1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10051(2001/11/12) 無題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111c.html#q011112

先週から読んでいた本をようやく読み終えた。例によって新書だ。『囲碁の知・入門編』(平本弥星/集英社新書)。タイトルからすると囲碁の入門書のようだが、読んでみるとちょっと趣が違う。確かに囲碁の基本的なルールの説明をしている箇所もあるのだが、その一方でチベットの囲碁を紹介したり、囲碁のルーツを辿ってみたり、とかなりマニアックな話題も多い。後半の「囲碁略史」になると、ほとんど日本通史のようだ。いったい筆者はどのような読者層を想定していたのか疑問だ。

1.10052(2001/11/13) 人の歩むべき道から足を踏み外すと、自動車に轢かれる危険が増す

職場研修なるものを受けた。進んで受けたかったわけではなくて、社員全員が受講することを義務づけられていた。別にそれほど苦痛だったわけではなく、それなりに実りのある研修だったが、途中で見た研修用ビデオはひどかった。

そのビデオは30分程度で、アナウンサーらしき司会者が二人のゲストに話を聞くという形式だった。いろいろと質問をして、最後の締めくくりで司会者が次のように言った。

「人」という漢字は、人と人が互いに支え合って立っている姿を表したものだという話を聞いたことがあります。だから、人は他人と助け合って生きていかなければならないんですね。

メモをとっていたわけではないので、もちろん言葉遣いは実際のものと違っているだろう。だが、内容はこれで間違いないはずだ。

私はこの発言を聞いてどうしようもない脱力感を味わった。

私も「人」という漢字の由来について似たような話を聞いたことがある。それも一度ではない。この説明よりも、一人の人が両足で踏ん張って立っている姿を表したものだと考えるほうが自然だと思う。だが、まあいい。問題は別のところにある。「だから」の前後が繋がっていないのだ。

「人」という漢字の起源が二人の人物が支え合っている姿だとしても、その事から、人は他人と助け合っていかなければならないという結論を導くことはできない。もし人を表す漢字が「八」だったとしても、人は他人と距離を保って生きていかなければならない、という話にはならないだろう。

休憩時間に私はビデオでの「人」の起源の説明への疑問を口にした。すると「武田鉄矢みたいなことを言うなぁ」と言われた。『金八先生』にそんなエピソードでもあるのかもしれない。続いて、「人」の由来から人がどうあるべきかを説明することのおかしさについても言いたかったのだが、そのような雰囲気ではなかったのでやめた。同じビデオを見た他の人々は、司会者のあの台詞になにも疑問を感じていないどころか、私のように考えることのほうが異常だと感じているようだった。

どうして、世の人々は筋道が通っていない話に寛容なのだろう? そして、筋の通っていないことを批判することに対して、どうして敵意を向けるのだろう? 私の周囲の人々だけなのだろうか? それとも日本人全体がそうなのか?

こんな事を考えると気が滅入る。私はたぶん社会の異物なのだ。

あとから考えてみると、私の不快感の原因は話の内容が非論理的だったことだけではなかったような気がしてきた。「人と人とが寄り添って……」という話は非常に陳腐で子供騙しなのに大人向けの研修用ビデオの中で平然と持ち出していること、そして、それを「いい話」として受け入れて思考停止状態に陥るのをよしとする雰囲気、その二つが私にとって吐き気を催すほど不愉快な事だったのだ。

1.10053(2001/11/14) これは見出しではない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111c.html#q011114

今日、『とむらい機関車』(大阪圭吉/創元推理文庫)を読み終えた。長い道のりだった。この本を買ってきたのが先月の25日だったから、半月以上かかったことになる。続いて『銀座幽霊』(同)を読むことになるのだが、その前に読んでおかなければならない本もあるので、いつになったら読み終わるのか見当もつかない。

今のうちに感想を書いておこうかとも思ったが、今日はあまり時間がないのでやめておく。そのうち暇になってネタがなければ感想を書くことにしよう。さもなければ『銀座幽霊』を読了したときにでも。

1.10054(2001/11/15) 「Sinn」と「Bedeutung」について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111c.html#q011115

今日は「Sinn」と「Bedeutung」の話である。これら二つの単語がドイツ語だということを知っている人もいるだろう。が、私はドイツ語には疎いので、一般的な語義の詳細には触れない。だからドイツ語を知らない人も安心して読んでほしい。差し当たり必要な知識は、二つとも名詞であるということと、「Bedeutung」には「bedeuten」という動詞形があるということだけだ。

さて、次の例文を読んで、「Sinn」と「Bedeutung」の意味について考えてもらおう。

「宵の明星」という言葉のSinnと「明けの明星」という言葉のSinnは違うが、これら二つの言葉のBedeutungは同じである。両者はともに金星をbedeuten。

この文の「Sinn」と「Bedeutung」をどのように訳せばいいか。自然な考えでは、「Sinn」は言葉の意味内容のことだと思われる。また「Bedeutung」のほうは言葉の指示対象のことだろう。そこで昔は前者に「意味」、後者に「指示」という語を当てた。当然「bedeuten」は「指示する」だ。

では、次にもう一つの例文を掲げる。

「2足す3は5である」という文のSinnと「日本の首都は東京である」という文のSinnは違うが、これら二つの文のBedeutungは同じである。両者はともに真理をbedeuten。

今度も「Sinn」は意味内容のことだと考えていい。が、「Bedeutung」はどうだろう。文に指示対象があるのだろうか? 文は真理を「指示する」?

