1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10026(2001/10/15) もっとリンクを貼ろう!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110c.html#q011015

私のページはリンクが少ない。なぜ少ないかといえば、面倒だからだ。URIを調べるのも面倒だし、タグを打つのも面倒だ。そして、リンク先のURIが変更になった時に手入れしたり、リンク先サイトが廃止になった時にリンクを外したりするのも面倒だ。というわけで、自然とリンクが少ないページになってしまう。

しかし、それではいけない。インターネットの特長を生かすためにはじゃんじゃんリンクを貼らないと。みんな仲良し地球市民、手と手の皺を合わせて、「しあわせ」だ。というわけで、とりあえず吉野家へのリンクを貼っておこう。狂牛病騒ぎでケチがついたものの、牛丼並盛り280円という偉業は賞賛に値する。

おっと、松屋も忘れてはいけない。吉野家にはないカレーライスが松屋の魅力だ。何? 「カレーが食べたければカレー屋に行けばいい」って? それは甘いな。カレー屋では"牛丼屋のカレー"を食べるわけにはいかないのだ。

まだまだ足りない? なら、なか卯にもリンクを貼っておこう。昔、間違えて「なか卵」と呼んでいたのは秘密だ。ついでにもう一つ、神戸らんぷ亭も、一度しか行ったことはないけど、リンクしておく。神戸にはないんだな、この店。

牛丼屋チェーンでウェブサイトを開設している会社はまだほかにもあるが、私が食べたことがあるのはこの5社だけだ。他社はいっそう精進されたし。いや、精進料理を出せ、という意味ではないよ。

毎週一冊ずつ新書を読むという厳しいルールを自らに課していた私だが、先週とうとう途中で頓挫してしまった。だが、私は挫けない。今度は前回より読みやすそうな本を選んだ。『安倍晴明伝説』(諏訪春雄/ちくま新書)だ。

実は、私は陰陽道とか修験道とか山陰道とか合気道などには全く興味がない。最近、安倍晴明ブームだというが、小説もマンガもテレビドラマも映画も見たことがない(が、なぜかイメージCDだけ持っている。雅楽と現代音楽がごっちゃになった変なCDだったが、どこかへ埋もれてしまったので詳細なデータは省略)くらいだ。だから、この本を買ったのも、もののはずみだ。

読んでみると、なかなか面白い。全体は大きく3つの部分に分かれており、まず最初に信頼できる史料に基づく安倍晴明の実像が語られる。次に晴明直系の上級陰陽師たちが伝えた晴明伝説を紹介し、最後にそれとは違った別系統の晴明伝説――下級の民間陰陽師たちが広めたもの――の系譜を追う。

誰でも簡単に読める本なので、特に説明の要はないと思う。もしかしたら第7,8章あたりは東北地方や北海道で育った人にはピンとこないかもしれないが、これをきっかけに勉強するのもいいだろう。

最後に、印象に残った一節を引用しておく。呪術一般について説明した後の文章で、安倍晴明の特異性について筆者は次のように語る。

呪術が効力を発揮するためには、ふつうは先の大儺式やこの兄弟の例のように呪術師によって綿密にしかけられた特殊なことばと物と儀礼から成る呪術装置が必要である。安倍晴明のすごさはそうした装置なしに式神を出現させることができた点にあった。そしてそれが可能であったのはもちろん伝説だからである。

なかなか味わい深い、ユーモアに満ちた文章ではないだろうか?

1.10027(2001/10/16) 張学良死す

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/

昨日、張学良が亡くなった。享年100歳。

張学良といえば歴史上の人物だ。高校の歴史の教科書にも名前が出ていた。授業では確か近現代史はざっと流す程度だったので、どういう人なのかはあまり知らなかったけれど。

ともあれ、こんな人がまだ生きている、激動の20世紀を乗り越えて生き続けているという事実は、私の心の支えだった。ちょっと大げさだが。

私の心の支えとなる有名人はもう一人いた。20世紀最大の哲学者(かどうかは異論もあるだろうが)クワインだ。だが、クワインは21世紀を体験することなく、去年のクリスマスに世を去った。その時も私はかなりショックを受けたのだが、今回の衝撃もかなり大きい。

人はみな死んで行く。どんなに長生きしても、いつかは死ぬ。当たり前のことだけど。

ああ、これから私は誰を心の支えにして生きていけばいいのだろう。渡辺啓助か?

