1.10114〜1.10121 日々の憂鬱〜2002年1月第3週〜


1.10114(2002/01/14) 悪魔のトリル

 午睡といえば聞こえはいいが平たくとえば昼寝の最中、うとうとしながら「あ〜あ、『悪魔のトリル』が聴きたいな〜」と思った。正確に言えば『悪魔のトリル』第三楽章のカデンツァ(「カデンツァ」は協奏曲などで独奏楽器を目立たせるために挿入した無伴奏部分のこと、という説明でいいのだろうか? 『悪魔のトリル』は協奏曲ではなくヴァイオリンソナタだが、カデンツァを挿入して演奏することがある)が聴きたくなったのだけど。
 昨日、『月姫』コンプリートの勢いに任せて感想文を書き、アップしたのが23時58分35秒のこと。そのわずか2時間47秒後の今日1時59分22秒に「求道の果て」の「ヲタク放談」(1/13付)で言及されていた(日時はどちらも「ミステリ系更新されてますリンク」に基づく)。実をいえば感想文自体が、らじ氏(とあと数人の知人)を対象に書いたようなものなので、それはそれでいいのだが、
この方の日記は身贔屓抜きでもっと読まれて然るべしだと思います。
とまで書かれてしまうと、ただただ恐縮するばかり。読み返してみると破棄して全面的に書き直したくなるのだが、それをぐっと堪えて誤字訂正一箇所に留めた。感想文はこちらだが、できれば去年の大晦日あたりから読んでもらいたい。関係ない文章のほうが多いけれど。
 ジュゼッペ・タルティーニ(1692-1770)作曲、ヴァイオリンソナタト短調『悪魔のトリル』は作曲者が夢の中で悪魔と契約を交わし、魂と引き換えに得た楽想をもとに作曲したというエピソードで有名だ。これはたぶん第三楽章で連続して現れるトリルが悪魔の羽音を連想させるというところから思いついた与太話だろう。私はこの曲が収録されたCDを二枚持っているが、どちらもバロックヴァイオリンを用いた原曲に忠実な演奏で、悪魔の羽音に加えて悲鳴が聞こえてくるような、あの印象的なカデンツァは入っていない。あのカデンツァは確か後世の有名なヴァイオリニストが付加したはずだが……?
 考えていても仕方がない。私はCDを探しに出かけることにした。

 昨日書いた『月姫』の感想文の何がいけないかといえば、偉そうに「死の多義性」などという言葉を使っていることだろう。半分以上は自分自身の思想を語っているだけで『月姫』の構造を分析したものにはなっていない。書いている最中にもそのことは分かっていて「評論を書くつもりはない」などと逃げてしまっている。また、評論から逃げるばかりでなく、『月姫』という物語からも逃げようとしている。わずかな時間で書きとばして、日を越す前に過去のものとして封じ込めてしまいたかったのだ。

 私の住む田舎にはレコード屋などなく、郊外型書店や家電量販店の片隅にごく慎ましいCDコーナーがあるだけだ。でも、『悪魔のトリル』くらいの有名曲なら、ないはずはない。そう思って探してみると、ありましたありました。
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団/ジェイムズ・レヴァイン(指揮)
『カルメン幻想曲/ムター、ヴァイオリン名曲集』
(ポリグラム/ドイツグラモフォンSUPER BEST100)
 えっ、ウィーンフィル? モシカシテ「おーけすとら」伴奏デスカ(原曲の伴奏は通奏低音)
 一瞬躊躇したものの「ま、どうせカデンツァ部分は無伴奏だし、いっか」と軽い気持ちで買ってしまった。いつもだったらこんなベタなCDは買わないのだけど。
 感想文でもう一つ気になるのが、およそ場違いな小説のタイトルをただ「連想したから」という理由で『月姫』と並べてしまっていることだ。たとえば『三つの棺』は『月姫』とは全然関係がないわけで、吸血鬼繋がりで強引に言及するくらいなら、別に魔女繋がりで同じカーの『火刑法廷』を引き合いに出してもいい筈だ。そんなわけで、『三つの棺』が好きなミステリファンで「じゃあ、『月姫』とやらをプレイしてみるか」と思った人がいたら、または逆に『月姫』が好きなゲーマーで「その『三つの棺』というのを読んでみよう」と思う人がいたら、一言忠告をしておかなくてはならない。「あなたが想像しているような共通点はないので、あまり期待はしないほうがいいですよ」と。
 CDプレイヤーにかけてみる。『悪魔のトリル』以外の曲はどうでもいいので、すぐに頭出しする……が、第一〜三楽章をまとめて一つのトラックに押し込めてあるので、とりあえず第一楽章冒頭から聴く。
 え、エグい!
 まるで、PS版『輝く季節へ』のようだ……などと、またしても強引な連想を働かせてみたりする。が、よく考えてみれば私のやっていることは、「『輝く季節へ』は全然ダメだ。でも、眼鏡っ娘、萌え〜」と言っているようなもの(『輝く季節へ』はPC版『ONE〜輝く季節へ〜』にはなかった音声が入っていることと、眼鏡っ娘を追加しているのが特徴。必ずしもそれだけの理由ではないが、『ONE』信者の間では非常に評判が悪い)だと気づく。カデンツァを挿入するのはよくて、オーケストラ用に編曲するのはダメ、というのは何事か。
 が、税込1,799円(本当は1,800円だが端数処理の都合で1円安く買えた)を無駄にしてしまったという思いは強く、おまけによく考えればこれが今年初めて買ったCDだという事実がさらにのしかかり、今年一年の先行きを暗示しているようで憂鬱になってしまいましたとさ。
 肝心のカデンツァは……まあ、あんなものか。夢の中でもやもやと想起したフレーズはもっと奇怪で甘美なものだったのだが……。確かに記憶にあるカデンツァと同じ(クライスラーが作ったものらしい)なので、たぶん演奏技巧の問題だと思う。
 あとは箇条書きで。

