http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040601a
電波の種類については前にも書いたことがあるかもしれないが、いつ書いたのか忘れてしまったし、もしかしたら記憶違いだったという可能性もないことはないので、繰り返しを恐れずに書いてみよう。
電波には大きく分けて二つの種類がある。白電波と黒電波だ。白とか黒とか言っても、本当にそんな色があるわけではない。電波は目に見えないのだから。これはもののたとえであり、白魔術とか黒魔術のようなものと思ってよい。
白魔術は人間の身体にも精神にも有益な電波である。適度な間隔で浴びると、食欲増進、気力充実、お肌の艶がます。特に箱根元湯の白電波は「一回浴びると十年長生き、二回浴びると二十年長生き、三回浴びると死ぬまで長生き、四回浴びると死んでも長生き」というキャッチフレーズで有名だ。もっとも死んでも長生きした例はないから、これはかなり誇大広告ではある。
黒電波は逆に身体や精神に有害な電波である。特に危険の大きいものは毒電波と呼ばれ、忌み嫌われている。白電波健康法を実践しようとして誤って毒電波に曝され寿命を縮めた人は数知れない。生兵法は怪我の功名だ。
黒電波の中には、毒電波のように直ちに命にかかわるもの以外に厄介なものがいくつかある。たとえば、主に宇宙から飛来して奇妙な命令で人を惑わせる怪電波には要注意だ。この世に怪電波ほど面白いものはないとうそぶいて自ら進んで怪電波に近づく人もいるが、素人にはお勧めできない。玄人でも時には怪電波に振り回されて余人には理解不可能な言動をとることがあるくらいだ。
毒電波や怪電波の被害を避けるためにさまざまな手段が考案されているが、今のところ決め手はない。たとえば、アンテナにボロ布を巻き付けて電波の受信を防ぐ、耳や鼻の穴に銀紙を詰めて電波の侵入を阻止する、金属製の棒を肛門に差して体内の電波を放出する、窓やドアの隙間にガムテープを貼って外から掃除機で吸い密室を構成する、などなど。どれも一長一短あるので、黒電波の性質や具体的な被害状況に応じて適切な対処方法を選ぶのが肝心だ。
さて、近年白電波とも黒電波ともつかない奇妙な電波がいくつか発見されている。暫定的に灰色電波と総称されているが、その正体はまだ未知数であり、今後の研究が待たれるところである。今はただ具体例をいくつか列挙するだけに留めておこう。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040602a
光文社文庫版江戸川乱歩全集第15巻『三角館の恐怖』の巻頭に収録された『青銅の魔人』を読み終えたので、その感想を淡々と記す。
これは乱歩の戦後初の小説で、少年探偵団シリーズの長篇第四作である。非人間的な大量死の時代をくぐり抜けて、これまでとは全く違った新しい探偵小説が現れた……ということは全然ない。少年探偵団チンピラ別働隊は戦後の世相を反映してはいるが、それ以外は戦前の作品とほとんど同じで、あっぱれなほどのマンネリズムが全篇にみなぎっている。時計ばかり盗む謎の怪人、青銅の魔人の正体も例のあの人だ。
怪人が消失する方法に少し工夫が見られるが、トリックは概して子供だましであり、明智探偵の推理も特に知的興味をそそるものではない。怪しげな怪人が醸し出す、あの独特の雰囲気を楽しむべきもので、ミステリとして読んでも仕方がないだろう。できれば挿絵も収録してほしかった。
大昔に初めて『青銅の魔人』を読んだ時には非常に面白く、少年探偵団シリーズの中でも一、二を争う傑作だと思ったものだ。懐かしい。何もかもが懐かしい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040602b
我が家の飼い犬の話をしよう。名前は「ムニ」だ。ひとに訊かれたら「唯一無二の名犬になることを願ってこの名をつけた」と説明することにしているが、実は抱き上げたときむにむにっとした感触に由来している。
今日は6月2日で「ムニの日」だ。たぶん、そんな事を言っているのは日本中で私一人だろうが構うものか。記念日を作るのに許可はいらない。6月3日は「道場の日」、6月4日は「無視の日」だ。
ムニに話を戻す。
ムニは人見知りをしない。誰でも構ってくれる人がいれば、喜んで尻尾を振る。「誰にでも尻尾を振る」という言い回しは、人間の場合にはあまりいい意味では使われないが、ムニは犬なので問題ない。犬を叩いたり蹴飛ばしたりするような悪い人も世間には多いが、幸いムニはこれまでそんな悪人に会ったことはない。ムニは、一緒に遊んでくれたり美味しい餌をくれたりする、いい人にしか出会ったことがないのだ。幸せなことだ。
ムニの年齢を私は知らない。誕生日も知らない。たぶん、人間でいえば中年か初老の年頃だと思うが定かではない。ちょこまかと走り回る体力はないようで、いつものっそりのっそり歩いている。
ムニは毛並みのいい犬ではない。雑種だろう。犬に詳しい人が見れば、どの犬種の血がどれくらい入っているのかわかるのかもしれないが、残念ながら私にはその方面の知識が全くない。
ムニの写真を撮ってこのサイトに掲載しておけばもしかしたら何か有益な情報が得られるかもしれないかもしれない、と思ったこともある。だが、すぐに思い直した。どんな種類の血をひいていようがムニはムニだ。犬種を知ってどうなるというものでもないだろう。
ムニの写真を掲載しないのにはほかにも理由がある。まず第一に、私は犬の写真よりも猫の写真のほうが好きだ。第二に、いま私のデジカメの電池が切れている。そして第三に、ムニは写真に写らない。
もし読者の中でムニがほしいという人がいれば、メールで連絡してほしい。飼い主としてふさわしいと思われる人にムニを譲ることにしよう。ムニは手がかからない犬なので、面倒はない。うるさく吼えることもないし、噛みつく恐れもない。基本的には何も世話をする必要はない。
ただ、時折、ムニのことを思い出してやってほしい。飼い主がムニのことを完全に忘れてしまったら、ムニは消え去ってしまうのだから。私がムニの新しい飼い主に望むのは、ただこれだけです。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040603a
一昨日くらいから急に旅に出たくなった。
先週東京へ行ったばかりなのだが、今から思えばあれは旅というよりも単なる空間移動のようだった気がする。往復とも新幹線回数券を使い、途中下車も寄り道もしなかった。これでは旅情も風情もない。中途半端な旅行のせいで、かえって遠くへ行きたくなってしまったようだ。
