1.10139〜1.10145 日々の憂鬱〜2002年2月第2週〜


1.10239(2002/02/04) 立春仏滅

 見出しは大坪砂男の『立春大吉』のもじりのつもりだった。が、たぶん誰も気づいていないだろうし、別にそれはそれで構わないのだが、「仏滅」という言葉を出したのはまずかったかもしれない。誤解のないように強調しておくが、私は六曜などという科学的に(ついでにいえば宗教的にも占術的にも)でたらめなものは信じていない。
 先ほどアクセスログを見ていて気づいたのだがここ(リンクを外してしまうと何がなんだかわからなくなってしまうので補足しておく。「天使の階段」のリンク集に「たそがれSpringPoint」が登録されていたということだ)からリンクされている。それは別に構わないのだけれど、紹介文がただ一言、
謎のサイトです。
というのはいかがなものか。そうか? そんなに謎のサイトなのか? カテゴリーも[日記] [その他]と書いてあるだけで、[ミステリ]とか[ブックレビュー]という表示がない。不当だ! 管理人に抗議する!
 と書いてみたものの、よく考えれば最近ミステリを全然読んでいないし、ブックレビューも面倒だからほとんどしていない。ミステリのブックレビューとなると……今年に入ってから一度もやっていない。
 これではいけない。
 幸い、今日『朱漆の壁に血がしたたる』(都筑道夫/光文社文庫)を読んだばかりなので、その感想でも書くことにしよう(と言いつつ、この日は感想を書かずに翌日回しにしている。最初から素直に感想文を書くつもりはなくて、神戸の小学生殺害事件と絡める予定だったのだが、小ネタをいくつか書いているうちに時間切れになってしまったせいだ。このような文章の書き方はどこか問題があるように思う)。実は、今年に入ってから長編小説を読んだのはこれが初めてだ。なんたるスローペース!
 その前に、いくつか用事を済ませておく。
 まず第一に、さりげなくここにリンクしておく(さすがに小説全文を引用するわけにもいかないし、このリンクを外してしまうと下の文章の一部が意味不明になってしまうので残しておく。リンク切れ御免)。全然さりげなくはないではないか、と思われる向きもあると思うが、私がそう言っているのだから、さりげないのである。登場人物紹介が面白い。引用してみよう。
 最初、ここに登場人物表を引用してあったが、リンクを残しているのであまり意味がない。よって削除した。
 で、肝心の小説を読んでみる。ごく短い小品だ。まあ、長い小品なんかないだろうけど。意地の悪いミステリ読みの視点でみると、ドライアイスをペットボトルの中に入れたら結露して曇るから、外から見たときにわかるのではないか、などと思ってしまうのだが、そんな事を言いたいがためにリンクをはったわけではない。私がとうの昔に失ってしまったミステリへの素直で純粋な情熱がここにある。ああ、若いっていいなぁ、羨ましいなぁ。そして、羨ましさ繋がりでもう一つリンク(「肺炎時計」2/2付日記参照)。一月の間に『アクロイド殺し』と『メルカトルと美袋のための殺人』と『匣の中の失楽』と『三毛猫ホームズの推理』を続けて読むなんて、羨ましいなぁ。なんと幸せな読書体験だろうか。ちなみに私は『アクロイド殺し』は小学生、『三毛猫ホームズの推理』は中学生、『匣の中の失楽』は高校生のときに読んだ(『メルカトルと美袋のための殺人』を読んだ時期を書くと年齢がばれるから秘密にしておく)。私にも小学生や中学生や高校生の頃があったんだなぁ。
 年をとると妙に感傷的になってしまう。まだ私の人生が終わったわけではないのだけれど、若い世代の人にはもう到底敵わないことはわかっているから。だが、繰り言はこれくらいにして、もう一つだけリンクをはっておこう。ここ(「ヘイ・ブルドック」のことだが、既に紹介文は削除されている)で、私の友人(たまに掲示板に書き込みをしている)が書いた本が紹介されている、というただそれだけの事なのだが。去年の夏、四国に旅行した帰りの宇高連絡フェリー(旧国鉄の宇高連絡船は「うこう」だが、フェリーのほうはなぜか「うだか」だ)の中(あとでその友人から来たメールによれば、私たちが乗ったのは宇高国道フェリーではなく、本四フェリーだったらしい)でゲラと蛍光ペンを渡されて、揺れる船内で校正の手伝いをさせられたのが懐かしい。
 なんか、すごく私的な事を書いてしまったような気がする。でも、たまにはこんな日があってもいいだろう。