1.10115(2002/01/15) メモ

 不摂生のせいか最近体調不良が続いている。今日は発熱し、会社を早退した。そんなわけで、今日は「たそがれSpringPoint」の更新をやめてさっさと寝ることにしたのだが、寝床に入って寝苦しい数時間を過ごすうちに、トップに画像を表示したままだったことを思い出した。それがどうにも気になって、画像を外すために起き出してきた。
 すぐ上で「私も巫女さんに……」云々と書いた直後に、某氏のサイトに画像がアップされ、諸般の事情によりそれを私の要望に応えたものと勘違いして、転載した。が、「たそがれSpringPoint」のイメージにあわないので、1日限りのお遊びというつもりで、すぐに外した。なお、その後当該画像は私あてのものではなかったことが判明した。某氏は別に画像を作ってくれ、翌日それを転載した。
 が、いざパソコンの前に向かうと、ついでに何か書いておこうという気になってきた。こんな事をするからいつまで経っても復調しないのだ。
 ともあれ、今日はまとまった文章が書けないので、昨日に引き続き箇条書きでお茶を濁す。備忘録のようなものなので、意味不明の個所も多々あると思う。

1.10116(2002/01/16) 名文

 昨夜、『論理トレーニング』(野矢茂樹/産業図書)を読み始めた。年末に部屋の掃除をした時、『月姫』とともに発掘した本だ。二、三年前に買って、たぶん1/3くらいは読んでいるはずだが、きれいさっぱり忘れているので、最初から読み直すことにした。本当は完読してから感想を書くほうがいいのだが、今回も途中で頓挫しそうな予感があるので、本を開いて感じたことを今のうちに書いておかないと機会を逃しそうだ。
 で、その「感じたこと」というのは、「すごく文章がうまい」ということだ。たとえば、本文1ページの
 接続関係は接続表現を明示することによって表現しうる。ところが、日本語の使用において一般に接続表現は敬遠されがちである。さらに言えば、われわれは曖昧な接続関係を好みさえする。そしてときには、曖昧に響きあう複数の叙述や問いかけが、独特の効果を生み、名文となる。
 だが、われわれはしばらく「美しい日本語」を忘れることにしよう。接続関係の明確な骨張った文章を正確に理解すること、そして自分でもそのような表現を作れるようになること。そのため、あえて可能なかぎり接続表現を明示し、吟味することにしよう。それはまた、論理的な日本語の再発見でもある。
という箇所など「たまんねぇなぁ」と思う。いや、何も感じない人もいるかもしれない。そのような人には、どうやって説明したらいいものか。名文の名文たる所以をうまく説明できる自信はない。「とりあえず、上の引用文を声に出して読んでみて下さい」とだけ言っておこう。
 野矢茂樹は大森荘蔵門下のひとである。師匠は『流れとよどみ』(産業図書)という美文のかたまりのような名著を遺しているし、門下生も概して文章がうまいのだが、とりわけ野矢氏の文章のうまさは抜きんでているように思う。余談だが、大森氏の弟子が寄ってたかって師匠をタコ殴りにした論文集『哲学の迷路――大森哲学・批判と応答――』(野家啓一・編/産業図書)は一読の価値あり。なんか、産業図書の本ばっかりだな。
 ここで大森荘蔵の名前を出したのは、あとで『異形コレクション マスカレード』(井上雅彦・監修/光文社文庫)の感想を書くとき、『裏面』(倉阪鬼一郎)で言及されている「過去の制作」などについて話を繋げていくための伏線のつもりだった。が、いざその場になると感想文を書く気力がなくなってしまい、宙に浮いてしまった。残念。
 閑話休題。『論理トレーニング』の2ページの、
「読む」とは、たんに印刷された文字の順に読んでいくことではない。まとまりをつけ、その関係を見て取っていく主体的作業なのである。ときに後戻りし、ときに距離をとって全体を眺め渡し、あるいは必要に応じてメモをとりつつ、テクストがもっている議論の運動を自ら再現していく行為、それが「読む」ということにほかならない。
という文章は怠惰な読者を責めているかのようで、耳が痛い(「目が痛い」と書くべきか?)。この本は「書く」ためのトレーニングのためのものだから、当然上の文章も「読む」を「書く」に置き換えることができる筈である。そうすると、ますます耳/目が痛くなる。「書く」とは、漫然と思いついたことを順番にキーボードに叩きつける作業のことではない。あるべき文章全体の構造を念頭において、必要に応じてメモをとりつつ、文章を構築していく行為こそが「書く」ということだ。そう言っているように思えてくる。すると、一つ前のパラグラフの「余談だが……」以降などは書くべきではなかったということになるのだが、私は自分自身に対しては非常に甘い人間なので、「雑文と断片」を言い訳にして、そのまま残すことにする。
 ところで、一口に「名文」といっても、さまざまな種類のものがある。小栗虫太郎の文章は極端な悪文だが、ケルト・ルネサンス式の建築物の描写(言うまでもなく『黒死館殺人事件のこと』)にかけては、それが「名文」となる。「名文」の基準はコンテクストにより変動し、必ずしも「美文」とはイコールではない。無駄を排除し、簡潔かつ論理的に記述しつつも、ちょっとした言い回しの妙で文章全体に豊かな含みを与える、というのが野矢氏の文体の特徴だと私は勝手に考えているのだが、一見するとあまり小説向きではないように思える。だが、『無限論の教室』(講談社現代新書)を読むと、「文学的/論文的」という区別が無意味なように思えてくるから不思議だ。瑞々しい若者の感性や恋愛以前のかすかな心のゆらぎなどが見事に表現されているからだ。この人が本格的に小説に取り組んだら、きっと名作が生まれるに違いない。

