【日々の憂鬱】何度挑戦しても途中で本を投げ出してしまうのはいかがなものか。【2004年2月下旬】


1.10975(2004/02/22) 途中経過

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040222a

昨日は「たそがれSpringPoint」の更新をすっぽかして『Fate/stay night』に取り組み、今日も一所懸命に励んで、ようやく3周目終了。現在までの総プレイ時間42時間15分。エンディングリストの配置を見た感じでは、残るエンディングはアレとアレだろう。

桜ルートでいちばん印象に残ったのは、あの長大なシナリオの中でただ一回だけ「櫻」という文字が使われていたことだ。もちろん誤記ではなく、そこには作者の意志が反映されているに違いない。

MYSCONに応募したとき、私は「参加にあたって一口コメント」に「MYSCON当日までには『Fate/stay night』をコンプリートする予定です。大いに語り合いましょう。」と書いた。きっとそれまでにはコンプリートできる……はず……だといいな。

1.10976(2004/02/23) 長い『Fate』の短い感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040223a

はじめに

昨夜、プレイ時間44時間にして、ようやく『Fate/stay night』をいちおうクリアした。「いちおう」というのは、まだ見ていないバッドエンドやデッドエンドがいくつかあるからだ。本当は完全クリアしてからのほうがいいのだが、こつこつとタイガー道場を訪問するのがしんどくなってきたので、ここで一旦中断して感想文を書いてしまうことにする。特にまとまった考えがあるわけでもなく、わざとピントを外したような事も書いているので、読んで感心する人もいないだろうが、ここで感想を書いておかないといつまでも引きずってしまい、私の精神衛生上よろしくない。

以下の文章は既に『Fate』をクリアしている人のみを対象にしている。これから手を出そうかと考えている人や現在攻略中の人は読まないほうが賢明である。

なお、文中の人名はすべて敬称を略した。


モーター逆回し

今となっては遙か大昔のことのように思われる2/1に私は次のように書いた。

「10年前の大火事」というのは空襲のメタファーであって、すなわち前世紀の大戦争への暗黙の言及を含んでいる。従って、『Fate/stay night』もまた大量死から必然的に生み出された作品なのである。

……というようなことを笠井潔の文体模写で論じてくれる人を希望。

これはもちろん冗談のつもりだった。だが、遠坂ルートをクリアしたあたりで、「案外、大量死論と『Fate/stay night』は相性がいいのではないだろうか?」と思うようになった。といっても、大量死論が『Fate』を分析するための理論として有効だと考えたのではない。逆に、大量死論を『Fate』の創作のための理論として奈須きのこが用いたのではないかと思ったのだ。

モーターを逆回しすれば発電機になる。スピーカーとマイクの構造は基本的に同じだ。同様に、既成作品の分析のために考案された理論から、新しい作品を構築することも可能ではないか?

これは単なる思いつきであり、根拠があるわけではない。また、この思いつきに基づき、私は『Fate』を読解しようとしているわけではない。ただ、『Fate』の制作過程で大量死論が影響を与えていたなら愉快だろう、と夢想してみただけのこと。

残念ながら、私はTYPE-MOON関係者に人脈がないので、この思いつきが合っているかどうかを確かめる術はない。この文章を読んでいる人の中で、関係者にアクセス可能な人がいるなら、一度奈須きのこにこっそり尋ねてみてほしい。


奇跡

ノベルゲームとその周辺の作品で「奇跡」がキーワードになることは別に異例のことでもなんでもない。あまり乱発するとルーズで御都合主義な物語になってしまい鼻白むが、全く奇跡抜きの物語だと息詰まる。要はバランスの問題だ。

で、その「奇跡」に関して『Fate』にはちょっと具合が悪いところがある。それは、用字が統一されていないことだ。今となっては記憶が定かではないのだが、セイバールートでは「奇蹟」だったのに、桜ルートでは「奇跡」になっている(遠坂ルートでどうだったかは忘れた)。どちらが正しいかといえば、そりゃ「奇蹟」に決まっているのだが、「奇跡」が間違いだとも言い切れない。国家公認の宛字なのだから。