(補足と訂正)
 上の文章をアップした後、風呂に浸かっていると、いくつかの間違いに気づいた。以下、補足も含めて列挙しておく。

1.10240(2002/02/05) 推理小説の影響で……

 私は過去に一度だけ新聞記者のインタビューを受けたことがある。
 それは数年前の事だった。何年何月何日だったのか、調べればわかるのだが、そこまでする必要はないだろう。平日だったことは確かだ。仕事を終えて家に帰ると、昼間に新聞社から電話がかかってきたと知らされ、首を傾げたことを覚えている。
 家族は新聞記者に私の帰宅予定時刻を言ってあったらしい。まもなく二回目の電話があった。何かの間違いか、新聞記者の名を騙った悪戯ではないかと思いながら、私は受話器をとった。
「もしもし、滅・こぉるさんでしょうか?」
「はぁ、そうですが」
「私、○日新聞神戸支局の××(名前はもう忘れた)と言います。滅・こぉるさんももうご存じだと思いますが、神戸の小学生殺人事件のことでお話をお聞きしたいのですが……」
「いや、私はテレビを見ないし、ラジオも聴かないので知りません。どんな事件ですか?」
「それはですね……」以下、○日新聞の記者と称する人物は、事件の概要を話し始めた。子供の切断された頭部が中学校の校門で発見されたこと。現場には謎の犯行声明文らしき文書がのこされていたこと、等々。
「それでですね、その文書の内容はまだちゃんと公開されていないのですが、『鬼薔薇』という言葉が含まれていたそうなんです」
「……」
「それでですね。いろいろな人に意見を伺うと、この事件の犯人は推理小説に影響を受けてこの事件を起こしたしたのではないか、という仮説が出てきたのです。そこで、推理小説に詳しい滅・こぉるさんに、『鬼』と『薔薇』をモチーフにした推理小説を教えて頂こうと思い、電話したんです」
 おいおい。
 私が推理小説に詳しいなどというのは見当違いも甚だしい。一体誰がそんな事を吹き込んだんだ? この疑問がふと頭をよぎる。が、それ以上に重要な問題があった。もしこの人物が本当に新聞記者だとすると、私は慎重に言葉を選ばないといけない。
「ある人は、二階堂黎人という推理作家の『喰顔』がこの事件と何か関係があるのではないか、と示唆したのですが、いかがでしょうか? 首の切断を扱った小説で『バラ迷宮』という本に収録されているそうなんですけど」
 だったら、本を買ってきて読め。そう言いたいのを我慢してとりあえず無難な答えを模索する。
「私は、その『喰顔鬼』という小説を読んでいない(後に読んでみたが、もちろん例の事件とは特に似ているところはなかった)ので何とも言えないのですが、『鬼』も『薔薇』も推理小説ではよく用いられるモチーフです」
「すると、ほかに?」
 なんとなく『名探偵に薔薇を』というタイトルが浮かんだ。あれは猟奇的な殺人を扱っているが……いや、全然違うな。
「いや、そういうわけではなくて、そもそも特定のミステリ作品の真似をしたという仮説そのものに無理があるのではないかと思うのです。それ以前に、今伺った話では、推理小説ファンの犯行とは思えません」
「どうしてですか?」
「一言でいえば、事件が平凡すぎるからです
「はあ?」
 あ、ちょっと無理があったかな。でも仕方がない、このまま押し切ってしまおう。
「確かに人間の首を切断するのは面倒です。しかし適当な刃物があれば、誰にでもできることです。また、切断した首を誰もが自由に近づける学校の校門に置くというのは簡単なことです。物理的に全く不可解なところがありません。推理小説マニアだったら、絶対にそのような凡庸な犯罪は行いません。全く出入りする隙間のない密室状況とか衆人環視のもとでの殺人なら推理小説の影響も考えられますが、今回の事件にはそのような要素はありません。また、推理小説では首の切断はよく扱われますが、それは何らかのトリックの一環をなしています。今回の事件で、遺体の頭部が何かトリックに用いられた思われる形跡がありますか?」
「いや、それは何とも……」
「だったら、推理小説マニアの犯行だという仮説は全く根拠がありません」
 その後も記者と称する人物はどうにかしてこの事件をミステリを結びつけるような発言を得ようとしたが、私は完全に否定した。
 案の定、翌日の新聞には「ある推理小説ファンのコメント」などというものは掲載されなかった。