 ついでに書いておくと、『論理トレーニング』には『論理トレーニング101題』という続編がある。こちらは完読してあるが、その後本が行方不明になってしまった。

 もう一つおまけ。『論理トレーニング』の巻末にある「注」を読むと、面白い「余談」があった。ちょっと長いが引用する。
 ディベートに関する本はかなり多数出ているが、きちんとした本は少ない。一冊を挙げておくならば、佐藤喜久雄・田中美也子・尾崎俊明『教室ディベート入門』(創拓社)などが教師としては実際的でよいのではないだろうか。「中学・高校教師のための」とされているが、大学の教師が利用して悪いということはない。(余談として、少しだけ他の文献紹介もしておこう。「国際ディベート学会会長」という肩書きをもつ松本道弘氏はディベートに関して多数の著作を出版されているが、私の見たかぎりではむしろビジネス書であり、読むと「ディベート道」を究めたり、「人生に勝つ」ことができたりする本である。また、北岡俊明『ディベート 論争の技術』(明日香出版社)という本があるが、ものすごい本である。ともかくディベート本以外の何ものかであることは確かなのだが、かなりあくの強い個性的な見解が、ディベートと称する対話形式で、「頭が悪いな、よく聞け」、「思い上がるな」、「ふざけるんじゃない」といった言葉とともに語りだされ、いささかへきえきする。しかし、人によってはここから論理トレーニングの問題を取り出せるかもしれない。私はできなかったが。)
 この文章は、「荒廃の歌」の「猫ニュース」に似ている気がする、というのは余談だが、とにかく「注」は面白い。上述の理由により紹介することができないが『論理トレーニング101題』のほうはもっとはっちゃけていたと記憶している。

1.10117(2002/01/16) 群馬県には「東村」が三箇所にある

 どうにも書きづらい。どうして書きづらいかといえば隣に巫女さんがいる(この文章の左側に、巫女さんの画像を飾ってあった。その事を指している)からだ。せっかく某氏が作ってくれた画像なので、ありがたく頂戴したのはいいが、私には巫女属性はなく、巫女さんについて語るネタの持ち合わせもない。ふと、神子島弥生(説明はしないが、興味のある人は検索してみてほしい。強力な検索エンジンなら1件くらいはひっかかるだろう)という名前を思い浮かべてしまったが、あれは別属性だろう。いや、そっちのほうの属性もないのだけれど。
 さて、何について書こうか。なんとなく殺人貴族カルロ・ジェズアルドについて書いてみたい気分だが、大方の読者にとっはて全く関心のないジャンルだし、資料を調べるのも面倒だからやめておく。よし、これで「殺人貴」で検索したら引っかかるようになったぞ、と。
 そろそろ『異形コレクション マスカレード』(井上雅彦・監修/光文社文庫)の感想を書くべきだろうな。でも、個別に詳細にコメントをつけるのはしんどい。まだ体調が回復していないことでもあるし、ざざっと流しておくことにしよう。
 そんなわけで、以下同書収録作品を私の主観に基づき分類する。が、なにぶん私はこの系統の小説のよい読者ではないので(「じゃあ、どのジャンルなら『よい読者』なの?」と問われても困るのだが……)読解力不足で楽しめなかった作品も多いだろうと思う。なお、各項目での順序は掲載順である。
ストーリー、オチなどが面白かったもの
『死面』(歌野晶午)、『仮面と幻夢の踊る街角』(芦辺拓)、『假面譚』(江坂遊)、『カヴス・カヴス』(浅暮三文)、『屈折した人あつまれ』(鯨統一郎)、『牡蠣喰う客』(田中啓文)、『仮面人称』(柄刀一)
雰囲気がよかったもの
『スキンダンスへの階梯』(牧野修)、『黄金の王国』(ひかわ玲子)、『スズダリの鐘つき男』(高野史緒)、『方相氏』(速瀬れい)、『青磁』(竹河聖)
ピンとこなかったもの
『物売り Lia Fail』(物集高音)、『呼ばれる』(飛鳥部勝則)、『FROGGY』(石神茉莉)、『裏面』(倉阪鬼一郎)、『マスク』(町井登志夫)、『仮面の庭』(奥田哲也)、『想夜曲』(難波弘之)、『舞踏会、西へ』(井上雅彦)
うっ……
『淋しい夜の情景』(五代ゆう)
 さて、『白面』(深川拓)だけ除外してあるが、これにはちょっとした事情がある。が、その「事情」を書き始めると長くなるし、そろそろ熱が上がってきたような気がするので、次の機会に回すことにする。

