1.10135〜1.10138 日々の憂鬱〜2002年2月第1週〜


1.10135(2002/02/01) すでに日は暮れて

 「また明日」と言うことは簡単だ。だが、この言葉を現実のことにするのは難しい。幸い私は今日も生きており、こうやって駄文を連ねている。このことをよろこびたい。

 無人駅の待合室の壁に赤いスプレーで「偏離苦愚劣鬼」と落書きしてあった。画数の多い「離」の字はひときわ大きく書かれていた。どう読むのか考えたのだが、どうやっても「ヘンリク・グレツキ」(グレツキはポーランドの作曲家。1933年生まれ。たぶんまだ生きていると思うが詳しい事は知らない。数年前に交響曲第3番がなぜか全英ヒットチャート上位に食い込み、有名になった)としか読めない。そんな馬鹿なことがあってたまるか。これは何かの間違いに違いない。

 八苦の一つに「愛別離苦」というのがある。愛するもの(者/物)と引き離されてしまう苦しみのことだ。この逆は「怨憎会苦」だが、厳密に対応しているわけではない。前者は「愛+別離+苦」であり、後者は「怨憎+会+苦」で熟語の成り立ちが違っている。ところで、八苦について調べようと思って検索してみつけた「日常の仏教語」というページに次のような記述があってびっくりした。
仏滅(ぶつめつ)
仏滅は大安、友引等とともにその日の吉凶を表す言葉として使われていますが、その意味は「お釈迦様(仏)が亡くなられたこと(滅)」なのです。
 この調子で「仏文学」なんかも解説してあれば楽しかったのだが、さすがにそれはなかった。残念。
 ちょっと野暮かもしれないが解説しておく。「仏滅」は「物滅」が転化したもので、仏陀入滅とは何の関係もない。そもそも六曜自体がそうとういい加減な素性のもので、まともな仏教団体はほとんど無視している。ネットの検索は便利だが、このような明らかに間違った情報がまかり通るのだから恐ろしい。

 『水と銀』(1)(吉田基已/講談社モーニングKCDX)を読んだ。予想とは全然違っていたが面白かった。

1.10135(2002/02/02) 色覚特性/オクターブ/消費者

 今日は言葉がらみの小ネタ3本である。

 まず一つめ。『新・本格推理01』(鮎川哲也・監修/二階堂黎人・編/光文社文庫)の「まえがき」で、ある投稿作品に触れて
 断固として指摘しておきますが、現在における一般的な認識では、「色盲」というのはけっして「劣等」ではありません。また、通常は「色覚特性」等と呼称すべきでしょう。
と述べている。「一般的な認識」というのもちょっとひっかかるのだが、この表現に規範的意味合いを込めているのだとすれば、事実として一般的であるかどうかを問うのは野暮なことだろう。だが、「色盲」を「色覚特性」と言い換えるべきだというのはどうだろう? 「色覚特性」では色盲だけでなく色弱も含んでしまうのではないか。また「色盲」という言葉は色覚上のある特性を指すばかりではなく、そのような特性をもつ人をも指す。「彼は色盲だ」のように。これを言い換えるとすると「色覚特性者」とでもなるのかもしれないが、しっくりこない。さらに「全色盲」や「赤緑色盲」を言い換える場合には、「色覚特性」という語では決定的に表現力が不足しているように思われる。
 ある色覚特性ではなく、その色覚特定を指すという絞り込み機能が「色覚特性」という用語には用意されていないので、文脈から判断できる場合を除けば、「ある色覚特性(いわゆる『色盲』)」とか「(赤と緑の識別ができない、または、すべての色の識別ができないという)色覚特性」というように言葉を補う必要がある。これは言い換え語としては致命的な欠陥である。言い換える前の言葉に言及したり、補足説明をしたりすることなく、端的に対象を指示できなければ実用に耐えない。上の引用文中で「『色覚特性』」とややぼかした書き方をしているのは、この問題に二階堂氏自身が自覚的であることを示していると思う。一つの言葉の言い換えについてあまり多くを語ることができないという制約があったため、そのような書き方になったのだろう。
 ついでに、少しあとの文章を引用しておこう。
 要するに、今日に生きる作家は、差別的な問題や身体的な問題、病気、遺伝、国籍や人種的な問題などについて、けっして無頓着ではいけないということです。もちろん、こうした事案について書くなと言っているわけではありません。書くならば、充分な責任を持ち、注意深くあらねばならないということです。
 これは、これから作家になろうとしている人々に対する助言だが、ウェブサイトで文章を発表している人にも適用可能だと思う。
 なお、安直な差別語狩りに迎合したり、無批判に受け入れたりしてはならない、ということも言い添えておきたい。「ここで『××』という言葉を使ったら『差別だ』と批判されそうだしなぁ。別にそんな意図はないんだけどなぁ。まあいいや、ちょっと意味が違うけど『○○』という言葉があるからそっちを使っておこう。ごたごたに巻き込まれるのは嫌だし、ね」という態度はあまり褒められたものではない。とはいえ、人は言葉の語源、変遷、用例などについて常に十分な知識をもつことができるとは限らない。当面の話題がその言葉自体でないなら、別の無難な言葉を用いて責任を回避することは賢明な戦略である、とも言える。どちらが正しいのか、私にはよくわからない。
 ああ、難しいこと書いてしまったなぁ。変な批判されるの嫌だなぁ。書かなきゃよかったかなぁ。

