【日々の憂鬱】今晩のおかずのことまで電波で命令するのはいかがなものか。【2004年11月上旬】


1.11199(2004/11/01) PとFとY

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411a.html#p041101a

『アルファベット・パズラーズ』(大山誠一郎/東京創元社 ミステリ・フロンティア)を読んだので、その感想を書く。

大山誠一郎といえば、ネット界ではe-NOVELSこっちにもリンク)に掲載された「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」(これは無料でダウンロードできるので、未読の人は是非読んでいただきたい)の作者として有名だ。その大山氏の初単行本が『アルファベット・パズラーズ』だ。名のみの空虚な「本格」ばかりが横行して本当に謎解きのおもしろさで読ませてくれるミステリが少ない今日この頃(まあ、昔からパズラーが栄えたことはないけれど)、久しい渇を癒してくれる大型新人として前評判が高かった。

ファンの期待を煽るかのように、この本のオビには次のような殺し文句が書かれている。

精緻なロジック、堅牢なプロット、そして意外な幕切れ

これぞ本格ミステリ。

無駄なものが何もない、謎解きの結晶

この煽りを目にしてじっとしていられる人はミステリファンではない。ミステリ好きなら、つべこべ言わずにまずは一読してみるべきだ。

それでもまだ躊躇するなら、政宗九氏の感想文を読むがいい。

読んだか?

読んだな?

じゃあ、もう私の出番はない。あとは各自書店に駆け込めばよろしい。


煽られた人々が本屋へ向かっている間に、私はこっそり本音を書いておこう。

『アルファベット・パズラー』には「Pの妄想」「Fの告発」「Yの誘拐」の3篇が収録されていて、いずれも普通の人にはちょっと思いつきにくい奇想が小説の核となっている。七面倒なロジックが苦手な人も適当に筋を追っていけば、奇想が生み出す意外な結末をそれなりに味わうことができる。その意味で、この作品集は一般の読書家にも受け入れられるものと思われる。ただし、冒頭に不可思議な怪現象が発生するわけではないので、多少"ヒキ"が弱いかもしれない。とはいえ、文章は読みやすいし、無駄な描写で間延びすることがないので、よほど飽きっぽい人でない限りは結末に至る前に本を投げ出すことはないだろう。

では、奇想を支えるロジックやプロットはどうか。私見では「P」では奇想に負けてしまっているが、「F」では何とか支えることに成功し、「Y」では奇想と技巧ががっぷり四つに組んでいる。平たくいえば、「P」は失敗作、「F」は水準作、「Y」は傑作だ。

傑作の傑作たる所以を説明するのは難しい。だが、失敗作がなぜ失敗したのかを説明するのは簡単だ。詳しい感想を書こうとするとあら探しに終始することになる。それではバランスを欠いてしまい、未読の人に誤った先入観を与えてしまいかねないので、これ以上詳しく感想を述べるのは控えておこう。


……と思ったが、一つだけ書いておく。本当に一つだけだ。

「Pの妄想」では缶紅茶が小道具として用いられているが、その缶には「プルタブ」がついていることになっている。現在のほとんどの缶飲料にはプルタブはないので、この小説の時代背景は少なくとも今から10年以上前だと読者は考える(むろん、そう考えない読者もいるだろうが、今はそのような読者のことは考えない)。しかし、仮にこの小説が1990年代前半以前を舞台にしていたとするなら、探偵役がロジックを組み立てる際に必要不可欠なものが、まだ一般には流通していなかったことになる。素材はすでに存在していたが、その素材がそのものに用いられるようになったのは1990年代後半のことである。ここを参照のこと(ネタをばらすことになるので、未読の人は注意されたい)。

本当に注意深い読者なら、「P」で描かれた事件が発生した年は7/4が金曜日であったことと、既に国鉄が分割民営化されてJRになっていることから、この年が1997年か2003年であることを割り出し、1997年当時の缶飲料には既にプルタブが用いられていなかったことから、作中の「プルタブ」が現在一般的に用いられているステイオンタブのことを指すのだと推測できるだろう。よって、この記述は致命的なエラーというわけではない。ただ、1997年でも作中で展開される推理が成立するかどうかは微妙なので、作中年が2003年であることを明示しておくほうが適切だった。