 今日は『漢字と日本人』(高島俊男/文春新書)を買った。通勤時の暇つぶしにしようと思ったのだが、読み始めると止まらず、最後まで読んでしまった。ついでに『ななか6/17』(5)(八神健/少年チャンピオン・コミックス)も買った。毎回買おうかやめようか迷うのだが……。

1.10118(2002/01/17) 吾妻郡東村は「あづまむら」、あとの二つは「あずまむら」

 さて、いよいよ『白面』(深川拓/『異形コレクション マスカレード』(井上雅彦・監修/光文社文庫)所収)の感想を書くことにする。が、その前に、この作品だけ別扱いにする理由を書いておかなければならない。
 私がこの作品を読んだのは去年12月29日、東京は有明埠頭のだだっ広い駐車場でのことだった。この日付と場所だけでわかる人にはわかるだろうが、要するにコミックマーケットの一般参加者入場待ち行列だ。朝9時前に着いて、会場に入場したのが11時半頃だったと記憶している。その間ずっと冷たい舗装面に座り込んで『マスカレード』を読んでいたのだ。特に『白面』だけで2時間以上かけたと思う。同書内最長とはいえ、まあふつうに読むなら半時間程度の長さだ。それが、どうしてこんなに時間がかかったのかといえば、主に文章表現に関して、ちょっと気になったり引っかかったりする点があると、そのたびに作者に問い質しながら読んだからだ。「わからないところを作者に訊く」というのは、反則業だ。そのような特殊な読み方をした作品なので、他の収録作とは同列に扱えないのだ。
 この「たそがれSpringPoint」では、あまり知人の名前を出さないことを基本にしている。理由はいろいろあって一言では言えないし、詳しく説明すると他のサイトの人々に喧嘩を売っているかのように受け止められる(もちろん、こんな奇妙な「方針」はこの場限りの話で、他の人がどんな方針でサイト運営していようが関係ないことだ)おそれがあるので省略するが、文中にやたらと「某氏」とか「ある知人」という表現が出てくるのはそのためだ。だが、『白面』の感想を書くのに、この特殊な読書体験に触れないのはフェアではないだろうから、予め断っておく次第。
 さて、前置きを済ませたところで、早速『白面』に取りかかることにする。なお、以下の文章では作品の内容にかなり踏み込むつもりなので未読の人は先に『白面』を読んでおいてほしい。いちおう核心部分は背景色と同化させるが、それでもブラウザの設定など閲覧環境により表示される可能性があるし、それ以外の部分でも先に読んでしまうと興を殺ぐおそれがある。というわけで、繰り返しになるが、『白面』をまだ読んでいない人は、以下の文章を絶対に読まないようにお願いする。
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 読んでいる最中に私がもっとも気になったのは、独特な文体だった。深川氏の過去の作品と比べて特に『白面』が奇妙な文体で書かれているというわけではなくて、ある程度は"了解済み"のこととして読んだつもりなのだが、それでも引っかかる点は多く、そのたびに隣にいた深川氏(行列待ちの間『ペトロフ事件』(鮎川哲也)を読んでいたそうだが、私が矢継ぎ早に質問を浴びせかけるせいで、あまり読書が進まなかったという。申し訳ない)に問い質した。もう半月以上も前のことなので、その一つ一つの質疑を再現することはできないが、どの質問についても深川氏からそれなりに筋の通った回答が返ってきたことは覚えている。ただし、その回答すべてに納得したわけではない。
 ここで、一つだけ例を挙げておくことにしよう。488ページに
狭い階段を上がる。先の若い刑事が遅れて階(きざはし)を踏みしめる気配がした。
という文章がある。引用文中丸括弧内は原文では「階」のふりがなである。この箇所を読んだとき、「うっ」と唸ってしまった。奥さん、「きざはし」ですよ、キザハシ。一緒にプラッシーもつけときますんで。
 深川氏の説明では、一つ前の文に「階段」という言葉が出てくるので、同語の重複を避けるために「きざはし」を用いたという。なるほど、確かに「階段の段を踏みしめる」というのはちょっと変な言い方だ。が、だからといって、特に擬古文調でもない現代小説で「きざはし」という古語(と私は認識しているのだが……)をいきなり持ち出してくるのはいかがなものか。
 しかし、考えてみれば、ほかにしっくりくる言葉があるわけではない。階段全体ではなく、それを構成する一段一段のことを言い表す言葉……建築用語ならぴったりの言葉があるのだろうが私には思い浮かばない。「ステップ」というのも考えたが、前後の文章にあまり馴染まない。
 代案なき者、批判すべからず。結局その場は深川氏の説明を受け入れざるを得なかった。が、後から考えると「きざはし」よりは「段」のほうがましなのではないかと思う。あるいは、「きざはし(段、ステップ……)を踏みしめる」という言い回しを放棄して、「狭い階段を上がる。先の若い刑事が後に続く」と、あっさりと書いてしまうとか。

