【日々の憂鬱】書きたいことを書きたいだけ書きたいように書いた駄文を「小説」と称するのはいかがなものか。【2004年5月中旬】


1.11061(2004/05/11) 雑記

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040511a

先日予告した「雷撃大賞(仮名) 審査員奨励賞」を獲る方法 第一回の転載について、ようやく筆者の承諾を得た。早速、転載作業を開始したのだが、その最中にふと「このライトノベルがすごい!コラムのページのレイアウトをパクったら面白いかも」などと、どうでもいい事を思いついてしまった。早速、当該ページのソースを見ていろいろ調べてみたのだが、二重のフレーム構造がややこしくて断念した。

で、おとなしくベタHTMLにすることにしたのだが、いくつか註釈をつけようと欲張っているうちにどんどん時間が経ってしまった。どうも今晩中には完成できなさそうだ。

明日には公開できると思うので、もうしばらく待ってほしい。

……いったい私は誰に向かって言っているのだろうか?


新青春チャンネル78〜『盤上の敵』の感想文で、私が一昨年に書いた感想文を引用した上で、滅・こぉるさんの言う〈ネタばらし以上にまずいこと〉とは、おそらく〈あの5文字〉を指しているのだと思う。と書かれていた。しかし、私には〈あの5文字〉というのが何のことだかわからなかった。というか、当時私が何に憤慨したのかさえ覚えていなかった。

で、部屋の中を引っかき回したところ、運良く本が見つかったので件の紹介文を読んでみて思い出した。たぶん、すぐにまた忘れると思うので、今度ははっきりと書いておこう。文頭から数えて21文字めから25文字めまでの5文字に私は怒ったのだった。

もう一度石野休日氏の感想文を読み返すと、どうも私とは別の5文字を想定しているようだ。

ところで、『盤上の敵』のエロさと暗黒小説としての不徹底さに関する指摘には、なるほどと思ったものの

暗黒小説の面白さとは、正なるものが徹底的に蹂躙されてしまうところに、そして結末に至っても正なるものが救われないところにある。僕らはそこに、得も言えぬ快感を覚えるのだ。

ところがこの小説においてはそうではない。正なるものは救われてしまうのだ。救われるどころか、勝ってしまうのだ。これでは暗黒小説としての面白さは半減である。

という箇所には反論したい気もする。暗黒小説にとって大切なのは過程であって、結果ではない。最後に正義が勝ってもいいではないか、途中経過がぐちょぐちょのねちょねちょであれば。

たとえば、『盤上の敵』の殺人犯(名前は忘れた)が主人公の家に押し入って、相手の女性が抵抗できないのをいいことに凌辱の限りを尽くす場面を延々と執拗に描写したらどうか。もちろんある程度の節度は必要だから、肝心のところはうまくぼかす必要があるし、そのエロシーンにおいてヒロインの友貴子の心理描写を行うこともできないが、むしろそのほうが読者の想像を掻き立てることになるだろう。


昨日、ミステリ系書評サイトのe-NOVELS提携モニター企画に言及したところだが、そこでも書いたように私はe-NOVELSで小説を買って読む気は全然なかった。ところが、今日仕事の帰りに何となくふだんは通らない道を歩いていてファミリーマートを見つけ、何となく中に入るとウェブマネーを売っていたので、何となく1000円分買ってみた。家に帰ると、たまたまネットへの接続状態がよかったので、e-NOVELS無料作品ページからいくつかダウンロードしてみて、これなら1.6MB程度なら転送途中に接続が途切れることはないだろうという感触を得たので、『ジェフ・マールの追想 −アンリ・バンコランの事件簿−』(加賀美雅之)を買うことにした。つまらなかったら、政宗九氏を小一時間問いつめる気でいたのだが……。