もう一つ、「寝間着」と「寝巻き」の不統一も困ったものだ。マニュアルやエンディングロールなどによれば、シナリオは奈須きのこ一人で書いているようだが、どうしてこういう不統一が生じるのだろうか? 桜ルートの「櫻」のように意図的にやったこととも思えないのだが……。


『月姫』と『Fate』

『月姫』は主人公の志貴の異能を中心に組み上げられた物語である。従って、タイトルの由来であるアルクェイドすら脇役の一人に過ぎない。部分的に他人の視点の描写が混じることもあるが、基本的に志貴の物語である。

それに対して、『Fate』は聖杯戦争のシステムを中心に組み上げられた物語である。いちおう大部分の視点は士郎に置かれているが、彼がこの物語において絶対の位置を占めるわけではない(とはいえ、いきなりオープニングが別人の視点で始まるのにはびっくりしたが)。

こんなことは言うまでもないとは思うのだが、『月姫』との比較で『Fate』を論じる人のために、いちおう指摘しておく次第。


分岐する一本道

ノベルゲームでは選択肢を挿入することにり、読者(=プレイヤー)に見かけ上の自由選択を行わせることができる。実際には、複数の選択肢から一つだけを辿るのではなく、いろいろな選択を試してみることが多いので、結局は読む順番の違いに過ぎないのだが。

『Fate』では、さらに読む順番に制約を加える。まず最初にセイバールート、次に遠坂ルート、そして最後に桜ルートという順番でしか読むことができない。ということは、要するにこの3つのルートを繋いだ長大な一本道の物語と同じことではないか?

むろん、これは極論である。ルート内ではどの選択肢から読むかは読者の自由だし、5つのエンディングに到達する順番まで決まっているわけではない。ただ、大筋だけを捉えれば、一本道の物語の変形と考えられるということだ。

このような構成がいいのか悪いのか。一般論としては意見が分かれるところだが、こと『Fate』に限れば欠点ではないと思う。たとえばキャスターの武器が3ルートそれぞれでどのように扱われているかを見るだけで、いちいち説明する必要はないだろう。

ただ、ふと立ち止まって考えてみると、『Fate』はゲームである必要すらなかったのではないかとも思える。『空の境界』のように、紙媒体で手に取ったほうがより愛着が湧いたのではないか、と思ってしまうのだ。

とはいえ、ゲームならではの効果音や画面エフェクトなどが無意味というわけではない。


タイムパラドックス

遠坂ルートでは、そういう話ではないと思いつつもタイムパラドックスが気になって仕方がなかった。


最後の一言

長かった。

1.10977(2004/02/24) 本文とは全然関係ないが、「アプリオリ」という言葉を「根拠なしに」という意味で使っている人が多いような気がする今日この頃

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040224a

『ネジ式ザゼツキー』(島田荘司/講談社ノベルス)を読んだので、その感想文を書こうと思った瞬間もあった。だが、その次の瞬間には「今、ここで感想を書いたら、MYSCONの読書会で語るべき事がなくなってしまうからやめておこう」などというけちな考えが頭に浮かんだ。しかし、その次の瞬間には「いや、今のうちでないと忘れてしまうのでは?」というおそれがむくむくほくほくと沸き起こってきたが、さらにその次の瞬間には「ま、忘れたら忘れたときのこと。どうだっていいや」と思った。

そんな事を考えつつ、いつものように行きつけのサイトを巡回していたところ、笠井潔のパロディによる『Fate』論に出くわして驚いた。自分でネタ振りしておいて言うのも何だが、まさか本当に書く人がいるとは思わなかった。

私ももっと精進して芸を磨かなければ。


今日は待ちに待った『さよなら妖精』(米澤穂信/東京創元社)の発売日。だがしかし、私の地元の書店では、遂に一冊も見つけることができなかった。本当に出ているのか訝ったが、既に入手した人もいるようだから、出ているのは確かなのだろう。よっぽど都会の書店に行こうかと思ったが、往復の電車賃だけで、『さよなら妖精』の値段を上回ってしまうので断念した。週末にはちょっとした小旅行を計画しているので、その時に買うことにする。


どうでもいい話。

一方通行道路にとって一方通行であるということは形式なのか、それとも内容なのか?