 印象に基づく話になってしまって恐縮だが、深川氏の文体はかなり「こってり」としている。その「こってり感」は時には雰囲気を盛り上げるのに効果があるのだが、ストーリーやキャラクターの設定がそのような雰囲気を要求していない場で使うと、ひどく場違いなものになる。私が読んだ深川氏の作品中、もっとも違和感が強かったのが『放課後メイド探偵』(『Aria』VOL.1(FOX出版)所収)だ。それに比べると、『白面』は「異形コレクション」の一編ということもあり、それほどの違和感がない(「違和感」という言葉が続けて出てきた。下手な文章の見本だ)。とはいえ、この文体には一つ欠点がある。それは、小説の構造上必要な情報量に比して、文章が長くなってしまうということだ。要するに無駄が多い。
 実際、『白面』は長すぎるように思う。この内容ならもっと文章を刈り込んで2/3くらいの長さにするのが適正ではないだろうか? こう書くと「小説とは単なる情報の羅列ではない。文章そのものの香気を味わうのも小説の楽しみの一つだ」という反論が予想される。だが、深川氏の作風はどちらかといえばアイディア・プロット重視のように思われる。「文章を読ませる」タイプではないと断言してしまうと、言葉がもつリズム感を重んじ、ときには「てにをは」レベルの文法を無視することも辞さないという構えをとる深川氏にとっては不服だろうが。

 内容については、それほど不満はない。ホラーではなく、怪奇探偵小説という趣で、事件そのものの背景に潜む一人の女の異様な情念が生み出す「怖さ」が主眼点になっている。玄関から入るばかりで出てくることのない女たちという状況の説明も無理がない。ただ、全身傷だらけの女性が同衾していて気づかないというのは、どうか? 「我を失っている」(525ページ)の一言だけで読者を説得できるのだろうか? 傷跡を隠すための処置を施しておいたことにするほうが納得しやすい。ただし、あまり詳しく説明すると、異様な雰囲気が崩れてしまうので、どの程度まで説明するのがいいかは判断に迷うところだが。
 ところで、ラストシーンについて、深川氏からその場面だけ視点がおかれている人物を明示していないという仕掛けがあることを聞き、ひどく驚いた。私は全然そんな事に気づかなかったのだ。この仕掛けはアンソロジーのテーマによく合致している。ラストシーンの語り手は物理的に仮面をかぶっている。そして聞き手のほうは叙述レベルで比喩的に仮面をかぶっている、というテーマの重ね合わせ。ただ、残念ながらこの趣向は多くの読者に伝わってはいないだろう。ちょっと下品かもしれないが、ラストシーンだけ一人称にすれば、わかりやすかっただろう。

 いま深川氏は同人作家から商業作家へと脱皮しつつある。実作者ではなく一介の読者に過ぎない私が、文体や構成についてあれこれ意見を述べるのは、かなり失礼なことだろう。そう思って感想文を書くのをのばしのばしにしていたのだが、いざ書くとなるとやはり注文ばかりになってしまった。本当はもっと軽い文体で書くつもりだった(「奥さん……プラッシー」云々はそのなごり)が、結果はご覧の通り。人間、力量以上のことはできないものだ。

