1.10153〜1.10159 日々の憂鬱〜2002年2月第4週〜


1.10253(2002/02/18) 肩の上の天使

 今日から「小説読破力強化月間」に入ることにした。といっても月の半ばを過ぎてしまったので「半月版」だ。
 とりあえず『多情剣客無情剣』を早く読んでしまいたい。そこで今週は新書を読まずに、これに専念することにした。だがかなりの分量があるので、電車の待ち時間程度では時間足りない。家に帰ってからの自由時間も読書にあてたい。よって、しばらくの間、メモ程度の事しか書かないことにする。
 今日はメモ第一弾。「肩の上の天使」について。いつ、どこで、誰からきいたのかは覚えていないが、私にとってはわりと馴染み深い言葉だ。だが、ちゃんと説明できるかどうか自信がない。そこで、困ったときのネット頼み、検索して調べた……のだが、出てこない。ミステリ関係では2件ヒットしたが、どちらもボーのデュパンものの語り手のことを指す表現として紹介している。けれど、それは私の知っている意味ではない。
 もしかして、この言葉は実は全然有名ではないのだろうか? もし知っている人がいたら、メール(noname@imac.to)または掲示板で教えてほしい。出典も教えてくれると、なおありがたい。
 今日はこれだけ。

1.10254(2002/02/19) 携帯電話

 4年前に1円で買った携帯電話がそろそろ臨終のときを迎えつつある。以前から電池が弱っていて、二日に一回充電しないともたなくなっていたのだが、それに加えて呼び出し音がほとんど聞こえないようになってしまった。メール機能もなければ着メロなどという気のきいたものもなく、11桁の電話番号にも対応していない骨董品級の代物なので、別に惜しくもなんともないのだが、買い換えるのが億劫だ。どうせ買うなら今度は使いやすく機能の充実したものにしたいが、いちいち調べて選ぶのが面倒だ。最近の機種のことはよくわからないのだが、動画を送受信できるものが主流になっているのだろうか? 着メロはMP3とかそれに類する音質なのだろうか? メールは最高何文字くらいまで可能なのだろうか? 私はこの種の情報に疎い。
 あれこれと考えているうちに、ふと気づいた。私は別に高性能の携帯電話を必要としていないということに。私が携帯電話を持ち歩いているのは、主に時間を知るためであり(以前は腕時計を持っていたが、携帯電話を買ってから使わなくなり、とうとう壊れてしまった)電話で話をすることはほとんどない。
 なんだ、それなら解約して時計を買えばいいんじゃないか。
 そうは言ってもなかなか踏ん切りがつかない。「ほとんど使わない」というのと「全く使わない」というのは訳が違うし、「電話があるが連絡がない」ということと「電話がないので連絡できない」というのも別の事柄だ。やはり、どこかへ出かける時には携帯電話を持っていないと不安だ。
 私がもっとも携帯電話を(その本来の機能において)必要とするのは、出先で知人と待ち合わせるときだ。だが、それはまた携帯電話が使い物にならなくなる公算がもっとも大きい場面でもある。具体的にいえば夏と冬のコミケ会場のことだ。行ったことがある人は知っていると思うが、だいたい9時〜14時くらいは会場付近ではほとんど携帯電話は不通となる。公衆電話からだと通じることもあるが、連絡をとりたい相手も同じ会場にいるのだから、通じない場合のほうが多い。仕方がないので「午後1時ジャストに企業ブースの"林真須美に似た女社長がサインをしているブース前"で会おう」というふうに一方的にメッセージを吹き込んで切る。連絡をとりたい相手が同じく公衆電話から留守電メッセージを聞いて無事定時に待ち合わせ場所へ行けば成功、そうでなければ失敗である。ちなみに本当に「林真須美に似た女社長がサインをしているブース前」で待ち合わせをするのは無謀だ。西館4階なら「世界の同人誌」コーナーが最適である。
 さて、何を書こうとしていたのだったか……。そう、携帯電話の話だった。でも、この話にオチはない。オチがないのにだらだらと書いてもつまらないので、ここでおしまいにする。じゃあ、最初から書くな、という異議は却下。