 後日知ったことだが、電話の主はどうやら本物の新聞記者だったらしい。最初、某出版社に電話して、対応に困った編集者が某ミステリ評論家を紹介し、次にミステリ評論家に電話し、対応に困った評論家が某ミステリ・サークル代表を紹介し、次にミステリ・サークル代表に電話したところ、対応に困った代表がサークル員の一人(つまり私)を紹介したという次第。
 ところで、上では新聞社名を一部伏せ字にしたが、別に伏せ字にする必要もない。最近のネット上での風潮から、もしかすると朝日新聞社だと誤解する人がいるかもしれないが、そうではなくて毎日新聞社だった。

 さて、上で述べた私の見解はその場しのぎのもので、すべての推理小説ファンが技巧的なトリックや不可能犯罪が大好きなわけではない。とはいえ、そういう嗜好のマニアが多いことも確かである。そして、そのような愛好家向けに、驚天動地のトリックを売りにしたミステリが多く書かれてきたことも事実である。そのような、ただただ物珍しく、奇抜な現象を扱ったミステリに対し異議申し立てをした作家の一人に都筑道夫がいる。というわけで、強引に話を『朱漆の壁に血がしたたる』に持っていく。

 私は都筑道夫のミステリがあまり好きではない。解決編で提示される推理がどうにも釈然としないのだ。いちおう筋は通っているようだが、なんだか余詰めがあるように思えてくる。評論やエッセイで明快に打ち出されているミステリ論は面白いし、なるほどと思うが、実作品にはそれほどの冴えがないように思う。私にとって、小説家都筑道夫は理論家都筑道夫ほど魅力的ではない。
 そういったわけで、私は都筑氏の小説をあまり系統立てて読んでいない。初期の『誘拐作戦』『猫の舌に釘をうて』『三重露出』のほかには「退職刑事」と「なめくじ長屋」の二大シリーズを数冊、あとは二、三冊程度だ。物部太郎&片岡直次郎コンビの三部作では『七十五羽の烏』を読んで(内容はすっかり忘れてしまったが)あまり面白いと思わなかったので『最長不倒距離』は未読のままだ。一冊とばして『朱漆の壁に血がしたたる』を買ったのは前に書いたように、解説が面白そうだったからだ。ところで、『朱漆の壁に血がしたたる』のカバー見返しのリストを見ると『七十五羽の烏』が掲載されていないが、もしかしてもう品切れなのだろうか?
 さて、『朱漆の壁に血がしたたる』はどうだったかといえば……やはりこれまでに読んだ都筑氏の小説とほぼ同じ。印象が薄く、読み終えたのは昨日のことなのにもう細部を忘れつつある。読点が多く癖のある文章は読みにくかったなぁ、とか、意味もなく視点を転換するのでまごついたなぁ、とか、登場人物の会話がえらく説明調だったなぁ、とか、そんな事はよく覚えているのだけれど。仕方がないので、ちょっと読み返してみる。
 冒頭でいきなり片岡直次郎が逮捕される。監視により一種の密室状況にあった土蔵で殺人事件が発生するが、その時土蔵の中にいたのは、被害者のほかには直次郎だけだったからだ。探偵の助手が犯人、などというあざとい手は使わないだろうと読者は予想するから、これは不可能犯罪も同然だ。しかし、一般の不可能犯罪ものと同じようなトリッキーな解決を期待すると裏切られることになる。そんな事はわかっていたのだが……。でもやっぱり解決部分で拍子抜けしてしまった。
 ちょっと面白いと思ったのは、第一章「推理作家がトリックを論じる」だ。作中の推理作家、紬志津夫が章題どおりミステリのトリックについて持論を一席ぶつ。その話の続きは第四章にも少し出てくるが、それも面白かった。だが、それは「ミステリ論の面白さ」であって、「ミステリの面白さ」ではない。つまり、理論家都筑道夫が作中人物の姿を借りて登場している箇所が面白かったということ。小説内の事件の謎解きはあまり心躍るものではなかった。冒頭に触れた密室状況での殺人以外に三件の事件(と過去の事件)があるが、過去の事件の死体を移動した理由はちょっと気がきいていると思った程度。
 さて、一連の事件の被害者のうちの一人は首を切断されているのだが、私には犯人が首を切断した理由がよくわからない。復讐のために首を切断したと思わせることで他人に濡れ衣を着せようとしたということなのだろうか? だが、首を切断するのはそれなりに手間のかかる作業だし、余計な証拠を残す危険がある。別にそこまでしなくても濡れ衣を着せるための手段はいくらでもあるだろうし、そもそも首の切断によってどの程度の効果が見込めるかというのも疑わしい。もしかして私は何かとんでもない誤読をしているのだろうか?
 ともあれ、話が「首の切断」に戻ってきたところで、今日の雑文はおしまい。

