1.10146〜1.10152 日々の憂鬱〜2002年2月第3週〜


1.10246(2002/02/11) 『空の境界』の感想

 今回はストレートな見出しにした。が、内容はあまりストレートではないかもしれない。
 とりあえず、計画どおり連休中に『空の境界』(奈須きのこ/竹箒)を読み終えた。すっかり読書能力が衰えてしまったと思っていた私がこれほどの長さの小説(二段組、二巻本、しかも各400ページ以上)を実質二日で読むことができたことをよろこびたい。この調子でもっと本が読めればいいのだが……。
 まあ、それはそれとして。
 特に社会的に影響力があるわけでもない私のような一読者が、本の感想文を書いてウェブサイトで発表するということがどのような意義をもつのか、という事を考えるとなかなか悩ましい。以下の文章を読んで『空の境界』を実際に手にとってみようと思う人は稀だろう。そのような人は私の感想文など読まなくても既に入手している(か、再販待ち)だろうし、そうでない人がわざわざ読む気になるとは考えにくいので。
 だが、あまり悩んでも仕方がないので、とりあえず次のような人を対象にして感想を書くことにする。
  1. 既に『空の境界』を読んでいて、他の読者の感想を知りたい人。
  2. 『空の境界』を手に入れたが、手つかずになっている人。
  3. 別に『空の境界』に関心はないが、妙な文章が読みたい人。
 なお、例によって脱線ばかりで行き当たりばったりであること、またうまく考えがまとまらないので断片的であることを予めご了承願いたい。

 史上最初のカノンはイギリスの『夏は来たりぬ』(13世紀または14世紀)だと言われている。もちろんこれ以前にもカノンが全くなかったとは断言できない。「多声音楽音痴起源説」という学説(?)があるが、どこかの聖歌隊に他のメンバーよりもワンテンポ遅い奴がいて、偶然カノンになってしまったということは十分考えられる。が、少なくとも現存する楽譜では『夏は来たりぬ』が最古だ。
 では、史上もっとも有名なカノンは? 異論もあるだろうが、ヨハン・パッヘルベル(1653〜1706)の弦楽と通奏低音のための『カノンとジーグ ニ長調』の第一曲だろう。単に『パッヘルベルのカノン』といえばこの曲を指す。パッヘルベルはバッハに影響を与えた人物としても知られている。そしてバッハには(別に『パッヘルベルのカノン』の影響ではないだろうが)『音楽の捧げもの』(BWV1079)という非常に技巧的なカノン(鏡のカノン、蟹のカノン、螺旋カノン、謎カノンなど)を含む曲集がある。
 さて、パッヘルベルやバッハは『夏は来たりぬ』を聴いたことがあったのだろうか? たぶんなかっただろう。彼らは自分たちが用いている技法の起源が遠く数世紀前の島国にまで遡れるということを知らなかっただろう。だが、カノンの系譜は間違いなく中世の名もない作曲家から17世紀、18世紀、あるいはそれ以降にまで続いている。

 『空の境界』を読み始めてすぐに私は鮎川哲也のある作品を連想した。『空の境界』はミステリではないし、その作者が鮎川哲也を呼んでいるかどうかなどということを私が知っているわけもない。だが、半世紀の歳月を越えて、確かにある小説技法が受け継がれている。作中での位置づけも、見せ方も全然違っているが。
 ちょっと強引か? そうかもしれない。けれど、非常に丁寧に言葉を選んで仕掛けを施す態度(従ってある程度ミステリを読み込んだ読者なら、すぐに気づくわけだが……。おそらく奈須氏はその仕掛けで読者を騙してやろうと思っていたわけではなく、軽いジャブのつもりだったのではないか)に20世紀最高の推理作家(この表現への異議は受け付けない)の創作姿勢に通じる何かを感じ取ることは可能だと思う。
 ところで、すぐ上で「軽いジャブ」と書いたあとで言うのもどうかと思うが、実は『空の境界』におけるこの技法は単なる"つかみ"ではない。残念ながら小説があまりにも長大なため効果があまり上がっていないようにも思えるが、この技法は反転した形で再び用いられる。まるで「鏡のカノン」のように。それは『空の境界』におけるアルファでありオメガである。
 かなり強引か? そうかもしれない。この文章を奈須氏が読むことはまずないだろうが、もし読めば「それは違う!」と言うことは間違いない。だが……いや、言い訳はよしておこう。
 鮎川哲也の名前を出したからには、20世紀末日本のミステリに大きな影響を与えたもう一人の作家の名前を挙げないと不公平だろう。島田荘司である。『空の境界』には島田荘司の影響も見られる。それもおそらくは直接の影響が。上巻357ページの図版を見れば一目瞭然だ。だが、"島田荘司的なもの"はそこでは徹底的に無効化されており、一種のパロディのようにも思える。昭和の終わりから平成にかけてデビューした作家たちの"島田荘司的なもの"の扱い方とは全然違っている。この違いはミステリの枠内で小説を書くこととミステリの影響を受けながらも別ジャンルで小説を書くことの違いなのだろうか? それとも奈須きのこという小説家の個性なのだろうか?
 ミステリ関係ではほかにいくつか興味深い箇所があった。たとえば下巻339〜340ページで密室殺人について語るシーンがある。作中では密室殺人など一件も起こらないのに! もしかしたらある種のミステリに対する批評的意味合いがあるのかもしれない。が、ないのかもしれない。また下巻211〜212ページではある登場人物が「探偵」について思いをめぐらす。ちょっと引用してみよう。
 わたしは、よくある探偵小説で頭の硬い刑事たちを嘲笑って鮮やかに犯人を言い当てる探偵というヤツが大嫌いだ。
 所詮推測にしかすぎない事をただ"可能だから"という理由で推理と称して、常人を超越した頭の良さをみせつけて犯人を言いあてる。
 当たり前の捜査しか出来ずに犯人を捕まえられない刑事達を無能だ、と探偵は言う。でも、無能なのは探偵のほうだとわたしは思う。
 まだ先があるのだが、このあたりでいいだろう。これを次の文章と比べてほしい。
私は「名探偵コナン」(月曜、日本)のコナンが嫌いだ。
新一(コナン)がほとんど自分一人の考えで犯人に仕立て上げていく。
犯人というのは慎重な捜査と裁判で明らかになっていくもので、高校生が勝手に決めて良い物ではない。
新一のえらそうな態度が腹立たしく感じるのだが、いかがなものか。
 これは2ちゃんねるにもスレッドが立った有名な「腹立たしい態度」の全文(「一般人無双」1/24付の記事から引用)だ。もしかしてこの筆者は去年の冬コミで『空の境界』を買ってすぐに読み、この文章を書いたのかもしれない。

