【日々の憂鬱】アレをナニするのはいかがなものか。【2004年12月上旬】


1.11229(2004/12/02) 師走

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041202a

昨日はどうしようもなくネタとやる気がなくて更新を休んだが、一日経ってもやっぱりどうしようもなくネタとやる気がなくて、どうしようもないのはどうしようもないので、どうしようもない雑記とネットで拾ったネタでごまかすというどうしようもないことをやってみる。


年末に北陸へ旅行しようと思っている。主目的はのと鉄道だ。来年春には一部区間を残して廃線になるそうなので、さっさと乗っておきたい。

のと鉄道は全線乗っても100kmもないのだが、往復するだけでほぼ一日潰れてしまう。最初は金沢あたりのビジネスホテルに泊まるつもりだったのだが、ただ乗ってるだけ、というのも味気ないので、のと鉄道沿線の宿に一泊してのんびり途中下車してみたい。そこで、今宿探しをしているのだが、一人で泊まれる頃合いな値段の宿がなかなか見つからない。

のと鉄道以外には、全線未乗の北陸鉄道にも乗りたいし、近々LRT化する予定の富山港線にも乗り納めしておきたい。ああ、そういえば万葉線というのもあった。昔、私が乗った時にはまだ加越能鉄道だった。

いろいろな鉄道に乗ったり、降りたり、乗り換えたり、隣の駅まで歩いたりする時に、重い荷物が邪魔になる。その場その場で適当にルートを決めるつもりなので時刻表(もちろん大判だ)は欠かせないのだが、これが非常に嵩張るので困る。さらにもう一つ困ったことに、今回は時刻表より重い冊子を鞄の中に入れていくことになる。というのは、コミケカタログだ。

北陸と東京は方向が違うので、併せて行くこともないのだが、まとまった休みをとって動ける機会が少ないので、こうなってしまった。この機会に長年未乗のままだった大糸線にも乗るつもりだ。


ピカソの名作、便器の彫刻に負ける

デュシャンの「泉」も彫刻なのだろうか?


「進化論には科学的根拠がある」と理解するアメリカ人は僅か35%暗いニュースリンク

回答項目の中の「ダーウィン進化論はひとつの理論に過ぎず、科学的根拠に欠ける」というのが、やや微妙。ダーウィン説以降の進化論の学説を知った上で回答した事例と、創造説信奉者が進化論を相対化しようとして発言した事例とがごっちゃになっているのではないだろうか。原文を見れば詳細がわかるのかもしれないが、私は英語がわからないので確かめようがない。

ところで、日本では牧逸馬の昔からアメリカに創造説を信じている人が多いことを取り上げて嗤う風潮があるが、非科学的な風潮はどこの国にでもある。日本だったら血液型性格判断(血液型占い)への信奉がその典型だ。

なお、非科学的であるということ自体では罪ではないが、科学の名の下の非科学は非常に有害で危険だ。


東京創元社『春期限定いちごタルト事件』紹介ページ

装画担当の片山若子なる人物を私は知らなかったので、検索して調べてみると、渋皮栗というサイトがあった。鯨統一郎の「とんち探偵一休さん」シリーズなどを手がけているらしい。

ところで、『春期限定いちごタルト事件』の発売日は、上記ページでは12/24となっているが、「今月の新刊」のコーナーでは12/18になっていた。どっちなんだろう?

1.11230(2004/12/03) なぜライトノベルには解説がないのか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041203a

もちろん、解説つきのライトノベルもないことはない。たとえば、富士見ファンタジア文庫では新人の第一作に編集部が解説をつけている(ただし、その「解説」の程度はここここで言われているとおり)。ほかにも、確かスニーカー文庫の新人作品にも解説つきのものがあったと記憶している。しかし、どちらも一般文芸の文庫解説とはかなり違っている。

一般の文庫解説に比較的近いものとして、私がすぐに思い出せたのは『妹ロボット』(佐藤ケイ/電撃文庫)の解説(おかゆまさき)くらいしかない。きっとほかにも類似例はあるはずなのだが、私の乏しい読書経験と記憶力では、ほかの例を挙げることができない。よりラノベの教養豊かな人のご指摘を待ちたい。