実を言えば、「ステイオンタブ」という語は現在ではほとんど用いられない。プルタブからステイオンタブへの転換期にはわりとよく見聞きしたが、転換が終わってしまうとことさら区別する必要もないので、従来から使い慣れた「プルタブ」が復活してしまった。ロンドン警視庁がスコットランドヤードから別の場所に引っ越した当時は、前の所在地と区別するために「ニュー・スコットランドヤード」と呼ばれたが、その後いつの間にか「ニュー」が落ちてしまったのと事情はよく似ている。他にも、送話機能を備えた「受話器」とか、チューブに入った「歯磨き粉」とか、プラスチック製の「消しゴム」とか、いくらでも例を挙げることができる。だから、ステイオンタブのことを「プルタブ」と呼んだとしても、ふつうなら特に目くじらを立てることもないのだが、「P」の場合には例のものが絡んでくるため、少しでも紛れが少ないほうがいいと思った次第。

この件とは直接関係はないが、「Yの誘拐」では、ウェブサイトに言及した登場人物全員が、それを「ウェブサイト」と呼んでいる。ウェブサイトを「ウェブサイト」と言って何も悪いことはないが、世間一般では「ホームページ」という呼称のほうが流布しているので、やや不自然なことではある。正確さのためにあえて不自然さを容認するのなら、ステイオンタブを「ステイオンタブ」と呼んでもよかったのではないだろうか。


あら探しは一つだけと決めておいたので、これでおしまい。

本当はもっと褒めたいが、褒めれば褒めるほどネタばらしの危険が増すので、これも控えておく。

最後になったが、農林水産省幹部職員名簿にリンクしておく。「大山誠一郎」で検索したら出てきたので。

1.11200(2004/11/02) 日本の黒い霧、フランスの赤い霧

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先月20日頃から読んでいた『赤い霧』(ポール・アルテ(著)/平岡敦(訳)/ハヤカワ・ミステリ)をようやく読み終えた。なんと、今年私が一冊まるまる海外ミステリ(短篇集を含む)を読んだのはこれが初めてだ。もう目も当てられない。

ポケミスのアルテはこれで3冊目となる。『第四の扉』も『死が招く』もさほど面白いとは思わなかったのに『赤い霧』に手を出してしまったのは、やはりかつてのカー体験が尾を引いているのだろう。なんだかんだと言いつつも加賀美雅之の新刊が出れば読んでしまうのも同じ理由だろう。素晴らしきかな、不可能犯罪!

『赤い霧』も密室殺人や人間消失が扱われているが、それらのトリックには新味がなく、物足りなさを感じた。しかし、それ以外の部分で十分もとがとれた。

どこがどう面白かったのかを説明すると長くなるし、予備知識なしに読んだほうがいいのは間違いないので、これ以上は何も言わないことにする。


昨日の文章で、政宗九氏の名前を「正宗九」と誤記してしまいました。お詫びのうえ、訂正します。

1.11201(2004/11/03) パーカッション独奏と管弦楽のためのUFO

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今日の見出しも本題とは関係がない。というか、そもそも本題などない。ついでに言えば本代もないので困っている。

本題のかわりに、今出ている「ザ・スニーカー」12月号で紹介されていた「長門有希の100冊」のうち、私が読んでいるもの(異版を含む)を挙げておこう。ただし、面倒なので番号のみ。

1,3,4,5,7,8,9,12,16,23,24,25,30,37,40,44,46,47,49,56,67,72,73,77,80,82,96

「100冊」とはいっても欠番もあるし、実在するのかどうか疑わしい本もある。その中で27冊も読んでいるのだから、まあこんなものだろう。とはいえ、リストと見比べたなら「えっ? 滅・こぉるって奴はこんな基本的な本すら読んでいないの?」と呆れられてしまう恐れもある。

本は多く、人生は短い。プルーストなんて読めないよ!

