【日々の憂鬱】高速道路と整備新幹線に将来の夢を託すのはいかがなものか。【2004年11月下旬】


1.11218(2004/11/21) 我等がアラビアン・ナイト

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041121a

はじめに

今日の見出しは天城一の短篇のタイトルから。しかし、別に天城一関係の話題ではない。


前回のあらすじ

なぜだか急に人生に疲れたで『万物理論』を投げ出して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言い残して私は外出した。行き先は"みんぱく"こと大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立民族学博物館だ。関西文化の日で入場料が無料だったので、この機会に特別展「アラビアンナイト大博覧会」を見ようと思ったわけである。


最近読んで印象深かったネット上の記事・その1

好き好き大好きっ11/18付の記事(無題)から。

誰かに悪い事をしたときには当然、「謝る」ということが必要になってくるわけですが、しかしよくよく考えると、謝る言葉の中でも、「許してください」というのは、わりと傲慢な態度に値するんじゃないかなー、と思うわけです。

謝罪と赦免は表裏一体なので、赦免を求めずに謝罪だけを行うことは実際問題としてはまず不可能なわけだが、それでも赦免要求が前面に出すぎるのはあまりよくないだろう。

ところで、謝罪の言葉を連呼るのが失礼になる理由については、一般に言葉はあまり繰り返しすぎると意味が強まるどころか、逆に意味が剥落していくからだと思う。


東ティモールと規約主義と人称代名詞

東ティモールでは長年紛争が続いていたが、2002年5月20日に独立を達成した(参考:外務省ウェブサイトの「東ティモール民主共和国」のページ)。2040年のことではない。未来予測というのは難しいものだ。

数学や論理学の命題のもつ必然性を規約の概念で説明する立場が規約主義である。月曜日の次の日が必ず火曜日になるのは我々がそう取り決めたからだが、数学や論理学にも同様の取り決めがある、と考えるのだ。規約にはそれを行う人間が必要なので、この考え方はある意味で人間中心主義の一派ともいえる。穏健な規約主義者は、公理と推論規則だけ規約により定めておけば後は自然に定理が定まると考える。他方、過激な規約主義者は、定理の発見や証明の過程で新たな規約が導入されているという大胆な説をとる。

昔、「彼」は男女の区別なしに用いられた。ところが、西洋語の影響を受けて、「彼」は男性のみを指す語に変化した。中国では「女扁に皮」の漢字を新たに作ったが、日本では「彼」のあとに「女」をつけて、二文字の「彼女」にした。こうして男女の非対称が生じた。ホフスタッターは「男扁に皮」で男性の人称代名詞とすることを提唱しているが、この新字が中国で受け入れられたという話は聞かない。日本語なら「彼男」という造語が考えられるが、今のところ一般的ではない。


最近読んで印象深かったネット上の記事・その2

十三星の天戒の日記キューブ野望帳の11/20付「最後の買い物」から。

コミックビームを買いに行きました。いつもいく本屋さん。決して客足が多いわけではない、小さなお店なんですが、それなりに漫画の揃えも良く、漫画を買う時はいつも通っていた本屋さんです。そもそも今日はちょっと用事があって、その帰りにその本屋さんへ行くことになったのです。用事さえ入らなければ、1週間後くらいに行く予定でした。

お店の前には自転車や車が沢山停めてありました。なんだろうな、と思ってお店に入ると、見たことも無いほどの沢山の人がお店の中にあふれていました。壁際に目をやると、そこには「閉店セール」と書かれたチラシが多数貼ってありました。愕然としました。

業種は違うが、ワルツ堂破産セールを思い出してしまった。


エロティック・ファンタジー

アラビアンナイトの設定を知らない人はいないだろう。もしかしたらいるかもしれないが、調べりゃわかる。あまりお子様向きではない状況でシェヘラザードは王に物語を聞かせるのだ。

「アラビアンナイト大博覧会」の目玉はモンキー・パンチ原作のアニメ「ヤング・シェヘラザード」だったのだが、そもそもモンキー・パンチというのが解せない。公共団体の御用達漫画家といえば松本零士で決まりではないか。あまり期待せずに見たら、そこそこ面白かった(特に金ぴかの人形がえっちな踊りをおどるのがよかった)が、全然モンキー・パンチらしくなかった。

アニメは順路の最後のほう(この図を参照)だったのだが、よく見ると階段の脇の奥まったところにひっそりともう一つの展示室があった。それが「第3部5:エロティック・ファンタジー」というコーナーだった。

