日々の憂鬱〜2002年7月下旬〜


1.10318(2002/07/21) 簡易更新

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020721a

 前にも書いたが、私のネット接続環境に障害が出ている。午前中はそこそこふつうに使えるが、午後になると接続が途切れることが多く、ひどいときには何度アクセスしてもサーバーが応答してくれない。全く沈黙してしまうのならまだいいが、中途半端に5秒くらい繋がったりすると、それだけで電話料金がかかるから非常に具合が悪い。
 今日もたぶん同じことが起こりそうなので、午前中にさっさと更新をすませることにする。だが、ネタがない。よって、今日はこれでおしまい。

 ……などというわけにもいかないので、少しだけ。
 断続的にコミケカタログのチェックをしているのだが、なかなか進まない。今は一日目東のA〜Zのチェックを終えたところだ。ジャンルは概ね「FC(小説)」「FC(少女)」「ガンダム」「サンライズ」となっているが、私の関心は「FC(小説)」の中のごく一部であり、貼った付箋の数は5枚に過ぎない。
 ミステリ系サークルをざっと見回してみても、あまり代わり映えがない。もう行かなくてもいいような気もするが、私の知り合いがいちばん多いのがこの辺りなので、午後にちょっとだけ覗いてみることにする。たぶん知人との待ち合わせ場所はそこになるだろうし。ミステリ以外だと、「マリみて」サークルもいくつかチェックした(「マリみて」サークル出展状況については読百合新聞マリみて解説コーナー「マリア様がみてるってなに?」を参照した)が、特に是非ともマリみて本がほしいというわけではない。
 ほかには、「ハリーポッター」と「バッハ」(わざわざ「作曲家モノ」と書いてあるから、あるバッハなのだろう)という妙な取り合わせのサークル(東D-4a「コルフーラ」)というのを見つけた。今のところそれくらい。

 今月27日のオフ会には3人の応募者(まだ締め切っていないので、少し増えるかもしれない)があったそうだ。オフ会の体裁が整ってきた。めでたいことである。
 参加者の方々は応募条件により全員サイト持ちである。私の定期巡回サイトが一つ、全くこれまで見たことがないサイトが一つ、定期巡回サイトからのリンクを辿って見に行ったことがあるサイトが一つ、というふうにバランスがとれている。よく知ったサイトの人ばかりだと新鮮みがないし、知らないサイトの人ばかりだと話題に困る。そういうわけで、今度のオフ会はかなり盛り上がるものと思う。
 しかし――過去ログを辿って「Aria」(去年FOX出版から1号だけ出た、美少女ゲーム関係の小説誌)に言及している記事を見つけたときは驚いた。

 「Aria」繋がりで小ネタ。この誌名を初めて見たとき、私は『Air』(Key)にちなんだものだと思った。音楽用語ちとしてどちらも同じ意味だからだ。だが、実はそうではなくて、以下の経緯によりネーミングされたものらしい。

  1. ゲーム関係の雑誌だから、タイトルに"game"の頭文字"G"を入れよう。
  2. でも"G"が頭につく雑誌は多いなぁ。
  3. じゃあ、"G"から連想する言葉は……う〜ん、「G線上のアリア」とか。
  4. よし、それじゃあ、タイトルは「アリア」だ。
 この雑誌(現在、小説雑誌の新創刊は非常に困難になっているので、取り扱い上は書籍ということになっている)を作った編集者は、「Aria」創刊直後に会社を辞め、謎の失踪を遂げたという話だ。続刊が出ないのはそのためだ。出版業界ではよくある話だと思うが、残念なことだ。

 昨日と今日で「無伴奏チェロ組曲」6曲全部を聴いた。私は陰々滅々たる第2番が大好きだ。人間いくら頑張っても最後は死んで何もかもなくなってしまう、ということを教えてくれる。いや、バッハはそんなことを教えたくてこの曲を作曲したわけではないだろうが。
 「たそがれSpringPoint」開設前に私が運営していた別のサイト(現在は消滅)で書いたことと重複するが、第2番の前奏曲は昭和64年1月7日にNHK教育テレビの放送終了時に流れた曲だ。
 昭和は遠くなりにけり。

1.10319(2002/07/22) 感想文とその他の事柄

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020722a

 今日、一冊の小説本を読み終えた。『煙で描いた肖像画』(B.S.バリンジャー/矢口誠(訳)/創元推理文庫)だ。この一冊を読むのに約一週間かかった。さほど長いわけではないし、特に読みにくいわけでもない。なのにこれだけ時間がかかったのは、私の読書意欲が著しく低下していたためである。
 バリンジャーという作家にはあまり思い入れはない。中学生の頃に読んだ『歯と爪』には感銘を受けたような記憶がかすかにあるが、たぶん今読み返したらたいして面白くないだろうという気がする。高校生の頃に読んだ『消された時間』は、何がミソなのかさっぱりわからず首を傾げた覚えがある。高校卒業後に読んだ『赤毛の男の妻』は――「絶対に解説(植草甚一)を先に読んではいけない」(現行の版では、まずい箇所を削除しているので別に解説を先に読んでも問題はないらしい)という知人の忠告に従ったので――それなりに驚いた。だが、あの"意外な結末"は現在の読者には物足りないのではないか。
 しかし、思い入れがないわりに、これまでに邦訳のある全長編を読んでいるというのはなぜだろう?
 今回の『煙で描かれた肖像画』は間の悪いことに少し前に小学館から邦訳が出たばかり(タイトルは微妙に違っていたと思うが、忘れた。気になる人は各自調べてほしい)だが、向こうは文庫本ではないので当然無視。創元推理文庫版も特に読みたいと思っていたわけではなかったのだが、最近海外ミステリを全然読んでいないので、この辺りで一冊くらい読んでみても罰はあたらないだろう、という軽い気持ちで買ってきた。
 そして、上述のとおり、今日ようやく読み終えたのだが、どうにも感想を述べにくい。1970年代に創元の「スリラー・サスペンス」(猫マーク)で出たもののその後絶版になってしまった作品群(しばらく前には古書店の店頭ワゴンの100円均一コーナーでよく見かけたものだが、今はどうなのだろう?)にも似た古めかしさが漂う。本国での刊行年が1950年代で、'70年代に訳出されていてもおかしくなかった本だから、それらの本と似た印象を受けるのも当然といえば当然だが。
 『歯と爪』などで効果的に用いられたカットバックの手法をバリンジャーが初めて用いた長編が『煙で描かれた肖像画』だという。ダニー・エイプリルという青年の一人称パートと、クラッシー・アルマーニスキーという女性とその周辺の人々を三人称で描くパートが交互に配置され、過去と現在の間が徐々に詰まっていくにつれて二人の距離も縮まっていくという構成になっている。なんだか、叙述トリックを使っていそうな雰囲気だ。
 ところで、この本には登場人物一覧表がついている(カバーと扉付近に同じ内容のものがある)のだが、