メモ:「虚構的対象の指示をめぐる混乱について」Miura TOSHIHIKO's World (三浦俊彦の世界)


昨日の補足。

『Fate』の「7人のマスターが7人のサーヴァントを従えて1つの聖杯をめぐって戦う」という設定は山田風太郎の忍法帖によく似ている。だが、山田風太郎が徹底的に形式に拘るのに対し、奈須きのこは徹底的に形式を破壊する。この違いを具体例に即して論じてくれる人はいないだろうか?

また他人に頼ってしまった。

1.10978(2004/02/25) 感想が書きにくい本の話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040225a

昨日は買えなかった『さよなら妖精』(米澤穂信/東京創元社)を今日、帰宅ルートを大幅に逸脱した書店にて入手した。ちなみに地方の書店でお買い上げ下さる際は、平積みではなく棚差しを捜すのがコツかと思います。作者自身が言っているとおり、棚に一冊だけ差してあった。

発売前から気になっていて何度か言及したこともある作品なので、大々的に(?)感想文を書きたいところだが、いざ書こうとすると難しい。どこまで粗筋を書いていいものか、迷ってしまうからだ。

オビには彼女との出会いが、謎に満ちた日々への扉を開けた。気鋭のボーイ・ミーツ・ガール・ミステリと書かれている。微妙な書き方だ。安楽椅子探偵ものか、「日常の謎」派か、不可能犯罪を扱っているのか、叙述トリックが用いられているのか、「『キミとボク』本格」なのか。いや、そもそもこの小説はミステリなのか? そういったことは何もわからない。そして、著名人の解説もなければ推薦文もない。小説の内容について読者に予断を抱かせるような要素を極力排除しようとしていることは明らかだ。

この本には解説はないが、作者のあとがきはある。だが……。

こんにちは。米澤穂信です。

このあとがきを先に読まれた場合、興趣が殺がれる可能性があります。本編の後にお読みくださることをお勧めします。

あとがきの中で作品の具体的な内容に言及しているわけではないのだが、本篇の後にあとがきを読むと、確かに興趣が殺がれる可能性があると言えなくもない。だが、その要素に触れずに感想文を書くのは至難の業だ。

その要素に触れてもネタばらしには当たらないのだから、別にそこまで神経を使う必要はないのではないか」と考える人もいるだろう。きっと、ここ数日の間にその要素を含む粗筋紹介つきの感想文がネットにアップされるに違いない。それを非難するつもりはないが、幸い予備知識なしで『さよなら妖精』を堪能することができた私としては、未読の人を相手にそのような感想文を書く気にはならない。しばらく様子を見て、そのうち既読者向けの感想文を書くことにしようと思う。

今はただ、「いいから、読め」とだけ言っておく。

1.10979(2004/02/26) 一周忌

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040226a

私は理科の勉強を十分にしてこなかったのであまり詳しいことはわからないのだが、世の中には遠心力という力があるらしい。遠心力というのは、物をぐるぐると回したときに、外に向かって働く力のことだ。誰も外から引っ張っているわけではないのに、どうしてそのような力が発生するのか。思うに、それは動いているものはそのまま同じ方向に動き続けようとすることに起因するのだろう。ぐるぐると物を回すとき、物は円軌道上を動くわけだが、一瞬一瞬をとらえてみれば、円に外接する直線上を動いていることになる。そのまま直線上を動き続ければ、円軌道から外れてどこかよそへ飛んでいってしまうことになるが、そうならないのは円の中心から引っ張る力がかかっているからだ。二つの力の釣り合いがうまくとれて、物はぐるぐると回り続けるのだが、その間もずっとまっすぐに飛んでいこうとする勢いがある。それが遠心力の正体なのだろう。

ここで、無重力の空間に浮かぶ大きな円筒を考えてみよう。その筒はそれ自体としてぐるぐると回っている。筒の中には人がいて、遠心力のおかげで地球上と同じように生活することができる。

いま、その筒の中の人が上(筒の中の人にとって「上」とは、その筒の中心の方向である)に向かってぴょんと飛び跳ねたとしよう。そのとき、飛び跳ねた人は遠心力の影響で再び地面(筒の中の人にとって「地面」とは、その筒の内側の面のことである)に降り立つことになるのか、それとも遠心力の影響を離れて、そのまま宙に浮くことになるのか?