……いや、国立博物館でSMアラビアンナイト人形などというものを見ようとは夢にも思わなかった。しかも、みんぱくの所蔵品だ。

会期は12/7までなので、興味のある方はお早めに。


最近読んで印象深かったネット上の記事、というか画像

一つお前に言っておく(情報もと:夜をぶっとばせ

ノーコメント。


おわりに

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」ではなく、「I shall return」と書いておけばよかった。

今日ようやく『万物理論』を読み終えた。だが、私は京フェスには行けない。なぜなら、もう終わってしまったから。

昨日私が言及した、チャットで話をした人は、その後の調査によりTakaakira sayのタカアキラ氏であることが判明した。妙な取り上げ方で申し訳ない。

なお、『万物理論』の感想は既に書いたとおり。ようやく重荷を下ろしたので、次は『南青山少女ブックセンター(2) 少女のリハーサル』(桑原由一/MF文庫J)を読むことにする。

1.11219(2004/11/22) ライトノベル中のライトノベル

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041122a

というわけで、『南青山少女ブックセンター(2) 少女のリハーサル』(桑原由一/MF文庫J)を読んだ。さくさくと読めた。身構えて感想を書くような本でもないし、他人に薦めるのがちょっと恥ずかしい気もするので、1巻の時と同様にノーコメントということにしておこう。

その代わりに、微妙な一節を引用しておく。特に印象深いとか、この作品の根幹に関わるとか、そういったことは全然ないのだが……。

正直に言ってしまえば、その時、マリオは、恋いに落ちていたのである。

「落ちてねえよ」

落ちてなかった。

マリオというのは主人公の少年。状況説明は省略。以上。

1.11220(2004/11/23) 愛は金で買えますか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041123a

はてなダイアリー - 東京猫の散歩と昼寝11/20付の記事に対するコメント欄の書き込み、及び、11/22付の記事で、愛は金で買えるかどうかが話題になっている。上記コメント欄で、jouno氏は、これは簡単な話で、たとえば愛という言葉をそういう意味で使用する人は、意図的に達成されたものは、愛と言う言葉で呼ばない、というだけの話で、いってみれば純粋に「規約的」な問題です。と述べている(意図的に達成するということは、必ずしも金で買うことばかりではないが、便宜上同一視することにしよう)。つまり、「愛」という言葉を用いる人が「なんであれ、金で買えるようなものならば、それを『愛』とは呼ばないことにする」と考えるなら、愛は金で買えないだろうし、そのような規約がないなら、愛は金で買える(より正確に言えば、愛が金で買えるかどうかは経験的な問題となる)ということだろう。

この意見を受けて、tokyocat氏は愛と金についてそれぞれ「買える愛/買えない愛」及び「愛としての金/愛ではないものとしての金」という規約の使い分けへと話を進めている。

さて、「規約」という言葉は錯綜した問題を一刀両断にできる便利なものではあるが、もちろん万能の武器ではない。それは既にjouno氏がクワインへの言及で示している。

私見ではこの問題は「愛」についての規約で問題が解消されるわけではない。なぜなら、「愛」はさまざまな価値観や行動様式の結節点であり、単純な規約により意味の固定ないし変更が可能とは思えないからだ。では、「愛は金で買えるか?」は本当に解決が必要な真正の問題なのだろうか? それも違うような気がする。どう考えてもこれは疑似問題だろう、と思えてならないのだ(「真正の問題/疑似問題」という二分法自体がクワイン的な立場からは問題視されるものだが、話がややこしくなるので、ここでは目をつぶっておく)。

で、私が思いついたのは次のような考えだ。「愛は金で買えるか?」は「買う」という言葉をどういうふうに用いるかという問題である。金銭を渡したり、誇示したりする行為が原因で、他人の愛情が結果となるような一連の出来事があったとして、その出来事を「愛を金で買った」と記述することに同意するかどうか。「買う」の用法をここまで拡張していいなら、愛を金で買うことは可能だろうし、このような拡張を認めないなら、愛を金で買うことは不可能だろう。

しかし、よく考えてみれば、こういうとらえ方をしたからといって、この問題を疑似問題だと割り切るのは難しい。我々は「千円札10枚で一万円札1枚を買う」という言い回しを適正なものとは認めないが、「円を売ってドルを買う」という表現はごく自然に受け入れている。「買う」という言葉を巡る我々の言語的振る舞いはさまざまな局面に及び、非常に込み入っているので、「愛を金で買う」という表現の是非だけを規約で片づけるのは難しそうだ。

ところで、この問題とは全然関係はないが、ちなみにハルキとかくと角川春樹みたいです。というコメントには笑った。ちょうど私の手許には『ねじまき鳥クロニクル』があるので、これから読むことにしよう。