推理について考えた。

たとえば、次の二つのデータが与えられているとしよう。

  1. 八橋検校は海外へ渡航したことはない。
  2. ヨハン・ゼバスティアン・バッハは生涯ドイツから一歩も外に出ることがなかった。

このことから、この二人は顔見知りではないということは誰でも簡単に推理できるだろう。だが、この推理の妥当性を形式的な方法で示そうとすると、いくつかの補助的な条件が必要となる。たとえば、

などなど。実はまだこれだけでも足りないのだが……。

これら補助的条件は常識の範疇だから、あえて明示しなくてもふつうは問題がない。ただ、推理の過程を形式的に再構成しようとする時にのみ問題となる。常識はさまざまな領域に及んでいて、互いにゆるやかな関係を持っている。個別の推理を再構成するのに、それらすべてを参照するのは馬鹿げているが、かといって一部分だけを切り出すと不十分である場合がある。ミステリでよく使われる叙述トリックは、常識の隙を衝くことで成立している。

この文章は、実はここの続きになっている。推理小説における探偵の推理を数学の公理系になぞらえる見地の難点の一つをここで提示した。探偵が行う個々の推理活動と一般的な推論規則の関係は、ミステリ論にとってかなり大きなテーマではないかと思うが、今のミステリ評論界ではあまり重視されていないようだ。

ところで、上の例で八橋検校とバッハを取り上げたのには大した理由はなく、二人とも音楽家で、八橋検校の没年にバッハが生まれた(1685年)という点で関係があるから、という程度の軽い気持ちだった。実は私は八橋検校については、よく知らない。が、検校(江戸時代の盲人の最高位)というからには……そもそも誰かと顔見知りだということがあり得るのだろうか?

1.10028(2001/10/17) 大鳥居

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110c.html#q011017a

全文削除。

1.10028(2001/10/17) パパ・ハイドン対クレメンス・ノン・パパ冥界の大決戦!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110c.html#q011017b

全文削除。

1.10029(2001/10/18) 一週間の最初の日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110c.html#q011018b

一週間の最初の日は何曜日か?

日本では、ふつう月曜日だと考えられているが、欧米では日曜日を一週間の始まりと考えることが多い、という話を聞いたことがある。確かめたことはないが、Windowsのタスクバーにあるカレンダーを見ても、日月火水木金土の順に並んでいるから、たぶん本当なのだろう。

旧約聖書の創世記では、神は六日間の創造活動のあと、七日目に休息をとっている。してみると、日曜日が一番最後のように思われる。もっとも七曜は聖書に由来するわけではなく、もっと起源は古いようだが。

土曜日と日曜日の間に週の変わり目があるとすると、週休二日制が広まった今日では、二日連続した休日の間で別の週になることになって、ちょっと都合が悪いような感じがする。やはり日曜日までが前の週で、月曜日から新しい週が始まると考えたい。逆に金曜日で一週間が終わりだと考えてもいいのだが、そうすると週休二日制をとっていない職場や学校では具合が悪くなる。

一年は1月から始まり、一ヶ月は1日から始まる。一日は0時から始まり、一時間は0分から始まる。1と0が混じっていて、やや不統一の感があるが、それぞれの単位で用いられる最小の数字が起点となっているのは同じだ。ところが七曜は数字を使わないから、はっきりとした切れ目がない。

中国では、七曜を数字を使って表すそうだ。月曜日は「星期一」、火曜日は「星期二」というふうに続いて、土曜日は「星期六」、これで日曜日が「星期七」ならわかりやすいが、そうではなくて「星期天」となっている。どうも日曜日は番外という感じだ。一週間は月曜日から始まり、土曜日に終わる。そして週と週との間に日曜日が入る、というイメージ。中国の人が本当にそんなふうに考えているかどうかは知らないけれど。

1.10030(2001/10/19) 探偵小説/推理小説/ミステリ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011019

「探偵小説」の「探偵」とは何のことだろう? 「そりゃ、事件の謎を解くのことに決まっているよ」と言われてしまいそうだ。確かにその可能性もある。だが、探偵活動のことを指しているとも考えられる。人か活動か、それが問題だ。

英語で「detective story」という。この言葉の直訳とすれば、「探偵」はある種の職業についている人、または職業は別にあっても小説の中である種の役割を担う人のことだ。ここでわざと「ある種の」とぼかして書いたが、それこそが探偵に他ならない。

だが、日本語の「探偵」はもともと活動を指す用法が先にあって、後にその活動に従事する人の意味に転用されたという経緯がある。ちょうど「教授」という言葉が、もともと人に何かを教える活動のことを指していて、後にそれが職業名になったように。そして「探偵小説」という言葉は少なくとも百年以上前に成立しているのだから、現在主流となっている用法に従っていると簡単に結論づけることはできないのだ。

