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1.11265(2005/01/11) キネオラマのお月様

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キネオラマのお月様

今日いきつけの本屋で『一千一秒物語 稲垣足穂コレクション1』(稲垣足穂/ちくま文庫)を見つけ、早速買い求めた。

私は稲垣足穂の大ファンというわけではない。少年愛だとかA感覚だとかに興味がないので、足穂の作品はほとんど読んだことがない。しかし、『一千一秒物語』だけは別だ。ここ数年は遠ざかっているが、かつては何度も何度も読み返したものだ。

『一千一秒物語』は新潮文庫版で持っているのだが、それにもかかわらずちくま文庫で買い直したのは、ほかでもない。表題作のほか「第三半球物語」が収録されていたからだ。

「第三半球物語」はさほど知られた作品ではない。だが、高校時代に私が図書館で借りて読んだ本(その本のタイトルも版元も忘れてしまったが、やはり『一千一秒物語』ではなかったかと思う)には、「一千一秒物語」と「第三半球物語」が並べて収められていた。私がほぼ同時に巡り会ったふたつの物語のうち、一方は繰り返し触れることができたが、もう一方に再会するには長い年月がかかったことになる。具体的な年数を書くと年齢がばれるので省略するけれど。

そういったわけで、「第三半球物語」は私にとって思い出深い作品ではあるのだが、それはさておき、今は「一千一秒物語」について語ろう。

「一千一秒物語」は非常に有名な物語である。私はそのように認識していた。ショートショートや超短篇に親しんでいる人なら、必ず読んだことがあるはずだ、と。しかし、ここ数年読書系のウェブサイトを巡回していても、この作品に言及しているのを見かけたことはごく稀だ。もしかすると、最近の若い人は「一千一秒物語」を読んでいないのかもしれない。もしそうだとすると、悲しいことだ。

疑念をもって再読すると、不安はさらに高まってきた。この物語は今の世に受け入れられるものなのだろうか、と。

たとえば、冒頭の「月から出た人」を取り上げてみよう。その書き出しは次のとおり。

夜景画の黄いろい窓からもれるギターを聞いていると 時計のネジがとける音がして 向うからキネオラマの大きなお月様が昇り出した

私は「キネオラマ」という言葉を知らない(というのは数時間前の話で、さっき調べたから今は知っている。でも、今は数年ぶりに「一千一秒物語」を読み返した数時間前に戻ったつもりで話をする)。でも、「キネオラマ」という言葉のどことなく懐かしい響きは心地よく、この言葉の意味を知らないままでも、この一文がすんなりと頭に入って、今よりゆっくりと時間が流れていた大正の頃の雰囲気が伝わってくるような気がする。それは、きっと「キネオラマ」がキネマやパノラマを連想させるからだろう。

私の読み方は、きっと「一千一秒物語」が発表された当時の読者の読み方とは違っているはずだ。当時の人々は「キネオラマ」という言葉を見ただけで、註釈がなくても、辞書で調べなくても、それが何を指し示しているものなのかを知っていただろうから。「キネオラマ」の指示対象は、どこかへいってしまった。私にとって「キネオラマ」は空名も同然だ。でも、失われた知識の残滓はキネマやパノラマの連想という形で、かすかに私に伝わっている。

では、「キネマ」や「パノラマ」という言葉の意味を知らない、そのような言葉を見聞きしたことさえない人には、いったい何が伝わるだろうか? 「キ」の次に「ネ」、「オ」の次に「ラ」、そして最後に「マ」が並んでいるだけなのだろうか? だとすると、そのような人にとっては、「一千一秒物語」の冒頭には5文字分の空欄があるのと同じことではないだろうか?

「キネマ」も「パノラマ」も我々の今の生活に息づいた言葉ではない。キネマはもはや「キネマ」と呼ばれることはなく、パノラマは「まるでパノラマのような」という比喩表現の中にわずかに生き延びているだけだ(名鉄電車愛好家は除く)。だから、「キネマ」も「パノラマ」も知らず、従って「キネオラマ」から何の連想も働かない人がいても全く不思議ではないのだ!

不安について語るのはこれくらいにしておこう。

「一千一秒物語」は何とも言えない魅力をもった物語だ。何とも言えない魅力については何とも言えないのだが、どうして何とも言えないのかは簡単に説明できる。わからないからだ。

わからないのに面白い。

しかも、「興味深い」という意味ではなくて、「楽しい、愉快だ」という意味で「面白い」のだから不思議だ。もっとも、これは私の感想だから、他の人にも通用するかどうかはわからない。「一千一秒物語」を正しく理解し、その上で面白いと思う人もいるだろうから。

「一千一秒物語」を読むのに時間はかからない。十六分四十一秒で読み通そうとするとちょっと忙しいかもしれないが、本家『一千一夜物語』ほど長大なものではないから、一晩あれば読める。だが、単位を「夜」から「秒」に変えたのは伊達ではない。凝縮された一秒一秒の積み重ねが濃密な夜を作り上げる。

これから「一千一秒物語」に触れる人は、ぜひ夜にどうぞ。

幕間

昨日予告した秋山真琴氏の「メタ探偵シリーズ」(と勝手にシリーズ名にしてしまったが、これでいいのだろうか? 「夕賀恋史シリーズ」と呼ぶほうがよかったかもしれない)の感想文を書こうと思ってあれこれ考えているのだが、なかなか書き出せない。同人小説で一般には入手が難しいから、既読の人だけを相手にするわけにはいかないし、かといって未読の人に対する紹介文は苦手だ。