読んだら、意外と面白かった。

政宗氏の書評ではもしこれを現代を舞台にして書くと「バカミス」と言われかねないようなタイプのものだとコメントされているが、部分的に派手な演出はあるものの、トリックの原理そのものはわりと堅実で、現代でも舞台の選び方によっては通用するのではないかと私は思う。

だが、金を出して買った小説を誉めるのはちょっと癪なので、少しケチをつけておこう。作者の言葉によれば、『夜歩く』を読んでいない人が『ジェフ・マールの追想』を読んでも問題ないそうだが、この作品の後に『夜歩く』を読むと問題があるのではないかと思う。やはり『夜歩く』未読者には読まないほうがいい。もう一つ『夜歩く』との関係でいえば、四年後というのは時間が空きすぎていて、ある人物の行動が不自然なものになっている。四年後に設定した事情はわかるのだが……。

あと、途中に挿入された「読者への挑戦状」にやや問題のある記述があった。具体的にいえば、五項目の出題のうちの第三項目がアンフェアだと私は考える。本文中でせっかく『本陣殺人事件』ばりの描写を行っているのだから、もう少し工夫できなかったものか。

他にもいろいろ言いたいことはあるが、長時間ディスプレイを見つめて目が疲れたので、ここまでにしておく。

1.11062(2004/05/12) 閑話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040512a

いろいろ訳あって今日も「雷撃大賞(仮名) 審査員奨励賞」を獲る方法 第一回の転載ができないので、かわりにどうでもいいことを書いてお茶を濁す。


最近よく思うのだが、本読みというのは貪欲で傲慢な人種ではないだろうか? いつも面白い本を探していて、「こんなのつまらない、もっと面白い本が読みたい」と呟き続けているのだから。

そんな貪欲で傲慢な読者に期待されている小説家(またはマンガ家、エッセイスト、コラムニスト……などなど)の人々は気疲れして大変だろうと思う。水準作を書いて当たり前、ちょっと調子がでなくて出来が悪い作品を発表してしまったら、どんなに罵倒されるかわかったものではない。逆に傑作を書いてしまうとさらに大変だ。読者の要求水準がぐっと上がってしまい、次の作品はもっと面白いもの、もっと素晴らしいものでないといけない。

読者と作者の関係はこのように緊張している。時には殺伐としたものにもなるだろう。すべては貪欲で傲慢な読者のせいだ。

そんな殺伐とした関係は嫌だ、と思う人もいるだろう。私はもっと作家の人々と和気藹々とした関係を築きたいのだ、と。それはもっともな考えだ。ファンレターを書いて、自分がその作家の本を読んでいかに感動したのかを綴るもよし、心ならずも意に添わぬ作品を世に送り出してしまった作家に温かい言葉を贈り励ますのもまたよし。

けれど、本読みというのはどうあがいても面白い本を求めずにはいられない存在だ。それを忘れてはいけないと思う。言い方は悪いが、読者にとって作者とは面白い本を生産する道具に過ぎない。作家の人格など二の次、三の次だ。カントには申し訳ないが、作者を単なる手段としてのみでなく同時に目的として尊重する……なんてことはできっこない。むろん、ウェブサイト管理人だろうが「ネット書評家」だろうが、本読みである以上は同じことだ。

表面だけ取り繕っても仕方がない。緊張を孕んだ現実を受け入れよう。それが本読みの宿命なのだから。


メモ:政宗九氏による「eRotica」懇親会レポート

1.11063(2004/05/12) 日付が一日ずれていたらしい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040512b

昨日一昨日の記事は、それぞれ表示された日付の前日に書いて公開したものだ。なんだか一日得したような気分だ。

今日は暑くて早くも夏バテ気味なので、調整日(?)ということにして、これでおしまいにする。

1.11064(2004/05/13) 『天城一の密室犯罪学教程』が家に届いた日

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高校時代に私は新聞部に在籍していて、学校新聞にくだらない記事やどうでもいい記事を書きとばした。どんな記事を書いたのか今ではほとんど忘れてしまっているが、「天城一の著作について情報を知っている人は新聞部まで来てください」と書いたことだけは覚えている。もし読者諸氏の手許に兵庫県立猪名川高等学校新聞部が発行した学校新聞のバックナンバーがあれば、1981年初夏号の最終ページ右下隅を見ていただきたい。そこに「天城一」の三文字を見出すことができるかもしれない()。