ダニー・エイプリル
集金代行業の青年
クラッシー・アルマーニスキー
ダニーの思い出の美女
クレランス・ムーン
集金代行業者
……たったこれだけだ。クレランス・ムーンは冒頭で出てきたのち、中途でちょっと顔を出すだけのどうでもいい人物で、登場人物表の体裁を整えるために名前を挙げているのがありありとわかる。もし、私がこの本の登場人物表を作るなら、女性だけに限っても
キャサリン・アンドリュース
ラリー・バッカムの恋人
カレン・アリスン
ステイシー・コリンズの秘書
キャンディス・オースティン
ホテル<レイク・タワーズ>の住人
と、これくらいは挙げてみたいと思う。
 さて、小説全体の感想が書きにくいので、そのかわりに印象に残った文章を二つ引用しておく。
ともかく、もし愛さえあれば、クラッシーは相手の財産など問わないはずだ。クラッシーがそういうタイプの娘であることを、おれはよく知っていた。(132ページ)
「バッハ、ブラームス」とオバニオンは言った。「それに、ほかにもいくつか……シベリウス、モンテヴェルディ、クープラン」(181ページ)
 前者は知識についての古典的見解(「知識とは正当化された真なる信念である」というもの)を連想させる。後者は、言及されている5人の作曲家のうち3人までがバロック期の人々であることに興味を惹かれた。そういえば……シベリウスだけCDを全く持っていないな。政宗九氏のシベリウス交響曲レビューを読んでみることにしよう。
 脱線ばかりで、結局何を書いているのかわからない文章になったが、取り上げた本が『煙で描かれた肖像画』だから、これでいいのだ。うん、そういうことにしておこう。


 一冊本を読み終えたので、一冊本を買った。買ったのは『アルファベット荘事件〜A Love Story〜』(北山猛邦/白泉社My文庫)だ。同じ著者の『「クロック城」殺人事件』(講談社ノベルス)は以前メモ書き程度の感想文を書いたが、一言でいえば「まあ、別に次作は読んでも読まなくてもいいか」という程度の印象だった。
 ところが、UNDERGROUND7/19付の感想文を読むと、

『『クロック城』殺人事件』も魅力的な作品だったが、今月発売の『『瑠璃城』殺人事件』とこの小説で、少なくとも僕にとっては北山猛邦はいま最も注目すべきミステリ作家の一人になった、と強く思う。
と、かなり肯定的に評価されている。で、とりあえず一冊読んでみて、もう一冊を読むかどうかを決めようと思った。『アルファベット荘事件』のほうにしたのは、講談社ノベルスはすぐには書店から消えることはあるまい、と思ったから。
 ところで白泉社My文庫のウェブページを見ると、試し読み用に今月の新刊の一部が公開されている。まずこちらをダウンロードして読んでみてから判断してもよかったのだが、このページの存在に気づいたのが本を買ったあとだったので、後の祭りだ。どうでもいいが、このページは今日初めて見たのに、文体とか言い回しとかに馴染みがあるような気がするのはなぜだろう?
 ついでだから、もう少し続ける。
 私が白泉社My文庫のページを見に行ったのは、別に今日『アルファベット荘事件』を買ったからというわけではなくて、まいじゃー推進委員会「投稿する方へのアドバイス」を紹介していたからだ。私も「思わずニヤリ」とした。特に
  1. ファンタジーや異世界を書く場合は「メートル」「グラム」といった単位、あるいは「テーブル」「スカート」といった英語系の言葉の扱いは慎重に。
とか、
  1. 改行が多すぎる文章は、少し昔のジュニア小説みたいなのでやめましょう。
が秀逸だ。


 ペインキラー氏が『マリア様がみてる』をヘーゲルの弁証法で読み解くという凄い事に挑戦している。さらに凄い事に、同じことを氏より前に考えて図書館から『精神現象学』を借り出した人がいたらしい。そういえば、今日『アルファベット荘事件』を買うために立ち寄った書店にも『精神現象学』は置いていなかった。してみると、「マリみて」ファンが買っていったあとだったのかもしれない。恐るべし、「マリみて」信者!
 私が名指しされているので一言弁明しておくが、私はヘーゲルには全然詳しくないし、そもそも弁証法というものが何なのかよくわかっていない。そういうことは蔓葉氏のほうが適任だと思う。蔓葉氏の専門はフッサールだが、どちらも「現象学」だから似たようなものだろう。たぶん。
 弁証法といえば、ミステリファンは誰しも天城一の名作『盗まれた手紙』を思い浮かべることだろう。名探偵摩耶正が弁証法を駆使して巧みに推理を行う短編である。ヘーゲルよりもフレーゲのほうが偉大な哲学者だと信じている私にとっては、記号論理学者のはずの摩耶正が弁証法を支持するのは論理学への裏切り行為のように思えるのだが、それはともかく『盗まれた手紙』はミステリにおける名探偵の推理の過程に興味がある人には是非一読をお勧めしたい。
 「マリみて」に話を戻す。ペインキラー氏が弁証法に思い至ったのは、単に花の蕾のたとえから連想しただけではなく、「マリみて」世界で学年が一つ繰り上がるごとに登場人物の位置づけがダイナミックに変動するという過程を掴み取ろうとしたからだと推察する。私の「マリみて」三性鼎立説(こう書くと何か凄いことを言っているかのようだ!)では、共時的な対人関係構造しか捉えておらず、通事的分析がすっぽりと抜け落ちていた。それが気がかりで最後に木々高太郎の「人生二回結婚説」に言及したのだが、中途半端に投げ出したまま現在に至る。もしかすると、「マリみて」は木々高太郎へのオマージュである、と主張したくてあのような事を書いたのだと誤解している人がいるかもしれないが、もちろんそんな事は全然考えていなかった。
 ペインキラーも指摘されるように、「マリみて」はまだ一人の登場人物の三態(そういえば「女の三態」という絵画があったなぁ。誰の作品だったろうか?)を描ききってはいない。だが、「アリストテレス以来の伝統的論理学を超えた高次の論理学」たる弁証法の使い手ならば、来年の祐巳や志摩子(ええと、もう一人いたような気もするが……)の姿を予言することはいとも容易であるに違いない。
 いでよ、勇者よ! 「マリみて」世界の薔薇色のベールを切り裂け!
 私? いや、私は「固定化され生気を失った概念を弄ぶ低次の論理学」すら持て余しているので……。