そこで時刻表を買ってきて、次のような旅程を組んでみた。
往復ともトワイライトエクスプレスではつまらないので、函館に出てのんびりと谷地頭温泉にでも浸かり、函館ラーメンを食したのち上野行きの夜行列車に乗り、東京回りで帰る、というプランも考えた。遠回りになるし、最後に新幹線を使うことになるので費用が嵩むが、行きと帰りでルートが違うほうが楽しい。
いずれにせよ問題は4連休が確保できるかどうかだ。7月に3連休があるから、その前後どちらかに休みをとればいいのだが……。
実は、既に夏コミ前後に休みをとることにしている。具体的には8/12(木)〜8/16(月)の5連休だ。さすがに2ヶ月連続で休みをとるのは気がひける。
また例によって計画倒れになりそうだ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040604a
鉄道や道路の建設・運営方法に上下分離方式というものがあるが、これを人体にも適用すればどうなるか。具体的には、上半身は民営で、下半身は公共団体の経費で運営することになる。責任の所在を明確化するために、役割分担の線引きをきっちり行う必要があり、運用が大変かもしれないが、一考の余地はあるだろう。いや、ないか。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040604b
気候のせいか,それとも体調のせいか,最近なんとなく閉塞感が強まっている.具体的にどうということはないのだが,何をしてもうまくいかず,また何事にも興味がもてない,そんな気分だ.
日々の生活の中で,仕事や雑事を忘れて,思いついたことを気ままに書くのはいい気分転換になるが,それも2年半以上も続けると日常の一部に過ぎなくなる.もはや,[たそがれSpringPoint]を開設した頃と同じ気分で文章を書くことはできない.
固定化した,習慣的な,非流動的な,意味づけられた,人々のネットワークに取り込まれた,息のつまるようながんじがらめの状態から抜け出すために,毎日あれこれ考えて工夫しているのだが,それももう限界に近い.前に書いたことと同じネタを繰り返すことも多いし,前に書いたことと同じネタを繰り返しているかもしれないと書くことも一度や二度ではない.また,幸い過去の話題にかぶらずにすんだとしても,そうやって新鮮で新奇な話題を書こうと努力すること自体が,ずっと前から繰り返してきたことなのだ.
[意味からの逃走]という目標に意味づけられて,再び私はしがらみの中に身を沈める.
ここはもっと別の発想,逆転の思考法が必要だ.たとえば,何も逆転しないというのも一つの手だ.裏の裏は表なのだから.だが,それで悦に入っても自己満足に過ぎない.読者にとってはいつもと変わらず,ただのマンネリにしか感じられないだろうから.
もはや私にのこされた手段はサイトの閉鎖しかないのかもしれない.だが,既に私は一度サイトの閉鎖を経験している.もちろん,まだ[たそがれSpringPoint]を閉鎖してはいないが,それは詭弁に近い.そう考えると,もう八方塞がりだ.何も打つ手はないように思えてくる.
可能性は常に無限にある.何も打つ手がない,というのはただの思いこみに過ぎない.きっと気候か体調のせいで,そのような思いこみにとらわれてしまっているのだろう.そう考えて気休めにしているのだが,でも打開策が見つからないことにかわりはない.
閉塞状態はさらに続く.
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p0405a
自分の書いた文章を後から読み返してみて、その内容のひどさに赤面するとともに、文体の歪さに嫌悪を感じることがよくある。自分の文体を確立している人なら、そんな思いをすることもないのだろうが、私はまだまだ未熟者だ。だが、私の文体もある意味では"確立"していると言えなくもない。三年前に書いた文章も昨日書いた文章も書き方はほとんど同じで、日付を抜いてしまえばいつ書いたものなのか判別がつかないに違いない。しかし、それはここでいう"確立"には当たらない。自信をもって、自覚的に、自分が最適だと信じる文体を採用しているわけではないのだから。
文章を書くという行為は意識的なものである。だが、文章を書くときの文体はたいていの場合意識的な事柄ではない。いま私が書いているこの文章ではもちろん文体のことを強く意識しているが、これは例外だ。
文章を書く機会が少ない人はともかく、ほぼ毎日文章を書いている人なら、私と同様にふだんはあまり文体のことを意識していないのではないか。今日はどんなネタで書こうかと考えることはあっても、毎日文体を模索している人はそれほど多くはないだろう。きっとそうに違いない。根拠はないけれど。
身に付いた文体に従って、惰性で文章を書き続けていると、何かの拍子に自分の文体に疑問を抱いて変えようとしても、なかなかできないものだ。習慣の力は恐ろしい。それでも無理矢理文体を変えるとすれば、いったいどのような手段が考えられるだろうか?
まず最初に思いつくのは、他人の文体を拝借するという方法だ。要するに文体模写だ。猿まねだ。目についた他人の文章(癖が強いほうが望ましい)から文体のパターンを読み取り、自分が書こうとしている事柄をそのパターンに流し込む。これで完成。相手の文体に似せることを目的とした本来の意味での文体模写を行うのは結構骨が折れる作業だが、今は自分の文体を変えることが重要なので、そっくりな文章を書く必要はない。ただし、あまり気を抜くと、ふだんの地が出てしまうので、本格的な文体模写に取り組むつもりの覚悟でやったほうがいいかもしれない。
他人の文体を拝借するという方法には難点がある。二点挙げておこう。
一つは、自分の文章にふさわしい文体はそう簡単には見つからないということだ。どんな文体でもいいなら話は簡単だが、今の文章よりもよりよい文章を書きたいと思っているなら、これは大きな問題になる。結局、さまざまな人の書いた文章をたくさん読んで選び出すしかない。
もう一つは、コピーは所詮コピーに過ぎないということだ。ウェブで公開している文章なら、読者にすぐに見破られてしまうだろうし、そうでなくても書いた本人は自分の文章がコピーであることを知っている。私と同じように自分の文章への嫌悪感がきっかけで文体を変えたいと思った人なら、きっと他人の文体のコピーにも嫌悪感を抱くことだろう。文体模写はお遊び程度に留めておくほうが無難かもしれない。
では、他に文体を変える方法はないものか?