さて、『天城一の密室犯罪学教程』についてはこれまでに何度か言及したことがあるので、今日はもうこれ以上書かない。


書くことがなくなってしまった。


何も書かないと間が持たないからのさでも書こう。

のさのさのさのさのさのさのさのさ

これで8回連続でのさを書いた。次は12回連続のさに挑戦する。

のさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさ

よし、成功だ! やればできるじゃないか。次は一挙に47回連続のさだ。

のさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさ

あ、勢い余って48回書いてしまった。だが構うものか。これくらいでくじけてはいけない。

さて、ウォーミングアップがすんでから、次は応用篇だ。さのを書く。

さの

のさに慣れたからといって油断してはいけないので、連続さのに踏み切らず1回で止めた。我ながら賢明な判断だと思う。

次にのさとさのを連結しよう。

のささの

ここにむを加える。

のささのむ

調子が出てきた。ここでリズムに乗って繰り返す。途中で多少のアドリブがあっても許されるが、あまり羽目を外さないほうがいい。

のさのさのさのさのささののささののさのさのさのさのささのむのさむのさむのささのむむむのさむのさむのささのむむのさ

玄妙な味わいだ。しかし俗人にはこののさのよさはなかなかわからないことだろう。やむを得ない。

最後に、もう一度連続のさで締めくくる。

のさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさのさ

これでのさはおしまい。ご静聴ありがとうございました。

ただし、そのような記述が見出されない公算のほうが大きいと思われる。なぜなら、当時の高校生で天城一の名前を知っている人はほとんどいなかっただろうから。また、猪名川高校に1981年頃に新聞部があったかどうか、あったとして学校新聞初夏号が発行されているかどうかは、私の知るところではない。

1.11065(2004/05/14) シリーズ第2弾!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040514a

別にたいした意味があるわけではないが、このラノラノすごでそれぞれ検索してみた。


富士見ミステリー文庫5月の新刊4冊はみなタイトルに「2」がついている(ただし『GOSICK II―ゴシック・その罪は名もなき―』のみローマ数字)。ではそれぞれのシリーズ前作はいつ出たのだろうか? ちょっと気になって調べてみた。

「それで?」

「いや、別に……」


天城一のデビュー作『不思議の国の犯罪』を十数年ぶりに読んだ。メイントリックは今ではありふれたものになっている(偶然だが、私はつい最近同じ原理を用いた200枚の中篇を読んだ)が、わずか20枚の中に偽の解決まで盛り込んでいるのはすごい。

少し長くなるが、名探偵摩耶正の台詞を引用しておこう。

「いいかい島崎。すべての犯罪は人間が実行するという意味で一種の技術なのさ。つまり自動車とか机とかそんなものと同じ様に一種の生産品なのさ。其の指導原理は工業の時と同じで合理主義さ。昔の犯罪は不必要な傷を死体につけて悦に入っていたけれど、現代の犯罪では馬鹿気た無用の附加物をつけて置く程呑気じゃないのさ。自動車でも机でも何でもよく見て見給え、現代の特徴は無用の装飾が次第に消えているからね。勿論今でも随分余計な装飾がついているよ。併し大抵は何かの実用性を兼ねているのさ。例えばラジエーターの上の飾りは蓋を兼ねているし、机の前の装飾は引出しのつまみを兼ねているからね。犯罪だって同じさ。一見下らない偶然な景品に見えるものが犯罪の構成上絶対必要な因子になっているんだよ。それを見逃して、自分に都合の悪い要素は偶然だと片づけていたんでは、犯罪科学なんかいつ迄経ってもお伽話から一歩も出ないよ」