 そんなこんなでそろそろ11時。本当はペインキラー氏つながりで、今度のオフ会に名乗りを上げた強者のサイト紹介をするつもりだったが、明日以降に回すことにする。
 最後に、今日のバッハだが、フルートソナタを三曲(BWV1030,1031,1032)聴いた。三曲ともバロック時代に一般的だった通奏低音(白泉社My文庫の今月の新刊のうちの一冊『イゾルデの庭〜愛と幻想のミステリー〜』(伊神貴世)の宣伝文句では、ワーグナーの歌劇だったか楽劇だったかを通奏低音にする、という奇妙なたとえが用いられていた)伴奏ではなく、クラヴィーア伴奏である。バッハは旧来のトリオ・ソナタの様式を独奏楽器とクラヴィーアの二重奏に移し替えて人減らしを図った(さらにオルガン独奏のためのトリオ・ソナタもある)。ただ、中間楽章のシチリアーナが有名な変ホ長調のソナタ(BWV1031)は、楽譜等の資料から判断すればバッハの真作なのに音楽の内容は全然バッハらしくない、という特徴があり、未だに真偽論争に決着がついていない。

1.10320(2002/07/23) 開店休業

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020723a

 今日もネットへの接続に不具合が生じている。何となくやる気が出なくなったので、一回休みということにする。この文章がちゃんとアップできればいいのだけれど……。

1.10321(2002/07/24) シベリウスと『シベリア超特急』

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020724a

 昨日やる気が出なかった分、今日はテンションが高くなっている……かといえば、そんな事は全然なくて、相変わらず地を這うような気分が続いている。
 そんな私のもとに甲影会(今、「こうえいかい」で変換したら「公営化胃」となった)から『別冊シャレード』Vol.69天城一特集6が届いた。一昨日『盗まれた手紙』(これは天城一特集5に収録されている)に言及したばかりなので、この偶然にちょっと驚いた。だが、驚いたのはそれだけではない。今回の特集のメインが、あの『圷家殺人事件』(1955)だとは! 改稿版の『風の時/狼の時』(1990)は読んだことがあるが、『圷家殺人事件』のほうは当然ながら未読だ。ページを繰ってみると、基本的に『密室』17号に掲載されたものをそのまま製版しているようだが、ところどころフォントや字組が違っているページがある。そのまま製版したのでは判読できないために打ち直したのだろう。そのことがかえって年月を感じさせる。
 近年、古き良き時代のDS(といってもわからない人のほうが多いだろうが、「Detective Story」の略だ)が脚光を浴びつつあるが、天城氏の数々の名作群はいくつかのアンソロジーに収録されているのみだ。幸い、甲影会の『別冊シャレード』の天城特集はVol.1を除いて在庫があるようなので、後悔したくない人は今のうちに入手しておくことをお勧めする。
 なお、甲影会は今夏のコミケット62にも出展する(8/9東K-58a)そうだ。前回のコミケ以降に出た本はたぶん一通りあると思うので、関心のある人は一度寄ってみてはいかがか。
 ……しかし、

70 天城 一7 近刊
というのは……。まだあるの?

 今日、『アルファベット荘事件〜A Love Story〜』(北山猛邦/白泉社My文庫)を読み終えた。読み始めたときにはもっと時間がかかるかと思ったが、途中からだんだん文章のリズムに慣れてきて、引っかからずに読めた。
 で、読み終えた感想だが、一言でいえば「可もなく不可もなし」というところだ。樋口氏が「いま最も注目すべきミステリ作家の一人」と評しているのが今ひとつピンとこない。だが、まだ私はこの作家の真の実力に気づいていないだけなのかもしれない。そこで、続いて『「瑠璃城」殺人事件』(講談社ノベルス)を買ってきた。
 『瑠璃城』を読んでからまとめて感想文を書いてもいいのだが、別にシリーズものではないので、とりあえず簡単に箇条書きしておく。

 意図的にあら探しをして書き出してみたので、これだけ読むと『アルファベット荘事件』はどうしようもない駄作だと思われるかもしれない。だが、そうではない。細かい事だが、見取図と現況の不一致などに、単なる「一発ネタ屋」ではない真っ当なミステリ作家としてのセンスを感じる。また、上ではあえて評価を差し控えたが、犯行動機を高く評価する人もいるかもしれない。どうでもいいが、私は『パタリロ!』(魔夜峰央/白泉社・花とゆめCOMICS)に登場する不可能犯罪専門の犯罪者デュモンを連想した。デュモンが登場する話は白泉社文庫版『パタリロ!』第17巻にまとめて収録されている。昔、私はこれを「花とゆめ」本誌で読んだんだよなぁ。ああ、あの頃は私も純真だった。次の号が待ち遠しくて待ち遠しくて……。
 えっと、話を戻す。結局、なんだかんだと言いつつ、私も北山猛邦に注目してしまっているかもしれない。やや不本意だが、これも業だと思って諦めることにしよう。

 今日もそろそろ時間切れ。今週のオフ会に参加する人の紹介ができなかった。
 とりあえず、リンクだけはっておく。

 投げやりで申し訳ない。

 バッハ? 昨日も今日も1枚ずつちゃんと聴いてるよ。

1.10322(2002/07/25) としはとりたくないものだ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020725a

 「荒(あら)げる」という表現は間違いだと私はずっと思いこんでいた。ここでも何かの機会にそのような事を書いた覚えがある。だが、私の知らない間に日本語は変化しており、今や「荒げる」は慣用表現として市民権を得ているらしい。複数の国語辞典に見出し語として掲載されているので、もはや言葉の誤用とは言えまい。
 私がそのことを知った経緯については掲示板を参照のこと。掲示板のログはいずれ流れてしまうが、ここに転載する気にもならない。ただ、もうショックが大きくて……。
 一般に流布している言葉で、私が間違いだと思っているものはほかにもいくつかある。たとえば「百歩譲って」(正しくは「一歩譲って」)、たとえば「的を得る」(正しくは「的を射る」または「当を得る」)、たとえば「笑顔を浮かべる」(正しくは「笑みを浮かべる」)。だが、「それのどこが間違いなんだ? みんながごく普通に使っている言い回しじゃないか」と言われたら、返す言葉がない。言葉の変化についていけずに、古い言語観にしがみついて意固地になっているだけではないか、という気さえする。
 世の流れに取り残されるのは寂しいものだ。