きちんとした書誌データを持っているわけではないので、解説のついたラノベがどのくらいあるのか、はっきりとは言えないが、少なくとも一般文芸の文庫本に比べると著しく少ないことは確かだ。『妹ロボット』の解説など、この小説の内容と連動した、一種の趣向という印象すら受けるほどだ。電撃文庫にはふつう解説はつかない。だから、クリスティー文庫の解説に「ブギーポップ」の台詞が引用されることはあっても、『ブギーポップ』シリーズの解説にポアロやミス・マープルの台詞が引用されることはない。いや、もし将来、上遠野浩平文庫が創刊されて川出正樹氏が解説者に起用されることがあるなら、話はまた違ってくるだろうけれど。

でも、とりあえず現時点に話を限定しよう。

ここで私は問う。「なぜ(ほとんどの)ライトノベルには解説がないのか?」と。


私がこの疑問に至ったのは、昨日の記事で『春季限定いちごタルト事件』(米澤穂信/創元推理文庫近刊)を取り上げたのがきっかけだ。作者のサイトではどう書かれているのだろうかと思って見に行ったら、予告ページがあったのだが、そのいちばん最後に、次のように書かれていたのだ。

ちなみに、本作は解説がつく予定です。

最初は、変なこと書いてるなぁ、としか思わなかった。文庫で出るのだから解説がつくのは当たり前じゃないか、と思ったのだ。この言葉の重みに気づいたのは、「モノグラフ」で「おお、今回は解説がつくのですね!」と感嘆符つきで紹介されているのを見たときだった。そう、『春期限定いちごタルト事件』は、米澤氏の初めての解説つき本なのである。

氏のデビュー作『氷菓』は第五回角川学園小説大賞の奨励賞受賞作品なので、てっきりスニーカー文庫編集部の当たり障りのない解説がついているものとばかり(そして、その当たり障りのなさ故に印象に残らず忘れてしまっているものとばかり)思いこんでいたのだが、実際に本を開いてみると解説はどこにもなく、著者あとがきがあるだけだった。もちろん、三十二の不思議な力のためあとがきが一ページしかない『愚者のエンドロール』にも解説はないし、『さよなら妖精』にもあとがきはあるのに解説はない(これは文庫本ではないから、解説がなくても不思議はないが)。

すると、『春期〜』の解説への興味が沸いてくるのだが、いちいち興味の赴くままに雑談を続けるといつまで経っても終わらないので、ここで話を元に戻すことにしよう。


再び問う。なぜ(ほとんどの)ライトノベルには解説がないのか?

この疑問に答えるためには、まずはふだん当たり前のように思っていることを疑ってみなければならない。すなわち、「なぜ(ほとんどの)一般文芸の文庫本には解説がついているのか?」と。

考えてみれば、ハードカバーの小説本にはあまり解説はついていない。ノベルス版も、最近は解説つきのものが増えてきたように思うが、それでも標準装備というほどではない。文庫本だけが特殊なのだ。文庫本はもともと古典的名著を大衆の手の届く価格で提供するという趣旨の版型だったので、"知の大衆化"のために解説が要請され、それが時代を経て文庫本の位置づけがすっかり変わった現代においても継承されている……という仮説をでっち上げてみたものの、自分でも今ひとつ納得できない。というのは、昔の文庫本には必ずしも解説がついていたわけではないし、解説がついていても現在のそれに比べるとあまり重きを置かれていなかったからだ。

たとえば、昭和40年代の創元推理文庫(例が偏っていて申し訳ない)だと巻末に作者の略歴を一ページ程度にまとめて掲載しているものが多い。また、ハヤカワ文庫の『われはロボット』(これも例が偏っているが、たまたま手許にある本だったので……)は今年出た「完全版」では瀬名秀明の署名入りの解説がつけられているのに対し、1983年に出た初版本の解説者(編集者か?)名はイニシアルで表示されているのみで、富士見やスニーカーの"解説"に近い。ただし、質は全然違う。