 国会議員を辞職した大橋巨泉が「小泉首相批判のオクターブをあげた」そうだ。新聞にそう書いてあって、「なんじゃ、そりゃ?」と思った。「オクターブ」というのは音楽用語で、ここでは比喩的に用いられているのだが、「オクターブをあげる」というのはおかしいだろうと思ったわけだ。「荷物を二階にあげる」ならわかるが「荷物の二階をあげる」では意味不明だ。それとも私が不勉強なだけで、「オクターブ」のこのような用法はすでに定着したものなのだろうか?
 「小泉首相批判のトーンをあげた」のほうが無難だと思うけどなぁ。

 もう一つは……ええと、「消費者」か。何のことを書くつもりだったっけ? 「色覚特性」について考えている間に忘れてしまった。かわりに別のことを書いておく。
 「ちゆ12歳」の1/22付ちゆニュースを読んではじめて知ったのだが、西原青一と西条真二は同一人物らしい。これはびっくり!

1.10136(2002/02/02) そういえば

 今日は西暦2002年2月2日だった。だからといって別にどうということはないのだが。

 「政宗九の視点」の2/1付の日記を読んでほっとした。どうしてほっとしたかといえば、そこで『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)に言及していて、
 帯に「あなたもこの村の住人です」とあるのだが、それだと、「100人のうちの1人が自分」と思いかねない。実際には「1人の6,300万分の一」なのである。読者のあなたなんてゴミみたいなものだ。
とコメントしているからだ。先日私も似たようなことを考えたのだが、その時「もしかして私は世間一般の人とずれた事を考えたのではないか?」と思っていたのだ。だが、この話に違和感を覚えたのは私だけではなかった。それでほっとしたわけである。
 とはいえ、「100人の村」についてこのように考える人は多数派ではないだろう。私の会社の上司はネットでこの話を見つけてきて感動したらしく、プリントアウトして同僚や部下(その中にはもちろん私も含まれる)に読ませていた。あまり角を立ててもいけないので、やんわりと「その話の数字は不正確らしいですよ」とだけ言っておいた。だいたい同性愛者と異性愛者の割合に関する客観的データがないことくらい、ちょっと考えればわかるはずだと思うのだが。
 政宗氏は「新興宗教の洗脳テクニックっぽい胡散臭さが感じられる」と書いている。全く同感である。また「こんなこと思う自分って、感受性がないのだろうか」とも書いている。失礼ながらこれには同感できない。感受性がないのではなくて、どのような事柄に感受性が向けられているかが違っているだけだろう。

 今日の昼に書きかけて忘れてしまった「消費者」の話題を思い出した。マンガやアニメ、ゲームなどについて、それを「消費する」とは具体的にどのような活動なのか、ということについて書こうと思っていたのだった。よく考えればこれはなかなか厄介な問題で、ちょっと迂闊に手を出すことができない。一時棚上げにしておく。

