1(総タイトル) たそがれSpringPoint

1.x 鬱の蝿取壺

1.10019(2001/10/08) 「正義」が通れば、正義が引っ込む

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011008

昨日の2回目の文章の最後で、ハイデンフェルトのパクリについて少しだけ言及した。その小説は『月の光』というもので、『ミニ・ミステリ傑作選』(エラリー・クイーン編/創元推理文庫)に収録されている。もともと少し無理っぽいネタなのだが、発想は面白い。それで(作者も作品名も忘れていたのだが)ネタだけは覚えていた。そして、今年に入ってから、あるアンソロジーに収録されているある小説を読んで、そこで『月の光』のネタがパクられているのを発見した。

何人かの知人にはそのアイディアの盗用について話したし、私の指摘をまつまでもなく気づいた人も複数いた。だから、ミステリ愛好家の間では、そのパクリは自明のものかと思った。だが、ネット上でその小説の書評をいくつか読んだが、全く話題になっていなかった。そこで、『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』の感想文を書いた機会に、ハイデンフェント繋がりということで、それを大々的に暴露してやろうかと思った次第。

ただ、それをやるとなると、どうしても『月の光』のネタを明かさないわけにはいかない。これはごく短いショートショートなので、ネタをばらすと読みどころがなくなってしまう。その小説のほうはタイトルと作者名を挙げて晒し物にしても一向に罪悪感を抱くことはない(とはいえ、私はその小説の作者に含むところがあるわけではない)のだが、元ネタをばらすのは気がひける。それに、その小説の問題は、前例のあるネタの再使用にあるのではなくて、使い方があまりにも愚劣きわまりないというところにあるのだから、あえてハイデンフェルトに言及しなくても「なお、このネタは海外のある作家がショートショートで使っているものであることを付記しておく」とでも書いておけば十分だ。というわけで、この件については今は書かないでおこうと思う。みんなが忘れた頃に徹底的にやる……かもしれない。

なお、今日の小見出しは、先ほどテレビでアフガニスタン空爆のニュースを見て思いついたもの。別にパクリとかネタばらしの話題とは関係がない。

1.10020(2001/10/09) 建築業者と建築主事

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011009

『夏の夜会』の感想

今日は『夏の夜会』(西澤保彦/カッパ・ノベルス)を読了した。あらすじ紹介は例によって省略。感想のみ簡単に述べる。

この小説はミステリの暗黙の前提に挑戦した実験作といえる。それは、「著者のことば」を見れば明らかだ。

本格ミステリは人間の記憶の確実性に依拠する(というより、それを大前提とする)特殊ジャンルです。従って、推理のためのデータとなるべき肝心の情報(=記憶)が、いかに恣意的で曖昧であるかをミステリ作品の中心的なテーマに据えることは自己矛盾であるばかりでなく、その試み自体、大きな恣意性に依拠せざるを得ません。

もちろん曖昧で不確実な記憶をテーマにしたミステリはこれまでにもあった。すぐに思い出すのは乱歩の『心理試験』だが、もしかすると『D坂の殺人事件』のほうだったかもしれない。「ごじやうだん」はどっちだったっけ?

ともあれ、語り手を含む登場人物の全員が、過去の出来事について何らかの記憶違いまたは不確かな伝聞に基づく間違った認識をしている、という極端な状況を暑かったミステリは、これまで読んだことがない。誰の証言も信用できないとなると、推理しようがないではないか。

だが、そこは熟練した作家の業。記憶があやふやな代わりに、登場人物はみな意図的な嘘はつかない、という強力な暗黙の前提を設定している。ふつうのミステリで「ただし、登場人物は誰も嘘をつかないものとする」と但し書きをつけたりすると、安直だと誹られても仕方がない。だが、『夏の夜会』では、それが不自然ではない。実をいえば、私は読み終えるまでそのことに気づかなかった。

最初は被害者の氏名さえわからず、勘違いの上に憶測を積み上げて虚構の事件を構成していたのが、少しずつ手直しを繰り返して徐々に真相に近づいてゆき、最後には(突き止めようのない細部を除いて)ほぼ真実に辿り着く。その過程の描き方は見事だ。恣意的なところもないではないが、説得力は十分ある。ただ一つ私が気になったのは<きがえ室>という貼り紙のことだ。その筆跡と指紋を警察は見逃したのか? それだけが分からない。もしかしたら私が誤読しているだけなのかもしれないが。

建築業者と建築主事

これはたとえ話である。何をたとえているのかは各自判断されたし。

ある人が散歩していると、道ばたに建築資材として使えそうな鉄骨やら材木が落ちているのを発見したとする。その人はたまたま建築業を営んでいたので、「これは使える」と思い、その資材を持って帰り、適当な空き地を見つけて、そこに家を建てた。ただ、道ばたに落ちていた資材をよく吟味もせずに適当につなぎ合わせたものだから、見る人が見れば違法建築であることは丸わかりだった(それ以前に拾得物横領罪ではないか、と言われそうだが、それは不問に付す。何たってたとえ話なのだから)。