どうやら、文庫本の出自に理由を求めるのは無理筋のようだ。むしろ、文庫本の発展の歴史の中で徐々に解説の占める重みが増してゆき、本来は解説が不要な小説本の巻末にも「解説」というタイトルの文章が付されるようになったのではないかと思われる。これも、書誌データを調べてみないとはっきりしたことは言えないのだが、上述のとおり私はそのようなデータを持っていないので、検証作業をすっ飛ばして先に進むことにする。


解説つきの文庫本が増えて、いまや事実上の標準装備となっている理由は、実は簡単だ。解説は、本を手にとって買おうかどうか迷っている時の参考のためにあるのだ。何も難しく考える必要はない。

(「じゃあ、一つ前の節で文庫本の歴史について語ったのは何だったの?」と疑問に思う人もいるだろう。うん、あれは何だったんだろう?)

ライトノベルの場合、書店で本を手にとった読者の興味を惹く重要な要素がある。それは、だ。表紙絵や口絵、挿絵などが、一般の文庫本の解説のかわりを果たしているのだ。

おまけに、ほとんどのラノベには作者のあとがきがある。もちろん、作者があとがきを書いている本は一般文芸にもあるが、ラノベほど比率は高くない。「作品については作品自身に語らしめるべきであって、作者がしゃしゃり出て自作について述べるのはよくない」という考え方の人は今でも結構多い。

さらに、ラノベにはシリーズ物が多いことも解説の必要性を減じる要因になっているように思う。シリーズ一作目なら解説を参考にして買うかどうかを決めることもあるだろうが、巻数が増えてくると解説よりも既刊本の読後感のほうを重視するようになるだろう。ここで、最初に述べた解説つきラノベの例を思い出してほしい。新人のデビュー作はもちろんシリーズ第二作以降ではない。そして『ロボット妹』は単発作品だ。


これでだいたい答えが出たような気もする。ただ、上で述べたのは「ライトノベルに解説があまり必要でない理由」であり、それとは別に「ライトノベルに解説をつけにくい理由」も考えられる。だんだん文章を書くのが面倒になってきたので、以下さくっと説明しておく。

ライトノベルは書き下ろしが多い。しかも、一般文芸に比べると脱稿から出版までのスケジュールが厳しい(らしい)。校正の時間も十分にとれず、誤植だらけの本が出てしまうくらいだから、解説者にゲラを渡して解説原稿を待つ余裕などないのだろう。ちなみに、『ロボット妹』は書き下ろしではない。

書き下ろしが多いという点では、一般文芸の単行本やノベルスと同じだが、ライトノベルには別の事情もある。それは、職業解説者がいないということだ。これは、「卵が先か、鶏が先か」という話に似て、逆に、解説需要がないから職業解説者がいないのだ、と言うこともできるのだが。

昭和50年代の角川文庫には、中島河太郎と権田萬治が解説を書いている本がやたらと多かった。少し遅れて、解説の詩人こと郷原宏が登場した。また、斉藤栄の専属解説者、影山荘一という凄い人もいる。彼らの解説は必ずしも熱の入った力作揃いというわけではなかった(婉曲表現)が、「文庫本の標準装備としての解説」に大きく貢献したことは確かだ。幸か不幸か、今のラノベ界には「趣向としての解説」を書ける人はいても、「標準装備としての解説」をコンスタントにこなせる人はいない。


今日の文章で「一般文芸」という言葉を何の説明もなしに使ったが、「ライトノベル」と対をなす言葉のつもりだ。本当は「ラノベ」の対義語は「ヘノベ」なのだが、残念ながら今のところあまり流布している言葉ではない

ライトノベルは拡散と浸透の時期を迎えており、自ずと一般文芸との境界もぼやけてきている。今後は、ラノベと一般文芸を対比させて論じることは難しくなってくるだろう。今日の記事を一年後に読む人はもしかするとかなり奇妙な印象を受けるかもしれない。