ここで挙げた「Sinn」と「Bedeutung」の用法はドイツの論理学者・哲学者のフレーゲが考案したものだ。実は、もともとのドイツ語ではこの二つの言葉にはさほど明確な意味の違いがあるわけではない。どちらも言葉の意味のことだ(「Sinn」には英語の「sense」と同様に、「感覚」という意味もある)。フレーゲはこの二つの言葉に無理矢理別の機能をあてがった。彼の用語法はドイツ語圏の人間にとって抵抗があるものだったらしい。同時期に活動したフッサールは、言葉の意味についてフレーゲが行った区別の意義は認めたものの、「Sinn」と「Bedeutung」の使い分けはせずに、どちらもフレーゲのいう「Sinn」を指すものとし、フレーゲのいう「Bedeutung」のことは「Gegestand」と呼ぶことにする、と言っている。また、イギリスの哲学者ダメットの『分析哲学の起源』のドイツ語版では、フレーゲの「Sinn」を「Bedeutung」、フレーゲの「Bedeutung」を「Bezug」と訳している。ドイツ語の用語を英訳し、それをドイツ語に戻したら別の言葉に置き換わってしまったわけだ。ああ、ややこしい。

さて、日本に話を戻す。先に述べたように、昔は「Sinn」を「意味」、「Bedeutung」を「指示」と訳していたのだが、今では「Sinn」を「意義」、「Bedeutung」を「意味」と訳すのがほぼ定訳になっている。「Bedeutung」を「指示」またはこれに類する語に訳すと、ちょっと具合が悪いことがあるからだ(どうして具合が悪いかを説明すると長くなるので省略する)。しかし日常的な言語感覚では、

「宵の明星」という言葉の意義と「明けの明星」という言葉の意義は違うが、これら二つの言葉の意味は同じである。両者はともに金星を意味する。

とか、

「2足す3は5である」という文の意義と「日本の首都は東京である」という文の意義は違うが、これら二つの文の意味は同じである。両者はともに真理を意味する。

という文は相当に奇妙だ。言葉の意味の話にどうして「意義」などという言葉が出てくるのか。「意義」の「義」は「語義」とか「字義」の「義」ではなくて、「義務」とか「正義」の「義」だろうと思うのだが……。だが、言葉が足りないのだから仕方がない。英語なら「sense」と「meaning」を使い分ければいいが、まさか「Sinn」を「感覚」と訳すわけにもいくまい。

「意義」を引っぱり出してきたことは仕方がないとして、どうしてそれが「Sinn」の訳語となるのか。どうせ日常的な用法とは食い違っているのだから、「Sinn」を「意味」、「Bedeutung」を「意義」と訳してもいいのではないか。そのような疑問も沸いてくる。実際、ある哲学系のウェブサイトを見ると、定訳に異を唱えて訳語を逆にあてていた。「Sinn」が言葉の意味内容のことであるのは明らかだから、それに「意味」という訳語をあてたほうが話がすっきりするのは確かだ。が、「Sinn」に「意義」、「Bedeutung」に「意味」をあてがったのにも意味がないわけではない。「Bedeutung」の動詞形である「bedeuten」を訳すときに、「意味」の動詞形である「意味する」を使うことができるというのが理由だ。もし「Bedeutung」を「意義」とすると、「bedeuten」は「意義する」ということになるが、そんな日本語はない。

「Sinn」とか「Bedeutung」という哲学用語を哲学的議論の文脈から切り離して紹介してもあまり意味がないかもしれない。が、言葉を巡るごたごたはそれ自体で興味深いものだ。「たそがれSpringPoint」を最初から読んでいる人なら、似たような話が前にあったことを覚えているかもしれない。そう、2001年10月第3週に書いた「探偵小説/推理小説/ミステリ」という呼称にまつわる話題である。その文中では詳しく述べなかったが、特に島田荘司の『本格ミステリー宣言』における「ミステリー」「推理小説」という語の使い方は、フレーゲの「Sinn」「Bedeutung」と同じように人をまごつかせるものになっている。一気に飛躍して断言してしまおう。島田荘司は日本ミステリ界のゴットロープ・フレーゲである、と。ただし、あまり実りのあるアナロジーを提供することはできない。生前のフレーゲは数学者として認知されており、哲学的活動が今のように高く評価されるようになったのは20世紀半ば以降のいわゆる「フレーゲ・ルネサンス」以降のことだが、評論家としての島田荘司が作家として以上に評価される日が来るのかどうかは定かではない。

また独自の戦いを展開してしまった……。

1.10055(2001/11/16) 置き手紙

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111c.html#q011116

全文削除。

1.10056(2001/11/18) やぁプルート、きみはぼくの家畜だよ、アハハ。ネズミごときに飼われて屈辱的だろ? アッハハー!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0111c.html#q011118

全文削除。