1.10241(2002/02/06) 可能性と必然性

 私の知人にやたらと活動的な人がいる。アルバイトを3つ掛け持ち(平日の昼、平日の夜、土日)したうえ、習い事を3つしていて、おまけにボランティアで何かやっているらしい。それではだらだらと過ごす余暇の時間などないだろうと思うのだが、全く平気なようだ。一度、あきれ半分に「よくそれだけいろいろな事ができるなぁ」と言ったら「自分の可能性に枠をはめるのが嫌だから……」という答えが返ってきた。
 その知人は、自分では気のきいたことを言っているつもりだったのだろうが、それを聞いた私は完全にあきれてしまった。「あんた、可能性というのがどういうことだか知っているの?」と言いたかったが、それを言うと喧嘩になりそうなのでやめた。
 私は怠惰な人間である。保守的で消極的で後ろ向きで、新しいことに積極的に取り組む意欲もなければ、自分の技能を磨くための努力も怠っている。精一杯頑張っている人を批判したり嘲笑したりする資格などない。けれども、これだけは言わせてほしい。「あんたの言っている事はごまかしだ」と。
 どこがごまかしなのか。「可能性を枠にはめる」という言い回しを持ち出し、それを否定したことだ。これは二重の意味で思慮に欠けている。第一に、可能性を枠にはめない生き方などあり得ない。第二に、可能性を枠にはめることによってはじめて実現することがあるのだから、必ずしもそれは悪いことではない。
 どうも「可能性」という言葉は、それだけで何か価値があるかのようなイメージを持っている。たとえば「子供たちには無限の可能性が開けている」と言うときなど。だが可能性は単なる可能性であり、それが実現するかどうかは別のことだ。実際、無限の可能性をすべて実現できる子供などいるわけがない。無限の可能性に枠をはめて、一つまた一つと断念していくこと、それが大人になるということだ。可能性を捨てることを恐れて後生大事に抱え込んだままでは、いつまで経っても何一つ成し遂げることはできないだろう。

 説教臭い話になってしまった。ここで一気に話を別の方向に持っていくことにしよう。

 可能性や必然性というのは、結局のところ何なのだろう? 可能というからには、何らかの性質だろうか? もしそうだとすると、それは一体どのような物事がもつ性質なのだろうか? 事物か? 出来事か? 命題か? 言明か? いや、そもそも可能性は本当に性質なのだろうか? 物事とそれに対峙する我々の間に成立する関係だと考えることはできないか?
 突き詰めて考えるとよくわからなくなる。よくわからないが、とりあえず確かだと思えるのは、可能性とは何かが可能であるということだということだ。これはただの言い換えだから否定しようがないと思う。では、何かが可能だということはどういうことか? その何かが実現しているということと同じではない。それが実現していれば、なるほどそれは可能であるに違いない。なぜならば不可能なことが実現しているはずがないからだ。だが、実際には起こっていないが、起こることが可能であったような事柄もあるのではないか。もし「事実には反するが可能だった事柄」というものを認めないとすれば、現に起こった事柄以外のすべての事柄は不可能であったことになる。言い換えれば、現に起こった事柄は必然的に起こった事柄だったということになるはずだ。
 さて、ここで当然のように言い換えを行った。ある事柄以外の事柄が不可能であるならば、それは必然的な事柄である、と。これの言い換えはもっともな事で何の問題もないと思われる。ところで不可能であるということは可能ではないということと同じだから、先の言い換えがもっともなものだとすれば、ここで可能性と必然性の間にある関係が成り立つことを示したことになる。その関係をもう少し詳しく見てゆき、ついでに偶然性とか現実性なども取り込むと、いろいろな事が見えてくる。だが、上のような書き方でその過程をいちいち追っていくとものすごく長くなってしまうし、かなりしんどい。たぶん読者も飽きてくるだろう。というか、すでに飽きているのでは? というわけで、この話はここで打ち切る。興味のある人は論理学の本(ただし一般の論理学の入門書では、可能性や必然性に関する話題にまで踏み込んでいないことが多い)でも読んでほしい。