遠心力の影響を受けなくなるのは、回転運動をしなくなるときだが、筒の中の人の足が地面から離れたら回転運動は止まってしまうのだろうか? もしそうなら、もともと無重力空間なのだから宙に浮いたままだということになるだろう。逆に、足が地面から離れていても回転運動が止まらないとすれば、遠心力に引っ張られてじきに着地することになる。

私は無重力空間に行ったことはないので断言はできないのだが、足が地面から離れたくらいで回転運動が止まってしまうとは思えない。走る電車の中で飛び跳ねても置き去りにされず、数秒後には床面のもとの位置に着地する(もちろん、足が地面から離れている間に電車が急停車したら話は別だが)。同様に、筒の中の人が飛び跳ねても筒の動きから取り残されることはなく、もとの地面に着地することになるだろう。

……というようなことを考えてみたのだが、如何? 諸般の事情により、どういう脈絡でこのようなことを考えたかは明らかにはできないのだが、わかる人にはわかってもらえることだろう。


ミステリサイト観察スレ その3で次のように書かれた。

621 :名無しのオプ :04/02/26 19:55
「さよなら妖精」は確かに何を書いたらネタバレになるかで悩む作品だ。
「しばらく様子を見」ないで、すぐにでも感想文書いて先鞭を付けてくれや。
どうせミステリ系とされるサイトで米澤読んでる人ほとんどいないんだし。
滅に贈る言葉として「いいから、書け」とだけ言っておく。

このような切り返しは予想していなかった。困った。

同じようなことは前にも書いたことがあると思うが、私は面白い小説がどのように面白いのかを説明するのが苦手だ。つまらない小説がどのようにつまらないのかを説明するには具体的な欠点を指摘するだけで足りるが、長所は小説全体の構成や雰囲気によることが多いので、具体的に指摘するのが難しい。そこで、どんな本にでもあてはまりそうな曖昧なコメントしかできない。無理矢理、部分を拡大し誇張して誉めることもあるが、『さよなら妖精』の場合はその手は使えない。そういうわけで、まずは別の人の感想文を読んでから書き方を考えようと思ったわけだ。

で、米澤穂信総合スレッド米澤穂信を侮るな!!を見てみると、もう何人かが感想を書いていた。かなり好評なようだ。未読の人の参考になるだろう。また、bk1の著者コメントも興味深い。

これらを踏まえて感想文を書くとなると、やはり未読の人への紹介ではなく、具体的な内容に即したコメント中心のほうがいいように思う。当然、欠点だと思われる事柄についても言及することになるので、きちんと再読してから取りかかることにしたい。


『大相撲殺人事件』(小森健太朗/ハルキ・ノベルス)を読んでいたら「付き人」という言葉が出てきた。昔、鮎川哲也の小説だったかエッセイだったかで、芸能界なら「付き人」だが相撲業界だと「付け人」だと書かれていたのを読んだ覚えがある。調べてみたらやっぱりそうだった(だが、これだけでは確実とはいえないかもしれない。相撲に詳しい方のご教示を待つ)。読冊日記の感想文を読むと、ほかにもおかしな描写があるようだ。だが、それが『大相撲殺人事件』の欠点かといえば、必ずしもそうとはいえない。いい加減さをとことん追求したような怪作であり、むしろ読者に脱力感を与える技巧として評価すべきではないだろうか。