タイトルの由来でもある「不思議な国」(発表当時のタイトルは『不思議な国の犯罪』で、現行の版でも本文中では「不思議な国」のままになっている)を巡る逆説は私にはさほど説得力のあるものとは感じられなかった。それで私はあまりこの作品を評価しなかったのだが、読み返してみると今引用した箇所だけでも十分評価に値すると思い直した。

1.11066(2004/05/16) 理解について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040516a

久美沙織『創世記』 第12回「残酷なフォワードのテーゼ」このライトノベルがすごい!)で論理学を引き合いに出しているのだが、そこで提示されている対偶の例が間違っているように私には思われた。指摘しようかどうしようか迷っているうちに、私より先に久美沙織『創世記』スレッドに次のように書いている人がいた。

69 名前:通りすがり 投稿日:2004/05/15(Sat) 09:52
ええと、瑣末なつっこみで恐縮ですが
「双方にインテリジェンスがあれば、必ず理解し合える」
の対偶は
「どちらかにインテリジェンスがない場合には、理解し合えない」
ではなくて
「理解し合えない場合、どちらかにインテリジェンスがない」
だと思います。

「双方にインテリジェンスがある」ことは「理解し合う」ための
必要条件ではなく、十分条件だと思いますので。

簡潔で要を得た指摘で、もし私が書いたとしたもこれ以上の説明はできなかっただろう(ここでいう「以上」にはこれ自身を含む。すなわち、私だったらこれに劣る説明しかできなかっただろうということだ)。先を越されたのは何となく悔しかったが、こんな事で功を争っても仕方がない。

そこで「フォワードのテーゼ」そのものに目を向けてみることにした。といっても、実ははっきりとテーゼの形で示されているわけではなく、久美氏の質問に対するフォワード博士の回答という形をとっている。フォワードが実際に英語で何と言ったのかは知るべくもないので、もとから日本語で会話がなされたものと仮定して、なるべく原文の表現をいかして再構成すると、次のようになる。

フォワードの第1テーゼ
チーラと地球人ほど、ぜんぜんまったく違う種類のいきものでも、双方がインテリジェンスを持っている限り、必ず理解しあえる。

これは、異なる種族同士の理解可能性についてのテーゼとも、それらの種族に属する個体同士の相互理解可能性についてのテーゼとも解釈できる。どちらの解釈をとるかは、インテリジェンス(知性)というものをどのように特徴づけるかということにも関わる難しい問題だが、今はあまりこの難問に深入りしないことにしよう。

次に「残酷なフォワードのテーゼ」の流れに即して、このテーゼを変形してみる。

フォワードの第2テーゼ
たかが同じ人間の、つまり互いに99パーセント以上同じDNAをもっている同士であれば、双方がインテリジェンスを持っている限り、必ず理解しあえる。

こちらは明確に個体同士の相互理解可能性についてのテーゼである。第1テーゼから第2テーゼが論理的に出てくるわけではないが、「類似しているもの同士は、類似していないもの同士よりも、より相互理解が容易である」という原則を認めるなら、第1テーゼから第2テーゼへの移行にはさほど飛躍はないと思われる。

さて、ここで問題となるのは、フォワードのテーゼの「対偶」(逆の裏)として提示された次のテーゼをどう評価するかだ。今度は原文をそのまま引用してみる。

フォワードの第3テーゼ
「インテリジェンスを持っていない」相手とは、たとえ、同じ人類でも、民族でも、同年代でも、同時代人でも、同性でも境遇が似てても同級生でも隣の住人でも、じつは「コンタクトはできてもコミュニケートできない」。

第3テーゼで言われていることは、第2テーゼのであって、対偶ではないのは既に見たとおりだ。よって、第2テーゼから自動的に出てくることではない。では全くの間違いかといえば、そういうわけでもないだろう。なぜなら……。