 さて、ある程度ミステリに通じた読者なら、都筑道夫の一連のミステリ論で「必然性」という言葉が重要な役割を果たしていることを知っているだろう。実は今日はその話をするつもりだった。都筑理論の「必然性」は本当は必然性ではなく、別の言葉――たとえば、「合理性」とか「納得できる理由」など――で置き換えたほうがよい、というところまで話を進められたらいいな、と思っていたのだが、無謀だった。その議論を展開するためには、最低でも『死体を無事に消すまで』と『黄色い部屋はいかに改装されたか?』くらいは読んでおく必要があるが、そこまで労力をかける気はない。というわけで、また例によって例のごとく、無責任に話題だけ出して逃げることにする。

 全然関係ない話。平日の私はだいたい午後7時半に帰宅し、夕食後8時くらいからパソコンに向かって「たそがれSpringPoint」の文章を書く。一回の文章を書くのにだいたい2〜3時間かかる。ネタがないときには無理矢理ひねり出すのに時間がかかり、4時間近くかかることもある。そして何とか日付の変わる前に更新し、その後小一時間ネットを巡回して風呂に入って寝る。つまり私の夜の自由時間のほとんどは「たそがれSpringPoint」に拘束されていることになる。
 もし、「たそがれSpringPoint」を放り出してしまえば、もっと本が読めるだろうし、ゲームもできるだろう。そう思うと、自らの可能性に枠をはめるこのサイトが恨めしくなる。けれどそれは逆恨みというものだ。そのうちどうしようもなくネタ切れになり、更新が不可能になるまで、だましだまし更新を続けるつもりだ。
 しかし、それにしても時間がない。言い訳になるが、毎回だらだらと長い文章を書いてしまうのは、時間が足りないせいだ。毎日5時間くらい余裕があればもっと文章を磨いて余計な贅肉を削ぎ落とし、簡潔にまとめることができるのだが……。

1.10242(2002/02/07) 今日はさっさと切り上げる

 これは昨日の文章の終わりのほうで書いたことだが、今の私の自由時間の大半は「たそがれSpringPoint」にあてられている。そのせいで本を読んだりゲームをしたりする時間がない、とも書いた。本は通勤時の電車の待ち時間(走っている電車の中で本を読むと目が悪くなるので、読まない)と昼休みなど、合間にしか読まない。計ったことはないが、一日一時間を超えることはないだろう。ゲームのほうは平日はほとんど遊んでいる暇がない。ついでに言えば、テレビも見ない。まあ、テレビは特に見たいとは思わないが……と書いたが、来週から始まる『生存・愛する娘のために』(NHK月曜ドラマシリーズ)は見たいと思っている。が、その話は別の機会にすることにしよう。今日は見出しにも掲げたように、さっさと切り上げる予定だから。
 毎日毎日だらだらと長い文章を書いても、別にそれで読者が増えるわけでもなければ、評判になるわけでもない。むしろ逆効果ではないかという気もする。ウェブサイトの「質」を云々しても測定する手段も客観的な基準もないので、あまり内容のある話にはならないのだが、細かい事を無視しておおざっぱに言えば、文章の量が多くなればなるほど質は低下する。ああ、「質と量は反比例する」と言えばよかったか。でも、質と量の積となる定数があるかどうかわからないし、そもそも質は量ではないのだから掛け合わせることなどできっこない。
 脱線してしまった。こんな事をやっていると見出しが嘘になってしまう。軌道修正しよう。
 で、何を言いたかったかといえば、長い文章を書いても質が低下するばかりだから、短く切り上げることにする、ということだ。今日の話題は一つだけ。『まれに見るバカ』(勢古浩爾/洋泉社新書y)を読んだ。面白かった。どこがどう面白かったのかを説明すると長くなって今日の方針に反するので、説明のかわりに冒頭の一節を引用する。
 わたしはバカがきらいである。
 なぜなら、バカはバカだからである。
 と、厚顔にも公言するくらいだから、当然わたしはバカではない。
 と、自分で否定するヤツにかぎってバカだという説もあるが、それでもバカではないと主張する。二回否定するヤツもバカだという説は聞いたことがないから、一応これでわたしの非バカは証明された、と納得していただきたい。
 この「証明」に納得できる人はまずいないだろうが、この本の面白さは納得できるだろう。これが面白くないというヤツはバカだから、放っておくことにする。
 ただし、この本には重大な欠陥が三つある。一つは「子ども」という表記を何の断りもなく(おそらく深く考えることなしに)使っていることであり、二つめは「荒らげる」と書くべきところを「荒げる」と誤記(または誤植)していることである。三つめは忘れた。
 というわけで、今日はこれでおしまい。これから、開始早々中断したままになっている『歌月十夜』の続きをやる。