そもそも文体とは何だろうか? 十分な定義はできないが、概ね次のようなものだと私は理解している。用字法、用語法、構文などに見られる一定のパターンだと。このパターンを意識的に崩すことができれば、文体は確実に変わるはずだ。その結果が好ましいものかどうかは、また別の話だが。
文末表現を「だ・である」調から「です・ます」調に変えてみる。正字正かなで書いてみる。倒置法を多用する。「(笑)」や顔文字を使う。一文ごとに改行する。文節ごとに読点を入れる。体言止めで統一する。全部カタカナで書いてみる。接続詞と接続助詞をすべて省いてブツ切りにする。文意を無視して文を長く繋いでみる。一旦書いた文章の間に別の文章を挟み込む。文末から逆に書いてみる。一字ごとに改行する。訓令式ローマ字で書いてみる。文末の最後の文字を「る」にする。
思いつくまま挙げてみたが、どうもぱっとしない。目先を変えただけで終わってしまいそうな感じだ。文体模写と同じで、一時のお遊びにはいいかもしれないが、三時のおやつにはならない。
実は、文体を変えるのに有効な方法が一つある。その方法とは文章全体の字数制限である。たとえば「書評を書くときは380字から420字の間におさめる」というふうに予め決めておくのだ。直接文体に関わる制限ではないため、上記のような目先の変化が生じるわけではないが、ふだん惰性で書いている文章とはかなり違った文体になるはずだ。
やってみればわかるが、これは予想以上に苦しい。特に字数超過で七転八倒することが多い。一旦書き上げてそれなりにまとまっている文章から無理矢理不要な言葉は無駄な表現を見つけ出して削っていく作業の辛いこと辛いこと。この作業をプロの文筆業の人々は日常的に行っているわけで、それだけでも私は敬服する。私には到底真似ができない。
というわけで、今日の結論。怠惰な人間は何をやっても駄目。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040605b
既にお気づきの人もいるかもしれないが、私は先週旅行から帰ってから、まだ一度も他サイトにリンクを張っていない。
旅行の少し前にいくつかのサイトからリンクを張られていたのだが、旅行中に更新できなかったため少し間が悪くなり、反応の機会を逃したような感じがした。もちろん、「他サイトにリンクされてもこちらからリンク返しをしなければならないという義理はない」と言って割り切れば問題はないのだが、私は意志薄弱なためなかなか徹底できない。かといって、逐一リンク返しをするのにも抵抗がある。また、トップページ以外のページのアクセスログをとっていないため、総レスは実際上不可能でもある。
そこで、中途半端にリンク返しをするよりは完全無視のほうが公平でいいだろうと思ったわけだが、むろんそれだけが他サイトへの言及をしなかった理由のすべてであるわけではなく、いや、むしろそれ以上に深い理由があるのだが、どちらかといえば深いというよりも不快な理由なので、今は説明したくない。
またこれとは別に、特定のウェブサイトへのリンクを控えることにしている理由もある。これは、先週の旅行とは何の関係もない。もう半年くらい前から控えている。具体的なことは書けないが、私がリンクを張るだけで当該サイトの管理人に迷惑をかける恐れがあるのだ。私が悪いわけではない(と信じたい)し、相手に非があるわけでもない。ただ、悪意ある第三者がいて、その人物(もしかすると複数かもしれない)のせいで、当該サイト管理人にダメージを与えることになる。少し前に話題になった「儀礼的無関心」と似ているかもしれない。一般論としては、不特定多数の閲覧者に対して公開されたウェブサイトの管理人は、自サイトの運営に関して発生したトラブルに自ら責任をもってあたるべきであり、他人のサイトの心配までする必要はないし、そんなことでリンクを控えるというのは馬鹿げている、ということになるのだろうと思う。だが、私は意志薄弱なため(以下略)。そして、たまたま私が気づいていないだけで、同じような迷惑が他の人にも降りかかっているのではないかという懸念もある。旅行でしばらく更新を中断したのをきっかけに、その心配がどんどんふくれあがった。
そのほか、細かな理由がいくつか、そして漠然としていて言葉にならない理由もあって、この一週間一切他サイトへのリンクを断っていた。リンク断ちは過去に何度かやったことがあるが、今回は予めそう決意して断ったのではなく、いくつかの要因が絡み合って何となくリンクをしないでいるうちに一週間の半分が過ぎ、徐々に意志が固まっていったように思う。先ほど挙げた理由も最初から明確だったわけではない。
だが、波瀾万丈の人生を送っているわけでもなければ、サイト更新のために十分な時間をとることができる身分でもない私にとって、他サイトに言及もリンクもしないというのは、かなりの枷となる。そこで、旅行から帰って一週間経ったのを節目に、リンク断ちを解除することにした。そんなことは自分の心の中でやればいいことだが、こうやって明文化しておかないとくじけそうになる。これも私の意志が薄弱なせいだ。
もちろん、こうやって宣言したからといって、毎回必ず他サイトに言及するというわけではない。気が向いたらリンクするし、気が向かなければリンクしない。純粋にネタ元としてリンクすることもあれば、ある種の馴れ合い含みのリンクもするだろうし、逆に攻撃的なリンクを張ることもあるだろう。今までどおりだ。
愚にもつかない戯言で、このまま抹消してしまいたいような気もするが、せっかく書いた文章を消してしまうのももったいない。見出しに反して、この一週間の文章を削除するつもりもない。「なかったことにする」というのは言葉の綾だ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040606a
今日は見出しでオチを明かしているので、できれば見出しは最後に読んで頂きたい。といっても、もう読んでしまった人もいるだろうから、本題の前に別の話題を取り上げておくことにしよう。本題に入る頃には見出しのことなど忘れているに違いない。
