1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.1x(雑文過去ログ) 出ぬ杭は打たれぬ

1.11328(2005/03/12) 『ハイペリオン』を延々と読みました

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503b.html#p050312a

本日の進捗状況:『ハイペリオンの没落』(下)読了

ようやく折り返し地点に到着した(が、この後のほうがまだ長い)ので、更新を再開する。

本当は間をあけずに引き続き『エンディミオン』に取りかかるべきなのだが、その前にMYSCON関連で二冊ほど読んでおきたい本がある。具体的にいえば『月読』(太田忠司/文藝春秋)と『螢』(麻耶雄嵩/幻冬舎)で、前者は今回のゲスト作家の本、後者は読書会の課題本だ。今の私の読書ペースだと、この二冊を読むだけで半月くらいはかかってしまいそうなので、『エンディミオン』は後回しにする。

『エンディミオン』を読むのを先送りする理由はもう一つある。先日、私の使っているノートパソコンのディスプレイが突然故障して、画面が真っ暗になってしまった。今は外部ディスプレイを接続して使っているのだが、このディスプレイ自体が壊れかけなので、長く続けることはできないし、画面とキーボードを交互に見ているだけで肩が凝る。近所の電器屋で相談してみると修理をするにはメーカーにパソコンを送る必要があり、だいたい二週間程度かかるということだった。来週には日刊海燕オフが開催され、その関係でメールを送受信したりインターネットで調べ物をする必要がある。また、MYSCON前にはふだん巡回していないサイトもチェックしたいと思っているので、パソコンを修理に出すのは4月上旬にしようと思っている。パソコン修理中はこのサイトの更新も不可能になるが、その間に『エンディミオン』と『エンディミオンの覚醒』を読むことにすれば効率的だというのが、先送りのもう一つの理由だ。

と、『エンディミオン』をすぐに読まない理由はあと三つくらいあるのだが、多くの人びとにとっては特に興味のある話題でもないだろうから、この辺でやめておく。これでも書きすぎたくらいだ。

また、『ハイペリオン』と『ハイペリオンの没落』を読んだ感想も、たぶん多くの読者の興味を惹くことはないだろう。しかし、せっかくこれだけ読んだのだから、いちおうざっと簡単に書いておこう。

まず、何と言っても長い。長すぎるといってもいい。もしミステリなら、それだけで欠陥商品だと断言するところだ。『ハイペリオン』はミステリではないので、そこまでは言わないが、それでも長いことに違いはない。いろいろネタが詰め込まれてはいるが、常に緊張感に満ちているわけではなく、ところどころにダレ場があってうんざりした。もう少し短くまとめることはできなかったものだろうか?

私はあまりSFの知識を有してはいないし、センス・オヴ・ワンダーを肌で感じられるほど感受性が鋭くもない。個々のネタについて的はずれな意見を述べるのは差し控えておくべきだろう。ただ、『ハイペリオン』の「司祭の物語:神の名を叫んだ男」の中核的なアイディアは凄いと思った。そして、『ハイペリオンの没落』下巻の472ページに至って、思わず驚嘆の叫びをあげそうになった。これは、Junk Landで現在連載中の「物語と論理」(今ならここで全文が読めるが、このシリーズが終了したら抹消されることだろう)で用いられているキーワードを借用していえば、解釈の論理によるもので、唯一無二の解ではないし冷静に考えればいろいろと不自然な点もあるのだが、伏線の力で納得させられてしまった。

余談だが、私はどうも「解明の論理/解釈の論理」という用語法が気に入らない。「男社会の論理」のように「論理」を「ものの見方考え方の枠組み」という意味で用いるのに比べると若干ましだが、それでも本来の論理を超えた事柄を「論理」という語に負わせているような気がするからだ。もっともMAQ氏が考えた言葉ではないので、ここでケチをつけても仕方がないのだけど。

閑話休題。『ハイペリオン』の感想に戻ることにする。あ、でもこれ以上書くことはないや。読んでいる間に気になった通俗的なガジェットの多用とか、ちょっとごまかしっぽい叙述形式とか、その他いろいろな疑問点はことごとく『ハイペリオンの没落』の解説(大森望)で掬い上げられていた。