1.11202(2004/11/04) じんわりと、どんよりと

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暇なので友達の妹にキモメールを送ろうのまとめ(情報もと:もうひとつの夏へV林田日記2ほか)を読んで鬱になった。

(以下、どうしてこれを読んで鬱になったかという理由を延々と書いたが、あまりに鬱陶しいので最後の一段落以外全部削除した)

要するに、こういうことだ。私はとしをとった。もう若くはない。

1.11203(2004/11/05) アントニイ・バークリーとフランシス・アイルズは同一人物

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予め断っておくが、今日はバークリーの話ではない。


先日、後輩に何か面白い本はないかと尋ねたら、グレッグ・イーガンの本を薦められた。タイトルは忘れたが分厚い本だったので、もっと薄くて読みやすい本で面白い本はないかと再度尋ねた。今度は『眠り姫』(貴子潤一郎/富士見ファンタジア文庫)を薦められた。先月の新刊だ。ライトノベルのレーベルでは比較的数少ない短篇集で、収録作は変化に富んでいてどれも面白いということだった。

本をぱらぱらとめくってあとがきを読むと、バラードとかディックとかの名前がちらほらと目に入った。どうやら作者はSFファンのようだ。よく読めば、夢野久作にも言及しているのだが、本屋でざっと目を通したときには気づかなかった。

ところで、あとがきでは表題作「眠り姫」について『ベロニカ』の外伝だと書かれていた。私は「外伝」という言葉を小説に対して使うのがあまり好きではない。伝承でないものを「正伝」とか「外伝」と呼ぶのはいかがなものか、と思うのだ。『銀河英雄伝説』のようにタイトルに「伝説」とうたっているのなら番外篇を「外伝」と呼ぶのも趣向のうちだろうが、そういう前提なしにごく当たり前のように「外伝」という言葉が流通していることに苛立つ。でも、こんな細かいことにケチをつけても仕方がない。

同じ作者の『12月のベロニカ』は富士見ファンタジア長編小説大賞を8年ぶりに受賞した作品ということで、出版当時(2003年1月)にはかなり話題になっていたように思う。富士見ファンタジア長編小説大賞受賞者リストを見ると、大賞を受賞したのは過去に3人しかいない。話題になるのも無理はない。しかし、その頃の私は今ほどライトノベルに興味も関心もなかったので、『ベロニカ』は読んでいなかった。

さて、どうしたものか。最近読書意欲が減退している私としては、長篇より短篇のほうがありがたいのだが、『ベロニカ』を読まないと「眠り姫」が読めないというのも困る。そもそも『ベロニカ』も面白いのか?

面白い、と後輩は断言した。私は2冊あわせてレジへと向かった。

その後、何となく本を読む気がせず、積み上げたままにしてあったのだが、今日ふと思い立って出勤前に『ベロニカ』を鞄に入れた。電車待ちの時間に読み始め、バス待ちの時間に読み続け、昼休みに読み進め、帰りの電車の中で全部読み終えた。面白かった。この感想文を読んでいなければ、もっと面白かっただろう。いや、別にこの感想文を非難するつもりはないのだが、本を読む直前だったもので……。

家に帰ってから、『空のむこう』(遠藤淑子/白泉社 JETS COMICS)の表題作を読み返した。『ベロニカ』と同じく異世界を舞台にしているが、現実主義に徹した作品だ。表現形態も長さも違うので、どちらが上とか下とかいうことはないが、併せて読むと感慨深い。

その後、『眠り姫』の冒頭に置かれた表題作も読んだ。『ベロニカ』とは全然別の話で、先に読んでいなくても何ら差し支えなかった。後輩に騙された。

騙されてよかった。

今日はいい日だった。


NAVER - 知識plus [三角コーナーはなぜ三角?]という記事を読んだ。カトゆー家断絶では、三角コーナーは紀元前五世紀頃からあった、という見出し(さらにその情報もとのN.a.Eでは、三角コーナーの歴史って紀元前5世紀頃からあったんか)で紹介されていて、興味を惹かれたのだ。

三角コーナーの発明者がプラトンだという話には驚いたが、昔の人は専門分野を超えて活動することがよくあったから、全くあり得ないという話ではない。たとえば、少し時代は下るが、五目並べを改良して「連珠」と名付けたのは黒岩涙香だ。

ただ、その後がいけない。日本に伝わったのは、聖徳太子が日本に持ち帰った時が初めという説が有力だそうです。これは全く信用できない。いったい聖徳太子はどこの国から日本に持ち帰ったというのか。隋か?