 本気にしないように。

 さんざんミステリ寄りの話をしてきたが、『空の境界』はさほどミステリ色が強いわけではない。ふつうに考えれば伝奇小説(+活劇小説)だろう。私はそちらの方面の小説をあまり読んでいないので、伝奇小説としての『空の境界』の位置づけについては何も語ることはできない。下巻31ページで蒼崎橙子に「お前はオースチン師(国枝史郎『蔦葛木曽桟』の登場人物)か!」とツッコミを入れたくなった程度。
 何も語ることはできないのだが、そこを無理矢理いい加減な印象で語ってしまうと伝奇小説の面白さというのは次から次へと繰り出される登場人物やら仕掛けやら意外な展開の数々だと思う。そんな事ばかりやっていると、うまく着地できなくてまるで私が今書いている文章のように支離滅裂なものになってしまうわけで、今挙げた『蔦葛木曽桟』など未完のままになっている(ただし単行本化の際に無理矢理まとめてしまっている)。だが、小説が破綻してしまっているということは伝奇小説にとっては別に欠点ではない。設定に矛盾があっても面白ければいいのだ。
 では、『空の境界』はどうか。小説全体のストーリーがかっちりと決まっていて、その場凌ぎの面白さだけのための無駄な登場人物はほとんど出てこない。ある場面で名前だけ出てきた人物が別の場面で重要な役割を果たしたり、さりげなく綾辻行人の『十角館の殺人』みたいなことをやってみたり、というふうに相当緊密に作られている。唯一の結末に向かって収束しようとする意志のようなものが感じられる。まあ、死んだはずの人間が都合よく生き返るところなど、伝奇小説の本道とも言えるわけだが。

 ともあれ、『空の境界』は面白かった。「面白かった。」という句点込みの6文字ですむのなら「これまでの文章はいったい何だったのか?」と疑問に感じるのだが、面白かったものは面白かったのだから仕方がない。細部のミスをあげつらうこともできる(たとえば上巻129ページの「百万とんで十二万円」とか。いや、これは意図的にやったことか?)が、あまり気が進まない。また、本格的に論じるとすれば視点の問題にも触れることになるだろうが、「肩の上の天使」の説明から話を始めるのも面倒だ。私は批評とか評論には向いていない。

 このささやかな感想文の最後は再びミステリ絡みの話題で締めくくることにしよう。「××の影響」とか「○○に似ている」とか、そういった観点ばかりで恐縮だが、『空の境界』を読んでいる最中私はずっと既視感にとらわれていた。この小説の主人公である両儀式と副主人公の黒桐幹也のコンビがあるミステリに登場するコンビを連想させたのだ。この小説の第一話『俯瞰風景』が竹箒のウェブサイトに発表されたのが1998年10月、そのミステリが世に出たのが同じ年の7月。だが、まさか奈須氏はその小説の影響を受けて『空の境界』を書いたわけではあるまい。私の気のせいだと思うのだが……しかし、それにしてもよく似ている。う〜む。

 これで私の感想文はおしまいである。あらすじの紹介とか登場人物の説明とか、そういったものはない。そういった事が知りたい人は公式ページを見てほしい。

1.10247(2002/02/12) Actus tragicus

 三連休ですっかり燃え尽きてしまった。
「萌え尽きた、の間違いだろ?」
 ああ、そうかも……いや、ちょっと違うな。あれはそういう小説ではなかった。
 まあ、どっちでもいい。とりあえず感想文を書いて一区切りつけたので、新しい人生に踏み出すことにする。

 さて、またアクセス数が急増(といっても100ヒット/日程度)している。だがアクセスログの調子が悪く、どこから人が寄ってきているのか、よくわからない。たぶん「ヲタク放談」からの人が大部分だとは思うが。今日はそんな人のために話をしよう。テーマは「ヲタク放談」2/10付の記事から「両墓制」である。
 このテーマで文章を書く前にちょっと検索して上位のいくつかを適当に斜め読みしてみた。で、気になったのが「お墓の変遷」というページ。両墓制に関する説明を引用する。
近畿地方を中心とした地域では両墓制が近年まで残っていた地域があります。これは遺体を埋める「埋墓」と、お参りをする「参り墓」が分離しているものです。なぜこのような制度が発生したかについてはいろいろと説があってよく分からないようですが、その背景には遺体の埋葬は古来からのものであるのに対して先祖供養は仏教の導入により始まったもので両者が必ずしも結びついていなかったということがあるのではないかと思われます。またある人は、遺体は「汚れたもの」であり、それとは別に清浄な空間に祭祀の場所を作ろうとしたという神道の「けがれ」思想が関与しているのではないかともいいます。またある人は元々は埋め墓に埋めた遺体を1年くらいしてから掘り出し洗骨して参り墓に改葬していたのが、簡易化によって移骨しなくなったのではないかともいいます。

一般に両墓制では埋め墓は人里離れた山中に作られ、参り墓は人家の近くに作られます。しかし両墓制が最も最近まで残っていたことで知られる佐柳島(さなぎじま)の場合は島が狭いこともあり、両者が近くにあります。ここだけを見て両墓制を理解しようとするとこの両墓制の意義を見失うのではないかという気がします。
 気になった箇所を赤字で強調しておいた。では、問題です。私はどうしてこの箇所が気になったのでしょう? 正解はここ