考えあぐねている最中に、秋山氏の「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」レビューを読んだ。「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」というのは、白翁氏のサイトで今日公開されたばかりの小説だ。今なら、誰でもここからダウンロード(小説そのものはPDFファイルだが、直リンクするとさしさわりがあるかもしれないので、紹介ページにリンクしておく)して読める。私も今朝巡回したときにダウンロードしてあったが、出勤前で時間がなかったため、まだ読んでいなかった。こうやって「そのうち読もう」と思いつつハードディスクの肥やしになっている小説が山ほどあるのだ。秋山氏レビューがなければ、「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」も同じ運命を辿っていたかもしれない。危ないところだった……という話はどうでもよくて、要するに誰でも簡単に読める小説だから、既読の人のみを対象にした感想文を書いてもいいだろう、と言いたかったわけだ。

というわけで、以下、「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」の感想文を書くことにしよう。

「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」の感想

最初にPDFファイルを開いたときの印象は、「わっ、ルビが多い」だった。ルビは本文よりも字が小さいので読みにくい。150パーセントに拡大しても、やっぱり読みにくい。さらに拡大すると、一行が画面に収まらなくなる。1ページ最上段の「狼」のルビは重なり合っていて、いくら拡大しても読めなかった。これはたぶん「銀翠」と「狼」の間で改行してしまったために「狼」一字にルビが圧縮されてしまったのだろう。二段目の「銀翠狼」には「シバーフェントウォーベン」とルビが振ってある。一段目も何とか工夫して、ルビが読めるようにすべきだった。

のっけから、ダメ感想サイトあれこれの典型(枝葉末節の不備をあげつらって鬼の首を取ったのごとく大騒ぎする。あまつさえ添削などしてしまう)をやらかしてしまったが、気にせずに続けることにする。

ルビが多い小説は私の好みではないが、ある種の効果を狙って意図的にルビを多用するという手法は認めないでもない。ただ、この手法は小説を構成する文字列そのものに読者の目を向けることになるので注意が必要だ。文字列を意味を表すための透明な媒体であるかのように見せかけたい場合には、ルビは多用すべきではない。ここまでは一般論。

「新本格伝奇忌憚魔法少女あげは」で気になったのは、難しい漢字や複数の音訓のある漢字の読み方を明示すめための通常のルビと、あえて特殊な読み方を提示して重層的な効果を狙うための趣向としてのルビが入り混じっていることだった。前者の例は「緋巴」や「帳」、後者の例は「魔法使い」や「魔族」など。趣向としてのルビを生かすためには通常のルビはなるべく避けたほうがよかったのではないかと思う。もっとも、これは私の個人的な見解なので異論もあるだろうから、強く主張はしない。

もう一つルビ関連で気になったのは、振ったり振らなかったりばらばらな印象を受けたことだ。「混凝土」にはルビを振っているのに「独逸」には振っていないのはなぜだろうか。「ウィザード」を「魔法使い」のルビに押し込めるのなら、「シリウス」を「天狼星」にしてもよかったはずだ。1ページ最上段では本文中に書かれた「モノトーン」が、2ページ二段目では「二階調」のルビとして記されている。一白から八白までルビなしなのに、どうして九紫だけルビつきなのか。などなど。

どうせなら総ルビにしてしまうとか、そこまでは無理でも地の文からカタカナを完全に排除するとか、もう少し統一感のある字面構成にしたほうが、より効果的だったように思う。

いくらダメ感想サイトでもルビの話だけで終わりにするのはあんまりなので、内容についても触れておこう。

タイトルが西尾維新の『新本格魔法少女りすか』の捩りであるのはわかるし、作中で明示的に言及されている『風の谷のナウシカ』も知っている。だが、他の元ネタは全然わからなかった。よって、表面上のストーリーをなぞっただけで終わってしまったのだが、中盤の妙に生真面目な展開と最後の脱力系の締めくくりのコントラストは面白かった。ただ、攻防戦にもう少しギミックが欲しい。この枚数の小説に智力を尽くした駆け引きや息詰まる格闘を求めるのは酷かもしれないけれど。

あえて苦手なタイプの小説の感想文を書いてみようとしたが、やっぱり大したものが書けなかった。反省。

最後にもう一つだけ。3ページ二段目で緋巴の名前が一箇所で「揚羽」と誤変換されている。

ああ、やっぱりダメ感想だ……。

1.11266(2005/01/12) メタ探偵シリーズを読む

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「「はじめに」の前に」の前に

意外なことに、今日の見出しは一昨日の予告のままだ。

「はじめに」の前に

見出しは「メタ探偵シリーズを読む」だが、時間と持続力の都合により、取り上げるのは主として『メタ探偵の憂鬱』になる予定だ。下手をすれば、そこまで話を進める前に終わってしまうかもしれない。

はじめに

まず自分語りから始めよう。これはダメ感想サイトあれこれ続きへのアンチテーゼ(作品感想のはずなのにいつのまにか自分語りになる)だ。いつのまにか、ではなく、最初から自分語りなのだから。

と、思ったら、とにかく、自分語りがしたいんだ!とも書かれている。なんだか、やる気が失せた。

でも、乗りかかった船(?)だから、簡単に書いておこう。どうして私が「メタ探偵シリーズ」の感想を書く気になったか、ということについて。

ひとつには、私にはよくわからない作品についてあえて語ってみることで、何か新しい知見が得られるのではないかと期待したから、という理由がある。要するに、私には「メタ探偵シリーズ」は、よくわからない。というか、秋山真琴氏の作品は概してわからない。

もっとも「わからない」と言っているのは私だけではない。わけのわからない小説や、小説かどうかすらわからない文章を書く松本楽志氏も『メタ探偵の憂鬱』がわからなかったと言っていた。冬コミ会場で会ったときに本人の口からはっきりと聞いたのだから確かだ。あの松本楽志をして「わからない」と言わしめたのだから、これはもう大したものである。