 今日は『イエスタデイを歌って』(3)(冬目景/集英社YJCビージャン)と『MとNの肖像』(4)(樋口橘/白泉社花とゆめCOMICS)を買った。ついでに最近買ったマンガで面白かったのを2冊挙げておく。『鋼の錬金術師』(1)(荒川弘/ENIXガンガンコミックス)と『まにぃロード』(1)(栗橋伸祐/メディアワークスDENGEKI COMICS)だ。なんか傾向ばらばら。

 『多情剣客無情剣』を上巻の半分くらいまで読んだ。引き続き読書に努めることにする。 

1.10255(2002/02/20) 本を切らす

 今日は少し後悔している。朝、家を出るときに『多情剣客無情剣』の上巻だけしか持っていかなかったことを。どうしてあの時下巻も一緒に持っていかなかったのか、悔やまれてならない。
 出勤途中に上巻を読み終えたが、続きを読もうにも手元に本はない。他の本でもあれば気が紛れるのだが、それさえもなかった。昼休みに本屋へ行ったが、家に帰れば未読の本が山のようにあるのがわかっているから、何も買わなかった。帰りの電車の待ち時間にも読む本はなく、ホームのベンチに腰掛けてぼんやりと線路を見ているだけだった。
 読書にあてられる時間はわずかだ。なのに、その貴重な時間を無駄に費やしてしまったのは残念でならない。
 ともあれ気を取り直して下巻に取りかかる。実を言えば大傑作というほど面白いわけではないのだが、その場その場で読者の興味を惹く要素が一つか二つは必ずあり、決して飽きさせることがない。私は武侠小説を読むのは初めてなのだが、有名な金庸の小説もこんな感じなのだろうか?
 今日のミスは手痛いが、この調子で読み続ければ今週中には読み終えることができる。では、次に何を読もうか、と考える。順当にいけば『クビキリサイクル』(西尾維新/講談社ノベルス)なのだが、『[異伝 徳川家康] 三百年のベール』(南條範夫/学研M文庫)も早く読みたい。
 『三百年のベール』は「幻の名作」として知られていたのだが、文庫で読めるとはいい時代になったものだ。南條範夫の小説は『燈台鬼』しか読んだことがないけれど、大阪圭吉の同題の小説よりも面白かった。ジャンルも趣向も全然違うから比べても仕方がないのだが。

 「肩の上の天使」について書いてから二日経ったが、未だに反応は全くない。この間に「たそがれSpringPoint」にアクセスした人はたかだか60〜80人程度だが、それでも一人や二人くらいは知っていてもおかしくないと思うのだが……。引き続き、情報提供を乞う。
 ついでに、もう一つミステリ用語について訊きたいことがある。それは「チェスタトンの藁人形」という言葉なのだが、これもいつどこで知ったのかよく覚えていないのだ。犯人が捜査の目をくらませるために偽の証拠をあちこちにばらまくことだと理解しているのだが、もしかしたら間違っているかもしれない。出典は明らかにポーストの『藁人形』で、それがいつの間にかチェスタトンと取り違えられてしまったようだ。この言葉を知っているという人は、是非ご一報を!。

1.10256(2002/02/21) ほんの雑談

 相変わらず『多情剣客無情剣』を読んでいる。あともう少しだ。

 昨夜、「たそがれSpringPoint」の更新を終えて『多情剣客無情剣』の続きを読もうとしていると、後輩から電話がかかってきた。『悪魔のミカタ』(うえお久光/電撃文庫)を読んだという。感想を尋ねると「この作者は修羅の門をくぐってしまった」と妙なことを口走った。かなり興奮している様子で、何を言っているのか理解しかねたが、大筋は以下のとおり。
 『悪魔のミカタ』は明らかにシリーズものの第一作として書かれている。だが、その続きを書くのは非常に難しい。一作目でこれだけのものを書いてしまうと後が続かないだろう。地雷原に足を踏み入れたが運良く一つも地雷を踏まずに生還したようなものだ。たぶん二作目では地雷を踏んでしまうのではないか。二作目以降も同レベルを維持できるとすれば50年に一人の天才だが、それを期待することはできない。
 後輩は今週に入ってから『空の境界』(奈須きのこ/竹箒)と『悪魔のミカタ』、そして『NHKにようこそ!』(滝本竜彦/角川書店)を続けて読み「頭の中がぐちゃぐちゃになった」という。私は『NHKにようこそ!』を読んでいないのでなんとも言えないが、少なくとも『空の境界』と『悪魔のミカタ』を続けて読むという経験がどのようなものであるかは知っている。言葉で説明はできないけれど。
 私は後輩にちょっと意地の悪い質問をした。
「で、『悪魔のミカタ』と『空の境界』はどちらのほうが上だった?」
「う〜ん」
 後輩は答えられなかった。
 もちろん私も答えられない。