 話題を変える。ドラマ二題。
 昨日『生存 愛する娘のために』(NHK月曜ドラマシリーズ)の第一話を見た。今日はその感想文を書いたお茶を濁そうと思っていたのだが、どうしてもミステリ寄りの感想文になってしまう。何年も前に「幸福な少数者」から脱落したつもりではいるのだが、いったん身に付いたミステリ的な発想はなかなか拭い去ることができない。さらに悪いことに、「鮎川哲也」という名前が頭に浮かんでくる。昨日の今日で、似たような文章を書いても仕方がないので、今日は感想文を書くのを諦めた。もし最終話まで見たら改めて感想を書くかもしれない。だが、途中で見るのをやめる可能性大。原作だけで十分という気もするから。
 もう一つ。「ちゆメモ」で紹介されていたので知ったのだが、あの『秋の童話』がとうとう日本に上陸するそうだ。『オータム・イン・マイ・ハート』というタイトルで。私は右翼ではないが、これを国辱と呼ばすして何と呼ぶ、と言いたい。
 いや、別に私は韓国を敵視しているわけではない。韓国のテレビドラマが日本で紹介されることは両国の友好のためにもいいことだと思う。だが、どうして、日本初放映の韓国連ドラがよりにもよって『秋の童話』なのかと問いつめたい。小一時間問いつめたい。
 だが、放映が決まってしまったものは仕方がない。だが、せめてオープニングで「このドラマを尊敬する山田一先生と米倉けんご先生に捧げます。 スタッフ一同」というテロップを入れるくらいの誠実さを求めたい。まあ、どちらにしても私は見ないつもりだが。

 さて、さっきの問題の答えだ。
 上の引用文では、両墓制がすでに絶えた風習であるかのような印象を受けるが、そうではない。今でも両墓制を守っている地域がある。少なくとも10年前に亡くなった私の祖父には墓が二つあるのだから、間違いない。
 私の住む地域では、今でも土葬の風習がある。いちばん最近では一昨年にも土葬が執り行われている。もっとも去年は私の知る限り一件も土葬がなかった。過疎化と産業構造の変化により、墓穴を掘る人が確保できなくなっているからである。たとえば、もし今晩近所で誰か亡くなったら明後日の昼過ぎまでに一人分の穴を掘らないといけないのだが、私はサラリーマンなので平日には穴掘りに参加できない。そういうことだ。
 両墓制を採用する理由には諸説あるようだが、私の考えは簡単である。要するに遺体を埋める場所がお参りするには不便だからだ。
 もう少し詳しく説明しよう。人の遺体を埋葬するにはそれなりのスペースが必要だ。埋葬された遺体は野良犬が掘り返すこともある(昔は座棺だったので、そのような事がたまにあったらしい。今は寝棺で深く埋めるので野良犬に掘り返されることはないが、その分埋葬スペースが余計に必要となっている)から、あまり住居に近いところには埋めることができない。「汚れ」の思想などを引き合いに出すまでもなく、腐乱死体は不衛生であるのだから。そのような邪魔物(「邪魔者」ではない)にあてる場所はどうしても集落から少し離れた山間の日陰ということになってしまう。田を作るには水の便が悪く、畑を作るには日当たりが悪い、という何の使い道もない土地だ。調べたことはないが、たぶん土質もあまりよくないのだろう。そのような土地が集落の共同埋葬場所となる。
 一方、お参りをするための墓は出来れば家から近いほうがいい。盆や彼岸、そして命日(昔は月の命日にも墓参りをしていた)などの機会に墓参りをするのだから、少しでも家に近いほうが便利だ。そういうわけで、私の家の先祖代々の墓は、家の裏口から坂を上って3分くらいのところにある。近所のほかの家の墓も同様だ。たまたま埋葬場所は私の家の正面、川を渡って向かい側の山にあるので、私の家からだと15分で行くことができるが、少し離れた家からだと30分近くかかってしまう。おまけに急な傾斜地なので、足腰の弱い老人だと上るだけで一苦労だ。
 このような事情から両墓制が成立したというのが私の考えである。
 なお、お参りをするための墓は埋葬のあとすぐに作るわけではない。通常三回忌の機会に墓石を立てる。それまではちゃんとした墓がないから、埋葬場所に花を供えたりすることもある。したがって埋葬場所のほうも便宜的に「墓」と呼ぶが、実際にはただ卒塔婆を地面に突き刺して遺体を埋めた位置の目印にしているだけの場所である。三回忌まで墓を作らない理由は定かではないが、葬儀のあとすぐに墓石を立てると費用がかさむからかもしれない。