話がそれた。本題(つまり、自分語り)に戻る。

私が「メタ探偵シリーズ」の感想を書こうと思った動機はもう一つある。ネット外交? そんなケチな動機ではない。特に根拠も裏情報もないのだが、近い将来、秋山氏が何らかの形で商業媒体に進出するのではないかという恐れとも不安ともつかない予感がするのだ。もし私の予感が正しいなら、まだ秋山氏が世間一般に知られていないうちにいち早く紹介しておけば、後々秋山氏の声望が高まったときに、「あの秋山真琴の才能を見抜いた目利き」として、私の評価も上がることになるのだ。なんだかネット外交と大差ないような気もするが、所詮は賢人君子ならざる身の発想だから限界がある。

なお、私の予感はよく外れる。

「はじめに」の後に

私がはじめて「メタ探偵シリーズ」を意識したのは、秋山氏本人の作品ではなく、『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』に掲載された踝祐吾氏の「伍圓玉一枚の謎」を読んだときだった。それ以前に秋山氏の『超短編 雲上四季 雪』は読んでいたはずで、実際、『メタ探偵の冒険』に再録された「匣の中の匣」と「雪後」を読んで思い出したのだが、『もえかん(仮)』を読んだときにはメタ探偵とか夕賀恋史とか全然覚えていなかった。つまり、超短篇(秋山氏の作品集のタイトルでは「超短編」と表記されているが、私自身はこのような場合には「編」ではなく「篇」を用いることにしている)は記憶に残りにくいということだろう。まあ、短いから仕方がない。

だが、記憶には残っていなくても、深層意識の奥深く、無意識のそのまた下の意識下にひっかかるものがあったようだ。というのは、私が書いた「超人探偵の死と策略」というショートショート(のつもり。超短篇ではない)を今読み返してみると、「メタ探偵」という言葉こそ使っていないものの、秋山氏の作品から影響を受けているのが明らかだからだ。

冬コミの後、帰りの新幹線の中で『メタ探偵の冒険』を読んでいる最中に、私はその事に気づき、愕然とした。あまりのショックに私は帰宅後38度5分の熱を出して寝込んでしまった。華氏ではなくて摂氏だ。

私のショックはそれだけではなかった。時間を逆行し、新幹線に乗る直前の東京駅で生まれて初めて買ったグリーン車の特急券を紛失してしまったのだ。1万円以上もしたのに……。

だが、済んでしまったことを嘆いても仕方がない。自分語りにも飽きてきたので、このあたりで締めくくりに入ることにしよう。

神か、天使か、メタ探偵か

「メタ探偵の憂鬱」は、「神の視点」と題された3つの章と「八雲七瀬の視点」と題された3つの章で成っている。一般に「神の視点」というのは特定の登場人物の心理や認識にとらわれずに、自由に作中世界を見渡す視点のことだが、この小説における「神の視点」は一般的な意味でのそれとはやや違っている。

そのことは、たとえば「神の視点――1」の雷の残響と雨音に隠され、どこか遠くの方で、あるいは思いのほか近くで、木が倒れる音が続いた。という記述からわかる。明らかに、これは世界に遍在する者の視点ではなく、特定の位置に偏在する者の視点による記述である。

その少し後に、そこに至って、夕賀恋史はようやく意識を取り戻した。と書かれており、続いてメタ探偵こと夕賀恋史の心理と行動が記述されている。つまり、「神の視点」は夕賀恋史の視点で書かれた章なのだ……とひとまず判断できる。では、なぜ章の見出しが「夕賀恋史の視点」ではないのだろうか?

その手がかりは次のページにある。メタ探偵をメタ探偵たらしめるメタ推理の説明の中に。

――メタ推理。

二次元を三次元から見下ろすように、もうひとつ上の次元から事の全貌を見渡すことのできる能力。その場に留まっていては到底、手に入りようもない情報を掌握し、その世界における神に等しき力を得る禁断にして禁忌の法。

というわけで、「神の視点」の「神」とは、すなわちメタ探偵の比喩だったのだ。

なんだ、わかってしまったではないか。

いや、まだだ。

この解釈では、「神の視点――1」が夕賀恋史が意識を取り戻す前から始まっていることを説明しがたい。なるほど、世界を描写する物理的位置は夕賀恋史から離れることはない。しかし、夕賀恋史のまなざしを通した描写ではない(だって、気を失ってのびてしまってるんだから)。

他方、夕賀恋史が意識を取り戻した後は、彼の意識の内面に入り込んで記述されている。よって、「神の視点」の各章は単なるカメラ視点でもない。

つまり、「神の視点」の章は、肩の上の天使の視点で書かれているのだ。

思わず強調してしまったが、もしかするとネタばらしをしてしまったかもしれない。背景色と同化させるべきだったか。だが、最後まで読めば物語の構図が明らかになる普通の小説とは異なり、「メタ探偵の憂鬱」は私の理解をこえているので、はっきり書いてもいいのはどこまでで、どこから先をぼかすべきなのか、さっぱりわからない。先を続けよう。

「肩の上の天使」と書いたが、別にそんな怪しげな生き物(?)が作中に登場するというわけではない。「神の視点」で記述されていても、その作品内に神が実在することにならないのと同じだ。そう思って読み進めていくと、そのうちに天井画が出てくる。天井画といえば、ほれ、馬に乗ったおっさんが妙にポーズをとっていたり、意味もなく豊満な女性が半裸や全裸を晒していたりするものだ(実物は見たことがないが、ヨーロッパの古い教会にはよくあるらしい)。でもって、上空にはもくもくと白い雲が浮かんでいて、その合間に天使が飛んでいるわけだ。もっとも、「八雲七瀬の視点――1」で描写されている天井画はもっと辛気くさそうなものだが。