 「たそがれSpringPoint」には主に三種類のネタがある。
  1. たいていの読者に理解できることを予想して書くネタ。
  2. わかる人にはわかるだろうが、別にわからなくても構わないというつもりで書くネタ。
  3. たぶん私以外の誰にもわからないネタ。
 3は端的にいえば「独りよがり」なので、あまりおおっぴらにやると見苦しい。だから表に出すのは1と2だ。2については、わからなくても「ここに何かのネタがある」と勘づけば、検索して調べることもできる。そして少しでも面白いと思ってくれれば、私の独りよがりではなかったことになる。だが、読者がどの程度まで理解してくれているのかは定かではない。「あのネタわかったよ」とでもメールか何かで教えてくれればいいのだが、今までにそのような事は数えるほどしかなかった。
 先日書いた『空の境界』の感想文は自分でも相当わかりにくいネタだと思いながら書いた。上の分類でいえば2にあたるのだが、ネットで検索した程度でわかることはない。原理的には「わかる人にはわかる」ネタなのだが、実際にはわかる人はいないと思っていた。たかだか100人程度の人しか、このページを見ていないのだから。
 ところが……わかる人にはわかるものだ。私が書きたかったこと(しかし、ネタばらしになるのではっきりと書けなかったこと)を全部見抜いて的確なコメントをつけている人がいた。凄い、と思うと同時に、ちょっと癪に障る。だから、それが誰かも書かないし、リンクもはらない。とりあえず、こっそりとブラウザの「お気に入り」に追加した。
 ウェブ上で文章を発表するということは、自分を理解してもらいたいという欲求のあらわれのはずなのだが、私はへそ曲がりなので、「まだまだ修行が足りない。もっと精進して誰にもわからない事を書かないといけない」と思ってしまうのだ。
 「パロディ」と「二次創作」について考えている。考えてはいるが、考えはまとまらない。前にもどこかで書いたように思うが、私は二次創作には否定的な立場をとっている。冷静に、客観的に「二次創作」の概念分析をしようと思っても、きっと自分自身のネガティヴな価値観がどこかに忍び込んでしまうだろう。だから考えをまとめることができない。
 ところで私はパロディに対しては二次創作ほど反感を持っていない。いや、この言い方は不正確だ。「パロディ」という語をもっとも標準的な意味に解する場合には、それに対して反感を持っていない、と言うべきだろう。なぜなら、同人界では「パロディ」は「二次創作」と極めて近い意味で用いられているからだ。
 言葉の問題が全面に出てくると、話を進めるのが厄介になる。以前、某ゲームメーカーのノベルゲームに、あるショートショートに酷似したシナリオが掲載されているのが問題となったとき、「パロディか、盗作か」という論争が起こった。その時、「パロディ」というのはもともと音楽用語だ、と主張する人が現れて議論が錯綜したことがある。私は論争に参加していたわけではないが、この主張には大いに驚いた。
 さて、「『パロディ』と『二次創作』」というテーマで何事かを述べる場合に、音楽用語としての「パロディ」にまで踏み込む必要があるのだろうか? なさそうな気もするが、「言葉の問題」という側面を無視できないとすれば、「パロディ」という語の系譜や意味の変遷について語らざるをえないだろうし、その中で音楽用語としての「パロディ」にも言及することになるだろう。想像しただけで気が遠くなりそうだ。

 今日の昼に「滅・こぉる」で検索して、ここに辿り着いた人がいるようだ。私のハンドルを知っているなら、「たそがれSpringPoint」のURIも知っていそうなのものだが……。