 さて、連休の間中断していた『歌月十夜』の続きでも……。

1.10248(2002/02/13) 電波的な、あまりにも電波的な

 三日連続で見知らぬ人に電波メールを送った。
 いや、日曜日のメールはまだまともだったと思う。あるウェブサイトの管理人がそのサイトの掲示板で書いた文章にちょっとしたケアレスミスがあったので、それを指摘しただけだった。
 が、月曜日のメールは少しおかしかった。その掲示板の話題が私が興味を持っている分野だったので、話に参加しようと思って小一時間かけて文章を書いたのだが、投稿する瞬間になって「これはちょっとやりすぎではないか」と理性が働いた。それで投稿をやめた。だが私は貧乏性なのでせっかく書いた文章を消してしまうのがもったいなくなり、管理人あてにメールを送った。意味不明な事をしてしまった。
 さらに昨日、そのメールの内容に間違いがあったことに気づいた。別にどうでもいい事なのだけど。読んだのはそのサイトの管理人一人。いや、本当に読んだかどうかさえわからない。しかし、自分が書いた文章に間違いがあったことが悔しくて悔しくて、ちょっと冷静さを失っていた私は、みたびメールをしたためた。ここまでくるとかなり「電波」が入っている。以下、そのメールの一部を抜粋する。
(1)猫は動物である
(2)猫が書いた文章は動物が書いた文章である
(1')∀x(Cx→Ax)
(2')∀x∀y(Cx&Wxy→Ax&Wxy)
 あー、こりゃこりゃ。
 言葉というのはコミュニケーションの道具であるから、相手のことを考えずに一方的にこちらの言いたいことを言うのは、仮に内容が正しいことであっても、相当「電波」的である。人はちょっとした事で簡単に電波系になることができる。その事を身をもって実感した。
 で。
 今日になって、再び疑問が出てきた。果たして上の文章(?)はどこか間違っていないだろうか、と。本当にどうでもいい事なのだけれども、気になるとどうしようもない。昨夜はそれ(特に(2'))を書くのに2時間近くかかって、結局予定していた『歌月十夜』に取りかかることができなかった。
 気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる気になる……。41回も書いたが、全然おさまらない。どうせコピペだし。
 仕方がないから、ちょっと検討してみる。以下、電波的な独り言が続くので、興味のある人だけ読んでもらいたい。今日はこの話題だけでおしまいにするので、「何か別の話が出てくるだろう」と期待しないこと。
 (1)は問題ない。ただの例文だ。猫は動物である。このように端的に言った場合は、特定の猫の話ではない。すべての猫だ。言葉を補って言い直すと
(1a)すべての猫は動物である
となる。
 ところで、(1a)はさらに展開することができる。もし何かが猫であるなら、それは動物でもあるということを言っているのだから、次のように書き表すことができる。
(1b)どのようなものについても、それが猫であるならば、それは動物である
 (1b)の二つの「それ」はもちろん「もの」を受けている。その事を紛れなくはっきりと表すために記号を導入する。「もの」「それ」を同じ記号「x」を用いて表す。
(1c)どのようなxについても、xが猫であるならば、xは動物である
 ここでさらに別の記号を導入する。あるものが猫であるということを「C( )」で表し、あるものが動物であるということを「A( )」で表す。括弧内には主語が入る。たとえば「アルクェイドは猫である」は「C(アルクェイド)」、「知得留は動物である」は「A(知得留)」と表す。すると(1c)は
(1d)どのようなxについても、C(x)ならば、A(x)である
と変形できる。
 「○○ならば××である」というかわりに「○○→××」、「どのようなxについても……」というかわりに「∀x(……)」ということにすると、
(1e)∀x(C(x)→A(x))
となる。これで日本語の文がすべて記号に置き換わったが、括弧が多くてちょっとごたごたしている。「∀x」の次の括弧を外してしまうと、「どのようなものについても」という語句が文のどこにかかっているのかが不明になってしまうのではずせないが、その括弧内で「x」をくくっている括弧は省略しても問題はないように思われる。文の主語にあたる記号は小文字で、述語にあたる記号は大文字ということにしておけば、混乱はない。こうして得られたのが(1')である。
 ここまではいい。問題は(2)のほうだ。
 論理学をちゃんと勉強した人なら、この程度の文を記号化するのは簡単なはずだが、私のように中途半端な人間はいちいち基本に立ち返らないと作業ができない。そして基本に戻っても、よく間違える。で、昨日は(2)を記号化するのにかなり苦労した。
 とりあえず(1)と同じように考える。まず、特定の猫が書いた特定の文章の話ではないことは明らかなので、言葉を補う。
(2a)どのような猫が書いたどのような文章も、動物が書いた文章である
 「どのような」が二回出てくるので、ちょっとややこしい。「どのようなものについても……」というふうに文を展開しようとすると、二つ重なってしまって「それがそれを……」とか「一方が他方を……」とか何が何を受けているのかわからない文になってしまうおそれがあるので、すぐに記号に置き換える。一方は(1)の場合と同じく「x」、もう一方は「y」にしておく。
(2b)どのようなxとどのようなyについても、(xが猫であり、かつ、yが文章であり、かつ、xがyを書く)ならば、(xは動物であり、かつ、yは文章であり、xはyを書く)
 「yは文章である」を「Ty」、「xがyを書く」を「Wxy」、「かつ」を「&」で表すことにすると、
(2c)∀x∀y((Cx&Ty&Wxy)→(Ax&Ty&Wxy))
となる。四則演算の記号で「×」のほうが「+」よりも結びつきが強いのと同様に、「&」のほうが「→」よりも強いと取り決めれば、括弧をいくつか外すことができる。
(2d)∀x∀y(Cx&Ty&Wxy→Ax&Ty&Wxy)
 あれ? (2')と違っている。ええと、(2')では書かれたものが文章であるという条件が表されていないんだな。「Wxy」を「xはyを文章として書く」という意味だと解釈すれば(2')でもいいのか???
 なんか、もう、訳が分からなくなってきた。今日はもうおしまい。
 読者の大多数を無視した話題なので、よほどの事がない限り続きは書かない。