一通り建て終わった頃に、一人の建築主事がその場を通りかかった。「建築主事」といっても知らない人も多いだろうが、建築確認をする人のことだ。かつては役所にしかいなかったが、最近は民間にも建築主事がある。さて、その建築主事は建物を見て「ややや、これはなんだ! 明らかに建築基準法に違反しているぞ」と言って、その建物を建てた建築業者に向かって、直ちに撤去するように指示した。すると、建築業者は「せっかく建てた建物だ。法律に適合しないから手直しせよと言われたら協力しないでもないが、完全にぶちこわせと言われても従える道理はない。そもそも、道ばたに落ちていたがらくた同然の資材から、これだけ立派な家を建てたのは、俺の力腕によるもの。さては、俺の才能を妬んで、そんな意地悪なことを言っているんだな。それなら、代案を示すがいい。同じ資材を使って、俺よりももっと優れた家を建てられるものなら、建ててみな」と言った。

建築主事は一級建築士の資格を持っている。だが、これまで建築確認一筋に仕事をしてきたため、はっきり言って製図さえおぼつかない(もちろんすべての建築主事が製図能力を持たないと言っているわけではない。たとえ話なので、あまり気にしないように)。でも、長年の経験から違法建築を見抜く目は確かだ。建築主事は言う。「なるほど、若干の手直しですむものなら、助言もしよう。だが、この家は駄目だ。土台から何から完全に法令違反だ。たたき壊す以外に方法はない。また、そもそもこの資材を使って家を建てること自体が無茶なのだから、代案などあろうはずもない」

さて、この二人の議論、どちらのほうが正論だろうか?

1.10021(2001/10/10) 停滞

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011010

毎週一冊ずつ新書を読むことを決めてから三週間めだが、早くも頓挫しそうになってきた。今読んでいるのは、『日本一周 ローカル線温泉旅』(嵐山光三郎/講談社現代新書)なのだが、これがなかなか進まない。つまらない、というわけではない。それなりに面白いことは面白い。だが、本全体に一つの流れがあるわけではなく、どこから読み始めて、どこでやめても構わないような内容になっているので、どうしても続きを読みたいという気にならないのだ。

そもそも私はこの種のガイドブック(写真や図版はなく、各章の頭に簡単な地図が置かれているだけだが、それでもこれはまぎれもないガイドブックだ。その証拠に筆者が訪れた旅館や料理屋の電話番号が書かれている)はほとんど読まない。本屋でこの本を手にとった時、宮脇俊三の鉄道紀行文に似た内容かと思ったが、あてが外れたわけだ。

いつまでも一冊の本にこだわっていても仕方がない。とりあえず、金曜日まで何とか読み続けて、それで読み終えればよし、駄目だったら読むのをやめて次の本を探すことにしよう。

今日、甲影会(作家特集の『別冊シャレード』を中心に活動しているミステリ同人サークル)から『別冊シャレード Vol.62 山沢晴雄特集4』が届いた。相変わらず分厚い本だ。そのうち読むことにしよう。

1.10022(2001/10/11) 疲れてくると予定外のものを買ってしまう、という話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011011

なんとなく『創元推理21 2001年冬号』を買った。文庫版になってから二号目だが、創刊号(?)は買っていない。今号も買う予定はなかったのだが、今日はなんとなく疲れて思考力が低下しているときに本屋の平棚で見かけて買ってしまった。

とりあえず帰りの電車の中で読み始めた。疲れているので小説はやめて、読みやすそうな評論から読むことにした。今回の創元推理評論賞佳作の二編のうち、『推理小説の形式的構造論』(柳川貴之)のほうだ。どうしてこれから読むことにしたかというと、もう一編の『ウィルキー・コリンズから大西巨人へ――「探偵小説」再定義の試み』(石橋正孝)のタイトルには「探偵小説」が入っているのに対し、こちらのタイトルには「推理小説」が入っていたからだ。おお、これでは理由になっていないや。

読んでいる間に次から次へと疑問が沸いてきて、なかなか先に進めなかった。結局、「8 推理小説の非時間性」の途中まで読んだところで現在に至る。読んでいる途中であれこれ意見を述べるのはあまりよくないのだが、明日になって忘れてしまう前に、これだけは言っておきたい。115ページ下段から次のページの上段にかけてゼノンの「矢のパラドックス」として説明されているのは、実は「二分割(中点)のパラドックス」だ。確かにゼノンは「飛んでいる矢は止まっている」と言ったと伝えられているが、それはまた別の話。