なお、「メタ探偵の憂鬱」には、(私の見落としがなければ)たった一箇所だけ「天使」という語が書かれている。それは、「神の視点――3」の次の箇所だ。

その瞬間、必要な情報が到来した。

食堂で殺された女性、別離天使、その恋人、御厨勇途。その妹、御厨悠里。食堂に架かっていた絵画、『輪切り七屍』。この館、絵画館。館の主、夏冬春秋。その姪、夏冬和音。給仕長、亜衣子。玄関広場の壁に描き込まれていた、『時空の反転最後』。メタ探偵、夕賀恋史。その弟子、八雲七瀬。弥栄大学ワンダーフォーゲル部部長、水無瀬ナミ。

その瞬間、必要な情報どころか何が何だかわけがわからない語句が到来した。この後、どんどん混沌に陥って、全く解釈不可能な結末を迎えることになる。

メタ探偵としての八雲七瀬

ただでたらめを書き散らかしたわけではなく、むしろ背後に作者の緻密な計算が見え隠れしているのに、整合的な解釈がほとんど不可能な小説がある。たとえば、『ドグラ・マグラ』や『夏と冬の奏鳴曲』がそうだ。

作者のことを考えながら小説を読むのは邪道なのだが、私は別に文芸評論家ではないので、秋山氏が「メタ探偵の憂鬱」を執筆したときにベースとなった過去の作品はなんだったろうか、と考えた。『ドグラ・マグラ』は読んでいなさそうなので、多少似たところがあるのは偶然だろう。しかし、『夏と冬の奏鳴曲』の影響を大きく受けていることは、登場人物の一人が「夏冬和音」という名前であることからもわかる(と思っていたので、後でここを読んで心底おどろいたのだが、これはまた別の話)。

「メタ探偵の憂鬱」の場合は、『ドグラ・マグラ』や『夏と冬の奏鳴曲』とは違って、合理的な解釈が及ばないのは書き込み不足のせいではないかという気もするのだが、少なくともただのでたらめでないことは確かだ。

メタ探偵やメタ推理という設定は緊張感を欠くものであまり面白くはないが、『夕賀恋史の事件簿』(別名『白書』)という小道具は面白い。実は、「神の視点」が実は肩の上の天使の視点であるという私の論証は不完全で、『白書』があれば、夕賀恋史の気絶中の出来事を夕賀恋史自身の視点で語ることが可能である

ほかにも、いくつかの道具立てが雑然と、そして平然と投げ出されていて、まるで『黒死館殺人事件』のようだ。もっとも、『黒死館殺人事件』はもっとわかりやすい小説だが。

「神の視点――3」の終わりに突然出てくる「私」は果たして叙述トリックを意図したものなのか、それとも何となく出してみたかっただけなのか判別できないが、これも面白かった。でも、誰のことなのか全然わからなかった。また、「八雲七瀬の視点――3」の「私」の正体もよくわからない。

「八雲七瀬の視点――3」でいきなり出てくる『夢枕』という小道具のせいで、それまでの物語がすべて夕賀恋史の夢だったように思えてくるのだが、それだとただの夢オチだ。それに、「私」が夕賀恋史なら、この章が「八雲七瀬の視点」だというのはおかしい。あくまでもこの章は八雲七瀬の視点で書かれている――つまり、この章の「私」は八雲七瀬である――と考えたい。たぶん、「神の視点――3」の終わりで、夕賀恋史は死んでしまって、同じときに八雲七瀬は視力と聴力を失いつつも夕賀恋史のメタ推理の力を受け継ぎ、彼にかわってメタ探偵として活躍しているのだろう。

じゃあ、彼女に「七瀬君」と呼ばれている『人形』は何なのか。きっと、夕賀恋史の死を真正面から受け入れられない八雲七瀬が自分を夕賀恋史だと思いこんでいて、本来の自分の役割をコピーロボットか何かにあてがっているのだろう。

いやな解釈だな。

「おわりに」の前に

突然だが、これで感想文は終わりだ。時間切れだ。こんなことならどうでもいい自分語りで時間をとるのではなかった。

もし、この感想文を読んで「メタ探偵の憂鬱」が読みたくなったなら、ここから入手可能だ……と思う。

最後に小見出しだけ並べておく。

おわりに

「おわりに」の後に

「「おわりに」の後に」の後に

1.11267(2005/01/13) 新年初読書

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2005年に入って約2週間。この間に世の読書家諸氏は本を10冊も20冊も読んでいることだろうが、私は今日ようやく1冊読み終えたところだ。このペースだと、今年は28冊しか本が読めないことになってしまう。ああ、何ということだ。

今日読み終えた本の話は後回しにして、まずは最近どんな本を読んできたのかということから始めよう。

話は年末の旅行に遡る。12/26早朝に私が旅行に出発したとき、鞄の中には3冊の本(時刻表とコミケカタログは除く)が入っていた。うち1冊は小説ではなく、『魔方陣にみる数のしくみ――汎魔方陣への誘い――』(内田伏一/日本評論社)だった。この本は非常に面白く、東海道本線から北陸本線にかけて楽しく読み進めたのだが、金沢に着く頃にはかなり内容が高度になってきて、メモなしでは読み進めるのが難しくなってきた。旅先のこと、メモを取りながら読むのは難しいので、そこで一旦本を閉じた。