1.10249(2002/02/14) 雪だ雪だ真っ白な雪だ

 今朝、目を覚ますと、窓の外は一面銀世界だった。
 こんな日でも会社に行かなければならないのが恨めしい。これほど雪が積もった日には、どこにも行かずに暖かい布団を頭からかぶって「世界中のみんなが苛めるよぅ」と言いながら一日のんびり過ごしたいのに、それができないとは残念だ。残念だったら残念だ。
 仕方なく私は寝床を後にする。
 今日の朝食のおかずはキウイだった。赤道直下の島に住む小柄な鳥もキウイだが、もちろんそんなものを食べるわけはない。私が食べたのはキウイフルーツのほう。ちなみに自家製だ。
 食べ終わって、思った。キウイをおかずにしてご飯を食べるのはちょっと辛い、と。「辛い」には二通りの読みがあるが、当然「からい」のほうではない。むしろ酸っぱい。もう少し熟していれば、それだけで三杯おかわりが出来たかもしれない。
 いや、そんな事はないだろう。
 服を着替えて仕度をととのえ家を出る。雪景色の中、車を走らせながら、今日は「たそがれSpringPoint」に何を書こうかと考える。今読んでいる本は今日中にはたぶん読み終えることができないだろうから感想文は書けないし、ほかには別にこれといったネタがあるわけでもない。何か雪にちなんだ話がなかったろうか? 雪、雪、雪……雪印は今さらだしなぁ。そういえば、「汚名を雪ぐ」という言葉があった。「そそぐ」とか「すすぐ」とか読むわけだが、なんで「雪」なのだろう。いや、本当に「雪」なのか? 「こけら落とし」の「こけら」は「柿」に似た別の漢字だったはずだ。そんな事を考えながら、さらに走る。
 あまり迷ってはいられない。毎晩ウェブサイトの更新に時間をとられ過ぎて、『歌月十夜』がなかなか進まない。まあ、そんな事はどうでもいいが、後輩に借りた『カウボーイ・ビバップ』のDVDをまだ全然見ていない。今週土曜日には返さないといけないのに。それに、もっと大事な用事がある。知人が今度出す本の校正を頼まれていたのだった。先週の土曜日にどっさりとゲラを渡されたが、まだ手つかず。ぱらぱらとめくってみると「根北線」とか「美幸線」とか「興浜線」とか、見るだけで赤字が積もってきそうな旧国鉄の路線名が並んでいる。ちょっとうんざりするが、引き受けたものは仕方ないから、今晩から取りかかることにしよう。
 凍結した橋をゆるゆると渡る。ブレーキをかけるとスリップしそうだ。
 ところで今日は何曜日だったろう? 真っ白な雪を見ていると、頭の中まで真っ白になってしまいそうだ。あわてて記憶を辿る。そう、今日は木曜日だ。明日は金曜日、明後日は土曜日。ということはDVDを返すまであと二日しかないのか……。さて、ゲラチェックとアニメ鑑賞のどちらを優先すべきか。う〜ん。いやいや、それ以前にまだ今晩の更新のネタが思い浮かばない。
 白い白い雪。境界線などどこにもなくて、田も畑も道も林の木々も空も海もすべて覆い尽くす純白の雪。なんだか見ているだけで気分が悪くなってきた。もしかしたら朝食のキウイのせいかもしれないけれど。
 今晩は多忙につき更新できません、と掲示板にでも書いておこうか。それとも適当な文章をでっち上げてお茶を濁そうか。ごまかすとすれば、どんな事を書いたらいいだろう。また「ネタがない」ことをネタにしようか。あるいは前に書いた話の続きでも。
 ふむ、続きを書くとすればどの話にしようか。昨日の文章は最後で「よほどの事がない限り続きは書かない」と宣言してしまっているから、もう続きは書けない。もし書けたとしても頭脳を酷使するから書きたくない。では、一昨日の文章の続きか? だが、民俗学はあまり詳しくないし、いい加減な事を書くと厳しいツッコミが入る可能性がある。やめておこう。
 日が射し、徐々に雪が溶けはじめた。雪が溶けるとどうなるのか? もちろん「春になる」が正解だ。「水になる」という解答は子供の個性を殺す現代教育の病理のあらわれであり、排除しなければならない。すべての子供がいきいきとして「春になる」と声を揃えて答えるようになるのが正しい教育なのだ。おっと、「子供」などと書いてはいけない。これでは大人に付き従うお供のようではないか。差別だ! 人権無視だ! 「子ども」と書かなければならないのだ。
 さらに雪が溶けてゆく。溶けた雪は春になって、ちょろちょろと流れてゆく。春は高いところから低いところへと流れてゆく。春の流れは川になり、さらに流れて海に雪ぐ。だが、私は海までの流れを追うことができない。これから会社に行って仕事をしなければならないのだ。こんな日は仕事を放り出して一日中ぼけーっと焚き火にあたって過ごしたいのだけど。
 ふと意識が遠のく。危ない危ない。運転中に注意を逸らすと、交通事故のもとだ。事故を起こすと大変な事になるんだ。ブレーキ音、そしてガードレールに車がぶつかる鈍い音に続き、悲鳴とうめき声があたりに響き渡る。割れたガラス窓からは不自然に腕が突き出され、ドアにはまるで赤スプレーを吹き付けたかのような真っ赤な血がべったりと付着する。場面が暗転し、次に目覚めると病院のベッドの上だ。年老いた母親が顔をのぞき込み、半分泣きそうな顔で「大丈夫かい、目が覚めたかい」と声をかける。だが、それは目覚めというよりは、悪夢の始まりに過ぎないのだ。
 同乗者は三人いた。助手席には三ヶ月後に結婚を控えたいた婚約者が、そして後部座席には会社の同僚でもあり恋人どうしでもある男女が。だが後部座席の男は死に、女は今も意識が戻らない。助手席の婚約者はフロントガラスに頭を突っ込んだときに顔に大きな傷を負い、一生跡が残るという。莫大な賠償責任を抱えて途方に暮れているさなかに、保険会社倒産の知らせが入る。会社にもいられなくなり、家も土地も売って慰謝料にあてるが、それでも足らず、婚約者に泣きつく。婚約者は寂しそうな顔で「一度は結婚まで決めたあなたのためだから……」と言って自らの身を犠牲にすることを約束する。彼女はけなげにも夜の街に立って、婚約者の抱えた借金を少しでも返済しようとするのだ。ああ、麗しい愛。だが、それは何とかなしいことだろう。
 で、それはそうとして、今何時だ?
「へい、十時過ぎでぃ」
 そうか。では続けるぞ。十一、十二、十三、十四、十五……

1.10250(2002/02/15) パラドックス、あるいは物語の解体と再編について

 なんとなく「ぽすともだん」な見出しをつけたが、内容はいつも通りだ。

 最近、あちこちで話題になっている「幼なじみエンサイクロペディア」を読んでみた。これは凄い。「これは凄い。」は句点込みで6文字だ。もう少し何か言うことはないものか。ええと……。ふと、『動物化するポストモダン−オタクから見た日本社会−』(東浩紀/講談社現代新書)を思い出した。この本で提示している理論の枠組みを使って批評できるかもしれない。だが、私は感想文を書くことさえ面倒なのでやらなかった人間だ。理論の応用などいうさらに面倒なことに手を出す気にはならない。
 おお、終わってしまったではないか。もう少し話を引き延ばせないものか。もう一度やり直す。

 最近、あちこちで話題になっている「幼なじみエンサイクロペディア」を読んでみた。これは凄い。とても私には真似が出来ない。真似はできないが、妄想することはできる。たとえば「幻なじみ」というのはどうか。幻だから実在しない。それだけ。
 今度こそ本当に終わってしまった。仕方がないので話題を変える。