1.11221(2004/11/23) 愛はさだめ、さだめは死、死はわが友、友を選ばば三銃士

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041123b

その昔、といっても二、三年前のことだが、私はサイト更新のネタにつまると、サイト運営そのものをネタにした。この種の自己言及ネタは概してつまらないのだが、中には書いた本人の予想以上の反応が得られる話題もあった。思いつくまま書き出してみよう。

  1. 直リンクの是非
  2. 情報もとサイトの記載の要不要
  3. 馴れ合い
  4. アクセス数至上主義

1〜3は今でもときおり話題になるので、まだ関心がある人も多いのだろう。そのうちネタに詰まったときに過去の記事を焼き直そうと密かに考えている。だが、4だけは取り上げようがない。昔とは違って、今はサイト管理人も閲覧者もアクセス数をほとんど重視しなくなっており、「アクセス数至上主義」という言葉がほとんど死語と化しつつあるからだ。

その昔、ウェブサイトに関わるコミュニケーションの実態について客観的な指標といえば、カウンターが示す数字しかなかった。カウンターが本当に客観的かと疑うことは可能だが、他にものさしがないのだから、さまざまなサイトを格付けして「大手」とか「弱小」とかレッテル貼りをするには、他に手段がなかった。しかし、今は事情が異なる。「blog」(未だに私はこの言葉を素面で用いるのに抵抗がある。もう2年以上も経つのに、どうしてもこの記事の衝撃を忘れることができないのだ)のコメント欄やトラックバック、アンテナ被リンク集、各種ランク付けツールなど、あるサイトが人々からどれくらい注目されているのかを示す目印はいくらでもある。

アクセス数が重視されなくなった理由として、私が考えていることはもう一つある。それは、ウェブ閲覧者の関心が従来以上に細分化し、アクセス数に代表されるような、単純な数的順序づけが馴染まなくなってきたということだ。もっとも、私はこの仮説を根拠づける材料を持っていない。

ともあれ、いまやアクセス数がテキストサイト(この言葉ももう死語か?)の話題になりにくくなっているのは確かだ。ということは、「大手サイト/弱小サイト」という考え方も廃れていると考えていのだろうか?

もしそうなら話は簡単なのだが、表だって言及されることが少なくなっただけで、案外今でも「大手/弱小」という思考枠組みが生きているような気がする。これもまた根拠がない印象論なので、あまり強く主張はできないのだが、そうはいってもここで話を打ち切るとあんまりなので、もう少し続けよう。以下、文末に「気がする」がついているものと思って読んで頂きたい。

カウンターがついていないサイトの場合は、一般の閲覧者には一日何ヒットしているのか確認不可能だが、カウンターがついているサイトの場合でも、わざわざカウンターを一日おきに見て表示された数字の増加の具合を確認することは滅多にない。また、上記のとおり、サイト内で自サイトのアクセス数に言及することもほとんどない。しかし、それにもかかわらず、「何となくこれくらいのアクセス」という先入観をもってサイトを閲覧している人は多い。もし閲覧者が「このサイトはかなりの大手ではないか」と思いこんだら、その「大手サイト意識」は特殊な事情のない限り打ち消されることはない。閲覧者がサイト持ちの場合、自サイトで当該サイトに言及する際に知らず知らずのうちに「大手サイト扱い」をしてしまうため、「大手サイト意識」は強化され、増幅される。当該サイトの本当のアクセス数を知っているのは、そのサイトの管理人だけで、自分の感覚と他サイトでの扱いのギャップを薄々感じてはいるのだが、誰も表だって当該サイトのアクセス数に言及しているわけではないので、正誤訂正もかなわない。そして、一人歩きした「大手サイト意識」が伝播していくことになる。

さて、今あなたが見ているこのサイト「たそがれSpringPoint」の一日あたりの平均アクセス数はいかほどだろうか?

以前、ある機会にこの問いを発したとき「1000〜2000くらい」という回答が返ってきて驚いたことがある。正解はユニークアクセスで322ヒットだ。意外と少ないでしょ?