1.10119(2002/01/18) とりとめのない雑文

 この文章はどうでもいい雑文だ。書いている本人が言うのだから間違いない。
 雑文だから特にテーマがあるわけではない。でもまったくテーマがないわけでもない。でもでもテーマを語るところまで書けるかどうかわからない。でもでもでもとりあえず話を始めることにしよう。
 「たそがれSpringPoint」ではアニメについて語ることがほとんどない。過去ログを通して読んだわけではないので、記憶に頼って言っているのだが、少なくとも主題的にアニメの話を取り上げたことはなかったはずだ。なんでアニメの話がないのか? 簡単だ。私はアニメを見ないから。
 どれくらい前からアニメを見ていないのか、よく覚えていない。確か『姫ちゃんのリボン』は見ていた。『ミラクル・ガールズ』も見ていたと思う。でもその後はほとんど見ていない。ということは『新世紀エヴァンゲリオン』を見ていないということだ。私は『エヴァ』の洗礼を全く受けていない。おお、何ということだ!
 思うに、オタク文化の三本柱は「マンガ」「アニメ」「ゲーム」だ。いや、「オタク文化」なる一定のまとまりをもった文化形態があるのかどうか、ちょっと疑問もあるのだが、ここで文化論を始める気はないので、あるものとして考える。一口に「オタク」といっても幅広い層を指すことがあり、特に「マニア」「ファン」と混用されるようになってからは「鉄道オタク」「プロレスオタク」などという言葉も平然と使われるようになっている。だから、今さらオタク文化の主流とか傍流とか言っても始まらないかもしれない。というわけで、これは私の主観に基づく話だと思って笑って読んでいただきたい。
 1980年代、オタク文化の華はアニメだった、と思う。その頃私は子供だったので、あまりよく覚えているわけではないが、マンガ原作ではない良質のオリジナルアニメが多く生産され、消費されていた。だが、バブル期にアニメの制作本数が増えるにつれ、どんどん質が低下していく。その頃私は子供だったので、あまりよく覚えているわけではないが、「彩色が間に合わず、線画のまま放映」とか「4話めで総集編」とか「Aパートがまるまる前回の回想」とか「放送開始後もハサミを持ってテープ編集を続けた」とか、いろいろなエピソードがあったらしい。いや、最後のはちょっと違うか。
 でもって、声優ブームとかいう妙なムーブメントもあったらしい。その頃私は子供だったので、あまりよく覚えているわけではないが、子供の夢を壊す御面相の方々が害虫駆除に役立ちそうな歌声を響かせていたという。1970年代のアニメブームの頃から生き残っている古老たちは、その風潮を嘆き悲しんだと聞く。今でも私は子供なのでよく知らないのだが、声優関係のグッズはよく売れている……のかな?
 そうこうするうちに家庭用ゲーム機が大いに発達し、マンガ・アニメ並の表現力を持つようになってきた。ドット絵と電子音に慣れ親しんだ世代にとっての「次世代機」はオタク心を大いに惹きつけた……のだと思うがその頃私は子供だったので(以下略)。そして、20世紀の終わりにはゲームはマンガ、アニメと並ぶオタク文化の大きな柱の一つに成長していったのである。ででーん。
 ああ、何か話が散漫だなぁ。本当は林原めぐみのデビューがいつ頃だとか、『ときめきメモリアル』(コナミ)が最初に出たのは何年か、とかそういった事を調べておかないといけないんだが、面倒なのでパス。私は家庭用ゲーム機には疎遠で、ファミコン時代には全くそっぽを向いていたし、今でもゲーム機を一台も持っていないくらいだから、あまり突っ込んだ話はできない。さっきちょっと触れた『ときメモ』にしても持っているのはWindows版だ。あっ、そうだ。余談だがちょっと書いておこう。初代『ときメモ』は『同級生』(エルフ)の徹底研究から生まれた、という話はよく知られているが、『ときメモ』に『同級生』と同じ音楽が使用されていることはあまり知られていない。桜木舞のテーマが映画館での待ち合わせ時の音楽(タイトルは知らない)に使われているのだ。と、こう書くと『ときメモ』が『同級生』をパクったという印象を受ける(そういう印象を与えるように書いたのだから当然だが)が、実はそうではない。これをパクリと言うなら、グノーの『アヴェ・マリア』もパクリということになるだろう。というような事をあちこちで何回も言ったことがあるが、「たそがれSpringPoint」では初めてだと思う。もし前に書いてあったら、ごめん。年をとると物覚えが悪くなり、同じ事を何度も繰り返してしまうのだ。そういえば、今日は昼飯まだかな〜。というわけで余談終わり。
 で、何の話だったっけ。そうそう、私はアニメを見ない、という話だ。どうでもいい「オタク文化」の話が混じったせいでよくわからなくなったが、実のところあまりアニメ界の動きとは関係がない。ある時期から私はテレビを見なくなったので、それでアニメも見なくなったというだけのこと。もともと決まった時間に事を行うのが面倒なたちなのだが、パソコンを買ってからはその傾向が強くなり、好きな時に好きな時間だけ楽しめるものに興味がどんどんシフトしていった、というわけだ。マンガはその条件を満たしているが、アニメはそうではない。ビデオに録画しておけばいいのだが、そのセッティングすら面倒なのだ。そうそうするうちに動く映像を一定時間続けて見ること自体が苦痛になってきた。そうすると、不要不急のアニメなどまず見ることがない。テレビアニメでいちばん最近見たのは、ええと、『ラブひな』の第1話かな? これをきっかけに徐々にリハビリしていこうかと思ったのだが……。それ以外だと『ピュアメール』の第1話。これは、まあ、「魔が差した」部類だと思う。
 そんなこんなで、結論としては「たそがれSpringPoint」にアニメの話題を期待しても無駄である、というところだ。芸能ネタ、スポーツネタも同様。私の関心はえらく偏っていて、一般的なテキストサイトとは大きくずれている。そもそも「たそがれSpringPoint」はテキストサイトなのか、という疑問も沸いてくるのだけれど。
 ああ、予想通りテーマまで到達しなかった。今日のテーマは「フリーゲージトレイン、その可能性と限界を探る」だったのだ。今思いついたところだが。