1.10243(2002/02/08) 今日は機嫌が悪い

 なぜ機嫌が悪いかといえば、またアクセス数が減ってしまったからだ。日増しに来訪者が減っていくというのは腹が立つ。腹が立ったら横にしろ、と昔の人は言ったが、そんな事をしても気が紛れるわけではない。いっそどこかの大手サイトに喧嘩でも売ってやろうか、と思う。が、後が怖いので、別のことで気を紛らすことにしよう。
 というわけで、腹立ち紛れに今日読んだ本の感想を書く。取り上げるのは『だからあなたは騙される』(安斎育郎/角川oneテーマ21)だ。去年の4月に出た本だが、その時は手にもとらなかった。一つにはタイトルが気に入らなかった(なんとなく小馬鹿にされているようで不快だ)からである。もう一つの理由は、同じ筆者のこれまでの本とどこが違うのかよくわからなかったからだ。
 安斎氏の著書のタイトルを列挙しよう。『「超能力」を科学する』『科学と非科学の間』『検証・サイババの「奇蹟」』『超能力ふしぎ大研究』『人はなぜ騙されるのか』『「科学する心」を育てる』『超常現象の科学』……よくもまあこれだけ書いたものだ。私は一冊も読み通したことはないので、内容についてはなんとも言えないが、タイトルだけでもう満腹、だ。
 では、なぜ今になってこんな本を買ったのか。別に大した意味はない。月曜日に『まれに見るバカ』を買って読み始め、火曜日の朝の電車の待ち時間に続きを読もうと思ったら家に置き忘れていたことに気づき、『朱漆の壁に血がしたたる』も読み終えてしまったので、仕方なく本屋に入って物色したところ、たまたま目についたのがこの本だったというだけの事。
 新書を週に一冊以上読むという方針を決めたとき「読みかけのまま別の本に手を出さない」ということも決めた。これは読みかけの本を放り出して、次から次へと新しい本を買い求めるというだらしないことはしないでおこうと思ったからだ。今回はちょっと事情が違うが、それでも二冊並行して読むことになるので、メイン(?)の『まれに見るバカ』の妨げにならない程度の軽い本を選ぶことにした。『だからあなたは騙される』が「軽い」というのは説明が必要かもしれない。ぱらぱらとめくってみたところ、井上円了やフォックス姉妹など、お馴染みの人名がいくつかあったので、これなら軽く読み飛ばせるだろうと思った次第。すると、なぜこれらの人々が「お馴染み」なのかを説明する必要があるかもしれないが、こんな説明を続けているときりがないので、やめておく。
 さて、内容はといえば、超能力、カルト、霊感商法、UFO、降霊術など一連の話題を取り上げ、なぜ騙されるのかを解説し科学的な思考の大切さを説く、というもの。ほぼ最初から最後まで既視感の連続だった。いちばん強烈だったのは147ページの「2=1」の証明で、さすがにこの前後の数ページは読み飛ばした。まあ、これは著者に非があるわけではないけれど。
 ほかの部分も似たり寄ったりなのだが、思わず唸ってしまったところが一箇所あった。
 天皇が西、侍従が東を向いて、背中合わせに立っていた。しばらくして天皇が言った。
「おお、UFOだ!」
 侍従はあわてて振り返ったが、UFOなんぞ全く影も形も見えなかった。なぜか?
「なぜか?」と訊かれてもこれだけのデータでは何とも答えようがないのだが、何か気のきいた解答があるのだろうと思って、ちょっと本を閉じて考えてみた。「侍従は近眼だった」とか「天皇は日清焼きそば『UFO』のにおいを感じたのだった」とか、いくつか答えは考えついたが、どうも面白くない。そこで再び本を開くと……。
 正解は、「天皇が嘘をついた」である。「天皇は嘘をつかない」、「天皇が嘘をつくなんて考えることは不敬だ」――これは、天皇の権威に思考が曇らされた結果だ。
 いや、その、なんというか……。「権威になびくのは間違いのもと――徹底的なスケプティックス(懐疑派)になれ」という一節の文章だから、こういう結論になることは予想してしかるべきだったのだ。期待した私が馬鹿でした。ところで、今ふと思いついたのだが、この問題の「天皇/侍従」コンビを「木こり/マタギ」とか「清少納言/紫式部」とか「オタク/コギャル」とか「ジンギスカン/バイキング」とか「翡翠/琥珀」など適当な二人組に置き換えて出題したら、正答率はどうなるのだろうか? 私はそんな面倒な実験をする気もないし、動員力もないが、誰かやってみてほしいものだ。
 こんな事ばかりあげつらうのは不当であり、偏向しており、悪意が感じられる、と思う人もいるだろう。全くそのとおり。たまたま私の虫の居所が悪かったからひどい取り上げ方をしているだけだ。別にこの本はいわゆる「トンデモ本」ではないし、なかなか立派な事も書いてある。この種の話題にはじめて触れる人にとっては優れた入門書でもある。実をいえば、だんだん腹立ちもおさまってきて振り返ってみると、上の文章はちょっとひどいかな、とも思う。どうせたかだか30人程度の人しか読まないのだから大勢に影響はないのだけれど。