ところで、プラトンと聖徳太子には共通点がある。どちらもイエス・キリストの生誕伝説と関わっているという説があるのだ。プラトンの母親は処女懐妊したという伝説が古くからギリシア にあり、初期キリスト教の伝道師がその伝説をパクってキリスト生誕伝説に取り入れたそうだ。また、聖徳太子が厩で生まれたという伝説は、東方教会を経て唐に伝来したキリスト生誕伝説を遣唐使のうちの誰かがパクって聖徳太子の話に仕立てたのだという。

真偽のほどは定かではないので、あまり本気にしないように。


某所で見つけた『Alice』(川崎康宏/電撃文庫)の感想文。

ここに来る電車の中で『Alice』を読了したが、これはすごいネイチャー小説だね。

圧倒的な戦闘力を持つハイパー美少女キャラのヒロインが大活躍という出版社のあらすじは表向きの、編集者を欺くための隠れ蓑。その実態は科学万能・物欲が満ちあふれた現代へのアンチテーゼ。物質文明の歪みが生み出した人間殺人凶器の暴走。それに対するは、自然が愚かで矮小な人間たちへの警告として生んだであろう、スーパーインテリジェンスをその身に宿し、日本の八百万の神々の精神をも受け継ぎサムライ魂に目覚めた巨漢のクマ。


クマと暴走人間凶器のガチンコ・スクライドバトルは、電撃よりも徳間デュアルで出てもおかしくない迫力と読者の斜め左上を向いた捻り具合だ。

複数のキャラクターの掛け合いという体裁で書かれていて、この後にまさか、本気でそういう風に『Alice』を読んだわけじゃないよね?という台詞が入るのだが、案外そういう風に読むのが正しいような気もする。

ちなみに『眠り姫』を薦めてもらったお返しに私が後輩に薦めたのが『Alice』だった。クマ最高。

スズキトモユ氏も『Alice』の感想を書いているし、まだまだ読者は増えそうだ。

で、この人の富士見の頃の作品って今でも手に入るの?


よし、勝った!

1.11204(2004/11/06) 超人探偵の死と策略

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411a.html#p041106a

昔々あるところに神の如き叡智をもって犯罪者を見出す名探偵がいた。奸智に長けた犯罪者たちはさまざまなトリックを弄してこの名探偵の裏をかこうと努めたが、無駄だった。ひとたび兇悪犯罪が発生するや否や、かの名探偵はたちどころに犯人の正体とトリックを見破るのだった。

ここに一人の犯罪計画者がいた。彼は自らの犯行計画に絶大な自信を抱いていた。その計画通りに事を執り行えば決して露呈することがない完全犯罪が実現するはずだった……件の名探偵さえいなければ。

「なに、簡単な事さ。あいつがいかに名探偵だといっても、まだ起こってもいない事件の真相を見抜くことはできない。だったら、先手必勝だ。邪魔者は消すに限る」

そこで彼は名探偵の家に忍び込み、銃で名探偵を一撃した。血を流して倒れる名探偵。だが、その顔には笑みが浮かんでいる。

「ふふ、私が推理したとおりの行動をとったね、君は」と名探偵は死の間際に言った。犯人は驚き、真意を質そうとしたが、既に名探偵は事切れていた。

さよう、かの名探偵は事件が発生する前に真相を見抜く能力を備えていたのだった。

「……すると、奴は今日のために、防ごうとすれば防げる筈の事件をずっとわざと見逃していたというのか!」

1.11205(2004/11/06) 血の呪縛

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血液型について調べようと思ってgoogleで検索してみたら、トップに血液型 性格 相性 判断 アタリマッセというサイトが出てきた。占いではなく科学的分析などともっともらしいことが書かれているが、血液型性格判断が非科学的な世迷い言に過ぎないことは論をまたない。このような愚劣な疑似科学を信じるのは、だいたいA型に決まっている。私は合理性を重んじるAB型なので、血液型で性格や相性が決まるなどという妄言には惑わされないのだ。