論理学でいう必要条件や十分条件の例を日常言語から見出すのは結構難しい。ある事柄と別の事柄の間に非常に密接な関係があるとしても、それら以外の条件が絡んでくることが多いため、単純に必要条件とか十分条件とか言ってすませるわけにはいかないのだ。たとえば、先に第1テーゼとしてまとめた言葉を文字通り読めば、非常に瑣末な反例が考えられる。チーラと地球人が全く出会わなければ、いくら双方が知性を備えていても相互理解の可能性などない。もちろん、日常言語で述べられたテーゼに対してそのようなツッコミを入れるのは不当である。相互理解のためには何らかの接触が必要であることは自明の理であって、そのような条件は言わずもがなのこととして最初から前提されているのだと考えなければならないのだ。

では、知性と理解可能性との関係は何か? 厳密に記述しようとすれば面倒なことになるだろうが、ルーズに言えば「しかるべき条件のもとで一方に他方が随伴するという関係」とでもなるだろうか。知性があるところにはだいたい理解可能性があり、理解可能性があるところには概ね知性がある、というような関係だ。先に掲げた第1、第2テーゼをこのように解釈すれば、第3テーゼをそこから引き出しても、さほど大きな誤りを犯したことにはならないだろう。

もう一つ別の論証も行っておこう。「Aである限り必ずB」という形の陳述を平たく言い換えれば「AならばB」となるが、これでは「限り」という強めの言葉が消し飛んでしまう。この「Aである限り」に「Aである場合に限り」というニュアンスが含まれているとすれば、「BならばA」ということになる。「BならばA」の対偶は「AでないならばBでない」であり、適切な言葉を補えば第3テーゼになる。まあ、そこまで読み込むのはやり過ぎだと思うが、それに近いニュアンスはあるのではないか。

たとえば「そこに一冊の久美沙織がある限り、私たちの人生に退屈の二字はない」(この例文はここを参照した)という陳述からは、久美沙織の本がなければ退屈凌ぎは絶対にできないとまでは言わないまでも非常に困難であるという含みを読み取ることは可能だ。同様に、双方がインテリジェンスを持っていなければ、相互理解は非常に困難であるということになるだろう。


「論理学と日常言語」というのは私の好きなテーマだが、前回調子に乗って記号を使ったのはやはりまずかったと反省して、今回はなるべく記号を使わないように努めた。だが、それでわかりやすい文章になったかどうかは自分ではよくわからない。

なお――まさかそんな誤読をする人はいないと信じたいが――この文章は、上に引用した「通りすがり」氏にケチをつけているわけではない。念のため申し添える。

1.11067(2004/05/16) 九月、敵船ぶつかり、競り勝つ分析哲学

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040516b

Nachklang /日々の残響5/15付「様相?」「そうよ」のコメント欄に『すっ、スマリヤンとことんやりますっす』という素晴らしい回文があった。前後の「すっ/っす」はなくても成立するが、これが付け加わっていることによって味わいが増しているように思う。


次に3つの例文を掲げる。

  1. 人類は月面に到達している。
  2. 人類は原子爆弾の製造法を知っている。
  3. 人類はπを小数点以下2000億桁まで知っている。

1が真であるためには、すべての人が月面に到達している必要はない。ただ、月面に到達している人が少なくとも1人は必要だ。「誰1人として月面に到達した人がいないのに人類が月面に到達している」ということはあり得ない。

では2が真であるためには、原子爆弾製造法のすべてを知っている人が少なくとも1人は必要だろうか? その必要はない。誰1人として原子爆弾製造法のすべてを知っていなくても、原子爆弾を製造するために必要な知識を複数の人が分有していて、共同作業により実際に原子爆弾を製造することができるなら、2は真といえるだろう。