 MISCELLANEOUS WRITINGS(7/23付)経由で超短編『君のために』を読む。ああ、「〜経由で」なんて書いてしまった。言及したい当のサイトに私がどのようにして到達したかということは本来どうでもいいことで、情報もとを書かないのは礼を失する、などという余計な配慮は不要だというのが私の基本的な考えなのに、何ということだろう。上の「あらげる」の一件で、私の脆くて弱いアイデンティティが崩れ落ちようとしている。ああ、「アイデンティティ」なんて言葉を使っちゃったよ。「アイデンティティ」は論理学用語としてのみ使うという方針を立てているのに、なんということだろう。この調子でどんどん坂を転げ落ちていき、そのうち「大文字の私」とか「リーダビリティ」などいう言い回しも平気で使うようになってしまうのか。
 まあ、それは横に置いておくとして。
 私は超短編というのがよくわからない。ショートショートとはどこが違うのだろう? 全く違いがないわけではないのはわかる。ショートショートは新鮮な着想とオチの切れ味がものを言うが、超短編の評価基準はどうやらそんなところにはないようで、私には理解できない感覚的な要素で優劣の判定がなされているらしい。というわけで、私はこれまで超短編にはほとんど興味がなく、興味がないのにわざわざ「超短編ってどこがおもしろいの?」などと喧嘩を売っても仕方がないから黙っていた(たぶん過去には一、二度超短編に言及したことはあると思うが……)のだが、今日はアイデンティティの危機のせいか、なんとなくついふらふらとリンクをクリックしてしまったのだ。
 リンク先には、フク氏が言及した『君のために』のほかに4編が掲載されているのだが、全く私には理解できないものばかりだった。ただ『君のために』だけは、いい話だと素直に思うことができた。強いて文句をつけるなら「奥さん」という言葉は自分の配偶者に対して使うものではないので「妻」にすべきだと思うのだが、私の言語観は時代から取り残されているので、これはこれでいいのかもしれない。しかし、「奥さん」より「妻」のほうが二文字少ないではないか、となおも食い下がってみたくなったりするので、案外私もしぶとい。
 なお、私は別に作者の春都氏に何か含むところがあって絡んでいるわけではない。氏とは別に知り合いではなく、ずっと前にニアミスしたことがあるだけだ。だが、これも何かの縁。あとでたそがれあんてなに登録しておくことにしよう。定期的に巡回していれば、また面白い超短編が読めるかもしれないし。

 昨日と今日でバッハのリュート曲を聴いた。室内楽曲はほとんど聴いてあるのだが、なぜかリュート曲だけは全然手を出していなくて、このバッハ・エディションで聴くのが初めてなのだが、編曲ものが多くてあまり新鮮味がない。

1.10323(2002/07/26) 曖昧な感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020726a

 つい先ほど、凄い文章を読んでしまった。あれこれ説明するよりも、直に読んでいただくほうが早いだろう。少し長くなるが、引用しておく。引用に当たって、タグに若干手入れをしているが、当然のことながら文章そのものには一切手を入れていない。引用元は後で示すことにして、とりあえず下の文章を読んでみてほしい。

柄刀一『奇蹟審問官アーサー』(講談社ノベルス、2002.4)

 アンデス山脈の麓にあるアルゼンチンの小さな村で教会が火事になるが、その日集まる予定だった十二人の信者がその日に限って全員遅刻し災禍を免れる、という「奇蹟」の恩恵を受けた「十二使徒」が不可能状況下で一人ずつ殺されていく、という映画『ファイナル・ディスティネーション』のようなストーリー。見えない敵と闘う素振りをした末に胸から血を迸らせしかる後に窓から川に落ちて石の上で炎に包まれるとか、ハングライダーで空中を飛行している男性が至近距離から射殺されるとかいった数々の魔術的な不可能犯罪の謎が、バチカン法王庁奇蹟調査室の一級審問調査官アーサー・クレメンスの科学的な知識とロジックによって鮮やかに解き明かされる。

 背表紙に「島田荘司を継ぐ者」というコピーが伏せられていることからもわかるように「幻想ミステリー」の力作。科学的な薀蓄を「異常な死」の演出に応用するアイディアの豊富さや、それを本格ミステリ作家としてのテクニックにおいて、柄刀一はいまミステリ作家の中でもトップレベルにある。それはこの作品によっても証明されていると思うのだが、にもかかわらず、不思議に魅力が感じられない作品でもある。思うに、「幻想的な謎→合理的な解決」という公式を正しく踏襲していくのだという姿勢が冒頭から明白で、そこから逸脱する意志が感じられないために、読者は「どうせ解かれるもの」としてしか「謎」を受け取れないからではないだろうか。あまりにもきれいさっぱり「謎」が解決されるために何も残るものがない、という感じ。島田荘司が提示する「謎」の魅惑とそれを解き明かすトリックそれ自体の魅惑・・が、少なくとも僕はこの作品から感じ取れなかった。そもそも「幻想ミステリー」とはそれが公式と化した場合には、ちっとも魅力的なものではなくなるようなものなのではないだろうか。例えば、この作品では被害者の異常な死に方をアーサーらが「たまたま目撃してしまう」というお約束が何度も繰り返され読者を苦笑させる。「謎」を包む装飾の部分にも問題がある。ストーリーに牽引力がなく、探偵役も魅力を欠いていKに声を掛けられ、自分と彼女は一九七一年の日本で結ばれていた恋人同士の生まれ変わりであると告げられる。この図書館に収められている「六人の首なし騎士の短剣」の側で二人は巡り合うことになっているのだという。一二四三年・フランス。巨大な石の十字架を傍らに置く城『瑠璃城』の城主ジョフロワ伯の娘マリィは、三年前に父母を奇妙な失踪事件によって失い、いままた彼女を守る六人の騎士が城から消え、わずかな時間で遠方にある『十字架の泉』で首なし死体として発見されるという事件によって、親しい騎士レインを失う。一九一六年・ドイツ×フランス戦線。軍の少尉である「ぼく」は人の出入りのない場所で四体の死体が消失する事件に遭遇する・・。

 この作家はどんな風にしてこんな途方もない「物語」を思いついたのだろうか? あまりの途方もなさに読後しばらく呆然としてしまう。一言でいえば、「「生まれ変わり」をテーマにしたSFミステリ」。目まぐるしく読者をキリキリ舞いさせてしまうような破天荒な怪作で、『『クロック城』殺人事件』『アルファベット荘事件』よりも許容できるミステリ読者は少ないと思う。「アンフェア」、「トンデモ」、そう批判する読者もいるだろう。しかしながら、これほど時が経つのを忘れさせてくれるミステリも他にない。図版つきで明かされるバカバカしさと紙一重のトリック、先が全く読めず激しく転調を繰り返すストーリー、読者を唖然とさせる探偵、ようは、正体が見えない不透明さ・・この鵺的な不透明な感じは麻耶雄嵩を連想させる。心情的な理解を拒否しているがゆえの「お化け屋敷」的な驚き。この作家はミステリ作家としてとてもストイックだと思う。

 謎以上に艶かしいトリックの魅力はこの作品でも発揮されている。まさに奇想。ミステリ的なアイディアは盛り沢山で、フランス編でジャブのように繰り出される「透明人間の足跡の謎」のトリックからして既に魅力的である。SFミステリが嫌いな読者もトリック目当てで読むべき作品だと思う。「散らかすのが好き/推理はしない/引っ掻き回すだけ」という探偵の造型もユニークだし・・ああ、もう、なんやねんな、この作家は!