というわけで、『ハイペリオン』の感想はこれでおしまい。

1.11329(2005/03/13) 博物館の自由とロリイラスト

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503b.html#p050313a

図書館には「図書館の自由」という理念があるということはよく知られている。知らない人は図書館の自由に関する宣言を読んでほしい。図書館の自由をどこまで認めるべきかというのは大きな問題で、私はこの問いに明確な見解を持っているわけではないが、原則的には図書館の自由はもっともな理念であり、尊重されるべきだと考えている。

さて、あるきっかけ(それについては後述する)から、私はこんな事を考えた。図書館に「図書館の自由」が認められるなら、博物館にも「博物館の自由」が認められるべきだろう、と。だが、私は「博物館の自由」という言葉をこれまで見聞きしたことがなく、本当にそんな理念があるものかどうかわからなかった。

そこで、調べてみると昭和天皇コラージュ訴訟事件の富山地裁判決日本ユニ著作権センターから。余談だが、このサイトには著作権絡みの興味深い判例が多数掲載されている。一度じっくり通読してみたいものだ)が見つかった。この事件については「ああ、そういえばそんな事件もあったなぁ」という程度の記憶しかなかったのだが、「事実及び理由 > 第2 事案の概要 > 二 争いのない事実及び証拠により容易に認められる前提事実 > 4 本件作品、本件図録の廃棄等を求める動き」を読んでぞっとした。昭和61年の出来事だと書かれているが昭和6年の間違いじゃないか、などと馬鹿なことを考えてしまったくらいだ。

それはさておき、この判決文をみると博物館の自由(事件の舞台が富山県立近代美術館だったので「美術館の自由」とも書かれているが、美術館は博物館の一種だから、ここでは「博物館の自由」に統一する)について、原告側は当然存在するものという前提で論じており、被告側は不明確なものだと主張している。そして裁判所は、判断を回避している。また三者とも図書館の自由については言及していない(ということは、図書館の自由そのものが援用するに足らないあやふやな理念だということだろうか?)。

私が知りたかったのは、公立博物館が公権力からどの程度の独立性を有しているものなのかということだったのだが、よく考えるとこの裁判の被告は富山県と富山県教育委員会教育長であって、富山県立近代美術館ではないのだから、そもそもそんな事がこの裁判の主要な論点になるはずもないのだった。ところで、なんで教育委員が被告になっていないのだろう?

さて、私が「博物館の自由」などという言葉を思い浮かべたきっかけは、愛する子どもの守り方というサイトだ。

  1. 文化庁メディア芸術祭についての問合せ(3/5付)
  2. 文化庁と東京都とは少子高齢化問題に不真面目な印象を与えます(3/6付)
  3. さすが文化庁さん(3/6付)
  4. おたく系アートに対する、東京都写真美術館の奇妙な返答に感謝(3/6付)
  5. たくさんのコメントをありがとうございました(3/9付)
  6. 女性のコメントを募集します(3/10付)

だんだん論点がずれていっているのでまとめにくいのだが、最初のほうに限っていえば、東京都写真美術館で開催されている(今日が最終日!)グローバルメディア2005 おたく:人格=空間=都市(以下「OTAKU展」と呼ぶことにする)のポスターやチラシのイラストについて、主に文化庁に対して質問と要望を行っている。

で、なんで文化庁に対してなのだろう?

しかし、1件非常に気になることがあり、どこに問い合わせていいのか分からないのでこちらにトラックバックします。(引用に際して文中の改行を省略した。以下同じ)といちおう説明はされている(なお、トラックバック先は文化庁メディア芸術祭特設ブログ)が、そのすぐ後にそれは、同事業が協賛し、東京都写真美術館で開催されているグローバルメディア2005/おたく:人格=空間=都市(主催:東京都/東京都写真美術館ほか)の広告・チラシの内容についてです。と書いているのだから、筆者は文化庁がOTAKU展の主催者ではないことを承知しているはずなのだが……。OTAKU展は文化芸術祭の同時開催イベントに位置づけされているに過ぎないのだから、まずは東京都写真美術館に話をするのが筋というものではないだろうか?