上で述べた事柄のうち、いちばん最後の話題については、今後はおそらく事情が変わるものと思われる。ラノベ解説本が何種類も出て、ラノベ系書評家・ライターの需要は確実に生じてきている。このあたりで言及されている人々のうちからも業界に進出する人が出てくることだろう。さすがに「ラノベにも解説が標準装備になる!」と断言することはできないが、ある日書店で何気なく手にとった本の巻末に、ネットで見知った人の名前を見かけることがないともいえない。

1.11231(2004/12/05) この梯わたるべからず

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041205a

先月の中下旬は頭の中で『マタイ受難曲』の冒頭合唱がエンドレスで鳴り響いて非常に困ったが、今月はなぜか往年の名アニメ「一休さん」の主題歌に悩まされている。といっても、えろげー系電波ソングのルーツともいえるオープニングソング(タイトルは忘れたが「好き好き好き好き好き好き愛してる」という出だしのアレ)ではなくエンディングのほうだ。最近、再放送を見たというわけでもないのに、一休、もとい一体どうしたことだろう?

と、不思議に思っていたのだが、今日ようやくその理由がわかった。天使の階段日記11/27付)が原因だったのだ。

YHWHさま〜 お元気ですか〜

一休〜

この記事がアップされた時にはここの部分は読み飛ばしていて全然記憶に残っていないのだが、その時にきっと私の深層意識にインプットされてしまったのだろう。恐るべし、古代ユダヤの絶対神!

汝、妄りに神の名を唱えるべからず。

1.11232(2004/12/06) お嬢さんとちゃめ紳士

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041206a

今日も不調だ。

よし、尻切れトンボの文章を書くぞ。


ペンデレツキが『ルカ受難曲』を作曲したのは、バッハが作曲していなかったからだという。なんだそりゃ。

新約聖書の4つの福音書のうち、バッハ「マタイ」と「ヨハネ」と「マルコ」を題材にして受難曲を作曲した。バッハの受難曲はほかにもあったらしいが現存していない。また、3つの受難曲のうち「マルコ」も散逸してしまった。私は『マルコ受難曲』のCDを三種類持っているが、いずれも後世の人が"復元"したもので、聴き比べてみると全然別の曲だ。

"バッハの『ルカ受難曲』"は現存しているが、今では誰も真作とはみなしていない。19世紀には「これはバッハの青年期の作品だから技巧的に稚拙なのだ」と主張する音楽学者もいたそうだが、それに対してブラームスは「もしこれが本当にバッハの作品だとすれば、きっと赤ん坊の頃に作曲したのだろう」と皮肉った。

いや、ブラームスじゃなくてメンデルスゾーンだったか。でも、どっちでもいいや。

酷いこと言うなぁ。名曲じゃないかもしれないけど、いい曲なのに……。

この"バッハの『ルカ受難曲』"はその後、カール・オルフが現代オーケストラ用に編曲した。なんでこの曲を選んだのかは知らない。まあ、『カルミナ・ブラーナ』を現代風に編曲(というか捏造)した人だから、何か思うところがあったのだろう。でも、残念ながらオルフ版"バッハの『ルカ受難曲』"は戦災で焼失してしまった。その後、別の作曲家が復元してCDも出ているが、いかがわしさでは"バッハの『マルコ受難曲』"とどっこいどっこいだ。

そんなわけで、バッハには『ルカ受難曲』はない。バッハ以外の作曲家もあまり書いていない。ペンデレツキはその隙間を狙ったのかもしれない。

さて、そのペンデレツキ作曲の『ルカ受難曲』のCDを私はずっと昔に買って、一度だけ通して聴いたことがある。辛かった。その後、CDはどこかへ行ってしまい、今探そうと思ってもとっさには出てこない。でも、別に残念とも思わない。捨てたわけではないから、そのうち大掃除をすれば見つかるだろうし、仮に見つからなくても何も困らない。

ところが、どこかに行ってしまって見つからないのはペンデレツキの『ルカ受難曲』に限ったことではなくて、中には見つからなくて困るものもある。たとえば、『白のふわふわ』(山名沢湖/エンターブレイン)がそうだ。

買ってからまだ十年も経っていないのは間違いない。たぶん五年未満だろう。同時発売の『スミレステッチ』(同)の奥付を見ると「2004年12月6日 初版初刷発行」と書いてある。ということは今日だ。