探偵という活動は、二つの側面を持っている。一つは推理し、考えを巡らせ、謎を解くという知的な側面。もう一つは、他人の秘密を暴き立てるためにこそこそと嗅ぎまわるという、いかがわしい側面。どうやら明治の頃の「探偵」という言葉は後者のイメージが強かったようだ。現在では「探偵する」という動詞そのものがほとんど使われなくなっているので、当時この言葉がどのようなニュアンスで用いられていたのかを正確に見積もるのは難しいのだが。

他方、人を指すほうの「探偵」だが、これも現在の用法とはかなり違っていて、主に私服警官のことだったらしい。以前テレビのドキュメンタリー番組を見ていると、大阪のヤクザが刑事のことを「探偵さん」と言っていたので、今でもその筋では古い用法が残っているのかもしれない。そもそも「刑事」という言い方自体が派生的な用法だ。

明治時代にも現在の私立探偵に相当する人がいたとは思うが、はたして一般人が「探偵」という言葉から私立探偵を直ちに想起したかどうかは疑わしい。

「探偵小説」という用語の起源がどこまで遡れるのかを調べて、さらに同時代に「探偵」という言葉がどのように用いられていたのかを探究してゆけば、冒頭に掲げた私の疑問は解決するかもしれない。そのような文献学的研究を既にやっているのだとしたら、不明を恥じるばかりだ。

さて、「探偵小説」の語源の話をしたのは、これと似た「推理小説」「ミステリ」という言葉と対比させて、いろいろと考えてみようと思ったからだ。「推理」には推理する人を指す用法はない(「彼女は日本一の名探偵だ」と言うことはあっても、「彼女は日本一の名推理だ」では日本語としておかしい)ので、話は簡単だ。「推理(という活動を行う)小説」という意味である。

では、「ミステリ」はどうか。これは外来語なので元の英語の意味を基本的に受け継いでいるといっていいだろう。一般的な意味では、謎、神秘、秘密……とことだから、文芸のジャンルとしての「ミステリ」は「謎や秘密を扱う小説」ということになる。

なお、「mistery」の仮名表記としては「ミステリ」のほかに「ミステリー」「ミステリイ」「ミステリィ」がある。コンピューター関係者は、外来語の語尾の音引きをよく省略する(たとえば「コンピュータ」)が、もちろん「ミステリ」という表記はコンピューター関係者が発明したものではない。早川書房が「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」を創刊したのは、半世紀近く前の話。その後、早川書房は一貫して「ミステリ」という表記を使っている。東京創元社も同じ。

昭和後期に翻訳ミステリ界に大きな功績を残したこの二社の影響を受けた人は「ミステリ」をよく使っていたが、一般には当然「ミステリー」のほうが主流だった。「ミステリー」だと超自然の謎やオカルトを扱っているかのように思われてしまうという理由で、私はずっと「ミステリ」を使い続けている。平成に入った頃から「ミステリ」の地位が向上してきて、文芸ジャンルの呼称としては、いまや「ミステリ」を凌駕する勢いだ。そうなってくると、へそ曲がりの私は何となく気分がよくない。そのうち「ミステリー」に変えようかとも思う。

あと、最近の傾向として「ミステリィ」も徐々に市民権を得つつある。これは、故・渡辺剣次氏の名著『ミステリィ・カクテル』(講談社)の影響である……というのは嘘で、この本はたぶん今は流通していない。

それはともかく、私はあまり「ミステリィ」という表記が好きではない。それと、小さい「ァ、ィ、ゥ、ェ、ォ」は「ヴァ」「ディ」などの音を表記するために確保しておき、長音を表現するには音引きを使いたいからだ。よって「エラリィ・クイーン」などという表現も基本的には使わない。

話が横道にそれた。私が書きたいのは「探偵小説」「推理小説」「ミステリ」の意味の違いや使い分けについてなのだが、予備的考察がどうしても長くなる。

さて、本題に入る。探偵小説、推理小説、ミステリは同じものなのか、それとも別ものか? ただし、ここでは小説のみを対象とし、マンガやドラマは扱わないことにする。

この問題に対しては、

  1. 全く別もので、重なり合うこともない
  2. 一部は重なるが、範囲にずれがある
  3. 全く同じものである

という三つの可能な考え方がある。さらに「探偵小説と推理小説は同じだが、ミステリは違う」とか「狭義のミステリは推理小説と同じで広義の探偵小説はミステリと同じだ」とか、細かくわけることもできるが、ここではなるべく大まかな話だけにしようと思う。