その後の経過をみると、メディア芸術祭の広報担当者とおぼしい人物が東京都写真美術館に連絡をとった旨を述べ、さらに東京都写真美術館学芸課長と称する人物が回答している。にもかかわらず、私は、おたくイベントを側面支援されている文化庁さんのご担当者にまずお話をしたいのですが。とか私が文化庁のメディア芸術祭特設ブログにトラックバックしたそもそもの理由は、「おたくアートを文化庁が側面支援する理由」なのですから。(あれ、どこに問い合わせていいのか分からないからではなかったのだろうか?)とか、あくまでも文化庁を相手どるという立場を崩さない。

いったい、これはどうした事なのだろう?

メディア芸術祭の主催者としての文化庁がOTAKU展に関与するのは、それをメディア芸術祭の同時開催イベントとして位置づけるかどうかという点のみであって、OTAKU展の運営に異議や不満があっても介入することはできないはずだ。嫌なら協賛しなければいいだけのことだから。とすると、愛する子どもの守り方では必ずしも明確に示されているとはいえないが、文化行政を所管する官庁としての文化庁の機能に着目し、その指揮監督権限を期待しているのではないだろうか。とすると……いや、明示的に書かれていない事柄を勝手に読み込んで批判するのは危険だ。この辺にしておこう。

おまけ。

立石大河亞の「昭和素敵大敵」田川市美術館所蔵)には昭和天皇の顔が描かれている。

1.11330(2005/03/13) 他人の間違いを鬼の首でもとったかのようにあげつらうはずだったのに横道にそれてしまった話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503b.html#p050313b

エキサイトブックスの現代作家ガイド栗本薫の紹介文(ライターは海燕氏)が掲載されたので読んでみたところ、一箇所間違いがあることに気づいた。

文学賞受賞歴の項で

と列挙されているのだが、中島梓名義で発表されたのは「文学の輪郭」のほうで、「都筑道夫の生活と推理」は栗本薫名義の作品だ。これは評論なので、つい中島梓名義だと勘違いしてしまうのもわかるのだが。

と書いたところで、自問した。待てよ、もしかして間違っているのは私のほうかもしれない。本当は「都筑道夫の生活と推理」は中島梓名義なのに、誰かが間違えて栗本薫名義だと紹介して、それを鵜呑みにしていたという可能性は否定できないではないか。そこで、記憶を辿ってみたものの、「都筑道夫の生活と推理」が栗本薫名義の作品だという情報を私がいつどこで知ったのかということなど、もう思い出すことはできない。

ネットで調べてみると幻影城新人賞受賞作リストが見つかった。そこでは「栗本薫」とはっきりと記されている。現在別名義で活動している人については、「田中芳樹(李家豊)」というふうに当時の筆名を括弧書きしているが、栗本薫にはそのような補記はないから、その名義で発表したものとみて間違いないだろう。よかった。私は正しかった。

と書いたところで、どうせだから現物で確認してみようと思い立った。私は以前、知人から「幻影城」を格安で譲ってもらい、本誌に限れば全部持っている。ほとんど手つかずでほこりをかぶってしまっているが、こんな時にこそ活用すべきではないか。そう考えたのだ。

そこで私は本の山から「幻影城」を発掘する苦難の旅に出たのだが、その詳細は省略して結果だけを述べると、やっぱり「都筑道夫の生活と推理」は栗本薫名義だった。「幻影城」1977年1月号(NO.26)に他の二篇の佳作受賞作とともに掲載されている。ちなみに小説部門の発表は翌2月号だ。

これで検証は完了した。後は鬼の首でもとったかのように騒ぐだけなのだが、その前にこの第2回幻影城新人賞にどのような作品が応募していたのか、ざっと見てみようと思った。前年12月号の中間発表で評論部門・小説部門とも第一次予選通過作品のタイトルが掲載されている。