1.10257(2002/02/22) 『空の境界』の感想〜某氏の場合〜

 今日は思いっきり手抜きする。

 先日、知人の某氏(ハンドルくらいなら別に書いても構わないと思うが、いちおう名前を伏せておく)のウェブサイトに『空の境界』の感想文が掲載された。紹介したいと思ったが、そのサイトは一般に公開していないのでリンクをはることができない。そこで「たそがれSpringPoint」への転載許可を貰った。
『月姫』は、そのまま読み進めても素の感覚で楽しめる気軽さがあった(読み終わっても、引き続き再読して楽しんでました)が、『空の境界』は最初からプロットが前面に立ちはだかってきたことが無言の重圧として感じられ、かなり辛い。

しかも、ひっきりなしに忘却の妖精さんに襲われまくるタイプとしては、この手の構造が前面に来るタイプはメモをとらないと読めないと直感しているのに、なぜか『月姫』のときのメモ無し感覚で読み始めてしまい読了を困難に。我ながらアホです(;´д`)

しかし、読了後の感想としては、最初に思っていたよりも構造を気にしないで読める内容でしたね。もっとラストは途方も無い大技な構成になっているのではないかと本気で警戒していたんですが、むしろ全体が基本に忠実で安心。この小説の枠内に収まっている数と対比の量がすごいだけで、それを納めるための厚さだったのかと考えれば納得できます。
本日はまとめて読んだせいかもしれませんが、ようやくそう考えられるようになったら急に気が楽になり、後はかなりサクサクと読了。後から、もう一回再読しようと思いますけどね。
とりあえず、当方の考える「ミステリ読者」という仮想読者タイプに人気があるのがなぜかは理解できました。

あとは、この小説の時代設定が明治〜昭和初期だったら、最初からもっと魅力を感じて引き込まれたのではないかなとは考えますね。登場人物たちの心理描写や舞台背景は、こちらの考える昭和初期くらいを舞台にした小説やゲームのそれに近いように感じています。式 にしても、マンションにしても、女学校にしても。

女学校の話は昭和初期くらいのほうがより背徳感を増しただろうし、何より歪んだ建造物と魔術っていうと『サスペリア』や『インフェルノ』に出てくる魔女の館が有名ですが、あれもやはり現代建築ではなく1900年代以前だったしなーと。
ここで現代型マンションを出されても、どうしても『墓地を見下ろす家』のようなモダン・ホラーのイメージが強くなって、古めかしいところのある現代の魔術師たちやその後の物語とのバランスが合っていないように感じたりして、伝奇っぽい雰囲気を抑えているように感じる。

でも、他方では現代にしておくことで『月姫』との変な繋がりを作らずにすみ、読者が余計な邪推をすることなく1つの完結した作品として捉えられていいんですけどね。
 さて、某氏と同じ頃に別の知人も『空の境界』を読んでいた。私はその知人から聞いた意見を適当にまとめて掲示板に書いたが、それもついでに転載しておく。
長かった。全体の構成はしっかりしているが、場面ごとの描写は冗長で、勢いに任せて書いているように思う。菊地秀行と京極夏彦の影響が強すぎる。同人誌だから興味をもって読んだが、商業出版物だとちょっとつらい。『月姫』のほうがはるかに文章が上達しているし、引き締まっている。奈須きのこという人は自分ひとりの興味だけで文章を書くと暴走する傾向があるのではないか。他人の目と生活がかかっていて、適当なアドヴァイスを受けたときにもっとも才能を発揮できる性格だと思う。その意味で、武内崇という優れたパートナーがいたことは本人にとっても読者にとってもよかった。
 感想文ではなくて、会話の中で直に聞いたことをもとにまとめたものなので、あまり正確ではないのだが、どうせその知人はここを読んでいないので構わない。ここで、「商業出版物だとちょっとつらい」というのは、もちろん読者の立場からのコメントである。ちなみに私はこの意見には反対である。
 ところで、たぶんこのコメントを受けての事だとだと思うが、某氏は再び『空の境界』について語っている。これも引用する。ただし原文そのままではなく、「たそがれSpringPoint」掲載用に修正したヴァージョンである。本当は原文のほうが面白いのだが、面白い事はしばしば紛糾の種になることがある。
『空の境界』を商業で云々というのは、私は内容はあれでもいいと思うんですが、それ以前にページ数の面で絶対にアウトです。同人という特殊な世界が舞台で「同人ショップへの大量委託がある」っていう特殊条件が無ければ、あのページ数で計算した原価計算(仮に一万部以下)ではかなり高い採算分岐になるので、まず企画会議 で通せません。前回のその編集者の担当本がかなり売れていて、「売れなかったら自分が辞める」という条件でもつければ、もしかしたら説得できるところもあるかもしれませんが、そういう会社は逆に怖いです。どこまで真剣に経営を考えているのだろうかと。
あと、もしも大量に刷ったとしても漫画と違い小説は流通さんに苦い顔されて初っ端から倉庫行きになりやすい。あとからジワジワ売れて追加発注がきたとしても、それまでの倉庫代やその他諸経費がかさんで大変なことになります。そうなると営業活動で在庫分を少しでもさばこうと奔走する羽目になり、さらに営業の経費がかさんだりして大変だしと。
そういったことを考えて少しでも早く黒字が出るように採算分岐を調整しようと定価を高くすると、その分、購入読者を減らしてしまうわけで辛いことになります。