もし「ドラえもん」を降板する声優たちを「ハルヒ」に回すとしたら……

1.11222(2004/11/24) 「やればできる」は呪いの言葉

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魔法にもいろいろあって、いい魔法は人を幸せにしてくれるが、悪い魔法は災厄のもととなる。「やればできる」はきっと悪い魔法の言葉だと私は思う。なぜなら、この言葉の対偶をとると「できないのはやらないからだ」という非難の言葉になるからだ。


愛は金で買えるかどうかを議論する前に、まず自分がどれくらいの金を持っているのかを確認しておく必要がある。愛の値段は知らないが、エルメスのカップよりは高いはずだから。


太陽はあたたかく、北風は冷たい。まるで正反対のようだが、北風も太陽の光であたためられた空気がもとになっている。覚えておいて損はない知識だ。


カルボナーラ風ラーメンの悲しい宿命について話そう。それは、いくらうまいものだったとしても、いや、うまければうまいほど、「なんで中華麺で作る必要があるんだ?」という疑問をかき立ててしまう。

1.11223(2004/11/25) 朝のつぶやき

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時間がないので簡単に。

とらのあな『moetan II』の紹介ページを見ると、長文のストーリー製作には、MFJ文庫にて『南青山少女ブックセンター』、『神様家族』など、ほのぼのとしたラブコメで人気を博す桑島由一氏を起用。と書いてあった。

……ほのぼのとしたラブコメ?

きっと、この表現は私がまだ読んでいない『神様家族』のみにかかるのだろう。そうに違いない。

関連(?)リンク:対話も感情もない「萌え」のむなしさ「萌えソングをV林田日記」11/24付のコメントも併読すべし)

1.11224(2004/11/25) ネガティブハッピー協会にようこそ!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041125b

今日の話題は別に滝本竜彦とは何の関係もないのだが、かなりネガティヴな話になることが予想されるので、次に掲げる人は読まないほうがいい。

上に掲げた条件に該当する人でも、絶対に読んだら駄目だというわけでもないし、仮にそう言ったところで強制はできないのだが、勝手に読んで勝手に不快な思いをしていちゃもんをつけられても困るのだ。お互い大人になろうよ。


前置きが長くなった。上の文章を書いているうちにストレスを発散したので、もうどうでもよくなってきた。もしかしたら、発散すべきストレスなど最初からなかったのかもしれない。

予定していたネガティヴな話題はやめて、どうでもいいネタでお茶を濁しておくことにしよう。

ゲーム的ファンタジーの功罪(情報もと:まいじゃー推進委員会!)という記事を読んで、久しぶりにファンタジーが読みたくなってきた。最近、ミステリがあまり面白く感じられなくなってきて、SFに手を出してはみたものの、続けて読むのはちょっとしんどい。で、ファンタジーでも読んでみようかと思ったのだ。

前にも書いたことがあると思うが、私の好きなファンタジーはルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』とかチェスタトンの『木曜の男』、日本ものなら夢野久作の『白髪小僧』などだ。よくは知らないが、たぶんファンタジーの本流からは外れていると思う。最近の作品で何かいいものはないだろうか?

脱線した。ゲーム的ファンタジーの功罪に話を戻そう。

「ゲーム的ファンタジー」という言葉は初めて見た。「ゲーム型探偵小説」なら知っているが、同じ「ゲーム」という言葉を使っていても、全然別物だろう。おそらく「ゲーム型ファンタジー」の「ゲーム」とは、ファンタジー的なゲームの事を指しているのだと思う。つまり、「ファンタジー的ゲーム的ファンタジー」ということだ。

……わけがわからなくなってきた。

具体例として挙げられている『デルトラ・クエスト』も『ドラゴン・スレイヤー・アカデミー』も読んだことはないが、当該記事の筆者によれば、一九七〇年代までのファンタジーとはその内容が大きく異なっているそうだ。残念ながら、「一九七〇年代までのファンタジー」の実例は挙げられていないが、かつてのファンタジー作家には、架空の舞台を借りて現実を描くのだ、という自負があり、登場人物ひとりひとりの作り方も多面的でリアルであった。というコメントから察するに、『白髪小僧』を念頭に置いているわけではなそさうだ。いくら架空の舞台でも登場人物が現実的だったなら似非ファンタジーではないかと私は思うのだが、この考えには異論もあるだろうし、何が何でもこの主張を押し通したいという熱意があるわけでもない。

ただ、この記事のいちばん最後の一段落だけは何が何でも拒否したい。

続々と出版されるゲーム的ファンタジーが、人間の心理を理解することが不得手で現実を見ようとしない子供をつくりだすことになってはいないのかどうか、売れ行きだけでなく、そのあたりも考えてみてもらいたい。

結びの一言は「考えてみてもらいたい」だが、暗にゲーム型ファンタジーが子供に与える悪影響を示唆しているのは間違いない。だが、朝から晩までファンタジーばかり読んで他の活動を全くしないというような極端な事例を想定するのではない限り、ここで示唆されている事柄は自明なことではない。