まず評論部門をみると、

が目にとまった。私は密室とか不可能犯罪とかにうんざりして今ではほとんど読む気にならないのだが、それでもこんなタイトルに目が向くのは業というものか。

また、

というのもあった。確か新保博久氏のデビューは角川文庫の天藤真の本のどれかの解説だったはずだが、「幻影城」の時代に既に評論を書いていたとは。

次に小説部門を見よう。タイトルが面白いものや印象に残ったものを適当にピックアップしてみる。

こうやって抜き出してみると、なんだか一時期の春陽文庫のようだ。

もう一つ、タイトルはさほどインパクトが強いわけでもないのだが

というのもあった。人に歴史あり。いや、別人かもしれないけれど。

1.11331(2005/03/17) どうでもいい話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503b.html#p050317a

「もえるるぶ 東京案内〜史上最濃!やくにたつ萌え系ガイドブック」(JTBパブリッシング)に掲載されている秋葉原の地図を見て気づいたのだが、私はまだ秋葉原に行ったことがない。いや、行ったことがないというのは言い過ぎかもしれない。電車で通過したことはあるのだから。

手許に「もえるるぶ」がある人は018〜019ページを開いてもらえばいいのだが、持っていない人はYahoo!の地図でも見てもらいたい。そこが秋葉原だ。日本農業新聞に用があって秋葉原を訪れたことがある人もいるかもしれないが、少なくともオタク的嗜好とは何の縁もない街だ。

もしかすると、こんな事は「品川駅は北品川駅の北にある」とか「和歌山県に富士山が見える場所がある」とか「府中市は東京都と広島県にある」という類の常識なのかもしれない。だが、私にとって真の秋葉原の所在は予想外の新発見だったので、あえて記す次第。

はるか大昔、まだ私が『ハイペリオン』を読み始める前に、『神様家族』(桑原由一/MF文庫J)と『よくわかる現代魔法』(桜坂洋一/スーパーダッシュ文庫)を交互に読むことにしていた。『ハイペリオン』と『ハイペリオンの没落』のせいで、その試みは一時中断していたのだが、このたび再開し、さくさくと一日一冊のペースで読み進め、今日両シリーズの既刊を全部読み終えた。

ライトノベルは読みにくい、という声も聞かれるが、少なくとも海外SFに比べれば格段に読みやすいということを改めて実感した。

『よくわかる現代魔法』はよく「1巻はあまり面白くないが2巻以降は飛躍的に面白くなる」と言われている。私は2巻で急に面白くなったような印象は受けなかったが、巻を重ねるごとにどんどん水準が上がっていっているのはわかった。1巻で投げ出した人も続巻を読んでみることをお勧めする。

『神様家族』のほうは最初から一定のペースを保っている。といってもサザエさん状態に陥っているわけではなくて、少しずつ話は進んでいる。神様が出てくるとどうしても思想的要素が混じってくるもので、そういった内容が全然ない同じ作者の『南青山少女ブックセンター』のほうが気に入っているのだが、これは個人的な好みなのでどちらが上とか下とかいうようなものでもない。

これで、明日からは先月と今月のライトノベルの新刊に取りかかることができる。

あれ、『月読』は?

『螢』は?

数日、更新をさぼっている間に白翁氏が失業メイド・名駅メイコ【二】を発表していた。これで完結のようだ。失業メイド・名駅メイコ【一】のときにはまだ続くそうなので感想は差し控えておくと先送りにしたが、今度はちゃんと書いておくことにしよう。

第一印象を一言で表すと「きまじめ」または「きちょうめん」ということになる。二言になってしまったが。どこがどうきまじめできちょうめんなのかはうまく説明できないが、そもそも第一印象などというものは説明不可能なのだから気にしてはいけない。