他にも対象読者層とか書店の統計とかいろいろ都合があるんですが、商業で出すなら不本意でも全体を章単位で削りまくって半分以下のページ数にしてもらうしかないことになるでしょう。乗り気になったのが大手の出版社とか、○○受賞作とかいう冠がつけば別ですが。
そういった点でも、これが『月姫』を経由して同人世界で出せたことの幸運を喜びましょうという感じです。
 これはもう「読書感想文」ではないが、別の意味で興味深い。私は"ものを売る仕事"を経験したことがなく、このような視点から物事を考える習慣もないので、某氏のこの文章にはちょっと意表をつかれた。
 そこで、ちょっと考えてみる。『空の境界』は新書サイズで上下巻ともに400ページ以上ある。同人誌でこのような体裁の本はあまりないので比較するのは難しいのだが、ぱっと見た感じでは一冊1500円、二冊あわせて3000円(税抜き)というのはかなり安いと思う。
 では、商業ベースではどうだろうか? 今手元にある『21世紀本格』(島田荘司・編/カッパ・ノベルス)は600ページ以上ある分厚い本だが、税抜き1143円だ。『クビキリサイクル』(西尾維新/講談社ノベルス)は400ページ弱で税抜き980円。たぶん一般の書店で『空の境界』がノベルスの棚に並べられていたとすれば、1500円はちょっと高めだと思うことだろう。要するに同人誌と商業出版物とでは「値ごろ感」が違うということだ。
 もし『空の境界』を商業出版物として出すなら、たぶん一冊1000円程度に値段を設定することになるだろう。それで一万部刷ったらどうなるか……と考えようとしても私は本の原価計算ができないのでどうしようもない。ただ、商業出版の場合には上下二冊本というのは分が悪いだろうと想像はできる。同人ショップで上巻だけ買う人はめったにいないだろうが、一般の書店なら「とりあえず上巻だけ買って読んで、面白かったら下巻も買おう」と思う人はかなりいるのではないか。上下巻同時発売のときの売り上げの差についての統計データがあれば面白いのだが……当然、私はそんなデータを持っていない。

 尻すぼみになってしまった。

 上下巻の本の話から強引に『多情剣客無情剣』に話をもっていく。今日、下巻を読み終えた。今週中に完読するという目標が果たせてほっとしている。
 面白かった。その場凌ぎの面白さではあるけれど、活劇小説はだいたいこんなものだろう。大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなるのではないかと期待したのだが、最後はこじんまりとまとまっていて、やや不満も残る。
 ミステリ系のサイトではあまり話題になっていない(当たり前だ)ので、ちょっとあらすじの説明をしておく。
 舞台は中国、時代は……よくわからないが明代か? 武術に長けた英雄ともならず者ともつかない人々の間でやたらと殺し合いが起こっている、そんな時代だ。主人公は小刀の使い手、李尋歓。彼は「小李飛刀に仕損じなし」と恐れられている。その李が流浪の旅の中で何度となく危機に見舞われ、敵に襲われ、友を得て、友を失い、女に惚れられ、女に恨まれ、ついでに男にも恨まれながら活躍する物語である。
 全然あらすじの説明になっていないな。
 主人公の李尋歓は「中国版シラノ」ともいうべき魅力あるキャラクターだが、ヒロインの林詩音を「中国版ロクサアヌ」とは言いたくはない。女性キャラでは林鈴鈴のほうが魅力的だった。しかし「リンリンリン」とはまたいい加減なネーミングだ。全体の雰囲気はカーと清涼院流水を足して二で割ったような感じ。ただしカーはカーでも『三つの棺』とか『火刑法廷』のカーじゃなくて『ビロードの悪魔』や『九つの答』のカーだ。同一人物だけど。
 今日は鞄の中に『多情〜』の下巻のほかに『クビキリサイクル』を入れてあった。そして『多情〜』を読み終えると『クビキリ〜』を読み始めた。ふつうの長編小説なら読み終えてすぐに別の本に取りかかることはないのだが、この小説は全く胃もたれしなかったのでそれができたのだ。なんだかけなしているような感じだが、そんな事はない。ただ、あまり他人に積極的に薦める気になるような小説だはない。なぜだかはわからないけれど。