1は非常にラディカルな考え方で、厳密にこの立場を貫いている人はまずいないのではないかと思う。一時期の島田荘司は、ミステリーと推理小説(上述のとおり、私は「ミステリ」という表記を好むが、ここは本人の表記法にあわせる)は全く別の系譜に属する似て非なるものだと主張していた。「ミステリー」と「推理小説」がどう違うのかということについては『本格ミステリー宣言』を参照してほしい。とりあえず、この考えを額面どおりに受け取るならば個別の小説すべてが「ミステリー」か「推理小説」のどちらか一方に分類されるはずだということだけ言っておこう。これはちょっと無理がある仮定だと思う。さすがに島田氏自身も自説の極端さに気づいたのか、その後はややトーンダウンしている。のちに両者の総称として「探偵小説」と呼ぶことを提唱しているが、これは「ミステリー」と「推理小説」が同じ「探偵小説」というジャンルに属する小説を区分けするための名称であることを示唆しているように思われる。もし本当に両者が別の系譜に属する似て非なるものならば、総称を与える必要もない(イモリとヤモリに総称はない!)からだ。

たぶん多くの人は「ミステリ⊃探偵小説⊃推理小説」または「ミステリ⊃推理小説⊃探偵小説」という包含関係で捉えているのではないか。上の分類でいえば2に相当する。「ミステリ」がもっとも広範囲をカヴァーする用語だというのはいいとして、「探偵小説」と「推理小説」はどちらがどちらを含むのか(または、両者は一部が重なっているのか?)というのは議論の余地がある。

「探偵小説」という言葉が一般的だった昭和前期には、エロ・グロ・ナンセンス、怪奇・幻想、そして科学小説までをもひっくるめて「変格探偵小説」と呼んでいた。今、SFを推理小説の下位ジャンルだとみなすことはほとんどないはずなので、その点では「探偵小説⊃推理小説」ということになるだろう。

他方、昭和後期に目を向けると事情は異なる。「推理小説」という言葉が普及したのと同じ頃にこのジャンルの大衆化が進み、マニアではない一般の人が推理小説を読むようになった。大衆化は通俗化であり、拡散と解消の危機でもある。そこで、その流れに抵抗する人々は「探偵小説の復権」を訴えた。今世間で流通している「推理小説」の大部分は「探偵小説」ではなく、その要素が薄められたまがいものに過ぎない、というわけだ。ここでは、さまざまな形で拡散した「推理小説」の中心に、昔ながらの「探偵小説」が位置することになる。すなわち「推理小説⊃探偵小説」だ。

もちろん、これは簡単な素描であり、厳密なものではない。そもそも海外もののファンと国内もののファンでも考え方が違うし、謎解きを好むかサスペンスを好むかによっても違ってくる。要するに、ミステリ界全体あるいはその大部分で共通に了解されている用語法などない、ということになる。そう言ってしまうと身も蓋もないが。

そこで、私が提唱したいのが3だ。過去のさまざまな意見・主張・イデオロギー・議論などの積み重ねで混乱した結果、どうせ「いわゆる」とか「狭義の」とか「戦前の雰囲気をもった」とか「知的遊戯としての」とか修飾語句をつけないと意志疎通ができないのだから、いっそ同義語とみなしたほうがすっきりする。具体的な線引きは人それぞれだが、ともあれある基準で「ミステリ」とそれ以外とを区分けするなら、その線の内側にある小説は同時に「推理小説」でもあり「探偵小説」でもある、とみなすのだ。

もちろん、抵抗感が強い局面もあるだろう。『黒死館殺人事件』は推理小説なのか? 『笑う警官』は探偵小説か? だが、その違和感は「『三つの棺』の著者はカーター・ディクスンだ」という主張を見聞きした場合のそれと同じで、言葉の意味そのものではない。『黒死館殺人事件』のことを強いて「推理小説」と呼ぶ必要はなく、「推理小説=探偵小説」であることを承認しさえすればいい。ちょうど「ディクスン・カー=カーター・ディクスン」であることを承認するのと同様に。

「探偵小説=推理小説=ミステリ」という、一見するとかなり極端なことを主張するのにはもう一つ理由がある。それは、ミステリのジャンル分けを行う際に、それら三つの用語を区別すると煩雑になるからだ。たとえば「本格/変格」という区分を導入するだけで、2×3=6通りの用語が出来る。それら一つ一つについてどのような小説が該当するのか、それとも空集合なのか、などと検討していくのはかなりの骨折りとなる。