血液型性格判断関係のサイトをあちこち巡回していると、遺伝学からみた血液型性格判断というサイトがあった。その中に血小板MAO活性と血液型についてというページがあり、次のような記述があった(引用にあたって一部タグを改変した)。

注意深い方は、ABO FANが引用している論文の結論が正しいとしても、「医学的に血液型(O型)と性格には明らかに関係がある」という結論が導かれないことにお気づきでしょう。ABO FANの論理は、

  1. O型の人は血小板MAO活性が低い。
  2. 血小板MAO活性が低い人はスリルと冒険を求める傾向が強く、外向性で、攻撃行動・喫煙傾向が高い。
  3. よって、O型の人はスリルと冒険を求める傾向が強く、外向性で、攻撃行動・喫煙傾向が高い。

というものです。しかし、(1)(2)が正しいとしても、必ずしも(3)が正しいとは限りません。なぜなら、O型血液型以外の因子が、血小板MAO活性の低下およびタイプA行動をもたらしているかもしれないからです。血小板MAOの活性低下はさまざまな要因で起こり得ます。「医学的に血液型(O型)と性格には明らかに関係がある」ことを示すためには、(3)を直接示したスタディが必要です。ABO FANの論理には大きな穴があるようです。

う〜ん。言いたいことはわからないではないのだが、この書き方はちょっと紛らわしいのではないだろうか? ここで整理された推論は、形式的には三段論法なのだから、(1)(2)が正しいなら(3)も正しくなるはずだ(ただし文中に程度や傾向性を表す言葉が含まれているので話は少しややこしくなるが、引用文の筆者もその批判対象の文章の筆者もそこは問題にしていない)。

むしろポイントは、「医学的に」という語句のほうにあると私は考える。

たとえば、

  1. 794年生まれの人はみな1192年以前に生まれた。
  2. 1192年以前に生まれた人は誰も『ドグラ・マグラ』を読んだことがない。
  3. 794年生まれの人は誰も『ドグラ・マグラ』を読んだことがない。

という推論の(1)と(2)が正しいなら(確かめたわけではないが、たぶん正しいと思う)、必ず(3)も正しくなる。しかし、だからといって「医学的に794年生まれであるということと『ドグラ・マグラ』を読んでいないことの間に明らかに関係がある」ということが示されるわけではない。


馬鹿馬鹿しい三段論法のせいでかえって話がややこしくなってきたが、要するに私の言いたいことはこういうことだ。血液型性格判断を鵜呑みにするO型人間は愚かだが、私は理知的なB型なので冷静に賢明な判断を行う。

1.11206(2004/11/07) 通年販売いちごタルト事件

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411a.html#p041107a

昨日、ある喫茶店でケーキセットのメニューを見ると、いちごタルトがあった(タルトはケーキのうちに入るのだろうか?)。私はいちごタルトとアイスミルクのセットを注文した。

しばらく経って、いちごタルトは売り切れだから別のものにしてくれ、と店の人に言われた。私は悲しくなった。いちごタルトがないとわかっていたなら、ケーキセットではなくて、パフェかサンデーを注文したのに。でも、既にアイスミルクを飲みかけていたので、今から注文を変更することはできない。仕方なく、私はフレッシュチーズのムース(ムースはケーキのうちに入るのだろうか?)とかいう、どうでもいいものを頼んだ。

なお、別に「事件」と呼ぶべき事態は発生しなかった。

1.11207(2004/11/08) 忘却と新幹線とサンズイ

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私はあまりメモをとる習慣がない。そのせいで、思いついたことを忘れてしまうことが多い。特に最近は老化のせいで記憶力が減退していて、今晩の朝ごはんのメニューすら覚えていないほどだ。