 以上、UNDERGROUND7/21付の記事からの引用。先日読んだときにはふつうの読書感想文だった(と思うが、柄刀一にはあまり興味がないので適当に読み流していたから、はっきりと思い出すことができない)のに、ちょっとした弾みでまるで筒井康隆の某短編小説のような文章になっている。偶然が産んだ奇蹟! 樋口氏には申し訳ないが、この文章を多くの人に読んでもらいたいという誘惑には勝てなかった。「たそがれSpringPoint」の読者の多くはUNDERGROUNDを毎日チェックしていることと思うが、毎日見ている人のほうがかえって見落としてしまっているだろうと思われたので。むろん、樋口氏からの要求があれば、この引用文は即座に削除する。

 さて、今日『「瑠璃城」殺人事件』(北山猛邦/講談社ノベルス)を読み終えた。上の文章は感想文を書く前に、樋口氏がどのようにこの小説を評していたのか、もう一度読み返してみようと思ったときに発見したものである。欠落しているのはたぶん最初のごく一部分だけ(『瑠璃城』を読んでいないとわかりづらいかもしれないが、それに言及した文章は「K」以降である)なので、樋口氏の感想はほとんど損なわれていないと思う。大絶賛と言ってよいだろう。
 実を言えば、私は途中までは樋口氏と全く正反対の印象を抱きながらこの本を読んでいた。一言でいえば、「凡庸で退屈」、いや、これでは「一言」ではなく「二言」だが、まあ寛容な読者諸氏はそのような細かい事に目くじらを立てたりはしないだろうと思うので先を続ける。
 凡庸だと感じたのは、島田荘司からいわゆる「新本格推理」の諸作と同工異曲だと思ったからである。いや、他の作家を引き合いに出すまでもなく、同じ著者の二長編と比べても、謎の性質やトリックのメカニズムが似通っているように思われる。一言でいえば「図版による視覚的効果のみが鮮やかで、ちょっと考えると強引さが目立つ物理トリックに基づく不可能状況」という共通点がある。いや、これでは「一言」ではなく(以下略)。トリックの小道具として死体そのものを使ったり、そのために首を切断したりするのを何度も見てしまうと、ちょっと唸ってしまう。もちろん一作ごとに手を変えてはいるのだが、「またか」と思ってしまうのだ。特に私はつい先日『アルファベット荘』を読み終えたばかりなので、やや食傷気味だった。
 たとえば、瑠璃城から消えた6人の騎士が当時の交通手段ではとても到達できない時間のうちに遠く離れた湖で発見される、という謎を例に挙げてみよう。もし私が初めて読んだ北山氏の小説が『瑠璃城』だったのなら、この設定に興味を惹かれたかもしれない。だが、『クロック城』と『アルファベット荘』を読み終えたあとでは、もはやこの謎は色褪せてみえる。あからさまに胡散臭い図版にうんざりしながら「どうやったのかはわからないが、ともかくどうにかして死体を移動させたのだろう」と思いつつページを繰っていくと、「どうにかして死体を移動させた」のだと判明する。トリックが明かされても全く驚きがない。
 読んでいて退屈だったのには、もう一つ理由がある。それは――これも他の作品に共通することなのだが――文章が平板でメリハリが利いていないことだ。樋口氏の感想文でも文章についてはほとんど言及がない(『アルファベット荘事件』の感想文のほうで「文章にも特に不備はない」という微妙なコメントがある)が、さすがの樋口氏も文章を誉める気にはならなかったのだろう。「可もなく不可もなし」といったところか。
 文章の不備とまではいえないが、いくつか文句を言いたいことがある。たとえば36ページのレインの台詞で「死体」という言葉を連発しているのは気にかかる。この作者は「遺体」という言葉を知らないのか? またフランス軍に従軍している兵士の一人の名前が「ヘイル」というのはどうだろう? もう少し「それらしい名前」はなかったものか。
 いや、細かい事を言っても始まらない。13世紀フランスの人々が現代の日本人と同じような口調で会話をするというだけで、雰囲気作りに失敗していると言わざるをえない。
 謎に魅力がなく、トリックはありきたりで、文章に味わいがなく、時代感に乏しい、とないないづくしで全く誉めるところがない、と思っていたのだが……204ページ下段まで読み進めたときに、思わず「あっ」と声を挙げてしまった。びっくり仰天、というのではなく、ちょっと驚いたという程度だが。そして最後まで読み終えて、ちょっと考え込んだ。読んでいる最中に私が考えたことは今でも間違っているとは思っていない。さらに、タイムパラドックスに対する無神経さという減点要素が一つ加わったほどだ。しかし……全くの駄作とも言い切れないような気がする。どこがどう面白いのかは言えないけれど。この小説の長所を具体的に述べるのは(ネタばらしのタブーを考えないことにしても)難しい。まあ、概してミステリは貶すのは簡単だが、誉めるのは難しいもので、『瑠璃城』だけに特別な事情があるわけではないとは思うのだが。もし何が何でも誉めなければならないということになったなら、私も樋口氏と同じような事を書くことになるのではないか。う〜む。
 だんだんわけがわからなくなってきた。今日は時間もないことだし、このくらいにしておこう。次は、長い間積ん読状態になっている『クビシメロマンチスト』(西尾維新/講談社ノベルス)でも読んでみることにしたい。

1.10324(2002/07/27) オフ会の前に

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020727a

 形だけ更新をしておく。たぶん今日は日付が変わる前に家に帰り着けないだろうから。

 今日は『音楽の捧げもの』(BWV1079)などが収録されたCDを聴いた。
 私が生まれて初めて買ったレコード(CDではなくてLPだった)が『音楽の捧げもの』だった。ミュンヒンガー指揮で演奏団体は……ええと、忘れてしまった。現代楽器のオーケストラだったはず。その後、古楽器の室内アンサンブルによる演奏も数種類聴いている。
 知っている人にとっては今さらなことだが、この曲集はバッハがフリードリヒ大王から与えられた主題(「王の主題」と呼ばれる)をもとにありとあらゆる対位法技法を用いて作曲したもので、バッハの音楽の一つの到達地点ともいえる。ループのたびにどんどん転調してゆく「螺旋カノン」や、前から演奏しても後ろから演奏しても同じになる「蟹のカノン」など様々なカノンのほか、「リチェルカーレ」と題された2つの長大なフーガ(うち「三声のリチェルカーレ」のほうはフリードリヒ大王の前で即興演奏した曲だと言われている。バッハはこのとき生まれて初めてピアノを弾いた。そこで、この曲はバッハ唯一のピアノ曲だと言われることもある)、バロックから前古典派へと一歩足を踏み出したかのような印象を受けるトリオソナタなどのすべてに「王の主題」が用いられている。
 同じCDにはBWV1072〜1078のカノンと、『ゴールドベルク変奏曲』の低音主題による14のカノン(BWV1087)が収録されている。ふつうに聴いて音楽的魅力が感じられるわけではないが、「音符で書かれた詰将棋」とでも形容したくなるような精緻なパズル的作品ばかりである。