いや、実際には先月下旬に出ていたのだけれど。

不思議なことに『スミレステッチ』はここ一週間ほどずっと私の机の上に鎮座ましましているのだ。同日同刻同地点にて購入したもう一冊が行方不明というのは何とも解せぬことだ。

しかし、事実だ。

そういうわけで、私は今非常に困っているわけなのである。

ところで、『ルカ受難曲』の話はいったい何だったのかといえば、別に何というわけでもなくて、最初に書いたとおり尻切れトンボで終わらせるつもりだったのだが、何となく山名沢湖の新刊の話に繋がってしまったので、変に据わりが悪いけれども尻切れトンボというほどでもないというぎくしゃくした文章になってしまった。なお、『委員長お手をどうぞ(1)』(山名沢湖/双葉社)も買ってある。


『テレビの嘘を見破る』(今野勉/新潮新書)を読んだ。タイトルに釣られて読んでがっかりした人が多いという話だったので期待して買った本だ。やっぱりこのタイトルはよくない。

この本の主題はテレビ界の内幕暴露話ではなく、ドキュメンタリー番組のあり方であり、ちょっと大げさな言い方をすれば、映像における"虚構"の概念分析の試みともいえる。タイトルではったりをかますなら『再現映像の形而上学――事実・虚構・予言――』という感じのほうがよかったかもしれない(「予言」は余計だが)。

もちろん私は十分楽しんで読めた。形而上学は素晴らしい!

続いて読み始めたのは『天才スマリヤンのパラドックス人生――ゲーデルもピアノもマジックもチェスもジョークも――』(レイモンド・スマリヤン(著)/高橋昌一郎(訳)/講談社)だ。これはハードカバーなので持ち歩くのがしんどい。家に帰ってから少しずつ読み進めることになるだろう。全部読む前に埋もれてしまわなければいいのだが。

1.11233(2004/12/07) この煽り感想文がすごい!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041207a

本題に入る前に、昨日の文章の見出しについて補足しておく。

『お嬢さんとちゃめ紳士』というのは若山三郎の小説のタイトルだ。昔、春陽文庫から出ていたらしいが、私は実物を見たことがない。今ではもう絶版だ。春陽堂書店春陽堂の作家たち / 若山 三郎というページを見ると、「お嬢さんシリーズ」をはじめとして、『ドカンと一発!!』とか『青春バンザーイ!』とか、タイトルを見ただけで脳内が明るく快活になってしまいそうな作品群がずらりと並んでいて壮観だ。(でも、すべて絶版というのはちょっと悲しい)。

こことかこことかを見ると、ほかにもあちこちで本を出しているようだが、ビジネス系の本の筆者はもしかすると別人かもしれない同一人物だそうだ(掲示板の「通りすがり」氏のご教示による)。集英社文庫コバルトシリーズ(昔は「コバルト文庫」ではなかったのだ)の『嘘つきは殺人(コロシ)の始まり』などはタイトルから滲み出る独特の雰囲気が似ているので、たぶん同じ人だろうが。

それで、だ。

私はなぜ見たこともない本のタイトルを書いてしまったのか、全く見当がつかないのだ。たぶん、どこかで潜在意識にインプットされてしまったのだとは思うのだが、まだ原因はつかめていない。ご存じの方はご教示願いたい。

まあ、誰も知らないだろうけど。


さて、本題である。

本を他人に薦めるのは別に悪いことではないが、煽りはよくない。それは言うまでもないことだ。

とはいえ、大義のためには大儀を厭わず行動しなければならないこともある。たとえば、非常に面白い本に出会って、是非多くの人々に薦めたいのだが自分一人の力では到底かなわないとき、より影響力の強い人に的を絞って一点集中突破を狙うような場合だ。むろん、そっぽを向かれて悲しい思いをすることもあるし、成功しても別に実利があるわけではないので、よほどの事がない限りこんな危険な手段は控えたほうが身のためだ。