3はどうか? 暗記術の達人でも2000億桁もの無意味な数字の羅列を覚えているはずはないので、少なくとも1人の人が円周率を2000億桁知っているというわけではない。また、密かに円周率を暗記している集団があってブックマンAは1桁目から1万桁目まで、ブックマンBは1万1桁目から2万桁目まで、ブックマンCは……という具合に分担して覚えているというわけでもない。それでも3は真であり得るし、現に真である


今日の見出しの中の「分析哲学」という言葉に馴染みのない人のために、解説ページにリンクしておく(追記)。これではわかりにくいと感じた人ははてなダイアリーのキーワードも併せて参照するといいかもしれない。

追記(2004/05/17)

あとから考えるとやっぱりちょっとまずいような気もするので抹消することにした。いちおうリンクは生かしておくが、リンク先の解説には要注意。マルクス主義の立場から書かれており、それをもって「イデオロギー的に偏向している」と評するのは、それ自体がイデオロギー的偏向に基づくものかもしれないので控えておくが、それを抜きにしても、いったいいつの時代の話だ!」と言いたくなるような記述が多い。また、予備知識なしに読むとポパーがアメリカの哲学者だと誤解しかねない。分析哲学の入門書に目を通してから読むほうが無難である(そこまでして読む価値があるかどうかは、また別の話)。

1.11068(2004/05/17) 元旦ビューティ工業株式会社

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040517a

公式サイトはこちら


ついでに今日読んだ『ヴぁんぷ!』(成田良悟/電撃文庫)の感想を書いておこう。

成田良悟といえば『バッカーノ!』シリーズで知られている電撃文庫の主力作家の一人だが、私は勉強不足のせいで先月まで全然知らなかった。具体的にいえば、新青春チャンネル78〜『デュラララ!!』の感想文で初めて知った。読んでみると面白かったが、その面白さは一冊できれいにまとまって完結している面白さであって、何かが欠如していて続けて別の本に手を出したくなるような面白さではなかった。というわけで、同じ作者の過去の作品に手を出すこともなく、約半月の時間が経過したところで、この『ヴぁんぷ!』に出会った。

これも面白くて、読んでいる最中は時間を忘れるほどだった。読み終えた瞬間に、ほっと一息ついて「いいひとときをありがとう」と作者に感謝したくなるような気分になった。でも、やっぱり今度も一冊できれいにまとまっていて、続きが読みたい、待ち遠しいという気分にはならなかった。

2冊読んで、作者の力量が安定していることがわかったので、そのうち遡って既刊にも手を伸ばそうかと思っているが、私の読書ペースではいつになるのかわからない。その前に次の新刊が出てしまいそうな予感もする。

これで私の感想文はおしまい。えっ、「内容紹介は?」って? 吸血鬼と人間が出てきて戦う話、しかし殺伐としているわけではない。これ以上詳しいことを知りたい人は実際に本を手にとって、カバー見返しと口絵の紹介文を読むべし。これ書いた人は苦労しただろうなぁ、と思った。

1.11069(2004/05/18) 「雷撃大賞(仮名) 審査員奨励賞」を獲る方法 第一回

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040518a

今日の見出しに掲げた文章については、前から何度か言及したが、本日、このライトノベルがすごい!コラムコーナーに掲載された。少し重複するがこれまでの経過をまとめておこう。