そこで、大事なことはなるべくメモをとるようにしたのだが、もともとメモをとる習慣がなかったので、すぐに忘れてしまう。「ああ、メモをとらなければ」と思ったときには手遅れで、既に書くべき事柄を覚えていない。

運良くメモをとる事に成功しても油断はできない。メモ用紙をどこに置いたか忘れてしまうからだ。一度思い立って、メモ帳を紛失しないように、隅に穴を開けて紐をつけたこともあるが、その紐をどこに結わえ付けたかを忘れてしまった。あとで探したらポータブルラジオのアンテナに結んであった。いったい私は何を考えていたのだろう?

さらに困ったことに、メモに書いてあることを後で読んでも、どういうつもりで書いたことなのか忘れてしまっていることが多い。たとえば、今日の昼休みに私はこのサイトで書くネタを思いつき、それを広告チラシの裏にメモ書きしておいた。幸いそのことは覚えていたので、家に帰ってからチラシを開いてみると……ただ一言、「かぐらなんばん」と書いてあった。

自分で自分にツッコミを入れたいと思った瞬間である。


長崎県の公式サイト内にある長崎新幹線のトップページの画像はなかなかインパクトがある。新幹線を待望しているというより、迫りくるものに怯えているような感じがする。

それはいいのだが、あまりよくないのがQ&A 経営分離された後、並行在来線はどうなるのですか?というページ。イラストででは万事OKという雰囲気だが、文章を見ると問題が何も解決されていないことがわかる。腕組みして考え込んでいる絵だったらよかったのに。


今、『中国の大盗賊・完全版』(高島俊男/講談社現代新書)を読んでいる。先月、現代新書のリニューアルにあわせて、初刊時に削除された原稿を復活して再刊された本だ。まだ読みかけだが、読み終える頃にはどうせ忘れてしまっているだろうから、今のうちに感想を書いておく。

「盗賊」というのは武装して盗みをはたらく集団のことだが、中国の盗賊は日本語の「盗賊」のイメージとはかなり違ってスケールが大きい。この本で扱っているのは、国を盗もうとした(あるいは本当に盗んでしまった)盗賊、すなわち盗賊皇帝たちである。具体的にいえば、秦の末期に張楚を起こした陳勝、同じく秦末期に蜂起した漢の高祖劉邦、明の太祖朱元璋、その明を滅ぼした李自成、太平天国の洪秀全、そして最後に毛沢東、という面々だ。

史実と伝説を織り交ぜて、簡潔にして含蓄豊かな楽しい描写を繰りひろげる筆致は見事だ。私は同じ著者の『お言葉ですが…』シリーズ(文春文庫)を何冊か読んで軽妙な筆の運びに感心したのだが、その筆力は歴史ものでも健在だ(というか、こちらのほうが専門)。

たとえば、朱元璋の所業を描いた章(「第二章 玉座に登った乞食坊主」)から、皇后について述べた一節を引用してみよう。

この女性がのちの馬皇后だが、この人はなかなかよくできた人だったらしい。(略)馬皇后は五十一歳で病気で死んだのだが、病気になっても医者にみせず薬をのまなかった。医者にみせ薬をのんで治ればよいが、治らずに死ねば太祖はおこって医者を殺すにきまっている。それを心配したのである。馬皇后が死んだあと、太祖は十六年生きたが、あとの皇后は立てなかった。

この短い文章の中にちょっとした短篇小説程度のエッセンスが詰まっている。それをさらりと書いてしまっているのが凄い。

もう一箇所、今度は私の長年の疑問(2年前に疑問を呈したことがある)を解消してくれた文章を引用する。李自成の章(「第三章 人気は抜群われらの闖王」)から、後金改め「清」を建国した民族「満洲」(私のパソコンでは「まんしゅう」で変換すると「満州」しか出てこない)について説明した箇所だ。なお、引用文中の丸括弧で括った「マンジュ」は原文ではルビ、「州」の強調は原文では傍点だ。