ゲオ社長が車に挟まれ死亡 岐阜・瑞浪の急な上り坂でという記事を読んだ。痛ましい事故だ。
ゲオの会社沿革ページを見ると、1997年7月の欄に次のように記載されている。
子会社(株)アグリーを設立(現社名(株)クロスナイン)を設立し、パソコンゲームソフトの卸売事業を開始
子会社(株)アキュート(現社名(株)アグリーエンターテインメント)を設立し、パソコンゲームソフトの企画・制作を開始
ゲオがアグリーグループの親会社だったとは知らなかった。私は直に確認していないが、この繋がりのせいで、2ちゃんねるの某業界スレッドで話題になっているそうだ。
別にどうということはないのだけど、アキュートという懐かしい社名が出てきたので取り上げてみた次第。
カトゆー家断絶で病院のサイト内のニュースサイト
として紹介されていただい医院小児科のサイトを見てみると、予防接種の方法を説明した箇所で、福岡市では、「1週間後」とは、次の週の同じ曜日の意味です。
と書かれている。たとえば水曜日に日本脳炎の1回目の予防接種をしたら、2回目は次の週の水曜日からできます。
というのはただの例示だからどうでもいいのだが、その次に(民法上の解釈ではもう1日後の木曜日から)
という註釈があるのが面白かった。
もちろんニュースサイト部分も興味深いのだが、他人と同じことを言っても仕方がないので、別のところに着目してみた。
ところで、民法上の「1週間」の解釈についてだが、以前健康診断の年齢計算方法について調べたとき、民法第143条も参照したことがある。なにぶん明治時代のカタカナ法律でわかりにくいのだが、年・月・週などを数えるときには、起算日の応当日の前日で期間が満了したものとみなすらしい。だとすると、水曜日の1週間後は翌週の火曜日になるのではないだろうか?
賢明ならざる読者諸氏におかれては、三歩歩いて鳥頭の喩えの如く、既に本日の見出しを忘却済みの事と思量する。而して今より……ああ、この文体は面倒だ。
昨日、とあるコンビニに立ち寄った際、私はLEEの辛さ×30倍を発見した。LEEを知らない人はいないと思うが、念のために江崎グリコ株式会社の公式サイト内にあるLEEの紹介ページにリンクしておく。辛さ×30倍は期間限定で特設ページもある。
私は激辛カレーが特に好きだということはない。ボンカレーの辛口で十分だ。しかし、私の気分にはむらがあるので、ときおり普段の行動から逸脱してみたくなることがある。たまたま、その時が昨日だった。それだけだ。
さて、パッケージを見ると、次のような記載があった。
- 本品のカレーソース製造ラインでは卵を含む製品を生産しています。
- 本品の辛さ増強ソース製造ラインでは乳成分、小麦を含む製品を生産しています。
この種の注意書きが始まったのがいつ頃なのかはっきりとし知らないが、まだそれほど昔のことではないはずだ。最初の頃は「なんで同じ製造ラインの他の食品に小麦を使っているということをわざわざ記載しているのだろう?」と不思議に思った人も多かったが、今そんな疑問を抱く人はまずいまい。世の移り変わりの激しさには驚くばかりだ。
それはさておき、上で引用した注意書きのポイントは、わざわざ辛さ増強ソース(※30倍に「辛さ増強ソース」をかけると、40倍相当の辛さになります。
)について断りを入れていることだ。カレーソース本体(?)にバターと小麦粉が入っていることは明記されているので、あえて書く必要があるのだろうか、と一瞬思った。おそらく厚生労働省の基準に従っただけなのだろうが。
いや、もしかしたらカレーソースは捨てて、辛さ増強ソースだけ使う人がいるかもしれない。世間にはいろんな人がいるから、そのような人がいないとは断言はできない。
今度こそ本題だ。期間限定の辛さ×30倍を別にしても、LEEには辛さ×5倍、×10倍、×20倍の3種類がある。「×」と「倍」がダブっているが気にしても仕方がない。問題は、辛さの倍率をどうやって決めているのか、ということだ。
たとえば、長さの場合ならあまり問題はない。基準となる長さにあわせて物差しを作り、その物差し10本分の長さがあれば10倍なのだし、20本分なら20倍だ。重さなら天秤とおもりではかればいい(重量と質量の違いに関するややこしい話は省略する)。
他方、痛さの場合には話が違ってくる。仮に痛さの単位を定めたとしても、ある痛さがその単位に照らして2単位分だとか8単位分だとか、はかることはできないだろう。もちろん、痒さでもくすぐったさでも同じだ。お好みにより、性感を付け加えてもよろしい。
では、辛さの場合はどうか。辛さは主に官能によって捉えられる。この点では痛さに類似している。だが、辛さは純粋な感覚ではない。痛覚に障害のある人が刺されたり殴られたりしたときに痛みを感じなかったとして、その人に向かって「あなたは痛みを感じなかったかもしれないが、確かにここには痛みがある」と言うのは馬鹿げている。しかし、味覚に障害のある人が辛いカレーを食べたときに辛さを感じなかったとして、その人に向かって「あなたは辛さを感じなかったかもしれないが、確かにこれには辛さがある」と言うのは馬鹿げたことではない。日本語の「痛み」は感覚のみを指す言葉だが、「辛さ」は感覚によって得られる外界の事物の性質を指す言葉だからだ。特殊な哲学的見地によるのでない限り、この差は歴然としていて動かせない。
とはいえ、辛さは長さや重さのように簡単にはかれるものではない。どうやってみればいいか考えてみよう。
まず、出発点として以下の3点を確認しておこう。
この3点はそれぞれ問題を抱えているが、概ね認められるのではないだろうか? 物差しだっておもりだって精度の問題はあるのだから、辛さをはかるときだけ最初から厳密さを求めても仕方がない。
辛さがない、同じ辛さ、より辛い/より辛くない、という概念が使用可能だとすれば、ここから辛さ○倍という概念に至ることは不可能ではない……はずだ。だが、これだけではちょっと足りない。もう一つ前提を導入しよう。