5/6
亡霊氏(これまで単に「某氏」と呼んできたが、私の知り合いには某氏が多いので、ここではハンドルで呼ぶことにする)が運営する一般非公開サイトに、当該コラムが掲載された。
5/7
私のサイトで言及するとともに、亡霊氏に転載の依頼を行った。
5/8
「転載するのは構わないが、少し書き直したい箇所があるので月曜日まで待ってほしい」と亡霊氏に言われた。その頃私はネタ不足とテンション低下に悩まされており、コピペで安直に一回更新してアクセスを稼ごうと思っていた(掲載すれば必ず話題になってあちこちからリンクされるという確信があった)ので出鼻をくじかれた形になった。
5/9
この頃、亡霊氏が改稿を行う。といっても末尾に断り書きを一文追加したほか、人名を一字変更した(これについては後述する)だけだったようだ。
5/10
約束の月曜日になったので、転載のためのタグの手入れ(もとのサイトはテーブルでレイアウトしているので、単純にソースをコピペしたのでは見苦しくなるため)を開始した。そのとき、ふと「どうせならこのライトノベルがすごい!のレイアウトを真似したら面白いのではないか」とよからぬ考えが頭に浮かんだ……が、あまりの面倒さにすぐ挫折。黙々と作業を進めた。
同日深夜
でも、それさえも面倒になったので、再度亡霊氏にお伺いを立てて、本家に投稿することにした。
5/11
極楽トンボ氏にメール送信。「あ? ウチは一見さんお断りどす」と言われたらどうしようかと思うとちょっと心配になった。
5/12
極楽トンボ氏から返信。どうやらOKのようだ。
5/13〜5/17
この頃、国会議員やニュースキャスターの年金未納問題で世相大いに乱れる。いまこそ年金制度を抜本的に改革し、粘菌制度に改めるべきである。南方熊楠まんせー!
5/18
掲載。スタッフの皆様、お疲れ様でした。

内容については特に私があれこれ言う必要もないと思うが、一つだけ補足しておく。文中Iちせ さんが「○○たん、萌え〜」と書きたくなるような背中がかゆくなるようなベタベタ恋愛劇というフレーズがあるが、ここに登場する「Iちせ さん」とはもちろんYagiyamaPublishingのいちせ氏のこと(余談だが、私はふだん日記ページの好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!しか読んでいないので、すっかりサイト名を忘れてしまっていた)。元の文章では「いちせさん」と書かれていたのだが、改稿により伏せ字になった。ところが、私の思いつきでこのライトノベルがすごい!に投稿して、当のいちせ氏の-「恋愛」と「萌え」から選ぶライトノベル-(これはコラムコーナーではなく限定枠の選評として掲載されているが、これ独自でコラムとして読むことができる力作である)と並ぶことになってしまった。これでは伏せた意味はないだろう、と私は思った。というか「Iちせさん」ではそもそも伏せ字になっていない(たとえば「Uたたねこさん」と書いてもこの人のことだとすぐわかってしまうのと同じだ)。そこで、亡霊氏に了承を得た上で、この箇所は原文に戻して投稿することにしたのだが、いざ極楽トンボ氏にメールを送る段になって、すっかりその事を忘れてしまった。

後から考えれば、タイトルの「雷撃文庫」もバレバレなのだし、これはこれで統一がとれていていいのかもしれない、と思い直した。筆者がわざわざ修正したものをあえて元に戻すこともないだろう。すると、補足と称してここでうだうだと書いたことも全部無意味になってしまうのだが、これは何でもかんでも意味や効率を追い求める余裕のない現代社会に対する警鐘なので、これでいいのだ。

1.11070(2004/05/19) チェスタトンも真っ青

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040519a

今日『各務原氏の逆説』(氷川透/徳間ノベルス)を読んだ。予想していたほど文体に癖はなく、頭を使わずにすらすらと読めた。時間は計っていないが、1時間もかからなかったはずだ。

チェスタトンも真っ青の各務原氏の逆説が大展開とか本格ロジックの第一人者がチェスタトンばりの逆説で迫る学園推理とか本書はあのチェスタトンへの敬愛の書でもある。とかしかも、チェスタトンを彷彿させる傑作!とか書かれているのだが、本文を読み終えたあとでこれらの宣伝文を見ると悲しくなってきた。一読者の私ですらそう感じたほどだから、作者はもっと悲しいことだろう。いや、もしかしたらいちばん悲しいのは、この宣伝文を考えた人(たぶん徳間書店の編集者だろう)かもしれない。