 今週はいつもの「教養系新書を週に一冊以上読む」という方針を曲げて、『うそつきのパラドックス−論理的に考えることへの挑戦−』(山岡悦郎/海鳴社)を読んだ。といっても版型が違うだけで似たようなものだ。これはタイトルのとおりうそつきのパラドックスを扱った本である。「うそつきのパラドックス」とは次の状況であらわれるパラドックスである。
わたしが「わたしの発言は偽である」とだけ発言する。
 これは「エウブリデスのパラドックス」とも呼ばれる。私は「エピメニデスのパラドックス」だと思っていたのだが、厳密にいえば違っているらしい。エピメニデスのパラドックスのほうは、こうだ。
クレタ人であるエピメニデスが「すべてのクレタ人はうそつきである」と発言した。さて、エピメニデスの発言は本当か、それともうそか。
 ところで、『空の境界』でエピメニデスのパラドックスに言及する場面(上巻345ページ)がある。
「―――汚いぞ、鮮花。これって『同時に真と偽が成立している命題』じゃないかっ!」
「ええ、そうです。有名なエピメニデスのパラドックスね」
 だからどうした、というわけではないのだが、あとでもしかしたら関係してくるかもしれない(が成り行き次第ではそんな話にならないかもしれない)ので、ちょっと引用してみた。
 本題に戻る。うそつきのパラドックスは紀元前から現代に至るまで多くの人々が挑戦しながら、まだ満足な解答が見出されていない問題である。筆者は主に20世紀に焦点をあてて、その格闘の歴史を再現し、批判し、さらには自説を提示している。そこで取り上げられた人々はラッセル(1903)からジャックビール(2001)まで。付録ではカントールやゲーデルにも言及されている。
 具体的な内容については――読んで下さい、としか言えない。論理学や数学についての予備知識がなくてもこの問題に取り組むことができるように配慮されているので、素人の私があれこれ説明するより、じかに現物にあたってみるほうが早い。ただし、テーマがテーマだけに、漫然と字面を追ってすらすらと読めるような本ではない。さすがに新書とは訳が違う。いや、新書でも内容が濃い本はあるから一概に比較はできないが。
 そういうわけで、主題についてのコメントはやめておく。が、それだけだと寂しいので、一つだけ瑣末な指摘をしておく。「第7章 クワインの対処法」で
(略)現代アメリカの最長老の哲学者クワインである。(略)クワイン(W.V.Quine,1908-)はオハイオ州アクロンの生まれである。(略)かれは現代アメリカの哲学者としてもっとも著名な人物であり、分析哲学の伝統の中では、20世紀後半における最重要な哲学者である。(略)我が国でもようやく1996年の11月になって、かれが京都賞を受賞するために来日してからマスコミにも登場するようになった。
と書かれているが、この本が出た2001年12月20日(奥付による)に先立つこと約1年前の2000年12月25日にクワインはすでにこの世を去っている。筆者はクワインの死を知らなかったのだろうか?
 どうでもいい話だが、私はクワインが京都賞を受賞したとき、記念ワークショップを見るために京都へ出かけた。あわよくば何か話でもしようと思って、ワークショップのあとぶらぶらと歩いているクワインのそば3メートルのところまで近づいた。しかし、不幸なことにクワインは日本語をほとんど解せず、私は話しかけることができなかった。ああ、ほんとうにどうでもいい話だ。

 さて、ここまでで半分だ。気を緩めると必要以上に長くなってしまうので、ここからはかなり引き締める。

 殺人鬼は「人を殺す鬼」と書くが、別に鬼ではない。鬼が金棒をふるって人を何人殺そうが、ただの鬼である。殺人鬼は鬼ではなく、「鬼のように人を殺す人間」だ。
 では、何人殺せば「殺人鬼」の称号を与えられるのか? これはなかなか難しい。ふつうは二、三人殺せば十分だと思うが、戦場で百人殺そうが千人殺そうが「英雄」の称号しか与えられない。ともあれ、最低一人は殺さないと殺人鬼とはいえないだろう、と考える。
 ここで「人を殺したことがない殺人鬼」または「決して人を殺さない殺人鬼」という存在を考えてみよう。矛盾している。あり得ない。これこそパラドックスだ。
 だが、「あり得ない。よって、存在しない」で話が終わってしまうとつまらない。そこで無理矢理でもいいから理屈をつけるとすれば……。
 人が殺人鬼であるかどうかは、人を殺したかどうか、または、殺した人数によって決まる事柄ではない。殺人鬼とは自らの内面に「鬼」を飼っている存在である。「鬼」とは、端的に言えば殺人衝動のことである。殺人衝動をもつ者は――その衝動に屈して実際に人を殺すか、それとも抵抗し続けて生涯誰も殺さないか、にかかわらず――すべて「殺人鬼」の資格をもつ。逆に、この昏い衝動をもたずに別の動機から人を殺す者は、どのような残虐な殺戮行為を繰り返そうとも、「殺人鬼」ではない。彼もしくは彼女は殺人鬼に似て非なる偽物である。
 これで少しは話が面白くなってくる。人を殺さない殺人鬼、殺人鬼ならざる殺人鬼というバラドキシカルな存在は「内なる敵である殺人衝動との戦い」というテーマを生み、緊張に満ちた動的な物語の源泉となる。さらに、現に殺人を繰り返す者が登場すると、「外なる敵である殺人者との戦い」というテーマが生まれる。そして、「殺人を犯さないが本物の殺人鬼vs.殺人を犯しているにもかかわらず偽物の殺人鬼」というバラドキシカルな構図が。こうなれば、物語の面白さは約束されたようなものである(というのはちょっと言い過ぎ。構図をきちんと充填する力がなければ、やはり駄作になってしまう)。
 次に、吸血鬼について考える。こちらはそのまま「血を吸う鬼」でいい。厳密に言えば「鬼」ではないだろうが、人外の者という意味では似たようなものだ。「吸血」という語は、その種がもつ一般的な特徴を述べたものに過ぎないので「決して血を吸わない吸血鬼」は「決して人を殺さない殺人鬼」ほどにはバラドキシカルな存在ではない。とはいえ、そのような吸血鬼はかなり奇妙な者であることは確かである。また、「殺人鬼」の場合と同じく「内なる敵である吸血衝動との戦い」とか「外なる敵である(現に血を吸う)吸血鬼との戦い」というテーマを設定することが可能である。これも面白い話になりそうだ。
 と、ここまで自力で考えたなら私も大したものだが、残念ながらそうではない。優れた物語の構築は天才のみに成し得る業であり、天才ならざる私はただ構築された物語の表面を撫でて、感嘆するのみ。
 以上の文章は『月姫』と『空の境界』を念頭においたもの。特定の作品名を出すと評論のように受け止められてしまうが、評論にしては杜撰すぎるのであえて作品名に言及しなかった。だが、これだけだと意味不明なので、註釈をつけた次第である。
 おお、終わってしまった。感嘆するだけではいけない。もう少し粘ろう。
 さて、物語を解体し、パーツに分け、データベース化することが可能なら、それを別の仕方で再構成し、物語を作ることも理論的には可能なはずだ。首尾よくパーツを組み立てれば、凡人であっても天才の高みにある程度近づけるかもしれない。では、「自らの内にパラドックスを抱えた存在」というモチーフから、ほかにどのような物語を紡ぎ出すことができるのか?
 私はミステリ寄りの発想に馴染んでいるので「決して難事件に関わらない名探偵」を思いついた。他人の秘密を暴き立て、かりそめの幸福を不幸へと転化させる能力、どろどろとした忌まわしい探偵衝動をもって生まれついた人物が、その衝動に苦悩しながら生きてゆく、というお話だ。もっとも「自分が名探偵であることに苦悩する名探偵」というのは、決して独創的な発想ではない。古くはエラリィ・クイーンがそうだったし、物部太郎のものぐささの原因もそのあたりにあるようだ。ほかにもっとストレートな例もあるのだが、作品名を挙げるのは差し控えておく。
 多少目新しい点があるとすれば、過去に手がけた事件の経験から名探偵であることの忌まわしさに気づいたというのではなく、まだ一件も事件に関わっていないのに優れた知性によってその事を自覚している、というところだろうか。「探偵衝動」を一度でも解き放てばその瞬間にすべてが崩壊するという危機感を常に抱えて、知的挑戦を挑むすべての事象から逃げ回る「名探偵」というのはこれまでにはなかったと思う。で、本当は大した推理力もないくせにたまたま僥倖に恵まれたおかげで何件もの事件を解決し、かつ、そのせいで不幸になった人々の姿が全く目に入らず、一人で勝手に浮かれている「名探偵」が登場する。主人公にとっては、その偽名探偵は唾棄すべき存在であるとと同時に、心の奥底に封じている「探偵衝動」に刺激を与える「敵」でもある。
 ちょっと無理がある設定だが、なんとなく面白そうだ。だが、もう一人必要だ。
 もう一人の主要人物は、ミステリの定型に従ってワトソン役にしておけばいいだろう。主人公の友人で、特に異能を持たない凡庸な市民。しかし、なぜか主人公の「探偵衝動」に気づいている。そして、その能力の素晴らしさを説き、なんとかして主人公を難事件に引っぱり出そうとする。主人公はそのような友人の態度に反発しながらも、友情と信頼を受け入れざるを得ない。
 かなりよさそうだ。
 しかし……この骨格に肉付けするのは大変だ。少なくとも複数の、ある程度独立した難事件を組み立て、それなりにトリッキーな解決を用意しておかなければならないからだ。密度が濃い、面白い物語にしようとすれば、ふつうの長編ミステリ数本分のネタが必要になるだろう。当然私にはできない。ミステリとしてのネタもデータベースから引っぱり出してくるという手もなくはないが、そんな事をすれば袋叩きに遭うことは間違いない。
 一挙に妄想がしぼんでしまった。残念。
 誰か、この話を実現させてくれないだろうか。別に謝礼も何もいらないから。ただ、主人公の名探偵とワトソン役は幼なじみにしてほしい、と切に願うのみ。