私はかつて、ここ極楽トンボ氏を狙い撃ちしたことがあった。その結果はいちいち書かないが、私が全く予想もしなかった展開を遂げることとなった。ちょっと怖くなったので、最近私はあまり策動しないように心がけているほどだ。

ところが、石野休日氏がここで行っていることは、まさに私がかつて行ったことではないか! 海燕氏を狙い撃ちしている。しかも、5回もリンクするしつこさだ。

極楽トンボ氏の人徳に憧れている海燕氏のことだから、よもや無視することはあるまい、と石野休日氏は見ているのだろう。しかも、全然傾向が違うから普通は誰も並べて言及しない『銀盤カレイドスコープ』を引き合いに出しているのがまた巧妙だ。言うまでもなく、『銀盤』は極楽トンボ氏の大のお気に入り作品だ。ここで石野休日氏は暗にこう言っているのだ。「嗚呼、快男児海燕よ! 汝に心の師を乗り越える勇気あらん哉」と。

ああ、果たしてこの煽りの行く末はどうなるのだろうか。それはまだ誰にもわからない。


テンションが低いときに、無理矢理アッパー系の文章を書くと疲れるものだ。ほどほどにしておこう。

あ、そうそう。リンク先を見ればわかることだが、石野氏が海燕氏を煽って布教させたがっている本は『12月のベロニカ』(貴子潤一郎/富士見ファンタジア文庫)だ。これは確かに面白い小説だった。

作者名で検索してみると、わりと言及されている(ファンページもある)ようだが、今ひとつ盛り上がりに欠けるのも事実だ。


私は、自分が書いた文章へのコメントはなるべく無視するようにしている。好意的なコメントへのレスは馴れ合いになりがちだし、批判的なコメントへのレスはネットバトルのもとになりかねないからだ。とはいえ、(゜(○○)゜) プヒプヒ日記『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想文は無視するわけにはいかない。

正直いって、この文章を読んだとき「やられたっ!」と思った。この言葉には二つの意味がある。一つは作者の技巧にしてやられたという意味で、もう一つはpuhipuhi氏の読み込みの深さにやられたという意味だ。いずれにせよ、この「やられた」は偏狭なミステリ読み特有の心境なので、それ以外の人にはややニュアンスが伝わりにくいかもしれない。

小説の冒頭のごくささやかな描写が結末付近と呼応している、などといった細やかな気配りは、驚天動地の○○トリック(読書感想文で「○○トリック」と書かれている場合、ほとんどはある特定のトリックを指す)に比べると地味だし、気づかないまま読み終えてしまうことも多い。実は、puhipuhi氏が指摘するまで私は全然気づいていなかった。もしかすると、今でも何のことかわからない人もいるかもしれないので、蛇足めくが説明しておく。7ページ3行目の「意外にも美しい文字」が99ページ10行目の「すごく汚い、でも一生懸命書いたような字」と食い違っているというのが伏線になり、194ページで明かされる真相を暗示しているのだ。

「それがどうした」と言う人もいるだろう。この小説のテーマやモティーフ、独特の雰囲気などに比べれば、たかが数文字の話ではないか、と。きっと、その意見のほうが正しい。

だが、私の読み方は『涼宮ハルヒの退屈』の感想文で書いたように、非常に偏っている。にもかかわらず自力でこれを見抜けなかったのだ。「やられたっ!」と言わずして何と言おうか。

ところで、『砂糖菓子〜』そのものはミステリではないが、ミステリでないからこそミステリ的本歌取りが効果を上げている。と書いたのは、今から考えればちょっと言い過ぎだった(どうでもいいが、『涼宮ハルヒの退屈』の感想文を読み返すと、その冒頭の一文が今日の見出しは全く無意味だが、無意味だからこそ見出しに値するのだ。だったので、偶然の暗合に我ながら驚いた)。『砂糖菓子〜』149ページのネタなど『黒死館殺人事件』に通じるものがある。ちなみに、カーター・ディクスンには『黒死荘殺人事件』という小説(現行の訳題は別)がある。