いや、そんなことを言いたいのではなかった。この評論は一文読むごとにツッコミを入れたくなるほど示唆に富んだ知的挑発に満ちたものだが、細部を無視しても根本的なところで難点があるように思う。選考委員の一人、巽昌章氏は選評で次のように述べている。

推理小説の手掛かりを「公理」と呼ぶのは、ある種の飛躍を伴う断定であると思う。手掛かりが、数学の公理のように明確に定義づけうるものかどうか疑問だからだ。

私も同感。というか、推理小説の手掛かりを「公理」と呼ぶのは明らかに間違っていると思う。

柳川氏は、

推理小説を数学に喩えるとき、推理の出発点となる「手がかり」が、いわばひとつの「公理」に対応していることを、ここで認めることにする。探偵や読者にとって、最終的な手がかりの真偽は証明のしようがなく、また、そのような行為自体が無意味だからである。すなわち、推理小説とは、少なくともその小説世界においては直観的に真であると見なしうる「手がかり」という「公理」群と、論理的に矛盾しない「推論規則」からなる、ひとつの公理系である。

と述べるが、これは法外な主張といえるだろう。犯人がばらまいた偽の手がかりはどうなのか。それも「公理」と呼べるのか? あるいは、証人が記憶違いをしていて、意図せずに間違った手がかりを提供した場合は? 先日『夏の夜会』を読んだばかりなので、どうしてもそのような疑問が思い浮かぶ。

むろん、手がかりの真偽を「証明」することはたいていの場合、不可能だ。しかしそのことは、手がかりを「公理」として受け入れることと同じではない。個々の手がかりはさし当たり真だと推定され、推理の出発点となるが、他の手がかりや仮説などと辻褄が合わなくなった場合には、偽とみなされる(偽だと証明されるのではない!)。

推理小説から、数学における「公理」に対応するものを強いて探すとすれば、地の文で書かれた事柄がその候補として挙げられるかもしれない。推理小説では、地の文で嘘をついてはいけないことになっているから、基本的には地の文は無条件で信頼できるはずだ(「基本的には」と断ったのは、世の中にはフェアプレイの原則を守っていない推理小説がごまんとあるからだ)。読者は地の文を手がかりとして推理することができるが、作中の探偵は当然のことながらそんな事はできない。作中で探偵の前に示されるさまざまな手がかりと、探偵の前に手がかりが示されたということを述べる地の文は全く別物だ。

まだ言いたいことはあるのだが、先に述べたように私は『推理小説の形式的構造論』をまだ読み終えていない。ここまでの文章でさえ、ちょっと先走り過ぎたくらいだ。あとは全部読み終えてから、ということにしておく。本当に続きを書くかどうかは、気分次第だが。

なお、筆者の柳川氏については、5ページに書かれている略歴以外には知らないし、面識もない。もしかしたら、どこかですれ違ったことくらいはあるかもしれないが。筆者に対して何も含むところはない。むしろ、このような評論を物したということを賞賛したいほどだ。物事を構築するという能力が決定的に欠けている私には、とてもできないことだから。

1.10023(2001/10/12) 不幸な出来事

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011012

今日、悲しい事があった。

朝、いつもの駅で自動販売機で飲み物を買おうとして百円玉1枚と十円玉2枚を取り出したのだが、十円玉2枚を硬貨投入口に入れたときに、ふと手元が狂って、最後の百円玉を落としてしまった。百円玉は私の足下でしばらくくるくると回ったのち、ころころと自動販売機の下へ転がり込んでしまった。そして、それっきり。ああ、なんと悲しいことだろう。

10月11日(木)〜10月20日(土)まで「全国地域安全運動」実施中、だそうだ。駅前でチラシを配っていた。チラシには公募ポスターの最優秀作品が4点掲載されていた。ポスターの図柄については特に何も言うことはないが、そこに書かれている標語が少し気になった。予め指定した標語をもとにしてポスターを募集したのか、それともポスター制作者が標語も考えて応募したのかは知らないが、ともあれ4点のポスターに書かれた標語にはある共通点がある。

お気づきだろうか? これらはすべて5・7・5の定型になっている(字余りのもあるが)。そんな事は当たり前ではないか、と言われるかもしれない。どんな標語コンクールでも上位受賞作のほとんどすべてが5・7・5の形になっているのだから。

確かに5・7・5だと語呂がよく、声を出して読んだときに、耳によく馴染む。俳句も川柳も5・7・5だ。どうしてそれが問題なのか、と思う人のほうが多いだろう。

でも、本当にそれでいいのか。語呂がよくて耳によく馴染むということは、意味を抜きにして音だけがするりと通り抜けていくということではないのか。標語というのは多くの人々に強く訴えかけるべきものなのだから、逆に語呂が悪くて、引っ掛かりのあるほうがいいのではないだろうか。

また、語呂のよさとは別に5・7・5には問題があるように思われる。それは、どことなく嘆願調になってしまい、強さが感じられない点だ。断言はできないが、二句構成のほうが三句構成より語調が強くなるようだ。

いや、そこまで言うのは極論かもしれない。だが、たとえば「急がば回れ」という昔ながらの諺を「危ないよ 急がば回れ ゆっくりと」などと5・7・5の枠にはめて標語に仕立てたらどんな印象を受けるだろうか。なまくらになってしまったとは感じられないだろうか?

