ではなく、論理的思考のいわば前提とも言える。

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日はカンタータ第97,132,72番を聴いた。この並べ方に何か意味はあるのだろうか? 私は教会暦のことを知らないのでよくわからない。一覧表を見ると教会カンタータだけでCD60枚もある。バッハの教会カンタータは今のこっている約200曲のほかに散逸してしまった曲が100曲ほどあったらしいが、よくもそれだけ作曲したものだ。

1.10231(2002/05/04) やがて消え去る駅へ

 南海電鉄和歌山港線の和歌山港〜水軒間は今月25日をもって廃止される。あと3週間の命だ。今日は、この路線の最期を看取るために水軒へ出かけた。
 この区間は日本で定期旅客営業を行っている鉄道のうち、もっとも運転本数が少ない。9時台と15時台に和歌山市〜水軒間を各1往復するだけだ。一日あたり平均乗降客数の正確な値は知らないが、10人未満であることは間違いない。だが、今日私が乗った午前の電車は和歌山市駅から30人以上の乗客があり、和歌山港駅からはさらに増えた。午後の電車はさらに乗客が多かったものと思われる。
 水軒駅に電車が到着しても、カメラを持っていないので何もすることがない。とりあえず線路に降り立ち、電車の車体を眺めてから再び車中に戻った。折り返し、和歌山市駅へ。一般の人にとっては無意味に見える行為だが、その電車の乗客のほとんどは私と同じ行動をとった。
 その後、南海線で大阪に出た。難波駅で下車して、すぐ近くにある難波センタービルへと向かう。そのビルには無印良品が入っていて、4〜6階がリブロ難波店となっている。去年の11月か12月にできた書店だが、業績不振のため今月いっぱいで閉店することになっている。消えゆく駅の次に訪れるにはふさわしい場所だ。記念に『ななか6/17』(7)(八神健/少年チャンピオン・コミックス)を買った。
 その後、日本橋のレコード店でCDを3組11枚買った。面倒なのでタイトル等は省略。
 さらに堺筋界隈を徘徊した。目的は、『水月』(F&C)だ。昨日引用した某氏の熱い思いに打たれたのだ。先週来たときには全く買う気はなかったのだが……。一通りパソゲーショップを見て回り、いちばん安かったところで買った。テレカ付きで確か6000円くらいだった……はずだが、なぜか1万円以上使っていた。確認してみると、ショップでもらった紙袋には『はじめてのおいしゃさん』(ZERO)も入っていた。不思議だ。全くもって不思議なことだ。
 ゲームは2本とも未開封だが、おまけでもらった『Ethos(エートス)〜天使(ゆき)の降る場所〜』(forte)の体験版付きミニガイドブックは開いてみた。F&CやZEROに比べるとforteというのはずっとマイナーで、これまでにどのようなゲームを出しているのか私は全然知らないのだが、ガイドブックを開いた瞬間、奇妙な既視感にとらわれた。まだ買うと決めたわけではないが、いちおう発売日をチェックしておくことにしようと思う。

 そんなこんなで家に帰り着いたのは午後11時前。今、バッハのカンタータ第113,42番のCDを聴いているところ。どちらも全く聞き覚えがない。

1.10232(2002/05/05) ある感想文のためのメモ

 今日は久しぶりに読書感想文を書くつもりだったが、予定していた本を最後まで読み終えることができなかった。だがほかに取り上げる話題がない。そこで、その本に関連した事柄をいくつか書き留めておく。以下の各項目を読めば、私が今日読み終えることができなかった本とは何かが、わかる人にはわかることだろう。

 その1。「満州」と「満洲」
 中学生の頃、学校の物置を掃除していて、昔の地球儀を見つけた。朝鮮半島が日本領になっていて、その少し上には「満洲国」と書かれていたから、昭和初期のものだと思う。私の通っていた学校はもちろん新制中学だが、沿革を辿ると戦前の高等小学校に行き着く。その頃教材として使われていた地球儀が処分されないまま物置の奥に眠っていたのだろう。
 現在、この地方は「旧満州(中国東北部)」などと呼ばれる。「旧ソ連」とか「旧東ドイツ」なら話はわかるが、たかだか十数年の傀儡国家の崩壊とともに、地名にまで「旧」をつける必要があるのだろうか? そんな疑問を抱くこともある。
 それはともかく、「満州」と「満洲」のどちらが正しい表記なのか、ずっと気になっている。戦後の漢字制限で「洲」の字が使えなくなったため「州」で代用しているのだとすれば、「満洲」のほうが正しいということになる。だが、もともとこの地名に「満洲」と「満州」の二通りの表記があったのかもしれない。調べればわかることだが、わざわざ図書館まで行くのも面倒なので、まだ調べていない。ご存じの方は掲示板に書き込んでいただけるとありがたい。(その後、「求道の果て」のらじ氏に掲示板で戦前の新聞や紙幣について教えていただいた。ありがたいことである)

 その2。「狭軌」と「広軌」
 満洲(以下、こちらの表記で統一する)の鉄道の軌間は基本的に1435mmだった。有名な特急「あじあ号」は日本の標準的な軌間である1067mmでは決して出すことができないスピードで大陸を駆け抜けた。では、満洲の鉄路はすべて1435mmの軌間で統一されていたのか? たぶんそんなことはあるまい。日本より前にこの地に鉄道を敷設していたロシアの標準的な軌間は1524mm(資料によっては1520mm。ロシアと日本では軌間のはかり方が違うので二通りの数字があるのだという説明をどこかで見たことがあるが、具体的な事は覚えていない)であり、そのすべてが改軌されたわけではないだろう。
 さて、当時の日本では1067mm軌のことを「狭軌」と呼び、1435mm軌のことを「広軌」と呼んでいた。今でもこの呼び方が完全になくなってしまったわけではない。だが、最近は1435mm軌のことを「標準軌」と呼ぶことが多くなっている(1067mm軌を「狭軌」と呼ぶのは今でも同じ)。世界を見回すと、この軌間が標準であり、それより広い軌間を「広軌」、狭い軌間を「狭軌」と呼ぶのが普通だからだ。
 では、戦前の満洲ではどうだったのだろうか? 日本国内と同じく1435mm軌を「広軌」と呼んだのだろうか? それとも「広軌」という言葉を1524mm軌のためにとっておき、1435mmのほうを「狭軌」と呼んだのだろうか? あるいは別の呼び方だったのだろうか? これも調べればいいのだが、そこいらの公立図書館程度ではわかるかどうか……。

 その3。「小城魚太郎」
 私は小栗虫太郎ファンではないが、それでも「小城魚太郎」が彼の生んだ架空の探偵作家の名前だということくらいは知っている。代表作『黒死館殺人事件』にでは確か二回ほど名前が出てきたと記憶している。だが、小城魚太郎本人が登場して活躍する小説があるのかどうかは知らない。
 ところで、この名前は別のところでも登場することがある。たとえば昭和30年代の旧「宝石」誌上とか、昭和50年代の「蒼鴉城」誌上とか。小栗虫太郎は昭和21年に世を去っているので、どちらも彼ではない。当然の事ながら、旧「宝石」の小城魚太郎(中島河太郎)と「蒼鴉城」の小城魚太郎(巽昌章)も別人である。

 今日も教会カンタータの続き。第33,56,37番だ。バッハの作品にはBWV番号という通し番号がついているが、モーツァルトのケッヘル番号と違ってジャンル別になっていて、最初にカンタータが配置されている。よってカンタータx番はBWVxでもある。
 どうでもいい事を書いてしまった。今日も調子が悪い。

1.0228〜1.02 日々の憂鬱〜2002年5月第1週〜