だったら、何か根拠を示すべきだ。それができないのなら、黙っておけばいい。

つい最近、私はこれとよく似た飛躍のある文章を読んだことがある。対話も感情もない「萌え」のむなしさだ。奈良の少女拉致殺人事件と"萌え"を強引に結びつけるという荒技に私は驚き、そして呆れた。

あ、いかんいかん。お茶を濁すはずだったのに、つい生の感情(「せい」の感情ではなく、「なま」の感情です。念のため)をぶつけてしまった。落ち着いて自制しなければ。

さあ、深呼吸しながら、ゆっくりと「世界と私の間には薄くてしなやかな膜がある」と三回唱えるんだ。

世界と私の間には薄くてしなやかな膜がある。

世界と私の間には薄くてしなやかな膜がある。

世界と私の間には薄くてしなやかな膜がある。

復唱終了。気分が落ち着いた。


甲影会から「別冊シャレードVol.87 宮原龍雄特集」が届いた。目次を見ただけではわからないが、本のページを繰るとなかなか凄い。なんと手塚隆幸氏への手紙まで収録されている。

1.11225(2004/11/27a) 蒸気自動車と携帯火打ち石、または科学技術の発明と普及について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041127a

ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル改めジョージ・フレデリック・ハンデルが里帰りをしている事を知ったヨハン・ゼバスティアン・バッハは、この同年生まれの大音楽家に会うため、ライプチヒからハレへと向かった。さて、ここで問題です。この時バッハはどのような手段で旅をしたのでしょうか?

ずっと昔、今はなき山本直純が司会を務めるテレビの音楽番組で、このようなクイズが出たことがあった。解答は四択式だった。もちろん正解は徒歩に決まっているのだが、選択肢の一つに蒸気自動車というのがあった。残りの二つは忘れた。たぶん馬車とか船とか、バッハとヘンデルの時代にあってもおかしくない乗り物だったと思う。蒸気自動車だけが異色の乗り物だった。

出題者がこの問題の選択肢に蒸気自動車を入れたのは、バッハの時代に既にこの乗り物があったことを言いたかったかららしい。番組中ではそれ以上の説明はなかったが、調べてみると、世界最初の実用可能(?)な蒸気自動車はどうやら1769年ないし1770年に発明されたものらしい。バッハもヘンデルももう死んでいるではないか。

ついでに書いておくと、バッハがハレの街に着いたときには、もうヘンデルはイギリスへ帰ったあとだった。かくして、この二人は生涯一度も会うことがなかった。

ついでのついでに書いておくと、バッハもヘンデルも晩年に失明の危機を迎え、同じ眼科医の手術の失敗がもとで死んだ。世にも稀な偶然なのか、それとも当時のヨーロッパには眼科医が少なかっただけなのかは知らない。


ディクスン・カーは時間移動を扱った長篇小説を3作発表した(うち1作はカーター・ディクスン名義)。時間移動といってもSF的な興味はあまりなくて、現代人が過去の時代を舞台に冒険をするという趣向で、もちろんミステリ的な仕掛けもある。そのうちの1篇で(ミステリのネタに触れるので、以下ぼかして書く)時代背景を考えるとちょっと意外な兇器が用いられている。現代が舞台だとある兇器を用いれば不可能でもなんでもないのだが、その時代だとまさかそんな兇器はないだろうから不可能犯罪だ、と思わせておいて、実は当時既にそれが発明されていた、と明かしてみせる。

一般読者の知識を超えているので、ミステリとしての評価はやや低くなるのだが、もちろんそんなことは百も承知のうえでやっている。カーはがちがちのパズラー至上主義者ではなく、読者に驚きを与えるためなら、時にはアンフェアすれすれの荒技も辞さない。実際、私はその小説を読んで、意外な兇器に驚いた。

同じ手が現代を舞台にして使えないものか。別に兇器に限る必要はない。たとえば18世紀における蒸気自動車に相当するような、最先端の技術を用いた乗り物でアリバイ工作を行うとか。ただ、あまりにも先端過ぎて、実用可能かどうかが不明な技術ではいけない。研究室レベルでは効果が実証されているが、一般にはまだ普及していないというのが理想だ。


昨夏、国立科学博物館の特別展「大江戸博覧会」を見た。からくり人形の実物が目当てだったのだが、それ以上に興味を惹いた展示品がふたつあった。一つは、医聖ヒポクラテスを描いた絵で、蘭学者たちが正月に床の間に飾っていたものだそうだ。古代ギリシア人の肖像が鏡餅と並んでいる情景を想像するだけで、奇妙な感慨にとらわれる。

だが、これはごく特殊な業界の話で、当時の日本人の多くはヒポクラテスのことなど知らなかっただろう……と書いてみて「今の日本人なら知っているのか?」という疑問がわき起こった。アリストテレスやアルキメデスほどの知名度はないかもしれないが、ヘシオドスやヘロドトスと同じ程度には知られているのではないかと思うのだが……。

それはさておき、私の興味を惹いたもう一つの展示品は、江戸時代のライターだった。江戸時代にもライターがあったのだ!