これは、舌で舐めてわかる事柄ではない。舐めてわかるのは辛さが弱くなったことだけだ。これは感覚としての辛さのもつ性質の記述ではなく、辛さの倍率に関する規約の一つとみなすべきである。これに万人の同意が得られるかどうかは定かではない。
だが、いちおう同意が得られたものとして話を続けよう。
上の1〜4により、調べようとする辛さのものに、全く辛くないものを少しずつ混ぜていって、基準となる辛さのもの(これは任意。LEEの場合だと、ククレカレーだろうか?)と同じ辛さになったとき、混ぜものをどれだけ使ったによって、もとのものの辛さを倍率で表すことができる。
調べようとするものと混ぜものとの量を体積で比べるのか、それとも質量か。混ぜものを加えることによって化学反応が発生したらどうするのか。そもそも単純な比で倍率を決定していいものかどうか。問題は山積している。
だが、これ以上は私が踏み込める領域ではない。より専門的な知識を有した研究者に委ねたい。というか、私が今思いついたことくらい、専門家ならきっと遙か大昔に検討済みだろう。
なお、私はLEEの辛さ倍率表示は担当者の気分で決めているのではないかという強い疑念を抱いていることを最後に申し添えておく。確かな根拠はないが、知られざるLEEの世界を読んでそんな気がしたのだ。いや、もしかするとLEEのパッケージには叙述トリックが仕掛けてあって、「辛さ」は実は「からさ」ではなく「つらさ」と読むのかもしれない。確かにあれを食べたときのつらさは通常の30倍(つらさの倍率についての考察は省略)だった。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040607a
一昨日の夜に『紅楼夢の殺人』(芦辺拓/文藝春秋 本格ミステリ・マスターズ)を読み始め、つい先ほど読み終えた。各夜ともおよそ2時間弱の時間をかけたので、全部読み終えるのに5時間以上かけたことになる。読み終えた印象を一言でいえば、文句なしの傑作だった。
いや、違う。文句はいろいろあるけれど、それらを凌駕する傑作だった。
重量級の力作なので、本当ならこちらも襟を正して正面から論じるべきだが、今の私にはそれだけの体力もないし、私の部屋にはクーラーがない。そこで、例によって余計なお喋りまじりの雑談でお茶を濁しておく。むろん、未読の人にとって参考になるような感想文ではないし、これから買おうかどうか迷っている人はフク氏の書評を参照するといい。そこで書かれていることに私はすべて同意する。
フク氏が言及していないセールスポイントを一つだけ挙げておこう。『紅楼夢の殺人』は本格ミステリ・マスターズにしては異例の口絵つきで、担当しているのは『悪魔のミカタ』(うえお久光/電撃文庫)シリーズでよく知られた藤田香だ。残念ながら1枚しかないが、これだけでもラノベ読者にお薦めだ。
さて、感想を書こう。まず文句のほうから。
閉ざされた人工の楽園、大観園で次々と美少女や元美少女が殺されていく。その死はいずれも不可解なもので、やや"あらため"が弱い(舞台が現代ではないのでこれはやむを得ない)ものの、ほぼ不可能犯罪といってよい。不可能犯罪といえばもっとも典型的なものは密室殺人だが、『紅楼夢の殺人』では狭義の密室殺人は全く扱われず、それぞれの事件で別の不可能現象を工夫している。
もはや密室が幻想発生装置として機能しなくなっているので、これは賢明な方策だといえるが、作者の労力にもかかわらず、やはりあまり幻想的な雰囲気が醸し出されているとはいいがたい。読者は「これはミステリだ」と構えて読むから、どれほど摩訶不思議な現象が発生したところで、「まあ、何かのトリックでどうにかして演出したのだろう」と思うだけである……と、ここまでは文句ではない。誰が書いても同じことだから。ミステリで幻想的な謎を提示するのは難しい時代になった。
幻想的な謎に酔いしれるのが難しいとなれば、かわりに求めるのは解決の面白さだろう。とはいえ、どんなに奇抜なトリックでも今の読者はちょっとやそっとで驚かなくなっているから、むしろ謎が解きほぐされるプロセスのほうに自ずと読者の興味が向けられる。いや、この書き方はちょっとずるいかもしれない。私の興味がそっち方面に向いているだけで、他の多くの読者の興味がどっちを向いているかは定かではないのだから。
ともあれ、解決のプロセスの精緻さ、論理的にデータが整理され謎がほぐれていく快感、そして、そのプロセスが予め先取りされていて読者の誰もが同じ推理を遂行することができたかのように思わせる仕掛け(本当に同じ推理ができるに越したことはないのだが、「読者への挑戦状」つきの厳格なパズラー以外のミステリにそこまで要求はしない)などを求めて解決場面を読むと、やや拍子抜けしてしまう。個別の事件に関しては、ただ探偵の口から種明かしが行われるだけで、推理や論証の過程の説明は非常に乏しい。なんだか短篇ミステリを読んでいるかのような気分だった。
ここでちょっと脱線。『紅楼夢の殺人』は連作短篇の形のほうがよかったのではないだろうか? 次から次へと人が死んでいくのに全然皆目真相の見当がつかずに右往左往するだけの頼尚栄が、第十回と第十一回の間で、読者が知らない間に神のごとき叡智で事件のトリックをほぼ解明してしまう。これはちょっといただけない。それより、それぞれの事件ごとにそこそこの推理力を発揮してトリックを見破るほうがよかったのではないか。もっとも、それをやってしまうとある先行作品に類似してしまうので、あえて控えたのかもしれない。
それぞれの事件の解決についても多少の不満はある。いちいち書き上げていくときりがないので一つだけにしておくが、たとえば王熙鳳(文字化けしたら申し訳ない)殺しの際に平児が細引きで縛り上げられていた件で、平児の自作自演(「自縄自縛」と言いたいところだが、それでは意味が違ってしまう。無念)ではないかとの疑念を払拭するために、いちおうの"あらため"は行われているが、細引きそのものが検証前に別物とすり替えられたという可能性は排除されていない。くどくどと細かな補足説明をして物語の流れを止めてしまう弊害に配慮したのかもしれないが……。