1.10251(2002/02/17) 備忘録

 昨日は遠出をして大阪へ出かけた。予想通り日付が変わる前に帰宅できなかった。以下メモのみ。

1.10252(2002/02/17) 本の紹介の難しさについて

 面白い本を読むと他人にも読ませたくなる。ある時は感動を共有したいという気持ちから、また、ある時はささやかな優越感を得るために、またまたある時は自分とは違った感想が聞きたいが故に、本を他人に薦める。
 本を他人に薦めるという行為にはレベルの異なる二つの問題点がある。一つは、独善的で傲慢なふるまいになりがちだということだ。これは趣味の押しつけ一般に通じることではあるのだが。もう一つは実効力に関する問題だ。「この本、面白いから一度読んでみな」と言うだけで、他人はどの程度動いてくれるものか。どこがどう面白かったのかを説明しないと、なかなか手を出す気にはならないのではないか。だが「どこがどう面白かったか」を簡潔に説明するのは非常に難しい。それなりの読解力と表現力が必要なのは当然だが、それ以上に必要なのが「どこまで言っていいか」を正確に見積もる判断力と語るべきことではない事を語らずにおく自制心である。その本に対する情熱さえあればいいというものではない。こんなことは読書家には言わずもがなのことだが、念のために確認しておく。
 私は情熱的な人間ではない、と自分では思っているのだけど、たまにリミッターが外れて暴走してしまうことがある。最近では『空の境界』を読んだときがそうだった。この本(上下二巻本だが、あわせて一編の小説なので「この本」と単数形にしておく)は
  1. 現在、販売ルートが非常に限られており、かつ、品薄であるため、入手が困難である。
  2. 分量が多いので、読むのにかなりの時間を要する。
という特徴をもっているので、不特定多数の人々に無条件で薦めるのは適当ではないと思い(その程度の理性は残っていた)感想文の冒頭で注意書きをしておいた。また、わざとピントのずれた事をいろいろ書いて、未読の人の興を殺がないように努めたつもりだ。本当にわざとだよ! 信じてよ!
 でも、それだけでは私の気はおさまらない。何人かの知人にはメールで直にこの本を読むように勧めた。そのうちの一人、らじ氏は昨日読み終わったという(ヲタク放談2/16付)。だが、もう一人の知人にはやんわりと断られた。他に優先事項があると言われたらそれ以上強くは薦められない。だが、残念だ。ああ、残念だ。今、この本が手元にあるということは、それだけで世界中の99人よりも幸運なことだというのに。
 さらに勢い余って、まだ本を入手していない後輩(以前から何度も言及している後輩のこと。ハンドルを持っていないが本名を書くのも気がひけるので単に「後輩」と呼ぶことにする)にまで強く薦めた。これはちょっとやりすぎだったと思うが、魂のリミッターが外れてしまったのだから仕方がない。仕方がないったら仕方がない。ふだんの私はもっとまともだ。本当だよ! 信じてよ!
 さすがに読めない本を薦めても仕方がないので、本を貸すことにした。しかし、駄目でもともとの気分で信長書店に行くとまだ積んであったので、貸すのはやめて買わせることにした。ついでに同行していたもう一人の友人にも薦めた。その友人は、後輩とはやや好みが違っている(『月姫』はいちおうプレイしたが、世間でみんなが騒ぐほどのものではない、という感想だった)ので、『空の境界』を読んで面白いと思うかどうかは疑問だが、まあそれでも読んで損をしたとまでは思わないだろうし。
 で、持っていく必要のなくなった本をさらなる布教活動のために使ったというのは、先に書いたとおり。