よく考えれば、別に不思議でもなんでもない。火縄銃を作る技術があれば、ライターを作るのはそう難しいことではあるまい。展示されていたライターは江戸時代後期のものだったが、もしかすると江戸時代初期に職を失った鉄砲鍛冶がライターを発明したのかもしれない。

私が江戸時代のライターを見て意外に感じたのは、ライターよりマッチのほうが歴史が古いという思いこみがあったからだろう。まず明治にマッチが一般に普及し、その後ライターが登場して、昭和の頃に徐々にライターがシェアを広げていったという。だが、発明の順序と普及の順序は必ずしも一致するわけではない。

では、江戸時代にはライターはどの程度普及していたのだろうか。当時のライターは家庭用というより旅行時などの携帯用だったそうだが、たとえば東海道を旅する人々の何パーセントくらいがライターを携行していたのか。知ってどうなるというものでもないが、答えがあるならぜひ知りたいものだ。

1.11226(2004/11/28) 並べてみよう

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041128a

ひとつだけ色名がカタカナになっているが、気にしないように。

1.11227(2004/11/29) 岩塩と砂糖菓子

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041129a

各所で話題の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹/富士見ミステリー文庫)を読んだので、感想を書いておくことにしよう。

その前に、ちょいと注意。この文章は純然たる感想文であり、未読の人への紹介または推薦を意図してはいない。「この部分を読んで私はこう思った、あれを連想した」という私的な話の羅列でわかりにくいかもしれないので、なるべくぼかさずに具体的な内容に言及しながら書き進めることにする。よって、『砂糖菓子〜』をまだ読んでいない人は以下の文章を決して読まないようにしてほしい。

もう一つ注意。以下の文章ではカーター・ディクスンの『妖魔の森の家』に言及している。あからさまには書かないつもりだが、トリックがばれてしまうかもしれない。この名作のネタをばらすのは忍びないので、『妖魔〜』をまだ読んでいない人も以下の文章をなるべく読まないようにしてほしい。

本当は、この2作のタイトルを並べるだけで、一方を読んだ人にもう一方のネタを気づかせるおそれがあるので、あまりいいやり方ではないのだが、事前の警告なしにいきなり不意打ちを食らわすのはもっとまずいので、やむを得ず警告しておく次第。


『砂糖菓子〜』の直前に私が読んでいた本は『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹/新潮文庫)の「第一部 泥棒かささぎ編」だった。その終わりのほうで、生きた人間の皮を剥ぐという残虐な拷問の描写があって、引き続き第二部に取りかかる前に別の小説で生き抜きをしようと思ったのだ。そのような観点から言えば『砂糖菓子〜』は非常に不適切な小説だった。冒頭でいきなりバラバラ死体が出てくるのだから。

新聞記事より抜粋

十月四日早朝、鳥取県境港市、蜷山の中腹で少女のバラバラ遺体が発見された。身元は市内に住む中学二年生、海野藻屑さん(一三)と判明した。藻屑さんは前日の朝から行方がわからなくなっていた。発見したのは同じ中学に通う友人、A子さん(一三)で、警察では犯人、犯行動機を調べるとともに、A子さんが遺体発見現場である蜷山に行った理由についても詳しく聞いている……。

不適切だとはいえ、私の鞄の中にはほかに『ねじまき鳥〜』しか入っていないのだから、これを読むしかない。まあ、なんだかんだと言ってもライトノベルだし、そう大したことにもならないだろう、と軽く考えながら私はページを繰った。先に『推定少女』(ファミ通文庫)を読んでいたのに。

その予想はもちろん完全に外れた。


桜庭一樹の小説を読むのは、これが二冊めだ。まだ『GOSICK』シリーズ(富士見ミステリー文庫)は読んだことがない。『推定少女』の感想はここに書いたとおりだが、要約すれば雰囲気づくりや緊張感の盛り上げ方はうまいが、小説全体のまとまりや構成には無頓着だという印象を受けた。で、今回の『砂糖菓子〜』は『推定少女』と表裏一体の作品だというコメントをどこかで見ていたので、緊密な構成など最初から期待していなかった。