1.10120(2002/01/19) 日々鬱々

 なかなか体調が回復しない。今日は久しぶりに知人と日本橋(「にっぽんばし」のほう、「にほんばし」に非ず)探索に出かける予定だったが、朝起きると微熱があったので断念した。
 寝床でぼんやりと天井を見上げながら考えた。世の中には三種類の人間がいる、と。
  1. 挫折を経験したことがなく、自我がぶよぶよに肥大した人
  2. 挫折を経験したせいで、やることなすこと卑屈になった人
  3. 挫折の経験をなかったことにしている人
 いや、この三大別は間違っている。この世には二種類の人間しかいない。こんな益体もない事を考える人間と、全く考えない人間と。
 午後になって体調がやや回復してきた(ただし依然微熱あり)ので、近所の本屋へ出かけた。田舎なのであまりたいした本はない。たとえば、今月の講談社ノベルスの新刊がまだ入荷されていないくらいだ。別に買いたい本はないけれど。だが、先日は見あたらなかった『Marieの奏でる音楽』(古屋兎丸)の上巻があったので、下巻とあわせて買った(家に帰ってから気づいたのだが、上巻はソニー・マガジンズ、下巻は幻冬舎だった)。ついでに「泣けるエロゲー」特集をしている「SPA!」の今週号を立ち読みでもしようと思ったが、なかった。なんとなくいらいらしていたので、かわりに「GON!」2月号を買った。タイトルが「ローマ字3文字+感嘆符」で似ているし、「妹」特集で見開き2ページを使って妹ゲームの紹介もしている。鳴沢唯、柏木初音、美澤千歳、藤堂加奈、伊藤乃絵美など(面倒なのでゲームのタイトルは省略)有名どころはきちんと押さえてある。
 そのまま帰ればいいものの、どうにも気になって本屋を数軒ハシゴした。で、ようやく「SPA!」を見つけて、どうせ350円分の価値はないと知りつつ、買ってしまった。感想はすでに多くの人々が述べているのとほぼ同じ。あれ? 「Kanon('98年)」って違うんじゃない? 調べてみると『Kanon』は1999年6月4日発売だった。ということは「『ONE』(タクティクス '97年)」というのも間違いで、こちらは1998年5月29日発売だ。ちゃんとチェックすれば、まだほかにも間違いがあるかもしれない。
 まあ、それはさておき。
 『Marieの奏でる音楽』を買ったのは知人(特に名前を伏せる理由はないが、なんとなくぼかしておく)の強い勧めによるものだった。全く関係のない話題でメールのやりとりをしていたのだが、
 付記1:いまさら「射矢ガール」をまとめて読み、面白さを再発見しました。1巻 の前半は最高です。
 付記2:最初に読んだ作品のせいで偏見を持たれているかもしれませんが、古屋兎 丸「Marieの奏でる音楽」は大傑作です。上下巻で2400円になりますが、こ れは強くお薦めしておきましょう。くれぐれも下巻を先に読まないように。
とメールの末尾に書いてあり、興味を惹かれた。『すべてに射矢ガール』(ロクニシコージ/講談社ヤンマガKC)は私の愛読マンガの一つだ。それと並べて言及しているからには、『Marieの奏でる音楽』も傑作に違いない……とまでは思わなかったが、とりあえず気にはなっていた。なお「最初に読んだ作品」というのは、『Garden』(イーストプレス)のことで、これを読んだせいで古屋兎丸というマンガ家は私の頭の中では「妙に絵柄に凝った小難しい実験的な作品ばかり描く人」と位置づけられてしまっていた。
 さて、『Marieの奏でる音楽』はどうだったか?
 ――傑作だった。
 新年早々に『月姫』という非常に面白い「物語」に出会ったばかりなので、次はしばらく後だろうと思っていた。その予想が完全に裏切られた。『月姫』のボリュームに比べると『Marieの奏でる音楽』はショートショートみたいなものだ(誤解のないように言っておくが、上下巻あわせて500ページを超える堂々たる長篇マンガである)から、あまり比較しても意味がないのだが(でも、『月姫』の「視覚」対『Marieの奏でる音楽』の「聴覚」という対比は面白いかもしれない)。
 いろいろと感想はあるのだが、どこまで書いていいものか、ちょっと迷うところだ。「これはお勧め」とだけ言っておくのが無難だろうと思うが……核心に触れずにピントのぼけた感想文を箇条書きで書いておく。