奇想という点では、対戦相手の力士が次々と殺害されて14連続不戦勝で千秋楽に臨む「対戦力士連続殺害事件」、土俵は女性立ち入り禁止だから女性には土俵上での犯行は不可能だという超論理が冴える「女人禁制の密室」が特に素晴らしい。どことなく清涼院流水の『コズミック』を連想させる雰囲気がある(そういえば『コズミック』にも土俵上の事件があった)が、ネタの量はこちらのほうが多いし、分量も少ない。

杉江松恋氏が大笑い(2/21付)した「大量死」ネタもいいし、最後の一ページを読み終えた瞬間の何とも言えない感慨を味わうためだけでも一読の価値はあると思う。ただし、あくまでも自己責任でどうぞ。


今日は宮脇俊三の命日だ。この機会に『殺意の風景』でも再読しようと思ったが、本が見つからない。無念だ。

1.10980(2004/02/27) 分析と論理式

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040227a

水没クローゼット永井均の独我論の分析メモ についてコメントする。

この文章では2つの"定義"、1つの"公理"、2つの"定理"(それぞれの言葉を引用符で括ったのは、それらが本当に定義であったり公理であったり定理であったりするのかどうかが疑問に思われるからである)が提示されている。それらは、記号論理学の記号を用いて表現されているが、あえて記号を用いる意味が私にはわからない。

具体的にみていこう。まず"定義"から。

F(x)≡「人物xは特別な存在である」

G(x,y)≡「人物xにとってyである」

ここから3つのことがわかる。

  1. xは人間を値とする変項である。
  2. Fは一項述語である。
  3. Gは二項述語である。

特別な存在であるということがどういうことなのか私にはよくわからないが、特別な存在であるということのなかみを分析するのではなく単に形式的に捉えるだけでいいのなら何も問題はない。問題は「G(x,y)」のほうだ。「人物xにとってyである」というのは全く何のことかわからない。Gはいったい何なのか?

"定義"の段階で躓いてしまったが、構わず先に進む。次は"公理"だ。

G(x,F(x)∧∀(x以外の人間)¬F(x以外の人間))

(xにとって、xは特別な存在であり、かつx以外の全ての人間は特別な存在ではない)

説明はないが、おそらく「∧」は「かつ」、「∀」は「全ての」、「¬」は「ではない」を表しているものと思われる。すると、「F(x)∧∀(x以外の人間)¬F(x以外の人間)」は「人物xは特別な存在であり、かつ、全てのx以外の人間について人物x以外の人間は特別な存在ではない」と読める。これでは意味不明だが、Fの"定義"に従えばどうしてもこうなってしまう。さらにGの"定義"とあわせて「xにとって、(人物xは特別な存在であり、かつ、全てのx以外の人間について人物x以外の人間は特別な存在ではない)」ということになるのだが、これが上の"公理"の読み下し文と一致するかどうかはかなり怪しい。

なんでこんなややこしい事になったかというと、最初に「特別な存在である」を一項述語として規定してしまったからだろう。「xにとってxは特別な存在である」という文を扱うことを考えれば、二項述語にしておくべきだった。

そこで、新たに二項述語H(F,Gの次なのでHにしたが、特に意味はない)を導入することにする。「H(x,y)」は「xにとってyは特別な存在である」という意味だとしよう。すると、おそらく"公理"が言わんとしていることは、次のように表される。

∀x(H(x,x)∧∀y((x≠y)→¬H(x,y)))

文字化けが気になるが、気にしても文字化けが防げるわけではないので、気にしないことにする。「≠」は「等しくない」、「→」は「ならば」を意味するものとする。読み下すと「すべてのxについて、(xにとってxは特別な存在であり、かつ、すべてのyについて、(yがxと等しくないならば、xにとってyは特別な存在ではない))」となる。さらに平たくいえば「誰でも自分自身は特別な存在だが、自分以外のものは特別な存在ではない」ということになる。かなりいい加減だけど。

ついでに"定理"も書き換えておこう。先ほどの態度と矛盾するかもしれないが、文字化けを防ぐために丸付き数字を丸括弧で括った数字に置き換える。

"定理(1)"は

H(A,A)∧∀y((A≠y)→¬H(A,y))