だが、しかし。

冒頭の新聞記事の抜粋の直後に、海野藻屑が転校生として主人公のいる学校に現れる。ということは、『砂糖菓子〜』は予め定められた破局への道筋を描く悲劇だということになる。まあ、新聞記事が間違っていたとか、「海野藻屑」という名前の少女が二人いたとか、その手の叙述トリックの可能性もないわけではないのだが、中町信じゃあるまいし、さすがにそんな展開にはならないだろう。

結末を先取りして冒頭に掲げておくという手法は珍しいものではないが、かといって頻繁に見かけるわけでもない。「これから先どうなるのだろう」という興味を捨ててかかるわけだし、その結末に至るストーリーに無理があってはいけない(どんな小説でもストーリーに無理があってはいけないのだが、先の展開が読めなければ、その場の勢いさえあればとりあえず最後まで読ませてしまうことは可能だ。そのような小説に比べると、結末を先取りする小説はごまかしがきかない)ので、緊密な構成が要求される。かなりの力量のある作家でなければ成功させるのが難しい。果たしてそれがこの作者に可能だろうか?

結論からいえば、私の心配は杞憂に終わった。そうでなければこんな感想文など書いてはいない。

私の小説評価基準はかなり偏っていて、技巧や構成美を偏重するきらいがある。客観的にみれば取るに足らない地味な小説でもベタ褒めすることもあるし、逆にいかに華麗な小説でもちょっとした綻びや歪みを理由に評価を下げることもある。そんな私にとって、『砂糖菓子〜』は『推定少女』よりずっと面白い小説だった


さて、タイトルから連想した事について話そう。

……砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

……砂糖菓子の弾丸

……岩塩の弾丸

私は、カーター・ディクスンの有名な長篇を連想した。

だが、砂糖菓子では岩塩弾丸と同じトリックは不可能だろう。せいぜい、錐かアイスピックのような先の尖った兇器で刺殺しておいて、その傷口に砂糖菓子で作った弾丸を押し込む程度か。しかし、そんなトリックに意味はない。砂糖菓子の弾丸が溶けきってしまえばただの刺殺体だ。

むろん、『砂糖菓子〜』はそんな小説ではない。「砂糖菓子」とは、主人公が希求している「実弾」と対比される比喩表現に過ぎないのだ。

……と思っていたので、次の台詞には心底驚いた。

「むかしむかし、岩塩で作った弾丸で人を殺した男がいたんだ。男は硬く硬く岩塩を固めて一発の弾丸を作り、暖炉のそばで相手を撃ち殺した。暖かなその場所で死体はほかほかに暖まって、体内に残った岩塩は溶けてしまった。跡形もなく、ね」

ただし、状況はカーター・ディクスンの小説とは少し違っている。


私は小説を読んでいるときによく変な連想に流されることがある。たいていの場合、小説の筋とは全く関係がない。『砂糖菓子〜』を読んでいる最中にもあちこち脱線した。一つだけ書いておこう。

あれが、自分をバラバラ死体にするためのでかい鉈を自ら背負って歩いている、かわいそうな女の子の後ろ姿だったなんて。

この記述から、自らを磔にする十字架を背負ってゴルゴタの丘へと歩かされるイエスの姿を連想した。

性別も違えば年齢も違う、当然容姿も全然違う。『砂糖菓子〜』の他の箇所を読んでも、特に宗教的テーマもなければ、キリストの受難のメタファーもない。これは全く私の勝手な思いつきに過ぎない。自分でもどうしてだかわからない。「バラバラ」から「バラバ」を連想したのか?

いや、たぶん私の連想の背景にあったのは、バッハの『マタイ受難曲』だ。この曲の第一曲は、聖書の受難伝のクライマックスを先取りしている。十字架の重みで足を引き摺って歩くイエスを低音が描写し、そこに憐れみと嘆きの合唱がかぶさるのだ。

くどいようだが、これは単なる私的な連想に過ぎない。作者が意図したことではないだろうし、この小説から作者の意図を離れて読み取れる事柄でもない。


だが、この小説がカーター・ディクスンに暗に言及していることは疑い得ない。それは次の会話から明らかだ。

「昔は優等生。かっこよくてさわやか。いまは、うーん……妖魔」

「ようまぁ?」

「そ。うちは妖魔の森なの。あたしが管理人」

その直前の"人間消失"はあらためが十分ではなく、特段ミステリ的な興味を惹くものではない。痛いほどに生々しいな青春を描いた小説に、場違いとも思えるミステリ的趣向が挿入されていることに最初は少し首を傾げた(言うまでもなく「富士見ミステリー文庫だから」というのは理由にならない)のだが、上で引用した会話まで読み進めてその疑問は氷解した。