1.10121(2002/01/20) ひどく気が滅入るので

 日曜日の夕方はいつもにも増して気が重くなる。明日から仕事をしなければならないという実際的な理由もあるのだが、それ以外に何とも説明のつかない重苦しさが体にのし掛かってくることが多い。年に数回、まるで悪夢のような憂鬱に襲われることがあり、そんな時にはただ布団にくるまって数時間何もせずにじっとしているしかない。今日はその最悪な状況に陥りかけたが、なんとか半時間程度で復調した。よかった。
 だが、無気力状態は依然として続いている。本が読めない、ゲームをする気にもならない、テレビは……もともと見ない。仕方がないのでこうやって文章を書くことで気を紛らわせているのだが、テンションが低いのはどうしようもない。まあ、人間いつもハイテンションであることはできないし、ハイテンションのふりをするのがつらくなるときもある。昨日のように普段なら絶対に買わない雑誌を買ってきてネタにするというのも、今から考えるとちょっと無理をしているという感じがする。私の柄にあわない。このあたりが本来の私の姿であり、先週から今週にかけてはちょっと異常だったように思う。アクセス数が増えてきたので、ちょっと背伸びをしすぎた。
 というわけで、自戒の念をこめて、以下にカウンター設置後の日別ユニークアクセス数の一覧表を掲げる。鬱の蠅取壺に収録した記事とつき合わせてみれば私がいかにわずかな数字の大小に一喜一憂してきたかが読み止めるかもしれない。そんな事をする暇人はいないだろうが。
9月10月11月12月1月備考(1月)
1#27121017 
2#42111117 
3#3710820『月姫』開始
4#29251015 
5#241499新年初サボリ
6#23181020 
7#30221525 
8#19101527「ミステリ系更新されてますリンク」に登録
9#15221216 
10#1691020「若おやじの殿堂」のリンク集に登録
11#25151345 
12#15151815 
13#17101725『月姫』の感想文をアップ、「求道の果て」で言及
14#31122281「政宗九の視点」のリンク集に登録
15#2472369 
16#23141590 
17#23131568 
18#18111316カウンター不調
19#15141843 
20#19121338ここから先は追加
21#39111450たぶんこの頃「一般人無双」で言及されたはず
22#199231カウンター一時不調
23#205046 
24418161862 
25212111498これがピーク
26117171597 
27318132463急落。一見さんが居着かなかった証拠だ。
28123152276 
29014191646このくらいの数字が相場か……
30424131056 
31=14=2944 
 右の表(環境によっては「上の表」)の補足をしておこう。まず「たそがれSpringPoint」を正式公開した去年の10月1日まで、私はこのサイトのURIを誰にも伝えていなかった。だから9/24〜30には基本的には私しかアクセスした人間はいないはずだが、なぜか最高で一日4アクセスある。9月30日に前サイトを閉鎖し、「たそがれSpringPoint」のURIを跡地に書いた。また知人の掲示板のいくつかで多少の宣伝をした。この頃に3つか4つくらいのサイトからリンクされている。
 10月半ばくらいまでは私の感覚ではわりと順調だった。このまま堅実に更新していけば年内には一日50アクセス突破できるかも、などと考えていた。だが10月中旬以降、徐々にアクセス数が減っていった。最初は物珍しさで見に来てくれていた人が次第に飽きてきたのだろうと思う。私自身、ネタに詰まってきたところだった。当然、新規にリンクする人もなく、ジリ貧傾向が続く。
 11月にはハードディスクのクラッシュとかウィルス感染とか災難が相次いだ。どん底である。なぜか、こんな文章を書いている。とにかく自分に書けるかぎりのありとあらゆる話題を扱うことで検索にひっかかるようにして、アクセス数アップを図ろうとしたのである。
 別に私はアクセス数至上主義者ではないが、せっかくウェブサイトを開設しているからには、少しでも多くの人に見てもらいたいと思っている。だが、元来引きこもり傾向があるのと、妙な意地があるせいで、なかなか自分から宣伝する気にならない。そこで検索エンジンという他力に頼ったわけだが、今考えるとかなり馬鹿げたことをしたわけだ。そのせいで、私はアクセス数向上に無関心なのだと知人には思われていたらしい。
 その後、12月に入っても地を這うようなアクセス数に変化はない。22,23両日はカウンターのほうの不調のせいだが、それ以外の日も20アクセスを超えることが稀だった。大晦日だけアクセス数が少し増えているが、これはコミケで初売りの同人誌に寄稿した文章で「たそがれSpringPoint」の宣伝をしたからだと思う。私にしてはえらく恥知らず大胆な事をしたものだ。原稿自体は11月半ばに書いたもので、それを同人誌の編集人に送ったあとで後悔したが、どうしようもなかった。それ以外にも不満の多い文章なので、ジャンルやテーマについてはここでは書かない。
 今年の最初の週は去年の状態をそのまま引きずっていたが、あちこちからリンクされたおかげで徐々にアクセス数が増えてきた。表には書いていないが、日記内での文中リンクが2件(1件は去年末、もう1件は先日)ある。また、今月14日には、2ちゃんねらーに荒らされたせいで閉鎖した某氏のウェブサイト跡地から冗談のようなリンクがはられているが、これもURIは省略。
 ここまで書いたところで夕食。今日は徹底的に自分の事ばかり書いているので、ついでに「今夜の晩ご飯のメニュー」をやってみてもいいのだが、まだ多少は羞恥心が残っているのでやめておく。
 なんとかいつも通りに戻ってきた。ちまちまとタグ打ちしてテーブルを作り、そこにアクセス解析ページからメモっておいた数字を書き込むという単純かつ手間のかかる作業をしたのが気晴らしになったようだ。
 気が滅入っているときには、頭を使う作業ができなくなる。小説はもとよりマンガを読むのもしんどいくらいだ。今日は未読のマンガ数冊を片づけようと思っていたが、全く手が出ず、既読のマンガの再読ばかりしていた。『メイ奴家族』(ちば・ぢろう/竹書房BAMBOO COMICS VITAMAN SELECT)と『どきどき姉弟ライフ』(1)(後藤羽矢子/竹書房BAMBOO COMICS)を読んだが、どちらも面白かった。テーマは「血の繋がらない家族の心の絆」である……と強引に共通点を引っぱり出したが、ほとんど両極端ともいえる対照的な作品だ。前者はとことんバカ話、後者の81ページは涙なしでは読めない。