1.10137(2002/02/03) 「私を読んで!」と10592人が言った

 この世には二種類の人間がいる。「その他の人」とそうではない人だ。

 いきなり訳の分からないフレーズから始めてしまった。上の文については深く考えないで頂きたい。
 仕切直しして、本題に入る。
 これまでも何度か言及したことのある「なんとなく劇場」に次のような文章が書いてあった(2/3付の日記)。
この世には二種類の人間がいる。
自分に自信を持っている者と、持っていない者である。
 この言葉(もとはある小説家が述べた言葉だが)に触れて、私は自分自身に問いかけた。「果たして私は自分の言動に自信を持っているか?」と。考えるまでもない。私は全く自分に自信を持っていない(「自分に自信を持つ」という表現はやや意味が重複しているが、あまり細かいことは気にしないことにしよう)。たまに他人から褒められると、うれしさよりも先に不安がこみ上げてくるくらいだ。
 なぜ自分に自信が持てないのか? 理由はいろいろ考えられるが、私の場合、万事において発想が後ろ向きであるというのが最大の理由だろうと思う。美点よりも欠点、長所よりも短所のほうがよく目につく。「ここが駄目、あそこも駄目。とてもとても……」と思うと、何もできなくなる。何もできないと実績を積むこともないので、自信を支える客観的な基盤を形成することができない。自然と臆病になり、臆病な自分自身に直面して気が滅入る。「こんな事をしていていいのだろうか? そっと立ち去って、後のことは他人に任せておくほうがいいのではないか?」と思ってしまう。
 ところが、厄介なことに私は自己顕示欲が強い。もっと多くの人に自分の偉大さ、素晴らしさを知らしめて賞賛を得たいという欲望が身を焦がすほど強い。だが、実生活における私はただのサラリーマンであり、特筆すべき業績など何もない。ここで前向きな人間なら「じゃあ、これから業績を作ろう!」と思うのだろうが、私の人生はもう先が見えているので「どうせ頑張っても私の技量では大したことはできないよなぁ」と思ってしまう。かくして私は自信のなさから生じる不安と自己顕示欲との板挟みになる。
 「たそがれSpringPoint」はそのようなジレンマの中から生まれた。最初のうちは、こつこつと毎日更新を続けていくうちに徐々に自分に自信が持てるようになってくるかもしれない、というほのかな希望があった。だが、過去ログがどんどん増えていっても、別にそれだけで自信がつくわけではない。それはただの自慰行為に過ぎないからだ。先にも書いたが、私の場合は自信を支える客観的基盤が必要だ。具体的にいえば、アクセス数である。
 かくして私はアクセス数至上主義へと一歩近づく。しかし、世のアクセス数至上主義者たちのように、大手サイトに喧嘩を売ったり、見ず知らずのサイトの掲示板に宣伝目的の書き込みをしたり、リンク依頼メールをあちこちにばらまいたりはしない。やりたくてもできない。理由は二つある。一つは、自分のサイト運営に自信が持てないためであり、もう一つはそのような手段で獲得したアクセス数では自己顕示欲を満足させられないからである。特に後者は重要だ。
 アクセス数は目に見えない。目に見えるのは単なるカウンターの数字だけだ。カウンターなんぞ、いくらでもいじることができる。アクセス1回ごとに3つか4つくらい回るように設定することもできるし、手作業で一気に100くらい増やすこともできる。もっと大胆にカウンターの頭に「1」という画像を貼り付けて一桁増やすという、まるで推理小説のトリックのような方法もある。けれども、そのような方法で数字を増やしても自信がつくわけではなく、自己顕示欲を充足できるわけでもない。アクセス数が客観的な指標として機能するためには、このような操作は絶対にしてはならないのだ。
 このように書くと、カウンターの機械的な操作とサイトの宣伝は別物だろう、という反論が予想される。だが、数字がサイトの価値を反映しないという点では似たようなものだ。掲示板の宣伝を見て、何の気なしにリンクをクリックした人が50人いようが100人いようが、そのサイトが50人ないし100人の人に支持・愛読されているということになるわけではないのは明らかである。肝心なのは、同じ人がもう一度アクセスしてくれるかどうか、だ。