件の"人間消失"もまた、来るべき悲劇の予告となっているのだ。この会話でそれがはっきりと示されている。もっとも妖魔の森に建っていたのは海野藻屑の家のほうだったのだが。彼女はその家から二度消失する。一度は自らの意志で、そして二度めは死体として。

小説全体の構成に無頓着だなんてとんでもない。ここに見られるのは、徹底的な様式への意志だ。

『砂糖菓子〜』そのものはミステリではないが、ミステリでないからこそミステリ的本歌取りが効果を上げている。


ここまで書いて少し間を置いて読み返してみた。

ちょっと妄想が入っているかもしれない。実は作者はカーの作品を読んだことがなくて、すべては偶然だったとか。でも、私にはまともな読書感想文は書けないし、誰もそんなものを求めてはいないだろう。

妄想ついでにもう一つ。ヘンリ・メリヴェル卿の秘書の名前はロリポップだ。

この後、『砂糖菓子〜』の舞台と、実在する境港市の一致(近くに自衛隊の基地がある)や相違(境港には路面電車は走っていない)が生み出す現実感と浮遊感の交錯について書こうと思っていたが、かなり長く書きすぎたのでこれでおしまいにしよう。

1.11228(2004/11/30) Agnus Dei

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411c.html#p041130a

昨日の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想文の最後のほうで、実は作者はカーの作品を読んだことがなくて、すべては偶然だったとか。と書いたところ、リッパー氏に、「このライトノベルがすごい!2005」の作家アンケートで、 桜庭一樹さんが”影響を受けた作家”にディクスン・カーの名前をあげてますよ。と教えてもらった。多謝。

「このライトノベルがすごい!2005」(宝島社)は先週買ってあったが、適当に斜め読みしただけだったので、そのアンケートは読み飛ばしていた。早速、「人気&注目の作家、26人に聞きました」のコーナーを開いてみる。「作風に影響を受けたもの」というアンケート項目について、桜庭一樹はいくつかのマンガ・アニメ作品を挙げた後、次のように書いている。映画だとヒッチコック作品、小説だとディクスン・カーなどの古典サスペンス。なるほど、確かにカーに言及している(念のために書いておくが、ディクスン・カーとカーター・ディクスンは同一人物である)。「古典サスペンス」という表現がちょっと引っかかった(語順からみて、ヒッチコック映画のみを受けるとは考えにくい)のだが、不可能犯罪とオカルティズムばかり強調するカー観をはなれて素直に読めば、同時代のクリスティーやクイーンに比べるとずっとサスペンス色が強いのは確かだ。

ところで、リッパー氏の感想文を読むと、『砂糖菓子〜』とカーの関係について既に書かれていた。先にそれを読んであったら、調子に乗ってあんなに長々と感想を書くことはなかったのに……。迂闊だった。


「このライトノベルがすごい!2005」といえば、いちばんの読みどころは何と言っても谷川流インタビューだろう(いや、32歳の会社員が「マリみて」の面白さについて過去形で語っている座談会のほうが面白いと思った人もいるかもしれないが、もうさんざんあちこちでネタにされた後なので、ここは生暖かい目でそっとスルーしておく)。

谷川作品はSFの衣を着せたホラーだというのが私の持論なのだが、このインタビュー記事を読んで、作品ばかりか作者もかなりホラーな人だという印象を受けた。徹底的に接客態度を仕込まれた一流ホテル従業員のような完璧な受け答えの背後に、いったいどのような闇が隠されているのだろうか。何か非常に禍々しく不吉な予感がする。


「このライトノベルがすごい!2005」と同じ日に「ミステリーズ!extra《ミステリ・フロンティア》特集」(東京創元社)を買って、これもまたろくに読まずに放置してあったのだが、今日、「Do you love me?」(米澤穂信)を読んだ。ある人物のちょっと不自然な言動には実は一定のパターンがあって……という話だが、この手がかりから真相を見抜くにはかなり特殊な分野の知識が必要になる。当然のことながら私の予想は全く的はずれだった。羊が神に捧げる供物を暗示していると思ったのだ。だって、パンとワインが出てくるんだから。

ゲーム型探偵小説至上主義の立場によれば、読者が推理に参加できないミステリなど到底容認できないものだ。私はそこまでガチガチのファンではないが、もう少し謎解きのプロセスに捻りがほしいとは思った。もっとも、この作品の奇妙な雰囲気というか滲み出る狂気というか、何とも名状しがたい異形性(それは『砂糖菓子〜』にも通じるものだが)には、ミステリとは別の魅力がある。

何とも言い難いものを無理矢理言葉にすると、ミステリの衣を着せたホラー……というのは冗談だけど。