女人道 of 2011koya-syokoukaiseinenbu

世界遺産のまち 高野山 で活動する高野町商工会青年部
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おかげさまで無事終了!

 10月23日、晴天にも恵まれ232名の皆様にご参加いただき、女人道を満喫していただきました。最後の景品コーナーでは、お土産で買って帰ろうと思っていたものやほしかったものが当たった人、高野山の特産品でいままで見たことのなかったものが当たった人などそれぞれですが、皆様に喜んでいただけてよかったと思います。
 来年の開催についてはまだわかりませんが、ご参加いただけた皆様から「楽しかったよ」「ありがとう」などプラスな言葉をいただくと、またやろうかな!という気持ちになります。
ご参加いただきました皆様、ありがとうございました。

商工会青年部一同

NYONIN-MITI is World Heritage

今から約1200年前、弘法大師によって開かれた高野山は、明治政府のもとに禁を解かれるまでの100年間、女人禁制(女性の入山を禁ず)が布かれておりました。また、修行の道場としての高野山でありますから、そこに住む僧侶は俗世間とは異なった日常を過ごしており、厳しい戒律の元、その身は仏門に預けたものとなっております。

とはいえ、縁の者に一目会いたいと思うところは人の心情。山内に7か所のお堂を設置し(女人堂)その場所のみ会うことを許されました。つまり女性は高野山の入り口(7か所)にある女人堂までは上ってくることができたのです。大門口、黒河口、不動坂口、相ノ浦口、大峰口、龍神口、大滝口の7口。この7つの入り口をつなぎ、高野山の外周を回るように「出来上がった」のが女人道です。
出来上がったという表現をいたしましたが、これは作られたのか、それとも一目会いたいという想いが募って歩んだ道が「女人道」になったのかは定かではありませんが、我々は後者を選んでおります。あえて申し上げるなら「祈りの道」です。

我々のまちにはこういった歴史を積み重ねてきた「たから」がたくさんあります。その一つ一つを大切に次の時代に繋いでいくこと、次の時代の人に守っていく思いを受け継いでいくことも、高野山にすむ若者として大切なことだと考えております。.

そして2007年世界遺産という冠はいただきましたが、我々にとっては生まれた時から大きな遺産であったこの道を多くの人に感じてもらいたい、多くの人に知ってもらいたいという思いから、「女人道めぐりハイキング」を開催し、7口をめぐるウォーキングと歴史の旅を楽しんでいただいております。

開催日は毎年10月第4日曜日。
途中の休憩所(女人堂あと)ではお饅頭やお茶の接待、参加者のチェック(安全確認)を行い、初心者の方でも安心で楽しくハイキングをしていただけます。長さは約16キロ。途中に少しキツイ坂道もありますが、険しいコースではなく、またコース自体も草刈りや整備を当部でさせていただいておりますので、風景とも満足いただけると思います。
是非みなさんでおこし下さい。

2014年度 青葉まつり前夜祭テーマ

「畏敬の念と「つながり」溢れる一夜となれ

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現存するお堂は1つ。

昔は7口のお堂ということで当たり前ですが7つありました。しかし、今では不動坂口にあたるところの女人堂だけが現存しており、当時の面影を顧みることができます。.

女人堂にはあるものが

女人堂の中に一人の女性の写真?が飾られております。現在調査中ですが、もし私の記憶が確かならば萱野イチノさんという方だと思います。彼女は高野山に初めて居住した女性です。もとは九度山の人ですが、旦那さんが漢方薬の薬師で山内に居住していたため彼女も山内居住を希望し、明治政府的には解禁となっておりましたので住むことにしたようです。ただ、政府はOKでも高野山的にはそうはいかないところもあったようです。

本当の解禁は日露戦争のおかげ?

千年以上続いた高野山の女人禁制は、明治5年(1872)の太政官布告によって解かれましたが、当時の高野山は、女性を山内へと受け入れる体制が整っていなかったため、山内は大混乱に陥ったようです。これに対応するかたちで山内独自の規制(山規)を定め、徐々に取り締まりを厳しくするなど、逆に女人禁制を解かずに強化する結果となりました。実際に女人禁制が解かれたのは明治5年から数えて34年後の明治39年(1906)でした。当時、日露戦争によって山内居住の男性が極端に減ることになりました。これに対応すべく留守を預ける目的もあって、女人禁制が解除されたともいわれています。