"定理(2)"は

H(B,B)∧∀y((B≠y)→¬H(B,y))

と書き換えることができる。「A」とか「B」とか大文字を使うのは気分が悪いが、もとの表記法を尊重するためだから仕方がない。

こせけい氏は次に疑問を提起するのだが、その箇所はとばしてすぐに結論を見ることにしよう。

よってB(永井均の読者)はA(永井均)の「私は特別な存在である」という言葉を決して理解できない(理解というと語弊があるか。Aにとって真であるが、Bにとっては偽である、というべきか)。

これは間違い。B=A、すなわち永井均の読者が永井均本人の場合にはこの結論は成り立たない。揚げ足取りだと思う人もいるかもしれないが、この結論以前のどのステップにおいてもAとBが別人だとは一言も書かれていないのだから、論証に不備があると言わざるを得ない。

それはともかく、ここで見過ごすことができないのは、真理値を人物に相対化することで「特別な存在である」を一項述語に戻しているということだ。おそらく「AにとってAは特別な存在である」が(端的に)真であるということと、「(端的に)Aは特別な存在である」がAにとって真であるということをこせけい氏は同一視しているのではないだろうか?

私は「誰かにとって真/偽」という言い回しは奇妙なものだと考える。真理とは端的に真理なのであり、誰かにとって真理なのではない。虚偽についても同様。場合によっては、たとえば「私にとって、鮎川哲也は20世紀最高の推理作家であるということは真だ」と言うことがあるかもしれないが、それは「私は鮎川哲也が20世紀最高の推理作家であると信じる」ということを強調しているだけのことである。

だが、こせけい氏は命題G(x,y)の真偽は人物xの持つ信念とは関係なく決定される。と述べているので、上の引用文中で「Aにとって真」というのは信念文の言い換えではない。とはいえ、端的な真理と人物に相対的な真理の両方が同じ文脈の中に出てくるとも考えにくいので、上で述べたような同一視が行われているのではないかと推測した次第。

……と書いたところで時間切れ。今日はこれでおしまい。

1.10981(2004/02/28) 阪和貨物線

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040228a

今日、私は生まれて初めて阪和貨物線に乗った。いや「阪和貨物線に乗った」という表現は少しおかしいかもしれない。「列車に乗って阪和貨物線を通った」と言い直しておこう。

世の中にはいろいろな人がいるから、もしかしたら阪和貨物線を知らないという無知で哀れな人もいることだろう。私はそのような人を軽蔑したりはしないが、もし私が阪和貨物線のことを知らなかったらと想像してみると恥ずかしくなってくる。本当は一から説明するべきなのかもしれないが、今日は疲れたので、Googleで検索していちばん最初に出てきたページにリンクすることで説明に代えておく。


昨日の記事を書いた後で水没クローゼットを見ると、私がコメントした文章 が訂正されていた。「特別な存在である」という表現が一項述語であったり二項述語であったりしていると私は解釈したのだが、訂正された文章では一貫して一項述語として取り扱われている。

そこで、再度検討してみた。

「特別な存在である」が一項述語であるならば「xにとって、yは特別な存在である」という構文の「xにとって」というのは、特別な存在に関係する項ではなく、特別な存在に係る事態が成立するのようなものなのだろう。すると「私にとって、私は特別な存在である」と言うとき、この文に二度現れた「私」は同じ人物(すなわち、滅・こぉる)を指示するものではあるが、その意味合いは違ってくる。後者は特別な存在であるという性質(?)が帰せられるべき主体としての私であるが、前者は上述のとおり、私が特別な存在であるという事態を成立せしめるである。言い換えれば、後者の私は世界の中にある一つの個体であるが、前者の私は世界そのものである。

この解釈が正しいとすれば、昨日私が書いたことは全く的外れだということになってしまうかもしれない。形而上学的な文章の読解は難しいものだと実感した。

……と書いたところで今日も時間切れ。

1.10982(2004/02/29) 予定と思いつきのメモ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040229a