ほかにもいろいろと不満はあるのだが、あまり文句ばかり言っても仕方がないので、これくらいにしておこう。ここまでの暫定的な結論としては、不可能状況の設定などに工夫は見られるものの、解明のプロセスにやや粗雑なところが見られ、部分ごとにみれば中の上という程度の評価しか与えられない。
次に、先ほど述べた不満を遙かに凌ぐ満足感を与えてくれた、この作品の長所について語るべきところである。だが、正直いって、あまり気が進まない。というのは――上で書いた暫定的な結論からもわかると思うが――部分ごとにわけて考えるとあまり高く評価できないが、全体の構図は非常に素晴らしい、というオチにしかならないからである。
その構図がいかに素晴らしいかというようなことは、ここには書くことができないし、あえて書く必要もない。その構図は別に難しいことではなくて、誰でも『紅楼夢の殺人』を読めば容易に理解できるはずだから。最後まで読んで気づかなかったとか誤解したという人はいないだろう。さらに、その構図を手掛かりにして、より深遠にして深淵なる真円の神苑に足を踏み入れるということなら、あえて説明する価値はあるだろうが、評論家でもなければ読み巧者でもない私にはそこまで踏み込んで書くことはできない。
そういうわけで、ミステリとしての凄さという肝心かなめのところには背を向けて、それ以外の点でよかったところを書いておく。
まずは、冒頭から最初の殺人が発生するまでの間に描かれた人物、そして大観園の夢幻的な雰囲気の面白さを挙げておこう。基本的な骨格と細かなエピソードは原典に基づいているものだとしても、文章は芦辺拓のものであり、いかにも芦辺氏らしい描写も随所に見られる。現代の日本を舞台にした小説だとときおり鼻につく記述もあるが、『紅楼夢の殺人』は昔の中国、それも現実の歴史上の一時代の忠実な写しではなく、どこか異世界の架空の国めいた奇妙な非現実感と超現実感を併せ持ったところを舞台としていて、まさに芦辺氏の本領が発揮された感がある。芦辺氏のデビュー作「異類五種」を私はまだ読んだことはないが、これを読んだ人がみな口を揃えて「芦辺拓は文章がうまい」というのもわかるような気がする。
殺人事件が発生し、捜査が始まると、さすがの中国風幻想小説の達人の筆にもややかげりが見えてくる。だが、物語の終盤に至ると、再びあの一種独特な雰囲気が戻ってくる。作中にそんな記述があったかどうか覚えてはいないが、まるで甘く爛熟した桃の香気が漂ってくるような、そんな感じがした。
悪口ならいくらでも筆が進むが、誉めるのは難しい。適切な表現が思い浮かばす、空々しい口調になってしまった。この文章を読んで『紅楼夢の殺人』を読む気が失せた人がいたなら申し訳ない。
『皇帝のかぎ煙草入れ』や『化人幻戯』、あるいは最近読んだ『名探偵 木更津悠也』との比較検討などをやってみたかったのだが、上にも書いたように今の私には体力がないし、クーラーもない。
最後に、『紅楼夢の殺人』巻末の評論「壺中天の造営――芦辺拓論」(鷹城宏)について。例によって鷹城節が横溢した楽しい評論で、澁澤龍彦(「彦」の字が違っているが勘弁してほしい)や荒俣宏のファンなら、これだけでも読む価値がある。『紅楼夢の殺人』の内容を暗示している旨の注意書きがあるが、先に読んでもさほど問題はないだろうと思う。
ただ、博覧会と鉄道を同列に扱うのはいかがなものか。一般論として妥当かどうかは鷹城氏ほどの博識を持たない私には何とも言えないが、こと芦辺拓に限っていえば、後者は鮎川哲也へのほぼ純粋なオマージュであり、前者が芦辺作品にとって持つ意味合いとはかなり異なるというのが私の考えである。
鷹城氏の評論を読むたびにいつも思うことだが、引用・参考文献だけで原稿料を上回っているのではないだろうか。いったいどれくらい原稿料が出ているのか気になる……という下世話な話をしたところで、夜の夢に幕を下ろし、現世に戻る。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040608a
『空の境界』(奈須きのこ/講談社ノベルス)を本屋で見かけた。加筆訂正されているそうなので再読しようと思って買ったのだが、ここを見たら読む気が失せた。笠井潔の解説は書き下ろしだし、武内崇のカバー絵も描き下ろしだから、それに2415円を使ったと思うことにしよう。幸い、カバー絵は予想していたよりもよかったし。解説のほうは……上巻の伝奇小説史に驚いた、とだけ言っておく。
かつて同人版を読んでこんな感想文を書いた私には、講談社ノベルス版の売り方は釈然としない。いくらバレバレとはいえ、作中の仕掛けを事前に無効にしてしまうのはいかがなものか。これでは上巻51ページ下段が空回りしてしまう。こういう売り方をするのなら、この箇所だけでも改稿して仕掛けを解除するべきではなかったろうか。
「新伝綺」云々については、今は何も言わないことにする。どうせそのうち嫌でもこの言葉を見聞きする機会が増えるだろうから。
『<美少女>の現代史――「萌え」とキャラクター』(ササキバラ・ゴウ/講談社現代新書)を読んだ。面白かった。ハッタリやアクに乏しいので、やや物足りないと思う人もいるだろうが、淡々とした語り口のなかにときおりはっとさせられる指摘がある。一つ引用してみよう。
もし自分が彼女を手に入れてしまったら、それは自分の現実世界の側に「お姫様」を引きずりおろす結果になり、彼女はもはや「お姫様」ではなく単なるあたりまえの一人の女性となってしまいます。それは、自分に根拠を与えてくれる「美少女」という絶対的な存在を失うことになるのです。
彼女を欲し、手に入れたいと思うからこそ、それを手に入れることができなくなる――そのような奇妙な帰結が、ここに生じています。ここに、女性を欲することで自縄自縛に陥っていく男性の姿が見られます。女性を欲することにおいて、自らの根拠のなさを自覚し、身動きできなくなることで、その女性像は偶像化され、より強く自分を支配していく。そこに見られているイメージこそが「美少女」にほかなりません。