 反省して、少しまじめな事も書いておく。この本は啓蒙書である。対象としている読者はおそらく私のようなひねくれものではなく、もっと素直で純真な人々なのだろう。素直さ、純真さは美徳の一つである。だが、それは騙されやすさと隣り合わせだということでもある。とかく善男善女は悪人の餌食になりがちだ。そのような人に、この本を薦めたい。そして、自分で考えること、疑いの心を持つことの大切さを知ってもらいたい。
 さらに大まじめに書く。啓蒙書というのは物事をわかりやすく述べるために、単純化、図式化して、一面的な記述をすることが多い。残念ながら『だからあなたは騙される』も例外ではない。最後に私が気になった点を指摘しておく。
 世の中には、大きく分けて二種類の命題がある。命題とは「人の判断を言葉で表したもの」だが、「生きる」ということは「判断の連続」だから、私たちの生活は命題だらけだ。
 第一の命題群は、「3+4=7」とか「一九一○年に日本は韓国を併合した」とかいった命題で、その命題が「正しい」か「正しくない」かを事実と照らして客観的に決めることができるような命題であり、時に「科学的命題」と呼ばれる。第二の命題群は、「ピカソの絵は素晴らしい」とか「核兵器は廃絶すべきだ」とかいった命題で、その命題が「正しい」か「正しくない」かについての判定基準が、個々人の好み(価値観)によって変わってくる性質の命題群であり、時に「価値的命題」と呼ばれる。科学が扱うことができるのは「科学的命題」だけで、「価値的命題」の真偽を科学で確定することはできない。
 前段の「命題」の説明についてもいろいろと言いたいことはある(これは「命題」というよりも「言明」の説明ではないか?)が、後段の「科学的命題/価値的命題」の対照に、より大きな問題がある。「価値的命題」(私は単に「価値命題」と呼びたいが、ここでは引用文に合わせる)と対照をなすのは事実に関する命題だが、その中には「私は今日の昼に豆腐カレーを食べた」などという、ふつう科学の場で扱われることのない命題も含まれる。事実に関する命題のことを「事実的命題」と呼び、「科学的命題」の集合は「事実的命題」の集合の部分をなすと考えるほうが自然ではないか。また「科学的命題」の例としては、「すべての烏は黒い」とか「雪が溶けると水になる」などのほうが適切であり、「3+4=7」や「一九一○年に日本は韓国を併合した」は「科学的命題」の典型例ではない。前者は「数学的命題」、後者は「歴史的命題」に分類できる。数学も歴史も科学のうちだと考えるなら「科学的命題」に含めても構わないが、自然科学に関する命題を例に挙げたほうが紛れが少なくわかりやすい。いや、それ以前に、「3+4=7」や「一九一○年に日本は韓国を併合した」は「正しい」か「正しくない」かを事実と照らして客観的に決めることができるような命題ではないという問題がある。「3+4=7」という命題と照合すべき事実(3+4が7と等しいということそのもの)を我々はどうやって取り出して、この命題と並べてみればいいのか? 「一九一○年に日本は韓国を併合した」という命題に対応する事実は(当然のことながら)過去の事実であり、現存しない。もはやないものをどうやって今取り上げて命題とつき合わせてみることができるのか?
 実を言えば、、「すべての烏は黒い」とか「雪が溶けると水になる」についても似た問題を提起することができる。一羽や二羽の烏、あるいは七十五羽の烏の色を調べたところで「すべての烏は黒い」という命題の真偽を確かめるには不十分である。だが「3+4=7」や「一九一○年に日本は韓国を併合した」の場合は、事実との突合が不十分というのではなくて、そもそもそのような事柄が全く不可能(または「事実と照らす」という表現の意味が不明)なのである。
 もちろん私は、このような命題は「正しい」とも「正しくない」とも言えない、などという馬鹿げたことは言わない。「3+4=7」が正しいことは電卓のキーを叩けばわかるし、「一九一○年に日本は韓国を併合した」の真偽は歴史年表を参照すれば簡単に調べられる。だが、これは新たな問題を引き起こす。
 安斎氏は、アメリカのいくつかの州でキリスト教原理主義勢力が進化論やビッグ・バン宇宙論を学校で教えることに反対し、攻撃しているという話を紹介したのち、
科学が扱う「客観的命題(科学的命題)」が正しいか正しくないかを決める基準は「事実と合っているかどうか」であって、「バイブルに書いてあるかどうかではない」
と断言する。では、歴史年表は信用できるがバイブルはあてにならないのはなぜだろうか?
 この問いに対する答えは『だからあなたは騙される』には載っていない。自分で考えるしかない。関心と意欲がある人は挑戦してみてもいい。その際、この文章そのものを疑ってかかるのを忘れないように。