『さよなら妖精』の再読を終えた。予告したので感想文を書かなければならないが、うまくまとまらない。2つほど論点を思いついたのだが、それをそのまま書くと前に書いた『きみとぼくの壊れた世界』の感想文に似た論調になってしまう。あのときは、ラノベ板とミステリ板の抗争が勃発してしまった。同じ事が起こるかどうかはわからないが、ちょっと躊躇してしまう。

とはいえ、いつまでも足踏みをしていると、細かな内容を忘れてしまう。最近、私は忘れっぽくなっている。としはとりたくないものだ。今日はこれから外出するので、すぐに感想文に取りかかることはできないが、とりあえず2つの論点だけ書いておくことにしよう。

  1. 『さよなら妖精』の大部分を占める1991年の日付の入った文章は小説内においてどのような位置づけになるのか?
  2. それに全面的に依拠した謎解きは正当な手掛かりに基づくものだとみなし得るか?

やっぱり書くのをやめておこうかなぁ。


水没クローゼットに触発されて、「xにとってP」という構文の分析について考えている。「xはPだと信じる/知っている/みなす」というふうに言い換えが可能な場合と、Pをほぐしてxを取り込める場合のほかに、Pへの真理値付与がxに相対的に行われるという形にしか分析できない場合があるのかどうか。

う〜ん。下手に手出しすると火傷しそうだ。


永井均繋がりでこのへんも気になるところだが……。

1.10983(2004/02/29) 間が悪い『さよなら妖精』の感想文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402c.html#p040229b

いよいよ『さよなら妖精』(米澤穂信/東京創元社)の感想文を書く時がやってきた。さて、どんな切り口で書くことにしようか。と、そんなことを考えつつ、いつものようにアクセスログをチェックしてみると、今日の夕方にこんなところからアクセスされていることが判明した。

ま、間が悪い……。

こういう事はあまり気にしてはいけないのだろうが、私のか細い神経には少し堪えるので今朝の予定を変更して、無難な雑感でまとめることにすることにした。『さよなら妖精』を読もうかどうか迷っている人の参考になるかどうかはわからないが、ネタばらしはしないつもりだ。ただし、内容にまったく触れないわけにはいかないので、これから『さよなら妖精』を読むことを決めている人は以下の文章を読み飛ばしたほうがいい。一切予備知識なしに読んだほうが楽しめる本であることは間違いないからだ。


『さよなら妖精』は幸運な作品であり、また、不運な作品でもある。作者のサイトを見ると、版元が角川書店から東京創元社から変更になり、それに伴い全面改稿したそうだが、もし版元が角川のままだったら、おそらく『氷菓』『愚者のエンドロール』につぐ古典部シリーズ第3作として世に出たことだろう(参考)。しかし『さよなら妖精』が扱っている題材はスニーカー文庫向きではないし、この小説のテーマはシリーズ物の枠には収まりにくい。たぶん、どうしようもなく中途半端な失敗作にならざるを得なかっただろう。その意味で、版元が変更になったことは、この小説にとって幸運なことだった。

しかし、上で書いたことと矛盾するようだが、私見では、『さよなら妖精』はライトノベル読みにこそ読まれるべき小説である。まいじゃー推進委員会!あたりで紹介されて、ライトノベル愛好家の間で静かな支持を集め、長く読み継がれるべきなのだ。ここには「本日の名台詞」数日分のネタがある。だが、そのためには1500円プラス税という価格が障壁となる。これだけあれば文庫本が2冊は買える。また、価格の問題を抜きにしても、地方の小規模な書店で入手が困難だという難点もある。

しかし、また矛盾するようだが、『さよなら妖精』はライトノベル読み以外の読者にも読まれるべき小説である。そう考えると、上で「不運」と書いたのは誇張しすぎだったかもしれない。短期的には、同じ「ミステリ・フロンティア」から出た『アヒルと鴨のコインロッカー』ほどは売れないだろうし、あるいは『ヘビイチゴ・サナトリウム』程度の読者も獲得できないかもしれない。しかし、『さよなら妖精』の読者は引き続き米澤穂信の小説を読もうとするだろうし、作者の今後の活動次第では遡って『さよなら妖精』を読む人も増えるかもしれない。今はただ確定した過去の幸運にのみ語ることとして、将来のことについてはこれくらいにしておこう。