チェスタトン云々はともかく、小説そのものの出来はどうか。第一の事件についての推理はまあ頷けるものだったと思う。ただ、第二の事件のほうは、犯行手段から容疑者を絞り込むプロセスがかなり弱い。もう一つ、直接事件とは関係のない仕掛けがあるが、これはお遊びのようなものなので、評価基準に含めないほうがいいだろう。ある程度ミステリを読み込んだ人ならすぐにわかることだし。

ガチガチのロジックやマニアックなギミックを期待して読むとがっかりするかもしれないが、気張らずに読める軽い読み物としては悪くはない。むろん、チェスタトンを一冊も読んだことがない人でも問題なく読めるはずだ。いっそ、口絵や挿絵を入れてライトノベルっぽく演出したらよかったのではないだろうか。

1.11071(2004/05/20) ムズムズ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405b.html#p040520a

最近仕事が忙しいし、ネットに接続してもすぐ切れるし、天候不順だし、『天城一の密室犯罪学教程』を読んでいるし、たてこもりとひきこもりはどこが違うのか悩むところだし、閉園間近の近鉄あやめ池遊園地でデカレンジャーショーを見てしまったし、ネット外交官と言われないネット外交術はなかなか身に付かないし、まったくいいことがないので、当「たそがれSpringPoint」の運営も自ずと低調になっている。だが、私はそのような事情をいちいち書き立てて閲覧者の同情を買おうなどとは思っていない。それでは潔くない。そこで、しばらく前からトップページのいちばん上の「おしらせ」欄にただいま『CLANNAD』プレイ中。と一言だけ掲示している。これを読めば、「ああ、今ゲームに集中しているから、更新がおろそかになっているんだな」と勝手に思ってくれるだろうと期待しているわけだ。

では、実際にどの程度進んでいるのか。いとりあえずインストールは終わっている。タイトル画面も見た。冒頭のシーンも追加した。今、教室に入ったところまで進んでいる。そんな程度だ。先はまだまだ長い。

そんなある日のこと、いつものように定期巡回先を見ていると、読冊日記で『CLANNAD』に言及しているのを見かけた。私もケルト音楽ファンなので、ネットの各所でこのタイトルを目にするたびにムズムズするんですが。と書かれている。私はケルト音楽ファンではないのであまりピンとこないが、こういうことらしい。

では、なぜこの話題を取り上げたかというと、私も似たようなムズムズとするムズムズ感を感じた(このような言い回しを見てムズムズする人もいるだろうが、今は耐えてほしい)ことがあるからだ。

最近あまり音楽の話題を取り上げることはないが、私は古楽ファンで、ルネサンスやバロックの音楽が大好きなのだが、その頃によく用いられた楽曲形式を表す語が、いつの間にかゲームのタイトルとして一般化してしまい、ムズムズしたことがある。その語は固有名詞ではないが、器楽曲は楽曲形式がそのままタイトルになっていることが多いので、場合によってはほとんど固有名詞と同じように用いられることもある。その楽曲形式をもって呼ばれる音楽を聴くたびに、脳裏を「うぐぅ」という呟きとも叫びともつかぬ言葉(?)がよぎってしまい、せっかくの音楽鑑賞が台無しになってしまうのだ。ああ、一体私はどうしたらいいのだろうか。


あ、またどうでもいいことを書いてしまった。


「さよなら妖精」増刷決まりました汎夢殿

これで『さよなら妖精』をネット通販でも買えずに落胆した某氏も入手することができることだろう。

さらに東京創元社様にお世話になっている短編集「狐狼の心(仮)」を書き上げました。と告知されている。「お世話になっている」という表現が微妙だが、今から心配しても仕方がないので、とりあえず刮目して待つことにしておく。

さらにさらに角川書店様からの次作「四人四色学園祭(仮)」を進めています。とも書かれている。古典部シリーズ学園祭三部作完結篇だそうなので、むしろこちらを楽しみにしている人のほうが多いかもしれない。