メモ:ダメットの新刊明日発売

1.11234(2004/12/08) 異世界の言語

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041208a

そういえば、私は『眠り姫』(貴子潤一郎/富士見ファンタジア文庫)の感想文を書いていなかった。

この作品集は、一篇一篇の完成度が恐ろしく高い。別に難解でも晦渋でもないのだが、知らず知らずのうちに小説に向き合う自分の意識が張りつめてしまい、一篇読むとすぐに次の作品に取りかかることができない。まるでギリシア彫刻に対峙しているような厳しさが、そこにはある(とはいえ、リラックスしながらギリシア彫刻を鑑賞できる人もいるだろう。これはあくまでもの読後感に過ぎない)。そういうわけで、私は『眠り姫』を読むのに約半月かけてしまった。で、何となく恥ずかしくなって、取り上げなかったのだ。

そういえば、私は『12月のベロニカ』(同)についも感想文ともいえない雑文しか書いていない。これも完成度の高い小説で、ケチのつけどころがないので感想が書きにくかったのだ(こう言うと、私の感想文の主な内容は作品のあら探しのようだが、必ずしもあら探しに終始しているわけではないのではないかというふうに自分では思っているような気もしないではない)。

しかし、読後一ヶ月を経てもう一度考えてみると、この小説にもケチのつけどころがあった。ある人物の呼称におかしなところがあるのだ。特に作品の展開や結末に関係がないのではっきり書いてしまうが、「小さな金槌」と書いて「リトル・ハンマー」とルビを振ったあだなで呼ばれる人物がいる。これはちょっと不自然でしょう。


というわけで、今日の見出しに掲げたテーマについて書くことにしよう……と思ったが、前にも同じテーマで書いたような記憶がある。過去ログを探ってみても記憶に残っている記事自体は見つからなかったが、こんな記述を発見した。だらだらと長いので、関係のありそうなところだけ抜き書きしてみる。

ところで白泉社My文庫のウェブページを見ると、試し読み用に今月の新刊の一部が公開されている。まずこちらをダウンロードして読んでみてから判断してもよかったのだが、このページの存在に気づいたのが本を買ったあとだったので、後の祭りだ。どうでもいいが、このページは今日初めて見たのに、文体とか言い回しとかに馴染みがあるような気がするのはなぜだろう?

ついでだから、もう少し続ける。

私が白泉社My文庫のページを見に行ったのは、別に今日『アルファベット荘事件』を買ったからというわけではなくて、まいじゃー推進委員会「投稿する方へのアドバイス」を紹介していたからだ。私も「思わずニヤリ」とした。特に

  1. ファンタジーや異世界を書く場合は「メートル」「グラム」といった単位、あるいは「テーブル」「スカート」といった英語系の言葉の扱いは慎重に。

とか、

  1. 改行が多すぎる文章は、少し昔のジュニア小説みたいなのでやめましょう。

が秀逸だ。

残念ながら、今はもう白泉社のサイトにMy文庫のページはないようでリンク切れしてしまっている(余談だが、上に続く箇所でも非常に興味深い文章にリンクしてあったのだが、それもリンク切れしている)。

それはさておき。

異世界といってもいろいろあるので、英語がごく普通に使われているような異世界なら、もちろん英語系の言葉が出てきてもおかしくはないし、メートル法が採用されている異世界もあり得ないわけではない。しかし、せっかく現実世界とは違う別世界を創造したのだから、その世界の社会制度や文化風俗の類は現実とは違っているほうが雰囲気が出る。

とはいえ、登場人物たちが異世界語を話すところまで極めてしまうと一般読者には理解不能になる。せいぜい『指輪物語』程度にとどめておくのが賢明だ。

そういうわけで、異世界を舞台にした小説であっても、文章自体は普通の日本語で書くことになるわけだが、この「日本語」というのが厄介な代物で、主に次の3つの層からなる。

  1. 和語
  2. 漢語
  3. 洋語

漢語と洋語はどちらも日本と外国との関係を前提として成立した言葉であり、広義の「外来語」に含まれる。しかし、一般に「外来語」は漢語を除く狭義で用いられることが多い。ある言葉が外から来たということが強く意識されるのが洋語であり、漢語の場合にはそのような背景があまり意識されないということなのだろう。

異世界を舞台にした小説で、洋語(特に英語)の扱いを慎重にしなければならないのは、日本と外国の関係を作中に持ち込んでしまいかねないからだ。「リトル・ハンマー」がまずい理由がご理解いただけただろうか?