金沢では香林坊に宿をとり、そこから徒歩数分の金沢21世紀美術館開館記念展覧会『21世紀の出会いー共鳴、ここ・から』を楽しんだ後、街中を徘徊し、ヴィレッジヴァンガードに入った。金沢にあるとは驚いた。で、何か本を買おうと思ったのだが、鞄の中に未読の本が2冊あることを思い出し、その場はぐっと思いとどまった。

翌12/27は、今回の旅の主目的であるのと鉄道に乗って終点の蛸島まで行ったのだが、その車中で『バッカーノ! 1933』(成田良悟/電撃文庫)を読んだ。これは上下2巻本だが、さくさくと読めたので、その夜、富山に到着するまでに読み終えてしまった。成田良悟の小説はどれをとっても安定した面白さがあって楽しい。

ここでちょっと困ったことになった。私が持参した3冊のうち、1冊は中断を余儀なくされ、あとの2冊は読み終えてしまったので、もう読む本が残っていないのだ。こんなことなら金沢で本を買い込んでおけばよかったと後悔しても、もう後の祭りだ。富山に到着したのは午後8時頃で、あたりはもう真っ暗だし、雪が積もっているし、駅前に本屋は見あたらないので、私は途方に暮れてしまった。

仕方がないので、駅のキヨスクで本を買うことにした。翌12/28早朝、富山からさらに北陸本線を東へと向かい、大糸線への乗換駅である糸魚川で一旦下車して、キヨスクに向かった。そこで買ったのは、『姫椿』(浅田次郎/文春文庫)だ。

ふだん行きつけの本屋で浅田次郎の本を買うことはまずない。読めば面白いのはわかっているのだが、わかっているなら読まなくていいじゃないか、という気になるのだ。良質な娯楽小説を安定供給しているという点では浅田次郎も成田良悟も同じ(もちろん作風は全然違う)なのに、私は成田良悟の本は全部読んでおり、浅田次郎の本は滅多に読まない。この差はいったい何なのか、ちょっと気になるところだが、あまり気にしていると数少ない列車が出てしまうので、私は気にせず『姫椿』を買って単行のディゼルカーに乗り込んだ。

大糸線、篠ノ井線、中央本線、身延線と乗り継いで、東海道本線の沼津駅にたどり着いたときには、もう『姫椿』の残りページはごくわずかになっていた。そこから普通列車のグリーン車に乗って東京に向かう予定だが、その前に本を補給しておかねば。そこで私は再度キヨスクに向かった。

糸魚川のキヨスクと品揃えがほとんど同じだ。

今度は大いに迷った。迷いに迷ったあげく、この機会に今まで全く読んだことのない作家の本を買おうと決意した。そこで私が手に取ったのは、『猫は密室でジャンプする』(柴田よしき/光文社文庫)だった。実は私は柴田よしきの本を読んだことがないのだ。

だが、結局『猫は密室でジャンプする』に手をつけないまま東京入りした。というのは、コミケカタログのチェックに時間をとられたからだ。列車内でカタログを広げるのは気恥ずかしいものだが、夕方の上り列車のグリーン車ともなれば客もまばらで、二階席には私のほか五人くらいしか客がいなかったので、思う存分カタログチェックに励むことができたのだ。

東京は品川にて東海道本線から京浜東北線に乗り換え、一駅戻って大井町で降りたところで、駅上の本屋に向かった。『猫は密室でジャンプする』があるのだから、何が何でも本を補給する必要はないのだが、禁断症状が出てきたためだ。本屋の空気に触れたい、その一心でエスカレーターを駆け上った。よい子のみんなは真似をしないように。

大井町の本屋でも迷いに迷って、やはり「全く読んだことのない作家の本を買う」という方針に従うことにした。そして私が買ったのが、『西の魔女が死んだ』(梨木香歩/新潮文庫)だ。

梨木香歩という小説家がいることは知ってはいたが、作風も略歴も何も知らず、ただ本のオビに読者・書店員・編集者が選んだ新潮文庫 読者アンケート第1位と書かれていたので買ってみただけだ(ふだんの私ならこんなオビに心惑わされることはないのだが、旅の疲れで判断力が衰えた心にオビの文言が染みいったのだろう)。当然『西の魔女が死んだ』についても予備知識はなく、異世界ファンタジーだと思いこんでいたくらいだ。

さて、ここまでだらだらととりとめのない文章を書き連ねてきたが、この流れだと『西の魔女が死んだ』の感想を書くのが筋というものだろう。しかし、今日は新年はじめて本を1冊読み終えたということを書くことだけが目的なのであって、はなから感想を書く気はなかったので、これでおしまいにする。最後になったが、これまでの文章の流れを無視して、ここにリンクを張っておく。

1.11268(2005/01/14) 危機は去った

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050114a

おそらく、その情報を知って驚く層と、サイトの定期読者層が微妙にずれていたせいだろう。記事が削除される前に誰もそのことに言及しなかった。ニュースサイトに捕捉されることはなく、私が見た範囲では2ちゃんねるにも晒されていない。

危ないところだった。

1.11269(2005/01/16) 東経135度の「135」は「ヒ・ミ・コ」、すなわち卑弥呼のことだった!!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050116a

……という話を昔なにかの本で読んだ記憶がある。松本清張の『考える葉』だったような気がするのだが、記憶違いかもしれない。

それはともかく、昨日、私は東経135度のまち、兵庫県明石市へ行った。明石といえば明石焼き(別名「玉子焼き」)発祥の地としても有名だが、私は明石焼きはあまり好きではないので、そのかわりに明石ラーメン波止場でラーメンを食べた。明石ラーメン波止場のある大久保は、田中哲弥の名作シリーズ(電撃文庫から3冊出ている)の舞台となった土地なのでラノベファンならよく知っていることと思うが、もちろん現地の雰囲気は小説で描かれているのとは全く異なる。