 今日は朝から西瓜取りをして疲れた。ちょっと昼寝をしたい気分だ。でも、寝過ごしてオフ会に遅刻してはいけないので、そろそろ家を出ることにする。

 最後に。
 昨日の文章の見出し「曖昧な感想」というのは、UNDERGROUNDから引用した感想文(現在は削除されている。たぶんそのうち復元されることだろう)のことを指したものではなくて、私自身の『「瑠璃城」殺人事件』の感想のことである。理屈立てて説明すれば樋口氏と正反対の立場に立たざるを得ないのだが、実際の読後感はそれほど悪くはなかったわけで、それをうまく説明できなかったので「曖昧な感想」という見出しをつけたのである。樋口氏の感想文には同意できないが、明晰さに欠ける文章とは思わない。
 ついでに書いておくと、『奇蹟審問官アーサー』についての樋口氏のコメントには(当該作品を読んでいないにもかかわらず)大いに納得できるものがあった。『アリア系銀河鉄道』(講談社ノベルス)を読んだときに私が感じた「不思議な魅力のなさ」にも通じるものがあると思ったからである。
 柄刀氏の小説はほかに短編をいくつか読んだだけなのであまり偉そうなことはいえないが、北山氏の作品と比べると完成度はずっと高い。いくつかのチェックポイントを設定して採点すれば、柄刀氏のほうに軍配があがるだろう。だが、この「不思議な魅力のなさ」のせいで(ついでにいえば北山氏の作品に時折現れる「不思議な魅力」のせいで)両氏に対する私の評価は逆転する。
 この辺りをもう少し突っ込んで考えてみたい気もするが、それだけのために『奇蹟審問官アーサー』を読むというのも今の私にはややしんどい。それ以前に積ん読本を片づけたいと思う。よって、しばらくの間(あるいは永久に)私の感想は曖昧なまま放置しておく。

1.10325(2002/07/28) ブチ切れ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020728a

 またもやネットへの接続に障害が出ている。繋いでは切れ、繋いでは切れ、の繰り返し。今日一日で電話代がどれだけかかったのだろう?
 そういうわけで、やる気が全くない。昨日のオフ会について何か書くのが筋というものだが、「色々あった。」(句読点込みで6字)と書いておくだけにする。詳細は他の参加者の方々のサイトを参照されたい(と言いつつ、今日はウェブの巡回がほとんどできなかったので、私自身まだちゃんと読んでいないのだが)。

 アリバイとして昨日買ったもののリストを掲げておく。

  1. 『SIBELIUS:7Symphonies』(Berliner Sinfonie-Orchester・KURT SANDERLING/BERLIN Classics)
  2. 『言語哲学を学ぶ人のために』(野本和幸・山田友幸[編]/世界思想社)
  3. 『まほらば』(3)(小島あきら/エニックス GANGAN WING COMICS)
  4. 『イーダッシュ』(森見明日/小学館 サンデーGXコミックス)
  5. 『結びの杜』(2)(森見明日/少年画報社 YKコミックス)

 1は4枚組で2880円+税と頃合いな値段だったので買った。これまでシベリウスは有名な『フィンランディア』(このCDにもおまけで入っている)くらいしか聴いたことがないが、政宗九氏のシベリウスレビュー協賛(?)ということで。
 しかし、ふだん聴き慣れていないジャンルの音楽を聴くのはなかなか新鮮な気分になっていいものだ。「バッハもシベリウスもクラシックだろう」というツッコミが入りそうだが、バッハはバロック音楽でありクラシック音楽には入らないと私は考えている。シベリウスも厳密にいえばクラシックではないのだが、ハイドンやモーツァルトの頃から続く「交響曲の時代」の終わり頃の作曲家なので、広義の「クラシック」に入れておくことにする。このジャンル分けを人に押しつける気はないが、音楽の教科書に載っているような音楽を十把一絡げに「クラシック」と呼ぶことのおかしさに多少とも疑問を抱いていただけるとありがたい。
 ああ、なんだか「本格」のときと同じことを言ってるなぁ。

 2は世界思想社の「学ぶ人のために」シリーズの一冊。奥付を見ると「2002年8月20日 第1刷発行」と書いてあるから、出たばかりの本だろう。本に挟み込まれた目録を見ると、『哲学を学ぶ人のために』(藤沢令夫[編])(品切)とか『現代哲学を学ぶ人のために』(丸山高司[編])というタイトルの本が既に出ている。この調子でいけば、そのうち『可能世界意味論を学ぶ人のために』や『翻訳の不可能性を学ぶ人のために』という本が出るかもしれない。
 まだ全然読んでいないので内容については何とも言えないが、タイトルに掲げられた「言語哲学」が20世紀の分析的伝統に属する言語哲学のことであることは明らかだ。巻末の人名索引にソシュールの名前が挙がっていないことから推して知るべし。
 どうでもいいが、2人の編者を含む執筆者11人全員の最終学歴が「退学」というのがなかなか興味深い。

 3は、昨年のお家騒動ののち、「ガンガンWING」の一枚看板(ちゃんと調べたわけではないが、3ヶ月か4ヶ月ごとに表紙を飾っているように思う)となった感のあるマンガだ。
 連載が始まった当初は『ラブひな』もどきだと思ってあまり評価していなかったのだが、今ではコミックスが出るのが待ち遠しいマンガの一つになっている。
 出来るだけ雑誌では読まずに我慢しようと思っているのだが、つい誘惑に負けて読んでしまうこともあり、3巻収録分の半分くらいは既読だ。第13話「ハル」を読んだときには衝撃が大きかった。
 「そのうちアニメにならないかなぁ」と思う一方で、「この独特なセンスをうまく再現できるアニメーターが今の日本にいるだろうか?」と疑問に感じる。

 私はなぜだか知らないが森見明日の単行本をほとんど集めてしまっている(異版を除く。多少のおまけがついていても、既に持っているマンガを買い直す気にはならないので)。4と5はどちらも今月出た本だが、まさか同月に2冊も出るとは思っていなかったので、少し驚いた。
 5のあとがきを読むと、本来3冊で完結させる予定だったのが、掲載誌の休刊により2巻で未完のまま終了したらしい。どこかで連載再開してほしいものだ。

 アリバイのつもりが、えらく時間がかかってしまった。これではオフ会レポを省略した意味がない。もうちょっと時間の使い方を見直す必要がある。反省。
 さて、この文章はちゃんとアップできるだろうか?