「満洲」の「洲」を、徐州、杭州などの「州」と同じに思って「満州」と書いたりする人があるが、それはちがう。「満洲(マンジュ)」というのは「文殊」なのである。文殊菩薩の文殊である。

(略)

それともう一つ、国名の「清」といい、族名の「満洲」といい、みなサンズイがついている。つまりみな水である。

というのが、中国では昔からどの王朝も五行(木・火・土・金・水)のいずれかの徳を持っている。明は火徳の王朝である。火に勝つのは水である。だから国名も族名もみな水にして、明に勝って中国を取る意志を表明したのである(だから満洲を満と書いたのではせっかくの水分が五割がた減少してしまう)。

知識があれば用字法の説明はできる。しかし、知識だけでは水分五割減とは書けない。ここに書き手の力量があらわれる。

私もこのような文章が書けるようになりたい。

1.11208(2004/11/09) 不要するシニフィアン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411a.html#p041109a

雲上回廊〜神伝楼へ続く階段〜の『涼宮ハルヒの消失』(谷川流/角川スニーカー文庫)の感想文(そのうちブックレビューのコーナーに収納されると思うが、今のところはトップページに掲載されている)の末尾の一段落が凄い。

それにしても、それにしても、ああ素晴らしい。きっと谷川流こそ、自分が求めていた作家なのではないだろうかとさえ思えてきた。もう谷川流がいれば、自分は不要だな、というぐらい。まだ残っている著作が三作もあると思うと、これからが楽しみで仕方がない。

最初、私はこの文章を誤読していた。「谷川流のためなら、僕は死ねる!」(古いネタでごめん)という意味だと思ったのだ。この勘違いはもしかしたら私自身が不要な人間だという思いを投影したものかもしれないが、それを突き詰めて考えると鬱になるのでやめておこう。ともあれ、秋山真琴氏の真意は「谷川流という作家がいれば、自分(=秋山氏)の小説は不要だ」ということだろう。

若い。うらやましい。

正直言って今の秋山氏の小説(はてなダイアリー - 雲上四季に超短編が多数掲載されている)は若書きの域を出てはいないと思う。プロ作家の作品と比べるとかなり見劣りする。しかし、秋山氏はこれからまだまだ成長する可能性がある。今日は茫然と立ちすくんでも、明日にはまた一歩前進し、明後日には先人と肩を並べているかもしれないのだ。


よし、負けた!

1.11209(2004/11/10) 講談社現代新書は棚に並べたときストライプになるらしい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0411a.html#p041110a

ソースはこちら


今秋の創元の復刊フェアで『ウィリアム・テン短編集』(1,2)が出た。長らく幻の本だったもので、もちろん私も初めて見たのだが、それにもかかわらず懐かしさをおぼえた。というのは、カバー絵が昔の創元推理文庫を思わせるもの(初刊時の絵をそのまま使っているのか、それとも昔風の絵を新しく描いたのかはわからない)だったからだ。私が子供の頃の創元推理文庫の表紙はみなこんな感じだった。当時は創元SF文庫は存在せず、SFもみな推理文庫に入っていた。

ところで、カバーと表紙では「創元SF文庫」と表記されているが、扉が「創元推理文庫」のままになっているのはなぜだろう?


秋山真琴氏が最近、書いた超短編で一番、出来がいいなと思っているという『TURN TO THE OWN ROAD』を読んでみた。

最初の文で躓きかけた。たった一つの織物のために、方々から寄せられていた因果の糸が解かれようとしていた。という文を「方々から寄せられていた因果の糸が解かれようとしていたのは、たった一つの織物のためだった」というふうに読んでしまったのだ。因果の糸というのは何のことか不明だが、ともあれそれはもつれているのだろう。その糸を使って織物を織るためには、まずはもつれをほぐさなければならない。そういうふうに解釈したのだ。

2つめの文で、私は勘違いに気づいた。「たった一つの織物のために」は「解かれようとしていた」にかかるのではなく、「方々から寄せられた」にかかるのだと。では、私はなぜ上記のような勘違いをしてしまったのだろうか?