 金曜日の夜に雨が降ったら書こうと思っている話がある。今日は朝には小雨模様だったので「いよいよこの日が来たか!」と思ったのだが、昼にはやんでしまったので先送り。

 手抜きするつもりが三時間かかってしまった。鬱だ……。

1.10258(2002/02/23) 値ごろ感について

 今日は、次のキーワードについて書こうと思っていた。
  1. 『更級日記』と菅原孝標女
  2. 知識と教養
  3. 月をなめるな
  4. What The Tortoise Said To Achilles
 だが、どうもうまくまとめる事ができない。腕力にまかせて(といっても私は非力だが)書いてしまうとものすごく散漫な内容になってしまうように思う。また時間も4〜5時間はかかるだろう。今日は『クビキリサイクル』の続きを読んでしまいたいので、あまり時間がかかるのは嫌だ。そういうわけで、当初の予定を変更し、また手抜きに走ることにした。

 同人活動をやっている知人からメールが来て、昨日の文章についてのコメントがあった。以下、引用する。なお、文中にその知人が作った同人誌のタイトルが出てくるが、当サイトの方針により伏せておく。
ところで、貴君の日記の

>『空の境界』は新書サイズで上下巻ともに400ページ以上ある。
>同人誌でこのような体裁の本はあまりないので
>比較するのは難しいのだが、ぱっと見た感じでは
>一冊1500円、二冊あわせて3000円(税抜き)というのはかなり安いと思う。

だけど、ちょいと実感は違う。

当方の「××××××」は「156ページ、A5、500部」で、
本文印刷費は、23万円ほど……415円/冊との計算だった。
同人誌の印刷費は、ページ数に比例するので、
『空の境界』という本を仮に400ページと計算すると、
1064円/冊。
これに表紙加工代や諸々の費用が加算しても、
新書版だとA5サイズより印刷費が1〜2割安いので、
1000円/冊程度には収まるはず。
初版ロットが1000冊程度なら、900円/冊ぐらいだろう。

で、「1500円」という値段設定を考えると、
本屋や同人誌専門店に卸すと、
3割がマージンとして取られるので、
作者が手に入れられるのは1050円/冊となる。
送料などの手間を考えると、
この値段は、とても高いとも言えないけど、安くもない……
まあ、妥当な値段だと思う。
 具体的な数値を出して説明されると、なるほどと思う。実際には『空の境界』が1000部ということはないはずだし、私が買ったのは初版ではなかったので、この計算がそのまま妥当するということはないだろうが、一つの参考にはなる。なお、知人が作っている同人誌も文章主体で、コミケで売るだけでなく書店にも卸しているということを付記しておく。

 一瞬で書き終わった。やあ、これは楽だ。

1.10259(2002/02/24) 読書メモ

 昨夜、予定通り『クビキリサイクル』(西尾維新/講談社ノベルス)を読了した。今日はその感想を書くが、その前に一箇所引用しておく。175ページから。
たとえばね、とある天才を尊敬している人がいるとするじゃない。だけどそれには三種類あるんだ。その人が本当に好きで、憧れて、尊敬している人。純粋だね。二つ目は一つ目と似ているけれど、自分は完全に切り離して、対象を本当にすごいと思い、自分よりもそちら側を優先できる人。そしてもう一種類がその《すごい人》を好きになることで、その人のすごさに乗っかかることによって、自分の価値を上げようって連中さ。他人を生きがいにする、脳と腹が腐った連中だね。
 今あたためているネタの前振りにでも使えたらいいなと思って、忘れないように引用しただけだ。別にこの小説自体の感想とは関係がない。