私は悲喜劇名詞に掲載されている白翁氏の小説は一通り読んでいるが、私には感想が書きにくいものばかりだ。なぜ書きにくいかというと、白翁氏の小説は要約して粗筋を語るのが難しいという特徴をもっているからだ。ストーリーとか大まかな構成とか、そんなところに着目して何かを述べようとすると、細部のちょっとした言い回しや微妙なリズム感のようなものが抜け落ちてしまう。かといって、一言一句を取り上げてあれこれ言うのはバランスを欠く。だから感想が書きにくい。

私の考えた設定は白翁氏の作風を無視したものだったため、「失業メイド・名駅メイコ」は木に竹を接いだような作品になってしまっているが、小説全体の構造をあえてフラットにすることにより語り口や小ネタの味わいを際だたせるというスタイルは、うまく書ければ面白いものになるのではないかと思う。

ところで、これは小説ではないが細菌学者コッホについての変な着想は非常に面白かった。これはかなり変だ。

1.11332(2005/03/19) イタリアンとナポリタンはどう違うのでしょう?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0503b.html#p050319a

日刊リウイチk3/18付の記事を読んでいると、次のような一節があった。

ただ「イタリアン」なる食物についての毀誉褒貶が取りざたされてそれが僕の好きなケチャップスパゲティではなく新潟あたりで人気の食べ物だったとしても僕の好きな「イタリアン」に影響が及ぶ可能性が皆無ではないよーに、朝日が取り上げたことで「ライトノベル」のブームも終焉だって思われてしまって、そのとばっちりを僕が読むライトノベルに波及しないとも限らないだけに、警戒だけは強めておく必要がありそー。幸いにして斎藤環さんと対談している大塚英志さんは斎藤さんがいくら「ライトノベル」と言っても頑なに「ライトノベズル」と言って明確な区別をつけている。

この文章は「ライトノベル」の呼称を巡るものであり、「イタリアン」は単に引き合いに出されただけなので、ことさら取りざたするのは筆者の意図に反するのはわかっているのだが、この引用箇所の少し前で言及されている朝日新聞好み(?)の作家の面々を新潟イタリアンにたとえる発想が面白かったので、紹介してみた。

まあ、新潟イタリアンを食べたことのない人には、この面白さは理解できないことなのだが。

新潟といえば、彼の地の人海燕氏を迎えて第1回海燕オフが本日大阪で開催される。迎え撃つ幹事は石野休日氏、参加者は総勢およそ15人。私は先月石野氏から海燕氏迎撃歓待態勢の構築に関して相談を受けた。石野氏と談合(「談合」という言葉は今はかなり狭い意味で用いられるが、もとは相談して物事を決めるという程度の意味だ)のうえ、初の来阪となる海燕氏のためにコテコテの大阪巡回ルートを考案した。以下はその一部。

そろそろ出かけないと間に合わなくなるのだが、最後に一つだけ別の話題。ライトノベル・ファンパーティー公式サイトで一般参加の受付期間の告知が出たが、併せて「一般参加の企画内容変更についてのお知らせ」という告知も出ている。詳細については公式サイトを参照していただきたいが、要するに一般参加者のコメント数を集計しないということだ。

私はラノパの関係者でもないし、特に協力も協賛もしていないのだが、この方針には大いに賛同する。その理由は、読書量も読書傾向も異なる人々を母集団とする企画で、どの本を読みどの本を読まなかったかという情報を無視して、単純に得票数のみを集計して得られた数値は、統計的にみてただのゴミだからだ。なお、私は順位づけそのものを否定するわけではないので、ラノパスタッフの立場とは若干異なるが、今回の企画内容の変更を支持することにかわりはない。

ただ、ちょっと危惧する点がないでもない。集計を廃止するということは、元データ(個々の参加者のコメント)の重みが増すということにるので、読書系&書評系サイト管理人以外の人にとってラノパの敷居が高くなってしまうのではないか。多くの人々がそれぞれの立場からラノパに参加して楽しめるようにするためには、前回以上の工夫が必要になることだろう。

先ほども書いたように、私はラノパに協力も協賛もしない(もしかしたら一般参加はするかもしれない)けれど、外から生あたたかい目で見守ることにしよう。