 ここで、「たそがれSpringPoint」のアクセス数の動向について、少し書いておく(カウンター設置後、1月末までの日別アクセス数はここを参照)。去年の年末までの一日あたりの平均アクセス数は15だった。その後、最高で一日98ヒットまでいったものの、すぐにバブルがはじけて、今は一日40ヒット前後(当初からの平均アクセス数は22)で漸減傾向にある。リファラーを見ると、ブックマークから訪れた人が大部分を占めるので、これが今の「たそがれSpringPoint」の実力(この「実力」には知名度を含む)だと思う。
 では、一日40ヒットというのは他と比べるとどうなのか?
アクセス数サイト数累計
100000〜11
10000〜99999910
1000〜9999144154
500〜9999152306
200〜499381687
100〜1995061193
50〜999182111
40〜494422553
30〜396563209
20〜2911234332
15〜198605192
10〜1412766468
5〜982451777
〜4234710592
 定評あるランキングサイト「ReadMe! JAPAN」の日刊ランキングを見る。1位の「侍魂」(141463……1/30 9:55:00pm〜 1/31 9:55:00pmのアクセス数。以下同じ)は、2位の「バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳」(73631)を大きく引き離している。そして「連邦」(44558)が続く……と書き出していくときりがない。とりあえずアクセス数とサイト数の関係を表にまとめてみた。  右(環境によっては上)の表の区切りはかなり恣意的である。「100〜999」でまとめてもよかったのだが、なんとなく3つにわけてみたりしている。また、手作業で作った表なので、計算の間違いなどがあるかもしれない。
 さて、現在の「たそがれSpringPoint」のアクセス数が一日40ヒットだとすると、驚くべきことにこの表では中の上に位置することになる。いや、去年末までの平均アクセス数15ヒットでさえも中くらいだ。すると「たそがれSpringPoint」は中堅サイトだったのか? 一瞬、そんな馬鹿なことを考えてしまった。
 どうも「ReadMe!」のランキングはあてにならない。絶対数が多すぎて実感がわかないのだ。とりあえず確かなことは、今「たそがれSpringPoint」よりもよく読まれているサイトが少なくとも2000以上はあるということだ。もちろん、この中には比べても仕方がないほど傾向が違うサイトも含まれているし、「ReadMe!」に参戦していないサイトも多い。ただ、これから「ReadMe!」に参戦しようかどうかと考えるときの目安にはなる。
 そう、私は「ReadMe!」に参戦しようかと考えたのだ。先に書いたことと矛盾するようだが、偶然でももののはずみでもいいから、一人でも多くの人に「たそがれSpringPoint」を見てもらいたい。そして、その中の10人に1人でも「お気に入り」に登録してくれれば、これほど嬉しいことはない。
 しかし――やはり弱気になる。この表を作るときに「ReadMe!」の日刊アクセスランキング表を見て私はどう思ったか? はっきり言おう。ずらりと並んでいる弱小サイトへのリンクを見て、ある種の嫌悪感がわき上がってきた。どのような意図があって「ReadMe!」に参戦したのかは知らないが、無様としかいいようがない。そう感じたのだ。やはり私はアクセス数至上主義に毒されているのかもしれない。
 もし私が今「ReadMe!」に参戦したらどうなるだろうか? きっと嫌悪感は自分自身に向けられることになるだろう。「アクセス数が伸び悩んでいるのは、まだあまり知られていないからだ。『ReadMe!』に参戦すれば、きっと多くの人が『たそがれSpringPoint』の偉大さ、素晴らしさを褒め讃えることになるだろう」と前向きに考えることはできない。それができるくらいなら、サイト開設の瞬間にさっさと登録を済ませている。
 かくして私は今日もふらふら、うだうだと駄文を書き連ねている。「そんな事は大学ノートの片隅でやっておけ!」という叱責の声を聞こえてきそうだ。いや、それさえも自信のなさから生じた不安のなせる業かもしれない。
 最後にもう一度「なんとなく劇場」から引用しておく。
 いや、本気でどうすれば、自分に自信を持てるのでしょう? けっこう切実にそう思うわけです。