1.10326(2002/07/29) さらにブチ切れ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020729a

 やあやあ、私以外の5(順不同)がオフ会のレポートを書いてるぞ。ああ、困ったな。私一人が義理を欠いている。
 でも、私は書かない、面倒だから。そう決めたんだ。
 3月の「MISCON3」のときには、レポートを書かないどころか、参加したことすら一切言及しなかった(あとでちょっとだけ気が引けて補足している。私はわりと気が弱い)くらいなので、それに比べるとちょっとは偏屈さの度合いが減った。誉めてほしいくらいだ。実際、あの頃に比べると私はかなり社交的になったと思う。だが、そろそろそんなフリをやめて、おとなしく引きこもっていたほうが身のためだと思わないでもない。
 そういうわけで、しばらく他サイトへの言及を自粛することにする。いや、それだと縛りがきつすぎるかもしれない。じゃあ、こうしよう。他サイトに一切リンクをはらない。で、「しばらく」の期間だが、まあ1週間程度が適当だろう。来週の月曜日までということにしておく。まあ、飽きたら明日にでも他サイトへのリンクを再開するかもしれないが。
 この「他サイトへのリンク断ち」を開始する前に、一つだけリンクしておく。今まで「たそがれSpringPoint」では一切リンクしたことがないサイトである。で、なんで今日リンクをはるかといえば、別に何の理由もないのである。

 今日、『クビシメロマンチスト』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んだ。いちおう『クビキリサイクル』に続くシリーズ2作目ということになるのだが、麻耶雄嵩でいえば『夏と冬の奏鳴曲』と『痾』くらいには違っている。
 何か気の利いた感想を書こうと思ったが、「ごく普通の面白い小説だった」という月並みな言葉しか出てこない。それ以上のことは、もう誰かが語っていることと同じになってしまうから書けないのだ。本来なら、他のサイトの感想文をある程度チェックして、まだ誰もあまり言っていなさそうな事をひねり出すべきなのだが、今日の見出しにもかげたとおり、依然ネットへの接続が満足にできない状況なので、それも叶わない。
 最後に、語り手の「ぼく」と殺人鬼の会話から、ちょっと気にとまった一節(128ページ〜129ページ)を引用しておく。むろん、作品全体の感想とは何の関係もないのだが。

「そう。目的と手段の逆転、あるいは同一化だ。行為自体が目的。目的こそが行為。目的を果たしたときこそが行為を終えるとき。これは実際悪くない仮説なんだ」
「だけどそれって《目的を見失ってる》ってことと何が違うんだ? 読書が好きな奴がいたとしてさ、そいつの部屋に行ったら部屋中が本に埋もれてたとしよう。それでもそいつは本を更に買い込む。買い込むのは本人の勝手かもしれない。だけど、もう部屋には本が、そいつが一生かかっても読み切れない量にまで膨れ上がってるんだ。それでも買い続ける」

 昨日と今日でバッハのヴァイオリンソナタ(無伴奏のではなく、クラヴィーア伴奏つきのもの)6曲を聴いた。私はあまりバッハのヴァイオリンソナタは好きではない。なぜだかうまく言えないけれど。

1.10327(2002/07/30) ますますブチ切れ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020730a

 今日の一枚は「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」だ。この曲集に収録されている音楽の大部分(聴けば誰もが知っている「メヌエット ト長調」BWV Anh.114を含む)はバッハが作曲したものではない。中にはクープラン作曲のものまで紛れ込んでいるのだが、偽作であっても親しみやすく楽しい曲が多いので、バッハの真作とあわせてCDに収録していることが多い。私は「ポロネーズ ト短調」BWV Anh.119や「ミュゼット ニ長調」BWV Anh.126が好きで、特に「ミュゼット」は昔ピアノで弾こうと思って練習したことがある。私はピアノを習ったことがなく、基本的な運指もおぼつかないくらいだったので、とても他人様には聴かせられない程度にしか弾けなかったが。

 昨日、しばらく他サイトへのリンクを自粛する、と宣言したばかりなのに、今日リンクをはりたいサイトが出てきた。困ったものだ。前言を撤回しようかどうしようか迷ったが、結局今回はリンクを見送ることにした。キーワードは「カルナップ」、今日付の記事で、およそ考えられるかぎり最も投げやりな言及の仕方をしているのがなかなか笑えた。暇な人はどこのサイトのことなのか、探してみてもらいたい。当たっても何も出ないけど。

 他人のサイトへの言及を控えると、とたんにネタがなくなる。私はあまり他サイトに依存していないつもりだったのだが、話のマクラとかちょっとした脱線でよく言及していたので、手持ちのネタだけで話をまとめるのは案外難しいことに改めて気づいた。そんなわけで、あまり芸はないかもしれないが、今日買った本のことでも書いてお茶を濁すことにしよう。

  1. 『アフター0 著者再編集版』(1)(2)(岡崎二郎/小学館 ビッグコミックス)
  2. 『藍より青し』(9)(文月晃/白泉社 JETS COMICS)
 1はSFマンガ短編集の傑作、以前6巻本で出ていたものに単行本未収録作を追加した8巻本として再刊されることになった。前にも触れたことがあったと思うが、私は初刊本を全部持っている。だが、今度は完全版だから、当然全巻買うつもりだ。
 今回はジャンル別に編集したということで、第1集はSF、第2集にはミステリ色の強い作品(とはいうもののSF的な発想によるものが多い)が収録されている。どれもこれも佳作なのだが、私の好みでいえば第2集冒頭の『三月(やよい)の殺人』がおすすめだ。実際、私は「まあ、騙されたと思って、この一編だけ読んでみて」と言って知人に本を貸して"布教"したことが何回かある。今の新刊書店ではマンガ単行本をビニールカバーで覆って立ち読みできないようにしているところが多いから試しに一編だけ読んでみるというわけにはいかないだろうが、騙されたと思って第2集だけでもいいから買ってみてほしい(もちろん「第2集から、などという中途半端な買い方はできない」という人は2冊合わせて買っても全く問題はない)。
 2はテレビアニメ放映中の人気マンガの最新刊。だが、私はまだ第8巻を読んでいない。昨日の文章の最後で引用した『クビシメロマンチスト』の一節ではないが、私の部屋には本が「一生かかっても読み切れない量にまで膨れ上がってる」ような気がして、背筋が寒くなる。私は「好きで買ってるんだから、いいじゃん」と開き直って自己正当化できるほど図太くない。だが、新たに本を買うのを自制できるほど賢くもない。何とかならないものか。

 『クビシメロマンチスト』に言及したついでに、昨日書き忘れたことを書いておく。それは、犯行現場に遺された「X/Y」の意味が最後までわからなかったということだ。紙に書いて説明通りの操作を行ってみたのだが、意味のある記号には見えなかった。誰か教えてください。お願い。