 ちょっと大まじめに書きすぎた。もいちど反省。

1.10244(2002/02/09) 日付が変わる前に

 今日の出来事を箇条書きで記しておく。

1.10245(2002/02/10) ただいま読書中

 昨日買ってきた『空の境界』をこの連休中に読破したいと考えている。よってちゃんとした文章を書いている余裕がない。いつもの文章が「ちゃんとした」ものかどうかは疑問だけど。
 自分で書くかわりに、他人の文章をコピペしておく。以下に掲載するのは、私が前に勤めていた会社の先輩から昨日受け取ったメールのほぼ全文だ。その先輩には先日『Marieの奏でる音楽』(古屋兎丸)を押しつけるように貸したのだが、その感想文が次の文章である。私自身の感想はここで書いたとおりだが、それよりもこのマンガの魅力をよく表しているように思ったので紹介する次第。なお、ネタに触れているので注意! 核心部分は文字色を背景と同化させておくが、『Marieの奏でる音楽』をこれから読もうとしている人は読まないほうが無難だと思う。
> そんな事より>>1よ。
> まだ『Marie』読んでいないのですか?

えぇもう。
読みましたともさ、今日(2002.02.09)。
どうしてくれるんですか。
買わないと仕方がないじゃないですか。

本を読むときに感じる『あれっ?』という違和感、*1
なぜ、カイが写真に写らないのか
なぜ、ピピの両親がカイとの結婚に執拗に反対するのか。

物語の中で描かれるさまざまな疑問に対して、最後にきっちり答えるという計算
されたストーリー展開。

確かに、この本を下巻から読んでしまったりすると、これはもう人生大損です。
シックス・センスの解説を浜村淳にしてもらうようなものです。*2

言いつけ通り最初から順に読みましたので、このような不幸には遭遇することな
くすばらしいひとときを過ごすことができた次第。
こういった、よくできた本を読むと、『本を読んでてよかった。』という気持ち
になります。
ちょっと、仕事や本を読む意欲が低下していたときだけに、こういう本はとても
うれしい。
『落ち込んだりもしたけれど、私は元気です。』(キキ@魔女の宅急便)って感
じです。

それにしても、カイがピピと別れタッドの地に旅立つべく雪道を波止場に向かっ
て歩くシーン。
たしかにカイの『足跡』は雪の上に刻まれていないのですな。
ホンマ、きっちりつくってるなー。さて、この本を誰にすすめようか。

*1
 笑いたくば笑いたまえ。
 読みはじめた最初の頃は『これは“絶対におかしい”と言い得るほどの確固た
る疑問』(変な日本語だが)にまでは達していなかったのである。
*2
 『浜村淳に映画の解説をしてもらう。』
 浜村淳
 映画評論家。いつも映画の解説を『ここまでにしておきましょう。』で締める
が、たいていの場合、映画は本当に『ここまで』しかない。
 映画の粗筋どころか、見所、トリック、最後の最後のサプライズエンディング
に至るまで完全に紹介してしまう。
 ラジオでこの人の解説を聞くと、それだけで映画を見た気になってしまうとい
う、関西映画興行界の悪夢。
 幸い、シックスセンスを見る前にこの人の紹介は聞かなかった。
 以下、箇条書き。(各項目のリンクはすべて外した)  そういうわけで、今日はおしまい。