 さて、この小説は優れた技巧と強引な力業から成り立っている。私が感心したのは、「首斬りの論理」(こんなところで「論理」という言葉を使いたくはないが、定着した用語なので仕方ない)がよく考えられているということだった。もうちょっと具体的に言えば、首斬りという一つの行為に、二つの意味合いを持たせたというところだ。さらに詳しく言うとネタを明かすことになるので省略。読んだ人には説明の必要はないだろうし。他方、強引だと考えたのは、どう考えても不自然な犯行計画(その計画を成就するためにはさまざまな条件が成立していることが必要だが、条件のうちのいくつかは犯人が制御できない種類のものであるので)を「大数の法則」などを持ち出して押し切っているところだ。
 冒頭の「登場人物紹介」に掲載されている人物は13人。「赤神イリア」とか「玖渚友」とか、ある意味では奇妙な、別の意味では平凡な名前が並んでいる。私は人物の名前を覚えるのが得意ではなく、あまり大勢の人物が出てくると混乱してしまうのだが、この小説ではそのようなことがなく助かった。ただ、いろいろ工夫しているわりにはあまりキャラが立っているとは言い難い。語り手の「ぼく」と玖渚友のコンビはたぶんシリーズキャラクターになるのだろうが、彼らの今後を読んでみたいとは別に思わなかった。それ以上に問題なのは、三つ子メイドに「萌え」がないということだ。私にはメイド属性はないので別に構わないが。
 ところで、叙述の仕方で少し気になることがある。たとえば「三日目(2)」に
 だけれどぼくは次の日の朝に気付くことになる。
 この三日間も十分に平穏な日常だったことに。
と書いてある(119ページ)が、このような書き方はあまりよくない。この記述はいつなされたものなのか、という問題が持ち上がってくるからだ。『クビキリサイクル』には、地の文に事実に反する記述が数多く含まれる(そして、そのような記述のすべてを排除することはほぼ不可能に近い)ので、「ぼく」がその場その場で見聞きしたことや感じたことの逐次的記述に徹したほうがよかったと思う。

 さて、『クビキリサイクル』の次は『三百年のベール』を読もうと思っていたのだが、この小説を読んだ知人の話では「評判ほど面白い小説ではなかった」ということなので、先送りすることにした。
 今月に入ってから読書意欲が増している。すっかり年老いてしまった私にとっては、これほど本を読みたい気分になるのはこれが最後かもしれない。蝋燭が消える寸前の最後の輝きだとすれば、この機会にふだんなら絶対に手にとることはない本を読むべきではないか、そう思った。そこで、今日『指輪物語』(J・R・R・トールキン/瀬田貞二・田中明子(訳)/評論社)を買ってきた。映画化されたこともあり、複数の版型の本が田舎の書店にも並んでいるが、私が買ったのはもちろん文庫版。全9冊だ。
 ちょっと無謀だったかもしれない。一冊3時間として全部で27時間。一冊に4時間かかるなら36時間だ。平日には一日1時間程度しか読書に割く時間がないので、一ヶ月かかってしまう。全部読むことができるだろうか?
 大丈夫、私は『荒涼館』を一週間で読んだことがあるじゃないか。そう自分に言い聞かせて不安をなだめようとするが、それでも不安はおさまらない。理由は下記のとおり。
  1. 『荒涼館』より『指輪物語』のほうが長い。
  2. 『荒涼館』を読んだのは十年以上も前のことである。
  3. ファンタジーは苦手だ。
 ともあれ、今晩から『指輪物語』に挑戦する。さしあたっては次の日曜日までに第一部を読みたいと考えているが……自信はない。
 今週につづき来週も「たそがれSpringPoint」をなおざりにする(予告なしに更新を中断する可能性もある)が、了承してほしい。了承してくれなくても、勝手にやるだけのことだが。そして、私がくじけそうになったら励ましのメールを送ってほしい。
 それでは、皆さん、ご機嫌よう!