ところで、中華風ファンタジーでは難しい漢語を積極的に用いることがある。先に述べたとおり、漢語はあまり日本と外国の関係を意識させるものではないが、普段の生活であまり用いない漢字や熟語を多用すると話は別だ。だが、それで雰囲気が壊れるということはなく、むしろ異世界情緒(?)を掻き立てるという効果が得られる。

とすると、中世ヨーロッパ風ファンタジーに洋語を使っても別に構わないのではないかという気もする。ただ、もともと英語で書かれた『指輪物語』ですら、邦訳では極力外来語を避けてやまとことばで置き換えるという工夫をしているくらいだ。日本人にとって英語はあまりファンタジーに馴染まないのだろう。ラテン語ならいいのかもしれない。

こういうふうに考えてみると、「異世界ファンタジーには外来語を使ってはダメ」という単純な話ではなくて、日本人にとってその外来語がどういう位置づけのものとして捉えられているのかということを個別に検討して、使用の是非を判断すべきなのだろう。こうなってくると、「異世界ファンタジーにより逆照射される日本人の言語観」という大きなテーマになってくるので、私ごときには到底扱える代物ではない。大学で言語学か社会学を専攻している人は、卒論のテーマに選んでみてはどうだろうか。

……でも、いちいち検討するまでもなく「リトル・ハンマー」はよくないとは思う。

1.11235(2004/12/09) ネタがないから挑発に乗ってみよう

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0412a.html#p041209a

今日は渡世の義理で悪夢のような空間に放り込まれて、地獄のような数時間を過ごし、へとへとになって帰宅した。もうサイト更新する気力もないので今日はパスしようと思っていたのだが、某氏の一般非公開サイトにて、次のような記述(タグは適当に変更している)を見かけたので、あえて挑発に乗ってみることにした。

「つくしてあげるの!」のバナー・キャンペーンを開催中だそうだ。 「つくしてあげるの!」といえば、あのMさんも参加しているゲームであることは、言うまでもない。

http://www.peassoft.com/banner.html

つくしてあげるの!〜だっておにいちゃんのおよめさんになりたいんだもん

となると、やはりここはネット不思議外交官たるあの人の出番だと私は思う。そう、あの人がアクセス数が※百ヒットの自サイトのトップにこのバナーを貼り付けて宣伝・応援するのが世の必然、仁義ではないのだろうか?

世間の目などいまさら恐れる必要もないあの人のことだ、きっとMさんの支援のために「つくしてあげるの」バナーを堂々とあの人のサイトのトップページに貼り付けるであろうことを、私は強く期待したい。いやあの人ならやると確信している。

しかもだ。あの人にとっては嬉しいことに、なんと「ご希望の方に、製品版『特設コーナー(スタッフルーム的なもの)』でお好きなキャラクターが皆様のメッセージ、Webサイトの紹介を行います!」という特典付きだ。

アクセス数になんとなくこだわりのあるあの人のことだ、きっとそれも目当てで参加するに違いない。

さあ、あの人よ。1月15日までに応募してください。

などと、8回も繰り返すおバカなサル真似リンク攻撃。

私ごときがバナー広告を貼ったところで大勢に影響はないと思うが、別に減るものでもないので、試しにバナーを貼ることにした。ただし、さすがにゲームの中で紹介されるのは恥ずかしいので『つくしてあげるの!紹介バナーキャンペーン』には申し込まない。申し込まない理由はもう一つあって、紹介バナー設置期間が設置して頂いた日より〜『つくしてあげるの!』の発売日から一ヶ月後までとなっているのに不安を覚えたからだ。というのはつまり、発売日がずるずると延期された場合、ずっとバナーを貼りっぱなしにしておかなければならないということになるわけで……。

なお、上の文中で「Mさん」と呼ばれているのは、この人はてなダイアリー)のことだ。こっちのほうはどうなったのかね?