これは、ある作品を例に挙げて論じた一節の中の文章だが、ここで言及されている「自分」や「お姫様」が誰を指すかは、実はどうでもいい。少し文言に手を入れれば、『空の境界』についてのコメントだと言っても通ることだろう。ここで示されているのは、単なる一作品の一登場人物の心理ではなくて、より普遍的な事柄である。それはマンガやアニメなどといった物語の内部にとどまらず、物語の外部に立つ者が物語に対してとる態度でもあり、さらには、それによって新たな物語を紡ぎ出すもとにもなる態度である。この態度を一言でいえば、萌えである……というのは私の勝手な読みであり、この本に書かれているわけではない。
『<美少女>の現代史』は男性の視点から書かれており、オタク的な事柄の通史としては欠落も多い。また、ここで図式化された男と女の二項対立に異を唱える人もいるはずだ。たとえば、同性愛者の視点からみれば、このような図式にひっかかりを感じるかもしれない。だが、この本で提示されている議論は、見かけ以上の射程をもっているのではないかと思う。それを具体的に検証する人が現れることを期待したい。
私は前に"萌え"とは対象への到達不可能性による絶望が予め自らの内に含まれた渇望である。
と書いたことがある。今から振り返ってみれば非常に不細工な言い回しだが、考えそのものは変わっていない。私がきちんと考えを煮詰めることができず、従って漠然としか述べられなかったことが、『<美少女>の現代史』でスマートに語られているように感じた。そのせいで、もしかしたらこの本を少し持ち上げすぎているのかもしれない。これから『<美少女>の現代史』を読む人は注意されたい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040609a
東京創元社が編集部員を募集している。身分は契約社員だが、実績によって正社員に登用の道も開けてけております。
お上にも慈悲の心があるのだぞよ。海外ミステリ及び国内ミステリに興味と熱意のある男女
は是非応募するがいい。
もう一件。TYPE-MOONではシナリオライターを募集している。完全外注という形も可能ですので、その辺りは相談に応じさせて頂きます。
ほれ、昔から「魚心あれば水心」と申すではないか。とにかくやる気のある方、人と一緒に作品を作ることが好きな方、社会人としての一般常識を持っている方
はチャレンジせよ。
昼は出版社で編集者として働き、夜は自宅でシナリオ執筆に励む。なかなか創造的な生活ではないか。私は応募しないけれど。
なお、自作シナリオを東京創元社に送っても読んでもらえないだろうし、感動した小説の感想文をTYPE-MOONに送っても無視されるだろうから、くれぐれも送り先を間違えないように。
むむ、心の臓が動いていないでござる。
今日の情報もとはみすべす(6/8付)とモノグラフ(6/9付)でした。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040609b
私の文章はそのときそのときに意識に映じた雑多な想念の寄せ集めである。むろん、日本語の文法にあわせてトリミングは行っているが、それでも思考の混乱を完全に除去することはできない。ひどく場違いな挿入句、本筋を見失ってしまうほどの大幅な脱線、そして、偏った知識の断片のパッチワーク。これでは、ほとんど読者の理解を拒絶しているようなものだ。
一方で、私は論理に固執する。論理的な文章は明晰であり、筋道を一つ一つ追っていけば、誰にでも簡単に理解できるはずだから。だが、実際に私が書く文章は、決して論理的なものではない。とことん非論理的な言葉の集積に過ぎない。
理想と現実の、この乖離は私にとって愉快なものではない。しかし、非論理的な情動、逸脱への誘惑に勝てないこともわかっている。そこで、常に葛藤しながら文章を生成していくことになる。なお、今「葛藤」と書いたのは、必ずしも私の心理状態のことではなく、私の言葉そのものがもつ二つの特性のことである。「矛盾」という言葉を用いたほうがわかりやすいかもしれないが、私はこの語をあまり拡張した意味で用いたくない。
さて、個別の文章は妙にこみ入っていて意味が掴み取りにくいものだとしても、文章から把握できる私の思考パターン自体がわかりにくいものではない。私はよく人に考えを見透かされる。きっと、他人の目から見れば「何を考えているのかがすぐにわかる単純な奴」なのだろう。考えてみればこれは当然のことで、私の文章はその場その場の思いつきの羅列なのだから、深層構造も何もなく、ストレートに心理を反映したものになっているのだ。
さっき書いた文章を少し手直しした。アンテナ経由でアクセスする人のために新しい記事を追加しようと思い、とりあえで今思いついたことを書いたら、例によってどうでもいい内容になってしまった。オチはない。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0406a.html#p040610a
見出しとは無関係にコミケの話をしよう。
毎回書いていることだが、私はコミケにはかなり飽きている。その癖毎回必ず参加しているのはなぜかといえば、コミケのもつ媒介効果を期待しているからだ。コミケの前後には、日本全国から人々が東京に集まるので、その機会をとらえて普段はなかなか会うことができない人とじかに話をすることが可能になる。
別にコミケに合わせなくても会いたいならメールか何かで連絡をとって日程を設定すればいいではないかという人もいるだろうが、私はそういう方面での積極性をもたない。わざわざ人と会うだけの目的で遠出をするのも億劫だし、わざわざ人と会うだけの目的で遠出することで相手に気を遣わせてしまうのも煩わしい。