思うに、それは読点の位置のせいだろう。「たった一つの織物のために」がひとつのまとまりをなし、「方々から寄せられていた因果の糸が解かれようとしていた」がもうひとつのまとまりをなすとすれば、前者は後者全体にかかっていくことになる。

では、どのように書かれていたなら、私は誤解せずに済んだのだろうか? 3通り考えてみた。

  1. たった一つの織物のために方々から寄せられていた因果の糸が、解かれようとしていた。
  2. たった一つの織物のために方々から寄せられていた、因果の糸が解かれようとしていた。
  3. たった一つの織物のために方々から寄せられていた因果の糸が解かれようとしていた。

1だと「因果の糸が」から「解かれようとしていた」への自然な流れを止めてしまうようで、少し違和感がある。読点のあとに「今まさに」などの語句を挿入したくなる。2は1に比べると多少はましだが、それでも流れをせきとめてしまうような感じが残る。そうすると全く読点を用いない3がいちばんましだということになる。だが、これだけの長さがあると、途中一箇所くらいには読点を打ってみたい。うむむむむ。

何となく居心地の悪さを感じながら続きを読むと、3つめの文で再び立ち止まってしまった。それは見事な、それ以上は望むべくもない芸術品にして創作品を形成している。この文の「それ」とは「織物」だろうか、「糸」だろうか?

何度か読み返してみて、私はこの文を次のように分析した。「見事な」と「それ以上は望むべくもない」が並置され、「芸術品」と「創作品」もまた並置されているのだ、と。すなわち、「それはXを形成している」の「X」に、次の4つの項が入っている。

この分析が正しいならば、おそらく文頭の「それ」と文中の「それ」は別のものを指すということになるだろう。「織物」が何か別の「芸術品=創作品」を形成している、と読むこともできるかもしれないが、それでは「糸」の位置づけが軽くなってしまうので、「糸」が「織物」(=「芸術品=創作品」)を形成している、と読みたい。

いずれにしてもややこしい。「創作品」は不要なのではないだろうか。芸術品というのはたいてい創作品なのだから。


悲喜劇名詞│トラコメ遊び(11/10付)から。

くだらないことをつらつらと思ってみる。例えば、正々堂々と戦うということはどういうことなのだろうか、とか。

何故自分を鍛えて相手に勝つのは是であり、ドーピングはだめなんだろう。効率のよい鍛え方をして効率のよい食事をとって、アミノ酸とかプロテインとか漢方薬とかそういうものを取るのはOKで、何ゆえ筋力増強剤はだめなのだろう。本人の体を駄目にするから? トップのレベルにいる選手は、体を駄目にしてしまうくらいの練習を積んでいるのにそれはいいのか? どうなんだ?

これを読んで、これ以上はないほど安直な説明にして理由付けを思いついた(文頭の「これ」と文中の「これ」は別のものを指す)。

ドーピングが駄目なのは、ドーピングが駄目だというルールがあるから。そして、ドーピングが駄目だというルールがあるのは、ドーピングを認めると安易な手段に頼ることになるから。アミノ酸やプロテインが認められているのは単に程度の差によるもので、筋力増強剤と本質的な違いがあるわけではない。

……と、断言してはみたものの、これはもちろんいい加減な思いつきに過ぎない。


ずっと昔、函館で私は老人に道を尋ねた。確か温泉に行きたかったのだと思う。温泉の名前は忘れたが。

「この先のT字路を右折しすぐに煙突が見えてくる」と老人は説明してくれた。温泉なのに煙突があるというのは、たぶん今はやりの(?)沸かし湯だったからなのだろう。

それはともかく、件の老人が「T字路」を「テイジロ」と発音したのが、なぜか私の記憶に残った。年配の人は「ティー」の発音が苦手なのだろう、と私は勝手に納得した。

私が間違いに気づいたのは、それから5年以上経ってからのことだった。老人は「T字路」ではなく、「丁字路」と言ったのだった。