最近、フードテーマパークが各地に出来ていて、どこもここもさほど代わり映えしない。明石ラーメン波止場は以前一度訪れたことがあり、別に再訪するほど魅力があるわけでもなかったのだが、青春18きっぷの期限内に残り2回分を使い切ってしまおうと思ったのだ。1人で2回分使うには2日かかるので、無理矢理後輩を引っ張っていったが、あまり感銘を受けなかったようだ。

せっかく明石くんだりまで足をのばしたのにラーメンを食べただけで帰るのはもったいないので、明石市立天文科学館にも行ってみた。明石駅から歩いて十分(じゅうぶん)の距離にあり往復するだけでも疲れたが、さらに14階展望台から下まで螺旋階段を下りてみようと馬鹿なことを考えたせいで、大いに疲労困憊した。私のこれまでの人生でこれほど長い螺旋階段を歩いた経験はない。

人生初といえば、プラネタリウムを見たのも初めてだった。明治にパノラマがあり、大正にキネマがあったように、プラネタリウムには昭和という時代が刻印されているように思う。今でも全国各地にプラネタリウムは存在するが、もはやノスタルジーとともに語られる存在なのではないだろうか。ちなみに、明石市立天文科学館のプラネタリウムは1960年開館時に導入したものだそうで、後輩に言わせれば骨董品だそうだ(私はほかのプラネタリウムを見たことがないので、比較できない)。

明石市立天文台ではちょうど特別展「2005年 全国カレンダー展」を開催していた。明石市の財政状況が忍ばれる。お気に入りのカレンダーをプレゼント! 来館された方に展示終了後、抽選で差し上げます。という案内が微妙にいい味を出していた。

後輩に会うのも久しぶりだったので、年末年始に読んだ本のことを尋ねた。『ハイペリオン』シリーズを年始に読んで面白かったそうだ。かなり熱心に薦められたのだが、さすがにちょっと手が出せないので、もう少し短いお薦め本はないかと訊くと、『タイピングハイ! さみしがりやのイロハ』(長森浩平/角川スニーカー文庫)を薦められた。去年、同時期にスニーカー文庫からデビューした3人の作品のうち、これがいちばん面白かったそうだ。

作者名はインパクトが強いが、作品そのものはノーチェックだった。でも、『ハイペリオン』よりは楽に読めるだろう。そこで帰りに寄った書店で早速『タイピングハイ!』を買うことにした。

それだけならまだいいが、ついでにラノベの新刊棚を眺めると『白人萌乃と世界の危機』(七月隆文/電撃文庫)がなぜか目にとまい、これも買ってしまった。作者名には全く記憶がない(かつて「今田隆文」名義で活動していたそうだが、こちらも記憶がない)し、表紙絵が特に印象に残ったというわけでもない。不思議なことだ。

それだけならまだいいが、帰りの電車の中で『白人萌乃と世界の危機』を読んでしまった。私は体質的に流し読みができないのだが、ほぼ流し読み同然のスピードでさくさくと読むことができた。これも文章の力だろう。

読んでいる最中は非常に面白く、読み終えたら後には何も残らないという「ライトノベル」本来の語義に忠実な小説で、『南青山少女ブックセンター』(桑島由一/MF文庫J)あたりが好きな人なら買って損はないと思う。萌え属性を備えたキャラを用意しつつも、微妙に萌えを外して笑いを誘うテクニック(何しろ、つるぺたロリキャラがいきなり「ラマン散乱現象」や「自然主義の誤謬」などと言い出すのだ!)は読者を選ぶとは思うが、少なくとも私は気に入った。

でも、あまり積極的に他人に薦めにくい。その点も『南青山少女ブックセンター』に似ている。

私の新年ラノベ読み初めはこうして終わった。ミステリの読み初めは何にしようか、いま検討中。

1.11270(2005/01/16) あめつちひとさる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050116b

『タイピングハイ! さみしがりやのイロハ』(長森浩平/角川スニーカー文庫)読了。面白かった。

ただ「面白かった」というだけの感想文なら、サルでも書ける。誇張だと思うかもしれないが、サルをキーボードの前に座らせてでたらめにタイプさせれば、たまたま「面白かった」という文字列を打つかもしれないではないか。確率はかなり低いが、ゼロではない。私がサルではなく、ヒトであることを証明するには、もっと別の事を書かなければならない。

だが、よく考えてみれば、どんな文章を書こうとも、サルには書けないということを証明することはできない。確率はゼロではないのだ。

というわけで、感想文で人間の証明を行うのは諦めた。

どうでもいいが、『タイピングハイ!』202ページで、正字体の「假」が使われていて気になった。作者はどうやら言語に関心があるようなので、何か意図があるのかもしれないと思って読み進めると、211ページでは略字の「仮」が使われていたので、何が何だかわからなくなった。「假定」と「仮想」で字体を使い分ける必要があるのだろうか?

1.11271(2005/01/17) シャーロット・マクラウド死す

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050117a

今日、私は本を2冊読み終えた。『「人間嫌い」の言い分』(長山靖生/光文社新書)と『自治体破産 再生の鍵は何か』(白川一郎/NHKブックス)だ。とぢらも去年の暮れからぼちぼち読んでいた本なので、今年読んだ本に数え上げるのはよくないかもしれないが、なにぶん読書量の少ない身ゆえ、ご容赦願いたい。

いったい、何を容赦すればいいのか? それは謎だ。

さて、前に書いたように、私は今年に入ってから読書がふるわず、初めて1冊読み終えたのは1/13のことだった。一年は365日だから、年間ペースだと28冊強ということになる。だが、その後、ライトノベルを2冊読み、今日は新書と新書みたいな本(NHKブックスは新書より少し横幅が広いが、選書サイズでもないので、分類が面倒だ)をそれぞれ1冊ずつ読んだので、併せて5冊の本を読んだことになる。

ということは、だ。今年の私に残された本はあと23冊しかないということになるではないか! ああ、何ということだ。部屋の中に積み上げた未読本だけでも、23冊どころか100冊近くあるというのに。

あー、何かおかしいこと言ってます?