ある知人の意見では「本格」という語を冠した場合、周辺的な作品を切り落とすことになるので、もとの「探偵小説/推理小説/ミステリ」の違いは解消されるそうだ。すなわち「ミステリ⊃推理小説⊃探偵小説⊃本格(ミステリ,推理小説,探偵小説)」となるわけで、これなら4通りに整理される。だが、ジャンル分けの用語は「本格」に限ったものではない。「鉄道ミステリ」と「鉄道推理」は同じか否か、というような問題提起はいくらでもできる。

以上の理由により、私は今後「探偵小説/推理小説/ミステリ」を同義語として取り扱うことにする。作品の雰囲気や年代により「探偵小説」と呼んだり「推理小説」と呼んだりすることはあるが、その使い分けは恣意的なものであり重要ではない。一般的な話をするときには「ミステリ」を使うのは、これまでと同様。

1.10031(2001/10/20) 続・探偵小説/推理小説/ミステリ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110c.html#q011020a

探偵小説/推理小説/ミステリに統合した。

1.10032(2001/10/20) 主よ人の望みの喜びよ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q0110b

今日の毎日新聞の文化欄に「風の響き」というタイトルの囲み記事があった。鈴木俊郎という劇作家が書いたエッセイで、「人の望みの喜びよ」という見出しがついていた。その一部を引用する。

主よ人の望みの喜びよ、という曲がある。もちろん曲自体も好きなのだが、私が魅かれたのは曲の名だ。

人の望み、は喜びなのだろうか。人がなにかを望むのはそれがまだかなっていない時だ。それを私は「喜びだ」とは感じてこられなかった気がする。(略)

この曲名は語るのだ。人の望みは喜びだ、と。そして曲も見事にどこか望みの美しさを説得力豊かに伝える。

これはほんとに人が考えた曲名だろうか? 神の視点から人を眺めた呟きではないだろうか?

世の中、いろいろな事を考える人がいるものだ。私は感心してしまった。神が自分自身に向かって「主よ!」と呼びかけるはずがないだろう、と突っ込んでみたくもなるのだが、それ以上に気になったのが「人の望みの喜びよ」という部分。筆者が述べるように「人の望みは喜びだ」という意味なのだろうか?

確かにそうとれなくもない。「智恵子の夫の光太郎」といえば、「智恵子の夫は光太郎だ」という意味を含んでいる。だが、人がさまざまな事柄を望むということは人が享受する(べき)喜び(の一つ)だ、という含みを私はこの曲名からは読みとれない。なぜなら、「人の望みの喜びよ」は「主よ」とセットになっているからだ。

まず、「主よ!」と呼びかけ、次に「人の望みの喜びよ!」と続ける。後者は前者の言い換えであり、補足である。さらに後者の二番目の「の」を同格を表すものだと考えると「主=人の望み=喜び」という等式が成立する。つまり、「主は人が望むものであり、また人の喜びである」という意味ではないか。

「主よ人の望みの喜びよ」はさまざまな形に編曲されている。筆者がどのヴァージョンを聴いたのか文中には書かれていないのでわからないが、もとはバッハのカンタータ第147番「心と口と行いと生活で」BWV147の第6曲(と第10曲)のコラールだ。コラールというのは(と説明をしなければならないのだとすれば、きっとカンタータについても説明が必要だろう。でも、きりがないので省略)ルター派プロテスタントの教会で歌われる宗教歌で、比較的単純で素朴な旋律のものが多い。バッハはコラールに和声付けをしたり、対旋律を加えたりして、かなり複雑な音楽を作っている。

手元に『作曲家別名曲解説ライブラリー12 J.S.バッハ』(音楽之友社)があったので調べてみると、次のように書かれていた。

第6曲 コラール合唱 ト長調 4分の3(8分の9)拍子。マイラ・ヘスのピアノ編曲で知られる、あの有名なコラール「主よ、人の望みの喜びよ」である。この訳名は、じつは英訳名"Jesus, Joy of Man's Desiring"からとられたものである。ドイツ語の歌詞は「イエスを有するわが喜び Wohl mir, daß ich Jesum habe」であり、これはマルティン・ヤーン(Martin Jahn)のコラール「イエスよ、わが魂の喜びよ Jesu, meiner Seelen Wonne」の第6節に他ならない。この旋律は一般にはヨハン・ショップ(Johann Schopp)の「目覚めよわが心」として知られている。

いや、なんでも調べてみるものですなぁ。このタイトルが重訳だったとは……。

1.10033(2001/10/21) 続々・探偵小説/推理小説/ミステリ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110a.html#q011021

探偵小説/推理小説/ミステリに統合した。