私の印象に残っている標語は、次のようなものだ。

いずれもかなり古い標語だ。上の二つは7・5、下の二つは7・7の形になっている。語呂は悪くはない。が、どこか安定していない。そして、その不安定さがかえって強い印象を残す。

なお、これまでに私が見た標語のうち、最もインパクトが強かったのは、とある国道のカーブ付近に掲げられていたもので、次のような文言だった。

危ない! 死ぬぞ

今日、『死にそこないの青』(乙一/幻冬舎文庫)を買った。先週買った『暗黒童話』をまだ読んでいないのに……。読みたい本が多いのに、読む時間がないというのは不幸なことだ。

明日は、『おさなづま』の最終巻を入手するために、ちょっと遠出をする予定。たまには楽しいこともないと、ね。

1.10024(2001/10/13) バナナぜんざい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011013

「バナナぜんざい」という言葉を見聞きして、人はどのような食べ物を想像するものだろうか。そもそも「ぜんざい」自体が地方によって別の食べ物を指す言葉らしいので一概には言えないだろう。私が思い浮かべたのは、小豆を使った黒い汁物の中に、餅や白玉のかわりに輪切りにしたバナナが浮いているという奇妙な食べ物だった。「ぜんざい」という言葉で私と別のものをイメージしている人は「田舎汁粉」と読み替えてもらいたい。ぜんざいや汁粉独特の甘さと、バナナのもつ別種の甘さが混じり合い、何とも言いようのない味わいが広がるさまが想像できただろうか?

今日、私はその「バナナぜんざい」と遭遇した。イベント会場の庭に屋台が並んでいて、そのうちの一ヶ所で売っていたのだ。私はしばし逡巡したが、これも経験だと思い、食べてみることにした。

発砲スチロール製の使い捨ての椀に、大鍋からすくって入れられた「バナナぜんざい」、手渡された椀の中を見て私は驚いた。汁が真っ白なのだ。まるで甘酒か粕汁のように。店の人に聞くと「これはベトナムの料理で、ココナッツミルクをベースにしたスープの中にバナナとタピオカが入っている」という話だった。

なるほど、タピオカのつぶつぶは小豆に似ていなくもない。だが、大きさが全然違う。それにココナッツミルクの風味もぜんざいの風味とは全く別物だ。私は期待を裏切られたような気がした。確かに珍しい料理だと思うが、たぶんベトナムでは一般的なのだろうし、そもそもココナッツミルク、バナナ、タピオカという取り合わせには全く意外性がない。私が求めていたのは珍妙な食べ物なのであって、単なるエスニック料理ではないのだ。

煮込んだバナナはもったりとした食感で、バナナ独特の香りは抜けてしまっていた。

1.10025(2001/10/14) 独自の戦い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/q/0110b.html#q011014

泡沫候補、と呼ばれる人々がいる。天地がひっくり返っても絶対に当選できないことが確実な選挙にあえて出馬する人々である。そんな泡沫候補であっても、新聞やテレビなどでは無視するわけにいかない。そこで、出てくるフレーズが「なお、××候補は独自の戦いを展開している」というものだ。他候補の選挙活動について詳しく述べた後、最後にこの一言を付け加えるだけで、社会的責任をいちおう果たしたことになる。これを最初に考えた人は偉いと思う。

先日、学生時代の後輩がネットで公開している小説を読んで、このフレーズを思い出した。その後輩は、「折り目正しい本格ミステリ」を目指して、年に2、3編のペースで小説を発表しているのだが、ミステリ系サイトで話題になっている様子はない。私は「本格ミステリ」というのがどういうものなのか今ひとつわからないのだが、少なくとも後輩の小説が一般に流通している小説とはかなり違っているのは確かだ。平たく言えば、流行や多くの読者の嗜好に背を向けた小説だ。

その後輩に電話して、「相変わらず"独自の戦いを展開している"ね」と言うと、「それはお互い様」と返された。そういえば、正式公開後2週間が経過したのに、全然ヒット数が伸びず、一日あたり20ヒット弱で固定してしまっている。たぶん、ネットサーファーたちがテキストサイトに求める方向性から相当ずれているのだろう。

さて、どうしたものか……。