ちょっと頭の調子がよくないようなので、別の話題。

抽象と具体NaokiTakahashiの日記)経由で「抽象」と「具体」についてという文章を読んでみた。具体的な文章のほうが抽象的な文章よりも分かりやすいというのは誤解で、実は抽象的な文章のほうが分かりやすいのだと主張しているのだが、どうもピンとこない。どうしてなのか考えてみたところ、「分かりやすい」という言葉に問題があるのではないかと気づいた。確かに明瞭さは分かりやすさの一つの要素ではあるだろうが、それがすべてではない。文中で「分かりやすい/取っつきやすい」を対比させているが、取っつきやすさも分かりやすさの構成要素の一つだろう。でもって、具体的な文章のほうが抽象的な文章よりも取っつきやすいのは言うまでもないことだから、具体的な文章のほうが分かりやすいという考えは、一面的ではあるにせよ、全く的はずれの誤解とはいえないはずだ。

対する高橋直樹氏の意見は、話が具体的なほうが考えやすく理解も早いという常識的なもので、大筋では納得できる。ただ、4枚カード問題(知らない人はこのあたりを参照のこと。ほかにもっと詳しい解説があるかもしれないが、これでだいたい用は足りるはずだ)を引き合いに出すのは、ややミスリーディングではないかと思った。高橋氏自身の言葉を借りれば、単に慣れの問題なのだから、抽象的か具体的かといったことは二次的な事柄ではないだろうか? たとえば、出題形式・題材の違いに対する正答率の変化によれば、ビールとコーラ問題に比べると定期券問題のほうが正答率が低い(ただし、この2つの問題で対照実験を行ったわけではなく、先行実験からの推測が多分に混じっているので、ある程度割り引いて考える必要はあるだろう)そうだが、ビールとコーラ問題のほうが定期券問題よりもより具体的であるというわけではない。

あと、数学の価値を実用性に求めるのか、それとも美しさに求めるのか、という話もしてみたかったのだが、頭の調子が悪いときにはうまく話がまとまらない。

今晩はこれくらいにしておいて、今日買ってきた『ガルガンチュア ガルガンチュアとパンタグリュエルI』(ラブレー/宮下志朗(訳)/ちくま文庫)でも読むことにしよう。

1.11272(2005/01/18) シュヴァイツァーはスイス人ではない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050118a

不壊の槍は折られましたが、何か?1/15付の記事でアシュケナージをけちょんけちょんにしている。アシュケナージといっても知らない人は知らないだろうが、私もよくは知らない。リンク先を見ただけでも、アシュケナージが指揮者兼ピアニストだということはわかるが、それ以上のことが知りたい人は各自検索するなり近所の大人に訊くなりして調べてもらいたい。

さて、不壊の槍は折られましたが、何か?の1/17付の記事は肝心なエクスキューズと題されていて、いきなりやばいことを書き忘れていた。という文から始まる(これで一段落なので、Q要素ではなくBLOCKQUOTE要素としてマークアップすべきだったかもしれない。迷うところだが、迷っても迷っても結論が出ないので、先に進む)。

その次の段落(ああ、やっぱり段落が単位だ。でもタグを付け直すのが面倒だから、そのままにしておく)は次のような衝撃的な文章だ。

 「アシュケナージがゴミ」というのは、指揮者兼ピアニストの、1937年ロシアに生まれ現在アイスランド国籍を持つウラディーミル・アシュケナージという音楽家を全否定する趣旨である。ヘブライ語で《ドイツ》を意味する《アシュケナージム》と称される、ヨーロッパ系ユダヤ人一般を指しているわけでは、断じてない。(以下略)

この段落(後半を省略したので、かわりに(以下略)と書いておいたのだが、果たしてこれでよかったのか。「(以下略)」は引用文中に含まれる語句ではないのだから、引用終了タグの後に書くべきではなかったか。しかし、そうしてしまうと、明示的に引用した箇所と省略した箇所があわさって一つの段落を構成していることが不明になり、引用した文章をP要素としてマークアップするのが適当ではないということになるのではないか。それなら、段落タグを外してしまえばいい、と言いたいところだが、それではHTMLの文法に反してしまう。すると、Q要素としてマークアップすべきだということなのか???)を読んだときの衝撃は計り知れない。全くの不意打ちだったからだ。

なお、チョン・ミュンフンやチョン・キョンファ、チョン・ミュンファ同様、ウラディーミル・アシュケナージをこき下ろす際は、これは固有名詞の苗字に過ぎないと誰にでもわかるよう、文章に気を付けないといけません。という箇所はさほど衝撃的ではなかった。チョン・ミュンフンとかチョン・キョンファとかチョン・ミュンファとかいっても知らない人は知らないだろうが、私もよくは知らない。この中の誰かはヴァイオリニストで、誰かは指揮者だと思う。気になる人は検索するなり、近所の故老に尋ねるなりして調べてもらいたい。

上の文章で丸括弧で括った補足部分に書いたことは、今回だけでなく他人の文章を引用するときに常に意識していることだ。別に誰かからクレームが来たというわけではないが、個人的に気にしてしまう。でたらめなマークアップで恥をかくのはたいていの場合私自身の問題に過ぎないが、引用に関しては事情が少し異なる。不適切なマークアップのせいで読者に誤解を与えたせいで、引用もとにまで迷惑がかかることがあり得るからだ。