 さて、昨日買った小説本以下の四冊である。
  1. 『クビキリサイクル−青色サヴァンと戯言遣い−』(西尾維新/講談社ノベルス)
  2. 『多情剣客無情剣』上・下(古龍・作/岡崎由美・訳/角川書店)
  3. 『悪魔のミカタ−魔法カメラ−』(うえお久光/電撃文庫)
 1は「メフィスト賞受賞作」「清涼院流水推薦」「作者名が(訓令式ローマ字で)回文」「孤島もの」「天才もの」と不安材料がいっぱいだが、あちこちで評判がいいので読んでみる気になった。が、さほど期待しているわけではないので、ちょっと後回し。
 2は後輩が薦めた本。「冒険あり、ラブコメあり、チャンバラあり、推理あり、叙述トリックあり、とあらゆる小説の面白さを詰め込んだエンターテイメント大作」とえらく褒めていた。なんか「面白さ」の基準がやや偏っているような気もするが、ここまで言われて引き下がるわけにもいくまい。長さは『空の境界』に匹敵する(本を貸してしまったので比べられないが)のでちょっと躊躇したのだが、まずはこれから取りかかることにした。
 面白い。確かに面白い。でも、登場人物がやたらと多く、「神の視点」を採用しているので、ちょっと抵抗感がある。あまり間をおくと話の筋を忘れてしまうから、一気に読みたいところだが、ひとまず小休止中。
 3はいくつかのサイトで言及されていて、気になっていた。確かどこかでわりと好意的な感想を見た記憶があるが……と思って探してみると、「ペインキラーRD」の2/12付の日記だった。別にどうしても手に入れたい、読みたい、と思っていたわけではない(実は、タイトルも作者名も忘れていた)のだが、本屋で電撃文庫の棚を見回したのは、たぶんこの文章を読んだせいだろう。何軒かの本屋で平台に積んである本のカバー絵を見て同定し、即購入。同時に友人二人も買った。
 今日、『悪魔のミカタ』を読んだ。面白かった。さほど長くはないし、文章もこなれていて読みやすい。そして、今なら簡単に手に入る。他人に薦めるのをためらう理由は特にない。これはお薦めだ、と言っておく。
 では、どこがどう面白かったのか。いつもならここでだらだらと感想文を書くのだが、ペインキラー氏の文章に全く同感なので、付け加えるべき点はない。全くない。ないはずだが……。

 以下、『悪魔のミカタ』の内容に触れるので、未読の人は読み飛ばすように!


 作者はあとがきで次のように書いている。
 最初、僕はミステリーとしてこれを書き始めました。(ミステリーっぽいのはそのせいです。)でも途中で挫折しました。(ミステリーって難しいです〜)しばらく頓挫し、ミステリーじゃなくなってもいいや、と開き直って好き勝手やり始めたらとんとんと書けました。(だからこれはミステリーじゃないです。ミステリーファンの方、何だこれはと怒らないで!)
 しかし、私はペインキラー氏と同じく『悪魔のミカタ』はミステリだと思う(「ミステリー/ミステリ」の違いは気にしないように)。魔法のカメラにできることの範囲が予めすべて読者の前に提示されており、それ以外のいかなる超常現象も超能力も事件には関与していないことも明らかにされているので、SFミステリの条件を満たしている。これを「SFミステリ」と呼んでしまうと語弊があるかもしれないが、本のオビに書いてある「ファンタジックミステリー」というのはミステリの下位ジャンルを表す言葉としては定着していないし、「幻想的なミステリ」というわけでもないので、本来の「SF」の意味には反するかもしれないが、既成の用語を用いた。
 では『悪魔のミカタ』はミステリとしてどのくらいよく書けているのだろうか? 判定基準は人それぞれだろうから断定的なことは言えないが、少なくとも以下の点は評価に値すると思う。  今度は逆にマイナス評価に関わる点を二つほど挙げておく。  まだあったようにも思うが忘れた。まあ、たいした問題ではない。


(ここから先は未読の人も可)
 ミステリとしての評価とは関係ないが、冒頭近く(11〜13ページ)の
 妹が《宇宙人》にさらわれた時、コウの中で何かが一八○度回転した。警察も、そして家族も信じてくれなかった時、さらに一八○度回転した。なんだ、それなら元に戻ったんじゃないかと思う方もいるかもしれないが、ならば試しに、自分の首を三六○度回転させてみてもらいたい。なるほど、顔は元の位置に戻っているかもしれない。傍目には、回転した事など分からないかもしれない。しかし、何かが根本的に、変化してしまっている事に気づくはずだ。
は面白かった。ほかにも何箇所か面白い表現をしているところがあったが、いちいち引用しているときりがないのでやめておく。
 ところで、「妹が《宇宙人》にさらわれた」というエピソードは作中では回収されていない。また、キャラが立っているのにあまり出番のない人物が何人もいる。これらの事から(それだけではないが)考えて、作者が続編を構想していることは確かだ。続編が出たら――実を言えば、読みたくもあり読みたくもなし、という心境だ。
 もし『孤島の鬼』(別に特定のタイトルを挙げることに意味があるわけではないので、『孤島の鬼』を呼んだことのない人は適当に自分の読んだ面白いノンシリーズ作品に読み換えてもらいたい)に続編があったとして、あなたはそれを読みたいと思うだろうか?
 まあ、そういうことだ。

 さて、今晩中に何人かの知人にメールを送りつけるつもりだ。私からのメールが届いた人は覚悟するように。

1.10146〜1.10152 日々の憂鬱〜2002年2月第3週〜