もちろん、そんなことを気にしない人ならいいのだが、私がコミケにかこつけて会いたいと思っているような人はたいていこれまでに面識がないか、仮に面識があったとしてもあまり何度も会ったことがない人なので、そんなことが気になる人かどうかを判別できないので、特段の事情がない限り私自身を基準にして推測するほかはない。もし誰かが私に会うためだけに遠方から足を運んでくれたら申し訳ないはずだから、私と相手の立場を置き換えても同じことだろう、と考えるのである。このような推論はもちろん論理的なものではないので外れる場合もあるだろうが、外れるということを予め知ることはできないし、事後になっても外れたかどうかを確認できないことも多い。なぜなら、私に対して気を遣う人なら、当然気を遣っているということを私に知られて私に気を遣わせることを避けるために、あえて気を遣っていないふりをするだろうから。
遠慮は日本人の美徳だが、そのせいでコミュニケーションが円滑に進まないのは困ったものだ。私はそのような困難に真っ向から立ち向かう勇気がない。だから、コミケのような特別な機会が私には必要になるのだ。私の性格が変わって見知らぬ人とも屈託なしに交流できるようになるかもしれないし、私が会いたいと思う人々がコミケに参加しなくなるかもしれないので、いつまでも同じ状態が続くわけではないだろうが、とりあえず今度の夏コミには従来通り参加しようと思っている。
ここまでのまとめ。私は今年の夏コミに参加する予定だ。
さて、先ほども書いたように、私はコミケそのものには飽きているので、スパイシーな肉に囲まれて三日間を過ごす気はない。まだカタログが出ていないのでちゃんと計画を立ててはいないが、初日は会場にはいかずに周遊きっぷで関東地方の未乗線区の乗りつぶしをしようかと考えている。二日目もできれば見送りたいところだが、(゜(○○)゜) プヒプヒ日記の中の人(今気づいたのだが、私はこの人の正確なハンドルを知らない)が新刊をひっさげて二日目にサークル参加するそうなので、いちおう行ってみることにする。
だが、やはりコミケのメインは最終日の三日目だろう。肉欲旺盛な肉塊相手の同人誌も多いが、必ずしもそういうものばかりではなくて、これまでの私の経験では、三日目に変な掘り出し物が見つかる確率が最も高い。とはいえ、私はもう寄る年波に勝てないので、あてもなく徘徊せずに目当てのサークルをいくつか回って帰ることになりそうだ。
今のところチェックしているサークルはRoseColorだけだが、武運拙く落選した炭酸カルシウムガールズの『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』が委託されることになっているので一石二鳥だ。ついでに(゜(○○)゜) プヒプヒ日記の中の人の新刊、モーリス・サンド「迷路」も委託してくれると、歩き回る手間が省けて助かるのだが……。
ここまでのまとめ。「迷路」を『もえかん』に一挙掲載してくれると買う手間が省ける。
さて、RoseColorはどうやらゲーム系サークルのようで、センチメンタル青春ビジュアルノベル
と銘打った『40センチハートビート』というタイトルのゲームが出るらしい。もしかしたら私の誤読で、「センチメンタル青春ビジュアルノベル」がタイトル、「40センチハートビート」はキャッチフレーズかもしれないが、どちらでも大差はないので、とりあえずここは自分の読解能力を信じて話を進めることにする。
このゲームが面白そうだ、とか、何だか魅力を感じる、とか、無性に興味を掻き立てられる、というようなことは全然ない、と言ってしまうと身も蓋もないので、そんなことは言わない。ただ、今のところ何とも言いようがないというのが正直な気持ちだ。今のところトップページしかないし、ゲームの内容に関する情報はほとんどない。それにグラフィックが一枚もないのだから。じゃんぽけの箕崎准氏と新青春チャンネル78〜の石野休日氏の合同サークルなのでチェックしているのだが、サークルを運営している人が知り合いだからといって当該サークルの作品が面白いものであるということにはならないのはもちろんだ。今は様子見段階というところだ。
ここまでのまとめ。そういえば私はまだ石野氏とは面識がなかった。
さて、今日三度目の「さて」を書いてしまい、ちょっと凹んでいるが、この辺りで話題を転換しよう。コミケの話には飽きてきた。
3月のMYSCONで、米澤オフin名古屋という話題が出た。もしかしたら米澤オフat名古屋だったかもしれない。なにぶん3箇月も前のことなので記憶が定かではない。しかし、米澤オフfor名古屋ではなかったはずだ。
米澤穂信ファンが名古屋に集って米澤氏を囲む会を開こう、という企画で、いや企画というよりは構想、いやいや構想というより思いつきかもしれないが、ともあれそういう話が持ち上がった。その場に誰がいたのかすっかり忘れてしまったが、確か、名古屋の近くに住んでいる人が発案したものだったと思う。その場にいた人が某社の米澤穂信担当編集者にコネがあるので、その編集者が打ち合わせのために名古屋に出張した機会を狙って米澤氏をおびき寄せ、まんまとオフ会に引っ張り込むことができればしめたものだ、という企画ないし構想または思いつきだった。
オフ会というのは人に会うために開催されるものだから、コミケのついでに人に会うのとは少し意味合いが違うが、普段なかなか会う機会がない人に出会える場という点では似ている。それで、ふと思い出したわけだ。
しかし、あの後全然米澤オフの話が具体化しないところを見ると、どうやらみんな忘れてしまったらしい。かく言う私も忘れていたのだから、他人のことは言えない。関西人にとって名古屋は地理的には東京よりも近いのにあまり馴染みのない都市で、こういう機会でもなければなかなか行く気にならないところなので、ぜひ米澤オフを実現させてほしいものだ。もちろん、MYSCON参加者以外の人が幹事でも一向に差しつかえない。
ここまでのまとめ。本当は愛知県在住の某氏を名指しで幹事に指名したかったが自粛した。
さて、ほかにもいろいろ書きたいことがあるのだが、いろいろうかうかしていると時間がなくなってきたので、これでおしまいにする。