今回の文章が危険を伴う誤解を誘発するとは考えていないが、一般論として危険が想定できる事柄に対しては、日頃から注意しておくのに越したことはない。固有名詞を普通名詞だと誤解される危険がまずない文脈であっても、一般論としてそのような誤解が想定される語については補足説明しておくというのと同じことだ。同じではないかもしれないが、考え始めると面倒なので同じだということにしておく。

と、ここまででアップしようかと思っていたのだが、やっぱり今日の見出しについても一言いっておいたほうがいいような気がしてきた。「シュヴァイツァー」という語を目にしたとき、大方の人は例のオルガニストを想起するだろう。オルガニストとして想起するかどうかはわからないし、そもそもがオルガニストだということを知らない人も多いだろうが、それはここでは大した問題ではない。重要なのは「シュヴァイツァー」という語を人名として捉えているということだ。しかし、「シュヴァイツァー」はドイツ語でスイス人という意味の語でもある。原綴りを調べるのは面倒なので書かないが、全く同じ綴りだ。だが、オルガニストのシュヴァイツァーはスイス人ではない。彼が何人(「なんにん」でも「なんぴと」でもなく、「なにじん」と読んでください)なのかについては微妙な問題があって、小学生の頃に子供向けの伝記を読んだだけの知識しかない私にはフランス人ともドイツ人とも言えないのだが、少なくともスイス人でないことだけは確かだ。ウィトゲンシュタインもそんな事をどこかで書いていたはずだ。いや、ウィトゲンシュタインはあのシュヴァイツァーについて書いていたのではなかったかもしれない。なお、ここで私が「ウィトゲンシュタイン」と呼んでいるのは、ピアニストのほうではなく、その弟のほうだ。こんな補足説明はいらないと思うのだが、一旦気になると書かずにはおられなくなる。ここに私の自制心の欠如が現れていると見る向きもあるだろうが、そもそも欠如というのは欠けているから欠如なのであって、何かが現れているならそれは欠けていないのではないのかという疑問もよぎる。だが、そんな疑問がよぎったからといって、本題と関係ないのにそのまま書いてしまうのはどうよ。自制心の欠如が丸出しではないか。いや、そもそも何かが丸出しであるということは、丸出しである何かが存在するということであって、自制心が存在してそれが丸出しになるのならともかく、自制心がないのに丸出しになるというのはおかしな話だ。でも、「自制心が丸出し」というのも変な言い回しで、そもそも自制心というのは自らの内面にある何かを外に出さないように制する心のことなのだから、それが丸出しになっているということは、自制心を制する自制心が欠如しているのではないか。ことわざで「能ある鷹は爪を隠す」というが、爪を隠しているのがまるわかりだったら、隠した意味がないだろう。うーん、これはちょっとしたパラドックスだ。

1.11273(2005/01/19) 世界は狂気に満ちている

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050119a

私が通勤に使っている駅では、毎朝「スタンド・バイ・ミー」と「おもちゃのチャチャチャ」と「春の海」を同時に流している。

1.11274(2005/01/20) この美術館の名は?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html#p050120a

三鷹市のウェブサイト例規集で五十音検索を選ぶと、いちばん最初に表示されるのは、三鷹市立アニメーション美術館条例である。「三鷹市立アニメーション美術館条例」という名の条例があるということは、「三鷹市立アニメーション美術館」という名の美術館が存在するということでもある。この推論は論理的には誤りだが、気にしてはいけない。この条例の第2条第1項で、美術館の名称が「三鷹市立アニメーション美術館」であることを明記してあるのだから間違いはないのである。

しかし、ちょっと考えてみよう。あなたは「三鷹市立アニメーション美術館」という名称をどこかで見聞きしたことがあるだろうか? 「ある」と言われてしまうと話が続かないので、ここはぜひ「ない」と答えてほしい。

今この文章を読んでいる人の大部分は「三鷹市立アニメーション美術館」という名称を知らないものとして話を続ける。

どうして、この名が知られていないかというと、この美術館は別名で知られているからだ。美術館の通称は、規則で定める。(第2条第2項)ということなので、三鷹市立アニメーション美術館条例施行規則を見てみよう。

ああ、なるほど。

条例は議会で制定する。改正するにしても廃止するにしても議会を通す必要がある。美術館の開館時間や入館時間のような細かい決めごとを変更するのにいちいち議会に諮るのは非効率だし、時間がかかる。そこで、具体的な細部については予め規則に委任しておくのが普通だ(さらに細かな事柄についてはこの規則に定めるもののほか必要な事項は、市長が別に定める。というふうに再委任するのもよくあるテクニックだ。このテクニックの是非についてはノーコメントということにしておこう)。だが、この条例第2条第2項は、おそらくそのような趣旨の規定ではないだろう。通称に含まれるカタカナ3文字を条例文に明示したくなかったからではないか。

もちろん、これは隠蔽工作ではない。条例を審議した三鷹市議会議員も三鷹市住民も三鷹市立アニメーション美術館の通称はよく知っているはずだ。また、美術館設置の経緯は公式ガイドブックにも載っていて、全国のローソンで買うことができる。それを読めば、条例と規則(特に第3条)の形式的な関係と実質的な関係が逆であることがわかるだろう。

まるで、死体の上に建物を建てて密室を構成するトリックのような逆転の発想だ。ただ、ミステリの中で演じられる密室トリックには読者や作中の捜査陣の目を欺くという目的があるが、何のために三鷹市立アニメーション美術館にかかる例規にこのような策が施されているのか、私にはよくわからない。