 積ん読本の山の中から今年の春に出た「カッパ・ワン」(光文社 カッパ・ノベルス)第1弾の4冊を引っぱり出してきた。出てすぐに4冊まとめて買ったのに今まで手つかずになっていたものだが、ここいらで一気に読んでしまおうと思ったわけだ。別にどれから読んでもいいのだが、いちばん気になる『双月城の惨劇』(加賀美雅之)から取りかかることにした。が、この本は4冊のなかでいちばん分厚い。私の読書ペースではとても一日で読み終えることはできない。というか、まだ135ページまでしか読んでいないので、この調子だとたぶん明日も読み終えることはできないだろう。
 「カッパ・ワン」の4冊が終わったら、次は講談社ノベルスの未読本をやっつけるつもりなのだが……こうやっているうちにもまた新刊が出て、そのうちの何冊かは買ってしまい、買った本はそのまま"山"の一部となり……そして私は途方に暮れることになるのだろうな。もう、うんざりだ。何が悲しゅうて、国産ミステリの新刊本ばかり読んでいないといけないのだ!
 だが、誰も私にそうせよと強制したものはいない。すべては私の身から出た錆。開き直ることもできず、因果を断ち切ることもできず、ばたばたともがき、ばかばかと(「馬鹿馬鹿」と?)本を買い続けることになるのだろう。
 読まない本を買っては積み続ける人のことを某サイト(他サイトへのリンク自粛中につき、ここを参照されたし)でいみじくも"積み人"と呼んでいる。明日は、この"積み人"の病理に迫る……ことにしたいが、適度にネガティブな方面にテンションが高まらないとなかなか書けない話題なので延期するかもしれない。期待せずに待たれよ!

1.10328(2002/07/31) 反省せよ、汝の名は積み人なり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0207c.html#p020731a

 "積み人"とは、「なんとなく面白そうな本だから」「そのうち暇になったら読んでみようと思って」「ずっと買い続けているお気に入りのシリーズなので」などの理由により、小説やマンガなど主として趣味・娯楽に関する書籍類を大量に買い込み、かつ、「時間がない、忙しい」「私にはほかにやることがある」「読書意欲が減退した」「今別の本を読んでいる。これが終わったら、必ず……」などと言い訳をしつつ未読のまま部屋のま片隅に積み上げ、それでもなお懲りずに新たに本を買い込み、一生かかっても読み切れないほどの本を溜め込んでしまう人のことである。
 以前、私は早売りで入手した本を読まずに積んでいく人への遺憾の意を表明した(「遺憾」というのは便利だが曖昧な言葉だ。ここでは、嫉妬と羨望、それに歯がゆさの感情が入り混じった非難だと思ってもらっていい)のだが、よくよく考えてみると、本を早売りで買うかどうかは大した問題ではない。自分の読書ペースをわきまえずにどんどん本を買い込んでいくということが問題なのであり、その意味では私自身も重い"積み"を背負っているのだ。そこで、自分の行為を振り返りながら、"積み人"の病理について考えてみたいと思う。
 なお、話の焦点をぼかさないために、ここでは古書マニアなど本を収集することを目的とする人は除外して考えることにする。そのような人は本を読むために買っているのではないからである。新刊書にせよ古本にせよ、一応は読もうと思って本を買っているはずなのに、その目的を果たせずにどんどん本を積むことになってしまった人のみを"積み人"と呼ぶ。"積み人"とは、書痴になって修羅の道を突き進むことすらできない、凡庸で中途半端な本好きのことである。
 このような"積み人"の特徴づけが命名者(現在、他サイトへのリンク自粛中のため、リンクを張らずにURIをじかに表示することでかえる。 http://maijar.org/ なんだか、自分で自分のやっていることが意味不明に思えてきた)の意に添うかどうかはわからないが、この場だけの話なのでご容赦願いたい。
 さて、上で私は「"積み人"の病理」という言い方をした。ここにネガティブな含みがあることは誰でも理解できると思う。もともと"積み人"自体が、"罪人"の語呂合わせなので、ポジティブな意味のわけがないのだが、なぜ"積み人"がいけないのか、と改めて問うてみると、なかなか答えは出てこない。
 素朴に考えれば、次のように言える。"積み人"は悪人ではないかもしれないが、あまり誉められた人々ではない。彼らの行為は推奨すべきものではなく、できれば避けたいものだ。もし自分が"積み人"ならば(実際私はそうなのだが)自らの行為を恥じて反省しなければならないし、他人の"積み"を知ったら、悔い改めるように促すべきだ。穏やかに諭すべきか、激しい語調で弾劾すべきかは意見がわかれるところだが。
 だが、このような素朴な見解は何によって正当化されるのか? 本を積んでいくことによって他人に迷惑をかけたり、自らを滅ぼすようなことにでもなれば、実害があるのだから非難してしかるべきだろう。けれど、そこまで重度の"積み人"を私はまだ知らない(古書マニアには悲惨な末路を辿った人もいると聞くが、先に断ったとおりここでは古書マニアは除外して考える)。「好きで買ってるんだから、いいじゃん。私の勝手でしょ」という開き直りを見聞きして苛立ちを感じるのはなぜか? そもそも、それは開き直りなのか?
 いくつか思いつくままに挙げてみよう。

 どうも、批判する側の分が悪い。「食べ物を粗末にするな! 今日もアフリカでは子供たちが飢えているんだぞ」と説教をしているような感じ。いや、この説教はまだ多少の合理性がある。無駄な残飯を減らせばその分の食糧が飢餓で苦しむ人々に回るかもしれないからだ(実際には、そう簡単にはいかないが)。だが、"積み人"は未読本を残飯と同じように腐らせてしまうわけではないし、もし"積み人"が本を買わなくなったとしても、その分の本の売り上げが減って出版不況を助長するだけだ。まあ、南米や盗難アジアの森林資源保護の助けにはなるかもしれないが。
 結局、私は"積み人"に反省を促すための有力な論拠を持ち合わせていないことに気づく。すると私自身も今までどおり本を買い続けていいのだ。
 ……なのに、焦燥感が一向に鎮まらないのはなぜだろう?
 今日も本が読めなかった、本は依然積まれたままだ。そして明日も本が出る。飴の中から金太郎が出るように次から次へと出版される。本を読め、きれいさっぱり片づけてしまえ、と私を急き立てるものはなんなのだろう?

 つい先日『クビシメロマンチスト』を読んだばかりだというのに、来月には『クビツリハイスクール』が出る。また発売と同時に買って数ヶ月寝かせることになるのか。それとも読書マシーンになったつもりで義務的に読むことになるのか。
 まあ、西尾維新はいいとしよう。『五月はピンクと水色の恋のアリバイ崩し』をどうするか、だ。

 西尾維新といえば、昨日書いた「X/Y」の謎について早速教えていただいた。有難うございます。が、どこの誰かは書かない。「たそがれSpringPoint」と併読している人は多いはずなので。
 しかし、他人のサイトにリンクを張らないという縛りのせいでいよいよ苦しくなってきた。こんな調子で来週までもつのだろうか?

 今日のバッハは、「ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ」2曲(BWV1023,1021)と「トリオ・ソナタ」2曲(BWV1039,1038)で、まあ特に何も言うことはない。明日からは、また宗教曲だ。