『さよなら妖精』をミステリだと思って読んだ人は、もしかすると拍子抜けするかもしれない。しかし、ミステリでないというわけではない。謎が提示され、手掛かりが与えられ、探偵役が推理し、真相に到達する。ミステリに不可欠なプロセスはいちおう揃っている。殺人事件に関する謎ではなく、そもそも犯罪に関する謎ですらないということは、むろん『さよなら妖精』がミステリであるという主張に対する反論とはならない。だが、謎の性質ではなく、その解かれ方に着目すると、この小説のミステリとしての弱点が見えてくる。

『さよなら妖精』にはいくつかの謎が提示されているが、そのうちの一つを除いては、論証らしい論証もなく、なんとなく解決案が提示されただけで終わっている。それらの謎は、メインの謎の解決に先立って小説にミステリ的な雰囲気を与える程度の役割しか果たしていない。ネタだけ切り出せば、短篇を支えるのも難しそうだ。

では、メインの謎はどうか。全篇にわたってさりげなく伏線が張られ、ちょっとしたミスリードもあり、それらを読み解くことによって解に到達できるようになっている。だが、伏線が散らばっているということは、逆に散漫な印象を読者に与えかねないし、それらを回収すれば直ちに答えがわかるというのは安易だ。ミステリを読み慣れた人はもとより初心者でさえも、機知と技巧を堪能することはないだろう。

では、『さよなら妖精』にとってミステリの要素は余計な夾雑物に過ぎないのか? そうではない。事象の中に謎を見出し、その謎を解くという過程を通して、別の過程が自ずと示されてゆく。その過程は、言葉にすれば一言二言で済むのだが、語ってしまうと陳腐すぎるので、あえて語らない。重要なのは、その過程がミステリの枠組みを通じて示されるということだ。もし『さよなら妖精』からミステリ要素を抜いてしまったら、その過程の説得力が大幅に減じられてしまうことだろう。それを補うために何らかの補足説明を行ったら、陳腐な小説になったに違いない。

陳腐さ、あるいはチープさと紙一重のところでそれを回避し、奇蹟的に完成された物語。そのテーマは特殊なものではなく、むしろ普遍的ともいえるが、このような仕方で小説に仕立て上げられる作家は、少なくとも米澤穂信と同世代にはいないのではないか。高校生を主人公にした青春小説でありながら、性の問題を全く扱わず、性以前の恋愛すら扱わず、かといって観念の戯れに堕すこともなく、淡々と日常生活を記述し、しかもそれを読み応えのある物語にまとめ上げている。ある意味ではライトノベルの対極にあり、ある意味ではライトノベルの理想型でもある。ライトノベル読みにこそ読まれるべき小説だと考える所以だ。


まだまだ書けるのだが、あまり長くなると未読の人を煽ることになるおそれがあるので、この程度にしておくべきだろう。だが、これで締めくくってしまうのは私らしくないので、最後に一つだけケチをつけてここまでに書いたことをぶち壊しにしておく。13ページの記述を信頼すれば回想シーンの文章は主人公の日記の抜粋であるように思われるが、どうみても日記の文体ではないし、141ページ13行目のように明らかに当日に書かれたのではない記述も紛れ込んでいるので、回想シーン全体が日記に含まれるとは考えにくい。また、267ページでは、読者が読んだ当の文章が喫茶店で主人公が読み上げたものと同一ではないことが示唆されている。よって、回想シーンは日記を手掛かりにして主人公が思い出した事柄をもとに小説の文体で整えたものだと考えられる。すると、主人公の記憶違いという可能性が完全には排除できなくなる。そのような不確実な記述に含まれる一語一句をもとにした推理は信憑性をもたないのではないか?

結局、今朝予告したことを書いてしまった。